悠が八十稲羽で過ごす最後の日である春分の日に、有里が来たのは偶然ではない。今月のある日、ポートアイランドの自宅に一通の手紙が届いたのである。足立の手紙とは別の、群青色の封筒に入れられて中身の便箋も同じ色という、差出人の奇抜なセンスが感じられるものだった。
それは招待状だった。文面はこうである。
『裁きの絆を完了させてほしい。その日、私と貴方の契約も完了させる。昼夜の等しい日、かの地の文明の頂上で待つ』
招待状に差出人の名は書かれていなかったが、誰からの呼び出しなのかは明白だった。それで事件はとうに終わった田舎町に、三ヶ月ぶりに来ることになったのである。ただ当初は一人で来る予定だったのだが、妻も行くと言い出したので、生まれたばかりの息子たちと犬も連れてきた。しかし用件を済ませる際に妻は同席してほしくなかったので、犬を利用したちょっとした策を弄した、というわけである。
一つ目の用は済ませた。残る一つを片付けるべく、有里はフードコートに現れた青い扉をくぐった。ベルベットルームの扉と似ているが、別物である。なぜかと言うと、恐ろしい気配が漂ってくるから。
「ようこそ、パンドラの間へ」
扉の先は宇宙空間を連想させる場所だった。青紫の床には星屑のような白い粉が散りばめられ、側面や頭上の青緑の空間にも、星を思わせる白が彩りを添えている。そしていくつかの扉板が、向かい合う有里とマーガレットの周囲で浮いていた。板の装飾は無骨なものや豪華なものなど、種々様々だ。
宇宙と扉。これは有里に忌まわしい記憶を思い起こさせる。昨年からマーガレットに会う時は、いつも銀の扉を通った先にある砂漠だった。だが最後になるだろうこの時に限って、景色が変わっている。言うまでもないことだが、魔女はわざとそうしているに違いなかった。
「それで?」
「百の言葉よりも雄弁な、一つの言葉を引き出す契約を私たちは結んだわ。その仕上げをお願いしたいの」
「僕に何をしろと言うんだ」
有里は何度もマーガレットに会ってきたが、見せられる映像や質問には迷惑を感じてばかりだった。ようやくそれが終わりになるのであれば、喜ばしい話ではある。だが男が発する気配は硬質なものだ。表情や声色はもちろん、心の中まで一切の隙を見せない。
「千の言葉よりも雄弁な、一つの行動を示してほしい……と言えば、分かるでしょう?」
ここにアイギスはいない。他から隔離された場所に男女が二人きりでいて、一つの行動を示せなどと言われると、何やら裏の意味を感じてしまいそうになるところだ。しかし神秘の空間に身を置いている、人間の男と人外の女の間に甘いものはない。完全にない。女の顔には嫣然とした微笑みが浮かんでいるが、それでも甘さは皆無だ。
「貴女と戦えと言うわけか」
「ええ。かつて妹がしたように、私も貴方と手合わせをお願いするわ」
二年前の1月に、有里はマーガレットの妹に戦いを申し込まれたが、今日はその再現というわけである。ちなみにかの妹に言わせると、『力を管理する者は、力で自らを上回る者に出会った時、自分が何者か知ることができる』そうである。有里にすれば、そんなはずがあるかと言いたいような話だが、とにかく彼女はそう言っていた。
「だったらやる前に聞いておきたい」
「何かしら?」
「これは殺し合いか? それとも試合か?」
「さて……どうしましょうね?」
この金の瞳の魔女は、はっきりした物言いをしないのがいつものパターンである。たまに明確な言葉を用いるのは、決まって酷い話をする場合だ。そして今日はいつにも増して曖昧だ。普段であれば、どうせ押しても引いても何も出てこないからと、有里は議論や追及をすぐに諦める。しかし今日ばかりは流されてはいけない。
「もし殺し合いなら遠慮させてもらうよ。契約不履行ってことにしても構わない」
昨年の8月にも、有里はマーガレットに似た話をした。もし今後エリザベスと再会し、戦いになれば勝てるかと。試合ならやるが、殺し合いならやらないと有里は答えた。なぜなら──
「貴方は死を恐れているの?」
「当たり前だろう。死が怖くないのは機械か人形か、もしくは馬鹿だ」
自分の死など、どうでもいい。そう思っていた時期は確かにあったが、子供の頃の話である。あれから月日を経た今となっては、有里は死の恐怖を自覚している。恐れていることを隠さないし、恥じることもない。命を惜しむのは、人間ならば当たり前のことだ。しかも妻子のいる身なのだから。
「それに貴女も僕を殺したらただじゃ済まないぞ。妻と子供たちが黙っていない。言っておくが、僕は家族の中で一番弱いんだ」
死を恐れるのは正当だ。しかしこの言葉は客観性をいささか欠いている。有里の戦力は妻と比べて、決して劣ってなどいない。むしろ妻は現在の体になってから一度も実戦を経験していないのだから、少なくとも互角、もしくは有里の方が上のはずである。しかし有里は妻と戦って勝てる自信は少しもなかった。結婚前の高校生の頃、きつく締め上げられた経験があるから。だから本人としては、嘘を言っているつもりはなかった。
「ふふ……そうでしょうね。世界を救った女と、世界を滅ぼす神の兄弟ですものね」
そんな男の言い分を、魔女は笑って認めた。
「僕も貴女を殺して、エリザベスに復讐されるのは遠慮したい」
「あの子は私の復讐なんてしないと思うけど。もし貴方が私を殺したら、きっと惚れ直してしまうわよ?」
「だったらなおさら遠慮するよ」
復讐であれ愛であれ、有里はエリザベスとの因縁をこれ以上増やしたくない。女関係の揉め事は爛れた高校時代だけで十分すぎる。だからマーガレットと殺し合いはできないのだ。殺されるわけにはいかないし、殺してしまっても困る。その点において、当代最強のペルソナ使いと力を管理する者は、奇妙に普通の人間同士のような関係になっていた。
「いいわ。この戦いは力を比べ合う試合としましょう」
魔女は言質を与えた。元からそのつもりであったにせよ違うにせよ、こうもはっきり言った以上は決まりである。この戦いで死人は出ないことが約束された。
「もし敗者が死んだら、勝者はこれを使えばいいわ」
そして約束を保証するものを取り出した。魔女は手品よろしく何もない空間から引っ張り出すように、薄く細長い金属片めいた物を出現させた。鳥の羽根に似た形のそれを、指に挟んで有里に見せる。色は魔女自身の瞳や、今は失われた影時間の満月を思わせる強烈な金だった。
「黄昏の羽根か?」
「いいえ、これは月神の突羽根……まあ、似たようなものよ」
マーガレットは白磁の指を弾いて、羽根を宙へと放った。乾いたその音が、始まりの合図になった。
小脇に抱えたペルソナ全書を開いて、何枚ものカードを解き放つ。それらはいずれも床に落ちない。浮遊するカードに守られながら、マーガレット自身も宙に浮いた。もののたとえではなく、文字通りの意味で足をどこにも付けていない。人外の証としては地味な振る舞いだが、マーガレットは自分が人間ではないことを、確かな形でもって示している。
「さあ、存分に楽しむとしましょう」
対する有里は床に立っている。二人は同じ存在ではなく、互いの間には乗り越えられない壁があることを、戦う前から示している。つまり人間の男と人外の女だ。
「いいだろう」
有里や悠がワイルド使いならば、マーガレットとエリザベスは全書使いだ。ペルソナの百科事典を開いてカードを取り出し、いくつものペルソナを召喚する。その数と個々の戦力は、ワイルドを超える領域にある。
「見なさい」
最初は日本でも名の知られた、東西南北を守護する四柱の護法善神だった。各々剣を振るい、槍を突き出し、三鈷杵を掲げて攻めてくる。そのいずれもが、有里や悠、更には足立を凌ぐ威力を誇っていた。打撃は地を割り、斬撃は天を裂くと言っても誇張ではない。
「オルフェウス」
単純な力押しでは分が悪い。有里はそう判断しつつ、まずは堅牢なペルソナでもって守勢に回った。やみくもに動かず、相手を観察する。過去の戦いと人付き合いで磨いてきた目に、まずは仕事をさせる。
(この女……やっぱりエリザベスと似ているな。と言うか、そっくり同じだ)
二年前の1月に有里はエリザベスと戦った。姉妹であると言うだけあって、マーガレットの戦いぶりは既視感を覚えさせるものだった。多彩なペルソナによる、全方位に対応した幅の広さ。一つ一つの攻撃の威力。そして──
「これはどう?」
効果の薄い攻撃を延々と続ける、戦術性のなさだ。仏教の四天王で殴ってきた次は、アボリジニの悪魔と道教の猫を交互に召喚し、状態異常と四属性の魔法を放ってくる。いずれもオルフェウスには効果が乏しいにも関わらず、何度も繰り返し撃ってくる。なぜか?
(こいつは解析の力を持ってないわけじゃないはず。遊んでいるつもりは……あるんだろうが、限度を超えている)
ほぼ全ての攻撃に耐性のあるオルフェウスを倒すには、万能属性で攻撃するのが最も効率的だ。もしくは昨年に足立がしたように、万能魔法を見せ技にして急所を狙う。足立にできることをマーガレットはやらない。まるで簡単に終わっては面白くないからと、もったいぶっているようだ。だがそうではないことは、エリザベスと戦った経験のある有里には分かる。
(あの時は確か……よし、決まった)
当時を思い返しながら、有里は作戦を組み立てた。そして即座に実行に移す。
──
愛用の拳銃から反撃を始めた。美貌を誇る魔女の金の瞳の間を狙って、容赦なく撃ち放つ。対するマーガレットはペルソナ全書を顔の前で構え、マグナム弾を受け止めた。弾丸は表紙に少しめり込んだだけで、貫通はしない。
「やれ」
有里は続けてペルソナを突撃させた。人間が持つ中では最強のペルソナは竪琴を振りかざし、叩きつける。更に振り上げ、横薙ぎに払う。楽器にあるまじき使い方を三度も続けてやった後で、吟遊詩人は左手の側に振られた得物の中ほどに、からくり仕掛けの右手を当てて思いきり引いた。打撃を放った体勢から、そのまま間を置かずに弦を奏でる。荒々しい旋律と共に、業火が生み出される。マーガレットは炎を浴びて、空中で姿勢を僅かに崩す。
「ふふ……さすがね。さあ、貴方の力をもっと見せてみて!」
しかしすぐに立ち直る。並のペルソナ使いやシャドウではとても耐えられない、有里の連続攻撃を軽く凌いで見せた。嫣然と微笑む表情には余裕が満ち溢れている。
「そうするよ」
対する有里も動揺一つしない。全ては想定の範囲内だ。
二人の戦いを客観的に見れば、女の方が若干優勢と言えた。攻撃の威力は女が上で、巧みさは男が上。そして耐久力は女が遥かに上だ。男は時々間合いを大きく外しながら吟遊詩人から救世主にペルソナを変更し、負った傷を癒やさねばならなかったが、女の方はそれがない。回復魔法くらい当然使えるはずであろうに。
そんな攻防を数十手ほども重ねたところで──
(そろそろいいか)
ギリシャ神話に登場する運命を司る三姉妹の長女が呼び出されたところで、有里は勝負に出た。両腕を交差させて腰を屈める。心の中にいくつもあるペルソナの、ある二つを各々の手に乗せる様をイメージする。複数のペルソナを操るワイルドの秘技だ。これはアイギスもできるが、悠はできない。
ここで呼ぶのは神の下僕と魔界の王。相反する使命を持つとされる二つのペルソナを同時に召喚し、世界の終わりを『演じ』させる。オーケストラの指揮者さながらに、上体を起こして両手を広げる、大きな身振りが開演の合図だ。
──
青い床が割れて、溢れ出た光が宇宙を覆った。世界の終わりを意味する、地の底から湧き上がる滅びの光だ。特別課外活動部の時代においては、愚者のアルカナを持つ怪物にとどめを刺した、最大の秘技にして究極の切り札である。ただしエリザベスと戦った時は失敗した。最初の一手でいきなり仕掛けて、倒し切れずに反撃を食らった。相手の耐久力を見誤ったのが、有里の敗因だった。だが今は誤っていない。
「あっ……」
下から襲い来る光を浴びたマーガレットは宙に浮かんだ状態のままで、脱力したように声を漏らした。ペルソナ全書は手から離れ、カードが噴水に巻き上げられる。そして魔女は膝から床に落ちた。間を置かずに、百科事典めいた本とカードもバラバラと落ちる。勝負あったと誰もが思うだろう。だが有里は油断しない。広げた両腕を戻し、うずくまるマーガレットを見据える。
「……」
「……」
時間の存在しない虚無の異空間にあって、呼吸を二度か三度するほどの間が置かれた。油断は依然としてない。百戦錬磨の男は残心を切らさない。
「ふう……お見事」
やがてマーガレットは膝を起こした。落ちた全書を自分の手で拾って、床に向けて掌をかざす。すると落ちたタロットカードたちは勝手に集まってきて、分厚い本の中に自ら収まっていった。
「貴方の勝ちよ」
「そうか」
女は男の勝利を宣言し、男は受け入れた。この瞬間に決着がついた。マーガレットの所作には疲労困憊という様子はまるでないが、はっきりと言挙げした以上、勝負は決まりである。勝ったのは有里だ。
「ん?」
決着がついた途端、宇宙を模した空間の上の方から、一枚の羽根がひらひらと舞いながら落ちてきた。
「それは貴方にあげるわ」
死の欠片とも呼ばれ、機械に精神を与えることも可能な、物質と情報の中間的存在である黄昏の羽根。それと似たものである。戦いが始まった時にマーガレットが飛ばした金色の羽根は、戦いが終わると有里の目の前に落ちてきた。
「貰っておこう」
「見事な戦いぶりだったわ。最強のペルソナ使いの名に恥じないわね」
「普通に戦っていれば貴女が勝っていたと思うが」
有里は勝利の証として、月神の突羽根と呼ばれるものは受け取った。だが真の意味で自分が勝ったとは思っていない。
二年前のエリザベスもそうだったが、マーガレットの戦い方は融通が全くきかないものだった。耐性が非常に優れているオルフェウスを主力とする有里を倒すには、万能魔法で攻めるのが最善だ。それは誰にでも思いつく、極めて単純な作戦である。しかしマーガレットはそうしなかった。と言うより、『できなかった』。神によって予定された調和の中にあると言う、モナドと呼ばれる存在の最小単位のように。
何から始めてどう展開するか、どう戦うか。その全てがコンピューターのプログラムのように、あらかじめ決められているのだ。有象無象のシャドウは概して知性に乏しく力任せばかりだが、ベルベットルームの姉妹はそれ以上に応用がきかない。マーガレットの行動パターンを、有里は初見でほぼ読んだのだ。
それならなぜエリザベスには敗れたかと言うと、判断ミスがあったからだ。究極の切り札一つで倒せると思ったことが、二年前の失敗だった。ある程度、最低でも半分くらいは体力を削った状態で、切り札を出さなければならなかったのである。
「鳴上君のお陰もあるしな」
その点、有里は今日悠と会ったことが役に立った。審判のコミュニティの影響によって、オルフェウスに解析の能力が付与されたのだ。それは風花や尚紀、りせたち本職の情報系ペルソナ使いには及ばないものだが、敵の余力くらいは測れる。それで切り札を仕掛ける最善のタイミングが分かったのだ。
「ふふ……それこそまさに絆の力というものよ。それにあの部屋の住人には、自由な戦いはそもそも不可能……貴方の勝利に違いはないわ」
「なら、そういうことにしておこうか」
完全な意味においては、有里が勝ったとは言いづらい。だがそもそも戦いとは不公平に塗れるものだ。殺し合いであればそれが当然だし、試合でも卑怯が割り込む余地は必ずある。戦いに生き甲斐を見出さないリアリストとして、有里は『勝利』を受け入れた。
「でももしかしたら……あの子は自由に戦えるようになっているかもしれないわ」
そしておまけのように、不吉な忠告も貰った。
パンドラの間からジュネスのフードコートに戻った有里は、空を見上げた。デパートに来た時は晴れていたはずだが、今は雲が天を覆い始めていた。薄い雲に向けて、戦いを終えた男はため息を吐いた。
(ふう……さすがに疲れたな)
究極の切り札は、当代最強のペルソナ使いである有里でも限界近くまで消耗してしまう。足立と戦って以来の久々の張り詰めた緊張感もあって、有里はかなりの疲労を覚えていた。
(駅を調べるのは明日にするか……。今日は家族に癒やしてもらうとしよう)
足立たちが力を得たのはなぜなのか、悠によれば駅に何かあるとのことだったが、調査は先延ばしにすることにした。宿はあらかじめ取ってあるので、今日はゆっくり休むつもりで愛する家族のもとへと向かった。
しかし──
「……お帰りなさい」
屋上のフードコートから駐車場へ行き、自家用車のワゴンに乗り込むと、助手席に座るアイギスに迎えられた。後部座席に置かれた二つのチャイルドシートには、綾時と隆也が乗せられている。コロマルはその間にいる。妻子は言うまでもないが、犬も有里家の一員である。
「ワンワン!」
「!」
その家族の一人に吠えられた。瞬間、家長は顔色を変えた。青く。
「はい? 何ですって……?」
そして妻も顔色を変えた。こちらは赤だ。
特別課外活動部の時代において、有里はコミュニティと呼ばれる絆を集めていた。自分を除いて十人いた仲間たち全員との間に絆があり、コロマルもその一つを担っていた。その成果として、有里はコロマルの鳴き声の意味を理解できるようになったのだ。普通の犬と飼い主ができる以上の、言葉を用いた会話と同等のコミュニケーションが取れるのだ。そしてアイギスもそれができる。今のコロマルの鳴き声の意味は──
「他の女の匂いがする……ですって?」
有里は先ほどマーガレットに言った通り、アイギスに勝てる自信はない。それどころか家族の中で最も弱いと自認している。それはまさにその通りなのだ。妻子ばかりかペットにまで負けてしまった。
「湊さん……貴方先ほど、私たちを屋上から追い出しましたね? おかしいとは思っていましたが……」
二年前の今頃、有里はアイギスにきつく締めあげられた。それ以来、欲望の塊と評されたこともある酷い男は、今後は決して浮気をしてはならないと固く心に決めた。そして実際していない。しようと思ったこともない。
その証拠に、有里とマーガレットは殺し合わなかった。異種族間の恋愛は悲劇で終わり、闘争は絶滅戦争にまで発展するのが通例である。しかし魔女との関係は悲劇や戦争にはならず、ただ力を比べ合う試合で終わった。つまりマーガレットとの『契約』は決して浮気ではないのだ。二人の間に愛や憎悪は最後まで生まれなかった。
「ち、違う! 誤解だ!」
だからアイギスの怒りは誤解であるのだが、口で何を言ってもどうしようもないのが、男と女というものである。犬も食わないとよく言われる揉め事が、犬の告げ口で始まった。
「詳しく説明してもらいましょうか」
「違うんだー!」
天気予報によれば、今日の稲羽市は晴れのはずだった。実際、悠が家を出て商店街に向かい、河川敷や学校にいた頃は晴れていた。しかし予報は絶対ではない。雲一つない快晴の空が、突然の雨雲に覆われたことは昨年にもあった。具体的に言うと7月15日、悠がマヨナカテレビに出た日である。その『外れ』の為に、同月17日に悠は生田目に落とされたと言ってもよい。
そして今日の予報も外れそうな気配が、午後から漂い始めた。いつの間にか青から鈍色に変わった天の下を、悠は一人で駆けていた。フードコートで足立の手紙を受け取り、有里と別れた悠は商店街に向かっているのだ。特捜隊が普段テレビの世界に出入りする時は、ジュネスの家電売り場からスタジオに向かうのがいつものパターンだ。しかし今日はそうしなかった。一旦家に帰るでもなく、かつての事件現場に直行した。
(現実とテレビの世界は場所で繋がっている。だったらあそこから、7月に落ちたあの場所に行けるはずだ)
悠が生田目に落とされた現場は、自宅近くでやられた仲間たちの例には倣わず、商店街の南側である。周辺にある施設はバス停、ガソリンスタンド、そして本屋。有里と話しているうちに、悠はそれを思い出した。
(あの時、誰かがいたはずだ。夢で初めて行った時も……誰かがいた!)
そうして現場に辿り着いた。バス停を脇目に駆け通して、ガソリンスタンドの敷地内に足を踏み入れた。店の建屋の中は窓越しに見えるので、目的のものを外から探した。
(テレビは……ある!)
ちょうど良く異世界への窓が現場にあった。情報担当がいれば、いつものスタジオから行くことも可能だろうが、そうしたくない今は極めて好都合だ。事の始まりかもしれない真の『現場』へ直行できる。誰にも気付かれず一人で行ける。悠は早速建屋に入ろうとしたが──
「らっしゃーせー!」
威勢のいい声で引き留められた。いや、迎えられたと言うべきか。ここは店である。時刻は昼間で営業時間中なので、店員がいるのが普通だ。いない時もあるが、今はいた。
「ああ、ごめんごめん。お客さんかと思った」
作業着を着て、帽子を目深にかぶった店員が近づいてきた。目は見せてこないが、声は気さくな限りだ。
「済みません、ちょっと入らせてもらっていいですか?」
「ん? いいけど……先輩のお使いか何かかい?」
「ええ、まあ……」
許可を貰って、悠は建屋に入った。外から見えた、一台の大型テレビを改めて確認する。電源は入っていない。仄暗い鏡には自分の顔が映っている。この一ヶ月間ですっかり無気力になってしまい、堂島にも元気がないと思われた顔だ。だが今はある目的を持つ者として、無気力症が陰に隠れている。
(隙を見て飛び込もう)
店員は建屋にまではついて来ないが、出入口に立っている。テレビに飛び込むところを、さすがに一般人に見られてはなるまいと、まずは機会を伺った。店にはエンジンオイルや洗車用品などが置かれている。それらを見て回る振りをしながら、注意はテレビから逸らさない。すると──
「そんなにテレビが気になるの?」
再び声をかけられた。振り返ると、店員はまだ出入口にいた。中と外を切り離すように立ち塞がっている。目は依然として見せてこないが、視線は明らかに悠に向けられている。体の外側だけでなく、心の中までも覗こうとするような、そんな視線だ。目が合っていないにも関わらず、悠は『なぜか』それが分かった。
「ゆっくりしてていいの? 先輩、待ってるんじゃない? 早く用を済ませて帰った方がいいよ」
口調は気さくなものだ。しかし言葉の内容には不審な点がある。それは先ほども言われていた単語だが、今になって引っ掛かりを覚えた。帽子に隠されていて見えないが確かに存在する強い視線が、悠の注意を喚起したのかもしれない。
「先輩……?」
悠にとって先輩と言えば一人しかいない。もちろん年上の知り合いは何人もいるが、誰か一人挙げるのであれば、あの先輩しかいないのだ。だが──
「そうだよ。お使いでしょ?」
「違う。俺は有里さんの使いでここに来たんじゃない」
そう、違うのだ。悠は有里に言われて来たのではない。この場所に気付いたのはかの先輩が契機ではあったが、来たのは飽くまで自らの意思だ。行って何かをしろとも、するなとも言われていない。このガソリンスタンドについて、悠は誰にも一言も伝えていない。有里も、堂島も、陽介も、人間は誰一人としてこの場所に気付いていない。足立や生田目さえも。
「へえ……じゃあ何しに来たの?」
「お前が……」
この場所に、そしてこの店員に気付いている人間は、この世でたった一人だ。使命を与えられた者の一人にして、信心を束ねる者である鳴上悠だけだ。
「お前がやったのか!」
「ふふ……まあ確かに生田目が君を落としたのは、ちょうどこの店の前だったが。意外なところから気付いたものだな」
店員は帽子のつばを持ち上げた。初めて見せたその目は、やはり鋭いものだった。見る者全てを凍り付かせずにはおかないから、だから人から隠さないわけにはいかないような、そんな目だった。もし人間がこんな目をしていれば、見る人は恐れると共に傲慢だと非難するだろう。だがこの店員は人間ではないのだ。その証拠に、人間は知り得ない秘密を口にした。
「サギリも倒していない君が来るとは予想外だったよ。あの運命の外にいる男が来るものだと思っていた」
「サギリ……やはりお前が!」
決まりである。事件の黒幕、もしくは最初のきっかけは、自分がそうであることを認めた。全てを見抜き、全てを掌に載せていたのは自分であると認めたのだ。しかも至極あっさりと。示唆する言葉を自ら与え、たった一言の追及で認めた。
そして悠は黒幕を突き止めただけで、やめておけば良かった──
「お前は何者だ!」
悠が初めてこれを問われたのは、霧の世界を夢で初めて訪れた、その翌朝だ。聞いてきた相手は諸岡である。期限は目前まで来ているが、未だ答えていない。
「それは私の名前を聞いているのか?」
だが黒幕は答えず、反問してきた。その瞬間、悠の胸元で熱が生まれた。
「うっ……!?」
文字通りの意味で熱かった。まるで服の中で火が灯されたようで、火傷の実感に襲われた。悠は咄嗟に熱の出所に手をやった。ジャケットの胸ポケットである。そこにはイゴールに届けられた、忘れ物の眼鏡が入っている。だが熱源はそれではない。
「な……」
櫛だ。だが火は灯っていない。懐から取り出した櫛の先に、暗闇を照らす小さな灯りはない。それでいながら、なぜか熱が生じた。
「おやおや……あの者に貰ったものか」
「お前……マリーも知っているんだな!」
「もちろん知っているさ。それをあの者に渡したのは私だからね。ふふ……私からあの者へ、あの者から君へ……まさに別れの証だな。呪いの言葉は君にまで受け継がれたのか」
「別れ……?」
櫛は不吉な贈り物である。別れを招くものと言われており、その由来は日本神話にある。その話を、悠は有里から聞いたことがあった。今になってそれを思い出した。
「その櫛はくれてやろう。命があるうちに帰れ」
「……!」
瞬間、黒幕の姿は消えた。文字通り消えたのである。虚ろの森のしめ縄の前で、唐突に姿を消したマリーのように。初めからそこになどいなかったように。ただ幻覚を見て、幻聴を聞いていたに過ぎないように、姿は消えて声も聞こえなくなった。代わって建屋の出入口の向こうの景色が見えて、雨音が聞こえてきた。
だがもちろん黒幕はただの幻ではない。幻であるなら、稲羽に事件は起きなかったはずなのだから。ひいてはマリーが死ぬこともなかった。望んで得たわけでもない力に目覚め、恋した少女がいなくなったことそれ自体が、悠に確信を与えていた。全ては現実なのだと。ガソリンスタンドの店員が事件の黒幕であるなどとは、悪い冗談のようで脈絡がまるで見えないが、それでも全ては真実なのだ。
「……逃がさん!」
その真実に後押しされて、悠は建屋の奥を振り返った。鏡に映った自分の顔を確認する間も惜しんで、異世界へと飛び込んだ。
その様を見ていた者はいなかった。朝には晴れていた稲羽の地は、今はすっかり雨に覆われている。天から注がれる雨に遮られて、悠の蛮勇は誰にも目撃されなかった。
天気予報は外れたのだ。