ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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新たな異邦人(2011/4/29)

 獣が唸るような排気音を上げる一台の青いスポーツカーが、稲羽峠を攻めていた。雨に濡れたアスファルトをタイヤで抉りながら、車は下りの右コーナーに猛然と突入する。曲線を描く白いガードレールは、車の勢いからすればいかにも頼りない。か弱い防壁の向こうは谷底だ。左のリアバンパーが金属板一枚の防護柵に触れる寸前、エンジンは回転速度を一段階上げた。マフラーから轟く機械の咆哮は、たまたまそこに落ちた不運な雨粒を蒸発させ、車は水煙をまとって危地を走り抜けた。その向かう先は次なる危地、左コーナーだ。

 

 岩壁へ突撃せんばかりに疾走する車の中で、ドライバーの左手が閃いた。シフトレバーを連続して下げ、直後に右足でブレーキペダルを踏みしめる。そして右手でステアリングを軽妙に操作して、ドリフト走行へと移行する。と思いきや──

 

「!……」

 

 車が水を跳ねる音が一際大きくなった。それと同時に右のリアタイヤが沈んだ。水たまりに足を取られたのだ。ドライバーは咄嗟にステアリングを逆に切り、右足を踏み込んだ。その瞬間、車は一気に人間のコントロールから離れようとした。

 

(違う! ここはブレーキじゃない!)

 

 反射的に踏み込んでしまった右足をブレーキから離して、アクセルに当てる。スピンしかけた車体を立て直すべく、スピードを取り戻す。急激に湧いて出た汗を浴びながら、車の震えを手足とシートに触れる背中で感じる──

 

 時間にすれば一秒か二秒、だが体感的にはとても長い戦いを経て、車は人間の制御下に戻った。そしてコーナーを抜けた。

 

「今のはちょっと、危なかったな……」

 

 車を疾駆させていたドライバー、有里は息を一つ吐き出した。雨の峠道を走るのが面白くてつい調子に乗ってしまい、危うくスリップしかけたわけだ。仕事で来ているのに、途中で事故を起こしたとあっては冗談にもならない。

 

 急に浮かんだ冷や汗が乾いた頃、九十九折りの下り坂はもう終わり、間もなく平地に入るとカーナビが告げてきた。それを見て、有里はアクセルを踏む右足を浮かせた。デジタル表示のスピードメーターは見る間にその数値を下げていき、やがて法定速度にまで落ちた。

 

 この先は安全運転で進むことにした。スリップに懲りたのもあるが、それだけではない。峠はともかく平地のしかも昼間となれば、どこにネズミ取りが潜んでいるか分からない。事故を起こしても大問題だが、スピード違反や危険運転で警察に引っ張られでもしたら、いよいよシャレにならない。何しろ当の警察に用があって、有里は峠を越えてきたのだから。

 

 ふと燃料計に目をやれば、グラフはかなり下まで落ちていた。峠の攻略で思った以上にガソリンを消費したようである。待ち合わせの場所に行く前に給油しようと、有里はカーナビのタッチパネルに指を触れた。近場のガソリンスタンドを検索すると、一件ヒットした。画面に表示された店名は『MOEL石油』だ。

 

 

 広い田畑と点在する民家があるばかりの、典型的な田舎の風景を脇目に、都会から来た青い車は雨中を滑るように走った。そしてささやかな市街地に入ってすぐの、交差点の角にあるスタンドに辿り着いた。

 

「らっしゃーせー!」

 

 店員の威勢のいい声で迎えられた有里は、酷使したエンジンを止めて車から降りた。

 

「ハイオク満タンで」

 

「はい、ありがとうございまーす!」

 

 店員は早速給油機からノズルを外し、給油口に差し込んだ。その間、有里は車から一歩離れて田舎の町並みを眺めた。ただし雨が降り続いているので、スタンドの屋根が及ぶ範囲からは出ない。4月の終わりの雨を含んだ風は、ジャケットを羽織った体にも寒く感じられた。

 

「お客さん、見ない顔ですね。観光ですか?」

 

 店員に話しかけられて有里は振り返った。有里は整髪料を使って前髪を上げているので、左右の目を両方とも表に出している。しかし店員は目深にかぶった帽子のせいで、どちらの目もはっきりとは見えなかった。顔を向かい合わせてはいるのだが、視線は出会わない。

 

「いや、仕事ですよ」

 

「へえ、こんな田舎にお仕事ですか……」

 

 店員は依然として目を見せてはいないが、声色には興味を持っていることが伺えた。しかし仕事の内容を聞かれても答えるわけにはいかない有里は、横目でスタンドの外を示しながら話題を逸らした。

 

「この辺り、少し変わりましたか?」

 

「あれ、前にも来られたことが?」

 

「ええ、二年ほど前に一度」

 

 これは本当である。有里は二年前の8月に、部活の合宿で八十稲羽に来たことがある。特に買い物などはしなかったが、このスタンドを含む商店街の町並みを見ている。当時は小さいながらも活気があって、良い町との印象を持って帰った。しかし今は当時と違って見えたのだ。その場から見える風景は中央通り商店街のごく一部でしかないが、それでも違う印象を受けた。シャッターが下ろされた店舗が目立っていたのだ。

 

「そうですねえ……ジュネスができちゃってから、大分変わっちゃいましたからね」

 

 言われて有里は、再び町並みに視線を向けた。雨で煙る町の中に、全国展開する大型デパートの姿は見えない。しかしそれが落とす影は見える気がした。

 

「なるほど……」

 

「おっと、満タン入りました!」

 

 そこで給油が終わり、世間話も終わりになった。店員は給油機にノズルを戻し、レシートを取り出した。有里はスラックスのポケットから財布を取り出し、代金を支払った。そのやり取りは極めてスムーズに、淀みなく進んだ。互いの手が触れ合うこともなかった。記憶に留めずにはいられないような奇妙な出来事などは何もないまま、有里は車に乗り込んだ。

 

「ゴールデンウィークなのに、お疲れ様です。お仕事、頑張ってくださいね!」

 

「どうも」

 

 有里はエンジンに再び仕事をさせて、青い車を発進させた。商店街には入らず、元来た道から見て直進方向へと交差点を走り抜けていった。それが見えなくなってから、少なくとも人間の視界からは消えてから、人のいなくなったスタンドで店員は帽子のつばを上げた。

 

「死んだはずの男……運命の外にいる者か。とうとうこの地にも来たか」

 

 露わになった店員の目つきは、非常に鋭いものだった。もしこの目を有里が見ていたら、何かを感じずにはいられなかっただろう。その実体までは理解できなくとも、少なくとも覚えておく気にはなったはずだ。意識や記憶の奥深くに食い込んで、棘のようにその存在を主張しながら、相手に己の正体は掴ませない。店員はそんな目をしていた。その瞳は降り続ける雨粒の群れを、一つも零さず映し出している。

 

「いつか……この私にまで辿り着く日が来るかもしれないな」

 

 そう言って、店員は再び帽子のつばを下げた。

 

 

 ガソリンスタンドを出た有里は、そのまま八十稲羽の町を走った。もちろん法定速度は守っている。フロントガラスで忙しく働くワイパー越しに、何とはなしに風景を見ているうちに、カーナビは目的地に到着したことを告げてきた。この地域を管轄する警察署、稲羽署だ。

 

 来客用の駐車場に車を停めると、スーツ姿の一人の男が近づいてきた。傘を握っている右手には、何の装飾もない無骨な指輪が一つ、無骨な指にはめられている。それを認めた有里は車から降りた。

 

「お久しぶりです、黒沢さん」

 

 来たのは四十歳になるかどうかくらいの男だ。甘さのまるでない顔といい、身にまとう雰囲気といい、まずもって堅気のようには見えないこの男は、名を黒沢という。有里とは一昨年、高校二年生の頃からの知り合いである。だが会うのは久しぶりだった。

 

「祝日に悪いな。状況は聞いているか?」

 

 二人は再会を懐かしむでもなく、早速話を始めた。昨日、急な依頼によって稲羽に来ることになった有里だが、それに先立って現地で調査を進めていたのが黒沢である。

 

「ええ。高校生が二人、影人間らしき症状で入院していて、影時間は確認されていないのでしたね」

 

 昨日までの黒沢による調査報告は、有里も目を通している。それによれば、昨年の初めまで社会問題となっていた無気力症、有里たちが言うところの影人間、正確にはそれと思しき症状の人間は、今月以降で二人確認されている。ただしその要因、と言うか影人間が生まれる『時間』の発生は確認されていない。

 

 有里はかつての戦いにおいて、その時間を永遠に『封印する』こともできた。しかしそれをせずに、現在に至っている──

 

「そうだ。奴らの仕業かどうか、まだ断定はできんというところだな」

 

 世間では無気力症と呼ばれる症状は、医学的には今なお原因不明のままだ。有里たちは原因を分かっているが、患者本人だけを見て影人間であると判断するのは意外と難しい。状況証拠からそうと推測できるだけで、解析の『能力』で調べるなりしない限り断定はできないのだ。だから稲羽で発生した事象が、彼らが対処すべき事案であるのかどうか、その段階から結論はまだ出ていない。

 

「新組織の設立後に全国で基礎調査を実施する予定ですが……それに向けて調査と評価の方法を確立しないといけないですね」

 

 組織──

 

「そうだな……んじゃ、行くか。幹部候補生」

 

 黒沢は有里を促した。『組織』云々の発言に対して、からかうような色を添えた物言いで。ただし顔は普段の強面のままで。

 

「よしてくださいよ。僕はただの大学生ですって」

 

 冗談めかした黒沢に、有里は小さな苦笑を添えて答えた。すると黒沢はにやりと笑った。

 

「ただの大学生が乗るにしちゃあ、その車は安物に見えんな」

 

 そして意味ありげに有里が乗ってきたスポーツカーを指差した。この指摘は正しい。高級マンションに住んでいる有里は、自家用車も安物ではない。駐車場に停まっている他の車と比べれば、雨中でもあからさまに浮き上がっている。

 

 

 黒沢と有里は受付で名前と用件を告げると、署の最上階にある応接室に通された。長いテーブルと、座り心地の良い大きな椅子が十脚ほど並べられている。稲羽署は田舎町の所轄だが、例えば県警本部の人間などが来る場合に備えて、こういう部屋も用意されている。

 

「失礼しまーす」

 

 そこで数分ほど待たされた後、廊下に通じる扉の向こうから声がした。そして二人の私服警官がやってきた。そのうち若い方の一人が、山のようなファイルで両手が塞がれた状態で苦労しながらドアノブを回し、腰で扉板を押すようにしながら開けた。そしてその後ろから年長の方の一人が入ってきた。両手はやはりファイルの山である。

 

「稲羽署の堂島です」

 

「同じく、足立です」

 

 二人はテーブルにファイルを置いてから、胸ポケットから警察手帳を取り出した。対する黒沢も、同じように手帳を取り出した。

 

「警視庁の黒沢です。お忙しいところ、ありがとうございます」

 

 刑事である黒沢は、今月の中旬に意識不明で倒れた二人の女子高生に関して、数日前から色々と調べていた。ただしこれまでの調査は二人が現在も入院している病院で行うのが主で、稲羽署には地域課に話だけ通していた程度である。なぜならその二人の件は、警察は事件扱いをしていないからだ。

 

 その一通りが済んだので、同時期に発生している殺人事件と関連がないか調べる為、黒沢は稲羽署に捜査資料の閲覧を申し込んでいたのだ。ただし現在も捜査中の事件なので、外部への資料の持ち出しはできない。だから自分たちで出向いてきたわけである。

 

「こちらは協力者の有里という者です」

 

「よろしくお願いします」

 

 そして表向きはただの大学生で、警官でも探偵でもない有里を二人に紹介した。本来は警察の資料など見られる立場にはないのだが、現職の刑事である黒沢の紹介があれば、ある程度の融通はきく。そして黒沢自身でなく、その上や背後に隠れている者たちからの根回しがあれば、もっと融通がきくようになる。

 

「こちらがこれまでの捜査資料です」

 

 だから堂島は手ずから運んできた、この日までの自分たちの仕事の成果を二人に示した。足立もそれに倣った。

 

「拝見します」

 

 そして都会から来た二人組は、殺人事件の資料に目を通し始めた。

 

 

(18日は何も起きてないみたいだな。これは外れかな?)

 

 有里は特定の日に注目して、その日や前後に何か起きていないかとの観点から、資料を調べていた。しかし今のところ、目ぼしい情報は発見できなかった。そうやって三十分ほど経過した頃、応接室の扉が再び開いた。

 

「失礼します」

 

 来たのは足立だった。手には湯気を立てている紙コップを二つ持っており、その後ろには堂島もいる。この二人は資料の山を持ってきた後は一旦部屋から出ていたのだが、また戻ってきたわけだ。飲み物を持参して。ただし堂島は手ぶらである。

 

「どうぞ。熱いから気を付けてください」

 

 足立はコーヒーを黒沢に、次いで有里に差し出した。

 

「どうも」

 

「ありがとうございます」

 

 客の二人は礼を言ったが、地元の二人は単に気をきかせたつもりで来たのではない。だから堂島は黒沢の、足立は有里の、各々向かいの席に腰を下ろした。

 

「黒沢さん、我々にも教えてくださいませんか」

 

 そして堂島はこう切り出した。

 

「と言いますと?」

 

 資料から目を上げた黒沢と、堂島の視線が出会った。と言うより、衝突した。若者と呼ばれるべき年齢をとうに過ぎた、働き盛りの二人の男は互いに目を合わせたまま、どちらも逸らそうとしない。まるで睨み合っているような、干戈を交わすがごとき視線の応酬である。有里も顔を上げ、二人の間に飛び散った火花を見る。足立も見る。

 

「……」

 

 やがて堂島は席から立ち上がった。視線は黒沢の目から外さないままだ。

 

 稲羽署で殺人事件を捜査している刑事は大勢いる。と言うより、刑事課の人員は一人残らずそれに当たっている。その中で、この二人が黒沢たちの応対をすることになったのは、署に話が来た際に堂島が志願したからだ。ちなみに足立は堂島の相棒だからついてきただけで、足立自身は特に思うところがなかった。

 

 堂島は口が巧みではなく、本人もそれをよく分かっている。だから小細工は抜きにして、腰だめに構えた拳を真っ直ぐ突くように、あらかじめ視線が整えた軌跡に言葉を乗せた。

 

「貴方は意識不明で倒れた、松永綾音と海老原あいの件で稲羽に来られたのでしょう。あの二件は、山野真由美と小西早紀の件とどう関係しているのです?」

 

 だが口下手にしても、少々言い方が真っ直ぐすぎる。

 

 警察組織においてセクショナリズムは確かにある。県警本部と所轄の警察署は、人や情報の交流はかなり活発だが、それでも否定しがたい壁があるのだ。堂島と黒沢は県が違うので、組織上の縦の関係にはない。しかしやはり壁はある。いわゆる大人の事情というものだが、その壁は厚く高いものだ。正面から体当たりしたくらいで破れはしない。

 

 しかし意外にも、黒沢は笑みを見せた。

 

「無気力症というものをご存知ですね?」

 

 強面の男が笑うのは、違う意味を持っているように感じられるものだ。しかし黒沢は裏の意味など持たせていない。堂島は不器用だが、実は黒沢も大差がないのだ。つまり堂島の正面突破は功を奏したわけである。

 

「ええ」

 

 稲羽でずっと暮らしている堂島も、無気力症と呼ばれるものはもちろん知っている。昨年の初めまで全国各地で、更には日本以外の国々でも発生し、世界的な関心が払われていた原因も治療法も不明な謎の病気だ。そして国内で最も深刻な状況にあったのが港区だ。

 

「あの二人は無気力症だと?」

 

「さて……無気力症はそもそも原因が不明ですから、そうと断定するのも難しいのですがね。それはともかく、私は去年まで港区で交番勤務をしておりましてね」

 

「そうなんですか?」

 

 ここで足立が口を挟んだ。意外なことを聞いて驚いたように。交番勤めの巡査が本庁へ一足飛びに異動するなど、そうそうある話ではないから。

 

「ええ。一番酷い時は、歩けば患者にぶつかるような有様でした」

 

 昨年の1月にピークを迎えた無気力症の蔓延は、町の雰囲気そのものをも変えていた。誰もが全体的に落ち着かなくなり、事件も事故も急増した。原因も犯人も不明なら、内容さえ不明確で、ただ何かが起きたような、熱に当てられた不安感から生じる噂そのものが実体を持って人を襲う。そんな理解不能な事件の知らせだけが、黒沢のいた辰巳東交番にも無数に舞い込んできた。まさに終末の気配とでも言うべきものが町を覆っていたのだ。今は本庁勤めの刑事は、そうした己の過去を淡々と語った。

 

(まあね……でもこの人は、ストレガがカルトを立ち上げたこととかは、知らないんだよな)

 

 黒沢の告白を聞きながら、有里は軽く目を伏せた。有里は黒沢が知るよりも、もっと酷い状態の町を知っている。町中の道路や壁に三文字のアルファベットを組み合わせた意匠が溢れ、終末思想を掲げるカルトが大流行した。ニュースも取り上げるのはその話題ばかりで、異形のカリスマと題した特集記事を組んだ雑誌が大人気を博したりもしていた。

 

 しかしそれらは、『なかったことになった』のである。隠蔽されたという意味ではなく。この世でたった数人の人間の記憶にだけ留められて、存在しないものとなった。だから黒沢が話している間、有里は何も言わなかった。

 

「だからでしょうかね。似た症状が出たとあっては、どうにも放っておけない。それで管轄外を承知でお邪魔しているわけです」

 

「……」

 

「正直なところ、倒れた二人と死んだ二人の間にどんな関係があるのかは私にも分かりません。無気力症から死に至った例は少ないですから。しかし無関係であるとも言いきれない……。私の経験が、こちらの事件の解決の一助になればいいと思っています。微力ですがね」

 

「なるほど……」

 

 話を聞き終えた堂島は席に着いた。取り敢えず、引き下がったわけだ。

 

 堂島は多忙を極めているにも関わらず黒沢の応対を請け負ったのは、意識不明で倒れた二人の女子高生が、山野と早紀の死に関係していないかと疑っていたからだ。そして倒れた二人についての調査の為に警視庁から刑事が来るとの話を聞いた時から、何か裏があるのではと思っていた。そこで直接疑問をぶつけてみたのだ。

 

 ぶつけた結果は、期待していたような話ではなかった。黒沢はまだ全てを話してはいない。長年の刑事勤めで培われた堂島の勘は、そう告げていた。しかし仕事に対する黒沢の姿勢には、真率の響きがあった。その心意気に感じるものがあったので、この場ではそれ以上の追及をやめたのだった。

 

 都会から来た二人組が資料と睨み合い、時々田舎に住む刑事に質問をして、答えを得る。そうやって稲羽署の応接室では、数時間があっという間に過ぎていった。

 

 

 

 

 警察にも定時というものはある。もっとも仕事の状況によっては、あってなきが如しにもなる。しかしたとえどれだけ忙しくても、何か理由があれば早く上がることは可能だ。例えば訪問客との付き合いとか。

 

「あ~ら堂島さん。お久しぶりね。しかもお供が三人もいるなんて、珍しいじゃないの」

 

 稲羽署の応接室にたむろしていた四人組は、一区切りがついたところで、飲みに出かけることになったのだ。堂島が誘って黒沢が応じた為だ。そして足立と有里もついて来た。

 

「ほう、これはこれは……」

 

 先導する堂島に連れられて店に入った黒沢は、感心したような声を上げた。薄暗い紫色の照明といい、昔ながらの歌謡曲といい、カウンターに置かれているカエルの置物といい。そこかしこに前世紀の遺物感が漂っている。ここは町の商店街のちょうど中央付近にあるスナックだ。店名は四六商店、もといスナック紫路宮と言う。はっきり言えば人を選ぶ店だが、黒沢は気に入ったようである。

 

「ビールで良かったかしら?」

 

 店の一角にあるテーブル席に座った四人の男の下へ、瓶ビールとグラスをトレイに乗せたママがやって来た。少々恰幅が良すぎるきらいがあるが、動きは機敏だった。

 

「ああ」

 

 堂島が答えるのと、ママがグラスを並べ始めたのは、ほぼ同時だった。答えは聞くまでもなかろうとも、まず聞くのが礼儀というものだ。派手なマニキュアを塗った逞しい指に挟まれたグラスは、奥の席に座った黒沢の手元に最初に置かれた。そしてその前に座る堂島、その隣の足立へと、慣れた手つきでグラスを並べていく。

 

 そして最後に、黒沢の隣に座る有里の前にグラスを置いた。ただし他の三人には冷えて水蒸気が付着した空のグラスが置かれたのに対して、有里のものだけは中身が既に入っていた。と言ってもビールではない。アルコールの匂いを発していない茶色の液体だ。どういうつもりかと、有里はママを見上げると──

 

「貴方、指に鎖なんかしてるけど、飲んじゃ駄目でしょ」

 

 店の通路をすっかり塞いでしまいそうな、大きな体をことさらに見せつけるように、ママは腰に手を当てていた。

 

「はて、何のことでしょうか?」

 

 有里は左手で頬杖をついて、わざとらしく相手を見上げた。無精髭の一本もない滑らかな顎に触れている、薬指に縛りつけられた銀色の鎖、もとい指輪が店内の紫の光を反射している。

 

「とぼけたって駄目よ。あたしの目はごまかせないわ。堂島さんの連れだから帰れとは言わないけれど。ウーロン茶で我慢してね」

 

 背伸びして入ってくる客というものは、どこの店にもいるものである。有里も昨年頃から、地元のクラブやバーで背伸びをした経験は何度かある。しかし止められたのは初めてだ。店のポリシーか、ママが真面目なのか。はたまた刑事である堂島たちの不祥事にならないよう、ママなりに気を遣ったのか。とにかく有里に飲ませる気はないようである。

 

「参りました。お見事です」

 

 有里は頬杖を外して両手を挙げ、ママの慧眼に降参した。ここまで断言されては、とぼけても意味がない。身分証明書の提示を求められればそれまでだし、こんなところで嘘を吐くのも本意ではない。相手が勝手に勘違いするのは敢えて止めないが、嘘を吐くのは有里の主義ではなかった。

 

「来年頃にでも、またいらっしゃいね。そしたらサービスしてあげるわ」

 

 ママは広い顔に勝ち誇った笑みを浮かべ、ビールの瓶をテーブルに残してカウンターへと戻っていった。そして堂島ははす向かいに座る青年に向けて、鋭い視線を送る。

 

「有里さん……失礼ですが、おいくつなのです?」

 

「車の運転はできる年ですよ」

 

 対する有里は曖昧に笑って、瓶を手に取った。そして堂島のグラスにビールを注いだ。

 

 

 刑事三人に未成年を一人加えた飲み会が始まって、三、四時間ほど過ぎた頃。外では変わらず雨が降り続いているが、薄暗い店内で鳴り続ける演歌がそれを掻き消している。そしてそれをも掻き消す太い声が、テーブル席から繰り返し上がっていた。

 

「今でこそ本店勤めだがな。時々無性にハコが恋しくなるんだ」

 

 黒沢は空になったグラスをテーブルに置きながら、隠語を口にした。警官は外で飲んだりする場合には、知らない人間には分からない言葉を使うのが常だ。そこには機密保持の意識がもちろんあるのだが、それだけではない。たとえ仕事に誇りを持っていても、大っぴらに話すのは避けたがる傾向がある。

 

「ああ、分かる気がするな。上の顔色伺うのが馬鹿らしくなるんだろ」

 

 堂島はもう何本目か数えてもいない瓶ビールを手に取って、向かいのグラスに注いだ。立場や階級では黒沢の方が上なのだが、堂島はいつの間にか敬語も使わなくなっている。そして黒沢も相手の言葉遣いなど全く気にしていない。

 

「そういうこった。連中は現場ってもんを、何も分かっちゃいねえからな」

 

「どこの本店も変わらんな。やれメンツがどうだ世間体がどうだと、んなもんばっか気にしやがって……こっちゃいい迷惑だぜ」

 

「最近、サッチョウの連中と知り合ったんだがな。ありゃあもっと酷いぜ……」

 

 年長の刑事二人は、すっかり意気投合してしまった。元より年齢が近く、仕事に対する思い入れも似ている。酒で赤らんだ顔を突き合わせた二人は、互いに同じ匂いを感じたのか、とても今日初めて会ったとは思えないほど打ち解けた雰囲気である。手を軽く伸ばすだけでビールを注ぎあえる、実際の距離以上に近く感じられる。

 

 その一方で、若い方の二人は比較的静かに飲んでいた。片方は酒だがもう片方はウーロン茶なので、極端な盛り上がりは見せていない。

 

「へえ、ポートアイランドですか。じゃあムーンライトブリッジの辺りにお住まいで?」

 

「ええ。近場ですが……よくご存知ですね」

 

 今の話題は有里の地元に関する話で、互いに敬語を使っていた。年齢では下の有里がそう話すのは当然だが、足立もそうしていた。普段着用している警察官の仮面は、今日もしっかりと貼り付いている。

 

「以前、あの辺りにいましたから」

 

「え?」

 

 だがここに至って、足立はつい口を滑らせた。意図した通りの言動を自在にできる足立にしては、珍しい失態だった。

 

「はは……昔の話です」

 

 しかし足立は動揺はしなかった。代わりにへらりと擬音を発しそうな、軽い笑顔を眼前の相手に見せた。

 

「それよりいいんですか? もう遅いですけど、宿とか大丈夫ですか?」

 

「あ、そうですね」

 

 そしてあからさまに話を逸らしてきた。だが有里は逸らされた話題を元に戻そうとはせず、上着からスマートフォンを取り出して時刻を確認した。もう22時が近い。これ以上遅くなると、宿にチェックインするのに面倒が生じるのは事実だ。有里は足立の言動に僅かながらに引っ掛かりを覚えながらも、勧めに従うことにした。

 

「黒沢さん。済みませんが、先に上がらせてもらってもよろしいですか?」

 

 有里が席から立ち上がりつつそう言うと、年長の刑事二人は揃って赤ら顔を向けてきた。

 

「おう、若者は早く寝ろ。また明日な」

 

「おお……済みませんな。付き合わせてしまった」

 

「とんでもないです。今日はありがとうございました」

 

 堂島の思い出したような詫びの言葉に、有里は微笑で返した。かくして酒の入った三人を置いて、有里は一人でスナックを出た。その足取りには、後ろ髪を引かれるような素振りはなかった。むしろ少しばかり急ぎ足だった。有里にすれば、完全に出来上がってしまった年長者たちに、素面で付き合うのに疲れたというのもないではない。しかし実は、店に入る前から気になっていた事柄があったのだ。

 

 

 有里はスナックの裏手の駐車場から車を出して、表通りを南に向かって走らせた。しかしまたすぐ停車した。道路の反対側、とうに営業時間を過ぎている本屋と、店先に鎧兜を出している何だか分からない店の間にある、青い扉を見た。周囲の雰囲気からかけ離れたその扉に、有里はスナックに来る途中で気付いたのだ。しかし一緒に飲みに行った他の三人は気付いていない。他人は見ることもできない、その扉に向けて有里は歩いた。朝から降っていた雨は未だに続いているが、傘は差さなかった。

 

『ようこそ……』

 

 扉の向こうから懐かしい声が聞こえたと思ったら、視界は光に染まった。

 

 

 視界と意識を眩ませる一瞬の光が収まると、有里は青い空間に座っていた。正面には見知った、だが異様な顔がある。

 

「お久しぶりでございますな」

 

「そうだな」

 

 鼻の長い老人、イゴールの挨拶に有里は短く答えた。有里は一年と三ヶ月ほど前まで、この青い異空間、ベルベットルームを頻繁に訪れており、その度にイゴールの世話になっていたのである。ただ当時の戦いが終わって以降で来るのは初めてだ。もう二度と会うことはないだろうとさえ思っていた。

 

 有里は周囲を見回すと、以前に来た時とは部屋の装いが変わっていることに気付いた。記憶に残るベルベットルームは上へ上へと昇るエレベーターを思わせる部屋で、広さも今の部屋よりずっとあった。しかし今はリムジンを思わせる作りで、進んでいる方向も上ではなく前だ。調度が青色で統一されていること以外に共通点は少ない。そしてこの部屋に住まう者たちも、イゴール以外は知り合いではなかった。

 

「初めまして。私はマーガレットと申します」

 

 向かって右側に座っている美女に見覚えはなかった。だが発する気配や顔立ちが、何となく似ている人を有里は知っていた。そして美女が膝に乗せている百科事典めいた厚さの本には、見覚えがあった。

 

「貴女はもしや……エリザベスの?」

 

「姉でございます」

 

 推測を口にしてみれば、当たりだった。

 

「エリザベスはどうした」

 

「あの子は旅に出ました」

 

「旅?」

 

「あの子からお聞きでしょう。ベルベットルームに集う者は、己が何者なのかを探求する定めにあります」

 

 この世には『自分探しの旅』という言葉がある。人間でもそれをやっている者は多い。

 

「とは言うものの……当てもない旅に出たところで、答えを見つけられるとは思えませんが」

 

「……」

 

 マーガレットのこの言葉に対して、有里は答えなかった。一年前の1月に、有里はマーガレットの妹と戦い敗れたのだが、その後に彼女は己と『契約』するよう申し出た。己が何者なのか教えることと引き換えに。だが有里は、彼女が望むものを与えることはできないと言って辞退した。履行が不可能な『契約』をする代わりに、己が何者かを知りたければベルベットルームを出ればいいと勧めたのだ。だから有里にすれば、旅など無意味と言うマーガレットに同意はできなかった。しかし反論もしない。

 

「私たちにとって、職務放棄は本来許されざる罪です。しかし私たちに与えられた時間は永劫に近いほどに長いもの。時には外に出て見聞を広めるのも良いと思って、特別に許しました。それで姉である私が、代わりにここに務めている次第です」

 

 以前にエリザベスから聞いた話によると、ペルソナ使いであっても契約者以外はベルベットルームの住人を記憶できないはずである。ならば旅に出たところで、どうなると言うのだろう。誰の記憶にも残らない、誰とも関わりを持てない存在が、旅で一体何を得られるのか。それとももしや、この部屋を出たらそうではなくなるのだろうか。昨年に有里はそんなことをエリザベスに言ったが、期せずして真実を言い当てていたのかもしれない。

 

 だがマーガレットの妹に関する話は、それ以上続かなかった。

 

「それから、もう一名を紹介いたしましょう。マリー、ご挨拶なさい」

 

 マーガレットは有里から見て左側に座っている、一人の少女を促した。青い帽子をかぶったその少女に、有里は見覚えがなかった。似た雰囲気の人にも心当たりはなかった。

 

「……!」

 

 しかし少女は目を上げた途端、何も言わずに帽子を深くかぶり直した。そして顔を伏せて、男の視線から完全に自分を隠した。膝に置かれたその手は小刻みに震えている。

 

「……失礼いたしました。彼女の魂は未だ幼く、ご無礼があるかもしれませんが、見習いの身ですので、どうかお許しください」

 

「そうか」

 

 有里は知らないことだが、普段のマリーは幼いなどと言われれば癇癪を起こす。しかし今は何も言わずに、震える小さな手を何とか抑えようとひたすら握りしめるばかりだった。怯えているのだ。本来いるべきでない者が、そこにいる。まるで咲き誇る桜の上に雪が舞い落ちるような、極めて不自然なものを目の当たりにして、何とも言えない薄気味の悪さを感じていたのだった。

 

 しかしそんな少女に有里は特別な関心を払わなかった。そしてこの場にいる他の者たちも、マリーについてそれ以上触れなかった。

 

「さて、本来あるべき運命では、貴方は既にこの世にないはずでございました。しかしご夫人の活躍により、貴方は生き残った。そしてこの地を訪れなさった……」

 

 この部屋の主にして有里と最も縁の深い老人、イゴールが話を始めた。それは知らない人間には訳の分からない話だが、全て真実である。

 

「ご存知の通り、この部屋は何らかの契約をなさった方が訪れる場所。貴方は一度……いや、二度とも数えられる契約を、既に成し遂げておられます。しかしまた新たな契約を結ばれて、今はそれを進めておられる最中ですな」

 

「……」

 

 イゴールが何を言っているのか、有里には理解できる。かつての戦いを終えたことにより、当時の契約は無事に終了した。だがそれから一ヶ月ほど後に、有里はまた別の『新たな契約』を取り交わしたのである。今は妻となった、代わりのいない、かけがえのない一人の女と。もっともその契約は有里に限らず人間の男なら誰でも結びうる、極めてありふれたものに過ぎないのだが。しかしそれでも『契約』には違いない。

 

「僕に何をしろと言うんだ」

 

 有里の声に小さくない苛立ちが混じった。普段はものに動じない性格だが、この時ばかりは苛立たずにはいられなかった。

 

 ベルベットルームはワイルドが新たなペルソナを生み出す場所だ。その戦力は並のペルソナ使いと一線を画すが、それもこの部屋に来てこそだ。イゴールの助けを借りなければ、ワイルドはその本領を発揮できない。その究極は、多くの絆の結晶として生み出される、宇宙と等価の存在の力だ。

 

 だからこの部屋が、正確にはこの部屋の扉がこの町にあるということは、そして有里の前に現れたということは、この町で再びイゴールの助けを借りる必要があるということなのか。つまりワイルドの、引いては宇宙の力を必要とする戦いがあるということなのか。だとしたら、有里にとって非常に不本意である。

 

「早合点なさいますな。確かに貴方は、ここを訪れる資格をお持ちです。しかしこの地に扉を用意したのは、貴方の為ではございません」

 

「……? なら誰の為だ?」

 

 有里は思わず聞き返した。ベルベットルームが自分以外の人間の為に用意されていたとは、露ほども思っていなかったから。

 

「それは貴方ご自身でお知りになるとよろしいでしょう。もしかすると、近いうちにお会いになるかもしれませんな……」

 

 咄嗟の反問はあまり意味がなかった。以前からずっとそうだったが、イゴールの言葉は含蓄がありすぎる。悪く言えば韜晦趣味だ。物事をストレートに聞いても、絶対に答えてくれない。遠回しに聞けば、更に遠くへ追いやろうとしてくる。真相とは時が来れば自然に理解できるものであるから、真相が向こうから立ち現われてくるのを待つのが、イゴールのやり方だ。つまりここのベルベットルームは誰の為にあるのか、いずれ分かるとイゴールは言っている。

 

「それよりも、覚えておいていただきたい。先ほども申し上げた通り、本来あるべき運命では貴方は既にこの世にないはずでございました。しかしご覧の通り、貴方は生きておられる……。貴方が昇るはずであった十字架は、今はどこにも存在しません」

 

「……」

 

「貴方にとっては忌まわしい限りのその十字架は、人とシャドウを別つものでございました。それがない今、世界にどのような影が落とされるのか……。そして貴方が生きておられることが、またどのような影を生み出すのか……」

 

「この町で起きていることは、僕に責任があると?」

 

「いいえ。貴方の責任など毫もございません。責任があるのは別の方です。それだけは、運命は元のままです」

 

 韜晦を好むイゴールが物事をここまではっきり言うのは珍しい。

 

「ただ、運命とは決まっているようでいて、決まっていないもの。ご夫人によって変えられた運命が、この先どう変わるのか。そして貴方によってどう変えられるのか……。もはや私にも、詳らかにすることはできません。その過程で、もしかすると……貴方にも何らかの責任が生じるかもしれない。私が申し上げたいのは、そういうことです。ゆめゆめ、お忘れなきよう」

 

「……考えておこう」

 

 話が終わったことを察した有里は席を立った。

 

「結構。またいつでもお越しになってくださいませ」

 

「悪いが、当分来ないと思うよ」

 

 イゴールの助けを借りなければ、ワイルドはその本領を発揮できない。だがかつての戦いでペルソナ能力を限界まで鍛え抜いた有里は、新たなペルソナを生み出す必要などない。と言うより、今持っているもの以上のペルソナは、そもそも作れない。ギリシャ神話の吟遊詩人を始め、キリスト教の救世主、ユダヤ教の最高位の天使、ヒンズー教の最高神、地獄の第九層に封じられた魔王など、強大極まるペルソナが目白押しだ。

 

 ペルソナは無数に存在するが、有里が認識できるものの中には、つまりはエリザベスのペルソナ全書に記されていたものの中には、それら以上の存在はない。無論、一年以上ものブランクがある為、ペルソナと関係のない体力や実戦の勘などにおいては、多少の衰えはある。だがそれらの問題は、元よりベルベットルームとは無関係である。だから今後にこの部屋に来る必要は基本的にはないと、有里は考えていた。楽観的に。

 

 

 ベルベットルームを出た有里は、カーナビの案内に従って宿へと向かった。そして遅い時間になったことを詫びつつ、チェックインを済ませた。通された部屋に荷物を置いて、温泉で温まって、また部屋に戻った頃には23時を過ぎていた。

 

 有里がこの宿に泊まるのは、実は二度目である。稲羽市には二年前の8月に部活の合宿で来たことがあるのだが、その時に泊まったのもここ天城屋旅館だったのだ。当時は中学生だったと思しき宿の娘に、交流先の学校から案内されたのだ。風呂で整髪料を落として前髪を下ろし、浴衣に着替えた有里は、そんな昔の出来事を思い出しつつ、今夜を過ごす部屋を見回した。

 

(広いな)

 

 通された時も思ったが、一人で泊まるにしては広すぎる部屋だ。二間続きで、合わせて三十畳はある。置かれた座卓や座椅子も高級感のあるもので、かなりの上部屋であることが伺えた。ただ床の間に置かれたテレビが、小さなアナログテレビなのが唯一残念なポイントだ。だが有里は普段、テレビをほとんど見ないので気にならない。

 

 稲羽市はこれと言った観光資源がある町ではない。しかしそれでも今日からゴールデンウィークが始まるのだ。ましてここは地域随一の人気を誇る老舗の旅館だ。普通に考えれば直前の予約など取れるはずがないのに、なぜかこんな良い部屋を取れた。その理由を探して、部屋に視線を巡らせると──

 

(あれは……神道の系統だな)

 

 鴨居の一角に、細長い紙片が貼られているのに気付いた。墨で書かれた何かの文字そのものが、絵柄のような意匠になっている。いわゆる『お札』だ。そして紙の状態からして、ごく最近に貼られたもののようだ。仕事の関係上、その種の勉強もしている有里には、それが妖魔や悪霊を退散させる為の護符だと分かった。つまりこの部屋は、最近に何かがあった。具体的に言うと、ここは死んだアナウンサーが生前最後に泊まっていた部屋だと推測された。

 

「ご丁寧なことだ」

 

 有里は幽霊の類をやみくもに恐れはしない。しかしそうした超常的な存在を信じていないわけではない。幽霊そのものであるのかは判然としないが、似たような怪物と過去に戦ってきたから。そしてここ稲羽には、それが出現する可能性があるのだ。

 

(念の為、手入れをしておくか)

 

 怪物と戦う為の道具を荷物から取り出した。ずしりと手に響く重量のある、黒光りする兵器だ。拳銃である。それも市場に出回っているものとしては、世界最強と謳われる大型のリボルバー拳銃だ。日本では一般人は銃器の所持も携帯も許されていないが、有里は持っている。そして手入れの道具を荷物から取り出し、慣れた手付きでシリンダーを振り出し、五つある穴の一つに掃除用のガーゼを差し込んだ。

 

(タカヤ……)

 

 この銃は貰い物だ。深くて複雑な関係だった、ある男の形見である。有里は元々片手剣を使っていたのだが、前の持ち主の死後はこれを使うようにしていた。もっとも撃つ機会は、訓練以外ではほとんどなかったのだが。

 

「こいつを使う時が来るかな?」

 

 昔の思い出に浸っているうちに、有里は銃の手入れを終えた。そして弾薬を装填し、シリンダーを戻した。これでもう、今日やることは終わりである。

 

 

(一人寝は久しぶりだ……)

 

 部屋の電気を消し、布団に入って横になりながら、有里は薄暗がりの天井のしみを何とはなしに眺めた。影人間らしき者が出たこの町で、一体何が起きているのか、或いは起きようとしているのか。それはまだ分からない。今の時点で分かるのは、隣に人のいない状態で寝るのは、随分と久しぶりであるということだけだ。それが何とももどかしく、やるせない気持ちにさせられる。

 

(二、三日くらいなら我慢できるが……一週間とか一ヶ月とかは、絶対無理だな)

 

 有里は決心した。この町で何が起こっていようと、単身赴任などは決してするまいと。町がシャドウで溢れかえろうが、町そのものが丸ごと吹っ飛ぼうが、家には帰る。誰が何と言おうと帰る。そう固く心に決めた。そして日付が変わる直前、眠りに落ちた。

 

 だがすぐに目を覚ますことになった。枕元に置いていた、スマートフォンが電子音を発し始めたのだ。眠気をこらえて画面を見てみれば、黒沢からだった。

 

「はい、有里です」

 

『すぐに来てくれ! シャドウが出た!』

 

 それで眠気は飛んでいった。




 P3とP4に都道府県の公式設定はありませんが、P4U2にて黒沢は警視庁所属と明言されているので、本作もそれに則りました。
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