帰郷(2012/5/2、5/3)
月日が過ぎゆくのは早い。人が何もしなくても、時は自ら過ぎてゆく。全てのものは移ろいゆく。木々は装いを変え、記憶は薄れ、人は年を取る。世界が移ろうのを人が止める術はない。もっとも過去には時間を停止したり破壊したりする術を得た人間もいたのだが、それは飽くまで例外中の例外である。今となっては、時間を操ることはかつて実行した当人たちにも不可能だ。時は誰も待たず、全てを新たなステージへと導いてゆくのが自然の姿である。
昨年に大きな事件が起きた八十稲羽もまた、時の流れから無縁ではいられない。事件が終わっても新たな出来事はすぐに起こる。『神が守る土地』はここではないどこかへと向かっている。向かう先は発展か、衰退か、はたまた滅亡か。いずれにしても不変ではない。
稲羽市で殺人事件と獣害事件が発生してから、およそ一年と一ヶ月。町のありがたくない風物詩と化していた霧は、事件の終結と共に姿を消した。地上で人の目を眩まさなくなって、そろそろ五ヶ月になる。稲羽で生まれ育った昔気質の刑事が世にも稀な不運に襲われ、異能の力を身に付けてから数えると、ちょうど一年経った。
「ハイジャック犯に奪われた積荷がこちらへ?」
5月2日の午後、堂島は自宅の寝室で電話をしていた。そろそろ中古品も出回り始めた、一世代前のモデルのスマートフォンを耳に当てている。驚きと警戒感の滲む声で相手の説明を繰り返した。
『ええ。Nシステムを使って追跡したところ、稲羽市に行き当たったのです』
電話の相手は仕事上の上司である。ただし本職の警察官ではなく、世間には言えない裏の仕事における上役だ。シャドウ事案特別制圧部隊、通称シャドウワーカーの副隊長である有里だ。堂島も刑事ではなく、特殊部隊の地元における支部長として話をしている。
事の起こりは昨日、5月1日である。国内では十年ぶりとなるハイジャック事件が発生したのだ。鹿児島行きの民間旅客機が、離陸直前に武装した集団によって占拠された。犯人はその日のうちに逮捕され、人質にされた乗客と乗員は全員無事に救助された。だがそれで全てが解決したわけではない。不審な点が多すぎるのだ。
中でも注目すべきポイントは三つある。乗客の中にシャドウワーカー隊長の桐条美鶴がいたことが、まず一つ目。犯人は犯行時の『記憶がない』ことが二つ目。そして──
『荷物は十三年前に桐条グループが開発した、対シャドウ戦を想定した兵器です』
犯行の目的は機体や乗客ではなかったことが、最大のポイントだ。
有里は事件発生の連絡を受けると現場の空港へ急行した。しかし有里はペルソナと関係のない通常の事件捜査、しかも強行策が必要な局面における専門家ではない。飛行機への突入や犯人の確保は、専門家である『普通の』特殊部隊に一任した。だがそうして人任せにした為に気付いた点があった。現場から不自然に離れていった車両を見つけたのだ。美鶴が鹿児島へ向かおうとしていた目的、搬送しようとしていた荷物が一つ失われたことが、そうして発覚した。
対シャドウ特別制圧兵装五式、コードネームは『ラビリス』。桐条グループにかつて存在したペルソナ関係の研究開発機関、旧エルゴノミクス研究所の凍結遺産の一つである。
ペルソナ絡みの物品の強奪。目くらましにハイジャックまで仕掛けて、しかも犯人はただの操り人形。どう考えても普通の警察が対処すべき事件ではない。シャドウワーカーの領分であり、捜査地域は稲羽市。それで稲羽支部の支部長である堂島に連絡が入ったというわけだ。
「それで、そのラビリスとはどういうものなのでしょう。特徴などは?」
『それが……』
有里の説明によると、ラビリスについて判明している事実はごく少ない。人型で恐らくは女性型であること、火器の搭載が見送られた代わりに何か特異な装備を与えられているらしいことくらいだ。機体を収めたコンテナが発見されてから開封もされないままだったので、外見の写真さえないらしい。ただ後継機の開発傾向からして、人型とは言っても見れば機械だと分かるだろうとのことだった。
「そんなものなのですか……」
『申し訳ありません……』
落胆する堂島の声に有里の慙愧が重なった。実はラビリスが発見されたのは昨年の夏で、もっと早く調査を進めることもできたのだが、今日まで先延ばしにしてきた。そうするよう決めたのは有里なのである。
だが今さら後悔しても仕方がない。二人の大人は素早く意識を切り替えた。
「それで、どうされるのです?」
『明日、桐条や真田とそちらへ伺います。まずはテレビを調べてみようと思いますので、ご協力をお願いしたいのです』
「承知しました」
堂島は即答した。本業は刑事の堂島が特殊部隊の副業をするようになったのは、決して好きで始めたわけではない。やらない選択肢がなかっただけだ。つまり当初は渋々だったわけだが、今となっては有里を始めとする本部隊員とそれなりの信頼関係を築いている。事件が起きれば協力は惜しまない。
その後、二人は待ち合わせの場所や時間など、事務的な事柄をいくつか話し合った。そして最後に──
「ただ……一つ問題があるのですが」
『何でしょうか?』
「間が悪いと言いますか……今晩から悠がこちらに来る予定なのです」
『彼らを巻き込みたくはありません』
有里は他人を巻き込んで利用することに、基本的には躊躇いがない。だがラビリスの件ではそうもいかない。これは『身内』の問題だから。昨年の事件とは問題の次元が異なっている。奪われた荷物が稲羽に持ち込まれたのでなければ、堂島さえ巻き込みたくないくらいなのだ。
「私もです。ですからこの件は話さずにおきます」
『ええ、そのようにお願いします』
それで通話は終わった。
大人のペルソナ使いから間が悪いと評された、少年のペルソナ使いは青い夢の中にいた。青とは比喩ではない。視界の全面がほぼ青一色。壁、床、座席やテーブル、ガラス戸棚などの全ての調度品が青色で統一されている部屋に、夢うつつの意識を置いていた。微かな駆動音と、窓の外にある白い靄が後ろへ向かって流れていることが、部屋自体が前へ進んでいることを証明していた。つまりこの部屋は車である。
人間の力である文明の象徴的な乗り物の中に、鳴上悠はいた。そしてもう一人、同じ場所に身を置く存在がいた。悠から見て右側の席に美貌の魔女が座っていた。百科事典らしき分厚い本を膝の上に載せている。
「お久しぶり……と言うべきかしら」
「マーガレットさん……」
声をかけられて、悠は意識がはっきりしてきた。夢の中にいるのだが、目の前に存在するものを現実のように受け止められるようになった。そんな矛盾した状態に至れる場所であるここは、神秘のリムジン。ベルベットルームだ。
「なぜ……」
「ちょっと挨拶をしようと思って、来てもらったの。貴方が前にこの地を離れた時は、その機会がなかったから」
(ん……?)
マーガレットの言葉から連想されるものがあって、悠はリムジンを見回した。自分から見て正面の席に座っていた、鼻の長い怪人は乗車していなかった。『前に離れた時』にはいたはずだが、今は正面が空席だ。もちろん左側の席にも誰もいない。魔女と二人きりである。
「主は席を外しているわ。余計な手助けをしてしまいかねないから……ですって」
「それで……何の用です?」
なぜか不在にしている部屋の主人であるイゴールもそうだったが、秘書のマーガレットは韜晦趣味がある。彼女らが言うこともやることも、客人の理解が及ばないことは往々にしてある。はっきり尋ねても明快な答えは返ってこないのが常だ。
「貴方は理解しているかしら? かつて貴方が集めた絆……それは『信仰』と言い換えてもいいものなの」
「信仰?」
そして今日も問いに対する答えは返ってこなかった。ただし魔女が言うことは何となく、いや、確かな実感をもって理解できるものだった。それはコミュニティと呼ばれる絆の本質だ。
「そう。人々の信仰を集める存在のことを、何と言うのかしら?」
「……神ですか?」
「ふふ……そうとも言うし、宇宙と等価の存在とも言うわね。それはどんな奇跡も奇跡でなくす夢の力よ。貴方は神になる資格を得たの」
「たった二十人くらいの信仰を集めただけで、神になれるんですか」
ペルソナやシャドウもそうだが、コミュニティはタロットの大アルカナになぞらえられる。昨年の4月から今年の3月までの一年間で、悠が集めた絆の数は正統的なアルカナにあるものが二十一。ないものが二つ(道化師と欲望は同一と見なす)。合わせて二十三だ。『たった』それだけの数で神呼ばわりは、いささか大げさすぎる。二十人や三十人の友人がいる人間など、この世にいくらでもいる。しかし──
「数の問題ではないわ。重要なのは絆の種類と、その質……」
マーガレットは膝に置かれたペルソナ全書の上に白磁の手をかざした。するとイゴールが占いをする時のように、手と本の間にカードの束が現れた。しかし魔女は占いをせず、カードを宙へ放った。
「これは……?」
手を触れられずに放り投げられたカードは、車の天井と床の間で整列した。ただし並び方は何とも独特だった。二十枚のカードが縦、横、斜めに並んでいて、縦長の六角形らしき図形の辺と対角線を成していた。
タロットの大アルカナの数は二十二。神秘思想のカバラで言うところの、セフィロトの木の枝と同じ数である。もっともカバラは昨年の倫理の授業では取り上げられなかったので、悠は知らない。
ただマーガレットが描いたセフィロトは、
「以前にこの部屋に来ていた人たちも同じ力を得たわ。その力で、彼らは奇跡を起こしたのよ。でも貴方はそれを否定した……貴方は信仰の対象たる神になることを拒否して、ただの人間として神と向き合った……」
「悪かったんですか」
「いいえ、予想外だっただけ」
マーガレットは微笑んだ。それは年の離れた弟が、野原や砂場で遊んでいるのを眺めて頬を緩めるような微笑みとは、少々違うものだった。
「そんな貴方に、より興味が湧いてきたの。貴方がこれから何をするのか……しっかり見届けさせてもらうわ」
『興味』とは含蓄の多い言葉である。人外の領域に達した、と言うより人外そのものの美女からこんなふうに言われては、背骨に芯の通っていない若者では足を滑らせてしまうだろう。昨年にマーガレットとコミュニティを築いた当初の悠のように。
「何を……」
だが今の悠は滑らない。たとえ魔女がその美貌を駆使して誘惑してきたとしても、もう悠は転ばない。ただマーガレットは何を見届けようとしているのか、疑問に思うだけだ。八十稲羽を襲った殺人事件と獣害事件はとうに終わり、クマとの『契約』も果たした今、自分に何かすることがあるのかと。
「それは見てのお楽しみ。この部屋の住人にはルールがあって、客人にあまり多くを教えるわけにはいかないの」
そして夢は終わった。
「ゴホッ……」
悠は自分の咳で、青い夢から目覚めた。首を巡らせると目の前に鏡があった。そこに映った顔には斜めに走る傷がある。
直後に目に飛び込んできた光によって、意識がはっきりしてきた。鏡だと思ったのは電車のガラス窓だ。顔が映ったのはトンネルを走っていたからで、次の瞬間に抜けたのだ。都会を離れて片田舎に入ったことを知らせる自然の景色が目に入る。初めて見た一年と一ヶ月前もそうだったが、天気は薄曇りだ。
八十稲羽駅は昨年からずっと変わらず、鄙びたままの古い駅である。駅前には何もないがある。古い駅舎に不似合いな自動改札機を通って、数歩ばかり歩いた先にある広場に、悠は見知った顔を見つけた。
「お兄ちゃん!」
「よう、久しぶりだな」
別れた時には、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。だがものの弾みか何かの運命か、たった一ヶ月半程度の間を置いただけで、再び会うことになった。父のような叔父と、妹のような従妹だ。
「叔父さん、菜々子……久しぶり」
コミュニティを捨てたにしては再会の挨拶を卒なく言えたものだと、悠は自分の口に感心した。
「ん……少し顔が赤いな。風邪か?」
しかし顔色は声ほどには『普段通り』を演出できなかった。悠はここ一ヶ月ほど、体調が奇妙に良くないのだ。しかし寝込んでいるわけにはいかない。
「大丈夫だよ」
今年のゴールデンウィークは日取りが少し良く、明日から後半に入る。前泊する今晩を含めて四泊五日のショートステイが、今日から始まるのだ。都会の自宅にいるならまだしも、ここに来てしまった以上は気丈に振る舞わなければならないと、悠は体の芯に力を入れた。
休暇を取った家長の運転で、堂島家の家族は自宅へ移動した。昨年4月と違って途中でガソリンスタンドに寄ることもなく、真っ直ぐ家に至った。そして居間のちゃぶ台を囲んでの歓迎会が始まった。メニューは特上の寿司だ。
「お前も高三か。年が明けたら受験か?」
久しぶりに再会した家族の話題と言えば、近況報告が定番である。話の振り出しは堂島からだった。ビールを入れたグラスを片手に優しげな笑顔を甥に向ける。
「ん……どうしようかな?」
高校生の進路は大きく分けて二通り。進学か就職だ。だが最も基本的な点から曖昧な言い方をする甥に、叔父は引っ掛かりを覚えた。
「お前、成績はいいって聞いてるが……大学行かないのか?」
昨年の悠は成績はかなり優秀だった。正確に言うと一学期の頃は平均そこそこだったが、二学期以降は上昇傾向が顕著になったのだ。三学期の定期試験では学年トップを取ったことは、堂島も聞いている。八十神高校は進学校ではないが、それでも一位となれば優等生と言うべきである。それで大学受験をしないのは不自然に感じるだろう。
「いや、多分行くけど……どこの大学で何勉強するかとか、まだ決めてないんだ」
「おいおい。三年にもなって、それじゃいかんだろ。姉貴に心配かけてんじゃないか?」
「どうかな……」
「どうかなって、お前な……」
堂島はグラスをちゃぶ台に置いた。夕食時の柔らかい雰囲気が、別のものに入れ替わろうとした。
もしも3月以前にこの話をしていたならば、堂島の反応は違っていただろう。甥の言いようを軽く流すか、『焦ることはないが、ちゃんと考えろよ』くらいの忠告で済ませた。だが法王のコミュニティが失われた今は違う。甥のやる気のなさと、自分の母親に対する関心の薄さに苛立ちを覚える。
「お父さん、お兄ちゃん」
だがここで三人目の声が上がった。
「ケンカはダメだよ」
父と従兄が揉めることは今まで何度かあり、菜々子も目撃したことがある。例えば昨年のちょうど今頃だ。だがその時と違って、家族で最年少の少女は年長の二人を叱ってみせた。菜々子はもちろん小学二年生の女児であるのだが、視線と口調は年に不相応なくらいに厳しい。まるで今は亡き母親がするように。
「お、おう……悪いな。はは、久しぶりに会ったってのに、説教から入っちゃいかんな」
「は、はは……ごめんね菜々子」
こう来られると、男二人はどちらも降参するしかない。多くの家庭において、最強の座に君臨するのは母親である。
「菜々子はね、ピアノならってるんだよ! りせちゃんのうた、れんしゅうしてるの!」
そして家族の話題は娘の近況へと移った。菜々子は今年の初めから悠にピアノを教えてもらっていたが、悠が去ってからも続けているとのことだった。
──
そこへ玄関から呼び鈴が鳴った。この時間に訪ねてくるのは郵便か宅配便であろうが──
「出てもいい?」
「ああ、いいぞ」
許可を得てから、菜々子は玄関に向かった。
夕食を終えると、悠は二階の自室に身を置いた。部屋の装いは一度去った日のままである。教材などは持ち帰ったのでここにはないが、家具は昨年のままである。布団があり、テレビがあり、勉強机やソファーがある。タンスの上に置かれた、クマを除く特別捜査隊の写真もそのままだ。
「……」
永遠の別れになるはずだったのに、ならなかった3月21日を思い出す。あの時、走り出した列車を菜々子とクマが、そして他の仲間たちも追いかけてきて、次はゴールデンウィークだと約束したのだ。その約束に引きずられて、二度と来ないと思っていた『第二の故郷』を再訪してしまった。来て最初のイベントは堂島の説教未遂という、何とも面白くない形だったが。
(叔父さんに心配かけたかな……)
高校卒業後の進路を特に考えていないのは本当である。都会の高校で進路指導表を出すよう言われているのだが、期限を過ぎた今でもまだ出していない。行きたい大学や勉強したい学問が特にないから。そうかと言って、就職してやりたい仕事があるわけでもない。ついでに言うと、昨年のような好成績を今年も取れる自信はない。三年生になってから、ろくに勉強していないのだ。ゴールデンウィークが明けたら中間試験が控えているが、きっと平均ラインそこそこになるだろうと、自分自身を予想している。
バレンタインから春分の日にかけて陥っていた、無気力症からは脱している。激動の高校二年生の日々を忘れようとは思っていないし、死にたいとも『取り敢えず』思っていない。しかし積極的に生きようとの意志はない。おかげで勉強、運動、人付き合いのいずれにおいても、都会の高校では特筆することは何もなかった。
一言で言えば、悠は行動力に欠けた面倒くさがりになっていた。日本のあちこちを引っ越しているうちに何事もそっとしておくことが信条と化した、平凡な少年に戻っていた。
(俺、何しにここに来たんだっけ?)
明日は朝からジュネスのフードコートに行って、陽介たちと会う予定でいる。だが会って何をするかは決めていない。うっかりすると、自分は果たして何の為に辛い思い出が多すぎる八十稲羽に来たのかと、その段階から迷いを抱いてしまう。約束と言うか『契約』と言うか、とにかく仲間たちの希望に沿ってしまったが、初日から後悔してしまいそうだった。
(いや……落ち着け、悠)
悠は頭を振った。現に来てしまった以上は、今さら愚痴を言っても仕方がない。その日その日を過ごすしかないのだ。
(取り敢えず……また高台にでも行って、クマも入れた皆で写真撮るか)
春の雨が窓を叩く音を聞きながら、悠は明日することを具体的に考え始めた。そして──
「ん……雨?」
自分が雨音を聞いているのに、不意に気が付いた。振り返って窓を見てみれば、カーテンは閉められているが、それでも外の様子が少しは伝わってくる。電車を降りた時は曇っていたが、今になって雨が降り始めたようだった。壁にかけられた時計を見れば、もうすぐ長針と短針が頂上で揃う。
(まさか……な)
マヨナカテレビ。あれを映していたのはイザナミのはずだ。かの超常の中でも超常の存在は、あれを映していたのは自分だとはっきり言っていたわけではない。だが悠は奇妙に確信があった。『彼女』が何をしたのか、不思議と分かる気がした。何の為にあのような行動したのかも、何となくだが分かる気がしていた。
そんなことを思っているうちに、日付は5月3日に変わった。
『ライバル、それは……強敵と書いて、”とも”と読む!』
その瞬間、何かのパロディのようなセリフで始まる番組が、電源を入れていないテレビに映し出された。そして時間にして三十秒ほど後に、町内のいくつかの家で『何だこりゃあ!』との悲鳴が響き渡った。
夜中に降った雨は夜明け前には上がった。朝の早い時間に堂島は家を出て、ジュネスの駐車場に身を置いていた。世間は連休で堂島家も遠方から家族が訪ねて来ている最中なのだが、堂島は朝から仕事だ。普段は肩にかけることが多いスーツの上着を着込んで、ベルトに短い警棒を吊り下げている。堂島にとって、これは武装である。
待っているうちに、通りから一台のバンがやって来た。黒塗りのボックスタイプで、昨年の獣害事件ではいつも使っていた影時間にも稼働する特別車両である。堂島家のセダンの隣に駐車した。
「朝早くから、ご苦労様です」
運転席から有里が降りてきた。
「お久しぶりです、堂島刑事」
「ご無沙汰しています」
有里に続いて、昨年の12月にテレビの中で共に戦った二人の男女も降りてきた。シャドウワーカー隊長の桐条美鶴と、本部付きのペルソナ使いである真田明彦だ。そしてもう一人──
「堂島さんとは初めてですね。妻のアイギスです」
「初めまして、有里アイギスと申します。主人がお世話になっております」
金髪碧眼の若い女が助手席から降りてきた。黒のパンツスーツ姿でネクタイも締めている。長い髪はアップにまとめられ、六本のヘアピンで留めている。手には自分の身長ほどもある、長細い袋を持っている。
「稲羽支部の堂島です」
有里にペルソナ使いの妻がいることは、堂島も昨年から聞いていたが、顔を合わせるのはこれが初めてだ。アイギスは春分の日に夫と子供と一緒に稲羽を訪れていたのだが、堂島とは会わずに帰った。
ちなみに有里家の二人の子供は桐条グループの職員向けの託児所に、取り敢えずゴールデンウィークが終わるまでの予定で預けている。飼い犬は高校時代の仲間の一人に面倒を見てもらっている。
「では参りましょう」
昨年の事件が解決して以降、シャドウワーカー稲羽支部は特に活動をしていなかった。だが今日、久々に裏の仕事が回って来たわけだ。なお、最大で五人いた堂島の部下たちは、今日は誰も来ていない。拘留中の足立は言うまでもないが、尚紀たち高校生組は特殊部隊から籍を抜いてはいないものの、昨年の暮れから身分は非常任扱いに切り替えた。余程のことがない限り、彼らを招集はしない。
ちょうど開店時間を迎えた地域最大の商業施設に向けて、五人の大人たちは歩き出した。その途中で──
「ところで皆さん、なぜ揃いのスーツを?」
「……有里の発案です」
堂島の突っ込みに美鶴が答えた。不自然に長い間を置いて、嫌々と言った風情で答えた。
「誤解を招く言い方をしないでください。僕は斉川さんにスーツがいいと言っただけです」
昨年12月に美鶴と真田が稲羽を訪れた際、二人とも少しばかり、いや、相当に特殊な服装でやって来ていた。そこで常識が比較的ある有里の発案により、任務中に着る服についての決まり事を設けたのだ。ただ有里は隠密性を重視する為、スーツが良いと提案しただけである。細かなデザインは桐条家のとある使用人兼SPに任せておいた。ちなみにその使用人はペルソナ使いではないものの、シャドウワーカーの一員でもある。
そうして出来上がったのは、男女とも黒のジャケットに白のワイシャツ、黒のスラックス、そして黒のネクタイというスタイルだった。そしてなぜか黒のサングラスも用意されていた。いわゆる『黒服』だ。
海外で作られる日本をテーマにした映画やドラマでは、日本の文化や習俗が色々と間違って解釈されることが往々にしてある。それと同様に、日本でも海外のそれを間違って解釈した作品は作られる。有里たちが着ている黒服は、アメリカのFBIやCIAとかに対するステレオタイプなイメージを元にしていると思われる代物だった。かえって怪しい。集団で行動していたら、不審がられて通報されても文句は言えない。
「いまいち動きにくい。改善の余地があるぞ」
真田は歩きながら、右手を軽く前へ突き出した。
「堂島さんのご自宅にも、同じデザインのものが届いていると思いますが……」
「……着てきた方がよろしかったですか?」
確かに昨晩、宅配便が届いていた。堂島は中身の確認もしたが、意味が分からなかったので今日は着ていない。本業の刑事の仕事中に着るのと同じ、ごく普通のスーツを身に付けている。
「いいえ、捨て置いてくださって結構です」
緩い話をしている間に、大人たちは二階の家電売り場に辿り着いた。元々人の少ない売り場である上、開店から間もない時間なので他の客はいない。人が少ない分だけ売り場の広さだけが目立つ。複数のテレビのチャンネルが音声なしでいくつかのテレビ画面に映し出されている中で、電源の入っていない一台の大型テレビの前で五人は足を止めた。
「このテレビですね。では参りましょう」
アイギスが早速動いた。手袋をしていない左手を、画面に向けて伸ばそうとしたところで──
「アイギス、もうしばらくすれば山岸が来る。それまで待とう」
有里が引き留めた。実は今日ここに招集をかけたのは、ここの五人だけではない。もう一人呼んでいるのだが、急な話だった為に合流が遅れているのだ。未知の領域に踏み込む際には、決して欠かせない力を持っている。
夫が道理を説くと妻は手を戻した。しかし夫の言うことに、素直に従いはしない。
「……まずは姉さんがこの中にいるのかどうか、その確認だけでもするべきであります。それは私たちでも可能なはずです」
「……」
「それに私たちは、ここでは少々目立ちすぎます。風花さんを待つにしても、余計なトラブルを避ける為に、中に入っておくべきでしょう」
有里家は大体において夫唱婦随である。家族が何かをする際には夫が決めて、妻はそれに従うのが普通だ。結婚前の高校生の頃からそうだったが、アイギスが有里に反論するのは、客観的に見て有里が間違っている場合がほとんどだった。だが今のアイギスは普段と違っている。
(姉さん……ね)
妻の言動が変わっている原因は、ある種の焦燥感だ。日頃から最も近くにいて、観察力には自信のある夫の目には、それが見える。
「いいんじゃないか? この中はちょっと特殊な場所だしな。アイギスはブランクが長かったことだし、慣れる時間も必要だろう」
ここで真田がアイギスに同調してきた。手袋をしていない、素の拳を打ち合わせた。所作と表情に戦意が表れている。昨年暮れの戦い以来、約五ヶ月ぶりの実戦が想定される事態に、待ちきれない感が滲み出ている。
──
ここで売り場の反対側から、ざわめきが聞こえてきた。世間では今日からゴールデンウィークの後半が始まるのだ。人の入りが多くなれば、テレビに入るだけでも難しくなってしまう。
「では、取り敢えず入り口まで行ってみるか。まずは我々でラビリスの探査を行う。山岸ならば外から中へ通信することも可能だろうし、連絡は取れるはずだ」
隊長である美鶴がアイギスの主張を容認した。
「参ります」
許可が下りるや、アイギスはすぐにテレビ画面に手を触れた。白い指から波紋が浮かぶ。昨年から話は聞いているものの、実際に行くのは初めての異世界へ向けて、アイギスは迷わず飛び込んだ。次いで真田と美鶴も入る。
「有里さん。ラビリスがこの町に持ち込まれたのは偶然なのでしょうか?」
「まだ分かりませんが、偶然でない事態も想定すべきと考えています」
堂島と有里は、ある懸念事項を確認してからテレビの世界へ突入した。確認しただけである。結論はまだ得られない。多くの不可解な謎を残したままで、シャドウワーカーは戦いの場へと踏み込んだ。