「あ……ああああぁぁぁ!」
腕を掴まれたままクスミノオオカミは顔を上げた。背を反らし、喉を立て、墓所の空間を超えて天上まで響き渡れと言わんばかりの悲鳴を上げた。月や太陽も聞かない振りはできないだろう、断末魔の絶叫だ。
そして光が弾けた。
足立が確保されてから、八十稲羽に霧は出なくなった。だがそれは消えたわけではなく、マリーの体内に流れ込んだ。女神の名を持つ存在の内側から、欲望や衝動は解放された。それは白い光として現れ、次の瞬間に霧と化した。息をすることも躊躇う膨大な白が、洪水となって空間を満たす。
──
しかしいつまでも去らなかった町の霧と違って、滅びた霧は叫喚が果てると同時に、世界から居場所をなくした。後に残ったものは、無数の光の粒だった。
「あ……!」
白く美しい光だ。昨年は忌まわしいだけだった霧は、最後は美しい様を見せた。雪の結晶のような小さな霧の粒は自ら光を放って、不吉な墓所を星々のように鮮やかに彩った。卵の空間の中央、悠からみてほぼ真上にマリーの姿が現れた。着ているものは千早ではなく、初めて会った時と同じパンクファッションだ。ベルベットルームで名前と共に貰ったらしい、帽子とショルダーバッグも身に付けている。
戦った時は宙に浮いていた想い人は、戦いを終えた今、上から落ちてきた。水が高い所から低い所へ流れるように、自然の法則に従って落下してきた。
「マリー!」
下にいた悠は両腕を広げて、マリーを受け止めた。この一年で最も激しい戦いをしたにも関わらず、不自然なほどに余力十分な悠は、細身な少女の体をしっかりと受け止めた。
「マリーちゃん!」
そして疲労困憊の仲間たちも駆けてきた。礼拝の術で力を吸い取られ、立つことも辛い状態にあるはずだが、皆が祭壇の上まで集まった。
「ど……どうなんすか先輩! 無事なんすか!?」
「……」
悠は答えなかった。左膝を床について、マリーの体を下ろした。少女を床に座らせ、自分の右膝で少女の背中を支え、右腕を肩に回す。頭が後ろへ投げ出されようとするのを、体で押し留めた。マリーに触れている腕と膝に、体温は伝わってくる。
「マリー……」
しかしマリーは呼びかけに応じない。体は動かず、目は閉ざされている。
「まさか……マジかよ、そんなん……」
「嘘……嘘よ!」
陽介たちの間に辛い気配が漂い始めた。あれだけの努力を傾けて、命を懸けて戦って、それで助からないなどあり得るのかと。12月の失意が今また繰り返されるのかと、二重の無念が湧き上がる。
「マリー……寝てるのか?」
悠はマリーの頬に左手を添えた。少女は白い。だがマーガレットやクマのような、人外の領域の白ではない。人間の範疇に収まる、親しみを感じさせる白だ。
「俺を起こしてくれたのは、君だろう……?」
生きる証を掴み取る。そう歌った詩をなぞるように、悠は全力で戦った。できることは全てやったはずである。その結果が勝利でないなどあり得るだろうか? 仲間と力を合わせて、誰もが死を覚悟して戦ったのに、報われないなどあって良いのだろうか?
「起きてくれ……頼む!」
祈りを込めて、悠はマリーを抱く腕に力を込めた。右腕を引き寄せて顔を近づけ、頬に添えた左手の指を髪に差し込む。
「う……」
するとマリーは動いた。言葉は発さない。だが確かに動いた。深い眠りに落ちていたのを、無理に起こされたように。夢の最も深いところから、夢と現実の間まで戻ってきたように。少女は微かな身じろぎを、少年の腕の中でした。
「マリー……?」
そして目を開いた。異邦人を思わせる緑の瞳が、瞼の下にあった。右目はもちろん、左目もそうだった。暗い緑にいくつもの色を重ねた、人外の虹色ではない。肌の色と同じ、人間の目だった。
「マリー!」
「マリーちゃん! 良かった……」
「は、はは……上手くいったんか!」
勝った──
墓所に歓喜が迸った。特別捜査隊は殺人事件では敗れたが、後始末では勝利した。リーダーを始め、誰一人として犠牲にはならなかった。もちろん無関係な人間を巻き添えにすることもなく、やるべきことをやり遂げたのだ。
「やった……!」
悠も仲間と共に喜びに震えた。使命を果たし、辛い日々は報われた。一年間の戦いは、確かな意味を持って実を結んだ。堂島には、貴方の息子は大きな仕事をやり遂げたと胸を張って報告できる。菜々子には、お兄ちゃんは立派なことをしたんだと言ってやれる。これでもう思い残すことはない。春が来る頃には安心して都会に帰れる。そしてまた夏が来た頃には、再びこの地に戻って来られるだろう。
しかし──
「え……?」
開かれたマリーの緑の瞳から、白いものが流れ出した。戦う前に咳のように吐いていた、もはや見慣れた霧ではない。今まで見たことのない、異質なものが列をなして湧いて出てきた。一見すると文字のようで、生物の遺伝情報を表す単位配列のようで、明滅する光のパターンで表された信号のようで。そして、そのどれでもない。存在の最小単位であり、単に『情報』としか定義できないものだ。言葉が勝手に溢れ出て詩が紡がれるように、何かがひとりでにマリーの体から流れ出た。
ころころと、音を立てて。
「!?」
それと同時に驚くべきことが起きた。マリーの瞳は色を失った。鮮やかな緑色が濁り、縮み、溶けだした。この世の何より美しい、恋した少女の目は形を失った。まるでアルカナの形を取る前の泥のシャドウのように、眼球は頭の奥へと落ちた。
「なっ……」
そのあまりの異様さに、悠の手が震えた。肩に回した右手と、頬に触れた左手が両方とも。明確な意志でもってそうすると言うより、反射的に。何かを考える間もなく、本能的に怯えるように震えてしまった。その怯えが、死を恐れる生き物の本能そのものが引き金となったように、情報の流出は速度を上げた。
「……!」
若く美しい少女の顔は、急激に老化したようになった。白い肌は色艶を失い、皺が寄り、しみが浮く。肉は黒く染まって蒸発し、骨が浮き出た。もちろん顔だけでなく、手や足にも同じことが起きた。死を暗喩する骸骨の姿へと、一瞬のうちに変容した。マリーとの絆のアルカナである永劫とは、永遠に近いほどの長い時間を意味する。数千年か数万年か、気が遠くなる年月の重みを、マリーの体は背負わされたようだった。
「!……」
次の瞬間、悠は目を閉じた。神話が伝える、死んだ女神のように恐ろしく、おぞましい姿から目を背けるように。もしくは見開かれた目が疲れを覚えて、ただ瞬きをするように。まさに瞬きそのものの刹那の一瞬、悠は目を閉じた。その間にマリーの背中は悠の膝から滑り落ち、頭は腕から零れ落ちた。
再び目を開けたその時、死体は床に落ちた。
──
砂の山が崩れる音を発して、死体はなくなった。銃でガラスを割るよりも、脆く、儚く、呆気なく。石棺で眠り続けている間に、肉はとうに腐り落ちて骨もすっかり脆くなった、永劫の時に侵食された古代人の亡骸を床に落としたように。悠の手から離れてしまった、見方を変えれば自ら手放したマリーの死体は、跡形もなく砕け散った。
後に残ったものは、細かな無数の青い光だ。光の破片はいずれも二つ一組で重なり、蝶のように舞い踊る。
蝶──
それは永劫のアルカナの最奥に位置するペルソナの姿だ。神話においては、正しく生まれなかった子供の姿である。群れをなす青い蝶は螺旋を描いて上昇し、墓の高みへと、それを超えた天上へと向かっていく。そして消えた。
「……」
悠は視線を下へ転じた。そこには何もない。初めから何もなかったように、蝶が暗示する夢そのもののように、影も残っていない。服さえない。
「マリー……マリー!」
祭壇の床に膝をついて、両手を石に這わせて想い人の存在を必死に探す。だがやはり何もない。手に触れるものはない。消えたのだ。マリーの体は腐って乾いて砕け散った。遺灰は蝶になって消えてしまった。
クスミノオオカミとの戦いには勝った。殴って殴られての泥仕合を、多大な苦労と引き換えにして、時間の感覚を忘れて、皆に喉を潰すような努力を強いてようやく制した。だが賭けには敗れた。生きる証はこの世から消えた。そして──
(カードが……!)
一枚のカードが脳裏に浮かんだ。枠にはローマ数字で二十と書かれている。審判ではない。墓と似た卵型の輪の中に、杖を持った人物が描かれている。正統的なタロットにはないカード、永劫である。それが揺れた。
そして破れた。
「逆位置……じゃない?」
思わず声が漏れた。コミュニティの反転ならば昨年に経験している。脳裏にタロットカードが浮かんで、上下が逆さまになるのだ。担い手との関係は、占いにおける否定的な意味そのものになる。堂島に信頼されなくなった時、悠はそれを見た。だが今の幻視は初めて見るものだった。カードが中央から裂けて、上下に飛び散った。足立に撃たれた時、道化師から欲望に変貌した様とも異なっていた。
これは家族に信用されなくなるよりも、友人に撃たれるよりも悪い。この世の何よりも恐ろしく、決して取り返しのつかない事態。死そのもののように、いや、死以上にどうしようもない出来事だ。裂けたカードはそれを示している。
「カグヤ……」
悠は自分の心に向けて呼びかけた。しかし返事はない。死んだ子供の名前を呼んでも、応じる声があるはずがないように。割れたガラスは二度と元には戻らない。
「……ヒルコ!」
呼び名を変えてもペルソナは応えない。子供は葦の船で流されたのだ。それはまさしく、マリーの死と永劫の絆の破綻を意味していた。
「う……うわああ!」
そして悠自身の破綻でもあった。この一年間の日々と、今日という日、そしてこれからの日々がまとめて粉砕されてしまった。過去と現在はおろか未来に至るまで、人生の全てを破壊し尽くす絶望が生まれた。産声は愚者の慟哭だ。膝をついたまま天を仰いで、月も泣けよと叫ぶ。
「鳴上君……落ち着いて!」
慰めは悲鳴に弾かれて、心はおろか耳にさえ届かない。目の周りが熱くなり、血が滲んだように景色が赤くなる。肺を絞りきった叫喚は喉を枯らして割れ鐘を鳴らす。息もできない痛みに心臓が張り裂けて、体は凍えて震えが止まらない。たった今、影も残さず消えた死人の後を追うように、泡へと還った死体に自らもなるように。冷たい石の床に触れる膝から砂が崩れて、広げた手の指先から腐り落ちていくようだった。
マリーは死んだ。この時、悠もまた『死んだ』のだ。
──
嘆きが卵の内側に反響し、殻が揺れ始めた。祭壇の石棺、または眠りを乱された褥にひびが入る。祭壇は土台から崩れて、招かれざる者たちを揺り落とす。
「うわっ……! って、何!? 今度は何!?」
転げ落ちた七人の少年少女の頭に、砂が降り始めた。やがて壁が割れ、床には穴が空き、天井が剥がれだした。降り注ぐ砂はすぐに石へと変わり、やがて岩になる。神の墓は墓荒らしに瓦礫の雨を降らせてきた。安らかな死を阻み、余計な苦しみを上乗せした報いを与えるように。
「ま、まずいですよ! とにかく出口へ!」
「相棒、逃げるぞ!」
揺れる床で何とか体を起こしたサブリーダーが、リーダーを立たせようとした。作られた物語ではよくある、敵の親玉を倒したらなぜか敵の拠点も一緒に崩れるという事態だ。今はとにかく、急いで逃げなければならない。
「……行け」
だがリーダーは動かなかった。巨大地震で崩落する建物、もしくは空間自体が歪んで縮んで、この世の終わりが来訪したような騒擾の中で、小さな声を発した。
「ああ!?」
絶望で掠れた声は、仲間たちの中で最も近くにいた陽介にも聞き取れなかった。すると悠は、もう少しはっきりした言葉で言い直した。
「俺を置いて……行け」
虚ろの森の戦いは再起だった。悠だけでなく、特捜隊全員にとって再起を期した戦いだった。危険を冒して、限界以上に力を振り絞って、やっと勝利を掴み取った。だが勝利に価値はなかった。砂を噛むどころか、噛む砂さえ手に入らなかった。
初めて倒れた時よりも、一度起き上がって再び倒れた時の方が深刻だった。銃で撃ち落とされた運命は、落ちた先の底が腐って抜けてしまった。希望は無残に、完全に、これ以上酷くはなり得ない最悪の形で打ち砕かれた。もはや生きていくことなど想像もつかない。未来や幸福は望むことさえ望めなくなった。
その間にも、空間そのものの怒りはますます勢いを増していった。天罰のように落ちてくる瓦礫を、人間たちは揺れる地面で踊って凌ぐ。
──
そうこうしているうちに出口が塞がれてしまった。天井から落ちてきた一際大きな岩塊によって、参道へ通じる小さな口は人を通さなくなった。この神域それ自体が、内に入り込んだ不遜な人間を捕まえて逃がそうとしない。
「マジかよ……これじゃ生き埋めだぜ!」
古代の葬儀では殉死は付き物である。旅立つ王の供として、側近や後宮の者たちは自ら命を絶つ。ついでに陵墓の秘密を守る為に墓堀人足も埋められる。二十一世紀も十年を過ぎた現代にあって、古い時代の悪習が繰り返されようとした時──
「やれやれ……力を管理する者として、客人に手を貸しすぎるのは罪なのですが」
どこからか救いの手がやって来た。古拙の味わいとは対照的な、前衛的な青い装いに身を包んだ美女が、進退窮まった特捜隊の前に現れた。
「あ! えと……マーガレットさん!」
りせが声を上げた。一瞬名前が出てこなかったが、生きるか死ぬかの瀬戸際にあっては、記憶の扉が全開になっているようだった。人間の領域を超越した観念的な美貌の魔女の、名前を呼ぶことができた。
「まあ彼ではなく貴女たちに手を貸すだけ……そういうことにしておけば、罪ではないでしょうかね?」
突然姿を現した魔女は、自分の足元を示した。そこには古い小さなテレビが置かれている。花の森の入り口と、ペンション裏の山小屋にあったものと同じ型のテレビである。
「ここからお逃げなさい」
「す、済みません……ありがとうございます!」
「礼には及びません。契約していない貴女がたは、私を覚えていられませんから」
「みんな、急いで!」
「お、おう!」
俄かに開かれた逃げ道に、少年たちは殺到した。波打つ床を泳ぐように走り、隕石のように降ってくる岩の間を縫って、埃をかぶったテレビ画面に飛び込んだ。誰も躊躇はしない。
「悠! いいから来い!」
最後は陽介と悠だった。絶望に囚われて動かない彫像と化したリーダーの腰に、サブリーダーは腕を回して強引に引きずり出す。出口のテレビに相棒を頭から放り込み、自分も入る。
その様をマーガレットは見届けた。一人になってからも、その場に残った。
「あの子の魂は……行ってしまったのね」
墓所の崩壊は続いている。主が去った虚ろの森は、今まさに存在意義を終えようとしている。しかし地震も壁や天井の崩落も、マーガレットは意に介さない。青い蝶が去っていった『先』を見るように、悠然と視線を持ち上げる。
「彼には救えなかった……真の意味で皆の力を合わせれば、いとも容易いことだったのだけれど……」
真の意味で力を合わせれば、即ちワイルドの真の力を発揮すれば。世界を変えることもできる奇跡の力をもってすれば、あらゆる運命を歪めて、全ての宿命をなきものにして、神を人間に変えることさえできた。しかも決して難しいことではなかった。機械を人間にするように、極めて容易な
それは言い方を変えると、悠はまだ舞台から降りられないということ──
「さて……これからどうなるのかしら? 今の彼なら、封印の人柱にでも進んでなってしまいそうだけど」
昨年から歪んでしまった運命は、年が明けても歪みが継続している。むしろその幅は大きくなる一方だ。現世の人間より遥かに深く物事を見通せるベルベットルームの住人の目にも、今後の成り行きは予想が難しかった。
「あ、ここ……ペンションの物置!?」
「戻ってこれたんだ……あ、服も戻ってる!」
自分たちの居場所に最初に気付いたのは、千枝だった。次いで雪子が服装に気付いた。遭難した登山客を匿う山小屋、もとい宿の物置に特捜隊は戻ってきた。清浄すぎる花の異世界から、埃っぽい現実へと戻ってきたのだ。学生服からスキーウェアに戻ったこともまた、過酷な試練から生還したことを証明していた。
「テレビ、小っせーんだよ……肩ぶつけた……」
皆の中で最も大柄な完二が、肩をさすりながら後ろを振り返った。コンセントの挿されていない、小さなテレビがそこにある。灰色に濁る画面の前で、悠は膝をついて俯いていた。その隣には陽介がいる。
「……」
物置には窓が一つあり、そこから光が差し込んでいた。時刻は夕方である。少年たちをここへ追い立てた吹雪は、いつの間にか収まっていた。冬の傾いた日差しが空気を照らして、赤い柱を床に落としている。どことなく不吉な明かりに照らされているのは、りせと直斗だ。七人全員で、虚ろの森から戻ってこられた。
七人で全員である。マリーはいない。亡骸さえ持って帰ることはできなかった。
──
そこへテレビが唐突に白い光を発した。遠い昔のように感じる今日の昼間、悠を異世界へ誘った合図の光が再び灯った。最も画面に近いところにいた悠が振り返ると、光は弾けた。
「テレビが……!」
しかしこの日二度目の光は誘いではなかった。意味するものは別れ。もしくは失敗の証明だ。
光が収まると、割れたテレビ画面がそこにあった。まるでたった今割れたのではなく、実は旧式のテレビに相応しく、とうの昔に壊れていたかのように沈黙しながらそこにあった。光ったことも、試練に見舞われたことも、全てが悪い夢だったのだと主張するように、『窓』の役割を果たさなくなったガラスの破片がテレビのフレームに残っていた。
「マリー……!」
だがもちろん虚ろの森は夢ではない。マリーは今日まで生きていたことも、悠の目の前で死んだことも現実だ。心を打ち砕かれた少年はものの道理を理解しなくなったように、鋭く尖ったガラスを手で掴んだ。スキーウェアの手袋越しに強く握る。
「よせ! 怪我するぞ!」
サブリーダーが再びリーダーを引っ張った。膝を起こして相棒の肩を掴み、体重をかけて引く。するとガラスが割れる音が再び鳴った。
「……」
画面の小さな破片がテレビ本体から離れた。握る手に再び力が入り、手袋が裂ける。意識できない痛みが掌に走ってから、悠は手を開いた。
「……」
手を傷つけることにしか使えない、無用な破片は床に落ちた。割れたテレビから異世界へ渡ることはできない。虚ろの森にはもう行けない。ジュネスからテレビをここに持ってきても不可能だ。たとえ行けたところで意味はない。
マリーは戻らない。時間が戻ることがないように、死んだ人間は生き返らない。黄泉の国まで下っても死人を連れ帰ることは不可能なのだと語る、古い呪いの神話のように。
「う……」
亡くした妻を取り戻せなかった神話の登場人物。それをペルソナにした少年は、深く項垂れた。傷ついた人間関係はやり直すことができる。逆立ちした絆を元に戻すこともできる。しかし『我』が完了を宣告したコミュニティはやり直せない。完了した上で破綻し、しかも担い手が死んだ永劫の絆は、永遠にやり直せなくなってしまった。
「先輩……あの、何て言ったらいいか、分かんないけど……」
りせが声をかけてきた。恋愛のコミュニティもまた『我』の宣告を受けている。つまりりせとの関係は、もう変えられない。
「……」
俯いたまま悠は立ち上がった。幽霊のように。本当は死んでいるはずなのに、なぜか死んでいない不自然極まる存在のように、ゆらりと立ち上がった。血の色に染まった埃の現実を、一人で歩く。
「先輩!」
直斗も声をかけたが、悠は振り返らずに歩いた。運命、皇帝、女教皇、戦車、そして魔術師。仲間たちのコミュニティはどれも昨年のうちに完了宣告を受けている。彼らとの関係は、もはや絆の主たる愚者にも変えられないのだ。固定化された絆の担い手たちを置いて、悠は一人で小屋を出た。
外は夕闇が近づいていたが晴れていた。山と町に霧は出ていない。世界は終わらない。それは何とも残念だった。
翌日の13日、悠は学校を休んだ。