演劇部に入部した翌日、4月26日の夜。悠は菜々子と二人で、居間に敷かれた座布団に座りながらテレビを見ていた。夕食はまだ済ませていない。今日は堂島から早く帰ると連絡があったので、二人でそれを待っているのだ。
『今夜から天気は下り坂です。明日と明後日は、一日雨となるでしょう』
テレビからはニュースの天気予報が流れている。古くて広い堂島宅にある音はそれだけだ。会話はない。十歳差の従兄妹たちの間に横たわる昔ながらのちゃぶ台の上では、二つの湯呑から湯気が虚しく立ち上っている。沈黙した家の中で、気象予報士の声だけが空気のように流れ去っていく。
「……」
気まずい限りの雰囲気である。悠が堂島家の世話になり始めて、はや二週間。従妹との関係は、当初と比べて一歩も進んでいなかった。
悠はいずれ菜々子を連れてジュネスに買い物にでも行こうと思っていたのだが、それは未だに果たされていない。理由は悠が忙しすぎるからだ。転校初日からこちら、事件の連続だったから。特捜隊としてテレビに入るのは無論のこと、陽介や千枝とは個人的な付き合いもある。今日も千枝に誘われて、鮫川の土手でうさぎ跳びダッシュなるものをしてしまい、帰りが遅くなった。それに加えて部活を二つも掛け持ちしてしまっている。
これで従妹に構う時間を、どうやって捻出したらいいのだろうか。去年までは毎日暇な生活をしていた悠には、スケジュール管理という発想自体がなかった。だから昼間や放課後の時間は、新たな知り合いたちに誘われればそれに従うのみで、菜々子の為に時間を空けることができなかった。夜なら基本的に暇だが、こんな時間に菜々子を外に連れ出そうものなら、先週に補導されかけた時に続く堂島の二度目の説教が待ち受けているだけだ。
結果的に菜々子との間の気まずい感じは、当初からずっと継続しているわけだ。しかし今日に限っては助け舟が来た。玄関の引き戸が開けられた音が、堂島の帰宅を告げてきた。
「かえってきた!」
菜々子は座布団から立ち上がり、玄関から続く板間へ向かおうとしたが、小さな足はそこに辿り着く前に急に止まった。そして表情に困惑の色が混じる。
「お、おかえり……」
父が一人の見知らぬ人物を連れてきたからだ。背は父よりやや低いくらいの、スーツを着た若い男だった。
「こんちゃっすー」
「貴方は……」
菜々子はこの訪問客を知らないが、悠は知っている。初めて見た時から印象に残っていたし、二度目は少しだけだが話もした。悠も座布団から立ち上がり、二人を迎えた。
「珍しく上がりが一緒になったんでな。送りがてら連れてきた。相棒の足立だ」
「どうも、この春から堂島さんにこき使われてる、足立透です」
「堂島の甥の、鳴上悠です」
「ああ、聞いてるよ。よろしくね」
足立と悠は、同じ場に立って互いの顔を見るのは、今月12日の下校時、17日の警察署に続いてこれが三度目だ。そして名乗るのはこれが初めてだった。これから長く続く二人の因縁において、互いが何者かを初めて示したのだ。ただしこの日は名前しか告げなかった。堂島と菜々子もいるこの場においては、刑事と高校生という表の顔の裏側に何があるのか、どちらも示すことはなかった。
「こっちは娘の菜々子だ。ほれ、お前も挨拶しろ」
「……ばんは」
堂島に促され、菜々子も挨拶をした。しかしその声は、蚊が泣くようにか細いものだった。そして悠の後ろに隠れてしまった。以前にどこかであったような状況である。それを思い出した悠は、ちょっとした悪戯心が湧いてきた。
「もしかして、照れてる……? いたっ」
小学生の小さな手で、悠は腰を叩かれた。以前というのは、八十稲羽駅で堂島に迎えられた時のことだ。まさにその時のように悠も叩かれた。そのことを少しだけ悠は嬉しく思った。内気な従妹だが、初対面でしかも親戚でもない父の部下を前にすると、最近会ったばかりの従兄に頼るのだと。
「はは、こいつに照れたりするか。ほれ、夕飯だ」
堂島は笑いながら、悠にジュネスのレジ袋を差し出してきた。中身は数種類の惣菜だ。麻婆豆腐に焼肉弁当、そして堂島の好物のたくあんなど、味の濃いものばかりだった。
「ん……雨か? 菜々子、洗濯物どうした?」
悠がちゃぶ台に惣菜を並べ、足立が麦茶とビールを並べ、菜々子が箸とコップを並べ終え、夕食の支度が整った頃。座布団に腰を下ろした堂島は、カーテンの閉じられた窓を見た。悠と足立も釣られて見れば、確かに雨音らしき小さなさざめきが聞こえてくる。昼間は曇りだったが、今になって降り始めた。ちなみにテレビは消してある。
「いれたよ」
「そうか。そんじゃ、いただきます」
堂島は窓からちゃぶ台に向き直り、並べられた食べ物たちに軽く頭を下げた。それに続いて、三つの声が唱和する。
「いただきます」
そうして血の繋がった家族三人に一人を加えた、四人の団欒が始まった。割り箸を取ってから、足立は考える。
(何年ぶりかな、このセリフ)
以前の職場では、家族ぐるみの付き合いなど全くなかった。本庁は元より出世競争が激しく、足の引っ張り合いも多かった。もちろん中にはプライベートで親しくしている者たちもいただろうが、足立はそういう輪に加わることがなかった。警察官になるより前、学生の頃から人付き合いには消極的だったから。足立は喧騒が嫌いで、馴れ合いも好きではなかった。
だから上司兼相棒の堂島の自宅に上がるのは、柄ではない。しかしだからと言って、嫌とは感じない。今日も適当に理由をつけて誘いを断ることもできたのに、そうしなかった。それはきっと──
(この人の相棒でいることが、板についちゃったのかな?)
ちゃぶ台の正面に座る堂島の姿を目に入れながら、足立は考える。受験戦争、公務員試験、本庁での出世競争など、足立の人生は争い事続きだった。最初の二つには勝ったが、三つ目で負けた。敗北の結果は都落ちだ。そして落ちた先の稲羽署では、出来の悪い同僚の刑事たちや迷走を続ける上層部と付き合わねばならないなど、面倒事ははっきり言って多い。それに加えて、左遷されたキャリア組に対する風当たりもある。ただ堂島は、そうした種類の面倒事はなかった。
堂島は足立の目から見れば、取り立てて有能な刑事ではない。もっと優れた刑事を本庁で何人も見てきた。だがそれは別にどうでもよかった。足立は手柄を上げて本庁に返り咲こうとか、そんな野心はなかったから。仕事上の相棒が特別有能でなくても構わないし、堂島は無能ではない。むしろ稲羽署の中では良い方の部類に属している。
その実直さは鬱陶しいと感じないでもないが、不快に思うほどではない。それはまるで、一昔前のテレビドラマの再放送に登場する、昔気質の古臭い『親父』や『近所のおじさん』のキャラクターを見ているような気分だった。それと接する足立自身もまた、『気弱でお調子者の刑事』というキャラクターに過ぎない。テレビで見ているだけなら、どんな嫌な奴だろうと構わないし、堂島は嫌な奴ではなかった。
つまり足立は、もはや現実に生きてはいなかった。もちろん毎日出勤はするし、食事も毎日取る。しかし自分の真実や生命を現実に置いてはいなかった。足立の目から見れば、現実自体が一つの虚構の舞台であって、そこに立つ役者の役名が足立透であるに過ぎないのだ。生きた実感も自己同一性も持たず、それで悔いることのない、虚無の中に埋没した個性。だから同僚の家族と付き合うこと、その面倒さそれ自体もどうでもよい──
足立は自分自身を、そのように見なしていた。それが実は、単に『見たいように見ている』だけなのだとしても。
「たくさんあるね!」
「ああ、たっぷり食え」
久しぶりの父親の早い帰宅に、娘は喜んでいる。小さな花が草原の一面に咲くような笑顔で、ちゃぶ台を見渡しながら、どれから食べようか悩んでいる。小学一年生の女児の食事としては、どうかと思わざるを得ないものも多いが、家族が揃っている方が重要なようだ。堂島もすっかり父親の顔をしている。
それを見て、足立はまた考える。今日は早く上がれたが、これは例外だ。事件が続いている限り、堂島が早く家に帰るのは難しい。いかに可愛い娘が待っていようとも限度がある。ならば──
(事件にケリつけて、早い時間に上がれるようにしてやったりするのは……できるかな?)
放っておけば、事件はいずれ迷宮入りとなる。だが殺人に時効はないので、捜査は延々と続くだろう。どうにかして事件に決着をつける方法を、足立は考え始めた。とは言っても、もちろん自首などする気はない。
「ところでさ、鳴上君。君、天城雪子さんと友達でしょ? 天城さん、無事に見つかったからさ!」
ならばどうするか? 最善なのは、誰か適当な人間を犯人に仕立て上げることだ。そこで向かって左に座る、相棒の甥に話を振ってみた。
「ええ、知ってます」
「はは、今さらって感じ? でもでも、まだ全てがクリアってわけじゃないんだけどね」
犯人として仕立て上げられそうなのは誰か。足立が知る限り、候補は数人いる。例えば生田目だ。その他には、小西早紀と縁の深かった花村陽介、そして山野真由美に恨みを持ち得る天城雪子だ。
「天城さん、いない間のこと覚えてないんだってさ。それにその間の彼女の足取り、まるで本当に消えたみたいで、実はうちらも掴めてなくてさ。なーんか怪しいっていうか、裏に何か……」
ここまで言ってから、足立は思わせぶりに口を噤みつつ悠の顔を観察した。少年は息を軽く飲み、喉が締め付けられて、体の中から強張るような緊張感が口元や目元に小さく浮かんでいる。悠は足立の裏を知らないが、足立は悠の裏を知っている。そこで軽くジャブを打ってみると顔に出た。一般人はともかく、刑事ならば悠の動揺に気付くだろう。堂島がこれを見れば、果たしてどんな反応を示すか。
足立はあらぬ方向へ進み始めている事件を面白がって、先週は少年を煽ったものだった。しかしその一方で、今日は解決すべきかと考える。酒に酔って足元が覚束なくなっているように、足立の行動はふらふらと移ろいゆく。相棒とその娘を案じたりもする。その気持ちは仮面か気紛れか、はたまた本心か。自分自身を分析することもせず、少年の鼻先に軽く一当てしてみた。そして相棒の反応を確認しようと、ちゃぶ台の正面を見てみると──
「……」
少年には効いたジャブは、相棒には肩透かしを食らった。堂島は悠を見ておらず、足立や菜々子も見ていなかった。無精髭の浮かんだ顎を持ち上げて、居間の天井から吊り下がっている古い照明に目をやっていた。手には割り箸を持ったままで、まるで何かに呆けているようだ。居間から話し声が消え、雨音だけが空間を支配する一瞬の静寂が訪れた。
「ん? 何か言ったか?」
だがそれは長くは続かず、堂島は視線を元の高さに戻してきた。天から舞い降りてきた突然の啓示に打たれて、本人も知らぬ間に白昼夢に迷い込み、そしてやはり知らぬ間に目覚めたように。
「え? ああ、天城雪子さんの件で少し……」
足立が言った途端、堂島はそれまでの父親の顔を一瞬で刑事のそれに付け替えた。
「馬鹿野郎、いらんこと言うな!」
堂島と足立はちゃぶ台を挟んだ向かいに座っているので、手は上げなかった。それでも和気藹々とした居間の空気を、ぶち壊すのには十分だった。父親が去れば、残るのは泣く子も黙る鬼刑事だけだ。
「……ケンカしてるの?」
そこへ再びの蚊が泣くような声が、遠慮がちにかぶさってきた。しかし挨拶の時と違って、緊張ではない感情に乗せられた菜々子の声は、この場の全員の耳にしっかりと届いた。泣く子も黙るとは比喩に過ぎず、鬼ができるのは笑う子を泣かせることだけだ。せっかくの食事時に、失態を犯したことを悟った堂島は慌てだした。
「い、いや……ケンカじゃないぞ。気にしないでいい。お前も何言われたか知らんが、気にするな」
「気にしてないよ」
そうして夕食が再開された。しかし楽しい団欒は雨音の中に流れ去って、代わりに居間を覆った気まずい雰囲気は残ったままだ。すると堂島は敢えてその気まずさに乗るように、別の話題を振り出した。
「ところでお前……松永綾音と海老原あいって子を知ってるか? どっちもお前の高校の生徒なんだが」
「え? いや……知らないな」
話を振られた悠は一瞬面食らいつつも、はっきり答えた。これは本当である。告げられた名前に心当たりはない。在籍している二年二組のクラスにも、バスケ部や演劇部にもそういう名前の生徒はいない。
「その二人がどうかしたの?」
「いや、知らんのならいい」
堂島は多くを説明はしなかった。突然話題に挙げられた二人の名前を足立は知っているが、ここで説明はしなかった。先ほどの叱責に懲りて、口を挟むのはやめにした。
「それより叔父さん。もうすぐゴールデンウィークだけど、ずっと仕事なの?」
すると今度は悠が別の話題を振り出してきた。足立と違って、悠は軽口が得意ではない。しかし努力して、重たい雰囲気を逸らそうとしてきた。
「ん? ああ……ちょっと待て」
堂島はポケットから手帳を取り出して、スケジュールを確認し始めた。警察の仕事は祝日に減るとは限らない。むしろ人の出入りが多くなるので、増える傾向さえある。だから休みは不定期になる。
「4日と5日なら何とかなるかもしれんが……」
「ほんと!?」
手帳を睨みながら堂島が呟くと、すかさず菜々子が反応した。先ほどの悲しみはどこかへ放り捨てられて、笑顔が戻ってきた。
「あ、いや……」
堂島は何か言おうとしたが、途中でやめた。そして喜ぶ娘から視線を外し、無言で足立に視線を送ってきた。もちろん叱責するようなものではなく、年の離れた相棒にすがるような目だった。
その日は今日から一週間以上先だ。世間的にはゴールデンウィークの予定を考えるのに、今日は早すぎる時期ではない。むしろ遅いくらいだ。しかし警察としてはかなり先だ。その頃の仕事がどうなっているかは、はっきり言って分からない。休みの予定を入れて良いものか、実直を旨とする堂島は悩んでしまう。しかし娘の喜びに水を差したくはない。
「仕事は僕が何とかしときますって。せっかくだし、家族サービスしてきてあげてくださいよ!」
そんな相棒の苦衷を察したように、足立は明るい声でフォローを入れた。相棒とその娘を気遣う、気紛れか本心か自分でも分かっていない、唐突に湧いた気持ちに乗って。
「そうか……悪いな。そんじゃ、何かあってもその日は頼むぞ」
そこから居間の雰囲気は大いに改善された。当日はジュネスに行こうかと、悠がまず提案した。すると急に気が大きくなった堂島が、近所だったら旅行も良いと言い出して、ならば弁当を持っていこうとの話に発展した。しかし堂島は料理ができないし、菜々子もそこまでは無理だ。
「けど大丈夫か。今年はこいつがいるしな」
そこで悠に白羽の矢が立った。隣に座る甥の肩を叩いて、任せたと朗らかに笑う。その笑顔の中に断る選択肢は用意されていない。楽しそうな菜々子の笑顔には、言わずもがなである。
「君、お弁当とか作れるの?」
この場でたった一人、客観的に観察できる立場にいる足立は、悠を少し気遣った。家族三人分の弁当を作るなど、一介の男子高校生にそんな芸当ができるのかと。堂島家の食卓事情を足立は聞いていないが、何となく想像はつく。今日のメニューは惣菜ばかりだし、振り返って台所に目をやれば、日頃から使われている形跡は少ない。事件現場を検証するつもりで見れば、悠は普段の食事を作っていないことは容易に察せられた。
「……善処します」
足立の心配に対して、悠は控え目に答えた。その頃には、外から聞こえる雨足は弱くなり始めていた。
4月27日の水曜日は朝から雨だった。悠が八十稲羽に来て最初の週は、誰かが仕組んでいるのかと疑えるほどに雨続きだった。しかし二週目はうって変わって全く降らず、そして三週目の天気は再びの下り坂に入っていた。
雨の日は人付き合い、イゴールやマーガレットが言うところのコミュニティが行えない場合がままある。バスケ部は体育館が占拠されて部活がなくなるし、陽介や千枝も雨が降っているとあまり出歩かない。何と言っても田舎の八十稲羽では、雨天でもできる遊びなどは少ないのだ。数少ない例外は実習棟の会議室で行われる演劇部だが、今日は部活がない曜日だ。珍しく体が空いた為、悠は一人で稲羽市中央通り商店街へ向かっていた。目的は本屋だ。
(料理の本くらい買っておかないとな)
昨日の夕食時の出来事だ。ゴールデンウィークに旅行の約束をしたのだが、そこで弁当を作る役を仰せつかってしまった。昔から両親は家を空けることが多く、時には自炊する日もあったので、悠は一応料理ができる。ただし腕にはあまり自信がない。そうかと言って、昨日は断れる雰囲気ではなかったので流されてしまった。もちろん今さら引き返す道はないので、料理の本を求めて本屋に向かっているというわけだ。
左手に持った半透明のビニール傘を、雨は休むことなく滑り続けて、悠の眼前に細い糸をいくつも垂らしている。そうして悠は商店街の南の端にあるバス停の角を曲がり、ガソリンスタンドを横目に通り抜けた。目の端では、作業着を着た店員が一人佇んでいる。ついでに言うと、スタンドの建屋には一台の大きなテレビがあるのだが、それは悠の目には入らなかった。目に入ったのは、本屋の少し先で傘も差さずに佇んでいる一人の少女だ。
「あ、君……」
悠が本屋の前まで来たところで、少女も悠に気付いた。駅で初めて会った時はかぶっていなかった、青い帽子の下から緑の瞳を向けてくる。ついでに言うと、以前はやはり持っていなかった青いショルダーバッグを、右の肩に斜め掛けしている。
「やあ……」
悠は本屋、四目内堂書店の前から離れ、雨の中で一人佇む少女の前まで歩いていった。そして傘を少女の頭上にかざして、冷たさの残る春の雨から庇った。
「何? 何してんの?」
「風邪引くぞ」
「風……? 意味分かんない。今日は風なんかないよ」
「部屋に入ったら?」
悠は噛み合わない会話を放り捨てて、青い帽子をかぶった少女、マリーをベルベットルームに入るよう促した。商店街のアスファルトを洗い続ける雨は、晴れていても少ない人の気配を更に遠ざけている。この場の二人以外には、来る途中に見かけたガソリンスタンドの店員くらいしか外に人はいない。そんな活気のない衰えた街路に、唐突としか言えない脈絡のなさでもって、青いリムジンへの入り口は道路から数センチ浮いた状態で、扉だけがそこにある。マリーはその傍らに佇んでいるのだ。
「やだよ。あの部屋、息詰まるもん。狭いし暗いし、鼻喋んないし」
二匹の蝶をモチーフにした、青と金で装飾された扉をマリーは横目で示した。ベルベットルームへの入り口は、周囲の雰囲気に著しく不似合いな、とてつもない派手さだ。しかしこれは他の人間には見えない。常人はおろか、ペルソナ使いさえ悠以外には見えない。しかしそこに住まうマリーには当然見えている。そして出入りもできるようだ。
「まあ……そうかもな」
二人にしか見えない扉に視線を送りつつ、悠は同意した。ベルベットルームは高級感に満ち溢れているが、リラックスできるかと言うと疑問符をつけざるを得ない。悠から見るとイゴールとマーガレットは不思議なくらいに優しげで気も利くが、四六時中一緒にはいられない。
「ね、君って暇でしょ」
扉から視線を戻すと、悠はマリーと目が合った。雨を含んだ帽子のつばから滴る雫が、一瞬だけ二人の間を遮って、そしてまた視線が出会う。悠は傘からはみ出した右腕に、冷たさを感じ始めた。マリーは口にこそしないものの、きっと体中で感じている冷たさを。そんな一種の共感が、普段のマリーの愛想のなさから生じる壁を、悠の意識からそっと脇によけた。
「暇だよね。どっか連れてって」
「じゃあ、歩こうか」
ベルベットルームの扉から離れて、商店街の北側へ向けて二人は歩き出した。ちなみに傘の大半は、マリーの頭上に置いたままだ。いわゆる『相合傘』の状態である。少しばかり恥ずかしかったが、周囲に人目がないことを助けに感じていた。
かくしてここへ来た当初の目的である、料理の本を買うのは後回しにされた。同居する従妹の為、決してゆるがせにはできない問題なのだが。しかし今は放課後から間もない時間なので、本屋が閉まるまでにはマリーの件は終わるだろうと、悠は楽観的に考えていた。ちなみにマリーの希望を断る選択肢は浮かびもしなかった。マリーを連れて本屋に行く選択肢も浮かばなかった。
「もうすぐ霧が出るよ」
小さな傘越しに雨を見上げて歩きながら、マリーは呟いた。天気予報では、明日も明後日も雨と報じられていた。その通りになれば、三日後には霧が出るだろうと悠にも予期できた。
「ああ、でも大丈夫さ」
特捜隊の当面の最重要課題であった、雪子の救助は既に達成済みである。現実の世界で霧が出ると、テレビの世界では霧が晴れる。そして霧が晴れるとシャドウは酷く暴れ、放り込まれた被害者は殺されてしまう。クマから教えられたこの法則を、悠はマリーと話したことはない。しかしこのいわば『ゲームのルール』と特捜隊の現状を、マリーは当然知っているものとして悠は答えた。
「そうかな……」
マリーは立ち止まり、右手を前方へ伸ばした。アームカバーは傘が守ってくれる範囲から出て、赤と黒のチェック模様の間に雨の跡を作った。その先にあるマリーの白い指にも雨は落ちた。
「雨が、何か違う。霧もきっと違う……」
「違うって、何がどう違うんだ?」
「分かんない……」
マリーは何かが違うような気がしている。しかし差異を認識するには、何か比較するものが必要だ。マリーは今降っている雨が、そしてこれから出るであろう霧が、一体何と比べて違うと感じているのか、それも分かっていなかった。理解しようと伸ばした腕を、何も得ないままに傘の下に引き寄せた。そして異邦人を思わせる緑の瞳を悠に向けた。
「霧の時は、外に出ない方がいいよ」
「そうか……分かったよ」
そうして二人は一つの傘の下で町を歩いた。ここまでは良い雰囲気だった。
「コロッケ? コロッケって何? え、イモと肉……?」
「何これ? 錆びてる……あ、回った。何か出てきた」
しかし惣菜屋で雨の日限定のコロッケを食べたり、駄菓子屋の店先に置かれたカプセル販売機をいじり出したりすると、もう駄目だった。文化も風習も全く違う、遠い外国から来た人と言うべきか。もしくは世間を何も知らない、純真な子供と言うべきか。とにかくマリーにとっては見るもの全てが珍しいようだった。放っておくと雨の中を方々へ走り回ってしまう。その度に悠は傘を持って追いかけるのだ。完全に振り回されている。
「これ……カエル? 変える? じゃなくて、帰る?」
そして今は駄菓子屋の四六商店に来ていた。マリーの気紛れに疲れ始めた悠は、少女を置いて店内を適当に見回した。ワンコインでいくつ買えるのか計算するのも面倒な安い駄菓子、菓子パンやアイス、更には花火や風車などの遊び道具が所狭しと並んでいる。そして壁の上の方には、ビーチパラソルやボウリングのピン、巨大な肉球のついた手袋など、とにかく訳の分からない雑多なものが並んでいた。
(ん? あれは……ベースか?)
その中で、一つだけ目を惹いたものがあった。黒のボディに白の長いネックを持ち、四本の弦が張られた楽器が壁にかけられている。悠は楽器はピアノしか弾いたことがないが、ああいうのも面白いかもしれない。そんなことを思ったら──
「これ、買っといたら? お金、あるんでしょ?」
いつの間にかマリーが背後から近づいてきていた。振り返れば、掌に収まるサイズの陶製らしき緑色の置物を差し出された。貼られた値札を見れば、ギリギリ三桁なので買えなくはない。しかしアルバイトもしていない高校生には、地味に痛い出費である。
「買ってもいいけど……どうしろってのさ?」
「さあ? 分かんないけど、何かに使えるよ。多分」
真顔で言われると、悠に断る選択肢はないも同然だった。流されやすい性格とは損なものである。
「じゃ、他のとこ行こ」
そうして買わされたカエルの置物をカバンに放り込んで、悠は美少女と一緒に雨が降り続く外に出た。興味を惹かれたエレキベースは、値段を確認することもできなかった。
四六商店を出た二人は、町の外れにある高台までやって来た。悠は傘を差したまま長い階段を上り、体の右側ばかりか靴の中まで冷たさを感じた頃、景色の開ける上までようやく辿り着いた。
「広いね……」
雨で煙る八十稲羽の遠景を、マリーは悠の傘の下で眺めた。緑の葉を豊かに茂らせる木々の間から見ると、稲羽の町とその背後に連なる山々は一幅の絵か写真のようだった。
「そうだな」
稲羽市は小さな町だ。大きな産業もなく、観光地でもない。だから市街地は小さい。しかし山や川も含めた地域全体として見れば、やはり広い。高台から望めば、ジュネスの赤い看板も風景の中に添えられた一つの小さなアクセントに過ぎない。町中でだけ生活していると見失いがちなものが、この場所からは見えてくるはずだった。ただし今は雨に遮られて、曇りガラスから外を覗くような曖昧さに覆われている。
「雨……春雨……」
マリーは悠の傘の範囲から一歩踏み出た。そして風景から視線を外して、上を見上げた。継ぎ目一つない鈍色の雲を見る。或いは降り続ける雨そのものを、じっと見つめた。すると不思議な言葉を、濡れた唇から零した。
「緑の葉っぱ、濡れている……雲と土とが、口づける……。私は誰と、口づける……夜空の月か、それともあな……」
「え?」
悠は思わず声を漏らした。するとマリーは雨の中で体を震わせ、猛烈な速さで振り返ってきた。新たに帽子に降りたいくつもの水滴を、全て振り落とさんばかりの勢いで。
「ち、違うよ! 今の詩とかじゃないから! た、たまたま心に浮かんだだけ! そう! それだけだから!」
それを詩と言うのではないのか、とは悠は言わなかった。
「じゃあ歌か?」
マリーが呟いた言葉の内容は、雨音に紛れてはっきり聞き取れなかった。特に終わりの辺りは、高台から見える風景以上に曖昧だった。ただ呼吸を挟む間が妙に揃っていて、言葉にリズムが感じられたのだ。バンドではリズムパートを担当する楽器をつい先ほど目にして、印象に残っていたこととも相まって、悠はこんなことを言った。すると──
「う、歌!? 春雨に萌えし柳か梅の花!? ともに
今度は本当に歌を『詠った』。ただし随分と古風な。悠は音楽ならロックやポップスよりも、クラシックに親しんでいる。しかしそれでも今詠われた歌は、古すぎて理解が及ばなかった。
「ば、ばかきらいさいてー! 勝手に聞かないでよ!」
言い捨てるやいなや、マリーは悠を置いて駆け出した。向かう先は高台から道路に通じる階段だ。しかし水たまりを跳ね飛ばしながら数段下りたところで、振り返ってきた。
「な、何してんの!? ともに遅れぬでしょ!」
学校の授業でも古文は得意でない悠は、マリーが何を言っているのかは分からない。しかし言いたいことは分かった。呆けてないで、さっさと雨避けになれという意味だろう。悠は煙る風景に背を向けて、マリーに傘を差してやる為に階段へ向かった。
高台を出た二人は再び商店街に戻ってきた。時刻はとうに放課後と言うべき時間を過ぎて、夜に入ろうとしている。雨が降り続ける夜の人通りは、昼間より更に少ない。ガソリンスタンドも営業時間を過ぎたか、外に人はおらず建屋の灯りも消えている。誰もいないスタンドの前でマリーは立ち止まった。悠も止まった。
「やっぱり……雨が違う」
マリーは腕組みをして、湿気を吸ったアームカバーを手で撫でるような仕種をした。そして視線を地面に落とした。
「ここ……懐かしい感じがするの。でも、雨が違う……私が知ってるのと、違う気がする……」
「ここに住んでたことがあるのか?」
悩むマリーに悠は尋ねた。懐かしいとの言葉から連想される、至って普通の疑問を口にした。そして普通でありながら、実は核心に触れる質問をした。自覚なく。
「……帰る」
しかしマリーは答えなかった。高台でもしたように、傘の範囲から自ら踏み出した。悠は一瞬遅れたが、足を速めてすぐに追いついた。その後は二人とも無言のまま歩いた。ベルベットルームの扉はもうすぐそこにあるのに、妙に長く感じる距離を、二人は言葉なく歩いた。
そうして青い扉の前まで来ると、マリーは振り返ってきた。
「今日は意外と楽しかった。……ありがと」
「……!」
素っ気ない礼の言葉だった。しかし悠は驚いた。ガソリンスタンドの前での質問が、彼女を怒らせてしまったのかと思っていたから、思いがけない言葉に驚いた。愛想の乏しいマリーの態度の中に、微かな親しみが伺える。そんな気がした。
驚きによって、悠の返事は一瞬遅れた。その一瞬の間に、時間が停止した。
『我は汝、汝は我……。汝、新たなる絆を見出したり。絆は即ち、まことを知る一歩なり……。汝、永劫のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん……』
これまでも何度か発生していた、コミュニティと呼ばれる絆がまた新たに生じたことを、謎の存在が悠に告げてきた。何かが違うとマリーはずっと気にしていた雨の音を掻き消す声が、二人の間に魔術的な絆が結ばれたことを告げてきた。厳かに、重々しく、有無を言わさず。事実や道理はおろか、各々の存在に根ざす差異さえも凌駕しかねないある結びつきでもって、二人を縛りつけた──
「どういたしまして……最後まで送るよ」
その絆に引き寄せられるように、悠は一歩近づいた。ただしマリーの体に触れはしない。右腕を伸ばして青い扉に触れ、リムジンのドアを開けてやった。レディーファーストを心掛ける紳士のように。さすがに恭しく頭を垂れたりはしないが、精一杯丁重に。そしてマリーは部屋に戻った。
「お帰りなさい。随分遅かったわね」
「……別にいいじゃん」
マリーが戻った途端、悠もベルベットルームにいる自分を発見した。最後まで送るとは言ったものの、部屋の中までついていくつもりはなかったのに、なぜか一緒に入ってしまったようだった。見ればマリーは既にイゴールの隣に座っており、悠はリムジンの後部座席に座っていた。
「マリー、存在が揺らいでいる時は、外に出てはいけないと言わなかったかしら?」
「……」
「今後は雨の日に外に出ては駄目よ。いいわね?」
マーガレットはマリーを窘めている。まるで幼い妹に言い聞かせる姉のようだ。二人は容貌や雰囲気に似たところがまるでないが、それでも姉妹のように感じさせるやり取りだった。
「貴方には世話になりましたようで。失礼があったかもしれませんが、どうかお許しください」
『妹』へのお説教を終えたマーガレットは、悠に向き直ってきた。まさに年少の身内の不始末を詫びるように。
「いえ、構いません」
これは本音だった。雨の中を長時間に渡って振り回されたわけだが、悠は迷惑に思う気持ちが湧いてこなかった。それよりも、意図せずとはいえベルベットルームに来たのだから、この機会に聞いておきたいことがあった。
「ところで、永劫って何ですか?」
先ほど聞いた、『我』の宣告の中にあった言葉だ。思い起こせば、今まで築いたコミュニティの宣告においても、各々異なる何かの単語が挟まれていたはずだった。これまで悠は特に気にしていなかったが、今日ばかりは気になった。
「これのことです」
するとそれまで黙っていたイゴールが口を開いた。住人と客人の間を別つ青いクロスが敷かれたラウンドテーブルに手をかざすと、そこにカードの束が現れた。そして腕を一振りすると、カードは自ら舞い踊り、テーブルの上に整列した。
「占いのカードですか?」
悠は思い出した。これは八十稲羽に来る電車で見た夢の中で初めてここを訪れた際に、イゴールとマーガレットが占いで使っていたカードだ。ただし電車の時と違って、今は全てのカードが表の絵柄を見せている。
「いかにも。これは人生を象徴するもの……タロットカードと呼ばれているものです」
「へえ……」
タロットと呼ばれるカード群が、この世にあることくらいは悠も知っている。ただし具体的に、どんなカードがあるのかまでは知らない。
「貴方や貴方のご友人たちのペルソナ、貴方のコミュニティ、そして貴方が戦うシャドウたち……。それらは全て、アルカナになぞらえられるのです」
テーブルに自ら並んだカードは全部で二十二枚。そのうちの一枚をイゴールは指し示した。するとそれは自ら浮き上がり、悠に絵柄を見せてきた。天から舞い降りてきた巨大な人物がラッパを吹いて、地上にいる三人の小さな人影がそれを見上げている図だ。そしてカードの外側を囲う枠には、ローマ数字で二十と書かれている。
「これが永劫ですか?」
「いいえ、これは審判のカード。永劫はこちらです」
イゴールは指を鳴らした。すると宙に浮かんだカードは、その場で独楽のように回転を始め、絵柄を隠した。回転は数度で唐突に止まったが、再び現れた絵柄は元と変わっていた。卵を連想させる楕円の中に佇む、杖を持った一人の人物の図だ。ただし枠に書かれた数字は、元と同じ二十だった。
「興味がおありならば、学んでみるとよろしい。料理の勉強の合間にでも」
「あ……忘れてました」
仏のように微笑むイゴールに言われて、悠はようやく思い出した。今日商店街に来た、その当初の目的を。高台から戻ってくる途中では確認もしなかったが、本屋はもう閉まっているだろう。従妹の為に料理の本を買いに来たことを、すっかり忘れてしまっていた。しかも言われるまで気付かなかった。マリーに構いすぎて。