精神と物質の狭間にあるという部屋で、鼻の長い老人がある少年の未来をタロットで占った時、二枚目で月のカードが正位置で出てきた。老人によると、それは『迷いと謎』を示すものであるとのことだった。
月のカードがそのように解釈される由来としては、マルセイユ版やウェイト版の寓意画に描かれる二匹の犬と、二つの塔もしくは門柱らしき建物が挙げられる。これらは同一の存在でありながら性質が異なるもの、端的に言えば双子を象徴し、転じて対立や葛藤を意味している。寓意画にはそれに加えて、湖から地上に上がろうとするザリガニが描かれている。これは対立によって生じる迷いや不安定さを乗り越え、月の朧な光を頼りにして、前へと進まねばならないことを暗示している。
なお、寓意画に対立や相反する存在が描かれているのは、大アルカナの順番においては月の次に来る、太陽のカードにおいても同様である。即ち月が示した迷いは、太陽に至っても解決はしていないと解釈できる。
ここで一つ、余談を述べる。世界の多くの神話では月の神は女神とされており、タロットでも寓意画の月は女性的だ。しかし日本神話では例外的に男神とされている。そして『彼』にまつわる伝承は極めて少ない。食物の神を斬り殺したとの逸話があるくらいで、実態は不明確だ。創造神の数多いる子の中で最も貴い一柱で、主神である太陽神の『弟』という、極めて正統的な出自を持っているにも関わらず。それは日本神話が編纂された時代に時の支配者の意向を受けて、月神は太陽神と性別を逆転させられた上で、本来は数多くあった神話を削られたか、他の神の業績に置き換えられたとの説もある。
『……皆、考えることは同じか』
『ん? 何か言ったか?』
『何でもない』
大アルカナを元にしたカテゴリーにおいては、月と太陽を各々の象徴とする『二人』は八十稲羽に住んでいる。傍目には一人にしか見えないのだが実は二人いる者たちは、自宅としている一軒家で電源の入っていないテレビを見ていた。同じ頃、足立が自宅のアパートで見ていたように、二人も見ていた。降り続く雨が電気と電波の代わりをしているテレビは、西洋の城めいた建物の門前で、少年二人と少女一人、そして一匹の着ぐるみが話し合っているシーンを映し出していた。
『なあ鳴上……。俺、お前に俺らのリーダーやってもらいたいんだけど』
『俺が?』
『最初にこの力を手に入れたのお前だし、戦うのもお前が一番凄いだろ。今までも結構俺らに指示してくれてたりすんじゃん?』
『あたしも賛成かな。君がまとめてくれるなら、何か安心』
『クマも賛成かな。君がまとめてくれるなら、夜も安眠』
着ぐるみが下手なシャレを言ったが、それはテレビの中の誰からも無視された。
『分かった。任せてもらおう』
『じゃ、決まりな。俺は参謀ってことで!』
『クマは何クマか?』
『お前は鼻を効かせて、被害者やシャドウの居場所を探るわけだから……情報担当だな。里中は……肉担当?』
『はあ!? 何ですって!』
『じょ、冗談だよ! えーと……切り込み隊長?』
連続誘拐殺人事件の特別捜査隊を自称する面々は、シャドウの巣窟へと向かっていった。するとこの『番組』のカメラは、四人組の背を大きく映し出した。皆が目的の達成を疑っていない。誰も口にはしなくても、そういう一種の楽観が四人には伺えた。『視聴者』が映像に悲壮感の類を見出さずにいるまま、やがてカメラはズームアウトした。画面は城の全景とそこに挑む者たちを、一枚の絵として映し出した。
(遊びの城……とでも言うべきか)
実際のところ、この映像だけを切り取れば遊園地に遊びにいく仲良しグループのようである。マヨナカテレビを見ている二人は、本物の遊園地に行ったことなどないのだが、ある程度は想像がついていた。情報社会の現代では、実際に行ったことがない場所であっても、そこの雰囲気を感じ取るのは難しくないから。
そしてその後の『番組』の経過は、まさに遊園地のアトラクションのようだった。足立は特撮ヒーロー番組と思って見ていたが、二人にはそれにさえ見えなかった。テレビに映し出されている戦いは、あらかじめシナリオが決められた出来レースですらない、ただの遊戯に見えていた。なぜなら少年少女たちの前に立ち塞がる敵たちは、どれもこれもあっさり倒され過ぎなのだ。理不尽なほどに。本物の殺し合いというものを知っている身にすれば、甘すぎるくらいだ。
『そうね……確かに、私の気持ち。貴女は、私だね……』
和服を着た少女が、自分の顔をしたシャドウを自らのペルソナとした今晩の放送の最後の戦いに至るまで、終始そのような調子だった。
もちろんどんな戦いでも、実力差があれば一方的になって当然だ。しかし二人の目から見ると、テレビの中で戦う者たちは蠢くシャドウたちと比べて特別強いとは思えない。むしろ素人同然だ。これで犠牲者はおろか大きな負傷者さえ出さずに目的を達成してしまうとは、一体どういうことか。
敵の能力に、何らかの制限がかけられているのではないか。戦い慣れしていない子供たちが滑って転んで死んでしまわないように、過保護な親のような『誰かさん』がシャドウに手枷や足枷をしている。そんな疑いさえ抱けるほどに、とてつもなく甘い戦いだった。
『雪子!』
『大丈夫か?』
そして戦いの容易さそれ自体が、少年少女たち自身の心理にも影響を与えている。番組の視聴者として客観的な立場にいる二人には、そう見えた。
『うん、少し疲れたみたい……。みんな、助けに来てくれたのね……』
『当たり前じゃん!』
「……」
月を象徴とする存在はベッドの上に腰を下ろし、腕組みをしながら、電源の入っていないテレビを黙って見つめている。十字の傷がある顔は完全な無表情を保っている。テレビから流れてくる青春劇に、何も感じるものがないように。
太陽と月の二人が見ているテレビは、ベッドの前にあるローテーブルの上に置かれている。今月15日の24時から始まったマヨナカテレビを見た後に、太陽の少年が頭突きで壊してしまったテレビが置かれていたのと同じ場所だ。ベッドから下りれば、一歩進むだけで画面に触れられる位置である。しかし月の存在は座ったまま身動ぎもせずにいる。すると心の中から下手なダジャレが聞こえてきた。
『くさい! お城に和服とか、コクサイテキにクサイ! 何つって!』
ダジャレを聞いても、月の存在の表情は微動もしない。笑いもしないし、呆れもしない。もちろんツッコミも返さない。聞いてはいるのだが、それに対する反応は示さない。
二重人格──
医学的には解離性同一性障害と呼ばれる精神疾患があるが、その患者の中には、性格が真逆の二つの人格を宿す場合がある。この二人の関係はそれと同じではないが、似てはいた。二人の出自や過去を知らない人間が見れば、二重人格者だと誰もが考えるだろう。実際は違うのだが。
『ミナヅキ! ボサッとしてんじゃねえよ! お前ならテレビ入れんだろ! 行こうぜ! シャドウを狩りによお!』
「駄目だ」
朝が来れば月は太陽に追われ、夜が来れば太陽は月に追われる。日月はどちらも天空に住まうが同時に君臨はしないように、二人は同時に表に出ることはできない。だから二人が話す時は、傍からは独り言を喋っているようにしか見えない。
『あんでだよ!』
「入ったら最後、出られなくなる可能性がある」
しかし外からは見えなくても、二人の間に会話は成立している。太陽の少年は激しやすく、ほとんど常に言葉は荒いが、月の存在はそれに怒ったりしない。どれだけ乱暴な物言いをされても、静かな口調で返す。そしてダジャレを言われても笑わない。それが常だ。だから太陽の少年も笑えよと怒鳴るようなことはない。
『あのゆるキャラ、スタジオみてえなトコにいんだろ! 出口出せって、脅しゃいいだけだろ!』
「それをやれば、鳴上たちに君の存在が知られる」
『いいじゃねえか! 奴らもバラしてやんぜ!』
それはできないことではない。と言うより、いとも容易いことだ。戦いを始めたばかりの、しかもぬるま湯しか経験していない素人たちなど、この二人の相手ではない。太陽と月、どちらが表に出て戦っても、十秒もあれば皆殺しにできるはずだった。たとえ本当に『誰かさん』がシャドウに枷をはめて、少年たちを支援しているのだとしても。元の実力が違いすぎるので、それさえ問題にならない。だが月の存在が案じているのは、そういうことではない。
「テレビの中で殺せば、死体がアンテナや電柱に上がる。そうすると警察が動く」
『だから何だよ! ケーサツごときに僕が捕まるか!』
「翔、落ち着け」
それが太陽の少年の名前である。
『だってよ……』
月の存在に名前を呼ばれた少年は、勢いが急に削がれた。他の子供が遊んでいる玩具を自分も欲しがって、大声で泣き喚いていた子供が、親に諭されて黙るように。もっとも少年は叱られたのでも脅されたのでもない。もちろん家庭の経済事情を懇々と説明されたのでもない。それでも大人しくなった。他人に対しては聞き分けなく我がまま放題に振る舞う子供が、親に対してだけは素直になるように。
「警察は桐条と繋がっている。奴らがどう動くか、まだ読みきれん。今は様子見だ」
『分かったよ……』
少年は『親』の言うことに従った。しかし次の瞬間には、また別の玩具に目を付けた。
『でも霧が出たら外には行くぞ! キリん中じゃあ、キリ捨て御免ってな!』
(本当はそれも控えてもらいたいんだが……)
月の存在は心で思っても、口には出さなかった。二人は同じ体を共有しているが、会話するには声を出さなければならない。心の中だけで思っていることは、相手には伝わらないのだ。それは表に出てこない側も同様で、動かす口がない状態でも『声』として届けなければ、相手には聞こえない。もっとも声、つまり言葉だけを届けても、それで完全に意思の疎通ができるかどうかは別問題だ。その点、この二人は普通の人間同士よりずっと近い距離感の関係を築いていると言えるが、それでも完全ではない。
映像の消えたテレビから月の存在は視線を外して、ベッドに置かれたノートパソコンを操作し始めた。そしてハードディスクに保存された一つのファイルを展開した。
──
しかしモニターに表示されたのは、意味不明な記号や数字の羅列である。見ているだけで目眩を起こしそうになる。
「奴らは脇が甘い……」
『当ったり前だ! 僕のハッキングはあのクソ野郎仕込みだからなあ! 低能どもに気付かれるかよ!』
ファイル名は『project_puppetmaster』。日本語に訳すと『人形遣い計画』と言ったところか。このファイルは最近、太陽の少年がハッキングして見つけたものだ。もちろん痕跡は残していないので、侵入された側は何も気付いていない。
ちなみに太陽の少年がコンピューター技術を学んだのは、十年以上昔の話だ。日進月歩の分野で当時の技術がそのまま使えるはずはないが、基礎はしっかり仕込まれているのと、元よりそちら方面の才能が少年にはあった。
「確かにな。奴らは俺たちの正体はおろか、存在さえ知るまい」
調べたところ、このファイルには十年以上に渡ってアクセスされた形跡がなかった。つまり作成した者以外は、ファイルの存在自体を知らないはずだった。
モニターに表示されている記号や数字は、暗号化されたファイルの中身である。この二人も全体の解読は済ませていない。作成者の心理を投影したような、他人はその意味を知り得ない混迷の海だ。しかしその中で一ヶ所だけ、小島のように浮かんでいる文字があった。日本語で『皆月翔』とある。前後の文脈は記号だらけでまるで分からないが、とにかくその名前だけが、人間が認識できるただ一つの光としてそこにあった。
「だが君の名前が記録されている以上、知られる可能性はゼロではない。行動は慎重にすべきだ」
『けっ……!』
皆月翔──
他人には見えない場所で悪態を吐く少年は、そういう名だった。そして少年に助言を与え、見守る存在も同じ名で呼ばれていた。
魔術師から刑死者に至る十二のアルカナに属さないという、人間の範疇から半歩程度外れた二人は同じ名を持っている。それは体を共有しているからか、それとも互いは『同一』の存在であると、互いが見なしたいのか。それとも単に別の名前をつけるのが面倒だったからか。いずれにせよ、性格や言動は真逆でありながら同じ名を持っていた。
なお十二のアルカナに属さない者は、二人の『皆月翔』以外にも何人かいる。タロットのゼロ番目のカード、版によっては番号がそもそも与えられていないアルカナに属する者たちだ。今晩のマヨナカテレビで大活躍していた鳴上悠もその一人である。そして皆月たちと悠がいる八十稲羽から遠く離れた都会に、二人の『愚者』が住んでいる。
辰巳ポートアイランドは今から十年以上前、海上に建設された人工の島だ。港区の本土からはモノレールの新都市交通あねはづると、ムーンライトブリッジと呼ばれる吊り橋によって結ばれている。島には多くの企業の本社や工場などの他、ショッピングモールなどの商業施設も充実しており、地方から来た人には観光スポットとしても有名な場所である。そして世界有数の複合企業である桐条グループのお膝元としても知られている。
そんな八十稲羽とは対照的な都会であるポートアイランドの一角、中高層住居専用地域に、百メートルを超える高さのタワーマンションがある。今年になって竣工したばかりで、セキュリティから耐震性、更には自家発電システムに至るまで、今世紀の技術を集めた最新式のものだ。もちろん値段も立地や設備に見合っていて、富裕層を狙った高級住宅である。そこの高層階の一角に、今年の3月から入居してきたある夫婦の住まいがある。
その一室、家の主人である男の書斎にて、小さくない驚きを含んだ声が発せられた。
「稲羽市で影人間が?」
書斎とは言っても、部屋の壁に並べられた書架には隙間が目立っている。未だ全てが埋められていない棚には、心理学や精神分析、更には世界各地の神話や宗教に関する人文学系の本が数多く並べられている。その他、政治や法律関係などの固い本に混じって、子育てやペットの飼育に関する本もあった。
主人の男は人と話をしているのだが、部屋にいるのは彼一人である。と言っても、太陽と月の二人のように、目に見えない何者かと話しているのではない。知り合いから電話がかかってきて、その受け答えをしているだけだ。指輪をはめた左手で電話機、裏面にKJというイニシャルが彫られたスマートフォンを持ち、それを耳に当てている。文明の利器から届けられてきた相手の言葉を耳にした男は、意外なことを聞いて目を見開くという、驚きの表情を若い顔に浮かべた。
そう、若いのだ。家の主人は実年齢より少々上に見られることはあるが、それでもまだ青年と言うべき顔立ちだった。オールバックに整えた髪は白髪の一本もなく、やや鋭い目元には皺一つない。むしろ若さから生じる奔放が溢れ出ようとしているのを、普段はポーカーフェイスで抑制しているものの、内面からの圧力で肌は張り詰めている。それも当然と言うか、彼はまだ成人式にも出ていない年齢なのだ。先月にポートアイランドにある私立高校を卒業し、今月に大学に入学したばかりなのである。
青年は学生の身分でありながら大企業の役員や芸能人のような羽振りの良い、いわゆるセレブ御用達のマンションに住んでいた。金持ちの親と同居しているのでもないし、親に買ってもらったわけでもない。幼い頃に両親を亡くした青年は、自分の懐から出るもので自宅を買ったのだ。購入の手続きにおいては、色々な伝手を使いはしたが。
『ああ。数日前から黒沢刑事に現地で調べてもらっている』
電話の相手はこれまた若い女の声だ。しかし大学や高校の知人や友人が、私的に呼び出してきたのではない。この電話は仕事に関係するものだ。ただし普通の大学生がする、塾の講師や飲食店のウェイターのようなアルバイトではない。
『そこで君にも稲羽へ行ってもらいたいのだ』
「いつからです?」
『明日にでも』
「随分急ですね」
不満を表す皮肉の色が、青年の声に少しばかり混じった。実際、遠隔地への出張の要請をするにしては遅い話だ。
『済まん。色々立て込んでいて、連絡が遅れてしまった。だが私は体を空けられんし、明彦も海外だ。現状、君しか頼める人材がいないんだ』
「まあ……美鶴さんがお忙しいのは分かっています。承知しました」
青年は意図して声に含ませた不満の色を、すぐに引っ込めた。電話の相手は以前から忙しい身だが、今月から特に多忙を極めるようになったことは青年も重々分かっているのだ。急な要請に困らないわけではないが、相手の事情も察せられるので、青年は引き受けることにした。ただし──
「ですが、アイギスは連れていけませんよ」
通話口へ向けて投げかける声に、強い調子を添えた。要請は受けるが、これだけは絶対に譲らないと言うように。
『分かっている。戦闘の可能性があるところへ、妊婦に行けとは言えんさ……』
「では弾の補充をお願いします」
『分かった。五十口径だったな? 明日の朝までに届くように、手配しよう』
弾。青年が言っているのは弾薬のことだ。人の殺傷を目的として、銃に装填して射出するものだ。しかも五十口径となれば、大型の猛獣でも殺戮できる。まして人間に当てようものなら、穴が開く程度では済まない。原形も残さずに破壊できるはずだ。至極当然と言った口調でもって、兵器の消耗品の補充を依頼する青年と、そしてこれまた当然と言わんばかりに了承する電話の相手。それだけで、この二人が行っている仕事の内実が察せられよう。
その後、二人はいくつかの事務的な事柄を確認し合った。例えば現地に先行している人員との待ち合わせ場所や、定期連絡の頻度。更には宿の手配や出張手当に関してだ。
「ところで稲羽と言えば殺人事件が起きているはずですが、それとも関係が?」
『まだ分からんが、そこも視野に入れて調べてもらっている』
「なるほど、分かりました」
それで青年は電話を終えた。スマートフォンを耳から離してロックをかけ、シャツの胸ポケットに放り込み、書斎の椅子から立ち上がった。そして部屋から出て、リビングへと向かった。その足取りは速い。
「コロマルさん、ご飯ですよ」
二十畳ほどあるリビングの一角では、真っ白な柴犬が小皿に鼻面を突っ込んでいた。飼い主の青年が近づいてきても顔を上げずに、一心不乱に餌を食べている。小皿の隣には、虎とか狼とかの文字が躍るラベルが貼られた、空になった缶詰が置かれている。そして犬の傍らに屈みこんで、その白い背を撫でている一人の若い女がいた。青年の妻である。
青年は学生でしかも未成年の身であるのだが、高級マンションに住み、何やら物騒な仕事をしている。そしてそれだけに留まらず、人生の伴侶までいるのだ。
妻の姿を目にすると、青年の顔は印象が変化した。もちろん髪型などは変わらないが、鋭さのあった目元に、相手を包容する寛大さが現れた。先ほどまでの仕事をする男の顔から、夫の顔へと変わったのだ。ただし意図して表情を作ったのではなく、ごく自然に変わった。
「アイギス。急で悪いが、明日から出張に行くことになった」
近づいてきた夫の言葉に、妻は顔を上げた。それは随分と日本人離れした顔だった。髪は月光から紡ぎあげた鮮やかな金髪で、下ろせば背中まで達する長く伸ばしたそれを、ポニーテールにまとめ、四本のヘアピンで留めている。瞳は深海を思わせる青で、見つめ合うと奥深くまで知らず引きずり込まれる。彫りは深く、目鼻立ちは非常にはっきりしたもので、一言で言うと西洋人風の顔立ちだった。ただし肌は白いものの、雪や大理石のようとまでは言えない。日本でも北国の出身などであれば、これくらいの白さの女はいる。そうした白だった。
「出張ですか……。どちらへ行かれるのです?」
「それがな……」
そうして青年は妻に説明を始めた。高校時代の先輩からの頼み、と言うか仕事上の命令として、稲羽市へ出張に行くことになると。帰りがいつになるかは決まっていないが、可能な限り早く帰るつもりでいると伝えた。話しながら、二人はリビングに置かれたソファーに並んで腰かけた。夕飯を終えた犬も、二人の足元にやってきた。
「浮気しちゃ駄目ですよ」
話を終えると妻、アイギスは目尻を下げた悪戯な笑みを見せた。いや、悪戯とは言いきれない。目は笑っているし、顔全体としても確かに笑っている。しかし外からは見えない内心において、何かの気迫が込められていた。男を追い詰め跪かせ、屈服させる。そういう何かが笑顔の裏に伺えた。
「……馬鹿を言うなよ」
妻の隠された、しかしどこからか漏れてくる殺気に、青年は一瞬たじろいだ。彼は結婚前の高校生の頃に少し、と言うか相当に酷い浮気をしていたのである。そして今から一年ほど前に、爛れた女関係の報いを受けたのだ。車にはねられでもしたのかと思うくらい、散々な目に遭った。あの時の妻の恐ろしさは、今思い出しても身震いするほどだ。
しかし今の青年にそんなつもりはない。たとえ天女や妖精にも比すべき、容色麗しい美女が誘惑してこようとも。もしくは男を狂わせ破滅させる、人外の美貌を誇る魔女が運命を絡め取らんと襲ってこようとも、浮気などするつもりはない。なぜなら──
「僕には、君と」
青年はかつての戦いの日々によって頑強に鍛えられた、だが平和な暮らしの中で少しばかりその険も取れてきた手を、妻の腹に優しく当てた。空色のワンピースの下にあるそれは、膨らんではいない。今はまだ。
「ここにいる子供たちより、大切なものなんかないんだ」
「湊さん……」
妻は夫の名を呼び、夫はそれに応えて顔を近づけた。二人の影が重なる頃、足元の犬は起き上がってその場から去った。
青年の名は有里湊。数字のゼロのように、何者でもない存在を表す愚者のアルカナを持つ男。ペルソナ使いの中でも特殊な、複数のペルソナを操るワイルドの能力を持つ男。港区と稲羽市に住む全てのペルソナ使いの中で、間違いなく随一の実力を持つ最強の男。一年と少し前まで、毎晩0時になる度に世界を覆っていた聖なる時間を戦い抜いた男。人々の願いを乗せて天上へと至る塔を制覇した男。そして世界を滅亡から救った男──
ではなくて、救った女の夫である。一年間の幸せな生活によって、すっかり平和ボケしてしまった男である。
P3の主人公が登場しました。なぜ彼が生きているのか、どうしてアイギスと夫婦になっているのか、何がどう捻じ曲がってアイギスが妊娠しているのかといった点は、作者の前作『ペルソナ3 滅びの意志』をご覧になってください。
https://syosetu.org/novel/340950/