ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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絶妻之誓(2012/2/12)

 悠がマリーと初めて会ったのは、八十稲羽に来たその日である。爛れた都会から辺鄙な田舎に来た落ち武者が、都落ちした先で初めて会った人だった。場所は八十稲羽駅である。堂島家の連絡先を記したメモを落として、マリーが拾ったのが出会いのきっかけだった。そのまま捨て置いても構わないものが、葦の船に乗せて流してしまってよいものが、悠とマリーを出会わせたのだ。

 

(思えば、俺はあの時から……)

 

 人は忘れる生き物だ。しかし意識の表面に出てこない無意識の領域では、人は過去に経験した全てを覚えているという話がある。そんな『俗説』を証明するように、悠は一年近くも前の出来事を、苦労なく思い出すことができた。昨日のことのようだと言っても足りないくらいに。たった今、目の前で起きているように鮮明に。姿や声を頭の中で結べるだけでなく、空気の匂いや手触りまでも思い出せる。

 

 ただし忘れないことと、正しく記憶することはまた別である。

 

 

 悠がカグヤと呼ぶペルソナによって、マリーは戦意を手放した。外で舞う花びらを遮る、卵の形をした聖なる空間。マリーはその中心にある、石棺が置かれた祭壇に裸足で降り立った。

 

「君って最低……ホント、空気も読めない。君になんて会わなきゃ良かった……」

 

 だが戦いをやめても黙りはしない。マリーがいくら拒んでも悠は構わず追いかけて、マリーも拒むのをやめない。男が黄泉の国まで追いかけてきても、女は依然として受け入れない。

 

「だから君のことだって大嫌いなんだ!」

 

「……嫌いでもいい」

 

 そして悠も諦めない。もし駅で運命の人と出会ったばかりの悠が今の自分を見たならば、この諦めの悪い男はどこの誰だと呆れるだろう。そっとしておくことが処世術だった、面倒くさがりな少年はどこへやら。臆病で行動力に欠けた子供は、殺されない限りは止まらないしつこい男に変わっていた。

 

「うん……そうだね。てゆーか、ほんっと素直じゃない。演技下手すぎだよ」

 

 りせが口を挟んだ。その声は場の空気にそぐわない、何とも楽し気なものだった。もちろんりせは本気で楽しんでいるのではなく、演技で声を作っているだけだ。演じるとはこうやるのだと、手本を示してみせている。

 

「テキトーなこと言わないでよ!」

 

「ううん、適当なんかじゃないよ。貴女……鳴上君が好きなんでしょ?」

 

「だよね……そんくらい、見りゃ分かるって……」

 

 そう、見れば分かるのだ。りせと雪子と千枝の三人も悠が好きで、しかも多くの人に知られている。特別捜査隊の仲間たちは言うに及ばず、足立や菜々子にまで気付かれている。そんな『素直』な人たちから見れば、マリーの気持ちがどこにあるかは明白だ。言葉でどれだけ拒んでも、心は別のことを言っているのが分かる。

 

 ただしそれは、相手が普通の人間であればの話である。

 

「それがテキトーだって言ってんの! 人間の貴女たちに何が分かるの!」

 

 マリーは千早のかぶり物に手をかけた。視覚と思考を眩ませる霧と同じ色の、白いフードを外して顔を露わにした。黒い髪、白い肌、緑の右目。そして虹色の左目──

 

「こんな人間がいると思うの!?」

 

 もしクマがここにいれば反論しただろう。それでも諦めるなと。着ぐるみを脱いで、ある意味で不自然な青い瞳を示しただろう。こんな太古の昔の湖のような、文明、即ち人間の領域から外れた、美しすぎる目をした人間がいるかと。クマは同じ人外の存在として、マリーを説得しただろう。師の想いを叶える為なら、自分の正体を明かすことでも躊躇わなかっただろう。

 

「私は死ななきゃ駄目なのよ……好きでも嫌いでも、そんなの関係ないの! 口で何言ったって、どうにもならないのよ!」

 

 しかしクマはいない。菜々子が一度死んだ日に失踪して以来、姿を消したままだ。霧の晴れた現実の世界にも、神秘の中でも神秘のこの空間にも見当たらない。

 

「そうかもな……」

 

 そして弟子の助けを得られない師は、こんなことを言い出した。

 

「せ、先輩!?」

 

 直斗が慌てた声を出した。説得交渉において相手の言い分に敢えて同意するというのは、方法の一つである。しかしそれにも限度がある。マリーと自分たちは違うのか、死ななければならないのか。これだけは譲ってはならないはずである。そこを間違えては、交渉は根底から崩れてしまう。だが悠がそうかもと言ったのは、直斗が心配した点ではない。

 

「口で何言ったって仕方がない。でも方法はあるんだろう!」

 

 惚れた腫れたで生死の行方は変わらない。問題なのは、マリーが生き残る為の具体的な方法だ。

 

「相棒……? そっか! 必要なのはマリーちゃんが消えることじゃない! マリーちゃんが取り込んだ霧が消えればいいだけだ! 何かやりよう、あんじゃねえのか!?」

 

 陽介も気付いた。マリーは死ななければならないと繰り返しているが、その元凶は霧である。ならば霧だけを消す。倒す。そんな都合の良い方法が、この世にあるのかと言うと──

 

「……あるよ」

 

「んだよ! あんなら早く言えよ!」

 

 完二の膝から一瞬力が抜けた。方法があるなら、先ほどの戦いは一体何であったのか。

 

「私の心を眠らせて……私を霧の依代にするの。体は霧に支配されるけど、それだけなら私の心はまだ死んでないから……。私の命が尽きる前に霧が実体化した怪物を倒せば……もしかしたら、私だけ助かるかもしれない。賭けみたいなものだけど……」

 

「だったら!」

 

 方法があるなら話は早い。現実を客観的に分析した上で助かる道が見つかったのなら、あとはそこへ向けて歩みを進めるだけだ。ただし──

 

「無理なの……サギリも倒してない君じゃ無理! 賭けにもならない……絶対負ける!」

 

 認識と行動は別である。

 

「く……!」

 

 悠は歯噛みした。人にはできることと、できないことがある。その苦い道理を嫌と言うほど味わっている。

 

 マーガレットによれば、悠一人では勝機は百に一つもないと言う。それは不可能と同義である。道が見えることと道を歩めるかどうかは別だ。悠はアメノサギリもクニノサギリも倒しておらず、もちろん足立も倒していない。手柄を他人にさらわれてしまった悠は、稲羽を離れる日が一ヶ月後に迫った今になっても、足りないものに満ちている。

 

「あの人だったら、何とかできるかもしれないけど……」

 

 あの人──

 

 瞬間、悠の目が尖った。心の中の理屈ではないところで、何かが動いた。それは熱く激しく、理性では止めようがないものだ。かろうじて保たれていた客観性が、年若い少年の中で転倒した。

 

「誰だ……有里さんか!?」

 

 つい先ほど、昨年の事件における勝者の一人の名を、りせも口にしていた。悠は有里の戦い振りを見たことはないが、同じく勝者の一人である堂島によれば実力は足立を凌ぐと言う。つまり最強のペルソナ使いだ。そして絆の担い手の一人と結婚した誠実な男。今頃はもう子供も生まれていて、人生最高の幸せにいるであろう男。虚無感に侵食されている悠とは対照的に、豊かに満たされた世界に生きる男。

 

 無力な後輩にはできないことでも、最強の先輩にはできると言うのか。他ならぬマリーが、他でもない悠にそう言うのか──

 

「それとも足立さんか!」

 

「誰でもいいよ! 今さら遅いの!」

 

 マリーは再び声を荒げた。顔全体が悲鳴を上げる中で、左目だけが無感情な光を湛えている。するとその左目が虚無を主張し始めた。

 

「う……ごほっ!」

 

 白い巫女装束に身を包んだ少女は、急に顔を伏せて口元を両手で覆った。咳き込んだのだ。それと共に、白い靄が少女の口の周りにだけ現れた。その息や血までも体の中で不吉な色に染められているように、マリーは霧を咳として吐いた。

 

「マリー!」

 

 悠の勘によれば、マーガレットはとうにこの場所を見つけていたはずだが、2月のこの日まで待っていた。それは愛憎の二人に余計な議論をさせまいとの意図があったのかもしれない。この虚ろの森が閉ざされ、マリーの存在と記憶が失われる瞬間が、もう目の前まで来ている。

 

「もう……時間がないの」

 

『契約』の履行期限が迫っている。いや、一度破棄したそれを再び結び直す、猶予の期限と呼ぶべきか。もはやごちゃごちゃと理屈をこねて、暢気に議論する時間は残っていない。

 

「お願いだから、もう諦めて! 失敗したら、霧はまた外に漏れるわ! そしたら君たちの世界は終わるの……分かって!」

 

「そんなことで終わるもんか!」

 

「終わるの!」

 

「……構わない」

 

「!……」

 

 緊張が満ちた。悠とマリーの二人だけでなく、特捜隊全員の間に電光が走った。

 

 果たして何が構わないのだろうか。たとえ本当に世界が滅んでも構わない、なのか。霧が再び町を覆っても、どうせまたシャドウワーカーが解決するだけだから構わない、なのか。それともそんな『簡単に』世界が終わるなど、あり得ないからか。もしくは──

 

「責任は取る」

 

 悠は言い切った。責任とは客観的に自分に帰する責任のうち、取れる分だけ取ればいいものだ。だが悠は負うべき範囲を超えた、つまりは自分の手に負えない責任でも負うと言った。自分にできることをするだけの大人たちを超えて、できないことでも意志の力でやってみせる。少年はそう言った。

 

「……」

 

 対する少女は表情を変えた。認識を歪める不吉な霧を、揺らめく殺気のように自分の周囲に漂わせながら。ただ一つ残っていた人間の目に怖い色を添えた。

 

 その色の名は恨み。自分を追い詰める男と、男を追い詰める自分を等しく呪う、暗黒の意思。言動は中学生のようで、ポエムのセンスが過剰で、全知全能にして無謬なる超越者とはほど遠い、人間のような女神──

 

「どうなっても知らないからね……」

 

 悠の意思に屈するように、マリーは自らの身を投げ出した。膝を折って、祭壇の床にうつ伏せに倒れ込む。そして自分の中に潜む霧に、自分の存在を明け渡す。外に漏れた分と、虚ろの森の分。マリーの中に蓄積された霧が解放された。

 

 ──

 

 ペルソナを召喚する時と同じ、ガラスが割れる音が響き渡った。召喚器で普段の人格を撃ち殺し、己のシャドウを一時的に顕現させるシャドウワーカーの魔術を、マリーは行った。

 

『召喚』されたそれは、やはり白が第一印象としてあった。マリーの体を依代として実体化した怪物は、女の姿をしていた。仮面で隠された顔を、更に両手で覆っている。何も見まいとするように、もしくは自分の顔を他人に見せまいとするように。身にまとう白と黒の服は、硬い鱗を思わせる模様を形作っている。そしてマント、ないしはストールを羽織っている。高貴な者を暗示するように、色は赤だ。

 

 ただペルソナ使いがペルソナを召喚するのと違って、マリー自身の姿は祭壇にない。11月に生田目がテレビの中の天国で怪物に変じた時と同じである。

 

(クスミノオオカミ……)

 

 悠はマリー自身が告げた名でもって本人を呼ぶことは、遂になかった。だがまるでシャドウやペルソナのように呼び出されたこの存在は、神の名で呼んだ。ただし口にはせず、心の中だけで呼んだ。

 

 悠自身は意識してのことではないが、一つの区別を両者の間に見出していた。マリーの姿が見えないことも区別を後押ししていた。

 

「先輩! 要するにこいつを倒しゃいいんすね!」

 

「そうだ!」

 

 そして区別している分だけ、悠に躊躇いはなかった。マリー自身を相手にせねばならなかった先ほどと違って、迷いを抱かず思い切った。

 

「先輩、殺人事件を解決したのは私たちじゃないわ。残念だけど……」

 

 戦いを前にして、りせが語りだした。現実の霧が晴れた昨年以来、特捜隊七人の全員の心に巣食っていた思いを代弁するように。

 

「でも実は、犯人を捕まえただけじゃ終わってなかった……。後始末をしないといけなかったのね」

 

「できるのは、あたしたちだけってことね!」

 

「ええ、今から有里さんを呼んでくるわけにもいきません。僕たちがやらないと!」

 

「私たちの世界が平和だからって、誰かを犠牲にしていいわけないわ!」

 

 世界や人類の救済はヒーローの役割である。そして一人の命と世界を天秤にかけることは、ロマンティシズムの典型である。どちらも若者の領分だ。

 

「ああ、もちろんだ! 皆、力を貸してくれ!」

 

「おう!」

 

 かくして若者たちは『最後の戦い』に挑むことになった。

 

 

 特捜隊は基本的に敵と話し合うことはない。金色のシャドウが何を言おうとも耳を貸さず、とにかく戦うのみだ。シャドウの言葉が本体の本音なのかを深く考察することもない。それはある意味で、特捜隊なりの優しさであるのかもしれない。考えれば酷い結論を導いてしまいかねないから。

 

「真実なんて知ってどうなる……! ゴミクズみたいな自己満足と引き換えに、永劫の苦痛と絶望を味わえってのか! いらない……そんなものいらない! 苦しみから目を逸らして何が悪い! 苦渋に満ちた真実より、安息の嘘が欲しいんだ!」

 

「先輩、耳を貸しちゃ駄目だよ! あんなのマリーちゃんの意思じゃない!」

 

「分かってる! それより解析を!」

 

 仮に本体の本音ではないとしても、そこに客観的な真理が含まれていないかどうか。特捜隊はそれを考えることもない。それは実戦においては当然と言える。戦いは手だけでなく頭も使うが、認知資源は戦術や戦略を組み立てる為に費やされるべきで、いわゆる『痛い』問題に悩んでいる暇はない。

 

「ん……やっぱり! 通じる攻撃が全然ないわ!」

 

 そして今日の戦いも戦術の構築、つまりはりせの解析から始まった。その結果は予想通りだった。手で顔を隠したこの怪物は、先ほど戦ったマリー以上の鉄壁を誇っている。物理的な攻撃と普通の魔法は無効なばかりか、そのまま跳ね返ってくる。何もかもを拒絶する意思を反映したような、不条理なまでの堅牢性だ。

 

「じゃあやっぱ万能魔法か!?」

 

 陽介の確認に、りせは一つの案を出した。

 

「それか……耐性を解除する術! 先輩、できない!?」

 

 ペルソナ能力は幅が広い。基本はもちろん刀や雷などで攻撃することと、負傷すれば回復魔法で癒すことだが、それだけでない。例えば補助魔法と呼ばれる系統の力を使えば、敵味方の能力の強化や弱化ができる。更には独特の戦術を要求するシャドウとペルソナの耐性を、無効化する術というものもあるのだ。ただし使える者は多くない、かなり珍しい術だ。シャドウでは死神のアルカナに属する者が、これを得意としている。そして特捜隊では──

 

「いや……無理だ!」

 

 悠は首を横に振った。こうなることが分かっていれば、それができるペルソナも用意しただろうが。未来を知り得ない悠は準備が足りていなかった。そしてないものねだりをしても仕方がないのが、現実というものだ。抜け道を通れないなら、正面突破あるのみだ。

 

 そうして一つの現実を見ると、もう一つの『現実』も見た。

 

(有里さん……貴方だったら、俺より上手くやれるんでしょうね)

 

 昨年に足立を倒した最強のペルソナ使い。マリーを救うこともできるという男。かの先輩を思うと、体に熱が生じる。辛く、苦しく、情けない気持ちにさえさせられる、暗い熱だ。

 

(俺は今日、貴方に並ぶ!)

 

 その熱を鎮める為に、もしくは熱自体に後押しされて、悠は『神』に力尽くで挑むことを決心した。それがどれだけ困難であろうと、命と引き換えにしてでもやり遂げると、固く決めた。

 

「攻撃は俺と陽介、直斗で行く! 天城は回復に専念しろ! 里中と完二は天城と直斗を庇え!」

 

 この時、悠は一つ誤解をしていた。マリーが言った、霧の怪物でも倒せる『あの人』とは有里ではないのだ。マリーの念頭にあったのは、文化祭で遭遇した太陽の少年だ。出会った時は月の陰に隠れていたが、分かるものはあった。あらゆる耐性を完全に無視してしまう、ペルソナ使いとシャドウを縛る法則から自由でいる、ペルソナを持たないあの少年ならばクスミノオオカミを倒せる。拒絶の壁で覆われた神の殻も、二本の刀で容易く切り裂いて見せただろう。

 

 だから悠もペルソナを捨ててしまえば良かったかもしれない。もちろん『捨てる』などということが、可能であればの話だが。しかしいずれにしても、皆月の特性どころか存在さえ知らない悠にとっては力を捨てる具体的な方法以前に、その発想も浮かばない。できることは、とにかく力押しである。

 

「ペルソナ!」

 

 万能の光を力の限りに撃ち続けるのみ。紫色の光球を中空に呼び出し、炸裂させる。無策に等しい戦い方だが、悠は粘っていた。本来は消耗の激しい魔法を、何十度も撃ち放つ。しかも間隔が短い。同じ魔法を使える陽介と直斗が一度撃つ間に、三度も四度も撃つ。

 

(できる……まだできる!)

 

 ペルソナ能力にも限界はある。普通であれば、とうに気力が尽き果てている回数を遥かに超えて、悠は光を撃ち続けていた。大きな転機の一つであった11月、生田目を追い詰めた足立のように、疲れも見せずに連発していた。命を削るように──

 

 と言うより、いくら削っても命は尽きなかった。悠はクリスマスイヴに目覚めて以来、不自然なくらいに体は健康だったが、年が明けた今も継続している。精気は枯れることを知らない。

 

「先輩、おかしいと思いませんか!?」

 

 そんな強引極まる戦いの最中に、直斗が話しかけてきた。

 

「何がだ!」

 

「攻撃が緩いんです。さっきのマリーさんの方が、むしろ強かったくらいじゃありませんか?」

 

「やれ……! スサノオ!」

 

 リーダーと参謀が話している間に、サブリーダーが何度目かの光を呼び出した。陽介が最も得意とするのは風の魔法だが、クスミノオオカミには通じないので万能の光を放つ。歯を食いしばって、襲い来る疲労に耐えている。

 

「う、うう……!」

 

 そして光を浴びた霧の怪物は、顔を覆って身悶えしている。

 

「確かに……」

 

 リーダーも言われて気付いた。悠を始め、陽介と直斗の魔法も敵に届いている。自分たちの攻撃によって、少しずつだが相手の体力を削っているはずだった。宙に浮いたマリーとの戦いでは、陽介が放った光はタイミングを合わせて相殺された上に、強引に押し返された。だが今はやられていない。

 

 それはクスミノオオカミがマリー自身よりも弱いからなのだろうか? まるでテレビに落とされた被害者のシャドウが、一学期の頃は概して弱く、ペルソナになってからの方が便利で強かったように。初めの不条理な容易さはとうに失われたはずなのに、今になって復活したのか──

 

「これは……きっとマリーちゃんの意志よ! 私たちを傷つけたくない……その思いが、こいつを封じているんだわ!」

 

 答えは情報担当が叫んだ。それはリーダーを納得させるのに十分だった。

 

(そうか……いや、そうに違いない! マリーはずっと俺を守ってくれていたんだ……)

 

 自分は誰かに『守られている』との印象を、悠は戦いを始めた4月から抱いていた。もちろんそれは普通に考えれば、根拠のない思い込みに過ぎないものだ。ただの幸運や偶然の一致を神の配剤か何かと思い込んで、自分は何をやっても上手くいくのだと錯覚すること。それは多くの人が陥る普遍的な誤りだ。

 

 だが悠にとっては錯覚ではない──

 

「うわああ!」

 

 石棺の前で盲目的な暴力が展開された。クスミノオオカミは膝をついた姿勢で、両手を祭壇の床に叩きつける。地面を揺らす震動と共に不可視の衝撃波が生み出され、人間たちを襲う。

 

「ぐぬっ……!」

 

「守って……スズカゴンゲン!」

 

 特捜隊の前列で、完二と千枝が呻いた。二人はどちらも打撃を得意としているが、今日の敵には通じない。そこで自分たちにできる唯一のことである、皆の盾になる役割を負っていた。ペルソナを召喚して前に押し出し、本体も両腕を交差して構え、襲い来る波動から仲間たちを庇う。

 

「アマテラス、癒して!」

 

 そして後列で回復を担当するのは雪子である。得意の火炎は封印し、治癒の光をひたすら散布する。各々できることが異なる者たちが協力し合って、特捜隊は『神』を相手に何とか戦えていた。しかし何事にも限度はある。

 

「は、はあ……ま、まだなの? もうすぐ私、限界来ちゃう……」

 

 戦いを始めて、どれだけの時間が過ぎたか誰にも分からなくなった頃、布陣に綻びが出始めた。全員の手当てを一手に引き受けていた雪子が、肩を上下させながら腰を屈めた。雪子は魔力の容量においては特捜隊では悠に次いで多いが、決して無限ではない。皆の傷をあと何回癒せるか、そろそろ数えられるくらいになってきた。

 

「頑張って! もうあとちょっとだから! 最後まで気を抜かないで!」

 

 最後尾からりせが叫んだ。勝負は完全に持久戦の様相だ。先に力尽きるのは、霧の怪物か特捜隊か。そこで──

 

「うう……ああああ!」

 

 怪物がまたも吠えた。祭壇に膝をついて、両手を前に出して腰を屈める。床を叩けば再び衝撃波が襲ってくるはずだが、この時はそうしなかった。

 

「ああああ!」

 

 長く伸びた悲鳴に合わせて、クスミノオオカミは両腕を大きく伸ばす。緋色のストールは腕を追うように、祭壇から床まで垂れ下がってきた。顔は伏せられていて、まるで土下座か礼拝のような姿勢である。

 

 ──

 

 そして一気に体を起こした。隠されていた顔を一瞬、ほんの一瞬だけ露わにして、両腕を広げる。血で染められた布が翻って、風が巻き起こる。その風に乗るものは──

 

「うっ……!」

 

「あぐっ……」

 

「な、何だ!? 力が抜ける……!」

 

 最初に雪子が膝をついた。次いで前列の千枝と完二も床に手をついた。

 

「これは……そうか! 霧を吸う力! マリーちゃんの力が暴走してるんだわ!」

 

 マリーは本人が言っていたように、霧を取り込むことができる。そして稲羽の霧は、もちろんただの自然現象ではない。思考を奪って目を眩ませ、シャドウを懐に抱えるもの。それに触れた人間は、己のシャドウが分離して顕現してしまう。霧は人の心そのものに触れられる。それを吸い込むとは──

 

「先輩、まずいよ! 手当たり次第に吸い込んでる! 雪子先輩はもうできない……! 千枝先輩や完二も……!」

 

 りせが警告する最中にも、クスミノオオカミは再び礼拝の姿勢を取った。礼拝とは神の前に身を投げ出し、祈りを捧げることだ。そして神に捧げるとは、神から恩寵を受け取ることと表裏一体である。自らも『神』を名乗るこの霧の怪物は、『捧げ物』を人間から奪い取ることができる。

 

「くっ……!」

 

 悠は歯噛みした。マーガレットによれば皆と『真の意味で』力を合わせれば、十に一つは勝ち目があるかもしれないとのことだった。最初に役割を決めて全員が自分の仕事に全力を尽くし、マリーの意志にも助けられて、何とか戦えた。だが霧を吸う力によって、とうとう均衡が崩れた。回復担当と防御担当が力尽きてしまった。

 

「ああああ!」

 

「うぐ……! あ、相棒……!」

 

「す、済みません……!」

 

 そして二度目の術の行使によって、攻撃担当も二人脱落した。限界が見えるまで消耗していたところへ、とどめとばかりに力を奪い取られて床に膝をついた。死んではいないが、もう戦うことはできない。

 

「花村先輩! 直斗君……!」

 

 残ったのはリーダーと情報担当のみだ。七人中五人が倒れた。普通に考えれば勝負ありだ。特捜隊は敗れる──

 

「解放せよ……」

 

 だが悠はまだ敗れていない。

 

「解放せよ! 欲望を! 衝動を!」

 

「ううう……!」

 

 クスミノオオカミは三度目の礼拝を行おうとしている。神が身を投げ出している祭壇へ向けて、悠は呪文を詠唱しながら歩みを進めた。

 

「先輩……?」

 

「理由も根拠も、臆病者の言い訳に過ぎぬ!」

 

 クリスマスイヴの夜に聞いたマリーの詩だ。悠がここで敗れれば、遺作になる詩でもある。霧の迷宮をさまよって夢うつつの状態で一度聞いただけだが、心には完全に刻み込まれている。続きはこうだ。

 

 解放せよ、心の声を、内なる叫びを──

 

 潰した喉と引き換えに、生きる証を掴み取るのだ──

 

(俺の生きる証は……ここにあるんだ!)

 

 いや、ここしかない。悠はこれまでの人生で暮らした町の数は多いが、稲羽は間違いなく最も素晴らしい土地だった。春から大事件の連続で、学校には綺麗どころが何人もいて、家に帰れば優しい家族が待っている。どこに行っても人気者でいられて、不条理なくらいに愛された、度を超えて充実した日々を送った。だがそんな恵まれた生活も、冬には暗転してしまった。証を掴む機会は今しか残っていない。

 

「掴み取るのだ!」

 

 クスミノオオカミが体を起こすと同時に、悠は祭壇に至った。天に向けて胸をさらし、栄光を受け取ろうと広げられる神の両手を、人間の悠が引き留めた。男の右手は女の左手を掴み、左手は右手を掴んだ。隠す両手を取り押さえられて、女神の顔が露わになった。

 

「や……やめろ! 触るな!」

 

 悠は今日の戦いにおいて、何の策も用意していなかった。そして今、技や術も手放した。ただ腕尽くで、掴んだ両手に人間ではあり得ないくらいの力を込めて、暴れる相手を無理やり押さえ込む。

 

 呪われた女神は天を仰いだ。眼前に迫った男から逃れようとするように、月に吠えるように悲鳴を上げる。

 

「うわあああ!」

 

 耳を打つ甲高い叫びと共に、霧の祈りが悠を襲った。吸われる感覚に総毛が立つ。怖気が頭の頂上から背中を通り、足の間で反転して腹から喉まで駆け抜ける。もちろん手も足も襲われる。目に見えない小さな虫が、全身を隈なく這い回るようだった。炎の雨に打たれる感覚も、これには遠く及ばない。

 

「吸え……吸い尽くしてみろ!」

 

 だが悠は手を離さない。どれだけ吸われても、喉は潰れるどころか枯れもしない。体のずっと奥の方から、精気は無尽蔵に湧き出てくる。海をスプーンで掬うようなもので、たとえ永劫の時をかけて吸い取られ続けても、汲み尽くされはしない。

 

 ──

 

 やがてガラスが割れる音が、祭壇に響き渡った。

 

「あ、ああ……」

 

 先に尽きたのは怪物だった。両腕は掴まれたままで、後ろに倒れることもできずに、仰け反った体を前に倒した。女が男の力に屈するように、腰が砕けて相手の足元に身を投げ出した。赤い肩掛けが力なく流れ、祭壇を血のように覆った。

 

「相棒! やったのか……!?」

 

 背後で陽介が声を上げた。多大な時間をかけて壮絶に削り合った果てに、特捜隊はクスミノオオカミを制圧した。前線要員は悠を除いて、全員が膝を床につけている。精根尽き果てたが、まだ生きている。誰も死んではいない。足立に叩きのめされた、思い出したくもない敗北の日から二ヶ月と少し。急遽始まった大人たちには秘密の戦いは、若者たちが制した。

 

「……」

 

 皆より一段上に置かれた祭壇に立つ悠は、白と黒で覆われた女神を依然として押さえている。クスミノオオカミは男に両腕を掴まれて、引き倒されたように項垂れている。たとえて言うなら、容量を超えた水を器に流し込んで、ガラスが破裂したような状態である。

 

「う、ううう……」

 

「……」

 

 足腰が立たず、顔を上げることもできない女神とは対照的に、悠は膝と背筋を伸ばして真っ直ぐ立っている。力はまだ尽きていない。礼拝の術をあと三度や五度仕掛けられても、平気だったのではないか。そんな気がしていた。悠一人では勝ち目はないと言われていたが、案外一対一でも勝てたかもしれないと、今になって思えた。無論、時間は今以上にかかっただろうが。

 

「なぜ分からない……真実なんて、何の役にも立たないのに……」

 

「……」

 

 悠は余力を残しながらも、口はきかない。相手の腕を押さえながら、自分の感情も抑える。喋るのも辛そうな相手の頭を、黙って見つめる。

 

「お前は……偽善者だ。霧の中にこそ、平和と安息があるというのに……」

 

「……違う」

 

 ただ最後に一言だけ返事をした。百の言葉よりも雄弁な、一つの言葉を与えた。

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