特別捜査隊の溜まり場と言えばジュネスのフードコートである。学校の屋上や愛家に集まる時もあったが、大抵は八十稲羽で最も背の高い施設が集合場所として選ばれた。そしてこの日も彼らは、『特捜本部』の呼び名もあるこの場所に集まった。
天気予報が外れて小雨が降りだした頃に。
「私たち、ここで特捜会議とかしたよね……」
屋根付きの大きなガーデンテーブルに集まった六人の中で、最初に雪子が口を開いた。席についているのは特捜隊の二年生組が三人と、一年生組が三人。男女比は二対四だ。
彼らは今日という日に、この場所で集まることを約束していたのではない。リーダーが八十稲羽で過ごす最後の日に、全員にとって思い出深いここに集まろうと、そんな約束はしていない。かつて特別課外活動部が卒業式の日に学校の屋上に集まろうと、皆で約束したのとは対照的に。していないにも関わらず、『なぜか』集まってしまった。仲間内で最も騒々しい者風に言えば、『奇遇を超えて運命』である。
「先輩、来ないね……」
ただし肝心のリーダーはいない。
「明日っすよね。先輩、帰っちまうの……」
「皆さん、挨拶とかされましたか?」
「……」
雨に続いて沈黙が降ってきた。彼らは全員、今日は悠と顔を合わせていない。悠とは一年限定の付き合いで、卒業式を共に迎えることもできないのだと、初めから分かっていた。しかしその日が明日に控えていると思うと、何とも言い難い思いに襲われる。単に別れるのが悲しいと言うのとは違う。釈然としないのだ。
明日の電車の時間は聞いているので、皆で見送りに行くつもりではあるが、果たしてどんな顔で別れれば良いのか。それさえ想像がつかない。
「もうここに集まることもないんだ……。こんなんで終わり……」
千枝の呟きが皆の思いを代弁している。殺人事件と獣害事件はシャドウワーカーが解決して、マリーは死んだ。それがこの一年間の結論だ。その事実を皆は頭では理解しているが、納得はできていない。もちろん辛いことばかりではなく、楽しいことはいくつもあったが、それを忘れさせる大きな失意があった。
春でありながら季節が反転したような雰囲気で、ふと根源的な問いが湧いて出た。
「なあ……去年の事件ってさ、ありゃ何だったんだろうな?」
陽介である。一ヶ月前の虚ろの森でもこう言っていた。その時は直斗しか聞いていなかったが、今は大勢いる。
「何ってそりゃあ……何? テレビの世界に、ペルソナ、シャドウ……マジな話、あれって何なワケ?」
「うーん……やってる時はとにかく夢中だったけど……。こうして時間置くと、何であんな世界があるんだろう……とか、ふと思っちゃう時がある」
陽介の物言いは酷く漠然としたものだったが、誰もいなさない。千枝と雪子も考え込む。
「マヨナカテレビも何だったんだろうね? 町で噂になった人が映るって話っぽいけど……何でそんなのができたんだろ?」
「そう言や、あれって事件終わってから何か映ったりしたんすかね? 俺、確認してねっすけど」
りせと完二も続く。
「俺が最後に見たのは……録画って奴だった。確か足立が捕まって二、三日くらい後だった」
マヨナカテレビの『最終回』が放映されたのは、12月11日の0時である。見たのは特捜隊では陽介のみだ。深夜の番組の実態はおろか種類がいくつかあるのさえ、知ったのは随分後になってからだ。
「今年入ってから、真夜中に雨降ったっけ?」
「どうだったっけ……」
「結局のところ、分からないことだらけですね……」
自分たちの認識について、直斗がまとめた。殺人事件の犯人は足立で、凶器はテレビ。それはもちろん分かっているが、それ以外は結局分かっていない。テレビの世界とは何で、マヨナカテレビとは一体何であったのか。それが存在することは分かるのだが、何の原因があって生じて、何の目的があって映像が映し出されていたのか。何の為に存在するのか。テレビの中で戦っていた当事者たちにも、謎は謎のままである。
もちろん『何の為に』などとは、極めて観念的な話だ。『殺人事件の犯人を捕まえる』よりも、ずっと実感を持ちにくい話である。疑問に思わなければ思わないで、何の不自由もない。世間の人々の大半は、観念など気にしないで生活している。彼らも疑問に蓋をすることは可能なはずだ。テレビの世界が何であるかが分からなくても、普通に暮らしていく分には困ることなどないのだから。
「……」
しかし思ってしまった以上は、そっとしておけないのが若者というものだ。大人が日々の仕事に認知資源を割かれてしまう間に、若者は別のことを考えていても良いのだ。哲学や倫理の問題に悩むのは、若者の領分である。
「ちっとさ……覗いてみねえ?」
悩む若者たちの間で、陽介がふと口に出した。
「覗くって……テレビ? まずいっしょ。堂島さんとかにバレたら大目玉じゃん」
特捜隊はテレビへの出入りは禁じられている。堂島に知られれば確実に雷が落ちる。もちろん悠以外の特捜隊は堂島の身内ではないが、それはそれである。親族ではなく、刑事兼特殊部隊員として若者たちを叱るだけだ。そして事後の心配以前の問題もある。
「つかみんな、眼鏡持ってきてんの?」
千枝か゚現実的な問題を突っ込んだ。特捜隊はもう長い間テレビに入っていない。現実の霧も晴れた今は、霧を貫く道具は必要ない。よって持ち歩く理由もないはずなのだ。持っていても荷物になるだけである。しかし──
「あるっすよ」
最初に完二が反応した。黒の革ジャンからサングラスを取り出し、テーブルに置いた。
「意味ねえって、分かっちゃいやすけど……。何かクセになっちまったっつーか……」
先月にスキーに行った際は、転んだら割ってしまう恐れがあったから、さすがにウェアの中に入れはしなかった。しかし普段は持ち歩いている。
「実は僕も……」
「私も持ってる」
続いて直斗が紺色の眼鏡を取り出し、りせもピンク色の仲間の証明を取り出した。一年生組の三人は、全員が神秘の眼鏡を持ち歩いていたわけである。使う予定はないにも関わらず。なぜなのか?
「私もあるよ。千枝はないの?」
「ん……持ってる」
「あんじゃねえか!」
ばつが悪そうにする千枝に、陽介のツッコミが入った。準備の不安を言い出したのは千枝だが、実は自分も持ち歩いていた。
「う、うっさいな! なら花村も持ってんでしょうね!? あんただけないとか言ったら、靴跡もんよ!」
「あるさ」
二年生組の三人も眼鏡を持っていた。実は持ち歩いていないのは悠だけだったのだ。イゴールに言わせると眼鏡は特捜隊、つまりは愚者のコミュニティの絆の証明である。それはクリスマスの日に完了した。完了した絆とは、終わった絆である。終わったとは不変とも言い換えられる。だから肌身から離せない。
何にせよ、これでテレビに入っても視界を確保できるはずである。武器はさすがにないが、素手でも戦えないわけではない。
「……行ってみる?」
「うん……」
雪子が確認すると、千枝は頷いた。今さらテレビの世界に用はない。行って何をするか決まっているわけではない。ないのだが、ちょっと覗いてみる。することのない暇な人間のように、久々の異世界訪問が何となく決まった。
「鳴上先輩はどうしましょう?」
「電話してみっか」
不在のリーダーについて直斗が言及すると、陽介は携帯電話を取り出した。別れの前の最後の一日なのだから、呼べばきっと来てくれる。辛い一年の終わりに、笑顔の一つくらい見せてくれるだろうし、自分も見せてやれる。そんな期待を抱いて、よく知る番号を呼び出した。しかし──
「通じねえ……」
駄目だった。文明の道具からは慣れた相棒の声ではなく、機械的なメッセージが届けられただけだった。ガーデンテーブルの屋根を叩く雨音を背景にした、無機質な音声は奇妙に不吉だった。
「ねえ、前もこんなことなかったっけ……?」
りせの呟きに皆が反応した。いつもの場所にリーダーが現れず、電話しても通じない。誰もが携帯電話を常に持ち歩くのが当然の現代社会にあって、連絡が取れない。もちろんそれは単に電源が切れているか、電波の届かない場所にいると考えるのが普通だ。だが片田舎の八十稲羽には、電波の届かない場所などそうはない。考えられるのは──
以前もこれと似たことがあった。悠が生田目に落とされた7月17日と、暗黒のバレンタインデーだ。
「……行こうぜ」
陽介は携帯電話をしまって席を立った。天気が変わりやすいと言われる春の雨は、勢いを増し始めた。
リーダー不在の特捜隊六人は雨をよけて建屋に入り、二階の家電売り場に至った。ここは元より人の入りがあまり多くなかったが、事件の始まりから一年経った今も変わらない。むしろ年が明けてからは、客足が遠のく一方である。
「あ……」
そんな閑散とした売り場に珍しい客がいた。それも特捜隊にとって、見知った顔が二人。
「お前たち……こんな所で何してる」
堂島である。菜々子も一緒だった。どこから見ても普通の家族連れという風情だが、刑事の表情は硬い。
「ちょ、ちょっとブラブラしてるだけですって! 堂島さんこそ、どしたんすか!? テレビの買い替えっすか?」
特捜隊もそうだが、シャドウワーカーもテレビの世界にもう用はない。ない『はず』である。少なくとも、陽介たちの知る限りではない。それなのに、どうして特殊部隊の支部長がここにいるのか──
「菜々子が来たいって言うんでな……」
これは嘘や方便ではない。実際のところ、堂島はテレビに入るつもりでここに来たのではない。もしそうなら娘を連れてくるはずがない。今日のジュネス訪問は、この一年間ほとんどなかったプライベートな時間に過ぎない。菜々子が望むならテレビを買い替えてもいいと思っていたが、どちらにしても私的な用件である。
「悠は一緒じゃないのか?」
「え、ええ……ちょっと連絡つかなくて……」
「何?」
堂島は不審を覚えた。明日に稲羽を去る甥には、友人たちに挨拶してこいと言っておいた。念頭にあったのは、もちろんテレビの中でペルソナを得た者たちだ。稲羽支部の高校生組も悠の友人にもちろん含まれるはずだが、まずは彼らであろうと。それにも関わらず、既に午後になったこの時間に連絡を取っていない。
不審が不吉な予感に変わったところで、堂島は振り返った。特捜隊がテレビの世界への出入口として使っていた、大型テレビの側を見ると──
「お兄ちゃん……?」
「菜々子!? 何してる!」
電源の入っていない液晶画面に向けて、菜々子が手を伸ばしていた。ペルソナ使いかそれに類する者が触れると、波紋を浮かべる画面である。七歳の女児の小さな手が、異世界への窓へと近づいている。父親の大声を気にするでもなく、そのまま触れた。気安く、何気なく。すると──
「は、入らんか……」
菜々子はテレビに入れられたことはある。では自ら入ることは可能なのか? 誘拐犯から救助された11月以降、更にはシャドウに『声』をかけられた10月以降、堂島は娘に力があるのか確認していない。話に聞いた救助の状況からして、ある可能性は低いと判断したからだ。そしてそれ以上に、試した結果が万が一『当たり』であったらと思うと、夜も眠れないくらいだったから。
思いがけないタイミングでの初挑戦の結果は、父親に安堵のため息を漏らさせるのに十分だった。
「菜々子、お店の物に触っちゃ駄目だろう」
父親は娘に近づき、小さな手を取って画面から離させた。スマートフォンやタブレットの操作感を試すのとは違って、陳列されたテレビ画面に手を触れて良いものではない。買い物に来た普通の父親が普通に娘を叱るように、堂島は菜々子を窓から遠ざけた。
「お兄ちゃん……」
しかし娘は父親に注意を払わない。自分には通り抜けられない窓と、窓の向こうの景色を見つめている。
「お兄ちゃんが……ここにいる!」
菜々子は死の国への入口を、もしくはその先にある死の国そのものを見つめている。
「何……!?」
ここで堂島は改めて窓を見た。だが仄暗い鏡には堂島家の父と娘、そして息子の友人たちが映っているだけである。悠の姿はない。現実の姿が光を反射して映ってはいないし、異世界の出来事がライブや録画で流されてもいない。
「な、菜々子ちゃん、どういうこと……? てか、何でそんなのが分かるの?」
りせが尋ねた。実のところ、悠と連絡が取れないことから、特捜隊の間にはある予感はあった。疑問なのは、それをなぜ菜々子が言い出すのかだ。特捜隊の情報担当であるりせでも、テレビの外から中へと探知を効かせることはできないのに。
それは──
「クマさんが……」
菜々子は『教えられている』からだ。
「クマぁ!?」
陽介が叫んだ。元同居人の美少年については、もう長い期間に渡って話題に上らなくなっていた。しかし誰も忘れてはいない。目を背けられていたものの名前が、唐突に、脈絡なく、不自然極まりなく持ち上がって、陽介の声は裏返った。
「クマさんが……呼んでる! お兄ちゃんを助けてって!」
瞬間、一つの超常現象が起きた。文明の利器でもある黒い鏡には、八人の人間の姿が映っている。その中心にいる、最も年若い少女が瞬きをした。鏡の外にいる少女の実像が、これ以上はできないほど目を見開いている間に、鏡の中にいる虚像が瞬きをした。
次の瞬間、死の国が鏡に映った。
「な……!?」
今日の天気予報は外れている。朝には晴れていた空は、どこからか湧いてきた闇に覆われ、地上に雨が注がれている。時刻が真夜中であれば、バラエティや特撮ヒーロー番組が映ったとしても不思議ではない。いや、もちろん不思議ではあるが、特捜隊とシャドウワーカーにとっては経験済みの事態だ。しかし今のこれは稲羽のペルソナ使いたちにとっても、心底から驚くべき怪現象だ。昼間からマヨナカテレビが映るなど、今までなかった。
映し出されているのは悠だ。顔を斜めに走る傷から血が流れ出ていて、長剣を杖代わりにして立ち上がろうとしている。明らかに何者かと戦っている姿だ。そしてその相手は──
「あ……」
「菜々子!」
画面がズームアウトして兄の敵の姿が映し出されると、妹は後ろに倒れた。小さな靴を履いた足から力が抜けて、リノリウムの床に背中から崩れ落ちた。咄嗟に堂島が受け止めたが、返事はない。目は閉じられ、気を失っている。映し出された存在が画面越しに放ってくる、死の気配に当てられたように。
それは巨大な白い姿だった。遠目には白い花弁を広げた花のようだが、花でないことは明らかだ。花芯は人の姿をしている。拘束衣を着て、顔を覆面で隠した女である。その顔がカメラ目線になった。
『お前たち、見ているな』
「!?」
昼間に映るマヨナカテレビという、もはや言葉の矛盾となった超常現象は、更なる超常の事態を生起させた。
『あの小さき者の仕業か……。そう言えば虚ろの森に閉じこもったあの者を呼んだのも、あれであったな。つまらぬ小細工をする……』
画面の向こう側からこちら側へと、声をかけてきたのだ。これは予告、ライブ、録画の三種類があるマヨナカテレビのいずれとも違う。放映時間どころか、番組と視聴者の関係性さえ異なっている。
『お前たち、悠を助けると言うのか? だがお前たちにはできぬことだぞ。悠は心ならずも得た不死を手放したいだけなのだ』
これは普通のテレビ番組で、決められた台本を役者が読み上げているのではないし、もちろんアドリブで演じているのでもない。画面に映る登場人物は明らかに視聴者に対して語りかけている。しかも不特定多数の人間へ向けられた、使い回しのきくメッセージではない。現に画面を見ている当の人、特捜隊と堂島に向けて話しているのだ。それはこの登場人物が、テレビの中だけの『架空の存在』ではないことの証明だ。
『来るな。今なら見逃してやる』
『く……! はあ、はあ……』
ここで画面は再び悠を映した。端正な顔は血に染まり、呼吸は荒い。花の怪物と戦って追い詰められている。目だけは激しい光を湛えているが、消耗しきっているのは明らかだ。この状態でなぜ倒れないのか、不思議なくらいである。
「先輩……!」
最初にりせが動いた。何度も出入りした、慣れた画面に手を触れる。菜々子がやった時と違って、液晶の画面に指紋がつきはしない。水に石を落としたような波紋が浮かび、昼間のマヨナカテレビは見えなくなった。次の瞬間、りせは頭から飛び込んだ。
「あ、こら! 待て!」
堂島が制止した時には、女子高生はもう足まで異世界にもぐっていた。誰にも止める暇を与えず、真っ先に飛び込んだ。りせにしては珍しい、一切の躊躇のない瞬間的な行動だった。
「あたしらも行こう!」
「うん!」
次いで千枝が動き、雪子も続いた。マリーは既に亡く、菜々子も気を失っている。特捜隊の女性陣は、リーダーを助けるべく三人が飛び込んだ。
「堂島さん! 僕らが先輩を助けに行きます!」
直斗は一言断りを入れてから飛び込んだ。返事は聞かなかったが。
「お前ら……!」
残るは二人、陽介と完二である。
「俺らも行きます」
「悪いっすね」
女性陣四人には一歩出遅れてしまったが、特捜隊の男性陣ももちろん黙ってはいない。陽介と完二も当然行くのだ。仲間の危機に指をくわえて見ていることはできない。無謀だろうが何だろうが、やるとなったらやる。蛮勇は若者の特権である。言葉をいくら尽くしても無駄だ。力尽くでなければ止められない。
大人の手が娘で塞がれている隙をついて、少年たちは異世界へと全員突入した。
「悠……」
堂島と菜々子だけが家電売り場に残された。厳しい父親は可愛い娘を放り出すわけにもいかず、テレビ画面から波紋が消えるまで、床に膝をついたままの姿勢でいた。電源を切られるように画面から消された謎の番組は、六人の少年少女を飲み込んだ後の画面に、再び映ることはなかった。仄暗い鏡には、口を半開きにした堂島と眠る菜々子の姿だけが映っていた。
「お前、お前は……」
悠は長剣を杖にしながら、巨大な敵を見据えた。霧の源泉に咲く白い花を、考える葦は必死になって見極めようとする。悠は葦である。人魚の肉によって普通の葦より死ににくくなっているが、やはり弱く儚い者である。
「何だ。また何者だと、君は聞くのか? 名前だけでは答えにならないか」
そんな弱者に強者は話をする。消え入りそうな呼吸の合間に、精神病の患者が繰り返すうわ言めいた言葉に対して、律儀に返事をするのだ。
「そう……だ」
「そうか……では見るがいい。自分が何者と契約したのかを」
人の望みを叶える者は望みに応じた。イザナミは自らの内側から白い光を発し始めた。もしくは自分を照らす何かを呼び起こした。それは峻烈な信仰を育む砂漠の太陽のように、過酷な光である。人の目を焼き、大地を焦がす光だ。
虚ろな墓で無数に舞っていた葬送の花は、死のおぞましさを隠す為にある。醜悪な死の色や臭いを花で覆うのだ。そして残酷な真実の光は、装いの花を枯らす。
「!……」
光の中から現れた存在は、恐怖そのものだった。咲き誇っていた美しい花は、時の侵食を受けたように唐突に萎れた。白い花弁にしみが浮き、虫がたかって食い荒らされ、干魃でひび割れた地面から根が浮き出るように。
一ヶ月前、悠は花が腐って砕け散る様を見た。心から決して消えず、夢に見続けるトラウマの情景を再び見てしまった。
イザナミの真の姿は、赤と黒で染められた乾いた花だった。愚者の裏である道化師の、その最奥に位置する禍津神と同じ不吉な色だ。花弁の白い美しさが剥がれ落ちて、残った花脈は赤黒く血を滴らせ、人の手のような形を取っている。それが体の下の方からいくつも生えているのだ。花芯の女は拘束衣を脱ぎ、覆面を剥ぎ、『真の』姿を露わにしている。美しかったはずの過去が消え去ったその姿は、枯れた花弁と同じくらい恐ろしげだった。
死体である。ただし物言わぬ肉の塊ではない。黄泉の兵士に征服されず、かえって死の国を征服してしまった女王だ。皮膚を失って肉と骨が浮いていながらも動き、喋り、そして強大極まる力を持っている。
そして死人とは──
「私は……神!」
イザナミは自分の名前の他に、自分は人の望みを叶える者であると、既に悠に告げている。そしてそれは何者のことであるか、更に一歩進めた言葉でもって自分自身を表した。
「神……だと?」
だがその言葉は、悠に奇妙な落ち着きをもたらした。聖なる存在を前にすれば、誰でも恐れ入る。恐怖や感動を覚えないのは愚か者だ。イザナミの姿を目にした瞬間に襲ってきた恐怖は、『愚者』の少年の中から雲散霧消してしまった。
神の名でもって自らを呼ぶ存在は、悠にとって初めてではない。イザナギを始めとする、いくつものペルソナたちは多くが神の名を持っていた。そしてマリーだ。ただマリーが名乗ったクスミノオオカミなる名は、悠は腑に落ちなかった。それはマリーの名こそがマリーに相応しいと感じていた為だが、神名の由来や縁起を知らない為もあった。だがイザナミの名は知っている。
世界を創造した原初の女神の名だ。自分が初めて召喚したペルソナと、足立に貰ったペルソナの対になる存在の名だ。そして何者かという問いに対する、イザナミの答えは神。これらが意味しているものは何か?
(先生……?)
倫理の授業と補習の記憶が蘇る。恩師は神などいないとは、一度も言わなかった。しかしいるとも言わなかった。それは未熟な若者に自ら考えるよう促す、年長者としての教育方針であったはずだ。だがもしかしたら、神とは人間の認知に関わらず、それ自身で存在し続けるものだからではなかろうか。全知全能にして無謬という概念そのもののような超越者はともかく、それとはほど遠い人間のような神ならば。それはもう人間に近い存在だから、人間と同様に自ら存在するのではないか。悠はそんなことを閃いた。
そして人間のような神々についての話なら、恩師の死後も少しは聞いている。例えば有里の母校で学んだ、コトドと呼ばれる神話だ。『愛している』から始まる別れの話──
(マリー……?)
悠に『愛している』と言ったのはマリーだけだ。千枝、雪子、りせ、直斗からは言われていない。一時期だけとはいえ付き合っていた、あいと結実からも。菜々子からさえ言われていない。貧しい限りの一年間の生活において、愛を言葉で表されたのは、即ち呪いをかけられたのはたった一度だけだ。
イザナミの名を聞いた時にも感じた閃きが、再び脳裏を走った。頭の中を光の速さで駆け巡り、ある真実を描き出そうとしていた。殺人事件の犯人を突き止めることは遂にできなかった頭は、より根源的な『真実』に近づこうとしていた。現実の恐怖から目を背けていながらも、目の向かう先は虚構ではなかった。
「先輩!」
しかし人気者はそっとしておいてもらえない。
「りせ!?」
呪いをかけなかった女の一人が、霧の源泉に飛び込んできた。振り返ると、更に三人が来て二人が来た。鳥居を連想させる形の門から、忽然と湧いて出てきた。
「相棒!」
「陽介……」
死に損なったバレンタインの日、学校をサボって諸岡へ報告を上げに行った時も、悠は陽介に見つけられた。さすがは相棒と言うか、ウザいと言うか。そっとしておいてほしい時に、向こうから飛び込んでくる。
「な……何!? こいつ、何!? シャドウなの!?」
「テレビに出てたのと違う……!?」
「ううん……! あの白いのとは見た目違うけど、あいつよ! 間違いないわ!」
そして悠には訳の分からない話をする。動揺する女性陣を置いて、陽介がまず駆け寄ってきた。
「こいつ、何なんだよ!」
悠はどうしてテレビに入ったのか。八十稲羽で過ごす最後の日に、なぜ戦っているのか。相棒の行動の理由を問い質す前に、陽介は戦う相手について尋ねた。それは『何をしているんだ』よりも辛く、答えにくい問いであるのに。
「こいつは……元凶だ。全ての……」
そう、イザナミは事件の元凶である。それはもう本人が認めている事実だ。しかし真実は違う。と言うより、自白された明白な真実の背後に、更なる暗黒の真実が存在する。物事の因果関係は無限に遡れるのだ。
「いや、違う。元凶は……俺なんだ」
事件の原因である犯人は、何もできなかった高校生に更なる原因を探すよう促した。その結果、足立が想像する以上の、もう一段階遡った原因を突き止めてしまった。
「はあ!?」
迂遠すぎて誰にも理解できない『真実』を、悠は知ったのだ。それはもはや虚構と言い換えてもいいくらいの真実だった。いくら言葉を尽くしても他人は決して理解できない。真実そのものを確信するのと同じくらい、人には伝えられないと確信を抱いていた。
「な、何でもいいです! とにかく一旦撤退しましょう!」
「先輩! ボサッっとしてる暇はねえっすよ!」
今度は直斗と完二がやって来て、悠の腕を掴んだ。強引に引きずって、死が君臨する泉から逃げ出そうとしたが──
──
霧の源泉の入り口に置かれていた鳥居の門に、扉が生じた。誰でも通れる境界線は、誰にも通れない壁と化した。黄泉比良坂の入り口に置かれた千引の大岩は、黄泉の追っ手を食い止め、異界渡りの旅人を帰らせる。そして奥の院の扉は、墓荒らしを閉じ込める為にある。
「お前たちはもう、ここから出られない。来ても無駄だと教えてやったのに……」
神域に入り込んだ人間は、生きて出ることはできない。見るなのタブーを違えた者には、死あるのみだ。