ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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青春を満喫(2011/4/19、4/25)

 失踪した雪子を救助する為、テレビの世界での捜索を開始して三日目。4月19日の朝が来た。初日の日曜日は稲羽署に連行され、その後も様々なことがあった。そして昨日の月曜日もテレビの世界に向かったが、目的の達成には至らなかった。

 

 悠は群がるシャドウに、さほど苦戦したつもりはなかった。コニシ酒店の前で初めて戦った時や陽介の影と戦った時のように、ほぼ全ての敵に対して優位に戦いを進められた。実際、大きな怪我などしなかったし、少々負傷しても問題はなかった。と言うのも、陽介のジライヤや悠がイザナギの他に得たペルソナは、傷を癒やす力を持っていたから。

 

 まさにロールプレイング系のゲームでは欠かせない回復魔法のようなもので、傷跡さえ残さずに治してしまうのだ。全くもって、便利な限りである。しかし問題があった。回復魔法は外傷を癒すだけで、疲労を取り除いてはくれないのだ。走り回るだけでも体力を使うし、戦えばより消耗する。しかも雪子がいると思しき遊園地の城めいたダンジョンは、迷路のように構造が複雑だった。クマが案内してくれるものの、城自体がやたらと広いので、攻略には思っていた以上に時間がかかった。その為に昨日は捜索を途中で切り上げて、夜も早めに床に就いた。

 

「俺、体力ないのかな……」

 

 制服に着替えてから、疑問形で呟いてみた。しかし本当は疑問などではない。自分で分かっている。手先の器用さや運動神経はともかく、体力に自信はない。なぜなら悠はこれまでの人生で、本格的な運動をほとんどしたことがないのだ。転校を繰り返す身では、部活を熱心にやっても仕方がないという言い訳のもとに。

 

 ペルソナは強い。そして不思議なことだが、生身の体もペルソナの影響を受けるのだ。例えばイザナギを使っていると、悠自身の腕力も向上する。一昨日警察署から解放された後、武器になる物を商店街で買ったのだが、テレビの中でそれを持った時、少なからず驚いた。手に響く重量感が現実と全く違っていたのだ。陽介の場合は、テレビの中では身のこなしが非常に素早く、本人も驚いていたくらいだった。

 

 しかしそれだけでは、やはり不十分な気がしていた。八十稲羽に来る前のように、帰宅部ではいけないと考え始めた頃、ポケットに入れた携帯電話が鳴り始めた。待受画面を見てみると非通知だった。

 

「もしもし?」

 

 非通知でかけてくる知り合いに心当たりはない。だが取り敢えず出てみると、意外な相手からだった。

 

『お呼び止めして済みません。過日、ベルベットルームにてお会いしました、マーガレットでございます』

 

「ああ、これはどうも」

 

 青いリムジンに乗車していた魔女だ。声は高く澄んでいて、弦楽器を奏でたように美しい。ただその口調は、どこか事務的なものだった。マーガレットは元よりどこかの大企業の社長秘書か何かを連想させる佇まいだが、まさに仕事で電話をしてきているという風情である。

 

『一つ大切な忠告を忘れておりましたので、お耳に入れようと思いまして』

 

「何ですか?」

 

『はい、コミュニティがもたらす絆もまた、ペルソナの力を高める大きな源。その有無によって、戦力に多大な差が生じるでしょう』

 

 コミュニティと呼ばれるものについては、夢でもイゴールから聞いた。しかしその時は、その他の様々な話の流れの中だったので、特別な注意を払ってはいなかった。

 

「つまり……人と仲良くなると、強くなる?」

 

『その通りです。しかしコミュニティは単に、ペルソナを強くする為だけのものではありません。ひいてはそれは、お客様を真実の光で照らす輝かしい道標ともなってゆくでしょう』

 

「道標……ですか」

 

 何とも大袈裟な物言いである。なるほど人と仲良くするのは良いことだし、友人は多いに越したことはない。しかし『真実』云々とは何であるのか。友人を作ることとどう関係するのか、悠に実感は湧かなかったし、頭でも理解できなかった。ただマーガレットの声に含まれる色には、それまでの事務的なものだけではなくなった。そんな気がした。

 

『ご友人を救いに向かわれることは、崇高な行い。しかし時を争い、ただ戦いだけに邁進しても、それで人が真に満たされることはないでしょう。どうか日々を無為に急がず、あなたの信じる歩調を大切になさいますよう。お忘れなきように……それでは、失礼いたします』

 

 それで通話は切れた。携帯電話に表示された通話時間は、まさに事務連絡らしく一分もない短いものだった。しかしその内容には思うところがあった。全ては理解できなかったが。

 

(この人、俺の考えてることが分かるのか?)

 

 マーガレットの連絡は、自分の後押しをしているように思えたのだ。部活に入ろうかと考えた途端、人との繋がりはペルソナの強化にも有益だと連絡してきた。もちろんそうした打算目的で人と付き合うのは、相手に悪いと思う。そもそもの話、悠は人付き合いに積極的ではない。しかし誘われれば断らないし、勧められればその気にもなる。

 

(今日はテレビに行かないで、入れる部活がないか探してみるか)

 

 正直に言えば面倒だが、ここは一つ、思いきって何かやろうという気になった。せっかく美女が背中を押してくれたのだから。

 

 

 

 

 この日の放課後の時間、悠は職員室を訪れた。入れる部活があるかどうか、聞いてみる為に。

 

「ああ? 部活に入りたいだと?」

 

 担任の諸岡に尋ねたところ、いきなり怒鳴られた。

 

「貴様の魂胆は分かっている! どうせ出会い目的だろ! 違うか!」

 

 正解である。イゴールとマーガレットは言うまでもないが、諸岡もなかなか鋭い。悠の周囲にいる大人は、人の心を読める者たちが揃っている。もっとも出会い『だけ』を求めているつもりはない。また、女子との出会いを特に求めているのでもない。多分。きっと。恐らくは。

 

「いいか、部活と言うのはな、そもそも教育の一環であるのだ! 座学では得られぬ協調性や連帯感を学ぶことが、その第一義なのだ! 貴様ら未熟者どもに、暇を与えてもろくなことにならんからな! 小人閑居して不善を為すという言葉があるようにな!」

 

 先週の転校初日もそうだったが、諸岡の話は長い。先週は千枝が助け舟を出してくれたが、今はたまたま職員室に他の教師の姿が見えない。遮る者のいない諸岡の説教は、立て板が濁流に飲まれるがごとき言葉の洪水だ。

 

「つまりだ、存分にやれということだ! 二度とはない青春を満喫するが良いわ!」

 

 時間にして十分ほどもしてから、学校教育における部活動の意義に関する演説がようやく終わった。そしてわざわざ職員室に来た目的を聞くことができた。諸岡によると二年生の悠が今から入れるクラブは、運動部ならサッカー部とバスケ部のいずれか。文化部なら演劇部と吹奏楽部のいずれかとのことだった。ついでに掛け持ちに関しては、運動部同士、文化部同士では駄目だが、運動部と文化部を掛け持ちするのは構わないと告げられた。

 

「分かりました……」

 

 その他、各々の部の活動日などの説明も諸岡はしたが、その頃の悠はもう頭に入らなかった。授業はもちろんだが、授業以外でも諸岡の相手をするのは大変な労力を必要とする。

 

「よろしい。ではさっさと行け!」

 

 テレビの世界に身を置くと、常より激しい疲労を覚える。シャドウ相手に立ち回るのは無論だが、ペルソナを召喚すれば、それだけでも神経を使う。そしてまた、テレビの世界それ自体も人から体力を奪う。職員室を出た頃には、悠は昨日や一昨日と似た疲労を覚えた。

 

 

 校舎の一階の廊下を歩いて非常口を出れば、グラウンドと体育館がある。サッカー部かバスケ部か。どちらに行って、どちらに入部するか、悠はしばらく考えた。どちらの競技もルールはそれなりに分かる。しかし経験は以前の学校の授業でやった程度だ。どちらも初心者として入ることになるので、どちらでも構わない。ただ敢えて両者の違いを言うならば──

 

(バスケは体育館でやるんだから、雨が降ってもできるわけだよな)

 

 雨が続けば霧が出る。それが雪子を救助するリミットだ。しかしだからと言って、ギリギリまで延ばして良いものではない。なるべく早いうちに助けるべきだし、そうしようと思っている。そして天気予報によると、今週は雨の予定はない。すると雨が続いた頃には雪子は救助済みで、テレビに行く必要はなくなっていると予想できた。

 

 今後、特捜隊の戦いはどれだけ続くのか分からないが、雪子の件以降にテレビで戦う機会があるとしても、救助のリミットは同じようになるだろう。ならば雨の日にもできる部活の方が良いかもしれない。

 

(まずは見学してみるか)

 

 

「……と言うわけで、今日からお前らの仲間だ! 鳴上悠、知ってるよな?」

 

 まずは見学のつもりだったのだが、いつの間にか入部が決まってしまっていた。バスケ部の顧問である体育教師の近藤のノリがやたらと良くて、そのまま流されてしまったのだ。

 

「どうも、鳴上です」

 

「まー、適当でいいよ。適当で」

 

 取り敢えず皆に挨拶をしたものの、少ない部員からの反応は緩かった。

 

「活動日は火、木、土だからな。雨の日はなしだ!」

 

 続いて近藤が活動日の説明をしてくれた。しかし悠は面食らった。

 

「え? どうして雨だと駄目なんです?」

 

「雨だと他の部に体育館が占領されちまうんだ! うちは弱小だからな!」

 

「マジですか……」

 

 悠は少なからず落胆した。雨でもできる部活をと思ってバスケ部を選んだのに、肝心な点を外してしまったわけだ。実は職員室でも諸岡から聞いていたのだが、悠の頭には入っていなかった。つまり本人のミスである。

 

「そういうわけで、後よろしくな。先生はサッカー部、行ってくるから。じゃ、適当に解散!」

 

 そう言って近藤は去っていった。近藤は授業でも体育と英語を兼任しているが、部活も二つの部の顧問を兼任していた。八十神高校の人手事情の一端が垣間見える。バスケ部の緩い雰囲気は、顧問の適当さもそれに一役買っているようだった。

 

 そして初日ということで悠が見学をする中、練習はあっという間に切り上がった。

 

 

(失敗だったかな……。いや、でもな……)

 

 部員たちの多くが帰って、がらんとした体育館に虚しく立ちすくむバスケットゴールの下で、悠は悩んだ。挨拶をした時から感じていたが、バスケ部は熱心にやっている雰囲気がない。大半の部員たちは、楽しくやれればいいくらいの気持ちでいるのが容易に見て取れた。体力が必要かと思って入部したのだが、これでは目的を達成できそうにない。

 

 しかしそうは言っても、例えばウォーミングアップとして体育館を五十周走れとか言われたら、それはそれで嫌だった。進んで体を痛めつける苦行をやり遂げる根気は、自分の中をどれだけ探しても見つかりそうにない。選択を誤ったのか誤らなかったのか、悠は判断に困ってしまった。世の中そうそう思い通りにはいかないものだ。

 

「お疲れー」

 

 密かに頭を抱えていると、一人残っていた部員が駆け寄ってきた。

 

「俺、一条康。同じ二年だよ。よろしくな」

 

「ああ、よろしく」

 

 名乗った少年は、バスケットボールの選手にしては背が低い方で、体格も細身だった。ノースリーブのユニフォームを着ていると、二の腕や首の細さが特に際立つ。そして汗が浮かんでいない、色白の顔がその上にあるのだ。正直言って、スポーツマンにはなかなか見えない。

 

 その代わりと言っては何だが、つややかな黒髪に覆われ、切れ長の目が涼しげに存在を主張するその顔は、美しいと評するべきものだった。ただし同じ美男子でも一条は陽介とは若干方向性が異なっている。一言で言うと、陽介は華やかな『イケメン』で一条は洗練された『眉目秀麗』だ。しかし──

 

「仲間できてさ、嬉しいよ。俺」

 

 そう言ってにやっと笑うと、一条の顔はかなり大きく崩れた。美男子は影を潜め、代わりに悪戯好きな小僧が表に出てきた。陽介は顔に言動が追いついていないところがあるが、そういう点での方向性は同じのようだった。

 

「一条、そっちまだ終わんねえの? ……ん? 新入部員か?」

 

 一条の変化に軽い驚きを覚えていると、体育館の出入口から高校指定のジャージを来た少年がやって来た。それもまた顔の造作は整ったものだが、一条とは対照的に『精悍』という言葉が相応しい。日焼けした肌、鼻梁に貼られた絆創膏、そして広い肩幅がその印象を強めている。

 

「何とそうなんだよ! お前も知ってるだろ、転校生の……」

 

「鳴上だ」

 

「長瀬大輔だ、よろしく。サッカー部二年。一条とは……腐れ縁だな」

 

「腐りすぎ。もういいっつのな」

 

 簡単な自己紹介を終えると、一条と長瀬は互いに笑った。雨が続いた先週とはうって変わって、春らしい陽気の続く4月半ばの空気は、部活の気楽さをそのまま反映しているようだった。笑う二人に釣られて悠も笑みを見せた。そうしているうちに、先ほどまで悩んでいた理想と現実のギャップが心から遠ざかるのを感じた。

 

 ちょうどその時、時間が停止した。放課後の遅い時刻、傾いた日差しが体育館の床を赤く色づける中、その日差しをも停止させる声が悠の脳裏に響いた。

 

『我は汝、汝は我……』

 

(あ……来たか)

 

『我』の宣告が下され、新たなコミュニティが発生したことを告げられた。状況からして、バスケ部の絆であることは疑いない。つまり運動部はバスケを続ける以外の道はなくなってしまったわけである。言い方を変えると、緩い弱小の部でもいいのだと『我』は承認してしまった。寛大にも。

 

 ただし絆の担い手に関して言うならば──

 

(一条だけ……じゃない気がする。長瀬もかな)

 

 長瀬が現れた途端に始まったタイミングからすると、そのように思えた。もっともそれ自体に違和感はない。担い手が複数人のコミュニティは、最初に手に入れた特別捜査隊の絆からしてそうだ。

 

「んじゃ、飯でも食って帰るか!」

 

「愛家に一票」

 

 かくして悠は緩い部活に入ることになった。当初の目的である体力作りは達成できそうにないが。代わりに商店街にある人気の中華料理屋で、満腹になるまで食べていくことになった。

 

 

 実のところは、テレビの中では生身の体力や運動神経は、あるに越したことはないが、必須ではないのだ。ペルソナ能力は現実の運動能力と違って、精神面がものを言う範囲が大きい。気持ちが充実してさえいればペルソナは使えるし、ペルソナが使用者自身に及ぼす影響も大きくなる。だから普段運動していない人間が、己を厳しく律してきた人間に勝ることもある。膂力でも耐久力でもそうだ。理不尽だが、そういうものなのである。

 

 だから現実の学校における部活が厳しかろうが緩かろうが、大した意味はない。意味があるのはコミュニティを得られるかどうかで、最も大切なその点を悠は逃さなかった。つまりバスケ部に入ったことは、決して間違いではないのである。

 

 なお、ペルソナ使いの生身の力の中では、戦力に大きく影響する点が一つだけある。それは格闘、ないしは殺人の技術を身に付けているかどうかだ。シャドウはその多くが人型ではなく、人型でも人間とは急所の位置などが異なる為、対シャドウ戦では意味が乏しい。しかしペルソナ使い同士の戦いにおいては、対人戦の技術と経験の有無は重要な意味を持ち得る。特にペルソナ能力が拮抗している相手と戦う場合、勝敗を左右することさえある。

 

 しかし悠たち特捜隊に、人間のペルソナ使いと戦う機会はなかった。今はまだ。

 

 

 かくして運動部の絆を手に入れた悠は、その効果がペルソナに現れたのも後で確認した。その甲斐もあって、数日後に特捜隊は遂に雪子の救助に成功したのだった。

 

 

 

 

 バスケ部に入った次の週の月曜日、4月25日の放課後。悠は実習棟一階の廊下を歩いていた。救助はされたものの、現在は入院中の雪子の噂などが聞こえてくる。しかし悠はそれに構わず、廊下を真っ直ぐ歩いている。

 

(確か、吹奏楽部と演劇部のどっちかだったな)

 

 文化部に入部するつもりなのである。部活を掛け持ちする生徒は少数派だが、その数少ない一人になろうとしていた。本来は面倒くさがりで、何事もそっとしておきたがる少年が、こうも行動的になるのには理由がある。

 

(コミュは必要だって、マーガレットも言ってたしな)

 

 最初の目標だった雪子の救助は達成済みだが、特捜隊の活動はこれで終わりにはならない。テレビの中の城で本人から少しだけ話を聞けたが、雪子は犯人に繋がる情報などは持っていなかったのだ。よって戦いは今後も続く。ならばコミュニティの力でペルソナを強化する必要性も上がる。

 

 打算的な考えだと思いはするが、悠は動機の純粋さにはこだわらなかった。たとえ当初はコミュニティが欲しくてのことでも、普通に付き合って仲良くなれば、きっかけがどうであれ問題にはなるまい。そんな感じに、楽観的に考えていた。

 

 そうして実習棟の最も奥にある音楽室の扉を開いた。するとフルートやオーボエなどの管楽器の音色が、いくつも重なって聞こえてきた。そして指揮台に立っていた男子生徒が、台から降りて近づいてきた。

 

「おや、入部希望かい?」

 

「いえ……ちょっと見学させてくれますか?」

 

 先週はいきなりバスケ部に入ることになってしまった。それを後悔してはいないが、文化部ではまず見学してみることにした。部屋全体が階段式になっている音楽室を見回すと、グランドピアノが一台置いてあるのが目に入った。

 

(ピアノはあるか)

 

 しかし練習では使われておらず、鍵盤の蓋が閉じられたまま部屋の隅で黒い大きな体を潜めている。ピアノパートがある吹奏楽の曲はこの世にいくつもあるが、今練習している曲の編成にピアノは含んでいないようだった。

 

 特捜隊の仲間たちや堂島と菜々子にも言っていないが、実は悠はピアノが弾ける。幼い頃から両親は家を空けることが多かったので、何か習い事でもと言われて学んだのがピアノだったのだ。しかし引っ越しを繰り返すうちに、いつしかやめてしまっていた。学校は中学までは義務教育だし、高校も義務に近いから引っ越した先で新たな学校に通わなければならない。しかし習い事はそうではない。転居する度に新しいピアノ教室を探してまで続けるほど、悠は義務でないことに熱意を持っていなかった。

 

 ちなみに悠のピアノは、技術的には同年代の中では上手い方だった。手先は器用なので指はよく回るし、音感とリズム感もあった。ついでに暗譜も早かった。しかし発表会などで特別高い評価を受けたことはない。譜面を正確に追うことはできても、それだけだったから。その点が、ピアノを続ける気になれなかった要因の一つである。

 

 この機会にピアノに再挑戦してみるか。それとも違う楽器をやってみるか。考えながら、悠は練習している部員たちを見回した。男女の比率では、女子がやや多い。

 

「……」

 

 悠はどんな異性が好みなのか、自分自身を詳しく分析したことはない。ただ面食いかもしれないと、密かに思っているくらいである。『どんな女がいいか、一晩時間をやるからよく考えて結論を出せ』などと言って、教え導いてくれる者もいなかったから。

 

 理屈の裏付けのない、ごく自然な感性でもって音楽室を見回してみた。すると視線は淀みなく、誰にも引き留められず、あっさりと部屋を一周してしまった。壁にかけられているドイツの高名な音楽家の肖像の、一点を見据える強い視線とは対照的に。何とも軽やかに。

 

 もしここに、上手とは言えない腕前の女子生徒がいたならば。他の部員から体よく雑用係として使われている、一年後輩がいたならば。背が低く、頬が赤く、髪型はおかっぱで、小学生と間違われても仕方のない幼い容貌の、か弱そうな少女がいたならば。悠はその少女に目を留めたかもしれない。明確な言葉にして理解することがなくても、心の深層で望んでいる異性のタイプに、しっくりくる相手として。しかしそんな少女は音楽室にはいなかった。二週間ほど前から、入院してしまっていたから。

 

 悠は先週に諸岡が決めつけたように、出会い目的、特に女子との出会い『だけ』を求めて、文化部に入ろうとしているのではない。多分。しかし何にせよ、吹奏楽部に入らねばならない、もしくは入るべきと感じさせる何かを、音楽室に見出すことはできなかった。

 

「どう? 入部する?」

 

「もうちょっと考えてみます」

 

 悠は吹奏楽部の部長に軽く頭を下げた。『やめておきます』との意味をオブラートに包んでいると受け取れる、社交辞令的な言葉を添えながら。特に迷うことも後ろ髪を引かれる思いもなく、普通の足取りで音楽室から出ていった。

 

 そして同じ階にある会議室の一つへと向かった。その途中で、練習の声が外にまで聞こえてきた。

 

 

「なまむぎなまごめなまたまご!」

 

 演劇部が部室として使っている部屋に入った、ちょうどそのタイミングだった。まな板を包丁でリズミカルに叩くように歯切れの良い、完璧に言いきった早口言葉が飛んできて、悠は面食らった。

 

「部長、相変わらず言えないんですね」

 

 椅子や机が端に寄せられた部屋の中央で、数人の男女が集まっていた。その中心にいる男子生徒が視線を床に落としている。発声の基礎練習をしているようで、部長と思しき男子生徒が女子生徒に窘められているシーンに、悠は出くわしてしまったわけである。舞台の緞帳よろしく頭上から降りてくる、気まずい空気が部室を覆っている。部外者の悠にも容易に察せられる、肩の辺りにのしかかる重さがあった。そこへ──

 

「あ……君、入部希望? 二年の鳴上だろ? 転入生の」

 

「ええ」

 

 演劇部の部長と思しき生徒は、視線を床から上げて聞いてきた。対する悠は肯定の返事をした。ただし入部ではなく、名前を呼ばれたことに対する返事のつもりだった。

 

「そっかそっか、ようこそ演劇部へ! 俺は部長の永井。それから……」

 

 しかし部長は勝手に話を進めてしまった。早口言葉の失敗から始まった、部屋に漂う気まずさを晴らそうとするように。

 

「い、いえ……」

 

 部員の紹介を始めようとした部長を、悠は遮ろうとした。文化部に入ろうとは思っているが、まだ吹奏楽部を選択肢から捨てたつもりはないのだ。何しろ音楽と違って、演劇は経験が全くない。小学校や中学校の学芸会で舞台に立ったこともないのだから。運動部同様、文化部同士の掛け持ちはできないと諸岡に言われている以上、選択は慎重にしたかった。

 

「私、小沢結実」

 

 しかし悠が部長を遮るより早く、二人まとめて遮る声があった。部屋に入った際に放たれた、粒を揃えた早口言葉と同じ声だった。

 

「同じ二年だから、よろしくね」

 

「よろしく」

 

 少女の名乗りに釣られて、悠は思わず答えてしまった。入部はもはや既成事実となったように、返事をしてしまった。相手と視線を真っ直ぐ合わせながら。

 

 結実は背の高い少女だった。しかも背筋は天井から重しを吊るした糸のように真っ直ぐ伸びていて、元より高い身長を更に高く見せている。靴は普通の学校指定の上履きなのだが、ヒールを履いているのかと錯覚するほどだ。そして悠を見据える視線には鋭さがあった。舞台に出演する役者は、テレビや映画のそれと比べて演技が激しいが、普段からその傾向があるような少女だった。秀でた額と印象的な吊り上った目が、それをより際立たせている。

 

(何と言うか……)

 

 女の容貌を形容する言葉は色々ある。例えば雪子ならば『美人』だろうし、千枝ならば『可愛い』だろう。対して結実には『凛々しい』という表現がしっくりくる。しかし男ならばともかく、女をそう形容するのは、果たして褒め言葉になっているのだろうか。人の価値観やシチュエーションによって、判断の分かれるところだ。

 

「小沢、抜け駆け?」

 

 生徒たちの輪の反対側に立つ女子生徒から、冷やかしが飛んできた。結実とは対照的に、垂れ目の女子だった。

 

「は? 興味ないし」

 

 しかし冷やかしは一言でぶった切られた。ついでに悠も少しばかり切られた。

 

「……」

 

『興味ない』。これはなかなかに効く言葉である。たとえて言うなら、針で刺されたようなものだ。テレビの中なら、シャドウの打撃を受けても回復魔法で痣も消せる。しかしここは現実なので、そんな便利なものはない。針の傷でも、割と痛い。

 

「それより練習、続けよう。鳴上君には、発声方法から教えるから!」

 

 その痛みが抜けないうちに、結実が近づいてきた。そして指導が始まった。

 

 

「そう、お腹を意識して、空気を押し出すように。はい、あー……」

 

「あー」

 

 普段の悠は無口で声も大きくはない。早口言葉など試したこともない。だから言おうとしたことがあっても、言う前に場に流されてしまうことはままある。バスケ部も演劇部も、そういう悪癖のせいで入部が決まったようなものだが、結実の指導で矯正されそうだった。

 

「うん、いいね! 凄くいい声、出るようになったよ!」

 

 他の部員はとうに全員帰り、下校時刻を過ぎた頃になって、ようやくだが。

 

 先週バスケ部に入部して以降、悠は練習にも出たが、そこでよく分かったことがある。八十神高校のバスケ部は弱小クラブの典型で、相当にいい加減だ。一条はそれに不満を持ちながらも、無理にでも皆を巻き込んで練習をさせたりはしていない。対して演劇部はバスケ部ほど酷くはないが、特に厳しくもない。むしろアットホームな雰囲気だ。しかし結実は違う。周囲を積極的に巻き込んで、雰囲気を自ら作り出していく。

 

 悠はこういうタイプの女子は、正直に言えば苦手だ。相手をするのが疲れる。何しろ部室に来た当初から、結実には押されっ放しである。声は出るようになっても、抵抗ができるほどではない。

 

「じゃあ、続きは次回。ちゃんと来なさいよね」

 

「はい、先生」

 

 だから押されるがままに、こんな言葉が口をついた。クマには先生と呼ばれているが、演劇部ではただの生徒だ。断る選択肢は示されもしない。しかし──

 

「うん! 素直でよろしい!」

 

「……!」

 

 思わず息を飲んだ。

 

 出来の悪い生徒を見据える怜悧な結実の目が、啓蟄の光を浴びたように細められたと思ったら、間を置かずに顔全体の印象が変わったのだ。怖いくらいだった指導の時とはうって変わって、笑顔は愛らしい小動物を連想させるものだった。これは表情ばかりか涙腺まで自由に動かせる、女優の技術によるものか。それとも青春を謳歌する一人の高校生としてのものなのか。演技を学んだのは今日が初めての悠には、判別がつかなかった。と言うより、考える間もなかった。

 

『我は汝、汝は我……』

 

 絆を教える謎の存在の声が、あらゆる思考を奪ったから。停止した時間の中で感覚だけが働き、結実の笑顔を映した状態のまま、悠は『我』の宣告を聞いた。

 

「ま、これも何かの縁? これから一緒に頑張ろ?」

 

「ああ、頑張らせてもらうよ」

 

 時間の流れが元に戻ると、悠ははっきり答えた。滑舌よく。

 

 

 かくして悠は部活を掛け持ちすることになった。諸岡風に言うと、青春を満喫することになったわけだ。それに伴ってペルソナ能力の強化が約束された。

 

 そしてもう一つ。一条と長瀬、そして結実に多大な影響を与えることも約束された。部活ではなく、彼らの人生に。更に言えば、彼らの存在そのものにまで。ペルソナ使いの中でも特殊なワイルドとして、コミュニティの主として、悠は三人と影響を与え合うことが約束された。本人も意識しない心の深層部分に作用する何かを、悠と三人は互いに受けることになったのだ。そうとは知らないままに。

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