ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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男の中の男(2012/5/3)

 シャドウワーカーの事案に首を突っ込んできた特別捜査隊の人数は、堂島が悠から聞き出した限りで五人。美鶴は他の三人も来ている可能性があると疑ったが、それは正解である。悪い予感ほどよく当たる。

 

(俺、何でここにいんだ?)

 

 悠たちと連絡のつかなかった三人のうちの一人、完二は戸惑っていた。八十神高校の下駄箱近くの廊下に身を置いているのだが、自分がどうしてここにいるのか分からないのだ。朝に家を出た覚えがなく、校門をくぐった覚えもない。そもそも今日は祝日で学校は休みだった気もする。脈絡のない夢を見ているように、一人で無人の空間に佇んでいた。ついでに言うと、今いるこの廊下の幅は不自然なくらいに広い。人が七人か八人くらい並んで歩けそうな広さがある。

 

(確か……鳴上先輩が帰ってくるってんで、あみぐるみ作ろうと思って……)

 

 完二と悠の間に存在した皇帝のコミュニティは、堂島や陽介のそれと同様に今は失われている。しかし魔術の絆が破壊されたこと『だけ』をもって、完二が悠を嫌うことはない。完二は他の担い手たちと同様に、コミュニティについて存在自体を知らない為、意識の上では破壊されたことそれ自体にも気付きようがない。それに加えて完二は元来義理堅い性格なので、先輩が『帰郷』するとなればプレゼントの準備くらいする。素直に喜ぶ気持ちも、やはりある。

 

 だから2日の夜から自宅の居間で得意の手芸をやっていたのだが、どうも記憶が曖昧なのだ。必要な糸を揃えて、ある程度まで作り上げたことは覚えている。その後は──

 

(んで……そうだ。地震があったんだ)

 

 霧のかかった記憶の中に、一つの手掛かりを見つけた。しかし絡まった糸をそれ以上解くことはできなかった。

 

『なーにボサッとしとるクマ! トーナメントはもう始まってるクマよー!』

 

 なぜか廊下の天井に吊り下がっているテレビから、突然映像が流れてきた。映っているのは、そろそろお馴染みになってきた葉巻を咥えた着ぐるみだ。

 

「あ? クマ公? お前、そのカッコ……」

 

 お馴染みと言っても、それはこの大会全体を見渡しての話で、完二が大会主催者の姿を見るのは初めてだ。そして見た途端、完二の目が光った。もちろん霧の中で金色に光るシャドウの瞳ではなく、琴線に触れる逸品を目にした時に発する光だ。

 

「……悪くねえな。ジュネスにそんなの売ってねえだろ。どこで買った?」

 

『ふっふっふー! カンジってば分かってるクマね!ゴホービに男の願望ガチムチマッチを組んであげるクマ!』

 

「ガチムチ……って何だ。キムチの仲間か?」

 

『そーじゃなくて! 男の中の男を決める夢の大会なんだから! あんたの夢も欲望も、ぜーんぶ叶うってことよ!』

 

「りせ? 夢の大会……って、そうか! これは夢か!」

 

 実況のセリフの一部だけを捉えた完二の頭に閃きが走った。これは夢であると。夢なら場所や時間が唐突に移動したことも、学校の廊下にテレビがあることも不思議ではない。クマの仮装が思わず感心してしまうレベルに達していることなど、審美眼には密かに自信のある自分が見る夢に相応しいではないか──

 

 と思いながら周りを見回してみると、廊下の壁のあちこちに文化祭めいた飾り付けがされているのに、今になって気付いた。そして訝しむ。

 

「いや……俺の夢にしちゃあ、飾り付けのセンスなさすぎじゃねえか?」

 

『あーもう! この際だから、P-1グランプリのサブタイトルは八高最強決定戦でいいわ! 一回戦第五試合スタートよ!』

 

 寝ぼける完二をそのままに、実況が試合開始をコールした。すると白いスモークが焚かれ、どこからか歓声らしきものも聞こえてくる。

 

「最強決定戦……へっ! 漢の中の漢を決めんのか! 面白えじゃねえか!」

 

 戸惑いが後退し、状況を楽しむ気持ちが生まれた。昨年の事件に関わるようになって以降、ケンカに明け暮れることはなくなったが、やはり完二は勝負事を好む。文化祭などの行事は楽しむ柄ではないが、格闘トーナメントとなったら黙っていられない。テレビの外なら仲間を含めた学校の誰にも負けるつもりはないのだ。そしてテレビの中でも、即ち(?)夢でもそうそう負けはしない。

 

『さあ、対戦者カモーン! カンジを男の子にしてあげるクマー!』

 

「え……」

 

 スモークの中から現れたのは、なるほど完二が男になる為には避けては通れない相手だった。勝つにせよ負けるにせよ、何らかの決着が必要だ。逃げたままにはしておけない。

 

「な、直斗!? いくら夢だからって、いきなりかよ!」

 

 仕事で稲羽にいないことも多い少女探偵だ。それが──

 

『何です。男の中の男を決める大会なら、僕が出ないわけにはいかないでしょう』

 

 いきなりこんなことを言い出した。正確には、完二にはそのように聞こえた。

 

「いや、違うだろ……てかお前、それでいいのかよ!」

 

『ふっ……そうですか。君は僕に勝つ自信がないんですね』

 

「あ……んだと!?」

 

『そうでしょうとも。君は女性恐怖症なのですから。何しろ女性は偉そうで怒れば泣く、陰口は言う、チクるし試すし化けるのですからね!』

 

「お、お前、何でそのセリフ……!?」

 

 直斗が言っているように聞こえるセリフは、昨年にテレビの中で現れた完二のシャドウのそれである。その時の直斗は完二と知り合ってはいたが仲間ではなかったので、直斗は知らないはずである。

 

『君はつまり、この僕が怖いのでしょう!』

 

「色々待てやコラ!」

 

 完二にすれば、直斗の発言はおかしすぎる。見たことがないはずのシャドウの言葉をそのまま繰り返すのみならず、言ってる傍から矛盾を重ねる物言いだ。完二は理解力に自信がある方ではないが、それでも自分の頭が悪いから直斗の話が分からないのだとは思えなかった。どこから突っ込めばいいのか分からなくて突っ込めない状態だ。しかし相手は待ってくれない。

 

『さあ、始めましょうか。銃を向けられた小鹿が恐怖で固まるように、一方的に撃たれているといいです!』

 

 直斗は懐から拳銃を取り出し、銃口を完二に向けてきた。何度も言うが、やはり問答無用である。P-1グランプリに参加したら最後、倒すか倒されるかだ。中傷の応酬だけでは終わらない。と思いきや──

 

「な、ナメやがって! や……」

 

 やってやるぜ、と言いかけたところで完二は唇を噛んだ。決裂を意味する決定的な言葉を口にする前に、抑えることができた。

 

 直斗の指摘(完二にそう聞こえているだけ)は誤りだ。完二は女全般を恐れてはいない。もしこれが千枝や雪子が相手であったら、多少の葛藤はありつつも戦うことはできただろう。現実でも鍛錬の為とかであればできるし、夢なら不当に侮辱されれば手も出す。しかし直斗は無理だ。直斗を傷つけるくらいなら、完二は自分が傷つく方を選ぶ。たとえ夢でも。

 

(ちい……ムカつくが、直斗を殴るわけにはいかねえ)

 

 P-1グランプリ一回戦第五試合は、第四試合に続いて『夫婦喧嘩』のつもりだったのかもしれない。しかし完二は有里ほど慌てなかった。襲われる前に、さっさと腹を括った。

 

「好きにしろ!」

 

 完二は床に胡坐をかいた。嘲笑でも銃弾でも黙って受け入れるつもりで、腕組みをして胸を反らした。

 

 

 一方で直斗はと言うと──

 

「巽君……? 良かった、無事だったんですね」

 

 直斗から見てスモークが晴れた先にいたのは、連絡が取れなかった仲間だった。今日はジュネスのフードコートに集合するはずが現れなかったので、心配していたのだ。

 

『直斗! お前に言いたいことがあんだよ!』

 

 それがいきなりこれである。

 

「僕に言いたいこと? 巽君が……ですか。分かりました、伺いましょう」

 

 互いの無事を確認できたことを喜ぶ前からの、唐突な宣言だ。話の順序に違和感を覚えつつも、まずは直斗は相手に応じる。人の話を聞くのは調査業の基本技能であるから。だがこの局面では、それは良くなかった。完二は本当はそんなことは言っていないのだから。

 

『てめえは男になりてえんだろ!』

 

「は、はい?」

 

『つーわけで、俺と勝負しろや!』

 

「いえ、意味が分かりませんが……」

 

『俺がやってやるっつってんだよ! その、アレでソレで、こう……』

 

「あの、さすがに指示代名詞だけで会話されると、僕も推理のしようがないんですけど」

 

『分かれよ! えーと、あれだ! 人体改造手術! ソコとかココにツッコんだり、拡張したりな!』

 

 人体改造手術とは、昨年放送されたマヨナカテレビの直斗主演回で使用されていたフレーズである。直斗が生み出したダンジョンの最奥にあった手術室には電動ノコギリのような物騒な設備があり、直斗自身も覚えている。しかし完二の言いようは、それとは違う意味での怖さを感じさせた。頬を染めて唇を尖らせるという、今まで見たことのない完二の表情がその裏付けになる。

 

「え……え!? ちょ、ちょっと! 何する気ですか!?」

 

 直斗は特捜隊の中では実戦経験の量が最も少ないが、それでもシャドウ相手に戦ったことは何度もある。足立やマリーと対峙した時は死も意識した。探偵の仕事においても、恐れを感じた経験はないではない。昨年に誘拐犯の尻尾を掴む為に自ら囮になった時は、内心では結構怖かった。しかし今のこの状況は、それらとは違う。嫌な方向で違う。

 

 人生で初めての種類の身の危険を感じて、直斗は思わず懐から拳銃を取り出した。この銃そのものはモデルガンに過ぎないものだが、テレビの中でシャドウやペルソナ使いを相手に使う分には殺傷力を発揮する。何が何だか分からないが、とにかく自分の身を守らないといけない。もちろん仲間を撃つのは気が進まないが、そうも言っていられない。

 

『さあ、イックわよーん!』

 

 しかし完二は突然床に座り込んだ。

 

(巽君……何で座るんだ? 何かおかしいぞ?)

 

 この大会では口にした言葉が違うように聞こえる。表情や体の動きも、少しは現実と違って見せることが可能だ。しかし何事にも限度がある。せめて完二が立っていれば格闘技におけるフェイントの技術のように、本当は攻撃していないのに、しているように見せることもできただろう。しかし座っている完二を襲ってくるように見せることは、さすがにできなかった。結果的に言葉と行動が嚙み合わない状況が生まれた。これでは誰でも違和感を覚える。探偵ならなおさらだ。

 

(正気を失っているのか? それとも……そうだ!)

 

 完二と有里では反応が異なったように、直斗もアイギスほど感情的にならなかった。冷静さを取り戻すと、対応策を一つ閃いた。直斗は銃を懐に戻し、代わりにメモ帳とペンを取り出した。探偵稼業の必需品なので普段から持ち歩いている。

 

 "読めますか?"

 

 直斗はメモ帳に言いたい言葉を書き込み、完二に見せた。声と違って文字を誤って読ませるのは難しい──

 

『んー? 直斗ってば言葉責めから始めるクチ? いいわよ~ん!』

 

 耳に届けられる裏声を無視して、直斗は素早く続きの文を書いた。

 

 "読めるなら、声を出さずにOKと書いてください"

 

 走り書いたページと白紙のページ数枚を破り、ペンのクリップに挟んでそっと下手投げで放った。真意を書いたメッセージは、座り込んだままの完二の目の前に落ちた。すると完二は嫌らしい顔のままで探偵の小道具を拾い上げ、ページの余白にペンを走らせて直斗に見せてきた。

 

 "OK"

 

 意思の疎通が可能になった瞬間である。策が通じた直斗は深く頷き、予備のペンを取り出して更に書く。

 

 "敵が罠を仕掛けている可能性があります。会話は紙に書きましょう"

 

 未だ姿を見せない『敵』の能力にかかると、話し合いが通じなくなる。しかし筆談なら通じる。訳が分からないことは変わらないが、直斗は当面の対処方法を見出した。すると吊り下げられたテレビに主催者が再び映し出された。

 

『こりゃー! おまいら、何やっとるクマかー! ちゃっちゃと戦いんしゃい!』

 

 戦う意思のない完二に背を向けて、直斗は振り返ってテレビを見る。その視線には相当量の訝しさがある。そしてまたもメモ帳に文章を書いて、今度はテレビに向けた。

 

 "君は何がしたいんですか? 何か書くものがあれば、書いて見せてください"

 

 直斗はクマも完二と同じ状態になっている可能性があると思って、画面越しに筆談を試みた。しかしクマ総統は口の端に加えた葉巻を揺らし、そっぽを向いてしまった。

 

『ナオチャンはメンドいクマね! もう勝手にしんしゃーい!』

 

 そして画面から映像が消えた。クマ総統は直斗の言いたいことは理解したようだったが、尋問モードに入った直斗に応じることはなかった。それはクマは完二と違って正気を失っているからなのか、それともあれは本物のクマではないからか。本物でないなら何か。直斗はいくつかの可能性をすぐさま思いつき、あり得ないこととあり得ることを頭の中で整理する。

 

「おい、待てよクマ公! でっ!」

 

 一方で完二は考えるより先に行動する。床から立ち上がって、戦うつもりがなさそうな直斗の脇を通り過ぎ、モニターに向けて歩みを進めようとした。しかし顔を何かにぶつけたようにのけ反らせ、足を止めた。

 

「巽君? これは……壁?」

 

「何だこりゃ……」

 

 二人で方々に手を伸ばし、注意しながら歩いてみた。すると二人ともすぐに、透明度が高すぎるガラスの壁めいたものに手が当たった。前後左右、四方全てが見えない壁に囲まれている。妙に幅が広い廊下いっぱいのサイズの、一辺が五メートルから六メートル程度の立方体である。プロレスやボクシングのリングと同じくらいの広さだ。

 

「俺ら、閉じ込められたんか?」

 

「言われた通りに戦わなかったからでしょうか……おっと、話が通じるようになりましたね」

 

 言うなれば、ルール違反で両者失格となったわけである。かくして完二と直斗の勝負は、戦わないまま終わってしまった。それは良かったのか悪かったのか──

 

 

「これ、夢じゃねえのか」

 

「どうしてそうなるのですか……」

 

 見えない壁に閉じ込められた二人は、取り敢えず現状を話し合った。完二は昨晩のマヨナカテレビを見ていなかったので、直斗はそこから説明した。ただし各々のキャッチフレーズについては省いた。口にするのも恥ずかしかったから。

 

「格闘番組という触れ込みからして、この壁はリングのつもりなのかもしれませんね。対戦者を逃がさないためのもので、決着がついたら消えるとか、トーナメントのように勝者だけが先に進めるとか……そういうことかもしれません」

 

「クソッ! 駄目か……」

 

 完二は拳で壁を殴りつけたが、びくともしない。有里でも壊せなかったくらいだから、特捜隊では最も膂力に優れる完二でも破壊できない。そもそもこの壁は、力だけでどうにかできる代物ではない。ならば──

 

「勝ったら先に進めるってんなら、いっそ勝負すっか?」

 

「いえ……やめた方がいいでしょう。さっきのクマ君の口振りからして、僕らは失格扱いになったのだと思います。今さら戦ったところで、壁が消えない可能性が高いです。それに僕らのペルソナは傷を治療する術を持ちませんし、下手をしたら大怪我をします」

 

「そっか……」

 

 壁に手をついて、完二はため息をついた。無骨な完二にしては珍しい、物思いに耽るような長い息だった。そして直斗を見る。

 

「つか、やっぱお前を殴るわけにはいかねえな」

 

 完二は昨年、悠に片思いしている(と完二は思っている)直斗から身を引いた。敬愛する先輩が恋敵では、自分に勝ち目がないことは分かっていたから。そしてそれ以上に、完二はコミュニティの主である悠と争うことはできなかった。しかし皇帝のコミュニティは3月に破壊された。それは完二の心境に変化をもたらしている。本人も知らない間に。

 

「え……?」

 

 その変化が、直斗を見る完二の視線にも変化を与えた。本人も意識してのことではないが、悠の為に直斗を諦める潔さ、言い方を変えると臆病さは陰に隠れた。代わって真の意味での男らしさが現れつつある。

 

「え……?」

 

 もちろん運命のコミュニティの破壊も直斗の心境に変化をもたらしている。一見すると強面の完二が向けてくる優しい視線に、ある意味を感じ取れるくらいには、男を見る目が節穴ではなくなっている。頬を赤くするくらいのこともする。

 

「い、いやいやいや! な、仲間なんだからよ! たりめーだろ!」

 

「そ、そうですね……」

 

「お、男同士なら拳で語ることもあるがよ! お前は……」

 

 完二は途中で言葉を切った。墓穴を掘ったことを、言ってから気付いた。

 

「……」

 

 空気が読めないとは、場の雰囲気や人の気持ちを察することができないという意味である。マヨナカテレビにもそう評された直斗だが、今は違う。『お前は女なんだから』と完二は言おうとして、そして口を噤んだことは分かる。当然のように分かる。そして濁されたことで、かえって自分が女であることを意識してしまう。この空気を無視して事件について推理を進めるような言動は、さすがにできない。本当は空気を読めないのではなく、敢えて読まずにいるだけなのだから。

 

「……」

 

 沈黙が降りた。猛烈に居たたまれなくなり、今すぐ逃げ出したくなる沈黙である。耐えて留まるには勇気が必要で、踏み込むには蛮勇が必要になる状況だ。青春溢れる少年少女にはまま訪れるシチュエーションだが、この二人にとっては初めての経験だ。そして壁に囲まれた狭い空間に閉じ込められている以上、どちらも逃げることはできない。勇気を絞り出さざるを得ない。

 

「な、何か喋れよ……」

 

「た、巽君こそ……さっきまであんなに勢い良かったのに、どうしたんですか」

 

 瞬間、完二は目を見開いた。何かの取っ掛かりを見つけたように飛びついた。ただし何の取っ掛かりであるのかは、本人も理解していない。暗闇の中で浮かんだ光点に向けて、一目散に走りだすようなものである。

 

「そ、それだ! お、お前に言いたいことがあんだよ!」

 

 完二はほんの少し前に自分の幻が言ったのと同じセリフを、期せずして口にした。まるであの幻はただの嘘八百を並べているのではなく、心の底で本人が言いたい、または聞く者が言われたい言葉を発するかのように。金の瞳のシャドウがそうするように。マヨナカテレビがそうであったように。

 

「な、ななな何でしょうか巽君!?」

 

 ある意味人生で最も恐ろしい幻、即ちガチムチ皇帝の言動を思い出して、直斗は挙動不審になった。KY探偵の異名を返上できる動揺ぶりだ。傍から見れば、銃を抜かずにいるのに感心してもいいくらいである。

 

「だ、だからそれだ! その『タツミクン』をやめろっつてんだよ!」

 

「は、はい?」

 

「よく分からねえけどモヤモヤイガイガして、よそよそしいっつーか! お前だけだろうが! 俺のこと名字で呼んでんの!」

 

 その通りであるのだが、別に完二に限ったことではなく、直斗は特捜隊の仲間を全員名字で呼んでいる。なお、クマは例外とする。

 

「えっ、えっと……? つまり、名前で呼べってことですか?」

 

 完二にすれば、他の誰もが自分に対してする呼び方をしてほしいということであり、直斗にすれば、他の誰にもしていない呼び方をしてほしいということになる。特別でないようでいて、特別な呼び方──

 

「あー……要はそういうこと……」

 

 もちろん完二はそこまで考えて喋ったわけではない。沈黙を破るために必死で話題を探して、或いは話を逸らそうと思っているうちに、墓穴を掘ったと言うか急所を突いたと言うか、とにかくそういう事態に陥ってしまった。

 

「……」

 

 再び沈黙が降りた。次に口を開くのは、二人のゆでだこのうち果たしてどちらか──

 

「ぬぁー! 何言ってんだ、俺ぇぇ! ちょ、ちょっくら走ってくる!」

 

 完二は頭を抱えてのけ反り、次の瞬間に走って逃げようとした。この場から、この世から、直斗から。即ち恋する相手から。ほぼ初対面の時から自分を惑わし、サウナのダンジョンを生み出させ、今また小さいことを思わず口走って深刻に恥ずかしい青春の一ページを作ってしまった運命の人から逃げようとした。

 

「え!? ど、どこを! と言うか、待ってください! 壁が……」

 

 ──

 

 しかし逃げたくても逃げられないことも、世の中にはある。完二は見えない壁に全身をぶつけ、仰向けに倒れた。

 

「い、いちち……」

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

 完二は額を押さえている。色々な意味で痛かったが、少年は気を失ってはいない。気絶という形でこの場から逃れることもできなかった。哀れなるかな、初心な少年は少女と二人きりで閉じ込められているままである。

 

「わ、忘れてくれ……ソッコーで……ん?」

 

 ただし体は逃れられなかったが、目は別のものを見つけた。もはやお馴染みの赤と青のコントラストが鮮やかな丸いフォルムを、見えない壁の先に見つけたのだ。軍帽もマントもない、本当の意味でお馴染みのいつものスタイルである。

 

「え?」

 

 そして完二に続いて直斗も見知った姿を発見した。

 

「クマ君!」

 

 ではそれは仲間か敵か。仲間なら正気かそうでないか。敵ならシャドウかまた別の何者かか。直斗が考えなければならない問題は、まだいくつもある。

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