大会主催者は他人の会話を上書きすることができるし、表情を違って見せることもできる。それを応用することで、自分の姿を実際と異なるように見せることもできる。要は幻覚を生み出す力だが、それはシャドウとしての力ではなく、本体が元々持っている力だった。それが破られれば、真の姿が露わになる。
八十神高校の生徒会長、正しくは自分がそうだと思い込んでいただけで本当は違う少女、さらに正しくは人間の少女と似た姿をした存在は、自分の手足を見下ろして愕然としていた。腕から指先、足の付け根から爪先に至るまで、全てが金属で覆われている。
いや、覆われていると言うのは正しくない。鎧を着ているわけではなく、中身も全て人工物だ。そして義手や義足でもない。制服で隠れている部分も同様に金属でできており、血の通った生身の部分は一つもなかった。体の外側ばかりか中までそうだ。心臓も脳もなく、代わりに人格モジュールと呼ばれる機構が首の奥にある。鳥の羽に似た形をした物体がそれだ。
「い、嫌……」
震える『少女』、ラビリスを見下ろすのはそのシャドウだ。『真実』で鞭打つ。
「結局、分かってもらえなかったわね。親しい者同士で戦わせる……そうすれば、分かってもらえるかもしれない。幸せそうにしている連中に分からせてやりたい……でも駄目だった」
シャドウは全般的に饒舌である。本体の性格とは関係なく、やたらと多弁であるのが普通だ。昨年に特別捜査隊が追った事件で出現したシャドウは、ほとんど常にそうだった。自分のことを分かってもらいたいから、よく喋るように。喋れば喋るほどかえって疎まれるのに、それでも喋らずにはいられないように。
「まあ当然かもね。だってあいつらはあんたじゃないもの。人間じゃないあんたの気持ちが、人間に分かるわけがない!」
だからラビリスのシャドウもよく喋り、本体を詰る。クマに化けていた時からそうだったが、正体を見せた今もそうだ。その意味で、ラビリスのシャドウは普通のシャドウと言える。シャドウが生み出される原因になった出来事の過酷さや異常さはともかく、シャドウそのものは本体ほど珍しくはない。
「それとも……ルールが甘いのがいけなかったのかしら? 殺さないと先に進めないようにすれば良かったのにね! あいつが今は駄目だって言うから!」
あいつ──
今、シャドウは重大な失言をした。しかし放送室にいる面々はそれに気付かない。それどころではないのだ。特に『姉妹』はそうだ。
「ち、違う……ウチは、ウチは人間や!」
「しっかりしてください、姉さん!」
陽介が驚愕から立ち直れずにいる間に、アイギスがラビリスに寄り添う。しかしその声は届いていない。ラビリスは頭を抱え、『妹』を見ようとしない。
「あんた、何言ってんの。あんたはどう見たって人間じゃない。私やそいつとは全然違う!」
現れた時からラビリスを姉と呼び続けるアイギスに、シャドウは苛立ちを込めて言う。傍から見ればシャドウの方が正しいと言える。アイギスの素性や過去を知らなければ、現在のアイギスがラビリスの妹を名乗ることには誰もが違和感を禁じ得ないだろう。何しろ二人は見た目が違いすぎる。もちろん顔が似ているとか似ていないとか、そういう次元の問題ではないところで、アイギスとラビリスは違う。
例えば切れば血が出るかどうか、年を取るかどうか、子供を産めるかどうか。決して無視できない差異が、『姉妹』の間にはある。
「それは……」
実のところ、アイギス自身もそれを分かっている。分かっているから、シャドウに反論する言葉が出てこない。今の自分がどうして『姉』と違っているのか、当の『姉』に語るには強い抵抗を感じていた。大規模な自然災害に巻き込まれたり、或いは紛争に参加したりして、仲間の誰もが命を落とした中で、たった一人生き残ってしまったように。しかも自分が生き残った理由が分からず、犠牲者にどう報いればいいのかも分からないように。だから言葉が繋がらない。
「ねえ、あんたはどう思う? こいつとこの女が同じだと思う?」
アイギスが答えられずにいる間に、シャドウは標的を変えた。女を守る騎士に、お前が守っているのは本当に女なのかと問う。
「え……お、俺?」
急に話を振られた陽介は戸惑った。ここは戸惑ってはいけない場面であるのに、応じる言葉が咄嗟に出てこなかった。まだ何の結論も出していないのだから当然ではあるが、それでも良くなかった。
「私みたいな人間がいると思う? 『私』みたいな!」
「えっ……」
陽介は一瞬混乱した。繰り返された『私』は、果たして誰を指しているのか。シャドウが聞いているのはどちらの意味なのか、一瞬理解ができなかった。本質的には、存在の根源的な意味ではどちらであっても同じであるが、陽介はまだそう思い切ることはできない。元々事態についていけない部分があるのに、難解な質問を浴びせられて、なおさら言葉が出てこなくなってしまった。『人間かどうかなんて関係ない。俺の仲間にはシャドウだっているんだぜ』とでも言えれば良かったのだが、できなかった。
「……」
数秒の沈黙。それが陽介とラビリスの間に溝を入れた。まさに人間と人外の間にある溝である。悠もクマも有里もかつて抱いた悩みを、陽介も負うことになった。それは容易く飛び越えられるほど浅い溝ではなく、意地や思い込みで乗り越えられるほど低い壁でもない。だから仕方がないと言えば仕方がないのだが、陽介はそうしてはいけなかった。
放送室に入る前、自分の嫌なところを見ても引かないでと、幻滅しないでと頼まれたのだから。
「花村君……」
ラビリスの声には深い落胆があった。言った者にも言われた者にも深い傷跡を残す、心を抉るナイフの形をした失望である。
アイギスと陽介が沈黙し、本体も自失した隙を突いてシャドウが動いた。右腕をラビリスに向けるや、ロケットパンチよろしく肘から先を打ち出した。それは根元から鎖が伸びており、ラビリスに巻き付いた。そして鎖を巻き取って相手を引き寄せる。
「私は自由になるの! もう桐条にはうんざりなのよ!」
ラビリスを肩に担いで、シャドウは跳躍した。背中に負った蝶の羽にはブースターがついており、ジェットエンジンよろしくガスか何かを噴出して、勢いをつけて放送室から脱出した。
「待ってください!」
逃げるシャドウを見て、アイギスは自分を取り戻した。そして『姉』を追って走り去る。だが陽介はそこから動かない。
「……」
何が何だか分からない。シャドウワーカーの任務については悠からのまた聞きに過ぎないので、詳細は理解できていない。アイギスが何者なのかも分からないし、もちろんラビリスについてもそうだ。頭が混乱するのと同時に足も止まってしまった。そんな少年の背中を、思いきり叩く手があった。
「ちょっと先輩! 何してんの! このままでいいの!?」
りせだ。だらしない先輩に向けて、怒りさえ見せている。それで陽介は我に返る。
「このままで……いいわけねえよ!」
そう、いいわけがないのだ。悠と戦った後には大会を続けることに気が進まず、シャドウワーカーに任せることも考えた。しかし今はもちろんそんなことはできない。既に陽介は当事者なのだ。昨年の殺人事件における自分の立ち位置と比べても、より核心に近いところにいると言っていい。
「俺たちのことはいいから、行ってください!」
「ああ! お前らも気をつけろ!」
尚紀にも背中を押され、陽介は駆け出した。足の速さには自信がある。異界の学校を風のように走った。先輩の疾風の背中を見送って、尚紀はりせに話しかけた。
「久慈川、何が起きてるんだ?」
「ああ、えっとね……」
実は尚紀は事の初めからテレビの中にいたのだが、今の今まで気を失わされていたので、状況を理解できていない。情報使いも居ながらにして全ての事態を飲み込めるわけではないのだ。
一方その頃、一階の教室には当代最強のペルソナ使いがまだいた。有里は一回戦で負けてから、ずっとここに閉じ込められたままだ。しかし本職には及ばないとはいえ情報系の能力があり、大会をここまで勝ち残った一人であるアイギスをサポートしていた為、状況は当然理解している。
(やはりラビリスのシャドウの仕業だったか……)
有里は見えない壁に手を当てた。これは銃で撃ってもペルソナを突撃させても破れない。破る方法を思いついてはいるが、自分では実行できない。できることが比較的多いワイルドであっても、何でもありのエリザベスとは違うのだ。
(今動けるのはアイギスと花村君の二人。シャドウの戦力は未知数だが……)
大人のペルソナ使いであるシャドウワーカーの副隊長は、高校生の頃からそうだったが、基本的に感情だけで動くことはない。様々な方面に頭を巡らせ、行動に伴うリスクを考慮する。今考えているのは、シャドウワーカーができることと特捜隊ができること。事件のそもそもの原因と、責任を負うべきは誰であるのかという道理。そして最も考えなければならないのは妻だ。ただしそれは、妻の希望通りにすることとイコールであるとは限らない。
(……やむを得ないな)
有里は決断した。そしてオルフェウスの通信を妻以外の人に向ける。
「小西君」
一声かけると、返事がすぐに来た。
『有里さん!』
「僕の居場所は分かるな? こっちに来てくれ」
『え? でも壁があるんじゃ……』
尚紀はまだ放送室にいる。りせから事情を粗方聞いて、特捜隊とシャドウワーカーが各々同士討ちを強いられたことを理解したところである。そしてその原因も聞いている。
「君なら壊せるはずだ。頼む、君しかできないんだ!」
『分かりました……やってみます』
有里に頼まれた尚紀は一階へ向けて歩き出した。りせも同行する。しかし廊下に出てすぐ、見えない壁に足止めされた。優れた情報系能力を持つ尚紀は、触れなくても壁がそこにあることが分かるので、鼻をぶつける前に立ち止まる。それはもちろんりせも同様だ。
「この壁……本当は壁じゃないな」
「うん、でもどうするの?」
尚紀は壁に手を当て、目を閉じて集中力を高めた。手に感じる質感はガラスに似ているが、実体はもちろん違う。尚紀の脳裏に浮かぶのは、複雑に絡まった何本もの紐のイメージである。紐の端が四方に広がっているが、そこをいくら叩いても引っ張っても紐は解けない。狙うべきなのは紐の結び目だ。それが壁のどこにあるのか、尚紀は探す。
それは一面に漆喰が塗られた大きな壁から、ごく小さな針の穴を探すようなものだ。やみくもに探しても見つからない。しかし尚紀には見つけられるし、りせも見つけられる。そしてりせにはできず、尚紀にはできることがある。
「……ここだ! シロウサギ!」
ゴルディアスの結び目という伝説がある。誰にも解けないくらい固く結ばれた紐を、世界を征服した大王が一刀両断してしまったという話だ。それと同じことが尚紀にはできる。召喚された小動物のペルソナは口をかっと開き、壁の急所へ向けて放電した。
──
一見すると何もない空間からガラスが割れる音が発せられ、見えない壁は崩れた。紐は断ち切られた。
尚紀の戦闘能力は高くない。と言うより、低い。早紀のシャドウと融合した昨年12月はまだしも、早紀が離れた今の尚紀は直接的な戦闘に耐えうるレベルにはない。だが壁を破るだけならば十分だ。紐を切るのに、伝説の神剣や世界を焼き払う炎は必要ない。ハサミがあれば事足りる。
『よし。久慈川君、君は別行動を取ってくれ。ラビリスのシャドウが戻ってきたら、君たちを押さえようとするはずだ。情報系は別々にいた方がいい』
「は、はい!」
局面が変わり始めた。大会主催者の策の要であった見えない壁。それによって参加者たちは逃げられず、誘導され、仲間同士で戦わざるを得なくなったのだ。だがそれを破るゲームチェンジャーが、大会が佳境に入ったこの時期に登場した。
陽介はテレビの中の校舎を走る。いつものように壁に誘導されながら、三階の廊下を走った。階段を脇目に少し進んだ先に、長い金髪をアップにまとめた頭が見えた。
「お越しですね」
薙刀を持つ青い目の女、もちろんアイギスは見えない壁に手を当てて立っていたが、陽介が来ると振り返った。陽介にとってはまだ見知らぬ相手である。
「貴女は……誰なんですか?」
「私はアイギス……有里湊の妻です」
「有里さんの奥さん!? え、でもラビリスを姉さんって呼んでましたけど……。つか、貴女はどう見ても……」
校舎を走り回っていた時のラビリスと同様に、幻覚か何かで覆い隠しているのかとも思った。しかし有里の妻と言うなら、そうではなくて見たままの体であるのか。しかしそうだとすると、ラビリスを姉と呼ぶのはなぜなのか。
陽介は話しながら二重三重の疑問に捕われたが、そのどれにもアイギスは答えなかった。
「ここに姉さんはいません。どうやらシャドウは時間を稼ぐ為に、私と貴方を誘導したようです」
陽介も周囲を見回してみたが、他の人間やシャドウはいない。そして自分の後ろに手をやれば、見えない壁にぶつかった。これはつまり、対戦者と二人だけで閉じ込められる、いつもの状況に置かれたわけだ。
「あの、アイギスさんもシャドウワーカーなんですか?」
「ええ。この大会のルールによって同士討ちを強いられたので、今動けるのは私しかいませんが」
「ああ……俺らもそうです。残ってるのは俺だけです」
この大会は特捜隊とシャドウワーカーのいずれも、内輪で戦わされるのが基本方針だった。チームの垣根を越えた『交流戦』は、仲間ではないが血縁がある悠と堂島、主催者の意図しない遭遇戦になった千枝と真田だけだ。言うなれば、陽介とアイギスの勝負はグループ内の予選を勝ち抜いた代表者同士によるプレーオフだ。
「では、勝った方が姉さんのもとへ行けるわけですね」
そして本命の敵であるラビリスのシャドウに至る前の最後の一戦、P-1グランプリ準決勝とも言える。会話の上書きはされていないが、戦わざるを得ない。
アイギスは陽介に決意を込めた視線を向ける。それは強くはあるものの、実は脆くもあるものだった。まさに見えない壁がそうであるように、急所を一つ突かれれば容易く瓦解してしまう、そんな決意だ。そして脆さを隠す為に、抜き身の薙刀を握り直して殺気を放つ。
(……ん? ちょっと待て)
殺気を肌で感じながら、陽介はふと閃いた。難問の正解を教えてくれる天の啓示の類ではなく、時に正しく時に誤っている、ある程度の論理性があるいつもの勘である。
(有里さんも来てるって、悠は言ってたよな。でもアイギスさんが最後……ってことは、この人って旦那さんより強いの?)
昨年12月8日の戦いの経過について、陽介は尚紀から少しだが聞いている。それによれば、足立は最終的に有里がほぼ一人で倒したらしい。陽介を一発で打ちのめして特捜隊を軽く一蹴した足立を、有里は倒したのだ。その有里をも凌ぐアイギス。それは即ち、眼前にいるのは最強のペルソナ使いであるということ──
(俺が勝てるわけねえじゃん!)
実際のところは陽介の認識は誤っている。公平に見るならば、アイギスは有里より強いとは言えない。ポテンシャルでは互角だが、現時点のアイギスは夫に及ばない。真田にも敵わない。しかし陽介と比べればずっと上である。衰えたとはいえ年季が違うし、陽介はペルソナが退化しているから。
「道を譲ってくれませんか。抵抗しないのなら、痛みを感じさせずに終わらせることもできます」
「それはできねえです」
陽介は無茶な挑戦だと内心では理解しつつ、表には出さなかった。実力が上の相手に突っ張る。任せていいのだと言われても断る。
「なぜです?」
「俺、あの子を傷つけたんです。謝らないといけないし、伝えたいこともあります」
「それは……全てが終わった後でもできるのではありませんか?」
これはアイギスの言う通りだ。話したいことがあるなら、アイギスがラビリスを確保した後でもできる。むしろその方が、話がしやすいこともあり得る。陽介はわざわざ困難な道を選んでいる。なぜかと言うと──
「ま、そうなんですけど……ここで逃げたら俺、もうあの子と向き合えなくなりそうなんです」
少年らしい理由である。容易な道を選ぶことを意地によって避けて、ただ力を尽くすこと自体に価値を見出す。それは私情である。気になる少女にカッコいいところを見せたくて頑張るような、そんな私情だ。これが高校の緩い部活であればそれでもいいが、仕事で戦うプロであれば、上司から出撃の許可は与えられないだろう。
「面倒くさいガキだと思うかもしれませんが……」
「いえ……」
陽介は『姉』を真剣に思ってくれていることを感じて、アイギスは思わず殺気を緩めそうになった。兵器として作られた機械にとって、そういう感情を向けられるのはとても貴重なものだ。テレビに入ってからずっと気が張り詰めていたアイギスは、少しばかりの救いを感じた。
私情と言うならアイギスもまた私情が多分にあって、この任務にこだわっている。『姉』の問題には自分が向き合わねばならないと。もちろん口にしたことはないが、きっと上司である隊長や副隊長は察している。その意味で、私情を語る陽介には親近感を覚えるくらいである。しかし──
「ですが、私も譲ることはできないんです」
実はアイギスは『姉妹』として以外に、この任務に懸けるもう一つのこだわりがある。夫の役に立たねばならないという思いだ。もし当の夫がそれを聞いたら、そんな気を回す必要はないと本気で窘めるだろうが。
「分かってます」
ともあれ、譲ることができないのは陽介も同じだ。内輪で望まない戦いをした上で、陽介はここに来ているのだ。特捜隊で残った最後の一人としての責任がある。戦わずに逃げては仲間に合わせる顔がない。
腰を落として、両手に短剣を持って腕を交差する構えを取り、格の違う相手と戦う腹を括る。勝てるとは思えないが、それでもやる。蛮勇は若者の特権だ。
対するアイギスは薙刀の刃を下に向けた下段の構えを取った。特捜隊の実力の程度は昨年から聞いているので、自分の方が強いことは分かっている。陽介が『姉』の理解者になってくれそうなのは嬉しいが、それはそれである。相手が死なないよう手加減はするが、勝つつもりでいた。
──
すると突然、違和感を覚えた。眼前の相手にではなく、自分の脳裏にあったものに。今日は探索する時も戦う時も、夫によるバックアップを受けていたのだが、急にそれが途切れたのだ。電話を切ったかテレビを消したかのように、ふっつりと。
「湊さん……?」
その夫はと言うと──
『花村君、聞こえるか?』
「え? この声……」
『有里だ。今から君のサポートをする』
相手の側に立った。
『アイギスの行動は僕には読める。僕の言う通りにやれば、必ず勝てる!』
「湊さん……!?」
通信の途切れたアイギスに有里の声は聞こえない。だが信じ難いことが起きたことは分かった気がした。一階の教室で夫の幻に暴言を浴びせられたが、その時にも感じた背中に何かが走るような危機感を再び感じた。もっともあれは敵の罠で幻だったが、これは現実だ。まるであの幻が実は現実で、この二年間の幸せな日々こそが幻であったような、そんな気がしてきた。
『また電撃が来る! 範囲は狭い!』
「メサイア!」
「うおお!」
救世主のペルソナが放つ雷の秘術を、陽介はかわした。放送室でこれを受けた金の陽介が霧消したように、本物の陽介も当たればただでは済まない。死ぬこともあり得る恐怖の攻撃を、陽介は回避した。何回目かもう数えていない。かわす度に冷や汗が出るし声も思わず出るものの、かわす動きそのものには余裕があった。髪の毛が焦げるくらいのギリギリの距離で、冷や汗が蒸発するようなことにはなっていない。
陽介は真田が身に付けている見切りの技は持たないが、それでもこれまで全ての電撃を回避していた。アイギスは悠と違ってメサイアを使っても頭痛はしないので、狙いは定まっている。それを全てよけるのは、普通にやっては絶対に不可能なことだ。
『今度は広範囲! 左に半歩動いて、体を横にして!』
しかも一筋の稲妻だけでなく、広く撃たれても雷雨の隙間に体を入れるように回避してしまう。そんなことができるのは、有里の指示が極めて的確だからだ。アイギスがどう動くか、どのペルソナで攻撃してくるのか、有里には分かっている。長年の経験によって動きを先読みしているのではない。アイギスとペルソナを共有している為に、次の狙いが手に取るように分かるのだ。
通常、実戦をやりながら他人から具体的な指示を受けることはできない。例えばボクシングの試合で、相手が右と左のどちらのパンチを打ってくるかコーチやセコンドが先読みしたところで、口に出した時にはもう相手はパンチを打ち終えている。試合中の指示は大まかにしかできない。だから実戦では実力が一番ものを言う。
だが有里はアイギスとの戦いに限っては具体的に指示できる。アイギスが実際に電撃を放つより一瞬早く、いや一瞬よりも相当に早いタイミングで指示できる。そして陽介は指示に応えられるだけの速度と反射神経がある。
(俺、これならいけるか!?)
戦う前は当たって砕けるつもりだった陽介だが、勝利への手応えを感じ始めていた。もちろん油断はできないが。
『走れ! 残り二歩で薙刀が来るから右に回避! ペルソナで殴る!』
もちろん有里は攻撃も指示できる。陽介の動きに対するアイギスのリアクションまで読めるので、常に先手か後の先を取り続けられる。陽介は言われた通りに薙刀をよけ、直後にジライヤを召喚して拳を振るう。手裏剣がついたそれは、重さもなかなかある。
『見えない剣が来る! ジャンプして回避! 飛び苦無三本!』
「メタトロン!」
有里が指示した後にアイギスのペルソナ変更の声が来る。すかさず陽介は跳躍し、必殺の剣をかわして飛び苦無を投げる。威力の低いこれはフェイントだ。
『空中機動で後ろを取れ! 着地前に竜巻! そのまま距離を取る!』
得意の二段跳躍を披露し、上からアイギスの背後に回ろうとする。その動きを目で捉えているアイギスは、迎え撃つべく振り返ろうとする。そこで陽介は着地を待たずに竜巻の魔法を放った。悠とクマを倒した陽介の得意技だ。まともに当たれば人の体くらい軽く舞い上げられる威力がある。しかし──
「くっ……効かねえのか!」
竜巻はビルに当たった風のように跳ね返され、陽介の方が飛ばされた。アイギスの体には届かずに、かえって出戻ってきた。ペルソナの耐性により、効かないどころか反射されてしまった。ただジライヤは疾風属性の攻撃を無効化はできないものの耐性があるので、今の反射攻撃でダメージはそれほど負っていない。むしろ風に押されて距離を取れたのが幸いした。そうでなければ、空中でアイギスの反撃を受けていただろう。
そしてアイギスとペルソナを共有している有里にとっては、メタトロンの耐性は当然織り込み済みである。今のは反射されることが分かっていて、敢えて仕掛けたのだ。
『これでいいんだ。君の魔法はペルソナで防げると油断させるんだ』
この勝負は陽介とアイギスの戦いだが、実質的には有里の掌の上だった。
(湊さん、どうして!)
そしてアイギスの方も、夫が向こうについたことと、それによって不利を強いられていることに気付いている。それで自分が精神的に不安定になっていることも自覚している。
しかし勝負の最中に夫を問い質すことはできない。内心では波立ちが止まらないが、心の表面だけでも何とかざわめきを抑えて、この一戦に勝つ方法を考える。
(花村さんが得意な風はペルソナで防げます。接近戦は……速さでは大抵のペルソナで劣りますが、力は私に分があります。技は似たり寄ったりでしょう)
距離を置いて魔法を撃っても、有里がサポートしている限りかわされる。しかし相手の魔法もこちらには通じない。では接近戦ではどうかと言うと、真田と戦った時ほど不利ではない。陽介は短剣を使い慣れているが、別に達人ではないのだ。互いに武器が届く距離で高速で打ち合えば、夫の指示もやがて追いつかなくなるはず。アイギスはそう判断した。
アイギスは床を蹴り、薙刀を振り下ろしながら敵に迫る。対する陽介も飛び掛かる。速度に勝る陽介が間合いを詰め、右の短剣を振るうとアイギスが防ぐ。左の短剣も防ぐ。アイギスが柄で打とうとすると、陽介は下がってかわす。回転を止めずにアイギスが上から切りつけると、陽介は短剣で防いだ。
ここでアイギスは両腕に力を込め、陽介が逃げられないように上から圧する。
「うぐ……」
陽介は両手の短剣を交差して薙刀を防いでいる。しかし徐々に押し込まれてきた。陽介は膂力もかなりあるが、アイギスの方が上だ。スピード勝負の素早い打ち合いならともかく、力比べでは陽介が不利である。両者は得物の鍔で押し合いながら、視線も合う。
「降参してください。貴方を斬り捨てたくはありません」
「そうはいかねえんです……よっと!」
言いながら、陽介は力を抜いて自ら後ろに下がった。抵抗が急になくなったアイギスは、前のめりになって体勢を崩すかと思いきや──
「甘いです!」
鍔迫り合いで不利になった方が一旦引くなど、よくあることである。陽介の動きを予期していたアイギスは、滑るように足を前に移動させてバランスを保ち、薙刀を鋭く跳ね上げた。
「あっ!」
その一撃は陽介を切り裂きはしなかったが、武器を弾き飛ばした。左手に持っていた短剣は、背後の見えない壁まで飛んでいった。いくら素早い陽介でも、背を向けて拾いに行くことはできない。こうなると陽介は攻撃でも防御でもできることが半減してしまう為、接近戦では勝ち目がなくなる。
「終わりです!」
勝利を確信したアイギスは突撃してきた。薙刀を肩に担いで袈裟懸けに切り下ろす、必殺の一撃を放つつもりでいる。これを陽介は片手で防ぐことはできない。
『当然アイギスはこう来る。今がチャンスだ』
「ジライヤ!」
有里の指示を受けた陽介はペルソナを召喚する。白いツナギを着た忍者は胸の前で両手を交差し、片足を抱えるように体を丸める。力を内側に溜め込み、そして一気に解放する動きである。魔法を放つ予備動作だ。
「無駄です!」
風の魔法はメタトロンには効かないので、アイギスは足を止めない。相手の攻撃に構うことなく、自分の攻撃に全神経を集中する。陽介を殺すつもりはないが、大怪我をさせるくらいはやむを得ないと思って、全力を込める。防御を捨てた全身全霊の斬撃だ。しかし──
「無を!」
「あっ……!」
ジライヤが放った紫色の光がアイギスの胸元で炸裂した。これは風ではない。あらゆる敵を薙ぎ払う万能の魔法だ。堅牢な耐性を誇る機械の天使にも効く。攻めることしか頭になかった無防備な状態のところへカウンターを綺麗に決められ、アイギスは吹き飛んだ。薙刀から手を放してしまい、床を転がった。
陽介が最も得意とするのは風だ。しかしもう一つの武器として万能魔法も習得しており、テレビの中の戦いでは昨年から何度か使っている。アイギスの油断を誘った有里の作戦勝ちである。