高校生たちが特捜会議を終えて現実に戻ると、外では予報されていない雨が降っていた。3月から稲羽を離れた悠は意識していなかったが、皆によると近頃は天気予報が全然当たらないらしい。昨年は雨でも霧でも予報はかなり正確で、外れたことの方が少ないくらいだったのだが、今年はまるで駄目である。
堂島宅に戻った悠は夕食の準備をした。堂島は今日は泊まりになると連絡があったので、二人分を菜々子と一緒に作った。
「包丁使うなら気をつけるんだぞ」
「菜々子、大丈夫だよ。お兄ちゃんと一緒だもん!」
まな板の前に立って包丁を持つ菜々子は少々危なっかしいながらも、とても可愛らしいもので、悠は思わず微笑みが漏れた。シスコン番長と呼ばれるほど熱を上げはしないが、やはり可愛いものは可愛い。ショートステイ初日の2日の夕食の時と違って、素直にそう思えた。
(一昨日は忘れててごめんな、菜々子……)
3日の戦いでは、テレビに落とされているかもしれないとの話を途中で忘れてしまった従妹に向けて、悠は心の中で謝った。もちろん『愚者』らしく顔には出さない。しばらく見せていなかった笑顔を浮かべながら、菜々子の好物であるオムライスを作った。メインはエビフライでデザートにプリンもつけた豪華コースである。
「それでね、さんかん日にお父さん来てくれて、菜々子、ちゃんと手をあげて、もんだいに答えたんだよ!」
「そうか。菜々子は偉いな。叔父さんも行けて良かったな」
自分たちで作った食事を二人で食べながら、通算で三回目になる授業参観の話を聞いた。空気を読む悠は『その話はもう聞いたよ』とはもちろん言わず、同じ話にも飽きずに耳を傾け、相槌も打つ。
「えへへ……えらいでしょ!」
そうして悠は二人だけの家族の団欒を楽しんだ。菜々子との間にあった正義のコミュニティは失っているが、それでも楽しんだ。最後の夕食になるかもしれないから。従妹と一緒に食べる最後のという意味ではなく、人生で最後の。
0時になる前の深夜の時間、悠は自室でカーテンを開けて窓の向こうの雨音を聞いていた。堂島は連絡があった通り帰ってきておらず、菜々子はもう寝ている。
(勝負は明日か……)
直斗によれば悠が八十稲羽にいるうちに、つまり明日までに事件に動きがあるだろうとのことで、悠もその意見に賛成だった。犯人が自分がいる時を狙って行動するはずとは、自意識過剰な気がしないでもないが、やはりその可能性は否定できない。むしろあのプロモーションビデオのマヨナカテレビを思えば、大いにあり得る話だ。そうかと言って、自分を狙う犯人に心当たりはないのだが。たとえ足立が脱獄していたとしても、自分を狙ってこんな事件を起こすとは思えなかった。
(それとも今夜のうちか……。考えてみれば、去年は大抵昼間に戦ってたな)
昨年の事件のうち、殺人事件の解決の為に特別捜査隊が戦う時間帯はほとんどが昼間だった。例外は菜々子を助ける為に戦った11月5日くらいだ。
(叔父さんたちは霧の出る夜に戦ってて、有里さんたちは……影時間は深夜0時だって言ってたな)
0時と言えば、特捜隊にとってはマヨナカテレビが映る時間である。今さらながら、二つの組織における時刻の符合を感じた。
(今夜、きっと映るだろう)
悠は振り返り、視線を窓から自室のテレビへと向けた。仄暗い鏡には、鋭い目をした自分自身が映っている。菜々子との仲が後退した昨年の7月、諸岡の仇を取る為にマヨナカテレビが映ってほしいものだと思った。その時のことを思い出しながら、悠は左右が反転した自分自身と視線を真っ直ぐ合わせた。
「……」
鏡の少年は瞬きをしない。瞼によって視線は遮られず、自分自身の瞳を見つめながら悠は思う。
(もう明日までしかないんだから、映ってくれよ……)
悠が明後日以降もここに残ることを、堂島はきっと承知しない。それは転入し直した都会の学校があるからと、悠の両親が心配するからというのもあるが、堂島は悠が事件に関わるのを望まないはずだからだ。家族としての予定が終われば、叔父は必ず甥を家に帰す。それに逆らうのは意外に難しい。
自分がこの土地にいるうちに、何としても全ての決着をつけたかった。強い期待を持って、悠は0時になるのを待った。中に入った者の願望が反映し、時に外から見ている者の願望さえも反映するという深夜の番組が始まるのを、焦がれるように待った。
「……」
悠は携帯電話を開いて時刻を確認した。時計を見ながら決められた時が来るのをただ待つというのは、時間の流れが取り分け遅く感じられるものだ。今年のバレンタインデーから春分の日までの約一ヶ月が、一日千秋という言葉に相応しいほど異常な長さに感じられたように。学校の退屈な授業は終了時間がいつまでも来ないように。
(先生……)
悠はふと諸岡の授業を思い出した。転校初日の落ち武者呼ばわりと、自己同一性についての最初の授業。陽介と受けた補習や一人で受けた補習について。考える葦について教わった最後の授業や、海での釣りも振り返る。またあの倫理の授業を受けられたら、時間などあっという間に過ぎてしまうのだろうと、そんなことを思った。
再び時計を確認すると、予定された時間まであと僅かだった。5月5日が終わる直前、突然画面に明かりが入った。
『強い者が勝ち、負けた者が去る……今宵我々は、史上最も熱いドラマの目撃者になる!』
電源をつけていないテレビに映ったのは、巨大なイベント会場めいた場所だった。照明を絞った薄暗いフロアの中央にプロレスかボクシングで使われそうなリングが置かれ、満員の観客席が四方を囲んでいる。会場の正面奥には大きなスクリーンが置かれ、そこからリングへ花道が続いている。
「何!?」
悠は驚いた。マヨナカテレビが映ったこと自体はいい。予想通り、と言うより期待通りだ。だがいつもより早い。改めて携帯電話を見てみれば、デジタルの時刻表示は0時よりも二分ほど前だ。
『P-1ファンよ、準備はいいか?』
そうしている間にもマヨナカテレビは続いている。前と同じプロモーションビデオ風の代物で、同じキーワードが飛び出す。明らかに前のイベントであるP-1グランプリの、その続きという扱いだ。映像はリングから正面スクリーンへと移動し、そこに立つ軍帽とマントで仮装したクマと、それにしがみつく水着姿のりせが映る。
言うまでもないが、映っているのは本物のクマとりせではないはずだ。前回大会から引き続いての、イベントの主催者と実況である。ただしクマ総統の正体が、3日にスタジオから逃走したラビリスかどうかは、まだ分からない。
『全面戦争、勃発クマー!』
クマ総統が髑髏入りの杖をかざすや、タロットカードが天井から何枚も降りてきた。白く眩しいスポットライトに照らされて、花吹雪のようにも見える。そして出場者の紹介が始まった。
『世界に冠たるP-1のリングで、戦士たちが再び伝説を築き上げる!』
登場するのはもちろんP-1グランプリの出場者だ。ただし3日の0時に流れたそれと違って、特捜隊だけでなくシャドウワーカーも名前付きで映し出された。全員集合である。
『最強の称号を、今宵、その胸に輝かせるのは誰か?』
そして何人かは一人ではなく、相手と打ち合うシーンで紹介された。千枝は派手な胴回し回転蹴りを放ち、真田がそれをクロスアームブロックしていた。クマはなぜか堂島が相手だった。刑事は鬼の形相で警棒をふりかざし、着ぐるみも負けじと歯をむき出して野獣めいた爪を突き出す。ただしありがたいことに、キャッチフレーズはなかった。もし堂島に『可愛い菜々子はお前には渡さん』とかの煽り文句が添えられていたら、次に会う時にどんな顔をすればいいのか分からなくなるところだった。
『栄光の歴史に燦然と輝き、語り継がれゆく者は果たして誰か!?』
「陽介……!」
相棒、コミュニティを破壊した今でも敢えて言うが、相棒の陽介がラビリスと対峙する姿が映し出された。青い瞳のラビリスは満面の笑みで斧を肩に担ぎ、対する陽介もにやりと笑って短剣を手の中でくるくると回す。その映像に悠は歯噛みする。かの『機械の乙女』は、当の相棒の為に自分が倒すつもりでいる。その願望を嘲笑うように、プロモーションビデオの中のラビリスは陽介と戦おうとしていた。
『兵どもが夢の跡……グランプリ最終章!』
そして紹介映像の最後は悠と有里だった。長剣を持った悠は有里を鋭く睨みつけ、有里は腕を組んで相手を上から見下ろしている。若く血気盛んな挑戦者と、年季が違う歴戦の王者を思わせる対比的な映像だ。二人はリングに立っており、カメラは各々の正面を映した後に横に回り、そして最後に上へ回った。対決のリングの中央には『P-1』のロゴが金色で大きく描かれている。
『諸行無常のP-1クライマックス、まもなく……』
P-1クライマックス。大会の名前からしてやはり前回のグランプリの続きであり、そして決着をつけるべき舞台である。それはこのゴールデンウィークの数日間だけの戦いの決着ではない。一年前からの、事の始まりであった殺人事件から虚ろの森を経て、黄泉比良坂に至るまでの全ての戦いの終幕だ。大吉から大凶まで幅広く取り扱い、一つの場所に落ち着かない無常なる悠の人生の、その全てを懸けた決着の時が来た。
『カイマクマー!』
クマ総統の宣言と共にプロモーションビデオは終わり、画面は砂嵐に変わった。ただし今までのマヨナカテレビが終わった後のそれと違って、色は赤い。そして開幕までのカウントダウンが画面に映し出された。残り八秒から開始し、七秒、六秒へと数字が少なくなっていく。
そこで手に持ったままの携帯電話から電子音が鳴った。相棒からだった。
『悠! おい、見たか今……』
応答ボタンを押すと陽介の声が聞こえてきたが、それは急に途切れた。
「もしもし!? 陽介! ……まさか!」
陽介の身に何かあったのかと、悠は急な不安に襲われた。例えばラビリスが陽介を襲撃したとか。昼間にテレビの中を確認した時、ラビリスの反応はなかった。実は既にテレビの外に出ていて、深夜のこの時間に自宅を襲いでもしたか。グランプリの場外戦と違って今の陽介は万全で、クマも一緒にいるはずだからそうそう遅れは取らないだろうが──
(いや、陽介はともかくクマは現実ではペルソナを使えないはずだ!)
これは今すぐ助けに行くべきだと携帯電話を耳から離すと、違和感を覚えた。電源が切れていたのだ。
(?……)
充電してからそれほど時間は過ぎていないので、電池切れではないはずだ。しかし電源ボタンを押しても他のボタンを押しても、機械は沈黙したままだ。こんな時に限って故障したのかと、そう思った直後、部屋を闇が覆った。
「!?」
部屋の灯りが突然消えたのだ。テレビは元から電源を入れていないが、電灯も消えた。部屋を見回しつつカーテンを開けた窓に目をやると、街灯と向かいの家の灯りも消えていた。遠くに見える町の灯も全て消えた。文明の光が夜を侵略する前の暗黒だ。
停電かと思った。思った瞬間、更なる異変が景色を襲った。
「赤い……霧?」
地面から何かが浮かび上がってそのまま溜まるように、空気に色がついた。それは血の色と言うか、炎の色と言うか。宝石や夕焼けのように美しい赤ではなく、闇を含んだ暗い赤色だ。昨年に何度も町を襲った白い闇の霧と似ていて、しかし違うものだった。同じように人を惑わすものであるとしても、より強い悪意を感じる不吉な赤だ。
『ヤホーイ! 全国のP-1ヤローども、お待たせしまクマー!』
再び振り返ると、もはやお馴染みの姿が自室のテレビに映し出された。P-1グランプリの主催者で、今日の新イベントでも恐らく同じ立場であろう、クマ総統だ。葉巻を咥えた着ぐるみの顔だけで画面はほとんど埋め尽くされているが、背景も少しは見える。八十神高校の放送室、正しくはテレビの中のそれだ。
「お前……ラビリスじゃないな?」
普通のマヨナカテレビは普通のテレビと同様に一方的に流されるだけで、視聴者が画面に向けて語りかけても返事はない。しかしこれは違うはずだと、悠は勘が働いた。これは言わばテレビ会議で、相手もこちらの声を聞いているはずだと直感した。実際、グランプリでは悠は何度か画面越しにクマ総統と話したし、同じことを陽介たちもやっている。
だがもし今もそれが可能だとするならば、現実の『はず』のこの世界で、テレビの中と同じことが起こっているということ──
『ウッヒョー! センセイって意外と目が利くクマ? 前座のドサ回りとスーパースターの見分けはつくクマね!』
今のクマ総統はラビリスでないと判断した根拠は、先ほどのマヨナカテレビにラビリス自身が出場者として登場していたことから論理的に考えた結果であり、目利きで分かったわけではない。ともあれラビリスを『前座』とするなら、今映っているクマ総統は『真打』であると主張している。それを証明するように、総統の目は突然金色に光り、口調も変えてきた。
『さて……勘違いしないように言っておくが、今回の舞台はテレビの中ではない。お前たちが暮らす紛れもない現実だ』
「現実がテレビと同じになったってことか?」
昨年に現実の世界に何度も出た白い霧は、テレビの中から漏れてきたもののはずだ。だから同じ眼鏡で見通せるし、シャドウも出た。つまり元より霧の日の現実は、テレビの中に非常に近い状態だったのだ。違いと言えば、現実でのペルソナ召喚を試した11月20日には特捜隊は召喚できなかったことだが、今の悠と陽介は召喚できるはずだ。
『ふっ……何だ、あ奴と同じく愚かな人間かと思いきや、なかなか鋭いではないか』
「あ奴?」
『ふふふ……せいぜい楽しむといい』
特捜会議で口にはしなかったが推測していたことは、正解だったようだと悠は感じた。金のクマ総統の言い方は、自分は人間でないかのようである。人間ではなく、本質的にはただのシャドウに過ぎないラビリスの鏡像とは格が違うと言うなら、それはもう他と一線を画す存在だ。それほどの者ならば、マヨナカテレビを放映することも霧で町を覆うことも可能なはず──
「お前は何者だ」
悠は小細工が得意でない。だからストレートに聞いた。
『それは見てのお楽しみー! P-1クライマックスを最後まで勝ち上がれば、タルタロスライクなマイタワーでクマと握手できるクマ! ま、ダメダメなセンセイにはムリムリなくらい、ひっじょーにキビシーけど!』
追及をいなすように、クマ総統は目の色と口調を元に戻した。遊園地で特撮ヒーローと握手しようと言うように、悠を戦いへ誘う。ただ舞台らしき場所の名前は聞き慣れないものだった。
「タルタロス……ライク?」
ギリシャ神話に詳しくなく、シャドウワーカーの過去もほとんど聞かされていない悠には何のことか分からない。
『そーそー、タルタルソースじゃないクマよ! そんでは特別に、特設ステージの状況をお見せしまショー!』
クマ総統の説明はふざけすぎていて、なおさら分からない。意味不明な言葉の代わりとばかりに、舞台の一部を映像で見せてきた。テレビ会議は中継映像に切り替わった。
現代音楽風の不気味なBGMと共に流された映像は、赤い霧を背景にしたバルコニーのような場所で、三本の十字架が立っていた。教会によくある磔刑の図のように、三人の人間がそこに括りつけられている。
やがて現場を撮影するカメラはズームアップし、三人の姿が一人ずつ大きく映し出された。三人とも若い男だ。姉と似ているとよく言われる線の細い少年と、眉目秀麗な少年、ジャージを着た精悍な少年だ。先ほどのプロモーションビデオには登場していなかったシャドウワーカー稲羽支部高校生組の三人、尚紀と一条と長瀬である。古代にあった刑罰としての本物の磔刑と違って、幸いにも釘で手足を貫かれてはいない。両手を広げた体勢で、ロープで十字架に縛りつけられている。三人とも気を失っているようで、身じろぎもしないでいる。
「小西たち、捕まったのか!」
そして映像の奥の方には、十字架ではない真っ直ぐな鉄柱が一本立っていた。柱の上には金属製の檻が置かれており、今度はそこがズームされた。檻の中には二人の子供、と言うより生後半年くらいの乳児が閉じ込められて泣き叫んでいる。音楽に遮られて泣き声はテレビからは聞こえないが。それが数秒間映った後、画面にクマ総統が戻った。
『ヒャッハー! 囚われのベイビーちゃんと、おまけのヤローどもの運命やいかに!』
「人質のつもりか! しかも赤ん坊まで……まさか!」
悠は憤りを覚えながら、閃きが走った。二人の赤子が誰なのか分かった気がしたのだ。あの二人を、悠は3月20日にジュネスのフードコートで見ているはずだった。当時はベビーカーに乗せられていた赤子の顔を覚えるほどよく見たわけではないが、人質のつもりであるなら誰よりも相応しいから。
「有里さんの子供か……!」
『さあさあ、ノンビリしてる暇はないクマよ~! 勝ち上がらなきゃ、赤ちゃんどころか世界まるごと焼畑して、みんな一緒にサヨナラクマ! センセイ、ダーッシュ!』
それでクマ総統は消えた。テレビは元の鏡に戻り、怒りが滲む悠の顔を映す。外から照らす赤い霧明かりとでも言うべきものを受けて、悠の顔の傷も気のせいか赤く色づいている。人の気配が消えた町と家の静寂に、自分が息をする音だけが奇妙に鮮やかに響く。
「そうだ、菜々子!」
マヨナカテレビとテレビ会議が終わった途端の、この静寂にうすら寒いものを感じた。従妹が無事であるのか急に不安になり、自室を出て菜々子の部屋へ向かう。しかしドアノブに手をかけた時、迷いが湧き上がった。
もし菜々子が起きていて、『お兄ちゃん、怖い』と泣いてすがりついてきたらどうしようかと。こんなテレビの中のような異常な状況の家に、子供を一人で置いていいはずがない。しかし菜々子の傍についていては戦いに行けない。もちろん子供を戦場に連れて行くのは論外だ。
可愛い従妹か、戦士の義務か。どちらを選べばいいのか──
(……ええい! 迷うな悠!)
菜々子に泣かれたらどうするか、決めないままドアを開けた。10月の霧の日に絵本を読んでやって以来、入るのは随分と久しぶりだった。
「菜々子……?」
可愛い従妹はそこにいなかった。小さな子供用のベッドの上には、一つの棺桶が置かれていた。金属的な光沢を放ち、色はやはりと言うか今の空気と同じ赤と黒だ。頭を収める幅広の側が枕の上に乗っており、足を収める細い側は布団をかぶっている。
「菜々子!」
ベッドに駆け寄って布団を剥ぎ、棺桶に取りついた。蓋に手をかけて開けようとするが──
「ぐっ……!」
蓋はびくともしなかった。異様なほどに固い。釘を打たれているとか、そんな領域ではない。
「マガツ!」
一声呼んで、心の表に装着するペルソナを禍津神に変更した。ただし召喚はしない。勢い余って中身まで切ってしまう恐れがある以上、棺桶に長柄を叩きつけるわけにいかないから。膂力にも優れる万能型のペルソナの力を借りて、蓋をこじ開けようとした。
「ぬっ……!」
しかし駄目だった。例の見えない壁と同様に力尽くではどうしようもない代物のように、蓋は依然として動かない。歯を食いしばって力を振り絞っているうちに、またも勘が仕事をした。
(まさか……これが象徴化か?)
3月に有里に教わったキーワードが頭に浮かぶと共に、力を抜いた。そして足立の手紙にあった『棺桶に入っていた』という不思議な表現も思い出した。菜々子に限らず、ペルソナを持たない町中の常人は誰もがこうなっているのだとしたら──
(すると……これが影時間か?)
高校時代の有里が戦っていたという、シャドウの出現する時間帯だ。テレビの中を神聖空間とするなら、影時間は神聖時間だ。悠が力を得た時には永久に失われていたはずの、異界の領域が蘇ったのだろうか。真打たる今夜のクマ総統は、そこまでできるほどの存在なのか。
「菜々子……行ってくるよ」
悠は二年前の1月まで存在したという、オリジナルの影時間を体験したことはない。あったはずなのに知らなかった。それはつまり、棺桶に入っている人間はこの時間自体を認識できないということだ。人は夢も見ない深い眠りに落ちると、現実では何時間過ぎても当人にとっては一瞬にしか感じられないように、菜々子は自分がこうなっていることが分からない。そして二年前より以前の菜々子がそうであったはずのように、危険もないはずだ。悠はそう判断し、従妹に別れを告げた。
悠は一旦自室に戻り、八十神高校の制服に袖を通した。昨年から事件があってテレビに入る時には、ほとんど常に制服姿だった。最後まで同じスタイルを貫くつもりでいた。ちなみに眼鏡は3月20日に霧の源泉で捨てたので、今はもうない。
家から外に出ると、見渡す限りが赤い霧に覆われていた。テレビにあった白い霧と色は違うが、非常に近いものだ。情報系の能力を持たなくても、肌で感じられる。昨年の現実の霧よりも濃い。これならテレビの中と同様に、悠と陽介以外の特捜隊でも召喚できるかもしれない。純粋に感覚的な話だが、そう思えた。
(さっき陽介の電話が急に切れたのは、影時間になって携帯が止まったせいか。確か叔父さんも、機械が全部止まるって言ってたしな)
先ほどから頭が妙に冴えている悠は、半年前の記憶を引っ張り出すことができた。テレビから菜々子を救出した直後の11月6日の夜、堂島は事情聴取の中で『機械が全部止まって、人が棺桶の姿になったりする』のを見た経験がないかと聞いてきた。当時の悠は何のことか分からなかったが、これのことだったわけだ。
すると陽介はラビリスの襲撃を受けたわけではないのだろうと、悠は電話が切れた時に心配した件を思い直した。ではこれからどこへ向かうべきか──
(フードコートだな)
何はともあれ仲間たちと、取り分け仇持ちの陽介とは合流すべきである。ならば事あるごとに集まったフードコートを目指すのが最も相応しい。相棒も、或いは他の仲間たちもきっとそこへ向かっている。そういう予感がした。
しかし早速走り出そうとした悠の前に、行く手を遮るように扉が現れた。その後ろに建物も何もない状態で、中空に浮かぶ扉板一枚だけが、悠の目の前で青い光を放っている。さっきまでなかったはずのものが、突然現れた。
「……」
悠は少しばかり苛立ちを感じた。急いでいるこんな時にと、思わざるを得ない。しかしわざわざ出てくるということは、何か有用な情報が得られるかもしれないと扉に手をかけた。
「ようこそ、ベルベットルームへ」
契約者が通うこの部屋には2日の帰郷の電車内でも夢で訪れたが、自ら足を踏み入れるのは随分と久しぶりだった。悠から見て右側の席に、いつものようにマーガレットがいた。正面と左側の席には誰もいない。
「……どうも」
「焦っているようね。でもご安心なさいな。ここで過ぎる時間は外では意味をなさないから」
ベルベットルームで体感時間でどれだけ過ごそうと、外では一瞬にしかならない。これまで何度も通ってきたのだから、そういうものだと悠はもちろん分かっている。しかし気持ちはどうしても急くものだ。
「さて、いよいよこの時が来たわね。貴方にとって、今夜は決着の時……去年から続く試練の最後の仕上げと言ったところね」
「分かってます」
かつてクマと結んだ『契約』は既に果たされている。しかしその代償は悠の体内にあるままで、まだ終わっていない。今のこの試練は悠にとって二度目でも三度目でもなく、昨年からずっと続いている一つの試練である。形になって現れるものが、時によって殺人事件であったり別のものであったりするだけで、試されているものは常に一つだ。
即ち鳴上悠は何者か、何ができるのか。最初の授業で諸岡に投げかけられた、この問いに答えることだ。
「分かっているなら結構……でも一つだけ言っておくわ」
マーガレットは微笑んだ。それは砂場で遊ぶ小さな『弟』を見て微笑むというものではなく、巣立ちする若鳥を見てその行く末に幸あれと願うものでもなかった。
「私の妹たちにとっても、今夜が決着の時なの。覚えておいて」
「妹たち?」
誰と誰のことを言っているのか、一瞬分からなかった。マーガレットの『妹』と言えば一人だけのような、実と義理で二人いるような、でもやはり一人のような。悠は少しばかり混乱した。
「ふふ……誰のことかしら?」
対するマーガレットは笑みを絶やさない。これは『小姑』の微笑みである。我がままだったり気分屋だったり、或いは素っ頓狂だったりと何かと人を困らせる『妹』に、『姉』は散々手を焼かされてきた。その果てに、やっと現れた『いい人』に押し付けることができて安心すると共に、一抹の寂しさを覚えることも否定できず、少しくらいは意地悪もしてやりたくなり、その上で頑張りなさいと声援を送る。そんな笑顔だった。
(う……?)
悠は眉を動かしつつ、自分の胸に手を当てた。マーガレットの美貌に惑乱して心臓が跳ねたのではない。試練が今も続いている証、即ちテレビの中にあった霧が、悠の中で身じろぎしたのだ。なぜ動いたのか?
「さあ、お行きなさい。貴方の使命を果たしに」
悠は立ち上がり、無言で頭を下げた。
ベルベットルームから出ると、赤い霧の向こうに月が浮かんでいるのが見えた。自然の月は夜空に開いた小さな窓に過ぎないのと違って、今夜のそれは空そのものを飲み込まんばかりの巨大な光の塊だった。悠は思わず目を細める。
(眩しいくらいだな……)
二年前までの影時間における月もまたそうだったように、地球の衛星が本当に近づいている為に大きく見えているような。間もなく地上に落ちてきて、文字通りの意味で世界を滅ぼそうとしているかのような。そんな巨大すぎる月は真円を描いていた。今夜は満月だ。