日本神話が伝えるところによれば、創造神たるイザナギは同じく創造神であるイザナミを追って黄泉の国へと向かった。そこで亡き妻を見つけたものの、暗がりであった為に姿が見えなかった。そして見てはならないとの妻の頼みを反故にして、櫛に火を灯したところ、変わり果てた妻の姿を見てしまった。
つまりイザナギが禁忌を違えた、その道具として櫛が使われたのだ。それに加えて、イザナギは黄泉比良坂を通って逃げ帰る際に、追っ手を撒く為に櫛を投げた。神話でそうした使われ方をした為に、櫛は別れを招く不吉なものとされる。よって人に贈る場合には、別れの証でない限りはかんざしと言い換えて贈るなど、気を遣わなければならないものである。
更に言うと、櫛は音においては『奇し』であり『苦死』でもある。いずれにせよ不吉な、霊的な物品である。
「全ての使命を果たせず都落ちするお前を、私は咎めるつもりはなかった。できぬことは、できぬことなのだから……神ならぬお前たち人間は、しくじるものだ」
人間は間違える生き物だ。失敗があり得ず、何をやっても上手くいく都合のいい人間など、現実には存在しない。人は予測や推論によって先々を考えることも、過去を省みたり歴史を学んだりして、現在に活かすこともできる。しかし全てを見通し、全てを己の掌で転がすことはできない。無謬や超人とは概念に過ぎず、現実の人間は誰でも誤りに陥る。認識を誤ることも、行動を誤ることもある。戦力においては悠に勝るペルソナ使いである、有里や足立も何度も間違えた。
そしてそうした失敗を犯した上で、それを正すなり償うなりできるかどうかは、時と場合による。やり直せる過ちや、取り返せる失敗はある。そしてやり直せないもの、取り返せないものもある。ではこの一年間における悠の、そして特別捜査隊の失敗は取り返せるものかと言うと──
「愛しき我が
過ちを咎めるつもりはないと言う、この枯れた花のような神は、不思議な言葉を紡ぎ始めた。巨体の下から根のように生えている、いくつもある巨大な手を掲げ、花芯のような女の体も両手を広げる。
(これは……! やっぱりこいつは……!)
魔術で用いられる呪文は、本義は神への賛歌や経典からの引用である。そして見上げるような巨大な神が詠唱する呪文もまた、ある意味で『引用』だった。何を出典としているのか、悠は分かる気がした。以前に見たり聞いたりした覚えがあるのだ。その記憶が、既に確信を持っているある真実に更なる保証を与えた。
その真実とは──
「この如くしたまえば、汝が国の
詠唱が終わると共に、悠の足元に赤い輪が浮かび上がった。ペルソナ使いがテレビに触れると画面に浮かぶ、沼に石を落としたような波紋だ。即ち異界への落とし穴である。異界の深奥であるはずの霧の源泉にあって、更に底が抜けようとしている。落ちた先はどこへ繋がっているのか?
「相棒、危ねえ!」
しかし寸前で突き飛ばされた。
「陽介……!」
「こんな結果になるとはね……残念だよ」
神は再び両手を掲げた。呪いは一人を飲み込んだだけでは終わらず、落とし穴は続けていくつも口を開く。神は一日に千人殺さなければ収まらない。『千人』の意味が『多数』という意味ならば、生贄一人だけでは満足できないということならば、悠の周りの人間は全て死ななければならなくなる。最も信頼した相棒を飲み込んだだけでは、呪いは終わらない。
「鳴上君!」
陽介に続いて、仲間たちは次々と悠を庇い続ける。千枝が、雪子が、完二が、直斗が次々と悠の前に立ちはだかり、突き飛ばして身代わりになる。赤と黒の波紋から、いくつもの手が伸びてきて、仲間たちは引きずり込まれていく。まさに死そのもののように黒く細く、枯れ枝のような手だ。
「皆、どうして……!」
悠は自分を守れと仲間たちに命令していない。頭を下げて頼んでもいない。陽介たちは何も言われないままに、自ら進んで悠の身代わりになった。
「先輩! 逃げて……」
最後にりせが飲み込まれるまで、仲間たちは盾になり続けた。なぜなのか? なぜ皆が皆、悠を庇うのか? 人は死ぬものだ。それは謎でも何でもなく、誰もが知る自明の理であり、自然の法則である。しかしだからと言って、なぜ誰も彼もが進んで『自然』に身を任せてしまうのか。
「そう定められているからさ」
答えはイザナミが教えてくれた。
「!……」
悠に使命があったように、陽介たちにも使命がある。悠がマリーを助けようとすれば手を貸すし、悠自身が危機にあれば助けに来る。頼まれなくても来るどころか、来るなと言っても来るのだ。
「さあ、待たせたね」
だが仲間たちがどれだけ庇っても、限度はある。一日に千人殺す神に対して、悠の仲間は六人。仲間以外の絆で結ばれた人々を全て入れても、『たった』二十人ばかりである。身代わりの山羊の数はとても足りない。
「死ねない人間になったお前に、最後の慈悲をくれてやろう……」
七度目の呪いが悠を襲った。駒の尽きたリーダーは、もはやどうすることもできない。手にした長剣を振るう間もなく、安息の手に包まれた。
昨年に足立がテレビの中に生み出した赤い空間は、虚無の荒野と呼ぶべき何もない場所だった。対して悠が落ちたこの空間を表すには、虚無よりも相応しい言葉がある。
沈黙。もしくは忘却──
「……」
悠は白い世界に身を横たえながら、自らを沈黙に落としていた。苦痛はない。昨年に何度も身を削った、戦いの舞台である霧と同じ色の世界にいるのだが、流血の気配はない。先月に山の吹雪に襲われた時のような、冷気と共に忍び寄る死の気配もない。ただ平和と安息がある。常世と呼ばれる彼岸へ続く、茫漠とした海を思わせる空間だ。
人間は間違えるものであり、死ぬものであり、そして忘れる生き物だ。ただし忘れられない記憶や、消えない傷というものもある。しかしこの白い闇に抱かれていれば、全てを忘れられる。生まれる前の赤子のように。
(そう言えばクスミノオオカミが……)
眠りに落ちる直前の意識は、忌まわしいはずの記憶を追想した。あの『神』は真実など何の役にも立たず、霧の中にこそ平和と安息があると、墓荒らしに恨み言を言っていた。今にして思うと、マリーが化身したあの怪物の気持ちが分かる気がした。真実は受け入れ難いものばかりで、現実は耐え難い。しかしそうかと言って、嘘や虚構も気に入らない。ならば──
「……」
悠は考えることをやめて、目を閉じた。何も思わず安息に落ちた。自分の体の感覚も忘れ、自分の体には血が通っていることも忘れる。こうしていれば、やがて息をすることも忘れられる──
しかし死の懐にあってなお、そっとしておいてもらえないのが絆を束ねる者だ。
「どういうつもりかしら?」
「……」
声をかけられても、悠は顔を上げない。
「立ちなさい。貴方はここで倒れる人ではないわ」
顔を上げなくても、誰がそこにいるのかは分かる。マーガレットだ。
(貴女に何が分かる……)
「私は分かっているわ。貴方も分かっているはずよ」
さすがは千里眼の魔女である。夢の中で、更にその心の中でだけ思ったことにも返事をしてくる。
「絆の本質を……絆が貴方に与えるものを。人々の想いを、貴方は受け取らなければならないの。貴方の先輩が、かつてそうしたように……」
先輩──
「……」
静寂に満ちた平和の中で、ふと動きが生じた。先輩と言えば、あの先輩である。有里が過去にどのような戦いをくぐり抜けて来たのか、詳しいことは聞いていない。だがもし教えてくれと頼んでいれば、教えてくれたかもしれない。眠りながら、悠はふとそんなことを思った。
大海に浮かんだ小さな泡沫。それが弾けるような微細な揺らぎが、安息が乱れる隙になった。
『行くなよ、悠……お前に会って、変わったよ。俺の中の全部……』
陽介である。自分を庇って同じ世界に落とされたはずだが、自分と違って眠ってはいないかのように声を届けてくる。
「……」
相棒の声を聞いても、悠は顔を上げない。陽介の姿を見はしない。『ウザいから黙れ』とも言わずに、ただ沈黙する。しかしそれでは声が聞こえてくるのは止められない。そっとしておいても、何も良いことはないのだ。
『や、やだ……鳴上君……。怖いよ、君がいないと……』
『ねえ、鳴上君……聞こえる? まだ目を閉じないで……』
案の定と言うか、他の仲間たちの声も聞こえてきた。千枝と雪子だ。同じ神の呪いで同じ場所に来ているのなら、声が聞こえること自体はあるかもしれないが、言葉は状況にそぐわない。つまりこれは、当の本人が喋っているのではない。
「……」
悠は一つのことに気付いたが、依然として沈黙を続ける。そうしているうちに、完二、りせ、直斗の声も聞こえ始めた。言うことはどれも同じだ。
『やめてください、鳴上さん。もう嫌です。大切な人を失うのは……』
今度は尚紀だ。イザナミとの戦いの場に現れなかった、ここにはいないはずの人間の声まで届けられてくる。ますますもって、当人がそこにいるのではないとの確信が強まる。つまりこれは幻聴だ。幻は特捜隊に続いて、現実の霧に現れていたシャドウの『声』のように、シャドウワーカー稲羽支部の人々までも演じ始めた。続いて結実が来る。
『馬鹿……一人で何でも抱え込んでさ。一人じゃないから、できることがあるんだよ。恋人でも友人でも、家族でも……いつかは別れが来る。だけど……ううん、だから私たちは絆を結ぶんだよ』
もちろんこれだけでは終わらない。絆の称揚は、一条と長瀬、あいの声を借りて続けられる。更には戦いとは関係のない、町の人々の声までも。生田目とひさ乃はないが。そして──
『……』
「……」
『どうした、悠……』
一人分の沈黙があった後に、堂島が来た。叔父であり父でもある大人の男の声だ。
『お兄ちゃん、菜々子をおいてっちゃうの……?』
従妹であり妹でもある少女も一緒だった。
『お前が教えてくれたんだぞ、家族ってもんを……。お前らがいるから、俺は何度だって立てるんだ』
(違う……違うんだ、叔父さん……)
『菜々子、いい子にするから……。行っちゃやだ……』
人々が寄せてくる愛と信頼。それはまさに、かつて先輩が歩んだ道である。即ち宇宙と等価の存在に至る道。マーガレットの言葉を借りれば、絆とは人を真実で照らす輝かしい道標だ。そして仕上げとばかりに──
『センセイ……』
何たることか、行方知れずの仲間の声まで聞こえてきた。悠はうつ伏せになった自分の体の存在を感じ始めた。ここに自分がいることを、自分が生きていることを、どうしても感じずにはいられなくなってしまった。
「違う……違う!」
それが悠を苛立たせる。輝ける道を歩け歩けと、立って進めと背中を押す声が、どうしようもないほど耐え難い。ずっと心に巣食っていた『ぐちゃぐちゃした』思いが、とうとう爆発した。
「お前たちに何が分かる!」
人は見たいように見て、聞きたいように聞く。よく言われることだが、その通りである。まさに人々は、コミュニティの担い手たちは見たいように見ている。噂に振り回される世間よりも、彼らこそが惑わされている。仲間たちや家族は言うに及ばず、マーガレットさえも見たいように見ているのだ。
絆の主を全能者か何かと、超人や天才のように思っている。どんなに控え目に言っても、いかなる困難にも負けない不屈の男だと思っている。だが悠自身は違う。
『愚者』の少年は立ち上がった。決意を込めて堂々と立ち上がったのではない。皆の支えによって、ないはずの力が湧き上がって立ったのではない。傷つけられることが日常となって、抵抗する気も失せた無気力症の患者が、何かの拍子で本性を表すように勢いをつけて立ち上がった。差し伸べられた手を払うように、白い世界に浮かぶ幻たちを睨む。
「お前たちは、俺を見ていない!」
大声を出すと、顔に負った傷が痛んだ。内面から生じる禍々しい感情が砂漠の太陽さながらの狂的な熱を発して、創面に更なる歪みを加える。こんな顔を人に見せたことは、もちろん過去にはない。
最も近くにいたのは陽介の幻だ。満身の怒りを込めた視線でもって、見慣れた姿を貫いてやる。絆の表面ではなく、本質を見ようとした。ここにいるのは花村陽介本人ではないと、絶対の確信を込めて睨んだ。
「やっぱりな……!」
すると『陽介』の正体が見えた。絆創膏だ。昨年に殴り合った河原で、親友から貰ったものである。現物は引っ越しの荷物に入れてあるはずだが、テレビの世界は心の世界である。記号表現が記号内容に化けたとしても何の不思議もない。自分が眠ろうとしている間にどこかの誰かが魔術を行って、想いの依代として呼び出したのだ。
霧をまとって光を放つ絆創膏に右手を伸ばした。そして握った。特捜隊のペルソナ召喚の基本は、中空に浮かぶタロットカードを握り潰すことだ。力を呼び出す仕草でもって、力の源泉を握り潰した。
──
絆とは力の源である。仲間がいるから頑張れるとか、そんな単純な話ではなく、極めて魔術的な話だ。それを手で握って粉砕した。光の粒が指の間から滲み出て、霧へと溶けていく。
更に見据えると、他の担い手たちの幻も姿を変えた。リストバンドに神社のお守り、化粧水に台本、更には眼鏡拭き。その他諸々の、絆を証明する物たちだ。これらは全て封印したはずである。それなのに道標となって霧の世界を照らしながら、そこにあった。
忌まわしいことに。
悠は苛立ちを込めて手を握ると、自分の左手が長剣を持っているのに気付いた。メサイアが生んだこれは審判の絆の証明だ。魔術師の絆を粉砕した右手を束に添え、剣を横薙ぎに振り回した。
「うわあああ!」
──
特捜隊の仲間たち、稲羽支部の高校生組、そして町の人々。数々の絆の証明を、剣でまとめて薙ぎ払った。抵抗は感じなかった。神でも殺せる神剣の名で呼んだ神秘の武器は、絆さえ斬れた。空気を斬るようにいとも容易く、難しくなく。信頼は得るのは難しく失うのは容易いという、現実の法則に則るように。
最後に残ったのはコーヒーカップと家族写真だ。
「こんなものがあるから……!」
堂島に名前を書いてもらったカップと、家族四人で撮った写真だ。悠は剣を振り上げ、血縁に上乗せされた家族の絆を斬った。重い刃を容赦なく振り下ろし、かけがえのないものを叩き壊した。
「なーにやってんの……」
すると所業を見咎めるように、間延びした声が後ろから届けられてきた。
「足立さん……」
欲望、ではなくて道化師の絆の担い手である。証明するものは、きっと今日届けられた手紙だ。それはジャケットの上着に入れてあるが、足立の姿は霧の中に現れた。服装は昨年よく目にした、よれたスーツ姿だ。ただしネクタイは締めていない。
「自分が何やってるか分かってんの? それ、友情の証でしょ。君たちが大好きな超・青春! そのものじゃん」
そして言うことは他の担い手たちとは違っていた。絆を揶揄する物言いだ。
「違います。違うんだって、貴方が教えてくれたんですよ」
そう、違うのだ。握り潰して叩き切った諸々は、『我』が教えるコミュニティと呼ばれるものの証明だ。友情の証ではない。何も考えず流されているだけであれば、両者の区別などつかなかったかもしれない。だが今となっては悠には分かる。耐え難いほど違いが理解できてしまう。
「ああ……違うよね。そりゃそうだ。でも、だから何さ」
そして足立も違いを理解している。やはり足立透は他の担い手とは一線を画している。道化師は絆の主たる愚者と同格だ。絆の不条理に惑わされていない。だがその上で、足立は悠の稚気を窘める。
「やっちゃえばいいじゃん! そうすりゃ君はヒーローだ! 野郎どもはもう一生君に頭が上がんない! みんな下僕だ! いや、信者だ! 女の子たちは惚れ直しちゃう! 何股かけたって許されるよ。ハーレムだ!」
足立は清々しいまでの爽やかな笑顔を浮かべ、やってしまえと若者を唆す。ふざけた限りの言い草だが、本気である。その証拠に、足立は言い終えるや笑顔を引っ込め、手紙の几帳面な文字のように真面目な顔になった。
「君、そういうの好きでしょ?」
「……」
悠は黙った。男はみんな下僕や信者として従えて、女は手当たり次第に自分のものにする。そんな外道なことをしても、誰も怒らない。むしろ幸せになる。それはまさしく男の夢だ。怪しい新興宗教の教祖でもない限り、現実ではそうそう為し得るものではない。
黙っている間に、同格の繋がりがもう一人現れた。
「コミュニティとは、不条理なもの。人の心を弄ぶ代物だ」
「有里さん」
力と絆の先輩だ。フードコートでは適当な嘘を吐いて煙に巻いたが、事がここに至って見つかったようである。ただどういうわけか、美男と言って差し支えのない有里の顔には、痛々しい痣がある。
「勘違いされるのは心苦しい。僕も経験があるから、よく分かる」
「貴方は分かってくれると思ってました」
「だけど今はそれが必要なんじゃないのか? それを使えば、あいつを倒せるんだ。いとも容易くね」
駄々をこねている場合なのかと、有里は言っている。たとえコミュニティに不条理を感じても、心苦しくても、耐えて進めろと有里は昨年11月に言っていた。有里は分かっていたのだ。シャドウと戦うペルソナ使いとして、絆を束ねるワイルドとして、そして人生の先輩として。悠が通った道を既に通り抜けてきた有里は、大人として少年を導いてきた。そして今、道を踏み外そうとする後輩を引き留めている。
「……」
「それで自分が死ぬんじゃないかと思っているのなら、余計な心配だ。君の使命はとても簡単なものだ。時間を止めたり戻したりすることに比べればね。機械を人間にするみたいなものさ……。力を使ったって死にはしない」
「分かってます。でも俺にはできません」
もし虚ろの森でこの力に目覚めたなら、悠はやった。宇宙と等価の存在にでも何にでもなって、世界を変えることもできる奇跡の力を、マリー一人の為に使っただろう。あの戦いを自分の生きた証として定めて、一年間の『答え』として受け入れた。たとえそのまま死んでも悔いはなかった。生き残ったとしたら、黒幕の存在など知りもせず、知ったところで顧みず、有里に任せて稲羽から去った。だが今はできない。
そうして『駄々をこねている』間に、大人がもう一人現れた。
「再びの春だな」
「え……」
足立と有里が現れた時には驚かなかったが、これには驚いた。現れたのは、ネクタイを緩めたスーツ姿の五十代くらいの小柄な男だ。前歯がはみ出し気味で、白目勝ちの目は垂れた形だが、視線は鋭い。一言で言えば、濃い顔の男である。味の濃い調味料をあるだけ混ぜ合わせたような、鬱陶しいくらいの顔だ。
「せ、先生……!」
倫理が専門の高校教師、諸岡金四郎がそこにいた。永遠の別れから季節は二つ過ぎた。出会った季節が再びやって来たら、命も巡り巡ったように。足立と有里の間に立つ猫背の姿は、眩しいくらいの光を放っていた。もう一度会いたかったと、話を聞いてほしかったと何度も思った不出来な生徒は、思わず身を乗り出してしまう。
しかし亡き恩師は甘くない。八十神高校随一の嫌われ教師は、死後のニュースでも言われていたように厳しい指導で知られていた。
「春だからって、恋愛だ異性交遊だと浮ついてんじゃないぞ!」
悠の周囲にいる大勢の人々の中で、最も厳しいのが諸岡だ。だから恩師なのだ。数ヶ月振りの再会だろうと、容赦なく怒鳴る。懐かしい限りの叱責に、近づこうとした足は止まった。
「……済みません。一度だけ許してください」
そして謝った。
「ふん……貴様はどこまでも腐ったミカンだな。だが仕方なかろうな。それが貴様なのだから」
「そうです……それが俺です。分かってくれるのは貴方だけですよ、先生……」
「うわ、先生だけだって。僕らも眼中にない?」
「仕方ないですよ。死人は無敵です」
足立と有里は苦笑したが、悠はもう先輩たちを顧みなかった。コミュニティの証明が化身したのとは違う、本当にそこにいるような三人に背を向けて、一人で異界の天を仰いだ。悠はイザナミの呪いに捕らえられたままだ。まずはこの空間から出て、あの神と向き合わなければならない。
その為の鍵は──
「……」
悠は長剣を床に突き立てて、空いた手を懐に差し込んだ。冬からずっと持ち歩いていたものを取り出した。コミュニティの担い手たちから貰ったものの中で、唯一荷物に封印しなかったもの。マリーの櫛である。
これは絆の証明ではない。永訣の証だ。
(これは……俺がここで投げ捨てたものだ)
どれほど昔かも分からない遥かな遠い日、ある男がここで櫛を投げ捨てた。追いすがる女を振り切って、別れの品を叩きつけたのだ。妻の死体に恐れをなし、死の国から逃げ出したその男は、悠ではない。しかし悠はそれを自分であると見なしていた。もちろんここに来た当初は、そんなことは思っていなかった。ただ死に場所を探すつもりで来たのだ。
「責任は……取らなきゃいけないな」
だが今は違う。個人的な願望や意地の為に戦うのではない。テレビに入る能力を人に与えて舞台を整えた、黒幕を倒すのでもない。その黒幕を傷つけ、悪へと追い詰めた真の元凶が犯した、原初の罪に対する責任を取る。その為に、やるべきことをやらねばならない。悠はそう思う。思うのだが──
「鳴上君。責任ってものは客観的に自分に帰する責任のうち、取れる分だけ取ればいいんだ」
有里が再び声をかけてきた。これは『本来あるべき運命』から離れて、生き残った男の信条である。以前足立に、そして悠に聞かせたことがある。
(これは見たいように見る……って奴そのものかな)
後輩は思わず項垂れた。先輩の忠告はかなり効いた。自嘲が頭をよぎってしまう。つい今しがた、絆の担い手たちに向けて見たいように見ていると叫んで、絆の証明を破壊した。だがそんな自分こそ、実は誰より見たいように見ているのだと。己に属さない罪を自分のものと言うことは、己に属する罪から目を背けることと同じくらい間違っているのだ。
しかし自嘲しつつも、後輩はまた思い直す。
(いや、そうじゃない。やっぱり俺の責任なんだ)
遥かな遠い日、死の国である男が犯した罪は、客観的には悠の罪ではない。だが主観的には悠の罪だった。そしてこの櫛にまつわる罪は、客観的にも悠にある。そう信じて、目を閉じながら櫛の両端を強く握った。
櫛とは苦と死に通じる、不吉な贈り物だ。それを人に贈るとは、人に死の苦しみを与え、己は死の苦しみから逃れること。黄泉比良坂から逃げ帰った落ち武者は、死ねない人間、永遠の生者、即ち神となったのだ。
──
非日常に満ちた一年間と、それ以前の日常だけの人生。その全ての重さを乗せた万感の思いを両手に込めて、別れの証を折った。
「む……? どうやって戻って来た?」
目を開くと、悠の前には枯れた花があった。死んだ女の姿をした大きな神だ。イザナミは黄泉比良坂の奥の院、霧の源泉に依然として佇んでいる。
「こんな仕打ちをするのなら、一日に千人殺す……。それが君の呪いか」
(一日に千五百の産屋を立てよう……だったな)
千が死に、万が生まれる。それは誰もが知っている普遍的な真実だ。水が高い所から低い所へ流れるような、自然のルールを表す言葉だ。それを口にすれば、きっと敵は退く。だが──
「陽介……」
周りを見回してみると、そこには陽介がいた。千枝もいる。雪子もいる。もちろん完二も直斗も、りせもいる。クマはさすがにいないが、特捜隊が勢揃いだ。ただし誰も彼もが眠っている。立ち込める霧に頭を侵食されて、体からあらゆる感覚が抜け落ちて、死のような眠りに落ちているのだ。
「有里さん、足立さん……」
視線を更に巡らせると、諸岡はいなくなっていたが、有里と足立の姿は見えた。彼らは起きている。と言うより、そもそも彼らの体はここにない。絆の結晶化の為に、魂だけが呼び寄せられたのだ。夢でベルベットルームに招かれるようなもので。
「メサイア」
一声呼んで、救世主のペルソナを召喚した。頭痛はしない。十握剣と名付けた剣を床から引き抜き、頭上に現れたペルソナに向けて掲げた。すると救世主は差し出された剣を受け取った。子供を抱き締めるように、大事なもののように凶器を両手で抱えて、そして姿を消した。
それと共に有里の姿は消えた。足立も消えた。そしてもう一人の姿も消えた。人間に見落としがないなどあり得ないように、いることに悠は初めから気付いていなかった、もう一人も消えた──
「何のつもりだ……?」
イザナミが声をかけてきた。悠は何をしているのか、何をするつもりなのか、イザナミは分からない。見上げるような巨大な神は、根元で這い回る小さな虫のような人間のすることを理解できないのだ。人に無謬や全知があり得ないのは言うまでもないが、実は神にもない。
「俺はもう……君と戦うつもりはない」
悠はクマの眼鏡に手をかけた。霧を見通してくれる便利な道具だが、見えないものをますます見えなくしてしまう。そんな不便な道具を顔から外した。
そして放り捨てた。
「ん……相棒!」
「せ、先輩! 大丈夫……なの?」
仲間の証を捨てた途端、仲間たちは起き上がった。
「俺が見えるようになったんだな」
人を惑わす定めの眠りから覚めたのだ。眼鏡を通した陽介たちの目には、悠の顔が映っている。昨日までと何も変わらない、若い男の顔だ。誰もが慕い、恋し、信仰した男だ。その一方で、立ち去った女を追って墓所まで駆けながら、肝心なところで目を背けた愚かな男。
男が象徴する存在は、神話の時代に万物を生み出した偉大な神の一柱だ。その一方で、妻を追って冥界まで下っておきながら、成し遂げられないまま逃げ帰った落ち武者の神。それから永劫の時を経て、人間になった神は再び死の国に戻ってきた。
「……」
仲間たちから目を離し、前を見た。そこにいるのは死の国に閉じ込められて、転生の輪から締め出された永遠の死者。即ち神だ。そして我が子に殺され、夫にも捨てられた憐れむべき女だ。
その女に向けて、悠は歩みを進めた。
「貴様……!」
するとイザナミと名乗った女、神典に書かれた文字に起こせば伊邪那美大神は動揺を見せた。神は無謬がないばかりか、何があろうと動じない心もない。
「一日に千頭絞り殺さむ!」
巨大な神は呪いの言葉を吐いて、悠の足元に波紋を呼び起こす。黄泉の兵士か怪力女のものか、生者を捕まえて自らの仲間にする死の誘い手だ。それを悠はかわした。
「……」
いや、攻撃を見切ってかわしたのとは、明らかに違う。悠は無言のままに、ただ歩いているだけである。それだけでイザナミの呪いに捕らえられずにいた。足元から伸びてくる黒く細い手が体に触れる寸前、悠の体は前へと進んでしまう。死神は空しく宙を掴むだけだ。
「なぜだ……なぜ通じない!? 神である私が、惑わされていると言うのか!」
悠から見ると、イザナミは赤黒い影にしか見えない。仲間の証である眼鏡を捨てたので、霧の世界では視界はきかない。死と腐敗を連想せずにはいられない恐怖の姿形は、輪郭がすっかり隠されてしまっている。それでいながら、いやそれだからこそ、ある『真実』が見えていた。
──
やがて足元で水を踏む音が上がった。テレビの窓に触れた時と違って、パシャッと鳴る水の音だ。歩いているうちに、霧を生み出す泉まで至ったようだ。足から忍び寄る気配は冷たい。地下に広がる洞穴の底で人知れず眠っていて、日の光など永遠に浴びることのない、大地の深奥で湧く泉のように冷たかった。
それは死の冷たさ。息が止まり、心臓が止まり、魂が泡へと還ってしまった後の、人の形をした物質に過ぎないものの冷たさだ。
「悠! お前、どこ行っちまったんだ!?」
「先輩! どこ! どこにいるの!?」
「クッソ! これじゃ何も見えねえぜ!」
背後から仲間たちの声が微かに聞こえてきた。眼鏡をかけている皆の目にも、悠の姿はもう見えないようである。神秘にも程度の差があり、愚者の絆の証明が見通せる神秘の深さは、霧の源泉には届かない。もちろん眼鏡を捨てた悠にも何も見えない。だが見えなくても見えているものがある。
それは虚像のような実像。妄想のような現実。どんな嘘よりも酷い真実。例えば人々の希望である鳴上悠を、殺人犯である足立透と同じであると見なすような。ヒーロー気取りの誘拐犯である生田目太郎と同定するような。稚拙な模倣犯の久保美津雄と同じレベルの人間であると断定するような、そんな真実だ。
「マリー……そこにいるんだろ?」
「そんな者はいない」
霧の向こうから、にべもない否定が返ってきた。当たり前と言えば当たり前だ。嘘みたいな真実を聞いても、誰も認めない。認めるのは頭に大のつく愚か者くらいだ。イザナミは愚かではないようで、悠の言い分を認めなかった。
「いや、君がマリーだ」
しかし悠は諦めない。どんなに否定されても拒まれても、決して足を止めない。涙で生まれた泉に分け入って、膝を、腰を、やがては胸まで死に浸らせる。氷の棺よりも冷たい霧の霊安室に身を置いて、なお立ち止まらない。そうして歩いているうちに、やがて真実がはっきり見えてきた。
別れの櫛は、既に折って捨てた。火を灯して闇を照らす道具はない。ないからこそ、かえって見えるものがある。遠目には巨大だった神の姿は、近づくにつれて小さくなってきたのだ。離れたものは小さく、近くに来ると大きくなるのが自然の法則なのだが、それとは逆のことが起き始めていた。
「やめろ……来るな……」
姿ばかりか、声まで変わってきた。偉大な存在が発する声は力強く、逆らい難く、しかも小さな者への哀れみがあった。しかし懐まで入り込んでみれば、まるで逆の色に染まってきた。途切れ途切れで、躊躇いがちで、弱弱しい。聞く者にこそ哀れみを誘うようだった。
「見るな……」
見るなのタブーを違えた者には、死あるのみだ。だが悠は見た。
「やっぱり……そうだったんだな」
泉の中心まで渡って来た悠は、真実を見た。無限のような霧のベールの最後の一枚、薄靄の向こうにいるのは、とても小さな存在だった。永劫の時に侵食され、あらゆる『情報』が流れ尽くした後の骸だった。壊れかけの機械のように、忘れ去られた神の成れの果てのように、雷の欠片が僅かながらに瞬きしているだけだ。山かと見紛う巨大な超常の存在の『真実』は、人間程度の大きさしかない、小さな女の死体だった。
そして死体と言えば──
「虚ろの森で、俺は君から目を逸らしてしまった……」
「……」
悠は最後の一歩を進めた。全てを受け入れようと、眼鏡を捨てた肉眼を広げた。全てを受け止めようと、剣を納めて武装解除した両手を広げた。死の恐ろしさや腐敗のおぞましさから、決して目を背けまいと。自らも死んで腐っても構うまいと。痛みに悶え、屈辱に苛まれようとも、悔いはしないと覚悟を決めて。
「済まない……」
昨年から悠はマリーに何度も詫びていたが、虚ろの森では言えなかった。言えなかったその後悔を償うように、今ここで口にした。自分の罪を認めるように、辛い現実を見つめるように、悠は『マリー』を抱きしめた。
そして闇に包まれた──