P-1グランプリが佳境に入った頃、ジュネスの家電売り場に三人の少年少女が集まっていた。ゴールデンウィークでありながら客の数が妙に少ない、寂しい売り場で話し込んでいる。その話題は買い物ではない。
「このテレビだったよな」
「やっぱ俺らも行くか」
八十神高校三年生の一条康と長瀬大輔は、人一人くらい簡単に通り抜けられる大型テレビの前で腕を組んでいた。そしてもう一人、小沢結実もそこにいた。尚紀以外のシャドウワーカー稲羽支部高校生組の三人が揃っていた。
この三人も昨晩マヨナカテレビを見たのである。自分たちは映らなかったものの、浅からぬ縁のある知り合いが何人も変なプロデュースをされていて驚愕した。今日は尚紀や堂島に連絡を取ろうとしたものの繋がらなかった為、三人揃ってここに来たのだ。
「でも私は力なくしちゃってるし、あんたたちも弱くなったんでしょ?」
「それなんだよなあ……」
あんな怪しすぎるプロモーションビデオめいたものが流れた以上、テレビの中で再び何かが起きていると、三人は推測していた。しかし三人とも力は乏しい。一条と長瀬は昨年11月にペルソナを二人で『分割』して持つような状態になってしまい、大幅に弱体化してしまった。結実に至ってはペルソナを失い、自力ではテレビに入ることもできなくなっている。
行って真相を確かめるべきか、しかしもし戦いが起きているなら足手まといになりかねないので入らずにおくべきか、それでも自分たちにできることが何かないのか、三人は悩む。しかし結論は得られない。踏み込むにしても諦めるにしても、決め手を欠いていた。
「あの……すみません。稲羽支部の方々ですよね? お久しぶりです」
そんな悩める若者たちのもとへ、一人の女がやってきた。黒の女物のスーツを着ていて、一房の三つ編みにした髪を肩に垂らした、三人よりいくらか年上に見える女である。
「まだ時間がかかるかい?」
『すみません。壁の数が多くて……もうちょっと待ってください』
テレビの中の八十神高校の一階にある教室にいる有里は、尚紀に通信して状況を確認した。尚紀は着実に近付いてはいるものの、すぐに辿り着けるわけでもない。行く先々に何枚もの見えない壁があり、尚紀はその度に壊している。ガラス窓をハンマーで割るのとは違って、壁を壊すのはかなりの集中力と相応の時間を要する。数を重ねると疲労も出る。あと一分や二分で来てくれる感じではなさそうだった。
(仕方がないか……)
有里は腕を組んで、ため息が出そうになるのを抑えた。
(アイギス……)
そして思うのは妻のことだ。アイギスと戦う陽介を支援したことが間違っていたとは思っていないが、意識して自分の心を見張っていないと、つい後悔しそうになってしまう。
尚紀を陽介について行かせ、壁を破壊してアイギスと同士討ちをする必要をなくし、二人を協力させる策もあった。しかし敢えてその策は採用しなかった。
なぜなら有里は、今のアイギスをラビリスと向かい合わせたくないのだ。その場に自分もいればまだいいが、二人だけでは駄目だと思っていた。機械でなくなったアイギスは、もはやラビリスの『妹』ではないから。今のままでは二人とも傷つくだけで、何も良いことは起こらない。安易な共感や善意だけで乗り越えられるほど、人間と機械の間にある壁は低くない。
それは二年前まで体の問題で悩み続けていた、アイギス自身こそが最も分かっているはずだ。それでいながら、本人は『壁』に気付かない振りをしている。無論ずっと避け続けることはできない問題だが、解決には長い時間がかかると有里は考えている。
そんな状態だから、有里はアイギスと陽介を協力させる策は取らないことにした。元より初対面の二人が上手く連携できる見込みは低いし、それ以上にアイギスはラビリスの問題に他人が関わることを望まない。だから同士討ちをさせなくても、アイギスは陽介と協力などせず、むしろ追い払おうとするだろう。これまでのアイギスの言動にそれが表れている。
妻を案じる気持ち、他人を巻き込みたくない思い、有里自身の責任感、そして各人の戦力。全てを天秤にかけた有里の決断は、自分が動くことだった。だから尚紀を呼び寄せたのだ。
陽介の戦力はシャドウワーカー本部と比較すれば高くない。有里や真田には遠く及ばないし、アイギスや美鶴にも普通にやっては敵わない。ラビリスの戦力は未知数だが、陽介が勝てる保証などはない。だから陽介には、ただアイギスの暴走を抑えてもらう。そして本命の敵であるラビリスのシャドウには、最大戦力である有里自身が当たる。それが有里の策だった。しかしこれには大きな問題がある。それは──
(アイギスは抑えられたから、もう花村君にも大人しくしてもらいたいんだが……)
戦前の陽介の言動からして、それは難しそうだと有里は感じていた。シャドウワーカーの前身、特別課外活動部の頃から有里はリーダーとして仲間たちを指揮してきたが、彼らは往々にしてリーダーの意図した通りには動いてくれなかった。相手は盤上の駒ではなく人間なのだから、簡単に手足になってくれるわけがない。有里はそうした道理を頭では理解しているが、それでもやり切れない思いはある。
何事においてもそうだが、世の中は思い通りにいかない。今はとにかく、少しでも早く尚紀がやって来るのを期待するしかない。
P-1グランプリ準決勝は陽介の勝利で決着した。セコンドが介入して二対一での勝負のような形になったが、結果は結果である。廊下に張られた見えない壁のリングから脱出できるのは、陽介だけだ。
「あの、話聞かせてもらえませんか」
陽介はリングから出る前に、戦う前に聞いたことを再び聞いた。ラビリスに向き合う為には、前提情報としてアイギスの話を聞いておく必要があると思っていた。
「貴女は何者なんです? ラビリスを姉さんと呼ぶのはなぜですか?」
アイギスはしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。勝負に負けたことだけでなく、それ以外のことにもショックを受けてはいるものの、陽介が憎いわけではないから。
「私は……今はご覧の通り、人間の体を持っています。ですが二年前までは、ラビリスと同じ体だったのです」
「じゃあ本当に……」
「対シャドウ特別制圧兵装七式アイギス。それが私の……昔の名前です。ラビリスの後継機でした」
アイギスの言いようは過去形である。そしてそれが正しい。人間になった現在のアイギスは、後継機と名乗ることはできない。その体にはネジ一本も残っていないのだから。
「その……兵装って何ですか?」
「それは……いえ、貴方にはお話ししましょう」
機密事項に触れる話であるが、アイギスは敢えて語った。堂島が悠に教えたことよりも深く核心的な情報を、特殊部隊の一員ではない高校生に伝えた。ペルソナの通信能力で話を聞いている有里と美鶴も、情報漏洩を止めはしなかった。
曰く、シャドウワーカーの母体である桐条グループは昔からシャドウとペルソナの研究をいくつも行っており、その中にはシャドウの脅威への対抗措置として『機械にペルソナを持たせること』の研究もあった。ラビリスはそのシリーズにおける一体であり、今から十三年前に開発された。
「機械ですがペルソナを使えるようにする為、ラビリスには『心』があります。貴方も見てきたように……」
「そういうことすか……」
人を見てロボットかもしれないなどという発想は、普通は出てこない。悠から話を聞いた後も、陽介は生徒会長と名乗っていたラビリスを見て、人間でないかもなどとは思わなかった。それは見た目だけの問題ではなく、陽介やクマとの会話を含めた言動が人間としか思えなかったからでもある。それはただの機械にはできないことだ。
「ただ……ラビリスは研究の過程で、非人道的な扱いを受けていたそうです。恐らくはそのせいで、不完全な状態でペルソナに覚醒して事故を起こし……それ以来、ずっと封印されていたんです」
ペルソナを備えた機械の開発が推進されたのは、人間よりも機械の方が御しやすく、倫理的な問題も少ないという思惑があったはずである。しかし相手が機械であるが為に、当時の研究者たちは心に対する配慮を全く欠いていた。それが心にどんな歪みを与えるかを考えずにいた。道具としてと、人間として。都合良くどちらとしても使おうとしたことが、失敗の元だった。倫理的な問題から始めた研究が、倫理によって足をすくわれたと言ってよい。
「それで……ラビリスはどうしてテレビの中にいるんです?」
「それは分かりません。昨年の殺人事件のように何者かに入れられたか……ラビリスが自ら入った可能性も否定できません」
「自分から入ったのにシャドウが出る? ……いや、生田目さんの例もあるし、不完全って言うならあり得なくもないっすね」
ペルソナ使いはテレビに入ってもシャドウは出ない。絶対に出ないとは言い切れないが、普通はない。そしてテレビに入れるのはペルソナ使いだけだから、ラビリスが自らテレビに入ったのならシャドウが出るのはおかしい。しかし実は、普通の人間とペルソナ使いの境界上の存在というものもいる。
例えば昨年の事件における犯人の一人、生田目太郎だ。陽介は悠から話に聞いただけだが、生田目はテレビの中でペルソナかシャドウか何だか分からないが、怪物のような姿に変身したらしい。だからテレビに入れる者のシャドウが出ることも、あり得なくはない。アイギスと話していると悠と話す時のような明晰さを得られた陽介は、すぐにそこまで思い至った。
事件の原因に関する話はひと段落した。次は今後に関する話だ。
「貴女みたいに、ラビリスも人間にすることはできないんですか」
それができるのなら話が早い。誰もが遠慮なく幸せになれる。しかしそうそう都合のいいことは起こらない。
「それはきっと……いえ、確実に無理です」
アイギスは一瞬だけ躊躇したものの、はっきりと、そして強く否定した。推測や願望ではなく、事実に基づいた断言だった。二年前に自分の身に起きたことが、どれだけあり得ない出来事だったか、それを知るからこその強い言葉である。かつての当事者にさえ、 今となっては再現は不可能だ。
「私のこの体は……主人に貰ったものなのです。二度とは得られない、奇跡の力で……。世界を変えることもできる大きな力を、主人は私一人の為に使ったのです」
世界を変える──
「……」
文字通り受け取るならば、規模の大きすぎる話である。殺人事件や獣害事件よりもずっと大きく、途方もない話だ。誇大妄想的とさえ言っていいが、陽介は笑うことも訝しむこともせず、ただ黙って聞いた。そしてアイギスは話の方向性を変えてきた。
「貴方に敗れたのは……報いなのかもしれません。姉さんを置いて、自分一人だけ幸せになった私への……」
だがその幸せも今日までかもしれない。信じていた夫に裏切られたから──
アイギスは目を伏せた。思ってもいない不幸に突然遭遇し、道を見失ってどうすればいいのか分からないように。今日は昨日と同じ、明日も今日と同じ幸せな日だと思っていたのに、もはや昨日と同じではいられなくなったように。それでいながら、眼前の相手を恨むこともできないから視線を外すように、深海を思わせる憂いに満ちた青い目を伏せた。
「私はここまでのようです。姉さんを……お願いします」
「はい、任せてください」
陽介は言い切った。ラビリスと向き合うことをアイギスに代わって引き受けると、即ちこの事件に対する責任を負うと宣言した。もはや有里や堂島たちが、つまりは大人が何を言おうと絶対に後には退かないと、固く決意した。
「アイギス」
『……』
陽介が去った後、有里は通信でアイギスに話しかけた。しかし返事はなかった。
「有里さん! お待たせしました」
「済まなかった。後で話そう」
妻が返事をしないでいる間に、尚紀が教室にやって来た。かくして夫婦の時間はすぐに終わり、有里は仕事を再開しなければならなくなった。敗者復活戦の開始である。
『花村先輩! ラビリスとシャドウは屋上にいるわ! 階段の壁は消えてる!』
「分かった! すぐに行くぜ!」
アイギスと別れた陽介はりせのサポートを受けて、再び校舎を走った。来た道を一旦引き返して上り階段に向かう。屋上はその先だ。
『花村君』
そこで有里から通信が入った。
『今、小西君と一緒にそっちに向かっている。彼は壁を壊せるから、僕らが行くまで待ってくれ』
しかし陽介は足を止めなかった。有里を無視はしないが、言うことは聞かない。
「いえ、もう屋上に着きます。待ってたらシャドウが何をやらかすか分かりませんし、先に行きます」
『危ないぞ。今度は仲間同士の摸擬戦とは違う。場合によっては命に関わる』
「俺はいつも命懸けです。去年からずっと!」
案の定と言うか、陽介は大人しくするつもりはなかった。ラビリスのシャドウへの対処を有里に任せるどころか、到着を待つことさえしない。実際、シャドウと本体が一緒にいる今の状況は非常に危険なので、近い場所にいる陽介が先行するというのも一理はある。
そうして陽介は階段の先にある扉に手をかけた。
「ここだったか」
そこは本物の八十神高校の屋上ではもちろんなく、それを模してもいなかった。トラス構造の鉄骨の梁が張られ、そこからスポットライトが降り注いでいる。テレビ局のスタジオめいた作りの、特別捜査隊の拠点である。昨年から常設してある、現実への出口である三段積みのテレビもそこにあった。放送室の巨大な窓から見えていた場所だった。
「来たわね。最後に残ったのはあんたか……」
迎えの言葉を寄越したのはシャドウだ。本体はスタジオの床に書かれた人型の白線の上で、膝を抱えている。
「自称私の妹はどうだった? 機械じゃないから、やっぱり弱かった?」
「あの人は強かったよ」
実力ではアイギスは陽介より上だった。陽介が勝てたのは有里の的確極まる指示があったからで、普通にやってはまず勝ち目はなかったはずだ。しかし何度も言うが、勝負は結果である。P-1グランプリに参加した特捜隊とシャドウワーカー、総勢十二人の中から勝ち抜いたのは陽介だ。アイギスでも有里でも悠でもない。ワイルドではない、並のペルソナ使いに過ぎない花村陽介だ。
陽介はシャドウを見据えつつ、本体の前まで移動した。二人の間に入り、本体を庇う形になる。シャドウはそれに手出しはしなかった。ただし口は出す。
「こっちじゃあんたは庇われてばっかりね。戦う為に作られたのに、何もできない……。昔はあんなに強かったのに、あんなに壊せたのに! 一体どうしたのよ? ねえ?」
(壊せた?)
陽介はシャドウの発言に引っ掛かりを覚えたが、何も言わずにいた。二人のやり取りにはなるべく口を挟まないつもりでいるのだ。
「違う……違う! ウチはそんなことしとらん!」
「いいえ、あんたはしたわ。もう思い出してるはずよ! だってあんたの現実はこんなのなんだから!」
シャドウは再び指を鳴らした。本体が自分自身にかけていた幻を解いて、真の姿を露わにしたのと同じ、鞭を鳴らす音である。
テレビの中に作られたダンジョンは、かつて早紀のシャドウがいたコニシ酒店がそうであったのを始めとして、入った人の現実である。ラビリスはどうかと言うと、八十神高校は願望である。現実はこうだ。
──
頭上から突然差してきた赤い光に、陽介は目を細めた。
(焼却炉?)
スタジオの景色が急に変わった。床の白線や出口の三段テレビはそのままだが、天井が大きく変わった。黒いトラスの梁はベルトコンベアに変わり、それの向かう先は頭上の中央に鎮座している大きな金属の箱だ。扉は開いており、箱の中では炎が踊っている。焼却炉である。そこから零れる刺すような光が、元は黄色の色合いが強かったスタジオ全体を赤く染めている。そして焼却炉の口に向けて、壊れたマネキンらしきものがベルトコンベアに乗って運ばれ、次々とゴミのように詰められていた。
その『マネキン』はよく見ると、ちぎれた手足や胴体の断面からコードやネジがはみ出ていた。ただの物言わぬ飾りの人形ではない。元々は人間のように喋って動くこともできたのだが、壊れて二度と動かなくなったものだ。
(昔は壊せたってのは、そうか。仲間のロボットと……だから格闘大会か)
クマ総統は、つまりはラビリスのシャドウは、もっと言えばラビリスの深層心理は、どうしてこんな大会を企画したのか。その理由を陽介は直感した。自分の勘は間違えることも多いと自覚しているが、これには確信を持てた。そしてそんな酷い現実を、陽介は自分でも意外に思うほど冷静に受け止めた。禍々しい焼却炉の光景にも、眩しさに目を細める程度の反応を示しただけで動揺はしない。この日最後の戦いが始まるまで秒読み段階まで来た今、心は全く平静だった。
放送室に行った時に自分のシャドウを受け入れる気になったように、ラビリスをその過酷な過去と共に受け止める気になれていた。アイギスと戦ったことで、腹は完全に括れていた。
「辛かったね……苦しかったね。でも全部、あんたがやったこと……」
「違う……」
「違わないわ。あんたは責任を取らないといけないのよ! 守ってくれる男に甘えて幸せになろうなんて、許されないの! だってみんなあんたが壊しちゃったんだから!」
「違う……それはあんたや! ウチやない! ウチはあんたやない!」
(言ったか……)
ラビリスは言った。そしてシャドウは笑った。
「ふふ、うふふふふ……あははは! これで私は自由! 誰にも捕まえられない、自由の身だわぁぁぁ!」
甲高い哄笑が響き渡り、それと共に赤黒い煙がシャドウから発せられた。影は本体に成り代わるべく動き出した。昨年の特捜隊の戦いでは何度も起きた、お約束とさえ言っていい定番イベントである。
陽介は敢えて『お約束』を防ごうとはせず、ラビリスに禁句を言わせるに任せた。たとえラビリスの口を塞いだところで、それは本質的な解決にはならないから。陽介自身を含め、特捜隊は戦わずにシャドウを受け入れることはできなかったのだ。だからシャドウが出れば戦わねばならない。それは初めから決まっているとさえ言っていい、必然の事態である。
そして戦うのはシャドウを出した本人ではなく、他人だ。即ちペルソナは自分自身で得るものではなく、人から与えられるもの──
(足立が言ってたな。俺たちのペルソナは悠に貰ったものだって)
足立は特捜隊を揶揄する意味でそう言っていた。だが与えられることは、果たして悪いことだろうか。人は一人では生きられないと、よく言われる。それはつまり人は人に何かを与え、与えられて生きているということ。では陽介とラビリスは?
(俺がラビリスに与えられるものって、何だろう?)
それはきっと多くはない。人が機械に与えられるものは、人同士で与えられるものよりも確実に少ない。それは真実だ。意地や思い込みではどうしようもない、存在自体に根差した真実だ。
(ペルソナの力と……辛い時に傍にいること。そんくらいだな。有里さんは、もっとたくさんのものをアイギスさんに与えたんだろうけど)
人間と機械の間にある壁を乗り越えられるのは、人間の範疇から外れた力。例えば神や、宇宙と等価の存在、或いは悪魔の力だ。ペルソナは人間の力である。それを超える領域にある神的、魔的な力が必要になる。そして陽介はその力を持たない。だがそれでも──
「何もないより、いいだろうよ」
この戦いの意義を陽介は口にした。一種の決意表明は、連戦で相当に疲れているはずの体に最後のひと踏ん張りをさせてくれそうだった。
「我は影、真なる我……」
やがてシャドウは『変身』を終え、『自我』を宣言した。ただこれまでのシャドウの暴走の例と異なり、本体と同じ形は残ったままで背後に大きな怪物を従えている。その怪物は、頭上にある焼却炉の貰い火のような赤い炎を全身にまとい、頭部は猛り狂う牛の形をしていた。二本の角からは鎖が垂れている。怪物の下半身は外から見えず、筋骨隆々の人間の上半身だけが地面から出ている。その上半身だけで本体を超える体高がある。ギリシャ神話に伝えられる、有名な牛頭人身の怪物を思わせる姿だ。一見するとペルソナ使いとペルソナのようである。もちろんそんなはずはないが。
そしてシャドウのうち人に近い姿をした方は、背負っていた蝶の羽めいたオブジェを外した。羽の付け根らしき箇所から赤い筒が飛び出ており、そこから蒸気が噴き出すや、ロケットが飛び立つように背中から離れた。そして『羽』が広げられると、巨大な斧になって使用者の手に収まった。自分の身長ほどもあるそれを、シャドウは片手で軽々と持つ。驚くほど美しく可憐な顔には似合わない、だが悪意に満ちた金の瞳には似合う巨大な武器だ。持っているだけで、恐るべき膂力があることを感じさせる。
「へへ……シャドウとタイマンなんて初めてだぜ」
陽介は短剣を両手に持った。シャドウの気に当てられて倒れたラビリスを庇うように、前に出る。油断できない敵だとは思うものの、不思議な自信と余裕があった。
『花村先輩! みんな応援してるよ!』
そこへりせの通信が入った。続いて他の仲間の声も聞こえてきた。
『ヨースケ! ラビチャンを助けてあげるクマ! でもナイトは譲らんからねー!』
『ケンカは気合と先制のパンチっすよ!』
クマと完二だった。その声がまた陽介の力になる。そして最後の締めは、もちろん最も長い間苦楽を共にしてきた相棒だ。
『決めてこい』
「おう!」
悠の発破で、陽介の決意と自信は更に強固になった。もはや負ける気はしない。これは乗り越えられる試練であると確信した。かつて特捜隊の事の始まりにおいて、テレビの中のコニシ酒店で陽介のシャドウに対峙した悠が、誰かに『守られている』が故に勝利を確信したように。
「やってやるぜ! 俺が最強でもいいじゃんかよ!」