逃げ来るを
日本神話においては天上の世界を
なお黄泉比良坂は黄泉の国の出入口であって、中心や奥地ではない。創造神が妻を振り切る際に使われた大岩が置かれている場所は、言うなれば『三途の川』や『お花畑』に過ぎないのだ。死の世界の最奥を極めるには、より深く、より遠くへ行かねばならない。
ガソリンスタンドにあったテレビに飛び込んだ先は、悠にとって見覚えのある場所だった。以前に来たのは八ヶ月も前だが、忘れてはいない。いや、ほとんど忘れていたのだが、有里に促されて思い出すことができた。
(やっぱりここだったか)
悠はイゴールに届けられたクマの眼鏡を、ジャケットから取り出して顔にかけた。特別捜査隊の証明が濃い霧を貫いて、視界を明瞭にしてくれる。足元は赤と黒からなる幾何学模様で覆われた、シンプルながらも奥ゆかしい装いだ。モチーフにしているものは、恐らく古墳や神社の石畳だ。古来の様式を少しばかり現代風にアレンジしているが、本質は変わっていない。眼鏡を通して見ると、『製作者』の意図がそこに感じられる。
そしてここに来るのが二度目であることを証明してくれるのは、床のデザインだけではない。眼前にある黒い塊こそが何よりの証拠だ。岩である。大地の営みで生じた巨岩が、永劫と呼ぶべき歳月によって洗われたような。もしくは宇宙から飛来した隕石が、大気との摩擦によって磨かれたような。人間を翻弄する自然の力そのものを象徴する岩がそこにあった。7月17日、生田目に落とされた時にも見たはずの、鉄の山かと見紛う大岩である。
いかなる運命の悪戯か、自分のシャドウのような男によって落とされた場所は、事件の黒幕の居場所でもあった。行動は相反していながらも認識はそっくり同じ二人の男は、実は知らないうちに協力していたとでも言おうか。
『何をしに来た』
見上げてみれば、岩の頂上は霧に覆われている。クマの眼鏡をもってしてさえ届かない高さがある。その岩の上から、もしくは向こう側から『声』が届けられた。灯明が上げられ、香が焚かれた古い寺院の祭壇の前で跪いていたら、窓から光が差し込んできたように。
ひとくきの葦も同然の儚い者に、世界そのもののように常なる者が声をかけてきたのだ。聖なる存在の方から、俗なる存在を気にかけてくれる。それは奇跡的な恩寵である。普通は百年かけて神に祈り続けても、こんな機会はない。
『遊びに来たのか?』
ただし言葉の内容は優しいものではなかった。
「……」
そして悠は答えない。昨年の春や初夏の頃であれば、テレビの世界は確かに遊び場に過ぎなかった。しかし今はそのつもりはない。遊び気分は諸岡が死んだ日に捨てた。無言のまま、首を横に振ることもないままに、否定の意思を返す。
『では正義の為……とでも言うのか?』
「……」
やはり悠は答えない。依然として無言のままに、かつての自分自身を思い返す。今も昔も、悠は正義の為に戦ってきたつもりはない。嘘や勢いで口にしたことはないし、心の中で思ったこともない。遊びをやめた後の戦う動機は復讐だった。
『誰の復讐をするつもりなのだ?』
「……」
飽くまで悠は答えなかった。『声』との会話は、一見すると向こうからの一方的なものだったが、不思議と噛み合っていた。声の主は自己完結を重ねているようでいて、悠の内心を的確に読み取っていた。だがそれもここまでだった。
『……まあ良い。来れるようなら来るがいい』
話は打ち切られ、悠は一人残された。声は聞こえなくなった。目の前にあるのは、黒い巨大な岩だけである。
(どうするか……)
八十稲羽に初めて来た夜に見た夢と、生田目に落とされた時。悠はこれまでに二度、謎の人影と出会った。遊びか正義か復讐かと、戦う理由を三択で問い質してきた今の声は、例の人影のものであることはもはや疑いを入れない。つまり足立が言うところの、事件の黒幕は突き止められた。
残っている問題は、道を塞いで立ちはだかる巨大な岩だ。これをどうにかしなければ、黒幕のもとへは行けない。だがよじ登ることはできそうもない。ならばどうするか?
道を塞ぐ大岩と言えば、日本神話においても語られている。人が千人、もしくは悪鬼が千匹いても動かせないから、千引の大岩と呼ばれる。神としての岩の名は
では自然に逆らって神を殺し、人を生き返らせるにはどうすればいいのか?
(有里さん……貴方との絆、利用させてもらいます)
先ほど有里と話して、審判のコミュニティが真実のものとして認められた。当人同士は特に深い友情を感じたつもりはなかったのだが、『我』を欺くように完了宣告を引き出した。そんな胡散臭い絆であったのだが、『愚者』は愛や友情の経緯など気にしない。打算、小細工、陰謀、何でも結構だ。神話で語られる英雄は多くが策士で、高潔にして正々堂々たる人物はむしろ少数派であるように。勝てば官軍であるとは、人間も人外も変わらない。結果が全てである。
悠はその結果によって、審判のアルカナの最奥に位置する存在の名を知った。キリスト教における世界の罪を背負う贖い主の名だ。ただし人の親から与えられた人としての名ではなく、彼が背負った宿命を表す称号だ。意味は『油を注がれた者』である。
「メサイア!」
声を出して新たなペルソナを呼んだ。それは翼の生えた白い男で、胸に手を当てた祈りを捧げる姿勢で現れた。
「来い!」
頭上に佇む救世主に向けて右手を伸ばした。呼び出したペルソナから更に何かを引き出そうとする。一見すると無意味な所作だが、もちろんそうではない。
有里は二年前の戦いにおいて、ペルソナが道具や装備品を宿す現象を何度か経験している。イゴールによれば『受胎』と呼ばれるそれは、有里の戦いにおいては大いに役立ったが、悠は経験したことがない。そもそもそんなことが可能であるとは、知りもしなかった。
ワイルドの先輩と後輩は能力は似ているものの、細かな点では差異がある。例えば複数のペルソナを同時に召喚する秘技は、悠は使えない。しかし絶対に不可能なのかと言えば、そうとは限らない。ペルソナ能力は色々と融通がきく代物である。例えば菜々子が死んだ12月3日、悠は現実でのペルソナ召喚を身に付けたように。そして今、先輩にできて後輩にできなかったものが、また一つ減った。
メサイアは受胎しているのだ。産婆が妊婦から赤子を取り上げるように、悠はペルソナに宿った異物を出現させようとした。
「ぐ……!」
だがそう簡単にはいかない。悠は片目を閉じて顔をしかめた。歯を食いしばって、頭の中心からにじみ出る痛みに耐える。まさに生みの苦しみである。本物の救世主にして史上最大の魔術師は、ただそうあれと一言口にするだけで、いかなる奇跡も容易く行使していたと伝えられている。しかし悠は苦労している。
「ぬ……あああ!」
掲げた右手に力を込めた。刀の束を握る形で指を固め、全身全霊の集中力を傾ける。現実の手の中には何も存在しないのに、あるかのように振る舞う。現実に襲い来る苦痛の只中で剣を握る演技をして、引き抜く演技をしようとした。左足を一歩踏み出しながら腰を屈めて、右腕を肩から大きく振り回す。
「うあああ!」
獣が吠えるような裂帛の気合をもって、大上段からの切り落としを無刀で演じた。
「……!」
そして振り抜いた右手の中には現実が生まれていた。精神的な存在であるペルソナから、物的なものが生み出された。現実以上の現実という真の演劇を、所作一つではあるものの、悠はやり遂げた。
「はあ……」
上体を起こして息を深く吐き出すと、頭痛は収まった。内なるものを生み落としたメサイアは、既に姿を消している。少しばかり落ち着きを取り戻して、手の中に現れたものを改めて確認する。
「剣か……」
武器であるとの予感はあったが、昨年までテレビの中で振るっていた、片刃で反りのある刀とは違っていた。両刃で反りはなく、刀身の長さは八十センチほどある。幅と肉厚は刀よりもずっとあり、かなり重たい。鋭さでもって切るよりも、重量でもって叩き割るのに適した武器だ。日本刀が生まれる以前、製鉄技術が未熟だった時代を連想させる無骨なものである。ただその一方で、刀身以外はかなり凝った造りだった。束は金色で、竹のように節が立っている。鍔は炎のような鮮やかな赤色で、縦向きに円を形作っている。実用性よりも美しさを優先させた、儀礼用の剣という風情である。
「……
見ているうちに、マリーとの思い出の一つが蘇った。夏祭りでマリーに貰った神道の本に、創造神の佩剣について書かれていた。神話が伝える真の名も後で聞いた。
「……」
これが火の神を斬り殺し、水の神などを生んだ神剣そのものであるとまでは、さすがに思わない。だがそうであるように『演じる』ことにした。腰を落として束を前に向け、剣先を後ろに向ける。剣道で言うところの脇構えだ。競技には不向きな構えだが、格好はつく。神前で演武を奉納するとなれば、悪くない型と言える。そして試し斬りするものは竹や木ではない。眼前の大岩だ。
(斬れる……)
見上げるような巨岩を剣で斬るなど、現実にはどうやっても不可能だ。だがペルソナ能力は精神が影響する範囲が、現実よりも遥かに大きい。できると思えばできる。
そう信じて、悠は踏み出した。後ろに構えた右足で床を蹴り、左足を前に滑らせて、体を前へと進める。同時に長剣を脇から上段へ振り上げる。手は束尻を持つ左手の小指には力を入れるが、他の指は添えるだけだ。鍔に触れる右手も添えるだけである。まずは下半身から力を生み出すのだ。蹴り足から始まって、腰を捻って更に力を加え、それから上体へ伝える。剣に勢いが乗ると共に両手で束を握り、同時に左足を床に下ろす。その勢いは石畳を踏み潰さんばかりだ。
──
足元と剣先でペルソナ使いの力が爆発した。重く硬いもの同士が衝突し、力と力のせめぎ合いが一瞬だけ生じる。衝撃は瞬き以下の刹那の間に、岩と剣の両方を襲う。もちろん剣を振った人間の手や体も襲う。そして次の瞬間に決着がついた。
「……」
悠は体を起こし、右手を束から離して左手一本で剣を持ち、試し斬りの成果を見定めた。
「まあ……こんなものか」
渾身の力を込めた一撃で、黒い巨岩は割れていた。ただし精妙な技でもって、断面鮮やかに切り裂いたのではない。そうかと言って、粉々に砕かれたのでもない。大きな塊が左右に二つできていて、その間で不揃いな破片がいくつも転がっていた。悠は力尽くで岩を叩き割ったのだ。葦の生い茂る中つ国と、死が満ちる根の国を別つ絶対の境界は、無残に崩れ落ちてしまった。
『強引な男だな……』
岩の向こう側から黒幕の声が届けられてきた。そこには呆れの色がある。
「……」
悠は割れた岩の隙間に体をもぐり込ませ、境界を越えて前へと進んだ。たった一人で。
岩の向こう側は下り坂の一本道だった。テレビに落とされた被害者の迷宮と異なって、曲がり角一つさえなかった。歩みを妨げるものは何もない。シャドウさえいない。悠は行っていないが、12月に足立が生み出した虚無の領域はただの荒野だった。この場所はそれより構造が明快で、しかも安全である。
そんな無人の道を体感時間で数分ほど歩いた先に、赤い門があった。ただし門と言っても扉はなかった。鳥居を連想させる形の構造物で、境界でありながらも来訪者を拒む意図はない。聖なる空間と俗なる空間を別つテレビの窓や、生死を別つ巨岩とは対照的な、誰でも通り抜けられる門である。
「……」
悠は門をくぐり、更に歩みを進めた。
境界を通り抜けた先は、泉のような空間だった。足元はやはり赤と黒で覆われているが、直線的な印象はなくなり、床全体が半円形を成していた。円の中心に泉がある。ただし霧と光がそこから湧き出ていて、湛えられているはずの水は見えない。泉の対岸には、山を思わせる背の高い赤色がある。
そんなまさしく霧の『源泉』で、中空に浮かんでいる存在がいた。悠に背を向けて、山を見上げている。
「お前が俺に力を与えたんだな」
声をかけると、謎の存在は振り返ってきた。装いは現世にいた時とは変わっている。世間に紛れ込む為に使われていた作業着は、目を隠す為の帽子と共になくなっている。代わって白い服を着ていた。十二単さながらに何枚もの布を重ね着している。ただ全てが白色で、永劫のペルソナのような鮮やかさはない。唯一色があるのは薄い灰色の髪の毛と、血の色をした瞳だけだった。
「そうだ。君はこの地に来た日、叔父に連れられて私の前に現れた。きっかけを与えたのはその時だ」
親切にも、忘れていた馴れ初めを明かしてくれた。しかし二人にとって、それはもはやどうでもいい話である。
「それで君は、何をしにここへ来たのだ」
話すべきことは、これである。
「昨年の事件の後始末なら、君の先輩に任せておけば良いではないか。君がやらねばならぬ理由など、どこにもない」
「……」
しかし悠は答えない。岩を挟んだ問答と同じように、言葉で答えようとはしない。表情さえ動かさない。
「君はもう望むことも望んでいない……絶望の淵に落ちた男と同じになったはずだ。明日にはこの地を去り、二度と戻るつもりはないのだろう。この地が再び霧に覆われようが、住まう者たちがことごとく影に落ちようが、知ったことではない……そう思っているはずだ。それなのに、なぜここへ来た?」
「……」
随分なことを言われているが、悠は反応を示さない。自覚していることばかりだ。他人もいないので、恥ずかしがる必要もない。
「何者か……君は先ほどそう聞いたな。私の名を聞きに、ここまで来たのか?」
ここで悠は眉を動かした。ガソリンスタンドで、お前は何者だと確かに尋ねた。一年前に恩師に問われたのと同じ問いを、この謎の存在に向けて放った。あれは半ば勢いで発せられた問いだったが、確かに聞いた。マリーとした『契約』と同じことを、事件の黒幕に向けて聞いたのだ。
「何者かとの問いに名前だけ答えても答えたことにはならないと、君は師から教わったはずだ。それはその通りだが……名乗りは契約の証明だ。私と契約して、何をしてほしいのだ」
「……」
悠はやはり答えない。ただ黄昏を思わせる、人外の赤い目を真っ直ぐ見つめた。見ているうちに──
(ん? こいつ……)
唐突な閃きが脳裏に走った。足立に撃たれて以来、悠は非論理的な直感がよく働くようになった。ここ一ヶ月はそれも休みに入っていたが、今日はまた別だ。寝た子が起きたような勘が、ある不思議なことを告げてきた。
(こいつ……女?)
ガソリンスタンドで店員の姿を見た時は、男だと思った。声は男のものだったし、帽子のつばを上げて見せてきた顔も男に見えた。しかしこうして互いに顔をさらして正面から対峙していると、現世で感じたものとは違う印象が芽生えてきた。肩まで届く長い髪、身にまとう服と同じくらい白い顔、そして顔以外の一切を覆い隠す服装──
(そう言えば……ひさ乃さんもミナヅキは女だって言ってた……)
奇妙な勘から連想して、死神のコミュニティの担い手が頭に浮かんだ。あの創面の『少年』も一見すると男にしか見えなかったが、ひさ乃は違うと言っていた。ミナヅキと出会った夏の話である。そして今日、生田目とひさ乃に会って話をした後、悠は家に帰るつもりだったが、結局帰らずにこうしている。それはかの『女』の姿を見つけて、追いかけたから──
だが眼前の相手から目を背けるような取りとめのない連想は、それ以上続けることができなかった。
「なるほど……死に場所を探しに来たのか」
「!」
不意打ちで図星を指されて、息を飲んだ。
「イザナミ……それが私の名だ」
そして更に息を飲まされた。
「何……!?」
告げられた黒幕の名は、以前から知っている名前だった。諸岡の補習で学んだことがあるし、修学旅行では有里の母校でも聞いた。そしてその対となる存在の名は、それ以前から知っている。事の始まりの、その直後から。霧に侵食され絶望に沈んでいた頭の中で、急に何かが動き出した。
黒幕は女ではないかとの直感と、神話で伝えられる女神の名。愚者の自分のペルソナと、道化師の足立のペルソナ呼称。それらが結びついて、頭の中で何かが描かれようとしている──
しかし悠は考えてばかりはいられない。
「今度は私から聞こう。君の名は?」
かつてベルベットルームを初めて訪れた時も、悠はイゴールに名前を聞かれた。その時は『なぜか』しばらく答えられなかった。
「鳴上悠だ!」
だが今は答えられた。即座に、反射的に。軽率と言っても正しいくらいの速さでもって、親に与えられた名前を口にした。世間へ向けて通す名が、存在自体の『真の鍵』たる真の名と同じであるとは限らない。と言うより、違うのが普通だ。だが相手に問われて名乗った以上は、後から違うと言っても通じない。
「良かろう……契約成立だ」
悠の名は悠。イザナミと名乗る、白い黒幕の人外は目を閉じて頷いた。互いに名乗った名前をもって『契約』の証明とした。もしここに契約者のカードとペンがあれば、互いの名前を書き込むところである。
「望みを叶えてやろうではないか。その為にこそ、私はいるのだから……」
イザナミが目を開くと、瞳の赤色は小さくなっていた。闇の色である白一色に包まれたイザナミの、数少ない色彩が失われようとしている。そして霧が立ち込め始めた。元よりある白い闇に、更なる暗黒が加わった。足元の泉から立ち上っているのか、イザナミの吐息なのか、とにかく白の濃度が増していく。クマの眼鏡を通しても、視界は闇に覆われていく。
「お前……お前は一体!」
この一年間で、悠がした『契約』は二つ。一つ目はクマと、二つ目はマリーとした。そしてたった今イザナミと交わした三つ目の『契約』は、悠の死である。
「この地で何も成し遂げられなかった落ち武者に、優しき眠りを与えてやろう……」
履行の開始を宣言すると共に、契約者の姿が露わになった。一言で言えば、花を連想させる姿だ。
何重にも重ねていた白い衣のいくつかが剥がれ、腰の辺りで裾を広げて、花弁のような形を取っている。花の中心にある上体は、腕を組んだ姿勢でいる。と言うより、拘束衣のようなものを着ている。顔は白い覆面ですっぽり包まれて、その上から目隠しめいた赤い帯で、十字を形作っている。『何も見えない』または『何も見ない』を暗示する姿である。だが姿形に関して言うと、重要なのはそこではない。
「!……」
悠はまたも息を飲んだ。ミナヅキのような十字の刻印が押された覆面の後ろから、非常に長い髪が伸びていて、翼のように広げられている。髪の一部は三つ編みにされている。長い髪は女の象徴だ。そして組まれた腕の上には、ある膨らみがあった。白衣を重ね着していた時は隠れていたが、拘束衣では体形を隠せない。むしろ強調されて見える。
先ほどの直感は正しかった。女神の名を名乗るこの存在は、やはり女だったのだ。
「さあ、全てを私に委ねるがいい。恐れることはない。君が心から望んでいる甘き死を、私が与えてやろうと言うのだ。ただ、それだけのこと……」
そして言うことも、まさしく女らしいものだった。恐ろしいくらいに優しげだ。
「はあっ!」
白い女は力を示してきた。体は縛られたままで、顔を仰け反らせた。喉を立てて、異世界の天へと声を張り上げる。それと共に紫色の光の玉が三つ、螺旋を描きながら頭上から降ってきた。あらゆる等しく存在を薙ぎ払う、万能の魔法である。
「メサイア!」
悠は救世主のペルソナを召喚し、襲い来る力に対抗しようとした。しかし──
「あぐっ……!」
召喚に失敗した。メサイアに同じ魔法を撃たせようとした途端、猛烈な痛みが頭に走ったのだ。脳から直接血が溢れ出して頭蓋骨を内側から圧迫し、目や耳から零れ落ちてくる。そんな感覚に襲われて集中が乱れ、術を行使することができなかった。長剣を生ませた時もそうだったが、審判のアルカナの最奥に位置するこのペルソナは、悠の身の丈に合っていないのである。
「うわあっ……!」
イザナミの光をまともに浴びた悠は、その場から弾き飛ばされた。赤い床を転げ回り、体を何度も打ち付ける。
(く……俺はまだ駄目なのか!)
もしも悠が諸岡の仇を取り、菜々子を自ら助け、足立を倒し、マリーをも救っていたならば、また別だっただろう。しかし何も成し遂げられなかった悠は、『本来ならば』全ての決着をつけるべき、今この時に至っても未熟なままなのである。救世主の力は悠では使いこなせない。有里であれば自在に操れるが、同じ宿命を持つ者でも、今の時点では二人の力量には大きな差がある。
最初の一手でいきなり手酷くやられた悠は、膝立ちになって相手を見据えた。メサイアは間違いなく、悠が持つ中で最強のペルソナである。しかしまともに使えない。受胎した剣を引き出すのは何とかできたが、実戦で使うのは無理だ。事件の黒幕とどうやって戦うか、考えを巡らせ始めた。
始めた途端、思考を読まれた。
「どうしたんだい……? 君は辛いだけの生から逃れて、死ぬ為にここへ来たのだろう。今さら怖くなったのかい?」
「!……」
死ぬのが怖いか──
「マガツイザナギ!」
イザナミの問いかけに対して、悠はペルソナの召喚で答えた。有里に貰った救世主が最強なら、足立に貰った禍津神はそれに次ぐ最強だ。呼び声に応えて赤と黒の魔人が頭上に立ち現れ、目の前に降りてきた。改めて見ると、4月に召喚したイザナギとまさに瓜二つだった。同じコインの表と裏と言うか、同じ人間が服を着替えただけと言うか。黒い長衣をはためかせたそれは、血塗れの矛を逆手に構え、イザナミを見据える。
「やれ!」
マガツイザナギは矛を下から上へ斜めに振った。穂先から金色の光の筋が生み出され、振り切ると共に無数に枝分かれする。菜々子を助けに行った11月、テレビの中の天国で足立が生田目にとどめを刺した、空間ごと切り刻む斬撃の網だ。
「愚かな……」
無数の光の刃は、四方八方からイザナミを襲う。自らを縛り付けている黒幕は、必殺の斬撃をよけようともしない。ただ泰然として受け続け、そして──
「うがっ……!」
一筋の光が悠を襲った。イザナミが跳ね返したのではない。マガツイザナギの秘技は極めて広範囲を攻撃できるが、その分だけ味方を巻き込まないように配慮する必要がある。今の悠は一人だけだが、その一人にさえ注意が及んでいなかった。自分の技で自分を傷つけてしまった。
「全く……度し難い愚か者だ。生兵法とは君の為にある言葉だな」
悠は仰向けに倒れ、左手を顔に当てた。傷ができているのが分かる。左の額から鼻梁を通り、右の頬まで達している。溢れ出てきた血が顔を焼いて、掌を汚し始めた。
メサイアと違ってマガツイザナギは何とか操れる。技を繰り出しても頭痛はしない。しかし大技を使わせるには、まだ足りなかった。今の悠は有里ばかりか、足立にもまだ追いついていない。
「私は外から来た三人に役割を与えた。一人は事物を正しく見る目を持たず、力に目覚めることさえ叶わなかった。一人は真実以外のものに己を委ね、目覚めた力を禍津へと落とした。そして君は……稀なる力を目覚めさせた。信心によって影を光へと転じる、古き良き力……君は人々の希望となり得たのだ」
「!……それはワイルドのことか!? いや……コミュのことか!」
顔の痛みを忘れて、立ち上がって叫んだ。足立の手紙にあった一文が蘇る。『君が変に人気者なのも、原因はそこにあるのかもしれない』と。拘留中の身でありながら悠の真実を見抜いている、千里眼の道化師はやはり正しかった。
「だが君は道を誤った。私の虚像に溺れ、全てを見失った!」
「お前の、虚像……?」
人々の希望となり得た男が、道を誤った原因。白い女であるイザナミの虚像に溺れたとは、どういう意味なのか。悠が『溺れた』と言えば、当てはまる相手は一人しかいないはずである。それが虚像──
「滅びの日が訪れるまで、もう時は少ない。今から道を歩み直すことはできないだろう。君は炎を鎮める
しかし悠の疑問に、イザナミは答えない。イザナミはかつて神聖時間に降臨した神と違って、自ら考え、行動もするのだ。
「だがそれもやむを得ないこと……人の望みは真実から目を背け、霧に微睡み、虚像の中で生きることだった。まさに君のように。そのような者たちなれば、炎に焼かれて滅びるのもまた、望みに叶う道であるのかもしれない……」
「人の望み……?」
「そうだ。そして君の望みは、自分の死なのだろう? さあ……いざ!」
イザナミは自ら物事を判断し、動く。そして一度こうと決めれば、必ずやる。
白い『神』は再び喉を立て、天へと向けて唸った。霧に覆われた頭上の空間がひび割れて、赤い稲妻が降ってきた。道化師や審判のペルソナも電撃は操れるが、これはそのどちらも超えている。自然の落雷さながらの、絶対の一撃だ。そこいらのシャドウや並のペルソナ使いはおろか、足立や有里さえもこれを受けては無事では済まないだろう。
「うあっ……!」
雷は
と思いきや──
「ぐ……く!」
悠は倒れた。だがすぐに身を起こす。顔に負った傷から血が流れるのもそのままに、長剣を杖にして立ち上がった。
「なぜ死なない……?」
人に無謬はあり得ないが、神も絶対に間違えないとは言い切れない。『神』が殺すつもりで放った大雷は、確かに悠を捉えたはずである。それにも関わらず、悠は生きていた。
「……そうか。虚無の男に敗れてここをさまよっていた君を起こしたのは、あの者だったな。君は差し詰め、人魚の肉を食わされた……と言ったところか」
人魚と言えば、最も有名なのは『泡へと還る』童話である。しかし同じ存在に対しても、世界には種々様々な伝承がある。日本では人魚の肉は不老長寿の霊薬とされ、それを食べてしまった者が、心ならずも不死の身になってしまった悲劇が伝えられている。
「逢ふことも涙に浮かぶ我が身には、死なぬ薬も何にかはせん……」
そして不死とは人ではなく、神の属性である。神ならぬ人は不死に耐えられないのだ。想い人に去られた王が形見のように霊薬を貰いながら、こんなものはいらないと山に投げ捨てて終わる、日本最古の物語が伝えるように。
「哀れなことよ……」