夜を侵略する文明の光が灯される以前、世界の半分は闇に抱かれていた。人が闇に怯え、身を縮ませて生きてきた期間は、そうでない期間よりもずっと長い。人類の歴史を本にすれば、ガスや電気の光で照らされるのは最後の章だけだ。ましてテレビやラジオ、更にはインターネットに世界の情報が展開され、人、物、金が地球の全域を覆うようになった期間は、最後の一ページだけである。
現代とはそんな時代だが、急激に発展した人間の力をもってしても、まだ征服できていないものもある。例えば死だ。不老不死や死者の蘇生は、人間には未だ不可能である。もし可能になったならば、人間は自然を究極的に制圧し、神を凌駕したことになるのだが。
悠は気付けば闇の中にいた。霧の中ではない。電灯はおろか火の灯りさえない、文明どころか人間が発生する前のような闇だ。不自然な白い闇を突き抜けたら、自然な黒い闇に至ってしまったようだった。自分の手を顔の前に持ってきても、指と空間の境目も見えない暗黒だ。
「マリー!」
前後も不明瞭な虚空へ向けて、悠は叫んだ。枯れることを知らない喉を絞って、恋した少女の名を呼ぶ。最近になって知った神の名ではなく、一年近く前に聞いた名で。
「マリー……」
しかし返事はない。必死な声は受け止められることはおろか、何かに当たって跳ね返ることさえない。底なし沼に石を落とすように、何の甲斐もない。
「いないのか……」
やがて悠は肩を落とした。
あの時、イザナミはマリーであると直感した。だが実は間違いだったのだろうか。砂漠で蜃気楼を見るように、霧の中で愛しい人の影ですらないただの幻を見たに過ぎなくて、手で触れようとして適わなかった。ただそれだけのことなのだろうか。そんな疑問に囚われてしまった。悠は一切の揺らぎを持たずに信じ切る精神を、過酷な一年を経ても身に付けられていない。
闇の胎内で、愚者の少年は首を巡らせた。だが右も左も深海さながらの黒しかない。自分がここにいること、それ自体にさえ疑問を抱いてしまいそうな、絶対の無だ。黙っていては、すぐにでも気が狂う。
(君までの距離……永遠みたいなミッドナイトブルー……)
そうしているうちに、いつか読んだ詩句が蘇った。マリーの詩は何度も読んだが、最も脈絡の見えない状況で手にした便箋に、永遠の
(あそこは泉だった……ならここは……)
道を塞ぐ岩と霧の泉。それらを通り抜けた先は、明けない夜。黄泉比良坂の先は
悠は崩れ落ちるように膝をついた。体を地面に打ち付ける痛みが起きるが、すぐに消える。大きな息を吐き出して、呼吸をする自分の腹の動きを感じる。だが空気はすぐに尽きる。心臓の鼓動だけが耳を打ち続けるが、遠からずそれも止まる。そんな予感に襲われた。
(ここで……俺は死ぬのか)
どうせ落ち武者である。惜しい命ではないし、今日は捨てるつもりでいた。雷に撃たれるか怪物に体ごと食われるかして、電柱に死体が吊るされることもないままに、誰にも知られず孤独のうちに死ぬつもりでいた。つまりここで死ぬことは、当初の目的通りになるというだけだ。
見えない床に両手をついて、身を投げ出した。人間はそっとしておけば、やがて死ぬ。誰かに殺される必要もなく、ただ自然に生きているだけで、いつかは死が訪れることが約束されている。無情な生命の法則に身を委ねるつもりで、目を閉じた。
しかし──
「センセイ……迷子ちゃんクマ?」
「え……?」
聞き覚えのある声とセリフで、顔を上げさせられた。ここは宇宙的な虚無が覆う、絶対の孤独が支配する空間である。他人が存在するはずのない真の闇に、宵の一番星が突然浮かび上がった。星の光は粒のようなもので、夜を遍く照らすにはとても足りない。しかしたとえたった一つの光でも、有と無では全く異なる。
「でも大丈夫! センセイにはクマがいるクマ!」
迷子をそっとしておかない光が、孤独な少年のもとまで駆けてきた。小さな星は小さいながらも自ら光を放って、自分の周囲だけを小さく照らしている。色は白と金、そして青だ。
「ク……クマ!」
死の無へと自ら落ちようとした迷い人は、思わず立ち上がった。心の底で沈殿したまま蓋をされた願望が、何かの弾みで自らの存在を主張し始めたようだった。現実が幻を求めるまでもなく、幻の方から現実へと化身してきた。もう長いこと仲間たちの間でも憚られていた、行方知れずの人外の少年が走ってやって来た。
「お前、今までどこに!」
クマは野獣の毛皮、もといソロモンの着飾り、でもなくて夢の国の着ぐるみを身に付けていなかった。人の姿をしている。それと同時に人外の証をさらしている。白磁を超える透き通る肌、輝ける金の髪、不自然なくらいに青い瞳、そして美しすぎる顔。それらが天空で瞬く星さながらに小さな光を放って、悠を照らしてくれた。
ただし見た目の鮮やかさとは対照的に、言うことは少々迂遠すぎる。
「クマは湖になったクマ」
「は?」
悠はクマの言葉を理解できない。宇宙と等価の存在にならず、人々の信仰を集める神にもならなかった人間の悠は人間の理解力しかない。だから正体は相変わらず謎の存在の言葉を、理解することはできなかった。
「ま、気にしないでクマ! それより、こんなトコにいちゃダメクマよ。案内するから、ついてきてクマ!」
クマは悠の手を引いて、闇の一方へ向けて走り出した。
「お、おい!」
「心配いらんクマ! クマはジュネスじゃ迷子のお世話もしてるんだクマ! マスコット、舐めたらあかんぜよ」
クマは悠を先生と呼ぶ。つまりクマは悠の弟子だ。弟子は師に従うのが常で、弟子の方から師を押したり引いたりすることは、めったになかった。稀にあっても、勝負は常に師が勝利してきた。しかしこの常闇ではクマの方が先輩のようだった。自ら死のうとした愚者をそっとしておくどころか、遠慮なく引きずり回す。
右へ行っているのか左へ行っているのか、クマの姿しか見えない悠には、どこをどう走ったのかさっぱり分からない。道案内を完全に任せたまま、ひたすら走らされた。しかしクマは道を間違えない。もちろん悠を騙して、より深い闇へと連れ去ることもない。
「あ……」
走らされているうちに、闇の色が変わり始めたのに気付いた。闇であることには変わりないが、色は黒から灰色へ、そして白へと変わり始めた。霧である。眼鏡がないから見通すことはできないが、色くらいは裸眼の悠でも分かる。
手を引かれて走り回ること数分、もしくは数十分か数時間か。悠はいつものスタジオに至った。出口の三段テレビは、クマが行方不明の間もそのまま残っていた。ここからジュネスに戻れるはずだ。悠は今日で全てを終わりにするつもりでいたのだが、これでは死ねそうにない。
「さ、帰るクマ。ナナチャンが待ってるクマよ。ありがとう、センセイ……」
「……お前は?」
自分自身に終止符を打てないことは、取り敢えず置いておく。だがクマの言いようには違和感を覚えた。弟子は師を一人で帰そうとしている。身の振り方を尋ねると、クマは表情を陰らせた。
「クマは……ここから出られないクマ」
「どうしてだ。今まで何度も出入りしてたじゃないか」
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、
クマが聖句を口にするのは、昨年から何度もあった。今のはヨハネによる福音書の引用だが、悠には分からない話だ。宗教的な文脈や背景は知識として知らないし、この場で考えようにも文語なので分かりにくい。
「……どういう意味だ?」
だから悠は聖句の意味を直接尋ねた。ブランクがあったとはいえ長い付き合いで、初めてのことである。
「クマはね……ホントはクマじゃないの。ピンクのワニだったの」
「童話か?」
クマの答えは問いに直接応じるものではなかった。だが答えそのものに対する悠の理解は及んだ。ピンクのワニとは絵本に登場する生き物だ。一度菜々子に読んで聞かせた覚えがある。
「ううん、童話じゃないクマ。現実の話」
クマは悠とは逆に、菜々子に絵本を読んでもらったことがある。弟子は師の妹と出会って以来、ほとんど常に妹を介して師と接していた。そうして育まれた愛が、クマに自分の正体と罪を悟らせた。
「クマはね、シャドウなんだクマ。ピンクのワニみたいに……ちょっと変わったシャドウ」
謎の人外は告白した。あの暗黒の日に何が起きたのか、そして自分が何者だったのか。
「そうか……菜々子を助けたのはお前だったのか」
冬の初めに起きた奇跡について、冬が過ぎた今になって真相が明かされた。悠が己のシャドウのような男を殺そうとして、全てが狂ってしまった12月3日、菜々子は死の国から帰ってきた。その原因は今までずっと不明なままだったが、言われてみれば腑に落ちる話だった。菜々子が黄泉から帰ってくると同時に、少女を愛していた人外の少年は姿を消したのだ。蘇生と失踪には何か関係があると、二人の繋がりを知っている者なら思い至るはずである。
「……分かってやれずに、済まなかった」
どうして今まで気付かなかったのか、可能性さえ考慮しなかったのか。それは目を背けていたからに他ならない──
「ううん……いいんだクマ」
しかしクマは自分を忘れていた悠を責めはしない。今日の悠は死ぬつもりだったが、当時のクマも似た心境にあったのだ。ピンクのワニのように、誰からも永遠に忘れ去られたとしても、悔いはしないつもりだった。なぜかと言うと──
「クマはナナチャンのシャドウを見たくなかったから……食べちゃったクマ。あの時、クマは食べちゃいけなかったんだクマ。ナナチャンがシャドウを受け入れれば、ナナチャンは死なずに済んだんだクマ」
事の始まりは、菜々子がテレビに落とされた11月5日だ。あの日、菜々子のシャドウが現れた。悠以外の特別捜査隊は、怪物に変じた己のシャドウが倒されて受け入れることで、特別な力を身に付けた。だが菜々子のケースは例外だ。シャドウは出たがそれまでの前例に倣わず、『通過儀礼』を経ないままいなくなってしまった。
クマが『食べて』しまったからだ。それがクマの罪だった。
「ナナチャンが死んだのは、クマのせいなんだクマ。だから……クマはクマの命をナナチャンにあげたんだクマ」
そして自分の命と引き換えに、菜々子を生き返らせたのが償いだった。
「それじゃ……」
「クマはもうこの世界から出られないの……。クマが出て行ったら、ナナチャンが死んじゃうクマよ……」
人は『心の中に生きている』と言うことがあるが、それは死んだ人のことである。そしてテレビの世界とは心の世界だ。心の世界から出られないとは、死ぬことに限りなく近い。クマは一粒の麦となって、菜々子の実を結ぶ道を選んだ。つまりは己の『死』に意味を見出したのだ。だから悠と一緒に帰ることはできない。
だが──
「お兄ちゃん……」
師弟の間に突然影が湧き上がった。
「え……」
突然である。音もなく、一人の少女がどこからか滑り出た。自分の罪を告白したら、罪そのものが自らの存在を主張し始めたように。心の片隅に潜んでいたトラウマが、口に出されたことで色鮮やかにフラッシュバックするように。体の中から瞬間移動したように表に出てきた。
「ナ、ナナチャン! ……の、シャドウクマね! ど、どどどーして!?」
クマは戸惑うが、少女は自分を食べた野獣に構わない。
「菜々子……」
現れた菜々子のシャドウの目は金色に光ってはいない。本物と同じ色をしているが、やはり本物ではない。クマが言うのだから間違いない。茶色の瞳には本物以上に深い憂いが湛えられている。そしてシャドウが現れれば、問答無用で叩きのめすのが特捜隊のやり方だが──
「お兄ちゃん……やっぱり菜々子を捨ててくんだ?」
「いいや……そんなことはないよ」
悠はそうしなかった。無用のものとして顧みなかったシャドウとの話し合いを、リーダーは今になって始めた。イザナミと戦うのを途中でやめたように。人に話を聞いてもらえるという珍しい幸運に与ったシャドウは、期待に瞳を輝かせた。
「じゃあ菜々子を連れてってくれる? お兄ちゃんの彼女にしてくれる?」
(これは……そうか、小西みたいな話か)
ここで悠の勘が仕事をした。シャドウが言っているのは、田舎から都会に連れて行ってくれるかとか、恋人にしてくれるかとかの意味ではない。菜々子のシャドウを悠のペルソナとして受け入れてくれるか、との意味だ。
他人のシャドウを自分のペルソナにすることは可能である。早紀のシャドウを尚紀が受け入れたように。実例を見ているので、悠は菜々子のシャドウが望んでいることを理解できる。そしてやろうと思えば、できないことではない。複数のペルソナを操るワイルドは、きっとそういうこともできる。しかし──
「菜々子の居場所は、この町だよ」
悠はそうしない。古い物語にある恋の日、七夕の少し前に放たれた答えにくい質問に対して、今になって答えた。望みを叶えてもらえない悲しみが、霧の鏡に映った菜々子の顔に影を落とす。そっとしておくとシャドウが暴走しそうな状態だ。
「大丈夫、菜々子は一人じゃない」
交渉が危機に陥ったところで、悠は踏み込んだ。問いが発せられた夏の日はピアノを弾いてごまかしたが、今日は本音で応じる。いや、本音と言うより事実と言うべきか。
「叔父さんがいるし、叔母さんも心の中にいる。何より……クマがいる」
正月に本物に対して言った通りで、悠にとって菜々子は妹だ。『
「クマさん……?」
「そうさ。クマと約束しただろう?」
クマがいる限り、悠の出番はない。兄は『許婚』に目配せした。
「ナ、ナナチャン……クマ、確かに約束したクマ。元気になったら、一緒に遊ぼうって……忘れちゃったクマ?」
クマと菜々子が『契約』したのは、天上楽土から救出した後だ。本体から分離したシャドウは知らないはずの、秘密に交わされた約束である。しかし──
「うん、覚えてるよ……」
シャドウと本体は不可分だ。本来的には『本体と影』という区分け自体が意味をなさない。光が経験したことは影も経験している。それは即ち、菜々子のシャドウは菜々子自身であるということ。我は汝とは、よく言ったものである。
「クマさん、ありがとう……」
そしてシャドウもまた菜々子として、クマに応じた。クマがシャドウを菜々子として扱った、その返答のように。自分の為に死んでくれた一粒の麦に、礼を言ったのだ。すると光が溢れた。
「あ……」
兄と許婚が見ている前で、妹の輪郭はぼやけた。心の影から生まれた存在は、誰かに受け入れられることで変わる。誰かとは影を生み出した本人である必要は、必ずしもない。
「菜々子……」
信心によらず、影は自ら光へと転じた。一度暴走して倒されるという『通過儀礼』を経ることなく、ただ清浄な光となって心の世界から姿を消した。二人の男の視線の先には、出口のテレビがある。
「ナナチャン……ナナチャンに戻ったクマ」
分離した二人の菜々子は一人になった。その様を見届けた悠は、深く頷いた。
「クマ、お前は菜々子を食べたんじゃない。大事に守っていたんだ」
シャドウやペルソナは互いに融合することも可能だし、一方がもう一方を『食べる』こともできる。しかしそれは食べ物を消化して自らの血肉にするのと、同じであるとは限らない。影人間も何かのきっかけがあれば回復するように、他人に奪われたシャドウが元に戻ることも可能なのだ。
「菜々子の命は菜々子のシャドウが持っている。もうお前がここから出ても大丈夫さ」
クマの罪は罪ではなかった。むしろこの一年で達成した最大の功績だった。そして
「帰ろう。菜々子が待っている」
「クマは……人間じゃないクマよ? ただのシャドウクマよ?」
そう、クマは人間ではない。人の姿を持っていても、やはり違うのだ。そしてシャドウの中でも、取り立てて特別というわけではない。特別と言えば三年前の11月に月光館学園に転校してきた、シャドウから一歩進んだ存在である。十二のアルカナが交わって生まれたいわばシャドウの王子とは、クマは明らかに違う。世界の破滅や救済の宿命など背負っていない、たった一粒だけの麦である。
それでいて人間と人外の間には、極めて高い壁がある。その壁に手をついて、クマは迷っていた。
「いいんだよ」
その迷いを、悠はそっと払いのけた。失敗続きだった少年は功労者の少年の前で腰を屈め、その手を取った。体温を感じる。人間と変わらない温かさがそこにある。いや、人間以上に人間らしい。
「お前が何者でも、誰が何でも……俺はもう拒まない」
師は弟子に祝福を与えた。その瞬間、世界が変わった。
「あ、あれ……?」
「ん? 霧が……!」
現実に漏れ出た霧は12月に晴れたが、供給元の世界には残ったままだった。虚ろの森にはなかったが、あれはマリーが自らの内に取り込んだせいだ。殺人事件が起きた原因である、人から影を引きずりだす白い闇は、事件が終わってなお元のままだった。
それが消えていった。突然。脈絡が見えないままに、白一色のキャンバスは鮮やかに彩色された。
悠とクマは並んで遠くを眺めた。二人がいるスタジオの装いは変わっていない。天井の梁とそこから吊るされるスポットライト、そして床の白線は元のままだ。だが特捜隊が拠点としていたこの空間は、心の世界の広大さに比べればごく小さい。狭いスタジオの外では、見る見るうちに景色が変わっていった。
「何てことだ……」
美しい世界が出現した。百合や石楠花、湖に浮かぶ蓮。色はおろか季節感まで様々な、無数の花々が咲き乱れている。遠くには緑の装いをまとった山が連なっていて、高い所から低い所へ流れる水が、理想的な音楽を奏でている。それはもはや観念的な領域の、純粋すぎる自然美だった。町の仕事で擦り切れた現代人は、感嘆の声を漏らさずにはいられない。
「センセイ……約束、守ってくれたんだ……」
「何?」
「ありがとう、センセイ! クマ、感動しちゃった!」
クマは飛び上がって抱きついてきた。
この時、一つ目の『契約』は果たされた。悠はもう忘れたか、時々思い出すことがあっても、とうに果たされたと思っていた『契約』。それはたった今、遂げられたのだ。おかしくなり続けていくこの世界を、いつかも分からない遠い昔の美しい姿に戻すこと。それこそが一年前にクマとした約束だった。
「先輩!」
やがて美しい世界から仲間たちの声が聞こえてきた。
「クマ……クマか! お前、帰ってきたのか!?」
「悠!」
そして現実の世界から堂島がやって来た。
「センセイ、お顔に傷が……」
「大丈夫さ」
最後の日だった3月20日は、特捜隊八人が久しぶりに勢揃いしたが、もちろん再会を喜ぶだけでは収まらない。堂島に見つかったのだ。叔父は気を失った娘を病院へ搬送する手はずを整えてから、一人でテレビの世界へ突入したのだ。そうしてみたら、甥とその友人たちが揃ったところに出くわした、というわけだった。
そして今日、3月21日は本当に最後の日である。悠は朝の時間に八十稲羽駅に身を置いている。その顔には斜めに走る傷跡がある。ついでに頬に痣がある。
「皆、今日はわざわざありがとうな」
悠は傷物になった顔を、左右に巡らせた。今日は別れの日だ。特捜隊の仲間たちはもちろん、昨年の事件関係者がほぼ全員揃っている。稲羽支部の高校生組もいるし、あいも見送りに来ている。もちろん堂島と菜々子もいる。
「ああ……」
皆を代表するように、陽介が返事をした。だが上の空という感じである。腕組みをして脇を向いている。『親友』を見送りに来たのだが、目を合わせようとしない。悠は視線を更に巡らせたが、他の仲間たちとも出会わなかった。クマは心配そうに悠を見ているが、それだけだ。他は皆が皆、何とも気まずそうに俯いたり、明後日の方向を見ていたりしている。別れを惜しむ言葉一つさえ出てこない。
「……」
共に戦った仲間たちだけでなく、堂島と菜々子も黙っている。叔父と従妹は血が繋がっているのだが、それだけのようになっている。血縁だけでは家族は保証されない世の道理を体現するように。だがそんな『冷たい』人々に、悠は恨みや無念を覚えはしない。
(これが正しいあり方なんだ)
むしろ当然と考える。昨日の戦いは、皆に絶縁状を叩きつけたようなものだったから。コミュニティを除いて考えればこの一年間は貧しい限りの生活だったが、魔術の絆も昨日失った。彼らが見送りに来ただけでも驚いていいくらいだ。
「やれやれ、一杯食わされたよ」
唯一まともに声を上げたのは有里だった。妻子は連れてきておらず、一人で見送りに来ている。その顔は変にくたびれていた。
「済みません」
二人が言っているのは、昨日にフードコートで話した件である。悠は自分が力を得た契機は、八十稲羽駅に何かがあったのかもしれないと話したが、それはもちろん嘘である。後輩は先輩を欺いて、自分一人で黒幕に会いに行った。それを謝ったのだ。何とも誠意に欠ける謝り方で。
「いや、いいさ。僕ではああはできなかった」
だが先輩は後輩を咎めない。
「見事だったよ……」
昨日テレビから出た後で、悠は特殊部隊の支部長と副隊長から取り調べを受けて話をした。ただその内容は荒唐無稽すぎるものだった。まともな事件であれば言うまでもなく、ペルソナ使いとして話を聞いても、こいつは妄想癖があったのかと判断してしまいかねない内容だった。だが現場に『呼ばれて』ある程度を見た有里には、全容はともかく一部は理解できる話だった。悠はかつての有里と同じように、宇宙と等価の存在になる機会を得たのだが、それをせずに事態を解決した。有里にすればそれは意外であり、見事なやり方だった。
ただ有里以外にとっては、そうは受け取れない。集まった後輩の友人たちは、よそよそしくなっていることが見て取れる。有里も高校時代の戦いを終えた後に仲間たちとの関係が変化したが、悠の場合はより良くない。
「君たち、仲良くしてやってくれよ」
そうして有里は一足先に駅から去っていった。
「……」
先輩の姿を見送りつつ、悠は軽く俯いて小さく笑った。肩にかけたボストンバッグの重さを感じる。有里はああ言うが、悠は陽介たちと仲良くすることはもうできない。悠が望んでも、相手が望まないだろうから。
(皆、自分の気持ちに訳が分からなくなってるんだろうな。この一年、何で俺と仲良くしてたんだろうって……)
昨日、悠はコミュニティを剣で斬った。絆の証明を破壊したところは、皆は自分の目で見てはいない。しかし皆の心理には確実に影響を与えているはずだ。昨日の今日なので今は混乱している状態だが、数日か数週間もすれば落ち着くだろう。この一年間、鳴上悠とどうして仲良くしていたのか。それは分からないままだろうが、分からないなりに顧みなくなる。心に巣食うシャドウを切り捨てるように、悠を忘れる。それが落ち着くということだ。
「ねえ、小沢……」
そんな軽い混乱状態にある駅前で、声がもう一つ上がった。あいだ。
「一発くらい引っぱたいてやっても、バチ当たんないと思うわよ?」
「ん……かもね。でも、いいよ。もう……」
なるほど結実は悠を叩く権利がある。二年前の今頃、有里を袋叩きにした女たちのように。だが元彼女は元彼との別れの挨拶に、平手打ちはしない。
「……そろそろ電車の時間だ」
そうこうしているうちに、本当に最後の別れの時間がやって来た。電車の出発時刻は9時ちょうどだ。もうあと数分である。
駅のホームまで皆はついて来た。落ち着かない状態でいながら、最後まで見送りに来た。律儀と言うか、何と言うか。
「また会えるの、楽しみに待ってるクマ」
「ああ」
言葉を送ってきたのはクマだけだ。他の者たちは何を言えばいいのか、まるで分からないという風情である。『また会おう』や『また来いよ』も出てこない。義理で来たが本当は来たくなかったかのような、社交辞令そのものの見送りである。だが悠には、むしろそれがありがたかった。
「じゃあ……ゴホッ」
最後に別れを告げようとすると、悠は軽く咳き込んだ。締まらない事この上ないが、喉を一つ鳴らすと声を出せた。
「じゃあ皆、さよなら。元気で」
ここにいるべきでない異邦人の少年は、一人で電車に乗り込んだ。この地に二度と戻って来ることはなく、今生の別れになるのだと確信を抱きながら。そしてそれに辛さや寂しさを感じることもなく、ただあるがままに、この結果を受容した。電車の自動ドアが閉められてから、悠は振り返った。
割れないガラスで隔たれた別離の車窓の向こう側に、共に戦ったペルソナ使いたちがいる。そして菜々子がいる。
「お兄ちゃん……」
悠が小さく微笑むと、それを合図とするように電車が動き出した。ゆっくりと、だが確実に八十稲羽から離れようとしている。列車は走り出したら止まらないのだ。別れると決めたからには、別れなければならない。生あるものはいずれ死ぬ自然の法則さながらに定められた永訣を、悠は一人静かに受け入れた。
だが──
「お兄ちゃん! いっちゃやだ!」
自然に逆らう声が上がった。菜々子だ。小さな足を一生懸命動かして、遠ざかる電車を追いかけてきた。だが小学一年生の女児は、どこまでも追ってくることはできない。するとクマが続いてやって来た。
「クマさん!」
菜々子を抱え上げて、クマは更に走る。
「センセイ! センセイは、ずっとクマのセンセイクマ!」
「……先輩!」
電車のスピードが上がり始めると、他の者たちも走り出した。走る子供たちの姿を見て、急に何かに目覚めたように、必死になって走る。やがて菜々子とクマを追い抜いて、窓の前までやって来た。
「どうか……元気で!」
「先輩のこと、忘れません!」
「先輩、大好き!」
「お前たち……」
遠ざかる電車の中で悠は驚いた。こんな言葉を貰えるとは思っていなかったし、望んでもいなかった。今日を限りにこの一年間で経験した全てを忘れ、全てを自分の実にせずに済ませるつもりでいた。全ての友情を捨てて、皆も自分への愛を捨てる。そう思っていたのに──
「あたしたちのこと、忘れないで!」
「先輩! 頑張ってください! 俺も負けねえっスから!」
『我』が教えるコミュニティは失った。だが理不尽で不条理で、首に巻きつけた綱のような魔術が失われても、人付き合いは可能である。ワイルド、またの名を人でなしの『愚者』であっても可能だ。諸岡との間には、真の意味での絆があったと感じていたように。
一分前の悠は、もう二度と皆に会うことはないと思っていた。連絡も取らずにいるつもりだった。皆もきっとそうしていた。それなのに、まるで別れた途端にその人の価値が分かったように、悠が本当にいなくなるその時になって皆は目覚めたのだ。『我』や『彼』に強制されたものではない、普通の人間同士の関係に。
「次はゴールデンウィークだぞ! 必ず来いよ!」
「ああ……必ず!」
陽介の誘いに、悠は思わず応じた。考える間もなく、反射的に返事をした。それはまさに、普通の人間同士の友情から生まれた約束だった。嘘や打算ではなく、目に見えない何者かによる惑わしでもない、普通の関係。普通の思い。即ち真の友情や愛──
連休になれば遠出をする。里帰りもする。何も特別なところのないただの高校生が、『故郷』の友人とするような約束を、悠はした。
一粒の麦は地に落ちた。だがまだ死にはしない。多くの実を結ぶのは、まだこれから──
作者の前作『ペルソナ3 滅びの意志』におきまして、『コミュ=不条理』という解釈を採用しておりました。ただ前作では、終盤ではその設定は物語の主眼から外れたので、本作ではもう少し引っ張ろうと思っておりました。引っ張った結果、悠はイザナミ戦にて『コミュMAXアイテムを破壊する』という暴挙に出ました。
さて、原作P4本編のラストシーンであるこの話をもちまして、第3章は終了となります。次の話から本作の最終章、P4U・P4U2編に入ります。あの暴挙がそこでどう影響するか……。