堂島は得物の警棒を、力の入らない右手から左手に持ち替えた。右胸の刺し傷から流れる血は止まらず、ベルトを越えてズボンまで赤く汚している。これだけ負傷するのは、昨年の4月30日に初めてシャドウを見た時以来だ。
ただでさえ技でも力でも皆月の方が上なのに、利き手はろくに動かなくなり、出血で体温が失われて寒さを感じ始めている。勝負は見えているどころか、堂島はもはや戦える状態ではない。格闘技の試合ならドクターストップが入るシーンだが、P-1クライマックスにそんなものはない。グランプリでは出場者がある程度負傷すると主催者や実況が試合終了を宣言することが多かったが、今夜はそれがない。予選で『悠』や『陽介』が消滅するまで戦ったように。
(叔父さん……!)
悠は見えない壁に爪を立てて、歯を食いしばった。堂島は逃げて有里を呼びに行けと言ったが、悠は時計の神殿を出ていこうとしない。この戦いを見届けて、次は自分が戦うつもりでいた。『父』の仇を先輩に譲る気などない。皆月は悠から見ても相当な強敵だが、刺し違えてでも倒すと覚悟を決めた。
「パパさん! ナナチャンは……ナナチャンはクマが必ず幸せにするクマ!」
そしてクマは泣いている。菜々子が一度死んだ時に身に付けた涙を、今日は着ぐるみの目から零している。
「十年はええよ!」
「……」
泣きながらボケる(本気かもしれないが)クマとツッコむ陽介を無視して、三人からリングを挟んで反対側にある棺桶に座る足立は、黙って皆月の挙動を注視する。無意識的に足を組み、肘を膝に乗せて頬杖を突く。元相棒が危機的な状況にあるが動こうとはせず、言葉で皆月を止めることもしない。
(大丈夫だ。あいつは人殺しはできない。やれるならもうやってる……)
またわざと急所を外して刺すか、峰打ちでもするかして、堂島が完全に動けなくなるところまではやるだろう。皆月が勝利宣言をしてリングが解けたところで、不意打ちで甘ったれたガキを倒す。否、殺す。悠にはやらせない方がいい。足立はそこまで考えていた。
しかし大体の場合において、物事は予想通りに進まないものである。プレイヤーが大勢いる状況では特にそうだ。巨大な時計の扉が見下ろす不思議な空間に、新手が現れた。
「鳴上先輩!」
「りせ! お前たち……!」
聞き慣れた声で呼ばれた悠が振り返ると、部屋の入口に大勢の者たちが現れた。声を上げたのは特別捜査隊の情報担当だが、他の仲間たちもいる。りせを守るように、直斗、千枝、雪子、完二がいる。更に一条と長瀬もいる。そして悠が知らない顔が犬を含めて五人いる。荒垣たちシャドウワーカーの非常任組だ。
「うっわ! もろにタルタロスのエントランスじゃない!」
部屋の装いを見て声を上げたのは、一行の最後尾にいたゆかりである。悠たち特捜隊はもちろん堂島と足立も現物は見たことのないタルタロスのエントランスホールに、この場所はそっくりなのである。
「おーやあ? クソの取り巻き応援団のご到着ってか? 責任はオーエンくせによお! ははは!」
大挙しての新手の登場に、皆月は慌てるどころか創面に喜びを湛えた。ギャラリーがいることが嬉しいようで、堂島から目を離して急に増えた敵を煽る。対する堂島は皆月から目を離さない。ただし隙は見えないので、堂島から仕掛けることはできない。傷の痛みで呼吸は荒くなり、足は鉛のように重い。
「堂島さん! 酷い怪我……!」
「てか、足立!? 何でいんの!?」
雪子は堂島の有様に、千枝は足立がいることに目を剥く。この部屋はかなり広いが、一度に十二人も増えた為に俄かに場が狭くなったように感じる。荒垣を先頭に天田とコロマルが前に出て、赤いコーナーポストを結ぶ線の向こう側から、真剣勝負のリングを取り囲む。
「てめえが皆月か」
誰何したのは荒垣だ。昨年9月にポートアイランド駅近くの溜まり場でケンカを売ってきた男は顔を隠していたが、声と口調からリングの中にいる二刀流の男がそれだと確信した。
「大勢集まってご苦労なこったな! だがな、てめえらは一人ずつしかやれねえんだ! ここじゃ絆ごっこはできやしねえ! こいつがバラされんのを、黙って見てやがれ!」
事件の犯人はよく喋る。普段の生活で話し相手はほとんどいないはずだが、舌は非常によく回る。本人が志向するものとは逆に、実は生来の才能として口達者なのかもしれない。
「おっと、黙ってなくてもいいや。泣け! 叫べ! 一人死んで、二人死んで! 大事なお友達が少なくなんのを嘆き悲しむといいぜ! その変態面、思いっきり歪めてなあ!」
皆月の口上は止まらない。敵が多勢になることは計画の段階から分かっていたから、色々と策を用意していたのだが、その一つである見えない壁のリングはまさに上手く機能している。敵が十人や二十人いても、いや百人だろうと問題ない。一人ずつ順番に全員殺してやればいい。ペルソナの耐性から自由でいる皆月には、相性の悪い敵もいない。しかし──
「もうあんたの思い通りにはさせない! ヒミコ!」
りせがペルソナを召喚し、それが髪を振り乱しながら足を踏み鳴らすと、局面が変わった。紙鉄砲を鳴らしたような音がエントランスに響き、それと共に衝撃波が放たれる。それは堂島が放つ鉄槌の一撃とはまるで違い、人を倒すにはとても足りない弱弱しい打撃だ。しかし実は存在しない幻のような壁を破るだけなら十分だ。
──
皆月を守るガラスの壁は割れて崩れた。コーナーポストも同時に壊れて消える。残骸さえ残らない。甲高い目覚ましの音が部屋に響いて夢から覚めるように、ペルソナ使いを阻む障害は存在しないことになった。
「へ……んな馬鹿な!」
「今だ、やるぞ!」
荒垣が号令をかけ、犯人を包囲していた者たちが一斉に動き出した。皆月がいくら強くても、こう来られると苦しい。まして自分の策を完璧と信じて、気分爽快に舞い上がっていたタイミングで盤面をひっくり返されては、眼前の事態を飲み込むだけでも時間がかかってしまう。
「くっ、くっそおお!」
それでも皆月は足掻く。十字の傷の隙間にある目が暁の色を湛え、襲い来る敵を押し留める。
「ぐっ……!?」
「うっ……?」
「ワウ!?」
先頭にいた荒垣と、それに続こうとしていた天田とコロマルは動きを止められた。校門前で悠たちが仕掛けられた金縛りの術だ。天体が放つ重力のような力によって、駆け出す足が強引に止められる。上体が前へとつんのめりそうになるが、それもやはり止められる。しかしやられたのはこの三人だけだ。残りの十三人に天体の力はかけられていない。
「この野郎!」
陽介が最初に皆月の前まで躍り出た。短剣で斬りつけると、皆月は左の刀で防ぐ。
「皆月!」
間を置かずに悠が来た。長剣を横薙ぎに一閃させ、叔父を痛めつけた狂犬に向けて本気で斬りつける。まともに当たれば首が飛びかねない力の込められた斬撃を、皆月は右の刀で防いだ。見事な反応と言ってよいが、ここまでである。いくら達人であると言っても、腕は二本しかないのだ。自分と実力が近い相手の攻撃を軽くいなすことはできない。それが二人同時に来られると、両手が塞がってしまう。
「スクナヒコナ!」
「ズッキー、カンベンしてあげないクマ!」
そこへ直斗がペルソナを召喚して斬撃を放ち、クマが氷を放つ。更には炎だの矢だの雷だの、打撃や斬撃の波動も飛んでくる。数えるのも面倒な数と種類の攻撃がまとまって殺到してきた。
「て、てめえらあ! きったねえぞ!」
最初に命中したのは誰の攻撃だったのか。やった側もやられた側も分からない、圧倒的な多人数による高密度な総攻撃が皆月を襲った。一対一なら誰にも負けないつもりだったし、実際にそれだけの力量はあるが、こう来られるとさすがに駄目だった。一発当たると後は雪崩式である。
「うわっちゃー……必殺、袋叩きの刑! だね」
足立は結局棺桶から腰を上げなかった。壁がなくなったら不意打ちで皆月を仕留めようと思っていたのだが、そんな状況ではなくなってしまった。数の暴力が遺憾なく発揮され、さしもの強者も策が破られた衝撃から立ち直る暇もないまま、一方的に打ちのめされてしまった。皆月は床にうつ伏せに倒れた。ちなみにペルソナの欠片は皆月からは出なかった。
「……おっと」
「ふう……何だったんしょうね、今の。初めてやられた感じの攻撃でしたが……いや、二年前のあれにちょっと似てたかな」
「ワフッ……」
そして赤目で封じられていた三人も解放された。各々よろけたり深呼吸が必要になったりしたが、特にダメージを負っているわけではない。
「堂島さん、大丈夫ですか?」
「ああ……助かったぜ」
回復魔法が得意な雪子が堂島を手当てした。穴が開いた胸や裂けた額の傷は見る間に塞がっていき、服まで元通りになる。一時は動かなくなった右手に力が戻ると、堂島は倒れた皆月に駆け寄った。警棒は一旦腰のベルトに戻し、代わりに手錠を取り出した。
二本の刀を取り上げ、皆月の両手を背中に回させて、犯人を拘束する為の仕事道具で左右の手首を繋いだ。実は打たれ弱い皆月は気を失っており、自分の手に手錠がかけられるのに抵抗はしなかった。
「おい、誰か小西を降ろしてやってくれ」
「うっす!」
言われて完二が動いた。十字架によじ登り、尚紀を縛り付けていた紐を引きちぎる。
「う……完二? まさか俺、また捕まってたの?」
「しゃあねえだろ。お前の力は便利過ぎんだからよ」
完二は十字架の上で器用に尚紀を抱きかかえ、床に飛び降りた。足立はその様子を、特に関心がないまま何気なく見ているように装いつつ、内心では安堵のため息をついた。そして口では白々しいことを言った。
「酷いね。一人に大勢でよってたかって……。シャドウならともかく、人間相手だと完全にリンチだね。知ってる? 集団暴行って罪重いんだよ?」
足立のセリフは特定の誰かに向けたものではなかった。反応したのは堂島だ。
「足立! お前、どういうつもりだ!」
「僕のことより、ご自分の心配をしたらどうですか。立ってるのもやっとじゃないっすか」
回復魔法で傷は癒えるが、疲労は取れないし流れた血も元には戻らない。堂島は命に別状こそないものの、体力をかなり消耗している。今は意地で立っているが、本音を言えばもう横になって眠りたいくらいなのである。格の違う相手との戦いは、たとえ短時間でも疲れ方が違う。
「だったら、あたしがやる!」
千枝が名乗り出た。屈辱的な終わり方をした昨年の事件の無念を晴らしたいとの思いは、特捜隊の多くが持っているのだ。ないのは悠とクマくらいだ。
「やめときなって。ほら、僕の得物はこれだから。手加減とかできないから」
足立は上着を開けて腰に差した拳銃を見せた。もちろん銃でも急所を外して撃つことはできるし、ペルソナで戦う場合でも峰打ちくらいはできるから、殺さずに済ませることはできる。これが例えば皆月のように実力が近い相手だと本気にならざるを得ないので、そんな余裕はなくなるだろうが、千枝くらいなら軽いものである。だから手加減はできるのだが、足立は千枝とやり合うつもりはない。ペルソナの欠片を無駄に放出するだけだから。
「大勢で来るのも、やめといた方がいいよ。余計な怪我人が出るだけだよ?」
「舐めんじゃねえぞ。もうタイマンでも負けやしねえからな!」
今度は陽介だ。廊下で遭遇した時と同じ、強い戦意をもって昨年の事件の犯人を睨む。
「調子乗っちゃって、まあ……」
足立は自分が逮捕されてから今日までの間に、陽介の身に何があったか知らない。だが軽く捻ってやった昨年12月と比べると、確かに大幅に強化されているようだった。足立は解析の能力を持たないが、それでも経験に裏付けられた目で見れば、相手の大まかな力量くらいは分かる。足立から見て陽介は一対一で負けるとは思わないが、油断できる相手でもない。
だがやはり足立は陽介の相手をする気はない。手加減できないレベルの敵とは、なおさら戦えないのだ。
「大体さ、僕なんかより気にしないといけない奴がいるんじゃないの?」
「やはりまだ共犯者がいるのか」
ここで堂島が話を引き取った。皆月の二本の刀を脇に抱えて前に出る。倒れた皆月を背中の側に置き、足立と真っ直ぐ向き合う。足立と因縁深い者は何人かいるが、もう外野は口を挟むなとばかりに皆を置き去りにして、前に出る。
「そっすよ。そこで伸びてるガキよりずっと手強いっすから。早いとこ逃げた方がいいっすよ」
「そいつは何者だ?」
「さあ? どこの誰なのかは僕だって知りませんよ。本部なら知ってるかもしれませんけど」
皆月たちの正体についてシャドウワーカー本部がどこまで把握しているのか、足立には分からない。だが明らかに因縁はあるものと見ていい。それは後から来た集団の先頭に立っていた男が、皆月の名前を知っていたことからも察せられる。
「どうせ有里さんも来てるんでしょ? 彼に任せときゃいいですって。本庁が出張ってきたら、所轄は大人しくしてる……捜査の鉄則でしょ?」
「足立。白々しいことばかり言うのはよせ。俺を誰だと思ってる?」
「……」
足立は黙った。堂島のこの問いに対する答えは、いつもの口の軽い仮面から咄嗟に出てこなかった。『僕の相棒です』と答えられれば面白かったのだが、そう言うのはやはり憚られた。道化師らしくふざけた雰囲気を作って『泣く子も黙る鬼刑事!』とか『クマ君のお義父さん!』とか言うことはできるが、妙につまらなく感じてしまった。
「お前は……」
堂島は足立を何だと言おうとしているのか。例えば『皆月と手を組んでいるわけではないだろう』か、それとも『去年の罪滅ぼしをしたいんじゃないのか』か。どちらであっても、またどちらでもない言葉であっても、足立は自分について堂島に語られるのは嫌な気がした。先ほど廊下では、悠に本心を言い当てられて不愉快になった。その時は堂島ならまだ許せると思ったものだが、今になって撤回したくなった。
そんな天邪鬼がぶり返してきたちょうどその時、足立は話を逸らすネタを見つけた。堂島を始めとする皆が背を向けるか、少なくとも注目していない方角で、倒れている少年が身じろぎするのを認めたのだ。自分について語ろうとする堂島を、素早く遮った。
「残念、時間切れですね」
足立が喋り始めてから、特捜隊とシャドウワーカーの全員が昨年の事件の犯人に注目していた。皆月は既に武器を奪われ手錠をかけられ、ペルソナも使えない以上はもはや打つ手がない。しかも気を失っているのだからと、皆が目を離していた。その隙に突くように、予期せぬキーワードが発せられた。
「ペルソナ」
声は皆月のものである。ただし狂的に騒々しい少年のものではない。もっと落ち着いた、理知的な印象のある声だった。同じ口から出てきているはずなのに、たった一つだけの言葉でこうも印象が変わるものかと不思議に感じるくらいだ。それだから、皆月が発した言葉だとは思えなかった。それが虚を突かれる原因になった。突如として現れた、赤と黒の影が飛翔してきた。
「危ねえっす!」
「ぬ!?」
反応したのは反射神経に優れた陽介で、狙われたのは堂島だ。正しくは堂島が持っていた二本の刀だ。陽介が堂島の肩を思いきり押して頭を下げさせると、飛んできた謎の影の攻撃は回避できた。しかし刀は奪われた。
後ろ手に手錠をかけられた『少年』は、膝を起こして立ち上がった。そこへ赤とベストを着て、黒のストライプが入った外套らしきものを羽織った怪人がやって来た。もちろん人間ではなく、ペルソナだ。奪い返してきた二本の刀を使用者に向けて差し出す。すると使用者は腕を広げた。無造作に、何気なく、傍からは特に力を込めたようには見えない動作で、手錠の鎖を引きちぎった。自由になった両手で二本の刀を一本ずつ受け取る。
そしてついでとばかりに、ペルソナは手にした長柄を使用者の頭上に掲げた。治癒の光が零され、総攻撃で受けた傷を癒す。
「選手交代だな」
治療を終えるとペルソナは姿を消した。もちろんいなくなったわけではなく、使用者の中に戻っただけだ。皆月はクマが見抜いた通りペルソナを使えないが、今刀を手にしている存在は違う。顔は皆月と同じで、と言うか体は皆月と同じだが、別の要素が違う。
例えば鉄仮面の無表情、落ち着き払った口調、目に宿る揺らぎのない意志。そして豊穣を祝う祭礼のような熱気溢れる騒々しさをまき散らしていた皆月とは対照的な、降り続いた雨がやんで雲の切れ目から冷たい光を投げかける月のような静謐な雰囲気。月のアルカナに属するペルソナを使えるかどうかよりも雄弁に、太陽の少年とこの『人物』の違いを強調している。
月のペルソナ使いは、敵としている十七人をざっと見回した。その最中に悠と目が合った。瞬間、悠は抱いていたある疑問が氷解した気がした。
「お前は……ミナヅキか!」
校門前に現れた皆月は悠と知り合いではないと言い、かつ煮えたぎるような憎悪を抱いていた。世界そのものを憎み、その憎悪の中心で沸騰する恨みの結晶を悠に向けるような、不俱戴天と言うべき激しい敵視だった。しかし今出会った視線の中に、そうしたものはなかった。ただ相手の状態を観察し、力量を測ろうとしているだけの機械的な視線だった。感情は良いものも悪いものも特にない。
「そうだ。俺が君の知っているミナヅキショウだ」
ミナヅキは首肯した。皆月が悠を憎む理由は不明なままだが、知り合いでないとはこういう意味だったのだと、悠は悟った。死神のコミュニティの担い手はミナヅキで、皆月ではない。絆は心か魂に対して結ばれるもので、体に対してではない。悠と皆月は本当に知り合いではなかったのだ。即ち──
「二重人格……!」
一人の人間が複数の人格を宿すこと。医学的には解離性同一性障害と呼ばれる、精神疾患の一種だ。幼児期に虐待などの過酷な経験をした者が発症するケースが多い。しかし──
「違うな。俺はこの子の中で目覚めたが、この子が生み出したのではない」
悠の指摘をミナヅキは否定した。この月のアルカナを持つ存在が何者であるのかは、一般的な意味での心理学の範疇に収まるものではないのだ。足立は塔の頂上で皆月たちと初めて会った時、この二人は多重人格ではないと直感したが、それは正解なのである。
「俺は死の一片……。世界に死をもたらすものの欠片だ」
「……?」
ただしミナヅキの説明は悠には意味の分からないものだった。今は亡き人が便箋に書いていた言葉のように、表現が迂遠すぎる。しかもミナヅキのようなタイプが口にするにしては、こうした夢見るような言い方は違和感を禁じ得ない。
「は? 何それ……」
そしてさすがに足立もこれは分からなかった。有里やアイギス、または美鶴や風花のように、過去の桐条グループが行ってきた研究をある程度知っている者ならば理解できるかもしれない。『世界に死をもたらすものの欠片』とは決して詩的な表現というわけではなく、事実をありのままに言っているだけなのだと。
「ふっ……それはどうでもいい」
ミナヅキは説明せず、薄く微笑んだ。皆月と入れ替わってから初めて見せた、もっと言えば昨年8月にコミュニティを築いて以来、初めて悠に見せた笑顔だった。ただし親愛の情を表すものでは決してない。
「……」
悠は長剣を構えた。ミナヅキとの間には絆があるが、それでも戦いを避けることはできないと感じていた。昨年は足立との間にあった道化師の絆を信じて戦わずに済ませようとしたが、それは失敗した。話し合いで解決することを望んだが、足立の返事は銃弾だった。あれを繰り返すわけにはいかない。
まして当時と違い、コミュニティそのものに強い違和感を覚えている今の悠は、なおさら話し合いは選べなかった。話すにしても、それは戦って倒した後にやるべきことだ。昨年にテレビに落とされた被害者のシャドウには、言葉よりもまず力で応じたように。
堂島も立ち上がって警棒を手に取った。エントランスに先にいた者たちと後から来た者たち、その多くが警戒感を露わにミナヅキを取り囲む。
ただし足立はもちろんミナヅキの包囲に加わらない。依然として棺桶から腰を上げずにいる。その足立を油断なく注視するのは陽介だ。
「去年の秋にケンカ売って来たのは、お前じゃねえ方だな?」
包囲する者たちを代表して、荒垣が口を開いた。
「ああ」
ミナヅキは肯定した。実際、ミナヅキはそもそも荒垣の襲撃に反対で、皆月が熱くなって荒垣を殺す気になりつつあったのを止めたくらいだ。
「そうかい。ならお前に落とし前つけんのは、筋違いってもんだな」
荒垣は得物の鈍器を肩から下ろして軽く振った。黒服の下にある肉体と法王のペルソナからもたらされる膂力は、堂島と同等か凌ぐ領域のものである。
「こいつは任務だ。無粋で悪いが、数で行かせてもらうぜ」
袋叩きは趣味ではないが、表の仕事である料理と違って、裏の仕事に趣味や好き嫌いは持ち込まない。そしてそんなものを持ち込んでいいほど、眼前の相手は弱くないことを荒垣は察している。最大効率で一気に決めなければ、むしろ自分たちがやられるとさえ考えている。
「ではこちらも無粋にやらせてもらおう」
ミナヅキの目が赤く光った。瞳に血が滲むように、黄昏の色に染まる。もちろんこれは血ではなく、ある神的な力である。利便性は極めて高い。
「ぐ……!」
「またあれか!」
悠と陽介の動きが止まった。しかし大勢いる中で、止められたのは二人だけである。
「私たちは動けるよ! あの目の力、全員にはかけられないんだ!」
りせの言う通り、金縛りの術は一度に十人以上もの相手にかけることはできない。これは実は皆月とミナヅキのどちらにとっても借り物の力で、使いすぎるとかかる負担も馬鹿にできなくなる。だから誰を封じるかの選択が重要なのである。見えない壁を破られた時、皆月は反射的に目の前にいた荒垣たち三人にかけてしまった。しかしミナヅキは相手を選んでかけた。
かくして特捜隊のリーダーとサブリーダーが動けない中で、残った者たちが戦うことになった。特捜隊とシャドウワーカーの本部と支部から数名ずつ十五人に対して、ミナヅキは一人。馬鹿馬鹿しくなるほどの人数差だ。普通に考えれば少数の側はどうしようもない。しかしミナヅキに絶望や悲壮感はまるでない。
「愚かなことだ。君ら程度が束になったくらいで、俺に勝てると思っているのか?」
「お前ら、油断するな! こいつは強いぞ!」
数は力だが、常に足し算が適用されるとは限らないのだ。その道理を荒垣は分かっている。他に分かっている者は、果たして何人いるだろうか。