八十神高校の三学期の試験は2月6日に始まり、10日に終わった。解放を祝う連休を挟んで、授業が再開されたのが13日。そして翌14日の昼休み、試験結果の発表が行われた。いつも通り廊下の掲示板に順位表が貼り出された。優秀な者にとっては誇らしく、そうでない者にとっては屈辱の時だ。誰も何も隠せない。
「あ、鳴上君……初めて負けちゃった」
「ホントだ! 凄い、雪子の上行ってる……つか、トップ!?」
特別捜査隊に優等生は少数派だ。これまでは雪子が仲間内では毎回最も良い成績を取っていたが、最後で遂にトップが交代した。悠が一位である。しかも二年生組の四人や二年二組のクラスで一番ではない。学年全体でトップだ。八十神高校は進学校ではないが、成績優秀な生徒はどこの学校にも必ず何人かはいる。悠はそうした少年少女たちを押さえて、貼り紙の一番上に自分の名前を書かせることに成功した。転入して以来、五回目の定期試験で初めてである。
だが初の栄誉を勝ち取った本人は、それを見ていない。
(悠……)
クラスメイトでもある仲間の後ろで、陽介は腕組みをしながら左右を見回した。相棒の姿はない。
この日は授業が終わっても、いつもより多くの男子生徒が教室に残っていた。何人かで集まって、用もないのに喋り合っている。
「さ、さーてと……この後どうすっかな……」
「俺、屋上とか行ってみよっかなー」
「俺、校舎裏にでも行こうかな!」
落ち着きのない生徒たちの聞こえよがしな独り言から、陽介は気付いた。
「あ、そっか」
一昨日の衝撃と相棒を案じる気持ちから、今の今まで頭からすっかり抜け落ちていたが、思い出した。今日は悩める青少年にとって、クリスマスイヴと並ぶ特別な日である。
「今日ってバレンタインだったか……」
バレンタインとは人名で、古代ローマ時代のキリスト教の聖人である。当時婚姻を禁じられていたローマの兵士の為に、秘密裏に結婚式を執り行ってそれが発覚し、時の皇帝に捕らえられて処刑されたと伝えられている。2月のこの日は聖人の命日である。伝説の虚実は明らかでないが、とにかくこの日は恋人たちの記念日とされている。そして日本においては、宗教的な起源とは恐らく関わりのない独特の風習がある。
健全なる男子高校生なれば、浮つく気持ちを抑えがたい。だが陽介は忘れていた。例年、陽介の成果は義理のみである。昨年はジュネスのパートからいくつか貰ったが、それくらいだ。そしてそんな自分を情けなく思って、来年こそはと毎年思うのが恒例だった。だが今年はそもそもイベントの存在を忘れていた。
「ちース……ったく、どいつもこいつもチョコチョコって。こっちゃ、それどころじゃねえっての……」
女子の大半は既に下校し、挙動不審な男子たちも立ち去って教室にようやく人が少なくなった頃。硬派なことを言いながら、完二がやって来た。
「鳴上先輩、今日もガッコ来てねえんすか?」
「うん……携帯に電話しても繋がらないの」
俯きながら、雪子が答えた。悠は昨日学校を休んだが、今日も来ていない。二日連続で学校をサボった、その理由は言うまでもない。
「あたし今朝、家の電話にかけてみたの。そしたら菜々子ちゃんが出て……鳴上君、家にはいるみたい」
「菜々子ちゃんは何て?」
「お兄ちゃん、スキーで風邪引いた……ってさ」
千枝が菜々子から聞き出した理由は、もちろん真実ではない。事の原因はスキーではなく、症状は風邪ではない。
(無理もねえって言やあ、無理もねえが……。俺だって去年は……)
一昨日の出来事を、陽介は自分の身を切るような痛みと共に思い返した。スキー旅行で道に迷って、辿り着いた物置でテレビに入った。きっかけは『よく分からないが』、マリーを救出する為に久しぶりに戦うことになったのだ。それを陽介は思い出すことができる。
虚ろの森が閉じればマリーの記憶は失われる。戦う前にはそう言われていたのだが、今日になっても陽介たちはマリーの存在を記憶したままだ。忘れたのは『虚ろの森』なる空間の呼び名を教えた、金の瞳の魔女に関する情報だけだ。それはマリーが死んだのは、忘れ去られる為に自ら死んだわけではないから──
ただ原因が何であれ、特捜隊はマリーがこの世にいたことを覚えている。クスミノオオカミなる存在と戦い、倒し、そしてマリーの死に様を覚えている。覚えているだけに、余計に抉られる。好きな少女に死なれた悠は、今どれだけの苦痛と後悔に苛まれているのかと。4月に似た出来事を経験している陽介には、相棒の苦衷は察して余りある。学校に来る気など、まず起きないだろう。
「こんにちはー……あ、完二もいるわね」
重苦しい限りの教室に、りせがやって来た。大きな紙袋を両手で抱えている。普段よりもゆっくりした足取りで、二日続けて主の腰が下ろされなかった席まで歩いてきた。
「じゃあまずは、いつも頑張ってる千枝先輩からね」
そうして袋の中身を千枝に差し出した。
「え? 何であたし?」
千枝は驚いた顔を見せたが、りせによると『お世話になってる人に感謝するには、ぴったりの日』だそうである。バレンタインデーの風習としては、世界的にはその方が主流である。チョコレート限定で女から男にだけ贈るのは日本独特のものだ。もちろんりせは海外のそれに倣ったわけではなく、芸能界仕込みの気配りというものだが。
「この子、やるわね……」
そうしてりせは全員にチョコレートを配った。だが持ってきた袋には、まだ何かが入っている。傍目にもそれが分かる膨らみだ。
(残りは……本命かな?)
陽介は残り物の正体を察しつつも、口には出さなかった。その代わり視線を軽く巡らせた。すると千枝と雪子も、通学カバンの他に紙袋を持ってきていたのに気付いた。
「ごめん、りせちゃんの分は用意してなかった……」
「いいよ、気にしないで」
それから二年生組の女子二人は、仲間の男子二人に持参した袋の中身を手渡した。
「はい、花村……完二君も。色々お世話になりました……」
「おう、サンキュー……」
「どうぞ……完二君、花村君。買ったものだけど……」
「ありがとさんです……」
りせもそうだが、千枝と雪子が陽介と完二に渡したものは、今月の初め頃からジュネスで特売セールが行われていた義理専用の量産品である。そしてやはりと言うか、二人の袋には中身がまだ残っている。果たしてそれは陽介が受け取ったものと同じ種類であるのか、違うのか──
「失礼します……」
今度は直斗が教室にやって来た。ただしりせと違って、手ぶらで姿を現した。
「あ、ちょうど良かった。はい、いつも賢い直斗君に」
「あ……す、済みません。僕、何も用意してないです……」
りせが義理チョコを手渡すと、直斗は顔を俯かせた。友人知人に義理を配る習慣は直斗にはない。だから女子の三人分はもちろん、男子の分も用意していなかった。そんな直斗がわざわざ上級生の教室に来たのは──
「鳴上先輩、やはりいらっしゃいませんか……あ、もちろんチョコという話ではなくて……」
凄惨な不幸に襲われたリーダーを案じてのことだ。考えることは皆同じである。
「電話は?」
「先ほど堂島さんのお宅にかけたんですが、菜々子ちゃんが出て……先輩、家にはいないそうです」
「……」
朝に千枝が電話をした際には、風邪という話になっていた。そして放課後のこの時間に家を空けている。悠が今どこで何をしているのか。一昨日のリーダーの錯乱と直後の憔悴ぶりを間近で見た彼らには、悪い想像しかできないところである。
「ねえ……探しに行かない? 心配だよ」
「そうだな……行くか」
雪子の発案に陽介が応じ、リーダー不在の特捜隊六人は教室を後にした。本来は甘く楽しいはずの、年に一度のイベントを楽しむ雰囲気はない。
「まずはテレビに行ってみっか……」
そして校舎を出た頃、最初に探すべき場所について、陽介がぼそりと呟いた。
「……」
沈黙が降りた。陽介の提案は、とてつもなく不吉な探し場所である。この状況で、悠は何の目的でテレビに入ると言うのか。それは言いたくないし、聞きたくもない。それでいて、変なこと言うなとかの軽い突っ込みは出てこない。もちろんないと信じたいが、絶対にあり得ないとは誰にも言えないのだ。
六人は急ぎ足でジュネスへ向かった。
特捜隊は殺人事件が終わってから初めて、今となっては懐かしいくらいのテレビのスタジオにやって来た。シャドウワーカーと互いの存在を明かし合った11月から、テレビへの出入りは禁じられている。しかしだからと言って、ジュネスの家電売り場に見張りはいない。少年たちは大人に見咎められることなく、霧の異世界に降り立った。
ちなみに眼鏡は全員かけている。普段の生活では必要のないものだが、不測の事態に備えて仲間の証明を持ち歩く習慣はまだ続いている。そして今日においては、一見すると無用の習慣が役に立つかもしれない。そんな不安を六人全員が感じていた。だが──
「……先輩、こっちの世界にはいないわ」
情報担当による探査の結果は、嫌な予想からは外れていた。7月に悠が生田目に落とされた時は、こちらにいること自体は分かったものの、詳しい居場所までは掴めなかった。今日は当時と違って、悠はそもそも異世界に身を置いていない。ペルソナの感覚を通したりせの目には、それが分かった。
「そっか……いやまあ、そりゃ良かった……」
尋ね人が見つからなかったわけだが、見つからなくてむしろ幸いだった。サブリーダーは安堵の息を漏らす。
「しかし……霧、晴れてませんね」
参謀が眼鏡をずらしつつ一言添えた。一昨日の虚ろの森では霧が出ていなかったが、あれは例外だったようである。事件が終わってもテレビの中の霧は晴れていない。眼鏡を通せば見えなくなるが、見えないことと存在しないことは違う。テレビの窓を通った先では白い闇は消えていない。今日になって、特捜隊は自分たちの目で確認できたわけである。
「んなもん、今さらどうでもいいぜ……つか、どうしやす?」
「ん……そうだな。あいつが行きそうなトコ、手分けして探してみっか。みんな、思い当たる場所あんじゃね?」
陽介が場を一旦締めて、六人はすぐに外に出た。現実に漏れた霧は晴れても、大本の霧は晴れていない。それが何を意味しているのか、ここでは顧みられなかった。
現実に戻った陽介たちは、その足でジュネスのフードコートとその他の売り場を探したが、悠は見つからなかった。その後、町の各所に散っていった。探す場所は各々に任せられた。彼らはいずれも、この一年の間に悠と個人的に交流を重ねていて、それぞれに思い出の場所がある。例えば商店街であれば、中華料理屋や本屋、神社などだ。他にも鮫川の土手や、広場の
(ここにもいねえか……)
11月に悠と殴り合った場所で、陽介は腕を組んだ。足元の砂利がこすれ合って、小さな音を鳴らす。陽介にとってはここ、鮫川の河原が最も思い出深い。ジュネスを出てから真っ先にここに来てみたのだが、当ては外れた。心なしか水の少ない川の上を、冬の風が虚しく吹き抜けているだけだ。
(他にあいつが行きそうなとこっつったら……)
他に悠が行きそうな場所。言い方を変えると、陽介と悠の他の思い出の場所だ。それを順番に思い出してみた。最近はめっきり乗らなくなった自転車で通っていた通学路。ジュネスでは菜々子も連れて買い物をして、アルバイトも何度か一緒にやった。屋上でバンド演奏をしたこともあった。バイクに乗って、隣町の沖奈に繰り出した時もあった。
(あ、そういや俺ら、二人で海にも行ったよな……)
バイクから連想して、陽介は昨年の思い出の一つを記憶から引っ張り出した。夏休みの後半に特捜隊の皆と一緒に海に行ったが、そのしばらく後に二人で再び行ったのを思い出した。あの日は将来の話を少しだけして、そして──
(思い出した……確かあん時、諸岡先生の話してたな。海岸で釣りしてたって)
諸岡は陽介にとってはただの嫌な奴だったが、悠にとっては違った。同じ人でも人によって見方が異なることはある。普通にある。気の置けない相棒ではあるが、諸岡の人柄に関しては意見が一致していなかった。ただし問題教師の生前は、不一致だったこと自体にさえ陽介は気付いていなかった。
(そういや相棒……先生が死んだ時も、えらい落ち込んでたよな)
相棒との間に認識の相違があったことを陽介が知ったのは、諸岡が死んだ時だ。
早紀が死んだ時、陽介はその日のうちに悠に頼んでテレビの世界を再訪した。当時の自分の気持ちを思うと、7月に諸岡が死んだ時の相棒の気持ちにも共感できるものがあった。もちろん恋した異性と担任の教師では、思い入れの種類は当然異なるはずだが、親しい人を失ったという点では同じである。実際、諸岡の死を契機として相棒との関係も変わったという思いも、陽介にはある。下の名前で呼び合うようになったのもその頃だ。
(悠にすりゃあ、大切な人を亡くしたのは先生に続いて二人目……ってことか)
ここまで考えて、陽介は今の悠の気持ちと、取るであろう行動が読めてくる気がした。マリーを失った悠は、諸岡に関係する場所にいるのではないか。そう思えた。
(あいつ、先生に相談とかしてんじゃねえかな……。ちっと寒いがバイク出して七里海岸に行ってみっか……ん? いや待て……そうだ!)
論理を積み重ねた陽介の脳裏に、一筋の閃きが走った。諸岡に関係する場所なら、海岸以外にもう一つあるはずだった。死んだ人に『会いに行ける』場所だ。正しくは、会ったような気になれる場所だ。陽介は先月、尚紀に連れられてそこを訪れた。相棒も一緒だった。
仲間たちに心配されて、総出で探されている当の人は霊園に身を置いていた。冬の短い昼間は、もう黄昏に場所を譲ろうとしている。墓参者の少年は雪が積もった地面にしゃがみ込んで、低い位置から差し込む赤い光を墓石の陰に隠れてやり過ごしていた。
「先生……俺に最初に言ったこと、覚えてますか? 爛れた都会から辺鄙な地方都市に飛ばされた、落ち武者だって」
悠は亡き恩師に会いに来ていた。諸岡が死んでから約七ヶ月が過ぎている。その間に幻聴を聞くことはあったが、自分から訪ねたのはこれが初めてだ。
「先生の仇は取れなくて、菜々子は足立さんが助けて、足立さんは有里さんたちが倒して……」
足立を倒したのが誰なのかは、解釈は複数あり得る。先月の今頃は堂島が倒したのだと思っていたし、陽介は尚紀が倒したと思っている。だが今となっては、どうでもいい話だった。自分ではない、他人が倒したことは確かなのだから。そして足立の件よりも深い無念が、今はある。
「……マリーは死なせてしまった」
幻聴でも幽霊でもいいから、ここで諸岡が現れてくれれば。『学校をサボって何をやっとるか!』とでも言ってくれれば、まだ救われた気持ちになれたかもしれない。しかし墓石に語りかけても返事はやはり来ない。死者への相談とは、自分で答えを出すことに他ならないのだ。足立に撃たれて以降、敗北の苦さから目を背けて先送りにしてきた一年間の結論を、今こそ出さねばならない。
「俺、この町で何もできませんでした。何もできないまま、来月には帰るんです」
結論は苦さを通り越していた。舌が麻痺して、何の味も感じなくなるくらいに。『殺人事件の解決はできなかった』など遠く及ばない、死刑宣告さながらの現実を、悠は一昨日に突き付けられた。マリーの死によって悠もまた『死んだ』のだ。死んだ人間は何も味わえない。
「先生の言った通りなんです。俺は……落ち武者です」
戦いに敗れ、本来いるべき場所から追われた者のことだ。追放された者は、当てもなくさまよう放浪者となる。諸岡と初めて会った時に自分について評された、この言葉は暴言ではなく予言だった。悠は八十稲羽に来てから初めて人生と戦った。そして敗れた。完膚なきまでに打ちのめされたのだ。
人生の節目において何もできなかった。それは自分が何者なのか、何も分からないでいるということ。恩師に与えられたモラトリアムは今年の春までだ。期限はもう目前まで迫っているのに、アイデンティティを見出せとの課題を果たせないまま、間もなく帰る愚か者。帰るまでと帰った後は、本当に死ぬまでの無為な時を漂流するだけ。そんな敗北者を表すのに、落ち武者以上に相応しい言葉はない。
「先生はいつも正しいんだ……」
全面降伏に等しい報告を終えた時、聞き慣れた声が聞こえた。
「悠!」
「陽介……」
陽介は墓の間をすり抜けて、悠の傍まで歩み寄ってきた。悠は膝を起こして立ち上がる。
「ここだって、よく分かったな」
悠は昨日から仲間たちに連絡を取っていない。携帯電話の電源は切っていたし、諸岡の墓参りに行くことは菜々子にも伝えていない。それでいながら、陽介にはなぜか見つかってしまったことに、少しばかりの不審を覚えた。
「分かるさ。相棒だろ……」
昨年に陽介は早紀を失い、悠は諸岡を失った。事件に立ち向かう動機が全般的に弱かった特捜隊にあって、リーダーとサブリーダーの二人は他の者たちと思い入れが異なっていた。想い人と恩師という違いはあるにせよ、仇持ち同士だったから。それは二人の関係にも大きく影響していた。そして今、二人はどちらも想い人を失った身となったのだ。二度と取り返すことのできない、深い喪失を経験した。昨年からの相棒と共犯者の関係に、同病相憐れむ資格が上乗せされたわけである。
「……よしてくれ」
だが悠は首を横に振った。
「……相棒」
しかし陽介は悠を相棒と呼ぶことをやめない。雪の上を一歩二歩と歩み、間合いに入る。
そして拳が一閃した。
「何するんだ……」
悠は左の頬を手で押さえた。二ヶ月前に堂島にやられた時と違って、握りや腰の入れ方が甘い、手打ちのパンチだった。だが目にも止まらぬ速さだったので、剃刀で切られたような感覚が顔に走っている。
「痛えだろ? ムカつくだろ?」
「……」
痛いことは痛い。『死んだ』とは言っても、身体的な意味で痛覚が麻痺しているわけではないのだ。
「だったら殴り返せよ! お前の中のぐちゃぐちゃしたの、ぶつけて来いよ!」
魔術師のコミュニティは既に極まっている。だが今日は延長戦をやるようだった。陽介は両の拳を軽く握り、顎の高さで構えた。
「……よし」
悠は言葉を用いなかった。
延長戦はサドンデス方式が採用されていた。互いに拳を振るうこと数度、時間にすれば一分かからず、勝負は決着した。悠の大振りの右に対して、陽介の左がカウンターで突き刺さったのだ。石畳に雪が敷かれた霊園の地面に、悠は湿った音を立てて仰向けに倒れた。
「お、おい! 大丈夫か!?」
(陽介……手加減したな)
昨年のケンカは引き分けで終わったが、今年の延長戦は敗北になった。だが陽介の拳の向こうに、お花畑や三途の川は見えなかった。墓の下から諸岡が起き上がって、迎えに来てくれるような事態にはならない。当然だ。陽介が悠を殺してくれることはあり得ない。
汚れた雪に頭を置いた悠の傍に、陽介は腰を下ろした。夕暮れ時の冬の空に、茶色の髪が重なる。西の空から注がれる、血の色の光を浴びた陽介の顔は端正なものである。そんな綺麗な顔に浮かぶ表情は、見ている方が辛くなるほど優しい。女であれば、こういう男には二通りの反応しかできないだろう。恋の崖へと転げ落ちるか、もしくは──
(ウザいって、こういうことを言うのかな……)
陽介はウザい。4月に聞いた早紀の遺言で、陽介はそう評されていた。しかし悠は今の今まで、陽介を鬱陶しく思ったことはない。特捜会議で陽介から意見が上がれば真摯に耳を傾けた。遊びの企画が立ち上がれば一緒に楽しんだ。戦いやコミュニティでもそうである。一年近い付き合いの中で、陽介の言動に迷惑を感じたことはなかった。感じたのは今日が初めてだ。
落ち武者の悠とウザい陽介。春に投げつけられた辛辣な言葉は、ただの暴言ではない。的を射ているのだと、悠は初めて思えた。自己評価が底を打ったら、親友への評価まで煽りを受けたように。
「なあ……俺らを助けたのはお前じゃねえか」
「……」
不条理なくらい優しい親友に、『お前ウザいから黙れ』とは言えない。言えないのだが、心で思ってしまうことは止められない。悠の方が黙ってしまう。
「お前はよくやったよ」
客観的に見れば、陽介の言い分は間違っていない。悠がいなければ、テレビに放り込まれた被害者たちはとうに死んでいるはずである。雪子、完二、りせ、直斗が生きているのは、間違いなく悠の功績だ。陽介と千枝もペルソナを無事に得てテレビの中で戦い抜けたのは、悠がいればこそだ。
「……よせよ」
もちろんそんなことは悠も分かっている。頭では。だがこの一年間の前半に積み重ねた小さな成功は、後半の立て続けの大きな失敗によって、心ではなかったも同然の状態になっている。
「……帰る」
上体を起こして立ち上がった。ケンカで負けたにしては、体は嫌に軽かった。
殴られた頬は痛くないわけではない。口の中に血の味も感じる。だがやはり、何も『感じない』でいた。たとえ拳ではなく、陽介がテレビの中で振るっている短剣で刺されたとしても、何も感じなかっただろう。心臓を貫かれる痛みさえ、今ならきっと無視できる。血が流れ切って本当に死ぬその瞬間まで、全てをどうでもよくできそうだった。
「明日は学校来いよ!」
「ああ……」
振り返らずに手を振った。
仲間たちは今も仲間のままである。あれだけの失敗をしでかして、以前と変わらずに優しくしてくれる。だがそれがかえって悠を苦しめている。そっとしておいて欲しくても、誰もそうしてくれない。なぜかと言うと──
(皆のコミュはもう全部終わってるからか……。今から逆位置になったりしないんだな……)
二度目の『決闘』を受けたのは、魔術師の絆をやり直すことにならないかとの期待があったからだ。脳裏にカードが浮かんで反転して、自分に愛想を尽かしてくれないかと思ったのだ。だがそうはならない。完了した絆とは、終わった絆である。
ただ完了した絆はやり直すことはできなくても、壊れることならあるかもしれない。マリーのように、死ねば別の道が開けるかもしれない。担い手が死ぬか、主が死ぬか。もしくは絆そのものが死ねば──
傷ついた相棒を、陽介はその場で見送った。家まで送ろうとは、さすがに言えなかった。そこへ携帯電話が鳴った。見てみれば、千枝からだった。
「もしもし」
『花村? 鳴上君、いた?』
「いたぜ。諸岡先生の墓参りに行ってた」
『そっか、先生か……』
担任が突然世を去ってから、短くない時間が過ぎている。特別な思い入れのない生徒にとっては、諸岡の事件はとうに風化している頃合いだ。悠の居場所に千枝たちの考えが及ばなかったのは、無理のない話である。陽介が気付いたのは会心の推理だったと言える。
「明日は学校来るってよ。だからもう心配すんな」
『いや、心配するでしょ……』
当然である。だが人にはできることと、できないことがある。陽介はマリーを救えなかった怒りや無念を、八つ当たりでいいから自分にぶつけろと言って殴り合った。しかし効果は乏しかった。
「残念だけど……時間かかりそうだ」
想い人を失った辛さは、一つや二つの言葉では癒やせない。陽介は自分もそうだったから、相棒の気持ちが痛いほど分かる。しかも悠は目の前で、凄惨極まる形でマリーを失い、その上復讐する相手もいない。どうやって立ち直らせればいいのか、正直なところ想像がつかないくらいなのだ。
「ああ、念の為に言っとくけど、チョコ渡そうとか思ってんなら諦めな。そんな雰囲気じゃねえから」
『わ、分かってるわよ! りせちゃんにあげるわ!』
それで通話は切れた。
「あ、おかえり、お兄ちゃん! かぜ、もうだいじょうぶなの?」
霊園で陽介と別れた悠は、堂島宅まで歩いて戻った。体は嫌になるほど調子がいいが、心は沈み切っている。
「お兄ちゃん、今日はなんの日かしってる?」
「?……何の日だっけ?」
知っていてとぼけているのではない。今日は何の日か、悠は本当に分からなかった。菜々子の誕生日か、何か別の家族の記念日なのか、全く想像がつかない。と言うより、頭が働かない。
「えっとねー、バレンタインです! お兄ちゃんにも、しらないことあるんだね」
「ああ……そうだったね」
そうして堂島家の兄と妹はキッチンから居間に移動した。家庭の平和と逃れられない家族を象徴する温かいコタツに、二人で入った。二人である。堂島は出張に行っていて、今日はいない。間が良いと言うか、悪いと言うか。
そして数分後──
「……」
コタツで向かい合う二人の間に、謎の物体が鎮座した。色は青紫で、皿の上で小さな山になっている。臭いは不思議としない。黒いしみのような箇所は、何となく人の顔を象っているようにも見える。
「あのね、お姉ちゃんたちが、てづくりチョコの作りかたおしえてくれた!」
今日の菜々子は終始上機嫌で、色々喋っていた。バレンタインとは『大事な人にありがとうを言う日』であると、学校で教わったのだとか。学校の先生からチョコレートを貰って、その際に入院中のことを気遣われたとか。そうした他愛もない、だが真面目な話をしている時から、ずっと笑顔でいた。対照的に悠に表情はない。チョコレートのつもりで作られたはずの、シャドウかペルソナを模した何かと同じ顔をしている。
「だから、菜々子、お兄ちゃんにつくったよ!」
学校の話をされた時も、『物体X』のバレンタインエディションについての説明をされている今も、悠は話をほとんど聞いていない。聞いていないにも関わらず、菜々子は嬉しそうに喋っている。正義のコミュニティは先月に極まっているのだ。兄の態度に妹が怒ることは、もはやあり得ない。
「……」
悠の目は謎の物体にずっと注がれている。隠し味にコーヒー牛乳とベーコン。個性を出す為にピーマンに青汁、黒酢にポン酢。コクを出す為に魚ソーセージとイカの塩辛などなど、レシピの説明は耳には届いているのだが、心に届かない。だが話を聞いていないからと言って、悠は決して菜々子を『ウザい』と思っているのではない。むしろ感謝したいくらいだ。
「あのね、お兄ちゃん……ありがとう!」
全ての希望を失った少年は、もはや何があっても何も感じない。親友に殴られても、頬の痛みは心に届かない。ただ一つ感じられるものがあるとすれば──
「ありがとう、菜々子……」
今日がバレンタインであることは忘れていた。だが思いがけず菜々子が与えてくれた贈り物に、悠は拝みたいくらいの気持ちになっていた。差し出された甘い死を、スプーンですくって口に入れた。
飲み込んだ瞬間、体は支えを失った。
「お兄ちゃん!? どうしたの、お兄ちゃん!?」
舌に乗った何かは軟らかく、喉を通って胃へと落ちる感覚は、『真の』意味での優しさだった。体は拒絶反応を示したが、心は喜んで受け入れている。
(明日、目が覚めませんように……)
悠は全てに絶望していた。大昔の今日に処刑された聖人のように、御許に召されてしまいたかった。もしかしたら、そこに恋した少女や恩師がいるかもしれないのだから。そんな自分に最後の慈悲をくれたのは、自分を殺してくれるのは妹。毒が満ちた善意に送られて、死の国へと飛翔する。そんな自分の最期を思い描きながら、悠は意識を手放した。
「かぜ!? やっぱりかぜなの!?」
だが現実はそんなに甘くない。
明けて15日の朝。悠は鮫川土手の通学路を歩いていた。もちろん幽霊ではない。身体的な意味では死んでいない。コタツで一時間ほど眠ったら、普通に目が覚めた。
(菜々子を人殺しにせずに済んだわけか……)
当たり前だ。不味いチョコレートくらいで死ねるほど、人間は脆い生き物ではない。腹を壊すくらいはあっても、死に至ることはさすがにない。まして不自然な精気が漲っている少年は、歴代の『物体X』を全て平らげたとしても死にはしない。
今日の天気は昨日に続いて晴れだった。天から注ぐ光は柔らかいが、積もった雪に反射して眩しい。いくつも連なった先行く生徒たちの足跡をなぞるように、悠は通学路を真っ直ぐ歩いた。そうして校門の前まで辿り着くと、後ろから声をかけられた。
「あ、鳴上君……!」
振り返ると千枝がいた。
「お、おはよう……大丈夫?」
雪子も一緒だった。二人揃って顔は不安げだ。虚ろの森を出て以来、顔を見るのはこれが初めてだ。電話もしていない。
「ああ、心配かけたな」
対する悠は普段通りの声を出した。まるで普通の風邪で寝込んでいただけで、普通に体調が戻っただけのように。もちろんそんなはずはないのだが──
「そう言えば……菜々子にチョコの作り方教えてくれたのか?」
本当に大丈夫であるのか追及される前に、悠は話を逸らしにかかった。
「え? う、うん……」
「た、食べたの?」
「おーい、相棒!」
少女二人は元から不安そうだったが、種類の異なる不安で上書きされたちょうどその時、陽介がやって来た。特捜隊の二年生組が、雪で覆われた校門前に揃う。
「……どした? 何話してんだ?」
「昨日、菜々子から手作りのチョコ貰ったんだ。作り方、お姉ちゃんたちに教えてもらったんだってさ」
昨日に菜々子から聞いた謎の物体についての説明は、心には届いていなかった。しかし頭からは引っ張り出せた。仮面使いの名人芸は、こういう時に便利である。
「……大丈夫だったのか?」
「うまかったよ」
全くもって便利である。コミュニティで鍛えられた口は、どんな嘘でも平気で言える。悠は仲間に嘘を吐くのはほとんど初めてなのだが、あっさりと言えた。本気で心配そうにする相棒を、何の苦労も葛藤もないまま容易く欺ける。
この一年間で積み重ねた数々の異常な経験によって、悠は遂に自分の表情や言動を自在に操れるようになった。言うなれば、他人に対する真実を持たない『愚者』になったのだ。
(もう……どうでもいい)
そうして物事にこだわりがなくなった分、悠はある不自然な点を見落としていた。
「そ、そっか! そう言やクリスマスケーキもうまかったもんな! お前ら、料理できるようになったんだ! 良かったな、そりゃ!」
昨年の悠の快気祝いで出されたケーキは、普通のケーキだった。殺人事件が終わった12月に特捜隊は使命を終えた。それと共に、料理すると謎の毒物を製造してしまう呪いも終わった『はず』なのだ。しかしバレンタインにおいて毒が復活した。