地球を超えた領域、人が生きる世界と死の星である月との間にあるような空間。遠くには白、または赤や青で闇を点描する星々が見える。まるで文明の力の極点である宇宙船から見る景色のようである。しかし実のところ、光は星ではない。そしてここは天文学的な意味での宇宙ではない。人の心の深層の領域だ。
そこに佇む一人の女がいる。体の線をかなり出す青い服を身にまとい、片手に百科事典のような分厚い本を持っている。彼女の容貌は道を歩けば誰もが振り返るくらいに、都会のクラブに繰り出せば女王を崇める奴隷の群れができそうなくらいに美しい。しかし実のところは、彼女を女と呼ぶのは正しくない。例えば機械仕掛けの人形には、本来男も女もない。姿形や声色がどちらかの性別を感じさせるものであっても、人間ではない、それどころか生き物ですらない存在を男や女と呼ぶのは、厳密には正しくない。
この空間は宇宙ではなく言わばプラネタリウムであるように、『彼女』は人とほとんど同じ姿をしているものの、人間と同じであると考えるのは誤りの元である。では何者かと言うと、それは誰にも分からない。本人さえ分からない。教えてくれそうな人間も昔はいたのだが、彼は教えてくれなかった。
「よくもまあ、飽きもせずお出でになりますわね」
神秘のプラネタリウムに身を置く存在、名をエリザベスは闇の中のある箇所を見つめた。視線の先の方には取り分け美しい青い惑星、正しくはそれを表象する光点がある。そこから黒い粘性のある何かがうねり出てきた。空間の基調である黒い闇より更に深い、深淵そのものから湧いて出る暗黒だ。それが腕の形を取った。
腕は五本の指を広げて地につけた。もちろんそこに地面があるわけではないのだが、プラネタリウムの床に手を這わせるようにして、手の先にある体全体が形を成した。一見すると四本足で立つ犬のような、ただし尾のあるべき場所からも顔が生えている、双頭の犬のような姿である。よくよく見ればその顔は犬より人間に近く、手の形も人間のそれだ。二人の人間が胴体で繋がった姿の怪物。滅びの意志、エレボスである。
三つの手を床につけて、残る一つの手を大きく伸ばす。それが掴もうとするものは黄金の天体だ。原始の地球における生命の誕生に大きく関係した存在。命のあるものとないものを別つもの、即ち死を与えた存在。言い方を変えれば命を与えた存在、月だ。またの名をニュクス。
滅びを求めて伸ばされる手を、エリザベスはただ眺めるばかりだ。止めはしない。なぜなら──
「まだその時ではありませんのよ。百万年か百億年か……とにかく早すぎます」
怪物の手は月に届かない。もっとも妨害する扉や柵があるわけではない。単純に遠すぎて届かないだけだ。空間的に遠いと言うべきか、時間的に遠いと言うべきか。とにかく手は虚しく空回りする。虚空を掴むとは、霞を食べるのと同じで何も掴めないという意味だ。怪物はそれを理解していないのか理解する為の脳を持たないのか、まさに月に吠えるが如き無駄な行為を延々と続ける。
「はあ……お見苦しいですから、僭越ながら楽にして差し上げましょう」
エリザベスは百科事典、もといペルソナ全書を開いた。
「ドロー、ペルソナカード。ルシファー」
一声呼んで頭上に現れたのは、一切の情を感じさせないいかにも悪魔めいた峻厳な顔と、青黒く筋張った体を持った恐ろし気な存在だった。背中には六枚の翼が生えているが、一神教の天使が持つ鳥に似た優美なそれとは異なり、蝙蝠の羽根のような不吉な翼だ。時の終わりで神の下僕と争う宿命を持つ、魔界の王である。ダンテによれば、地獄の最下層である第九層に封じられている。
「いかがでございましょう。遥かな未来、永劫の彼方で貴方と共演なさる方……の似姿でございます。ではごきげんよう」
審判のアルカナに属する魔王のペルソナは両手を広げ、掌を上にして軽く持ち上げた。その動きには少し角がある。永劫のアルカナに属する最高位の天使と似た所作である。
──
紫色の巨大な光球が炸裂した。ここが宇宙なら超新星爆発のような、プラネタリウムなら電気系統の不具合で投映球が爆発事故を起こしたような、何もかもを台無しにする理不尽な暴力が怪物を襲った。結果は言うまでもない。
「ふう……こんなことをしても、何の意味もないのでございますが……」
エリザベスはため息を吐いた。恋に患う女のように、長い長いため息だ。
怪物を退治したものの、実はそれをやる意味はない。あれが月に触れると大変なことになるが、今見たように怪物の手は届かないのだ。エリザベスがしたことは、言葉を選ばず言えば目障りな野良犬に蹴りを入れるような八つ当たりに過ぎない。そして本人もそれを分かっている。愚者の怪物と違って、エリザベスにはものを考える頭がある。
「湊様……」
エリザベスは月を見つめた。正しくは月の少し手前に位置する虚空を見つめた。本来あるべき運命ではそこには扉があるはずだったが、それがない。虚空を見るとは実は何も見ないのと同じであるように、隔絶した人外であるエリザベスの目にも何も見えない。『本来あるべき』などと言ったところで、現実は一つしかない以上は無意味な話なのだ。
救世主として磔刑に処せられるはずだった男は、今も現世に生きている。普通に年齢を重ね、結婚して子供も産まれて、幸せ一杯状態である。そしてその伴侶は自分ではない。その事実が、何も掴めない虚しさとなってエリザベスに影を落としていた。
「これが、そう……『こじらせる』というものなのですね。エレボスを笑えませんね」
自嘲しながら、エリザベスは振り返って青い天体を見る。かの男がどこにいるかは、すぐに分かる。しかし二年前に別れて以降、会いに行ってはいない。いつか自分と彼の道が再び交わる日が来るかもしれないと期待はしているものの、その為の具体的な行動は起こしていない。ただ遠くからその気配を、存在を感じるだけだ。しかし──
「おや、これはあの方……と、似た方がおられますね」
今日に限って、奇妙な気配を感じ取った。
「これは……あの方のご子息? いえ、まだ生まれたばかりであったはず。変わった宿命をお持ちのようではありましたが、これは赤子の気配ではありません。すると……あの方の弟? 従弟? 弟子? いえ……違いますが、近い。まさか……神仏習合? もとい、集合?」
よくよく探ってみれば、気になった気配以外にも様々な反応がある。数は十を超えている。そしてエリザベスがこじらせている、当の男もそこにいる。
「ペルソナ使い、全員集合……これは行かねばなりますまい!」
エリザベスは人差し指と中指を揃え、剣で敵を斬るように虚空を切った。それは何も切っていないのとは違って、プラネタリウムに出口が切り出された。青い魔法陣らしき紋様が中空に浮かび、エリザベスは好奇心に胸を膨らませて飛び込んだ。三年前、客人の男に連れ出してもらって町のあちこちを巡った時のように、ウキウキと擬音を声に出しそうなくらい楽し気に。
(俺のペルソナ、どうなったんだ?)
テレビの中の学校を歩き回りながら、と言うより見えない壁にぶつかっては方向を変えてさまよいながら、悠は考え事をしていた。陽介も雪子と戦った後に考えた、自分のペルソナに起きた異変についてだ。心の中に住まわせている複数のペルソナが、一部を除いて使えなくなっているのだ。
「……」
ペルソナを失ったわけではない。そこに『いる』ことは分かる。だが呼びかけても反応がない。部屋の扉に鍵がかかっていると言うか、居留守を使われていると言うか、はたまたシャドウになって言葉を理解しなくなったとでも言うか。ほとんどのペルソナは体の外に出して力を行使させることも、服を着替えるように付け替えて悠自身の耐性を変化させることもできない。
(メサイアとマガツイザナギは使える。それと……)
一つ一つ順番に試したところ、取り敢えず二つは使えることが確認できた。そして未確認のペルソナが一つある。
(カグヤ……)
昨年4月から今年3月までの数え切れない思い出の中で、最も辛く恐ろしい出来事。愛する人を失うと共に壊れた永劫の絆。その証明であった天人のペルソナだ。心の中でその名を思い浮かべたが、呼んだつもりはない。はっきりした意思をもって召喚できるかどうか試すことを、悠はまだしていない。
(いや……)
試す前に、試すまでもないと自分を引き止める。悠は自分がほとんどのペルソナを使えなくなっている理由を、実は分かっている。陽介はスサノオがジライヤに戻った理由を分かっていなかったが、悠が見ればそれも分かる。自分が魔術師のペルソナを使えなくなっているのと同じ理由だ。ならば永劫も使えるはずがない。
『センセーイ! なーにメランコリってるクマか! いかんクマよー! センセイはもう恋に恋する季節はとっくに過ぎてるクマ! それよりバトルバトル!』
廊下のモニターにクマ総統が現れた。相変わらずのテンションで煽ってくる。かえって白々しく感じるほどだ。
「クマ、お前の言葉も間違って聞こえているのか?」
『いーえ! クマはいつでもホントのことしか言わないクマ! ねー、シスコン番長さん!』
(話すだけ無駄か)
悠は一回戦で堂島と戦った後に話し合ったことで、この大会における他人との会話に関する仕掛けに気付いている。モニターの向こうの『クマ』も同じ状態になっていると判断し、話し合いを早々に諦めた。昨年はテレビの中に現れる被害者のシャドウと、基本的に話をしなかったように。
ちなみに完二ほどの目利きでない悠は、クマ総統がクマとは別人であることに気付いていない。もっともそれは、モニター越しに毛並みを判別できる完二の方がおかしいのだが。
『さあ、そこの教室で次の対戦者が待ってるクマ! P-1グランプリ二回戦、始まり始まりー!』
(やれやれ……完全に誘導されているな)
見えない壁は戦いのリングであり、敗者を閉じ込める牢獄であり、そして勝者を次のリングへ誘導する順路でもある。完全に踊らされている。しかしそうかと言って、何もせずに留まっているわけにもいかない。菜々子がこの世界に来ているかもしれない以上は、そんな選択肢はない。ないはずである。
廊下から教室に入ると、音楽室にもあったスモークが視界を覆った。そしてすぐに晴れる。
(お前か)
二回戦の相手として現れたのは陽介だった。堂島によるとシャドウワーカーも来ているとの話なので、この大会はそれなりの人数が参加しているはずだが、叔父の次に相棒が来る辺り、仲間割れを演出したいようだと悠は思った。
(相棒? 仲間? いや……)
『よう相棒! こんなとこでノンビリしてていいのか? 菜々子ちゃん、クマと一緒にいるぜ?』
話しても無駄だと口を噤む悠に対して、陽介は喋る。ただし本当は何と言っているかは悠には分からない。黙って剣を持ち上げた。
『おいおい、いきなりかよ!』
すると陽介も短剣を懐から出して両手に持った。話が早くていい。
『おおっとー! 仲間ヅラしてぬるま湯チャップンなんてハナッからナシで、いきなり殴り合い! それもいいけど、ちょっとくらいお喋りしてもいいクマよ? アイボーだかメンボーだか知らんけど、ホントは言いたいこといっぱいあるデショ?』
(面倒な奴だな……)
クマ総統は二人を戦わせようとしているのだが、素直に始められようとすると、それはそれで文句をつけてくる。これは単なるひねくれか、それとも実は殴り合いよりも口喧嘩をさせたいのか。だが何にしても悠はそれに付き合う気はないので、剣で語るべく正眼に構え、相手を鋭く見据える。対する陽介も両手を交差させた構えを取る。二回戦第一試合の幕が上がる。と思いきや──
「エキセントリックお邪魔します」
この大会にシャドウワーカーが参加するのは予定通りだ。本物のクマがロッカーから脱出したのは予定外だが、想定の範囲内とも言える。しかしこの乱入は、予定外も予定外だ。
「!?」
「どわっ!」
けたたましい音を立てて教室の天井が崩れた。この部屋は異界とはいえ構造は普通の教室と変わらないので、扉も窓もある。それなのに乱入者は天井からやって来た。
「陽介!」
何たる不運か、陽介は落ちてきた天井の下敷きになってしまった。その瓦礫に悠然と立つのは、一人の『女』だった。ノースリーブのワンピースに帽子と手袋という装いで、手に持った百科事典を除いて全てが群青色で統一されている。悠から見れば、何となく既視感を覚える色合いである。
『な、何!? 何なのよ、お前!』
叫ぶような声はクマ総統のものだ。崩落した天井と一緒にモニターも床に逆さまに落ちてしまっているが、壊れてはいないようで画面には着ぐるみが映っている。だが余程予想外だったのか、口調がクマのそれではなくなっている。
「おや? これは失礼。お取込み中でございましたか」
上下逆のモニターを一瞥するも、すぐに視線を悠に向けてくる。瞳の色は金で、髪はかなり色の薄い金髪で銀に近い。そして非常に美しい。先ほどクマは会長を自分史上最高の美少女と評したが、もしここにいれば記録を更新したことだろう。たとえ自分が女装したところで敵うまいと、敗北感をも味わっただろう。
「初めまして。私、エリザベスと申します。自分が何者なのか探し続ける宿命を……持っていた者です」
これで悠は勘付いた。服装と容貌の既視感に加えて、聞き覚えのある自己紹介の言葉だったから。
「もしかして……貴女はベルベットルームの?」
「おお! やはり貴方も、あの部屋のお客人でございましたか! ご明察でございます。ただ今は絶賛職務放棄中でございますが、かつては私もあの部屋にてエレベーターガールを務めながら、ある方の力を管理しておりました」
「ある方って、まさか……」
悠は自分以外にベルベットルームに通っていた人物を、一人だけ知っている。昨年11月に本人から聞いたのだ。しかし遮られた。
「どうかその名を口にしてくださいませんよう。さもなくば私、どなたの命も保証できませんわ」
「……」
悠は喉まで出かかった名前を飲み込んだ。眉根を寄せたエリザベスは、それはそれは恐ろしく見えた。悪戯をした子供が親の叱責を恐れるように。浮気した男が妻の怒りに怯えるように。禁忌の森に迷い込んだ旅人が、涎を垂らした猛獣の牙とその奥にある深淵を思わせる胃袋に慄くように。そんな本能的な恐怖を感じさせた。
(有里さん……一体何をしたんですか)
悠は有里を誠実な男だと思っていたが、これは評価を改めないといけないかもしれない。コミュニティの主は担い手から過剰な好意を寄せられるのが常だ。悠は確かな実感をもってそれを理解している。そしてその不条理を利用して、異性の絆の担い手を片っ端からものにしていたとか、そういう男の夢みたいなことをしていたとすれば──
「どうやら貴方も絆を力とする、ワイルドであられるご様子。では失礼して……」
エリザベスは悠をじっと見つめてきた。世界の果てのプラネタリウムで悠の存在に気付いたが、深くまで見るのはこれが初めてだ。深くとは体の奥ではもちろんなく、心の奥と言うのも少し違う。透徹極まる視力でもって見通すものはワイルドの力、即ちアルカナになぞらえられる絆の状態である。
そして数秒ほどで、あらかた見えた。その結果は、珍しいことにエリザベスをして驚愕せしめるものだった。いや、変なところで驚くことは、三年前から何度かしている。しかしそれは本人の世間知らずに由来するところが大きい。ペルソナやコミュニティのように自分が詳しい領域に関して、驚きを感じるのは珍しい。
「何と! ほとんどの絆が壊れていらっしゃる! 無事な絆は……たったの三つ!?」
「え……三つ?」
悠は引っかかった。先ほど確認した限りでは、今の悠が使えるペルソナは二つ。審判のメサイアと道化師のマガツイザナギだ。永劫のカグヤはまだ確かめていない。と言うより、怖くて確かめられない。だがエリザベスは三つだと言う。と言うことは──
しかしそれを問う間は与えられなかった。
「あのブラックな方でさえ、絆はアルカナの数だけ全て揃えておられました。コミュニティは育むより、むしろ壊す方が難しいもの……。貴方は一体、どれほどのクソヤローなのでございましょう?」
「そこまで言いますか……」
悠は絆の担い手たちに良くないことをしてきたと思っている。しかしここまで言われると、さすがに傷つく。コミュニティを破壊したのは担い手を嫌ったり嫌われたりしたからではなく、コミュニティそのものに拭い難い不条理を感じたからだ。悪いとは思うものの、こちらの気持ちも少しは汲んでほしいというのが正直なところだ。などと思っていると──
「では、私とお手合わせいただきたく存じます」
「は……?」
思わず声が漏れた。今の話の流れから、どうしてこうなるのか。エリザベスは言わば絆警察で、コミュニティを破綻させまくったけしからん不届き者を懲らしめてやるつもりなのか。それとも気に入らないかどうかとは関係なく、ただ戦いたいだけの中毒者なのか。どちらにしても迷惑である。そんな余裕はないのだ。
「勘弁してくれ……」
しかしエリザベスに話は通じない。と言うより、自分の言いたいことしか言わない。人間でもこういうタイプはたまにいる。
「先ほども申しましたが、私は自分が何者なのかをずっと探しておりました。ですから私はあの方と戦いました。そしてあの方が勝ってくだされば……私は答えを得られるはずでございました。多分、きっと、ベイビーです」
「ベイビー?」
「はて……? ブービー? グルービー? ギャッツビー? まあ、そういう感じでございます」
「……」
悠は突っ込む気力をなくしてきた。勘弁してほしいと思いつつも、再びそれを言う元気もなくなってきた。まして戦うことが自分が何者か知ることにどうして繋がるのか、それを突っ込むことなど思いもしない。
「貴方が私に答えを与えてくださるとは思えませんが……万が一ということもございます。念の為、やってみましょう」
エリザベスは百科事典を開いた。そして力の奔流が溢れ出した。目には見えないが、肌で感じる。殺気と言うか覇気と言うか、顔を叩かれるような圧力がある。
「……!」
試練の一年間において、悠はベルベットルームの住人と戦ったのは一度だけだ。思い出すと文字通り胸が張り裂けそうになる、忘れたくても忘れられないマリーとの戦いだ。ただしマリーはあの部屋の見習いの立場で、正式な一員であるマーガレットと戦ったことはない。悠は知らないが、かの魔女は『そうするべき』日にエリザベスの言うブラックな男と手合わせしていたから。
初めて見る力の管理者の力は、想像の遥か上だった。解析の能力を持たない悠でも分かる。余程の愚か者でない限り、眼前のエレベーターガールが規格外の存在であることは分かるはずだ。悠は『愚者』ではあるものの、愚か者ではない。僅かでも気を抜けば死ぬ。気を抜かなくても普通は死ぬ。望外の幸運に恵まれない限り、この戦いを生き残ることはできない。それが分かった。分かった上で──
(どうでも……)
いい。物事にこだわりのない『愚者』は心の中でそう言おうとして、途中でやめた。ここで死ぬのは色々とまずいことがありそうだった。さっきも陽介が幻で喋っていたが、テレビの中に菜々子がいるかもしれないのだから。もっともそれは敵の策、と言うより口から出任せの可能性も捨てていないが。
「では参ります。ルシファー!」
「うおっ……!」
初手は炎だった。伝説において全ての悪魔を支配する大魔王と恐れられ、神を憎む者たちに閣下と崇められるペルソナが右手を翳すと、巨大な爆炎が襲ってきた。救世主の生んだ、伝説の神剣の名で呼ぶ剣を横に構えて何とか防いだ。
「気合を入れてくださいませ」
次いで左手から氷山が飛んできた。3月20日に剣で叩き割った、黄泉比良坂の入口に置かれた大岩を連想させる巨大さだ。それを剣で受け止めようとして、失敗した。氷の圧力に押し負けて悠は教室の床に転んだ。
「ぐっ……」
転んだがすぐ起き上がった。飛んできたものは本物の氷山や大岩ではないので、ペルソナの魔法は当たるとすぐに消える。敵を氷漬けにしたり、生き埋めにしたりはしない。もっともエリザベスはその気になればできるかもしれないが。
「あ、そーれ!」
今度は暴風だ。わざとなのかキャラなのか変に気の抜けた掛け声で、開いたままのペルソナ全書を片手でゆっくりと持ち上げる。すると魔王のペルソナもそれに合わせて手を掲げる。それで竜巻が飛んでくる。風の魔法は陽介も使えるが、エリザベスが放つそれとは圧倒的な差がある。
「はいよー!」
四手目は電撃である。これまた強大だが──
(くっ……あの時に比べれば!)
自然の落雷さながらの絶対の一撃を、悠はその身で受けたことがある。かつてテレビの世界を満たしていた優しき霧の源泉で放たれた、慈悲のつもりの大雷だ。それに比べれば、エリザベスの放つ怒りの鉄槌はいくらか控えめだ。これは手加減しているつもりなのか、それともあの女神の方が格上なのか──
「ぬん!」
怒りの一撃に怯まず、悠は踏み込んだ。やられっぱなしではおくまいと、剣を横薙ぎに振り回す。十握剣は長剣だけに間合いが遠い。そしてその割に悠の手によく馴染んでおり、大振りに見えて隙がない、見るべきところのある一撃である。反撃の剣は鋭く相手を襲った。エリザベスは攻撃を中断し、ペルソナ全書を閉じて革表紙で斬撃を受け止めた。そしてふわりと後方へ跳躍し、間合いを外した。
「なるほど。あの方には及ばないものの、まあ最低限は使えるご様子」
(そうかい……)
ワイルドの後輩は、まだ先輩に追いついていない。虚ろの森と黄泉比良坂でも感じたことだが、今も変わらない。だがそんなことを言っている場合ではない。悠は頭を切り替える。
(闇を食らったら一発だな)
今の悠が装着しているペルソナ、メサイアは魔法的な力全般に強い。優れた耐性があるおかげで属性魔法の連続攻撃を何とか凌げたが、もう一度同じ四連発を食らえばやられる。そしてメサイアは闇の力に弱い。エリザベスはこれだけ多彩な力を持つ以上、当然闇も使えると考えておかねばならない。そして先輩に追い付いていない後輩は、先輩との審判の絆で貰ったペルソナを、まだ十分に使いこなせないという致命的な弱点がある。
後手に回っていては押しきられるか、闇の魔法で確実に殺される。反撃も小手先の技では足りない。勝つには攻めることだ。悠は剣を振りかぶって駆け出した。
(一気に勝負するしかない!)
このダッシュはフェイントだ。遠距離攻撃が得意そうなエリザベスに接近戦を挑む、振りをする。相手は再び間合いを外すだろうから、その瞬間に魔法を撃つのが悠の作戦だ。今できる最大の攻撃手段、メサイアの万能魔法を撃つ。きっと猛烈な頭痛に襲われるだろうが、何とか耐える。その後は間合いを詰めて、ひたすらラッシュだ。しかし──
「甘いですわね」
「!?」
エリザベスも駆けてきた。その動きは悠よりも速い。エレベーターガールは体格は細身だが、だからと言って接近戦が不得意そうなどと、人間のように考えてはいけないのだ。相手の攻撃が届かない位置から飛び道具の弾幕を張るのはもちろん得意だが、もっと直接的な荒事もできる。瞬間的に間合いを潰したエリザベスは、悠の制服の後ろ襟を掴んだ。
「てい」
そして投げた。
「なっ……!」
予想外過ぎる身のこなしに虚を突かれ、悠は床にうつ伏せに引き倒された。すると目の前に靄がかかった。テレビの霧ではない。その証拠に色は黒だ。
「う、うわあっ!」
黒い視界の中で何かが蠢いている。それが何かは分からない。夜の墓場で地面が動いて、黒い虫にたかられた死体が這い出るような。人の腕くらいの太さの鋭いドリルが甲高い音を立てて回転し、先端を目の前に突き付けられているような。粘液にまみれた蛇の舌めいた形状の細長い物体が、口の中に侵入するような。そういう恐ろしく、かつ不快でおぞましいイメージが心に突き刺さって離れない。自分がどこにいて何をしているのか、分からなくなる感覚だ。
「ふう、殿方のお体に触れるのは何年ぶりでしょう? 告げ口などされては困りますので、どうかお忘れになってくださいませ」
エリザベスは立ち上がり、手袋をした手を払って汚れを落とすような仕草をした。今のは悠を投げると同時に精神攻撃を仕掛けたのだ。全方位型かつ極めて強力な全書使いは、こういうこともできる。ただし『忘却』という状態異常を付加する術はない。ない為に、恐怖で記憶を上書きしようとしているわけだ。酷い話だが。
「うぐぐ……!」
メサイアはこの種の攻撃に対する耐性はない。術を深くかけられた悠は、教室の床を転げ回った。椅子を蹴飛ばし机をひっくり返し、手で顔を覆って仰向けになる。状態異常も極めると人を狂死させかねない威力を発揮する。精神を超えて身体的な意味での神経まで焼け焦げてしまいそうな、猛烈な苦しみを味わっている。いよいよ糸が切れるかという時、声が響いた。
『寝ぼけないで!』
よく知っている声である。現実ではもう二度と聞けなくなり、夢でももう一ヶ月ほど聞いていない、愛する人の声だ。これは幻聴か、死の間際の走馬灯か、それとも──
「な……永劫の絆が!」
エリザベスは自分が詳しい分野で驚くことはめったにない。ペルソナやコミュニティ、または荒事に関しては大体において超然としている。悠のコミュニティの有様には驚いたが、今起きたことにはそれ以上に驚かされた。
倒れたままの悠の上にペルソナが現れていた。十二単めいた着物を着た女性の姿で、ショールを翼のように軽くまとい、蝶の触角に似た細長い紐状のものを仮面の上部から突き出している。虚ろの森で永劫のコミュニティが破綻すると同時に使えなくなった天人のペルソナ、カグヤである。
「はっ……お、お前!」
そして悠も驚いた。時間の感覚が失せて死ぬまで続くような恐怖状態から、急速に意識が回復して視界がクリアになったと思ったら、マリーとの絆で生まれ、そして失ったペルソナが立ち現れていた。忘れ形見にさえならなかった、言うなれば『死んだ子供』が蘇った──
「光を!」
悠はすかさずペルソナを動かした。カグヤはショールをはためかせ、白い光を浮かび上がらせた。神社で配られる護符のような紙片が無数に現れ、迷惑な乱入者に向けて退散せよと命令する。
「あっ……」
敵を調伏する光の魔法である。驚愕して大きな隙を作ってしまったエリザベスは、普段であればまず受けない光に包まれた。そして清冽な音を発して、護符は一斉に弾けた。
(やったか!?)
悠は立ち上がって白い破魔の光の柱を見据える。これが決まれば敵の余力に関わらず、一発で倒すことができる。格の違う相手に、大逆転できたかと思いきや──
「何とまあ……こんなことがあるのですね」
乱入者は倒れていなかった。不発だったか、そもそも光に耐性があって効かないのかは解析の能力を持たない悠には分からない。剣を構え直し、気を取り直す。悠は戦う意志をまだ捨てていない。対するエリザベスは驚愕の表情を浮かべたままだ。シャドウのように金色に光る目を大きく見開いている。
「驚きました。戦いの最中に壊れた絆を再生させるとは……」
「何?」
「いえ、絆の担い手がクソヤローの貴方を許して差し上げた……と言うべきでしょうか。絆の数はこれで四つ。少ないことには変わりありませんが……」
四つ──
「……」
悠は訝しみつつ、エリザベスをじっと見る。四つとはどのアルカナのことを言っているのだと目で問いかけるが、エリザベスは答えない。言葉の通じない相手には、言葉以外もやはり通じないのが道理だ。被害者のシャドウを叩きのめしてペルソナに転じさせたように、勝負に勝てば通じるようになったかもしれないが、悠は勝ってはいない。まだ勝負の途中だ。視線の交錯は長く続いた。
やがてエリザベスは目を細め、体を少しばかり前屈みにした。覗き込む仕草である。戦う前に絆の状態を確かめた時よりも、更に深く悠の内側を見つめる。特に注目するのは悠がカグヤと呼ぶ天人、またはヒルコとも呼ばれる創造神の『長子』のペルソナだ。そしてその背後にいる存在──
「おお怖い」
突然エリザベスは体の位置を戻した。熱く焼けた鉄や石にうっかり触れた人間が、反射的に手を引っ込めるように。
「何と恐ろしい方を内に宿しておいでなのでしょう。あの方も昔は死神をその身に飼っておられましたが、ワイルドとは皆そうなのでしょうか」
「……何の話だ?」
エリザベスが何を言っているのか、悠には理解できない。有里が過去に何を『飼って』いたのか聞いたことはないし、自分のことも分かっていないのだ。だがベルベットルームの住人は皆そうであるように、物事をストレートに聞いてもエレベーターガールは答えてくれない。職務放棄中でもそれは変わらない。
「勝負はなしと致しましょう。貴方の内に住まう方では、私が何者か教えてはくださいませんでしょうし」
エリザベスはペルソナ全書を脇に抱え、対戦者に背を向けた。大会にエントリーしていない招かれざる乱入者は、興ざめしたように自分からリングを降りた。ただしここは普通の格闘技の試合会場とは異なって、参加者を逃がさない為の仕掛けがある。それは乱入でも正式参加でも変わらないはずだが──
「こんな小細工、おととい来やがれでございます」
エリザベスが見えない壁に手をかざすや、何もない中空からガラスが割れる音が発せられた。ペルソナを召喚する時とよく似た音を立てて、壁は破壊された。そしてそのまま去っていこうとするが──
「おっと、そう言えばお取込み中でございましたね」
天井が崩落してできた瓦礫に目を留めた。再び手をかざすと、今度は瓦礫が吹き飛んだ。その下にはP-1グランプリ二回戦第一試合の、本来の対戦者がうつ伏せに倒れていた。哀れ下敷きになって気を失ってしまった陽介に向けて、エリザベスは三たび手をかざした。ただし今度は吹き飛ばさなかった。さすがにそれはなかった。
「もう大丈夫でしょう。では、続きをどうぞお楽しみくださいませ」
治癒の魔法を陽介にかけて、エリザベスは今度こそ去っていった。ちなみに天井から落ちて床にひっくり返っているモニターは、そのままである。
「何だったんだ、一体……」
ムチャクチャな相手だった。規格外の実力はもちろんだが、言動はより意味不明だった。一方的に戦いを挑まれ、一方的に打ち切られた。そのどちらの理由も理解不能だ。エリザベスは何がしたかったのか、悠は結局よく分からなかった。
「う……な、何が起きたんだ? あ、相棒!」
そして陽介は起き上がった。怪我はすっかり癒えている。
『ホント、何だったクマか! あんな蹂躙系チート女、クマは呼んだ覚えないクマ! どこの異世界でトラックに轢かれたクマ!』
クマ総統も復帰した。機械は上下が逆になっているが、普通のテレビとは違うせいか映像は逆立ちしていない。普段通りに悪態をつく。この大会主催者は全般的に理不尽だが、この時ばかりは文句を言う権利があるだろう。何事にも格の違いというものがある。エリザベスは総統より理不尽だった。