八十稲羽の町は0時から影時間らしき状態になった。空気の色が変わり人が棺桶になるという、極めて分かりやすい異変であるから、何かが起きていることはペルソナ使いやそれに類する者にとっては一目瞭然だ。寝ていれば気付かないこともあるだろうが、5日は昼から雨が続いていたので、マヨナカテレビを確認する為に皆が遅い時間まで起きていた。そして誰も朝を待つことなく家を出た。雪子もその一人だ。
家族も客も従業員も、誰もが棺桶に入ってしまった実家の旅館を出て、雪子は一人で町を走った。3日から上部屋を二つ取っていた都会からの客たちは、5日の午後から出払っていたので、彼らに相談することはできなかった。その代わり、外に出るのを止められることもなかった。
そうして雪子は異界をしばらく走ると、勝負の現場に遭遇した。
「おいコラ! 俺の真似してんじゃねえよ!」
「ああ!? 真似してんのはてめえだろうが!」
ただし殴り合いや斬り合いではなく、口論だった。互いに力も論理も用いないので、ひたすら平行線を辿っていた。どちらもパイプ椅子を持っている。
「完二君が二人? どっちかがシャドウなの?」
赤い霧に覆われ、地面に原色の幾何学的な模様が浮かび、眩暈を誘われそうな商店街の一角。惣菜大学の近くで二人の完二が言い争っていた。現実なら強面の双子漫才として、周囲の注目を集めるのみならず通報されるかもしれない騒ぎだが、完二の母を始め常人は棺桶に入っている現状では、止める者はいない。
「あ、天城先輩!」
声が二つ重なった。雪子に向けられた二組の目はどちらも黒の三白眼で、金色ではなかった。
「うーん……どうすればいいんだろう……」
シャドウか本物かは情報系の能力があればすぐに見分けられるが、それがない雪子は外見や言動で判断するしかない。しかし服装や目の色は同じで、言うこともほとんど一緒である。今となっては懐かしいサウナのダンジョンに現れた『ガチムチ皇帝』であれば、本物と見分けるのに苦労はなかった。しかし今夜はどちらもそれらしさがない。
「あ、ペルソナ出せた方が本物って言うのは?」
「や、無理っしょそれ! ここテレビの中じゃねんすよ!」
「はっ! やる前から諦めるなんて、てめえそれでも俺かよ! 気合入れりゃいつでも出るんだよ! ペルソナ!」
一方の『完二』が召喚に成功した。例によってコミュニティが失われた為、ロクテンマオウではない。骸骨の意匠が施された黒い鎧を身に付けた巨体のペルソナ、タケミカヅチである。
「あ、出た」
「何い! クソ、てめえにできんなら俺にもできんだよ! 出ろぉ、ペルソナ!」
すかさずもう一方の完二も召喚した。もちろん同じタケミカヅチである。
「テレビの中じゃないのに、出せるんだ……」
「いや、だったら何で出せっつったんすか!?」
また声が重なった。ボケかツッコミかで言うなら普段の完二はボケる側だが、雪子と並ぶとツッコむ側に回る。特別捜査隊で雪子以上にボケるのはクマくらいだ。
ともあれ判別に失敗し、振り出しに戻る。ちなみに雪子と完二は実家同士に仕事の関係がある為、幼い頃からの知り合いである。しかし特捜隊の中で特に親しいというわけではない。むしろ距離がある方だ。もしグランプリでマッチメイクされていれば、どちらも遠慮はしなかっただろう。雪子と陽介は互いにかなり本気で戦ったように。
(二人ができるなら私もペルソナ出せるんだろうけど、どっちもやっつける……のは多分無理ね)
だから雪子は荒っぽい手段に訴えることも考える。しかし考えはしても実行はしない。それは仲間だからとかそういうことではなく、単に二対一で勝てるとは思えないからだ。たとえ不意を突いても一発で倒すことは無理だし、好戦的な完二の性格を思えば、いきなり攻撃されれば二人揃って反撃してくると予想できた。
(相手が直斗君だったら、完二君はやらないだろうけど……)
かの少女探偵が来てくれれば、この難問もきっと解決してくれるだろう。そう思った途端、ありそうもないことが起きた。
「天城先輩!」
「あ、凄い。本当に来た」
期待をかけていた当の仲間が、奇妙な商店街に本当にやって来た。偶然なのか、雪子の心の声を聞いて駆けつけてくれたのか、はたまた運命なのか──
「は、はい? と言いますか、この状況は一体……?」
雪子の物言いに直斗は戸惑ったが、二人の完二を見てすぐに気持ちを切り替える。同じ顔の人間が二人いるのは、特捜隊にとってはある意味見慣れた光景だ。ただし両方とも瞳が金色でないのは、あまりないケースだ。
「うん。この完二君たち、どっちかがシャドウだと思うんだけど見分けつかなくて。面倒だからもう二人ともやっつけちゃおうかなって思って。直斗君、ズバッとやっちゃってくれない?」
「ちょ、ちょっと! 何言ってんすか!」
「ズ、ズバッと!?」
直斗は自分の手で持つ武器としては拳銃を使うが、ペルソナは剣を持っている。ペルソナ自体が小さいので果物ナイフのようなサイズだが、ペルソナ使いの戦いにおいてそれはあまり問題にならない。斬ろうと思えば人でもシャドウでも斬れる。
「いきなり無茶なこと言わないでくださいって……」
雪子の言いたいことは直斗には分かる。本物ならば反撃しないだろうから、それで見分けろと言っているわけだ。しかしその策には問題がある。もし直斗が寸止めするつもりでペルソナに剣を振るわせて、シャドウだったら反撃されて痛い目に遭うのは直斗の方だ。そして本気で斬るつもりでやって、本物だったら完二は大怪我をする。
もし相手が千枝だったら、雪子もこんな提案は冗談でもしなかっただろう。同じ理由で、直斗は完二を相手にこの作戦は取れない。言葉と推理で本物かどうかを見分ける必要がある。
「でも二人とも言うことそっくり同じだし、ペルソナも出せたし。どうやって見分けるの?」
「ペルソナを? ……なるほど」
雪子の証言から直斗はあることに気付いた。そして二人の完二に向き合う。
「では、お二人とも僕の質問に答えてください」
「おう、何でも聞きな! 俺がホンモンだって、お前なら分かるはずだ!」
「おいコラ、人のセリフ取ってんじゃねえ! 直斗、俺がホンモンだって証明してくれよ!」
かくして探偵流のクイズ開始である。こういう場合、本物しか知らないはずのことを言わせるのが常道だが──
「三学期の期末テストで、君は赤点をいくつ取りましたか? 完二君」
質問の最後で、直斗は笑顔を見せた。普段の直斗は何か面白いことや楽しいことがあっても、はにかむくらいにしか表情を動かさないのだが、この時ばかりは違った。目尻を下げて口の両端を持ち上げ、にっこりと笑う。いつものクールさにギャップの衝撃が上乗せされて魅力が増す。もしクマがここにいたら『ズッキューン! ハートをブチ抜かれたクマー!』とでも言いそうだ。
「あ? んなもん、お前に教えた覚えはねえぞ!」
「な、ななななな……」
「七つ? それでよく進級できたね」
雪子は驚いた顔を見せたが、さすがの完二もそこまで落第点を取ってはいない。そして直斗は笑顔を消した。
「分かりました。偽物は貴方です」
直斗は完二の成績を詳しく聞いてはいない。だから正解が出たわけだが、正しかった方を直斗は指差した。いつものクールな顔で。
「あ、なるほど。ゆでだこになってる方が本物ね。直斗君、さすが」
クイズの解説は雪子がした。『完二』はいつも通りだが、完二は顔を真っ赤にして声も出せない状態でいる。雪子ではこうはできないし、千枝やりせでも無理だろう。
「ちっ……ここまで純な野郎だったとはな。ニコポとか、乙女かよ……」
言い当てられた『完二』は、呆れたように肩をすくめた。しかし策が破れて悔しがる素振りはない。本物の振りをしていたのは、ただの気紛れに過ぎないからだ。
「まあいい。隠す必要はねえって言われてるからな。ついノッちまったが、こっからはマジで行くぜ!」
そして赤い霧が覆う空へ向けて手を掲げた。悠と陽介の偽物がやったように、この完二の偽物もリングを出せる。相手が何人出てこようと、相手をするのは一人だけでいい。
赤いコーナーポストが四方に突き刺さるや、『完二』は目の色を金色に変えて正体を現す。ついでに口調も変える。
「さ~あ、お・あ・つ・い・バトルを始めましょうか~! サウナが火事になるくらい、くんずほぐれつ! イッてみよー!」
「出た、ガチムチ皇帝」
「や、やっぱりこういうのですか……」
直斗は帽子のつばを下げて目を伏せた。特捜隊に最後に加入した直斗は仲間のシャドウの狂態を見てはいない。12月7日に足立が出した三段テレビで一瞬だけ見たのと、グランプリの一回戦でラビリスの幻によって、完二がそれらしいことを言ったように聞こえただけだ。例のキャッチフレーズからして、完二のシャドウは自分のそれなど及びもつかない強烈なものだったのではと思っていたが、案の定で居たたまれなくなる。
「最初はどなたかしら~? あ、複数プレイはダメよ~ん? 男らしく一対一でお願いね~?」
『悠』と『陽介』はどちらも『相棒』を相手として指名したが、『完二』は選択権を本物たちに委ねてきた。見えない壁は既に展開されている。誰がリングに残って誰が出るか、決めるのは直斗たちだ。
「どうしよっか。誰が一番相性いいかな?」
「僕がやりますよ」
直斗は帽子のつばを上げ、懐から拳銃を取り出した。完二と相性がいいとはあまり思えないが、ここは自分が戦わねばならない気がしていた。なぜと言われたら困るところだが、とにかくそんな気がしていた。
「あら、直斗君から? ホントにいいの? 僕は偽物だからね~……お前でも殴れるぜ!」
『完二』は得物のパイプ椅子を振り、威嚇するように地面に叩きつけた。膂力に限れば『完二』は直斗とは大違いである。本気の打撃を一発でも受ければただでは済まない。しかし少女探偵は怯まない。
「僕も偽物に容赦はしませんよ。本物にはできませんが」
探偵らしくない非論理的な理由で戦う決心をする。しかし──
「待ちな、直斗。こいつは俺がやる」
口もきけない純情なゆでだこ状態から、いつの間にか復帰した完二が名乗り出た。直斗の肩に手を置いて下がらせ、自分が前に出る。そうしながら体を横にずらし、直斗の視線を遮る。金の瞳の『自分』を見せないように。もしくは『自分』から直斗を庇うように。或いはそのいずれでもなく、ただ自分の背中を見せるように。
「漢にはよ……てめえで乗り越えねえといけねえ時があんだ。お前もいつかそういう時が来るから、ここは俺に任せな」
「完二君、直斗君は男じゃないよ?」
「漢に性別は関係ねえっす!」
文字にせず口で言っているだけだと、どこか誤解を招きそうなセリフである。しかし完二は余計な解説などしない。力を込めて断言するだけだ。後は背中で語る。
「……分かりました。お任せします」
直斗は再び帽子のつばを下げ、踵を返した。P-1クライマックスは始まったばかりなので、直斗は自分たちを取り囲む赤い柱を見るのは初めてだ。しかしこの領域から出たら、もう完二を手助けできなくなることは察せられた。そうしながらも、KY探偵らしくもなくリングから出た。
「何かみんな、カッコつけるね……」
そして雪子も出た。思えばこの一連のP-1イベントが始まってから、特捜隊の仲間たちの言動が以前から変わったような気がしていた。グランプリを戦い抜いた陽介もそうだし、今の完二もそうだ。雪子は仲間の男性陣に対して、『カッコいい』という印象を悠以外に持ったことがない。しかし今は違う気がした。
かくして完二と『完二』が対峙した。
「やれやれだぜ、とっとと俺ん中に戻りやがれ!」
「あれれ~? 君って受けだったっけ?」
『完二』の言い方はあからさまだが、完二はいちいち応じはしない。『完二』が持つのと同じパイプ椅子を振って地面に叩きつける。異界のアスファルトがへこみそうな大きな音がする。
シャドウが現れたら問答無用で叩きのめす。悪鬼悪霊にはまず力を示し、話をするのはその次。それが特捜隊のやり方であり、確立したのは悠だ。もっとも菜々子のシャドウが現れた時など例外もあったが、基本はそうである。完二にとっては分かりやすくて気に入っている方法だ。今夜もそれに則るつもりで、早々に挑みかかる。
「去年みてえにキツい一発をくれてやらあ! 覚悟はできてんだろうな!?」
「嬉しいねえ、お礼に僕からもくれてあげるわ!」
そして『完二』も『僕を殴るのかい? 自分の弱さを否定して見ない振りをするのかい?』とかの余計なことは言わない。二人ともほぼ同時に得物を振りかぶり、叩きつける。鍔はないが鍔迫り合いを繰り広げる。
「タケミカヅチ!」
「タケミカヅチ!」
そして二人とも同じペルソナを召喚し、電撃を落とす。
「ん? あっちの完二君って、本物から出たシャドウじゃなくて偽物?」
「どちらもペルソナを出せていますから、そうなのでしょう。3日のグランプリで出た花村先輩のシャドウもどきと同じでしょうね」
ペルソナ使いから再びシャドウが出れば、ペルソナを使えなくなる可能性が高い。これまで特捜隊が知る限りで実例はないが、そう考えるのが妥当だ。そしてペルソナはシャドウが変じたものであるから、シャドウはペルソナを使えない。よって『完二』は完二の本物のシャドウではない。クマ総統の解説がなくても、雪子と直斗はそれに気付いた。
「俺に雷は効かねえぜ! んなことも知らねえたあ、それでも俺かよ!」
「それは僕のセリフ! つーか、ちょっとは効いてるでしょ! 僕らのペルソナ最初のに戻ってるんだから!」
「でも完二君、気付いてなくない?」
雪子の心境は少し複雑なものになった。完二は以前と変わったと思ったばかりなのだが、変わっていない部分もある。思い込みが激しい。
「まあ……大した問題はありませんよ。倒せばいいだけですから」
「うっせーぜコラァァ!」
完二はパイプ椅子を横向きに振り回し、座面で『完二』の顔を引っぱたいた。衝撃で偽物の顔が歪み、元から赤い頬が更に赤みを増す。そして血、ではなくて金色の光の粒が口から零れる。
「ぬううん! 愛のビンタ!」
『完二』ももちろん黙ってはいない。同じように完二の横っ面を張り飛ばす。やはり細かな光の粒が完二の口から噴き出し、天へと昇っていく。二人が吐き出す光は、頭上にもあるはずの見えない壁をすり抜ける。
「あれは……?」
殴り合う完二たちは光の粒を気にした様子はない。と言うより、互角の勝負をしている二人にそんな余裕はない。しかし外から見ている直斗は光を目で追う。それらは一瞬渦を巻いて、真上に向かって飛ぶ。しかしリングの領域を超えて霧に触れると、砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、或いは粒自体が目的地を理解しているように全て同じ方向へ飛んで行く。自ら戦わず観戦しているだけの直斗は、それに気付いた。
「あっ、椅子が……」
雪子の声で、直斗は光の粒を追っていた視線をリングに戻した。二人が互いにパイプ椅子をぶつけ合って、二脚とも留め金が外れて壊れてしまったところだった。椅子で引っぱたくのはプロレスでは反則技の定番だ。しかしペルソナ使いの戦いでは、もちろん反則ではない。刃物や銃器を使う者が多い中、椅子はむしろ優し気でさえある得物だ。それを全力でぶつけ合えば、いずれはこうなる。
「けっ! てめえなんざ拳で十分だぜ!」
「いやーん、マジのガチで肉体のぶつかり合いー!」
完二は椅子の部品を放り捨て、固く握った右の拳を大きく振りかぶって叩き込もうとする。しかしカウンターで『完二』が前蹴りを決めた。ただし千枝がやるような爪先を当てる綺麗な蹴りではなく、足の裏をぶつける、いわゆるヤクザキックだ。
「てめえ! 男なら拳で来い、拳で!」
「ケチなこと言わなーい! 肘でも頭突きでも、第三の蹴りでもいいのー!」
二人のぶつかり合いは続く。鍛えられた肉体同士が衝突し合い、ゴツンと鈍い音が異界の商店街に繰り返し響く。どちらも防御にあまり気を遣わないので、派手な乱打戦になる。P-1クライマックス予選第三試合は、それまでの二試合と違って対戦者の実力が拮抗しているので、長く続いた。しかし少しずつ『完二』が有利になってきている。
「うらあ!」
完二の気合を込めた大振りのパンチを『完二』は寸前でかわし、懐に飛び込んで完二の首を脇に抱え込んだ。フロントチョークだ。首の関節が極まりやすく危険なので競技によっては反則になる技だが、もちろんデスマッチでは有効だ。
「うりゃー!」
すかさず『完二』は膝蹴りを放つ。人体の中でも硬い部位の一撃が鋭く決まり、打撃の威力は腹筋を突き抜けて内臓にまで響く。単なる痛みではない衝撃は、気合だけでは耐えられない。完二は一瞬息が詰まり、思わず腰が浮く。
「がっ……!」
「うーりゃー!」
妙に間延びした掛け声と共に、『完二』は膝蹴りの勢いのまま反り投げを打つ。腰を浮かされた完二は踏ん張ることができない。投げられるのは、もはややむを得ない。せめて首を折られないよう、完二は全身に力を入れて耐えた。
「ぐううう……!」
「スープレックス! 決まりー!」
「ぐはっ……!」
一際大きな音が響き、完二は背中から地面に叩きつけられた。投げ技は本来は拳や蹴りより威力が大きい。柔道のように畳の上で戦い、かつ受け身を取れれば比較的安全だが、アスファルトやコンクリートの上でやられた場合の効果は絶大だ。いわゆるステゴロでありながら、鈍器で思い切り打ち据えられたようなダメージを完二は受けた。
「クッソだらあ!」
それでも立ち上がり、再びパンチを振るう。しかし『完二』はそれをいなして胸倉を掴み、勢いをつけて押す。そのまま見えない壁に叩きつけ、再び背中に衝撃を与える。そして引きずり回す。
「完二君、落ち着いてください! 攻めが単調になっています!」
「ぬおおお!」
「駄目、聞こえてない……!」
実力は互角のはずの偽物相手に完二が不利になっている理由は明白だ。パイプ椅子が壊れてから、完二は拳で十分との自分自身のセリフに縛られているように、拳ばかりで攻撃しているからだ。対する偽物はそんな本物の意地は知ったことでなく、蹴りも投げも遠慮なく使う。技の幅の広さは、実力における重要な要素の一つである。
「えいっ!」
本物を引きずり回した挙句に、偽物は再び投げを打つ。胸倉を掴んだまま足を払って引き倒し、背中から落とす。柔道で言う体落とした。そしてそのまま本物の体を跨ぐ。仰向けになった完二の胴体を、自分の股で挟み込む形で上を取る。馬乗りの体勢、格闘技の用語で言えばマウントポジションだ。
「さあ~て、耐えられるかしらん?」
『完二』は笑みを深め、拳を固く握った。この体勢は上を取った方が圧倒的に有利である。なぜかと言うと、殴るのも首を絞めるのも上からなら自由にでき、下の側は反撃の手段が非常に限られるからである。総合格闘技ではこうなると勝負はほぼ決まりだ。
「せーの!」
金の瞳を楽し気に歪める『完二』は、完二の顔面に拳を叩き込んだ。体重が乗った打ち下ろしのパンチはいい音がした。もちろん一発では終わらず、連続して放たれる。完二は両腕を顔の前で交差させて防御するが、全ては防げない。殴り放題の『完二』は完二の腕の横から隙間から打ち、いくつかは顔に届く。
「完二君!」
直斗は見えない壁を両手で叩いた。しかし破ることはできない。初めは自分が『完二』と戦うつもりでいたのに、どうして完二に譲ってしまったのかと、今になって後悔が湧いてくる。助けに行けるなら行きたいが、それができない。見えない壁はびくともしない。
「あっはっはー! 複数プレイはダメって言ったでしょー! こいつがイッたら相手してあげるから、もうちょっと待っててねー!」
『完二』は拳を大きく振りかぶった。ペルソナ使いとしての完二と同じ力がそこに集中する。全力を込めた一撃を受ければ、完二は逝く。もとい死ぬ──
「てめえが逝けよ!」
完二の目が光った。完二の考えでは、この自分と同じ顔の存在は何としても自分が倒さないといけなかった。自分の『業』は自分で決着をつけなければならないことは言うまでもないが、それ以上に直斗にやらせるわけにはいかないから。もはや手段を選んではいられない。直情的な完二には珍しく、器用なことをした。自分の後ろに何があるのか知る男は、勝負に拳以外のものも使うことを自分に許した。
「ん? なあにい?」
渾身の一撃を放とうとした『完二』は、急にその拳を止められた。背後から何者かが腕を掴んできて、眼下の完二にとどめをくれてやる拳を引き止めている。馬乗りの体勢のまま上半身をねじって振り返ると、黒い巨体が見下ろしていた。タケミカヅチだ。
「あらっ……」
マウントポジションは上を取った方が有利だが、それは普通の格闘技の試合のように一対一であることが前提だ。複数人が入り乱れる集団戦では、こうした寝技は危険である。一人の敵の上に跨っている状態で他の敵が襲ってきたら、素早い対応ができなくなるからだ。やるなら組み打ち術で鎧通しを突き刺すように、即座に決めなければならない。それをしないで悠長に殴り続けているものだから、『完二』は反撃を食らった。
タケミカヅチは『完二』を引っこ抜いて、そのまま振り回した。膂力に特化したタイプであるだけに、高校生にしては体重が多い方である『完二』を小さな荷物のように振り回し、ハンマーを投げるように回転しながら放り投げた。『完二』は三メートルほども飛んで見えない壁に顔面から当たり、跳ね返って地面に仰向けに倒れた。
「行けっ!」
完二が叫ぶや、タケミカヅチは更に動いた。鈍重そうな巨体のペルソナだが、ここぞという時は機敏である。まさにケンカの達人がするように、虚を突かれて体勢が崩れた相手に素早く肉薄する。
「串刺しだあ!」
日本神話で語られる雷神のペルソナは右手に剣を持っている。稲妻の形をしたそれは雷を帯びているが、剣としての属性も持っている為、電撃に強い『完二』にも効く。タケミカヅチは倒れた相手の心臓に剣を突き立てた。偽物の体を貫通し、地面に縫い付ける勢いだ。鎧通しの容赦ない刺突のように、完二の殺し技は敵の急所を見事に打ち抜いた。
「あああ~ん! ぶっといのでイク~ん!」
勝負は決着した。逆転の一撃を受けた『完二』は『悠』と『陽介』と同様に、あっという間に形が崩れて黒い泥と化す。唇を尖らせた嫌らしい顔も、周辺から崩れて泥に飲み込まれる。ホラー映画のような光景である。体も服も見えなくなった泥溜まりは音を立てて泡立ち、やがては液体すら残らなくなる。そんな恐ろし気な『死体』から、美しいとさえ言ってよい金色の光の粒が多量に飛び出した。
直斗は光を再び目で追い、完二は泥濘と化した『自分』に目を見開く。
「あ、ありゃ? 俺のシャドウ、溶けちまいやがった? 俺の中に戻るんじゃねえのかよ?」
そうしているうちに、四本の赤いコーナーポストが音を立てて割れた。直斗は見えない壁が消えたことにすぐに気付き、完二に駆け寄った。
「あれは君から出たシャドウではなく、ただの偽物です。どうしても君が戦わなければならない相手ではなかったんですよ」
「そ、そうだったんか……けどよ、やっぱお前にやらせるわけにはいかねえんだよ」
直斗は表情を変えた。それは自分の非力を悲しむような、非力と思われたことを怒るような、どちらとも取れる顔だった。
「君に守ってもらわないといけないほど、僕は弱いつもりはありませんよ」
特捜隊の中で直斗は最も遅くに加入した為、実戦経験の量は最も少ない。もし直斗が『完二』と戦った場合に勝てたかどうかは、かなり疑わしい。全方位型で器用なタイプの直斗のスクナヒコナは、完二の弱点である疾風属性の攻撃も可能だが、威力が低いので耐久力に優れた『完二』を倒し切るのは難しいだろう。そして一度でも捕まって投げ飛ばされでもすれば、完二とは逆に耐久力に欠ける直斗は一気に不利になる。マウントポジションから殴られれば、命まで取られかねなかった。
だから直斗のこの言葉は一種の意地である。しかし完二は受け入れない。
「そうじゃねえよ。たとえニセモンでも、俺の顔した奴がお前を殴るのを見てられっか」
完二は赤くなった自分の顔を見せながら、直斗を真っ直ぐ見る。この赤さは照れてそうなっているのではない。偽物に散々殴られたせいで、腫れが出始めているのだ。目の下や唇の端など切れているところもあり、まさにケンカの後の不良の顔というもので痛々しい。だがこれは直斗の為に負った傷である。
「……しかし……」
直斗は帽子のつばを下げた。反論の言葉は思いつくのだが、口から出てこない。直斗は堂島が言うような、男の顔は傷や痣があった方が良いなどと前時代的な趣味はないのだが、思わず宗旨替えをしてしまいそうになる。傷のある完二を直視できず、しかし顔を背けることもできないので帽子越しに完二を覗き見る。言葉少なに、二人だけで視線を交換する。
「直斗君、完二君に乗り換えるんだ……」
そこへいきなり爆弾が投げつけられた。投げたのはもちろん雪子だ。自分もここにいることを後輩の二人に揃って忘れられてしまったので、自分の存在を主張するように。或いは悪気はないものの、仲間が隠していた真実を暴露するように。
「な、ななななな何言ってんすか、あんた!」
真の意味での男らしさを示した漢は、言葉の爆弾で吹き飛ばされた。代わってゆでだこの乙女が戻ってきた。
「だって直斗君が下の名前で呼ぶのって、他にいないし。いつの間にそうなったの」
「ぐお!」
ゆでだこは串で刺されたように仰け反った。雪子の言う通りである。完二は自分を名字で呼ぶのは仲間たちの中で直斗だけだと言っていたが、直斗が名前で呼ぶ仲間はこれまでいなかった(クマは例外とする)。グランプリで失格になった時、自分だけ特別な呼び名で呼べと要求していたことに、完二は今になって気付いた。
「の、乗り換えるも何もありませんよ! バスや電車じゃないんですから!」
「そうだったね、ごめん」
そうなのである。元より直斗は悠と付き合っていたわけではないのだから、乗り換えるも何もない。もし直斗に恋人ができれば、それは初乗りに等しい。そしてそれは雪子も同様である。
雪子は初々しい二人から目を離し、異界の空を見つめて過去を思う。昨年のかなり早い時期、特捜隊に加入してあまり間もないうちに悠とは仲良くなった。家業に関する悩みを聞いてもらったり、しつこいマスコミについて相談に乗ってもらったりした。いつの間にか好意を抱いていたが、雪子はそれを相手に伝えたことはない。そして悠から好意を伝えられたこともない。
悠が好きなのはマリーだ。時期によっては結実やあいも含まれたかもしれないが、いずれにせよ雪子は一度もその中に加わったことがない。しかしマリーは2月に死んだ。そして悠は結実とあいとは既に別れている。今の悠は自由の身なのだ。
(実は今がチャンスなんだよね……)
我ながら黒い考えだと思う。しかし考えはしても、それだけだ。何か具体的な行動を起こす気にはならない。悠の傷ついた心に付け込んで、もとい寄り添って、今度こそ悠を手に入れようという気持ちが湧いてこない。むしろ悠以外の、他の人の方が目に付く。
(そっか……もう終わった恋なんだ)
特捜隊の他の仲間たちのそれと同様に、女教皇のコミュニティも失われている。もちろん魔術の絆の存在を雪子は知らないから、自分の心の動きの原因までは分からない。しかし今この時に、自分の心で起きている現実を認めることはできた。