陽介は八十神高校の校門前に佇んでいた。頭上では学校のシンボルツリーが艶やかに色づいている。散るから美しいとよく言われる花なのだが、間もなく五月病が高校生を襲うこの時期になっても、不思議と咲き続けている。そして陽介は待ち続けていた。
待っている。誰を? 何を?
(ん……? そうだ、昨日から悠が戻ってきてんだよな)
待ち人が誰なのか。凪いだ海にふと浮かぶ泡沫のような疑問から、陽介は相棒の少年を思い出した。昨年に非日常を連れてきた少年とは、今年の3月に一度別れた。過去に区切りはつけられたはずだが、今になって蘇っている。
(バレンタインの時みたいに、俺が何とかしてやらねえとな……)
蘇った過去とは辛い思い出のことだ。陽介にとってもそうだが、悠にとって八十稲羽は辛苦に満ちた土地である。相棒はせっかく『都落ち』したのに、また戻ってきてしまった。それは陽介が呼んだからだ。別れたその日に次の約束をしたからだ。ではなぜ呼んだのかと言うと──
(P-1グランプリ……)
校門の門柱に貼られたポスターだ。八十神高校は文化祭で教師がミスコンを主催したり女装コンテストがあったりと、退屈な日常のガス抜きのように変なイベントがある。昨晩は町中にプロモーションビデオが流れたので、世間も非日常の狂騒に大いに期待しているはずだ。現に今、大勢の生徒たちが『今宵開幕!』や『徹底予測! シスコン番長対キャプテン・ルサンチマン!』とか書かれた張り紙の前に集まっている。町へ続く坂道には大きなテレビが乗せられた台が据えられていて、その前にも人がいる。
マリーを失って傷ついた相棒を慰める為に、面白い企画が立ち上がったのだ。そして早紀に相手にされず、傷ついた自分の為──
「って……んな訳あるか!」
人は夢の中では、現実ではとてもできない言動をする場合がある。簡単に言えば、抑圧された願望が夢で解放されたということだが、それにも限度がある。いくら何でもあんまりな『妄想』に、陽介は自分でツッコミを入れた。突然我に返って、大急ぎで周囲を見回す。
(ここ、テレビの中だろ!? 何でこんな大勢人がいる!? つか、何でうちの学校ができてんだ!? まさか……悠か?)
テレビの中で生まれる空間は、中に入った人間が生み出す。久しぶりに戻ってきた相棒は、良くも悪くも思い出が多すぎる学校の風景をテレビの中に生み出したのか。だからマヨナカテレビに自分たちが映ったのか──
──
そこへ笛が鳴った。体育の授業などで用いられるホイッスルだ。甲高く耳に障る音がテレビの中に響いた。
「学校でこない騒ぎ起こして、えぇ思てはるん? 騒いでる生徒は、速やかに帰宅してもらいます!」
続いてメガホンを通した若い女の声が、テレビの空気を揺らした。
(関西弁?)
「こない大掛かりなセット、どこから持ってきよったんよ。ロクなことせえへんのやから……」
この地方ではめったに聞かれない、語尾やイントネーションに特徴のある話し方をする一人の少女が現れた。八十神高校の夏物の制服を着ているが、陽介は知らない顔だ。髪はポニーテールにしているが、それでも背中まで届く長さがあり、下ろせば腰を越えそうだ。背は女子にしてはかなり高い方で、凛々しい印象がある。
何より目を惹くのは髪の色だ。非常に色の薄い金髪で、銀色に近い。こんな田舎では口調以上に珍しい代物である。校内で一度でも姿を見れば、まず忘れないだろう。
「あんた、確か……グランプリ参加者の花村君」
そんな目立つ容貌の持ち主に、陽介は見覚えがなかった。思わず失礼なくらいに見つめてしまうが──
「ちゃうわ。キャプテン・ルサンチマン」
「やめて! 覚えないで!」
より失礼な物言いで返されて、陽介は泣きたくなった。このキャッチフレーズは公共の電波に乗っていたわけではないが、公共に流されてはいたはずである。
(そうだ! マヨナカテレビって俺らだけに見えるとか、そういうんじゃねえ! この辺に住んでる不特定多数が見れんだ!)
「認めるんやね。ほなあんたに言うわ。はよう撤収しい!」
「俺に言わないで! 俺だって巻き込まれた口だよ! ……つか、君って誰? 何でここにいんの……」
陽介が聞いているのは、見ない顔だがここの生徒なのか、との意味ではない。ここはテレビの世界である。一見すると現実の八十神高校そのもののようで霧もないので、現実の世界にいるように思えてしまう。だがそうでないことは確かだ。気が付いた当初は寝ぼけていたが、今は意識がはっきりしている。そしてテレビの中に人がいるということは──
「生徒会長の顔くらい覚えときいよ」
だが陽介の推測は遮られた。
「へ? 生徒会長……?」
少女の予想外な名乗りと、突然の『放送』によって二重に遮られた。
『ハァーイ! みんな盛り上がってるー? P-1グランプリ、続けて一回戦第二試合! 今度こそ高校生同士の対決になるでしょーかー!』
「りせ!?」
セットに置かれたテレビに見知った顔が映し出された。ヘッドホンをかけたDJ風のスタイルだ。いやに楽しそうである。
『おおっと、キャプテン・ルサンチマン! またの名をジュネスのガッカリ王子のごとーじょー! みんな、石投げてー!』
生徒たちから歓声が上がった。アイドルのライブでペンライトを振るように、現実そっくりな異界の空へ向けて拳を突き上げる。
「何や、校内放送まで使ってるん!?」
だがここで冷や水が飛んだ。
『あーら、やーなのがいるわねえ……』
ノリの良すぎる実況のテンションが突然下がった。すると映像も変わった。
『ヨースケ! そのクソ虫つまみ出すクマ! これは総統命令じゃっきに、拒否権は認めんよ!』
「クマ! てめえ何やってんだ! 俺ら、お前を探しに来たんだぞ! あんまムチャクチャぬかしてると、しばくぞ!?」
クマは昨年の12月に失踪したが、3月に戻ってきた。姿を消していた理由については、陽介は本人から聞いている。その後は以前と同様に、陽介が自宅に住まわせている。色々な意味で問題児の同居人であるが──
『あーもう、うっさいクマ! ヤローども、そこのクレーマーをとっちめるクマ!』
こういう問題を起こすのは今までなかった。クマは常識の欠けたところは山ほどあるが、トラブルは大抵がサボりかセクハラである。暴力沙汰は一度もなかった。しかも『生徒会長』にけしかけるのは、ただの暴徒ではない。
「こいつら……人間じゃねえな! シャドウか!」
テレビの世界に特別捜査隊以外の大勢の生徒がいる。彼らがもし本物の人間であれば大問題だ。暴走する金の瞳のシャドウが大量生産される。だがそうでないことは見れば分かる。校門前で騒いでいた集団は、いつの間にか顔が消えていた。アルカナの形を取る前の泥のシャドウが、そのまま人型になって立っているような、黒一色の影法師だ。それが二十体ほどもいる。
陽介は懐から得物を素早く抜き出した。昨年から愛用していた大振りの短剣を、両手に一本ずつ持って身構える。
「君! こいつらは俺が何とかするから、早く逃げろ!」
影法師がどれくらいの強さなのか、解析の能力を持たない陽介には判然としない。だがここは自分が何とかしなければならないと、腹を括った。体を張って名も知らぬ少女を庇う覚悟を、早々に固めた。昨年の過酷な日々は、陽介を単なる軽薄な少年のままにはしておかなかった。
「そうはいかんて。ウチは生徒会長なんやから、乱れた風紀には鉄拳をくれてやらんとあかん!」
だが庇われる方は
「覚悟しいや!」
会長の動きは意外なくらいに素早かった。陽介を追い抜いて影法師の群れに突っ込むや、手近な一体の首を掴んで捻り倒した。
「へ……?」
銀の髪を振り回しながら、会長は更に動く。両腕を鞭のように振り回して引っぱたき、膝を入れ、鉄槌を落とす。腕を掴んで足を払い、投げ飛ばした先で別の個体も巻き込んで倒す。一つの動きで一体かそれ以上を、効率的になぎ倒していく。明らかに素人の動きではない。実戦で磨いた自己流ですらない。対人戦の訓練を受けた洗練された技である。
「すっげ……」
シャドウ相手の実戦経験なら、陽介も少なからず積んでいる。特に速さには自信があるので、動き自体は陽介の方が会長よりも速い。だが会長の動きは質が違う。あっという間に影法師たちを片付けた手際に、思わず感心してしまう。
『ホント、めんどくさい奴……さっさとくたばればいいのに。あんたみたいなの、いる価値ないんだから』
「りせ! クマもだけど、お前らさっきから何言ってんだ!」
特捜隊は男女を問わず、個性的な面々が揃っている。言動は優しいばかりではない。特に陽介は仲間の女性陣から理不尽を被ったことは、何度かある。だがそれにしても限度がある。今の二人の言い様は、『そういうキャラだから』で許される範囲を大幅に逸脱している。サブリーダー、またの名を中間管理職として割を食うのが役割の陽介でも、もし自分がこのように言われれば怒り出すだろう。
だが言われた当の人は、暴言に堪えた様子がなかった。少なくとも傍目には。
「あんたら、放送室やね? 今行くから、そこで待っとき!」
「お、おい! 待て!」
会長は校門前から駆け出し、陽介は追おうとした。しかし止められた。少女は門柱の間を通り抜けたところで振り返ったのだ。
「庇ってくれて、おおきにな……」
この時、陽介は初めて気付いた。生徒会長を名乗るこの少女は、瞳の色が赤色だったのだ。宝石か、もしくは夕暮れ、朝焼け。自然界に存在する赤色の中で、取り分け美しいものを連想させる。そんな珍しい色彩を中心に据えた顔は、西洋人風の整い方をしていた。肌は日本人離れした抜ける白色だ。夏服の白い半袖の布地よりも、そこから覗く腕や首の方が白い。
「!」
一言で言うと、会長は大変な美少女だった。異性と付き合ったことのない初心な少年は、思わず息を飲む。心よりも体が遠慮して、追うべき足は踏み出すのを恐れてしまった。
「でも後はウチに任せとき!」
少女の可憐さに少年が呆けて止まっている間に、会長は再び駆け出した。その足は速い。陽介でも、本気で追わなければ追いつけないくらいに速い。
「待てって! 一人じゃ危ね……あだっ!」
そして陽介は再び止められた。目に見えない硬い何かに鼻先をぶつけ、その場でうずくまる。
『ハプニング連続の今大会! むしろこれが通常運転?』
背後のテレビで再び実況が喋りだした。その言い様は、テンションが高すぎる元のスタイルに戻った。陽介が鼻を押さえて振り返ると、ちょうど映像がりせから仮装したクマに変わった。
『ヨースケのお相手はあ、そんなクソ虫じゃなくてこっちの高嶺の花クマよ!』
列車は走り出したら止まらない。大会の展開は早く、息つく暇もなく、今度はスモークが校門前に立ち込めた。人を惑わす霧ではないが、やはり惑わす代物だ。
──
瞬間、陽介の脳裏にノイズが走った。鮮明に映っていたテレビ画面に僅かに砂嵐が混じったが、すぐに元に戻るような一瞬の出来事だ。何が起きたのか、何も起きなかったのか、その判断もつかないような微かな違和感だ。
『難攻不落の雪子選手、リングに来ちゃいましたー! 八高伝説の険難悪路、果たしてルサンチマンは踏破なるでしょうか!』
随分な紹介と共に現れたのは雪子だった。戸惑いの表情を浮かべているのが、陽介にも見えた。
「天城!」
「花村君! 一体どうなってるの!?」
二人はほぼ同時に互いの姿を認め、声をかけた。だがその声は──
『口、臭い。私、貴方と話す必要、一ミリも感じないんだけど』
『決まってんだろ。天城越え、再挑戦だぜ!』
互いにこう聞こえた。
「え、え……? 俺ってそんなに臭う……?」
「え? 登山するの?」
相手に声をかけると違って聞こえる。戸惑いの声さえ違う言葉に置き換えられる。
『うん、強敵と書いて友って読むんだけど、汚物は消毒って言うんだよ。知ってる?』
共に死線をくぐり抜けて来た仲間に、汚物呼ばわりは酷い。
「消毒……し、知ってるぞ! 火か!? 火炎放射器か!?」
『心配すんな。黒雪姫を白く染めてやるだけだから! 痛くしねえから!』
そしてこれも酷い。陽介は青く、雪子は赤く頬を染めた。
「え? え? え……? い、痛いに決まってるでしょ!」
種類は違うが、どちらも身の危険を感じた。戸惑いに侮辱や挑発が上乗せされ、何が何だか分からなくなる。誰も彼もが一斉におかしくなって、正気でいるのは自分だけのような、この状態。仕掛けが分かっていても愉快ではないのに、分かっていなければどうなるか?
仲間同士で戦うくらいなら、酷い目にあってもいい。相手を傷つけるくらいなら、自分が傷つく方を選ぶ。互いに自己犠牲ができるほどの関係にある二人は、『今の』特捜隊に何組いるだろうか。皆無ではないが、陽介と雪子はそうではない。
「アマテラス!」
雪子は武器にしている扇子を広げ、同時に慣れたペルソナ呼称を口にする。対する陽介も両手の短剣を構えた。
「くっそ! どいつもこいつも何だってんだ! 」
もはや問答無用である。半ば自棄で力の名を呼ぶ。
「スサノオ!」
だが何も起こらなかった。先に叫んだ雪子と出遅れた陽介のいずれの頭上にも、何も現れない。培った力を表すはずのペルソナの名は、うわ言に等しくなっていた。何も応えるものがない。
「な、何で!?」
「まさか……!」
雪子が自分自身に驚いている間、陽介の脳裏に閃きが走った。自分たちのペルソナに何が起きたのか、理解するのは陽介の方が早かった。いや、理解はしていないが、対処の方法は思い付いた。陽介はテレビに入る直前、少しだけだが千枝と話し合ったから。その会話に参加していない雪子よりも気付くのが早かった。今ここで呼ぶべき名前は何か、一瞬だけ早く気付いた。
「ジライヤ!」
鮫川の河川敷で相棒と殴り合った11月から、呼ばれることのなくなった名前だ。失ったはずの呼び名が、今になって蘇った。白いツナギを身にまとい、両手の甲に十字手裏剣を装着した忍者のペルソナだ。日本の創造神の息子にして多くの神々の中で最も貴い一柱は、陽介の中から失われた。
「きゃあっ……!」
特捜隊の『内部抗争』一回戦は、陽介が先手を取った。雪子が召喚に失敗して無防備になった瞬間を突いて、ジライヤが放った竜巻が襲った。
「く……コノハナサクヤ!」
りせを救出した頃には呼ばれなくなった名前を、雪子は久しぶりに口にした。すると今度は応えるものがあった。ピンクを基調とした色鮮やかな女のペルソナが顕現し、炎の弾丸を飛ばす。
「遅え!」
飛来した炎を、陽介は上体を傾けて回避した。初撃の応酬は陽介に軍配が上がった。
陽介と雪子の戦力を比較すると、どちらが上とは言いにくい。実戦でどれだけ活躍できるかは、相手により状況により変化する。どちらか一方が常に上であると断言できるほどの、大きな実力差は二人の間にない。では一対一で戦った場合、どちらが勝つかと言えば──
「この! ちょこまかと!」
校門前の坂道で炎が爆ぜた。有象無象のシャドウの一匹くらいなら、当たれば軽く火葬できる威力の火が飛ばされる。しかし的にはなかなか当たらない。
「うお、怖えー!」
髪の毛が焦げる不快な臭いを感じながら、陽介は横に回って飛び上がる。地面を蹴って、自分の身長を超える高さまで跳躍するくらいは当然。足場のない空中でも、瞬き一つで呼び出せるペルソナを足場に前後左右、更には上下へ自在に飛び回る。特捜隊では最も身軽で、反射神経に優れた陽介が得意とする空中機動だ。
「どわっ!」
もっとも飛来する炎を、さすがに全てをかわせはしない。炎が三度か五度も放たれれば、一つくらいは当たる。陽介は空中から撃ち落とされた。しかし倒れずにそのまま着地する。
速さと力は陽介、魔力は雪子、耐久力は同程度。相手が得意な攻撃に対する、耐性における有利や不利はない。こうした拮抗した戦いにおいて、得てしてものを言うのは直接的な戦闘能力以外のものだ。例えば運や作戦だ。
(そろそろやっておいた方がいいかしら……)
仲間と相対しながら、雪子の脳裏にふとよぎるものがあった。雪子が一つ優位になり得るのは、火炎の他に回復魔法を得意としていることだ。陽介はできない。致命傷でない限りは、切り傷や火傷を癒やせる力を雪子は持っている。上手く使えば継戦能力に圧倒的な差が出る。出るのだが──
「コノハナサクヤ、癒して!」
この時、雪子は一つミスをした。
(チャンス!)
召喚の掛け声とほぼ同時に、陽介は駆けた。踊り子のペルソナがショールをはためかせ、使用者に治癒の光を零そうとしたその瞬間、間合いに入った。まず左の短剣を鋭く振るう。
「あっ!」
咄嗟に雪子は扇子を閉じて、右手側から襲ってきた打撃を受けた。次の瞬間、陽介は右の短剣を大きく振るう。こちらが本命で力を込める。ただしさすがに刃は立てず、束で打つ。狙いは脇腹だ。陽介は生身の線は細いが、ペルソナの恩恵によって膂力はかなりある。細身な見た目通りの雪子には、打撃はかなり効いた。
姿勢が崩れて集中が乱れ、コノハナサクヤは霧消した。敵を目の前に置いた状態で回復魔法を使うのは、危険が大きい。隙になるからだ。これまで戦う時はいつも他の仲間が周りにいて、力を行使するタイミングもリーダーが指示してくれていた。初めてそのどちらもいない状態で戦った雪子は、時期の判断を誤った。
「ジライヤ!」
短剣の束だけでは陽介は止まらない。ペルソナの拳が唸り、蹴りが飛ぶ。そして突風だ。
「ああっ! そんな……」
隙を突いた陽介の連続攻撃によって、雪子は弾き飛ばされた。テレビが置かれたセットの前で膝をつき、扇子を取り落とした。今年の桜は開花が早く、満開は3月に迎えた。校門の傍で競うように立つ二本の桜は、現実ではとうに花を散らしている。そしてテレビの中でも、桜は風に煽られて散らされた。
『はい終了! もう終わりだよー!』
勝負があったことを、実況が宣言した。雪子は死んでいないし気を失ってもいないが、決まりと言われたらそれで決まりである。
『何と! ヨースケが勝っちゃったクマか! オッケ! 最前列でかぶりつくクマー!』
『いやーん! 総統ってばやらしー!』
主催者は画面から飛び出してきそうなアップで映っている。実況は声だけは聞こえてくるものの、顔は映っていない。葉巻を咥えた着ぐるみの顔だけで、はち切れんばかりである。
「天城越えされるんだ……い、痛くしないでね?」
雪子の顔に朱が差した。それは恐怖か諦めか、はたまた期待か。
「するか! てか、何の話してんだ!」
だがもちろん陽介にそんなつもりはない。八十神高校の生徒たちの間では天城越えと称される難関に、陽介は二年前に挑戦したことは事実だ。しかし今は雪子にそちらの感情を抱いてはいない。雪子に限った話ではなく、生きた人間の誰に対しても──
『んもー、意気地なし! だからヨースケはガッカリなんだクマ!』
門柱の間を通り抜けて、陽介はテレビの中の八十神高校へと足を踏み入れた。正気に戻った(と互いに思っている)雪子は見えない壁に閉じ込められてしまったので、傷の手当だけしてもらって、一人で校舎に入った。
(俺のペルソナ、どうなっちまったんだ?)
戦いの最中は考える余裕がなかったが、終わった今は考えられる。しかし相談できる相手が誰もおらず、一人で考えなければならない状況に置かれることは、昨年はあまりなかった。慣れないことだが、陽介は取り敢えず考える。
(名前とカッコが戻っただけ……じゃねえみてえだが)
陽介のペルソナはスサノオからジライヤに戻ってしまっている。しかも呼び名だけの問題ではない。先ほどの戦いでの感じからすると、今のジライヤと3月までのスサノオにはかなりの違いがある。使える技や魔法に変わりはないが、膂力や魔力は落ちている感覚がある。ただし情報系の能力がなければ力を正確に測ることはできないので、どの程度まで落ちたのかはよく分からない。半減したのか、そこまでは行かず一割や二割減なのか。
(天城も戻ってたな……)
陽介が雪子に勝てたのは判断ミスに付け込んだ為もあるが、雪子も同じようにペルソナ能力が低下していたことが前提としてあった。もし低下したのが陽介だけで雪子は3月の状態だったら、陽介が敗れていた可能性が高い。
(ん? 待て。天城の火、めっちゃ熱かったぞ? 俺って火に強くなかったっけ?)
スサノオには火炎に対する耐性があったはずだが、先ほどの勝負では雪子の魔法はかなり効いた。それは雪子の力は衰えていないからか、それともジライヤに戻ると同時に耐性が消失したのか。
(マジ、どうなってんだよ……俺ら、なまってんのか?)
これはしばらく実戦をこなしていなかった為の、なまりであるのか。毎日運動して体を鍛えた人間も、サボると体力や技術が低下する。ペルソナもそれと同じか。しかしだからと言って、呼び名と姿が始めに戻るのは落ち過ぎではないのか。ただしペルソナを得たばかりの昨年4月のレベルまでは落ちていない。さすがにそれくらいは体感で分かる。
(そういや里中もなんか落ちてる気がするって言ってたが……あいつ、修行ってのは続けてんじゃなかったか?)
千枝は普段から運動を欠かしておらず、ロードワークなどをしていることは陽介も知っている。しかしペルソナは別か、同じか──
(あー、分かんねえ! 考えがまとまんねえよ!)
こういう時、陽介は相棒がいてくれればと思うのだ。陽介は決して愚かではないが、想像もつかない問題の解答は一人では導けない。
『去年の事件、どうして俺を使わなかった!』
「何を言っている……。足立透との戦いには呼んだだろう。それ以前は武者修行中だったではないか」
この大会の第一試合は骨肉の争いで、第二試合は特捜隊の内部抗争だった。ことさらに内輪揉めを強調する組み合わせは、シャドウワーカーにも仕掛けられていた。
『お前はもう用済みだ。有里がいれば十分なんだ』
「何を馬鹿な……。あいつは確かに強いが、何でも任せておけるような奴じゃないぞ。それくらいお前だって知ってるだろう」
美鶴と真田である。二人がいる場所は八十神高校の体育館だ。もちろん本物ではなく、それに似せた異空間である。と言うより『似せる』という演出を、放棄しているに等しい場所だった。無数の椅子や机がバリケードのように組まれていて、しかもその高さは見上げるほどになっている。誰が見ても、まともな学び舎でないことは一目瞭然だ。
『P-1グランプリ、一回戦第三試合! 今度は年増同士です! もーこうなったら高校生じゃなくてもいいよね!』
『全然オッケークマ! 招かれざるオッサンたち、乱入から正式参加枠にランクアーップ!』
十メートル以上ある天井から吊り下げられたテレビに映っている実況と主催者は、もはやハプニングとさえ言わない。全ては予定通りだ。
『と! 言うわけでぇ、はいスタート! ちゃっちゃと戦っちゃってー!』
ジュネスのテレビから異世界へ入った者たちは、ほとんどが二人ずつに分断されている。ただし組み合わせはランダムなものではなく、配置する場所を含めて、あらかじめ決められている。P-1グランプリと銘打たれた格闘技の大会めいたこのイベントの全体を俯瞰できる者がいれば、ヤラセを通り越した計画性を察する頃合いだ。
「あれは久慈川君とクマ君……だったな。先ほどのプロモーション映像も不自然だったが、言動がおかしすぎる。何者かに操られているのか、それとも……」
「あいつら……ふん、まあいい。お前とは一度戦っておきたかったからな!」
真田は懐からオープンフィンガーグローブを取り出して、両手に素早く装着した。話し合いを試みることもろくにしないまま、あっという間に戦闘態勢に入った。
「どうやら相手を倒さなければ、出られない仕組みのようだな。やむを得ないか!」
そして美鶴も応じる。高校時代から得物にしている突剣を構える。
特捜隊にとって仲間同士で戦うのは初めてだが、シャドウワーカーはそうでもない。二年前の3月、正確には『現在と繋がらない』二年前に、かなり深刻な仲間割れをしたことがある。この二人はその時には戦わなかったが、覚悟はあった。
シャドウワーカーが任務中の制服とした黒服は、隊員一人一人の体格に合わせて仕立てられたものである。着る者の動きを邪魔しないよう、生地から縫製まで配慮された逸品だ。しかし真田の感覚からすると、今一つだった。それは昨年まで好んで『着用』していた服に比べれば、動きやすさはどうしても制限されるからだ。
「やはり上半身は何も着ないに限るな」
文句を言いながらも、窮屈に感じるジャケットは着たままだ。ネクタイだけは少し緩めて、太い首を多めに空気にさらしているが、非常識な格好にはならない。町を歩いていても、端正な顔と見事な体格で注目を集めるだけで済むだろう。
「まだ行くぞ!」
上司にして同輩へ向けて、真田は姿勢を低くして吶喊した。ただし直線的に突っ込みはしない。足元を起点として、膝、腰、胴体を柔らかく揺らす。一見するとごく小さな体の動きでもって、美鶴を追い詰めていた。
「ぬう……これだけ撃って一つも当たらんとは! 見切りの技を身に付けたか!」
美鶴の顔に焦りが浮かび始めていた。この二人が戦う場合、勝敗を容易く決しうる重大な要素がある。美鶴が得意とする氷結の魔法に真田は弱いのだ。対して真田が得意とするのは電撃だが、美鶴はそれに弱くない。だから氷の弾丸を一つでも当てれば、美鶴が俄然優位に立つのだが、それができずにいた。
「見えているぞ!」
雨あられと飛来する氷を、真田は首を捻ってかわし、膝を折ってやり過ごし、拳の甲ではたき落とす。軌跡が『見えて』いるのだ。敵をねじ伏せ、粉砕するのみがペルソナ能力ではない。真田は特定の攻撃を『見切る』能力、それも苦手な氷結属性をかわす力を身に付けていた。特別課外活動部の時代にはなかったものである。
弱点を完全に克服したわけではないので、もし当たれば効く。優れたペルソナ使いである美鶴の本気の魔法を食らえば、命の危険もある。だが当たらない。美鶴が放つ直前に、真田には氷がどう飛んでくるか『見える』のだ。広範囲に展開しようと氷山のような一撃を放とうと、どれも身軽にかわしてしまう。
「更に腕を上げたようだな、明彦!」
こうなると、美鶴は最大の攻撃手段を放棄せざるを得ない。右手と右足を前に出す、片手で剣を構える姿勢を取る。フェンシングで言うところのアンガルドだ。最も基本的な構えであり、昔から何度も取ってきたスタイルだ。前方に突き出した剣越しに、美鶴は無数のシャドウを見据え、葬ってきた。だが今日の相手は、自分史上最強の敵と言っても過言ではないかもしれなかった。
美鶴は前の足を滑らせ、無駄のないお手本のような突きを放つ。一般に刃物と素手では、勝負にならないとされる。剣と拳では間合いと威力の差は歴然であるから。何より常人は刃物に対する恐怖を拭い難い。ケンカ慣れした路上の猛者も、ナイフを出されれば平常心ではいられない。だがペルソナ使い同士の戦いでは、そんな常識は通用しないことが往々にしてある。
「ふっ!」
真田は右手のパーリングで、顔面に向けて飛んできた突きを軽々と凌いだ。だが美鶴も終わらない。真田が距離を詰める前に剣を素早く引く。そして──
「アルテミシア!」
ドレスをまとった女帝のペルソナが、瞬き一つで召喚された。同時に美鶴自身も動く。自らの分身に鎖状の鞭を振るわせて、それとタイミングを合わせて剣を横薙ぎに振るが──
「ぬ……!」
真田の姿はそこになかった。ペルソナの鞭と本体の打撃の、いずれもかわされた。次の瞬間、ダッキングで身を屈めたと思しき真田の姿が、眼下に見えた。
「行くぞ!」
起き上がりざまのアッパーが、美鶴のボディーを狙う。剣の柄を下ろしてガードするが、次の瞬間に右のジャブが三発連続で来る。
「うっ……!」
剣や槍は拳に比べて間合いで勝る。対して拳が他に勝る点は回転力である。手足が届く距離まで近付けば、文字通りの手数において拳は他を圧倒する。剣は長さがかえって邪魔になり、やがては防御も覚束なくなる。
「リバー!」
渦を巻く筋肉の颶風は、縦でも横でも自在に旋回する。コンビネーションの締めとばかりに放たれた、左のボディーブローが美鶴の脇腹を襲った。美鶴は咄嗟に肘を下げてかろうじて防ぐが、真田は構わず押し込む。ガードの上から叩きつけてなお、美鶴の体は吹き飛んだ。
格闘技の試合の解説者であれば、もはや勝負は見えたとコメントしそうなところである。