ミナヅキと足立が立ち去った後のエントランスに、特別捜査隊とシャドウワーカーが集まった。人数は特捜隊が五人、シャドウワーカー本部が常任と非常任を合わせて九人、そして稲羽支部が三人。合計十七人だ。
「……」
悠は人が多いと感じた。ミナヅキにやられて墓場送りにされた者もいるが、この場にはまだ少なくない数の人がいる。ミナヅキに暴露された件について仲間たちと話をしたいのだが、今はその時でない気がした。
「状況を聞かせてくれるか?」
悩んでいる間に話し合いが始まった。まずは有里たち常任組が来るまでの間、ここで何があったのかを美鶴が尋ね、皆がそれぞれ答えていく。
「有里さん、今までどこにいたんすか? 俺らより先に入ってたんじゃねえんすか?」
説明が一段落したところで、陽介が尋ねた。
「ああ、人質を探してこの塔を歩き回っていたんだけど、行く先々で見えない壁に妨害されてね。来るのが遅れて済まなかった」
有里たち五人は人質、主に赤子の二人を探していたのだが、反応は塔のかなり上の方にあることしか分からなかった。しかし上り階段はなかなか見つからず、あっても見えない壁で塞がれ、ここに来るまでに相当な距離を歩き回らされていたのだ。ミナヅキの大暴れを許してしまった原因には、有里の合流が遅れたこともある。
そして美鶴が話を引き取った。
「うむ。それとタルタロス……二年前の1月まで存在した、昔の我々が戦っていたこれとよく似た塔のことだが、タルタロスは入る度に構造が変わり、しかも人により行ける階層が変わる特性があった。この塔もそれと同じなのかもしれない」
つまり有里たちと悠たち、そして荒垣たち三組は各々この塔に侵入したタイミングが違っていて、恐らくはそのせいもあり、このエントランスに辿り着くまでに通ったルートは各々違っていたと推測できる。更には──
「もっと言えば……構造の変化はランダムなものではなく、敵がこちらを妨害する目的で狙って変えることも可能なのかもしれない。今後もきっと、また罠を仕掛けてくるだろう」
「うへえ……敵のペースにハマっちまってますね」
げんなりとしたのは順平だ。
皆月とミナヅキ、そしてシャドウで作られた偽物たち。彼らのように明白な敵以外にも、戦いの舞台であるこの塔そのものが敵。元々敵が用意した舞台なのだから当然と言えば当然のことかもしれないが、気味の悪い話である。足元にいきなり怪物の口が開いて、飲み込まれてしまう恐れさえある。
「それで……やられたのは里中君、天城君、巽君、堂島刑事、荒垣の五人か」
美鶴は腕組みをして天井を仰いだ。かつての戦いの舞台であった奈落の入口、それとそっくり同じ部屋の装いが目に痛い。もう二度と見ることはないと思っていたのに、過去が蘇ってしまった。皆月たちの詳しい素性はまだ分かっていないが、桐条グループの暗部と関係があることは確かだ。この塔こそが何よりの証拠だ。
その過去の所業の為に、昔からの仲間のみならず無関係な者たちをまた巻き込んでしまった。特捜隊が今夜の作戦に参加することを認めたのは堂島だが、その堂島に委任したのは美鶴である。責任の重さが後悔の形を取って襲ってきて、肩にのしかかる。覚悟はしていたつもりだったが、覚悟することと現実に起きることは違う。
こういう時、人は支えになる人がいるかどうかで行動が分かれる。
「象徴化したのなら、生きている証だ」
真田が美鶴に声をかけた。象徴化は生きた人間に起きる現象で、死体がそうなることはあり得ない。もっとも過去には死体がそうなったケースもあったが、それは蘇生の前兆としての例外であって、基本的にはない。つまり堂島たち五人は今も生きているはずである。少なくともそう信じる根拠として十分である。
「みんな……生きているんですね?」
直斗が声を上げた。心なしか目が赤い。
「ああ、心配はいらん」
互いに武器を使って本気で切り結びながら死人が出ないとは、本物の戦争ならあり得ない話だ。敵がわざわざこんな甘い仕掛けを作っている、その意図は今一つ分からない。しかし仲間たちの生存は信じていいはずだ。
「では……敵の狙いを考えてみませんか」
直斗は気持ちを切り替え、このエントランスで見聞きしたことから推理したことを話し始めた。
鍵になる情報は二つある。皆月とミナヅキの言う『ペルソナの欠片』と、足立の言う『アレ』である。P-1クライマックスが始まってから、ペルソナ使いとその相手をする偽物は攻撃を受けた時、金色の光の粒を出していた。これは前から直斗は気付いていたし、美鶴も気付いていた。『ペルソナの欠片』がそれであることは、状況からして間違いない。ではそれで何をするのかと言うと──
「先ほど足立さんが言っていた『アレ』……それに何かをする為に使うのではないでしょうか」
「足立さん、目ん玉みたいなのって言ってたけど……アメノサギリのこと?」
『アレ』について尚紀が応じた。昨年12月にテレビの中に現れた目玉の怪物の名は、当時の尚紀のペルソナだった早紀ことスセリビメが言っていた。テレビの中の霧を外に広げた元凶であり、そこいらのシャドウとは明らかに異なる存在だった。昨年の事件の、言わば『舞台装置』を作った存在である。
「アメノサギリが復活するのか、それとも別の何者かか……」
美鶴は考え出した。かの目玉の怪物とは美鶴自身も戦ったから分かるが、それほど強くはなかった。たった四人のペルソナ使いで、しかもワイルドではない者たちだけで倒せたのだ。今夜の最後の敵がその程度であるなら、話は早い。しかしその程度では済まない気がしていた。その根拠は──
「影時間にタルタロスって言ったら……やっぱりニュクスですか?」
ゆかりが口にした。ゆかりは体育館にいた頃から、もしやと思っていたのだ。かつてのタルタロスは滅びを招来する目印としての役割があり、この塔も同じ目的で作られたのではと。
「……そうかもしれんな。これはもう昨年以上の……二年前の1月に匹敵する規模の戦いになることを覚悟せねばならん」
「何ですか、ニュクスって?」
陽介が尋ねた。シャドウワーカーの前身、特別課外活動部の時代の戦いについて、特捜隊はほとんど何も聞いていないのだ。都会と田舎のペルソナ使いのチームは、どちらも同じ目的に向かって行動しているのだが、未だに情報の格差がある。それは単に秘密主義だからというわけでもないのだが──
「説明するのは難しいが……」
「教えてくれませんか。敵について知らないのでは、勝てる戦いも勝てなくなります」
口が重い美鶴に、直斗が突っ込んでいった。昨日の昼間にフードコートで行った特捜会議で、今度シャドウワーカー本部と会ったら根掘り葉掘り聞き出してやれとの、完二の言葉を実現しようとするように。いい加減なごまかしは許さないとばかりに、強い視線で特殊部隊の隊長を見る。いわゆる大人の事情というものも理解できる職業探偵にしては、敢えて作った『空気を読まない』態度だった。
「……そうだな。では話そう」
そうして美鶴は機密事項を高校生たちに話した。
「かつて世界に死を授けた存在……滅びを望む人々の意志によって呼ばれる?」
話は荒唐無稽なものだった。しかし特捜隊にも何となく思い当たる節があった。滅びを望む人々と言えば、霧が晴れなくなった昨年11月から12月頃の八十稲羽の町が連想された。しかし──
「そんなもの……別にいつでも、誰にでもあるのでは?」
悠が疑問を呈した。先ほどミナヅキに皆月の望みを理解できるかと問われた時にも思ったが、世界の終わりを望む人は別に珍しくない。程度の差はあるが、いつでもどこにでもいる。希死念慮と同様のありふれたものだ。終末思想は諸岡の倫理の授業では取り上げられなかったが、それくらい悠にも想像がつく。何しろ悠自身も望んだことがあるから。
「ああ、その通りだ」
美鶴の説明は続く。かつてアイギスが見出し、世界を救う鍵となった真理を語った。
「本来それが訪れるのは何千年も、何万年も先のこと?」
「そうだ。だがタルタロスには『時間を進める』機能があった。この塔がある以上、すぐにでもやってくるかもしれん」
クマ総統は『時間切れで世界滅亡』とも言っていた。リミットがいつ来るのかは分からないが、余裕のある話ではなさそうだった。かつてのタルタロスは戦いが本格化してから一年、出現したポートアイランド・インパクトの時から数えると滅びの到来まで十年もの猶予があったが、今夜もそうとは限らない。今夜中にも訪れるかもしれない。
「それに、ニュクスではない別の存在を呼ぼうとしている可能性もある。いずれにしても、ろくなものではないだろうがな……」
ペルソナは無数にあるように、シャドウも無数にいる。それと同じように、超常の中でも一歩以上進んだ存在、即ち神も一柱ではない。無数は言いすぎだろうが、十や二十ではきかないくらいはいるかもしれない。世界の神話や伝承が全て真実とは限らないが、一つの国や民族の神話につき一つや二つくらいは『実在』のものがいるとすれば、果たして世界に神はどれだけいるのやら。
「ゴホッ……」
美鶴の話が一旦終わったタイミングで、悠は軽く咳き込んだ。咄嗟に口を右手で押さえて隠す。何人かの視線が向けられたが、悠はそれに応じなかった。自分の口、と言うより口から『何が』出たのかを隠すように、咳が収まってからもしばらく手をどけなかった。悠が右手を握ってようやく口から離した頃、続きの話が始まった。
「それと……ペルソナの欠片で何をするかですが、ちょっと思い当たることがあります」
風花だ。これは塔の外で有里と順平の偽物が戦った時から、考えていたことだった。
「もしかして……三年前の11月に幾月さんが言っていたことと、関係するのではないでしょうか」
月光館学園の元理事長で皆月は父、ミナヅキは害悪と呼ぶ幾月修司。2009年の11月と言えば、幾月が死んだ時である。それはシャドウワーカーだけでなく、直斗が怪しいと睨んでいたので特捜隊も知っている。
「皇子……だったか」
「何ですか、それは?」
美鶴が応じ、直斗が再び尋ねる。
「それについては我々もよく分からん」
これは嘘やごまかしではない。幾月が何をしたかったのか、具体的にどういう方法で何を達成したかったのか、それはシャドウワーカーも本当に分かっていない。幾月が死の直前に語ったのは、滅びを導く『皇子』になるとか新世界に君臨する『皇』になるとか、理解に苦しむ話だった。
「今までは妄想か何かだと思っていたのだが……実は成算のある話だったのかもしれんな」
理解できなかったのは幾月が狂っていたからではなく、美鶴たちがまだ知らない本当の真実がどこかに存在したからかもしれない。幾月の死から二年と半年ほど過ぎて、初めてそう思えた。
「うん、ヅッキーは神様になるつもりクマ。ヅッキーのパパさんも、きっと同じこと考えてたんだクマ」
皆月の、引いては幾月の目的の実現性について、クマが肯定した。ミナヅキが感心したように、クマはその正体が正体なので人間の常識に囚われない。例えば人が神になることが可能かどうか、クマなら『可能』と答えられる。影時間やタルタロスも、そしてテレビの世界も常識ではあり得ない存在なのだから、それを使って行うことは常識の範疇に収まらない。そのことをクマは人間より認めやすい。
「神か……」
悠は自分の胸に手を当て、そして握った。クマの言葉を胸に落とし、忘れないように手で蓋をする。目を閉じて自分の体内、心臓か脳か分からないが、とにかく目に見えない『心の在処』に溜まった霧にも蓋をする。
──
その時、再び塔が揺れた。二年前の1月、闇夜の化身がタルタロスの頂上に大剣を突き立てた時のように揺れた。全員が足元を見やり、気を張る。体感時間で数秒ほどで揺れは収まったが、自然の地震もそうであるように落ち着きをなくしてしまう。このままでは、いずれ底が抜けてしまうのではという漠然とした不安に襲われる。この塔ではなく、世界そのものの底が──
「これは……塔の外からシャドウが集まっています。去年テレビの中で生田目さんにシャドウが集まった時みたいに……いえ、その何倍もたくさんのシャドウが、塔の頂上に向かって飛んでいってるみたいです」
りせが不安げに言うと、尚紀と風花も頷いた。塔の外の正確な状況は中からは分かりにくいが、とにかく事態は悪い方向へ着々と、または坂道を転げ落ちるように急速に進んでいる。
「どうやら時間はあまりないようだが……改めて聞こう。君たちはまだ戦うか?」
美鶴が尋ねる相手は高校生たちとクマだ。昨年に足立との戦いに赴いた時、尚紀に進むか引き返すか聞いた時のように、特捜隊と稲羽支部に向けて聞いた。今夜の事件の背景は桐条グループの過去にあり、対処する責任があるのはシャドウワーカー本部である。稲羽の人間たちには何の責任もない。巻き込まれた戦いを続けるか、それを聞いている。
「もちろんです」
答えたのは陽介だ。3日のグランプリで優勝して今夜もミナヅキが警戒した者の一人に、特殊部隊の隊長は視線を合わせた。覚悟を問う相手として認めるように、特捜隊のサブリーダーに向けて質問を重ねる。
「なぜだ? 皆月たちと因縁があるのは我々で、君たちではないぞ」
「因縁ならもうできてます。それに俺たちには、この町を守る権利があるはずです」
「既に仲間が何人もやられているのだぞ。それでもか?」
「覚悟してやっていることです。堂島さんとも約束しています」
たとえ犠牲が出ても、無念や後悔を感じても、それで足を止めることはしない。校門前で堂島と交わした、陽介なりの『約束』の意味はそういうことだった。
「そうか……分かった。頼りにしているよ」
かくして特殊部隊の支部長に続いて隊長も、高校生たちの参加を認めた。全員が頷き、武器を握り直す。もはや誰にとっても因縁深い、退くわけにはいかない戦いに身を投じる覚悟を決める。
なお特捜隊のリーダーは悠だが、陽介が皆を代表するように志願した。そしてそれに対して、他の者たちは何も言わないでいる。これがもし昨年であれば、きっと一悶着があったであろうに。
「陽介、クマ、りせ、直斗。皆に話したいことがある」
時計扉に向かって歩きながら、悠は仲間たちに話しかけた。表情には苦悩が出ている。
よくある例で言えば、海水浴やスキー旅行などを企画したのだが、直前になって宿や電車の予約が取れていないことが発覚して、イベントを楽しみにしている皆にそれを言わなければならないような。よくある辛い例で言えば、予期せぬ病気に侵されて、もう寿命が僅かしか残されていないことを皆に言わねばならないような。あり得ない例で言えば、次の春はもうやって来ないことが確定しており、今から選べる選択肢は楽に死ぬか苦しんで死ぬかの二つしかないことを宣告せねばならないような。そんな苦悩である。
話すことは辛いが、話さないわけにはいかない。ミナヅキに暴露された絆が失われている件について、悠は特捜隊に話そうとした。
「先輩……」
いつになく表情の暗いリーダーを心配そうに見上げるのは、りせだ。しかし悠は復帰に向けた準備中のアイドルと目を合わせない。
ミナヅキは悠を皆月と同類であると言った。殺人犯の足立、誘拐犯の生田目、そして模倣犯の久保のいずれとも、悠は似たところがある。似ていると誰かに言われたわけではないが、悠自身はそう思っていた。そして今、はっきりと言われた。絆など信じていないという意味で、悠は皆月と同じであると。
昨年何かする時はほとんど常に仲間と共にあり、固い友情があると信じていた者たちにとっては、衝撃的な指摘だった。絆の否定は事件を追った日々そのものの否定に等しく、彼ら自身の否定にすら等しい。人は自分自身だけで存在するものではなく、他人との関わりにおいて形作られる。それの否定は受け入れがたいことだ。
それでも悠は言わねばならない。特捜隊を強固に結び付けていた絆、即ちコミュニティと呼ばれる魔術的な繋がりについて。そしてそれが失われた理由を、しかも自然消滅したのではなくリーダーが自ら手を下して破壊したその理由を、皆に説明しなければならない。悠はそう感じていた。しかし──
「話は後だ。聞きたいことはあるけどよ、今はこっちに集中しようぜ」
リーダーの告白はサブリーダーによって遮られた。大切な話なのだろうが、今はそれを聞くべきではない。力が先で、言葉は後。シャドウと対峙した時の特捜隊のやり方に則るように、陽介は青いカーペットが敷かれた長い階段を歩く。
「……」
やがて全員が時計扉の前に辿り着いた。ペルソナ使いたちの先頭に立つのは有里だ。その背を見ながら悠は思う。
(貴方は袋叩きにされたのでしたっけ)
昨年11月7日に有里の車に乗せられた時、女関係には気を付けろと忠告された。『袋叩きにされるくらいならいいが、下手をすれば刺される』だった。自分がそうされたと有里ははっきり言っていたわけではないが、『愚者』として悠には想像がつく。と言うより、確信がある。有里は不条理な絆の報いを受けたことがあるのだと。ただ有里は今も生きているが、悠はそうは行かない。
奈落の時計に手をかけ、崖へと向けて踏み出す先輩の背を見ていると、悠は喉に痛みを感じた。また咳が出そうになったが、口を手で押さえて飲み込んだ。
一方その頃、クマ総統に拉致された二人は見知らぬ広い部屋にいた。一見すると高級ホテルのラウンジのような装いで、安物ではないソファーやテーブルセットが置かれている。広さは二十人ほどの人間がくつろげるくらいある。
そして部屋の奥には一台のテレビが置いてあった。一般家庭はもちろん、販売店でもめったに置いてない超大型のものだ。人一人はもちろん、三人並んで一緒に入れそうな大きさである。
外へ出る為と思しきドアもあるのだが、それは開けられない。鍵がかかっているとかそういうレベルではなく、どれだけ押しても引いてもびくともしない。ドアのように見えるのは見た目だけで、実は壁に描かれた絵のように。どれだけ力を込めてもペルソナの刃を叩きつけても壊せない、象徴化の棺桶のように。
ちなみに上の階へ続く階段もあるが、それは上れなかった。例の見えない壁があるかのように、近づけないのだ。或いはそれも本当の階段ではなく、壁に描かれた絵に過ぎないのかもしれなかった。
「ここ……本当にどこなんでしょう?」
「分からないな……稲羽にこんな立派な施設はないと思うが」
結実と生田目である。二人は赤い霧が覆った外の町のコンビニ前で遭遇し、そしてそこにクマ総統が現れて拉致され、連れてこられたのがこの場所だったのだ。ちなみに総統は二人を置いた後すぐに煙のように消えて立ち去り、今はいない。
「入らない……」
結実は大きなテレビに手を当てたが、その手はもぐりこまない。結実は11月にペルソナを一度失ったが、意図せず生田目と手が触れ合った途端、『役目』を終えたようにペルソナが戻ってきた。今の結実は隠者のアルカナを持つペルソナ使いである。しかしテレビに手は入らない。まるでこれはテレビではなく、その形をしたものに過ぎないように。このホテルのラウンジめいた部屋そのものが、その形をしただけのもののように。
「……」
生田目は周囲を改めて見回した。ここにある調度品はもちろん、建物自体も現実のものではないのだ。壁も床も天井もそうだ。その『天井』に目をやった途端、何かが湧いて出てきた。
「ん? え……!?」
ペルソナ使いがテレビに触れると浮かぶはずの波紋は、ここのテレビには浮かばない。その代わりと言うか、天井に浮かんだ。波紋の中心から赤と黒の金属の箱が現れた。底なし沼に沈んだもののようにゆっくりと、ないはずの『底』にいる生田目の前に現れた。棺桶である。
「うわっ!」
棺桶はかなり緩やかな動きで天井から這い出てきたが、全体が天井から離れると、その後は普通に重力に従うように落ちてきた。人が入れるサイズの箱が床に落ちる大きな音がした。しかし棺桶も床も傷はついていない。これは力では破れない見えない壁のように、殴っても斬ってもどうしようもない代物である。
「象徴化の棺桶!?」
突然現れた箱が何なのか、結実が口にした。結実は特殊部隊に加入した際に、特別課外活動部の時代の戦いの概要として、影時間には常人はこうなると説明を受けている。
「これは……人が入っているのか」
生田目はラウンジの床に膝をつき、横倒しに倒れた棺桶に手を触れた。その質感は硬く冷たい。
「え、ええ。そのはずですけど……」
「……」
生田目は棺桶をじっと見つめる。昨年は様々な思い込みによっていくつもの事件を起こしてしまったその『目』を、死を象徴するオブジェに注ぐ。触れている自分の手と、生死を別つ赤と黒の冷たい境界線を同時に視界に収める。やがて生田目は両者を区別しなくなる──
「……真由美」
──
死んだ人の名を呼ぶと、ガラスが割れた。黒いローブを着た女のビジョンが、膝をつく男の傍らに現れた。顔は黒いフードで隠している。そしてやはり黒い袖に包まれた腕を伸ばし、生田目の手に自分の手を重ねた。これは生田目のペルソナではなく、生田目に『取りついた』他人のペルソナである。正しくはシャドウだが、両者を区別することに本質的な意味はない。
生田目の手と生田目が『真由美』と呼ぶペルソナの手は、棺桶の中に入り込んだ。そしてそれを引くと、まさに普通の棺桶の蓋を開けたように、象徴的な棺桶が開いた。悠が菜々子の棺桶を開けようとどれだけ力を尽くしてもびくともしなかったのに、生田目は、正しくは山野は開けることができた。結実のペルソナと融合すると死者を蘇生させることさえできた、ある意味で規格外のペルソナは、死の象徴から中の人間を引き出すことができる。
「堂島さん!」
中にいたのは結実の上司に当たる稲羽支部の支部長だった。腹部に刺し傷を負っており、血まみれの状態だ。気を失っているようで、棺桶の中で目を閉じたまま動かない。
「キサガイヒメ!」
結実が召喚器を使わないまま一声呼ぶと、振袖を着た女のペルソナが現れた。得意とする治癒の力を行使し、光の粒を堂島に零す。その効果は昨年と変わらず高い。傷は見る間に塞がっていき、堂島は目を開いた。
「う……小沢?」
「大丈夫ですか?」
「ここは……生田目!」
堂島は身を起こすと、昨年の事件の犯人の一人の姿を認めた。そして急いで棺桶から出ると、現実の存在ではなくまさに象徴に過ぎない赤と黒の金属の箱は、そこからなくなった。シャドウが消えるよりも呆気なく、煙さえ出さずに幻覚が消えるように消えた。
「……」
昨年の事件の犯人の一人を見る堂島の視線は鋭い。
「……お久しぶりです、刑事さん」
生田目は昨年の事件に関して執行猶予状態になったことは、堂島は当然知っているし、納得もしている。しかし生田目はある意味で娘の仇のようなものである。もちろん菜々子は生きているが、一度は心肺停止に陥ったのだ。そうした私情もあって、堂島は警戒心を隠さない。
「あの……堂島さん。生田目さんは堂島さんを助けてくれたんですよ?」
結実がフォローを入れると、堂島は生田目から視線を外して部下の少女を横目に見た。何とも言いづらい、ばつの悪さを感じる。
「ああ……」
「いや、いいんだ。堂島さん、貴方にはどれだけ謝っても足りないでしょう」
「いえ……済んだことです」
被害者である娘の父親として、誘拐犯に対してわだかまりはないとは言えない。しかし大人の堂島は感情だけで行動はしない。刑事と特殊部隊員として生田目の処遇に納得している以上、私情を抑え込んだ。今やるべきことは他にある。
「それで……生田目さん、ここはどこですか。貴方と小沢はどうしてここにいるのです?」
「どこなのかは私たちにも分かりません。マヨナカテレビに出ていた着ぐるみ……クマ総統に連れてこられたのです」
言葉遣いを改めた堂島に、生田目は事情を説明した。
「なるほど。しかしなぜ家から出たのです? 今はペルソナを使えるようになったとのことですが、昨日まではできなかったのでしょう」
説明を聞いた堂島は核心に触れた。これはコンビニの前で結実も聞いたことだ。答える前にクマ総統が現れた為にそこでは流れたが、改めて聞かれたわけだ。
「私は……」
今度は邪魔は入らない。答えにくいことであるが、答える義務があると生田目は感じた。そして結実も聞きたそうにしていることが見て取れた。
「自分が何もできないなどと、認めたくなかったのです。昨年からずっと……」
「……」
それは自分がこの世にいる意味を求めることだ。事件が続いていた去年は確かにそうだったはずの、言わば前の動機である。それを堂島は黙って聞いている。しかし──
「いえ……違いますね。私は死にたいと思っていました」
刑事が深く追及してくる前に、生田目は今の動機を自白した。
「やっぱり……そうだったんですね」
昨年11月5日に足立に撃たれた生田目は、結実に助けられた。そのことについてコンビニ前で礼を言ったが、本当は感謝の気持ちはないのだ。あの時に死んでいれば良かったとの思いを、ずっと拭えないでいる。礼の言葉に違和感を覚えていた結実は、疑問が腑に落ちた。
そして生田目は12月3日にも死にかけている。菜々子が一度死の淵に落ちて、仇を取ろうとした悠と陽介に殺されそうになった。その時、凶悪な少年を殴り飛ばして止めたのは堂島だった。つまりここにいるのは、二人の『命の恩人』である。しかし生田目はやはり堂島に感謝の思いを抱けない。3月に悠に語ったように、死なずにいることが残念でいる。虚ろの森と黄泉比良坂で死に損なった落ち武者と同じ心境でいるのだ。
そんな絶望した男を堂島は諭す。
「生田目さん、貴方は法律で裁いてもらうことはできないのです」
ある種の犯罪者にとって、裁いて『もらえる』のは救済である。例えば違法薬物の常習者は捕まると、これで薬をやめられると安心することがある。しかし生田目はその類の救いを得ることはできない。法律は死刑はおろか懲役も命令してくれない。
「人はルールに従わねばなりません。貴方にはもう、死ぬ権利はないのです」
人は死ぬ権利があるかどうか。日本の法律では自殺幇助は犯罪だが、自殺自体は犯罪ではない。しかし堂島が言う『ルール』はそれとは離れた領域のものだ。
「貴方が生きているのは、山野真由美さんのおかげなのですから」
「……」
生田目は自分の胸に手を当てた。真の意味での命の恩人はそこにいる。山野に貰った命である以上、無駄にすることはできない。法律やものの道理とは異なるところにある、人としてのルールにおいて生田目は自殺する権利はない。堂島が言っているのはそういうことだ。
「……ええ。その通りですね」
この時、生田目は『契約』をした。相手は堂島だ。
「ん? あ、また棺桶が!?」
大人の男同士の会話が一段落したところで、結実がふと天井を見上げると、またしても棺桶が落ちてきた。しかも一つではなかった。生田目にしかできない仕事はいくつもある。