ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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事実と解釈(2012/5/6)

 気付いた時にはもう遅い。よくある話だ。勉強でも仕事でも、出遅れた失敗を取り返せないことはある。そして人間関係も同様だ。関係に亀裂が入ったのにそれに気付かず、気付いていても他のことに手や心を取られて適切な対処をしないでいるうちに、どうしようもないところまで来てしまう。来てしまってから、手遅れだと気付く。

 

 

 天田たちが『風花』の動きに気付いた時には、もう遅かった。中に椅子が置かれた円筒形の謎の備品、実は機械だった頃のアイギスが使用していた専用のメンテナンス装置は床の上を滑るように、いや突進するように猛烈な速さで動き、元の持ち主と戦っていた相手を飲み込んだ。

 

 ──

 

 大きな音を立てて、ワニが誤って小鳥を飲み込むのとは違って明らかな意図の下に操作された機械は、その扉を閉じた。アイギスと『有里』は閉じ込められてしまった。持ち主を失った薙刀は、装置の傍の床に転がっている。前近代的な武器は前衛的な格納庫に置いておくには不似合いだった。

 

「アイギスさん! くっ、油断した!」

 

「ワン!」

 

 コロマルが短剣を咥えて飛び込み、『風花』を一発で切り裂いた。しかしやはりもう遅い。レールの上を走らせるように装置を動かした者が消えてペルソナの欠片になっても、元の位置に戻りはしない。

 

 少年たちはメンテナンス装置の周囲に集まった。装置に扉はついているものの、押しても引いても動かない。鍵をかけられているのか、それとも──

 

「小西さん!」

 

「これは……駄目だ。俺の力じゃ開けられない!」

 

 尚紀が情報系ペルソナの目で解析した結果は、P-1ではお馴染みの見えない壁とは違うものだった。紐の結び目のイメージは頭に浮かんでこず、開ける為の鍵穴も見えなかった。これは中からでないと開けられない、言うなれば引きこもり用の押し入れだ。アイギスは『有里』に捕まり、監禁されてしまった。

 

「ワン!」

 

「どうしたワンコロ!?」

 

 五人が取り囲んでいる装置の側面のうち、コロマルの正面の壁に突然テレビ画面が現れた。昨年から事件の鍵の一つだったテレビは、今夜はとにかく融通無碍に生えてくる。リングのコーナーポストを皮切りに、エントランスの時計扉や頂上の床にも突然現れるくらいだから、ここにも出てきた。そして映し出された映像は、当の機械の中だった。

 

 

「くっ……」

 

 アイギスは円筒形の機械に備え付けの椅子に拘束されていた。飲み込まれるや否や、本物のメンテナンス装置にはない拘束用のバンドが飛び出してきて、両手両足を固定されたのだ。椅子そのものも本物と違っていた。天文台の十字架と同じ効果があるようで、力を封じられる。ペルソナはもちろん呼び出せず、生身の体も超能力の恩恵を受けられず、紐を引きちぎることはできない。

 

「これに入るのは初めてだな」

 

 そして『有里』は装置の中に立っていた。本来は定員が一人、と言うか『一つ』の機械の中に二人が無理に押し込められていた。『有里』は閉められた扉と椅子の間の僅かな隙間に足を入れ、窮屈そうにしている。二人の膝は触れ合う位置にある。本物の有里とは膝どころか全身余すところなく触れ合っているが、偽物にこんな距離感でいられるのは、アイギスにとって非常に苦痛だった。

 

「離れなさい……! 汚らわしい!」

 

 アイギスが目を吊り上げて叫ぶと、『有里』は何とも嬉しそうに金の瞳と唇を歪めた。足立が時々意図的に作る、目尻を下げた嫌らしい系統の悪人面だ。本物の夫は、こんな表情を見せたことはもちろんない。早紀に言い寄る振りをした足立のように、偽物の夫は本物の妻に顔を近づける。

 

「酷いな。ズルして他の女を追い払って、自分のものにした男を汚物呼ばわりか」

 

 ズル──

 

「貴方は彼ではありません!」

 

 早紀と違ってアイギスは『有里』の頬を叩いて拒絶することはできないので、言葉で抵抗する。それがまた『有里』に責める糸口を与えてしまう。

 

「本当にそうかな? 僕はお前の主人のことなら何でも知っているんだぞ。偽物と本物がどう違うか、お前は分かっていないだろう」

 

 本物と偽物は顔以外の何が同じで、表情以外の何が違うのか。どちらも色々あるが、同じものの一つは事実の記憶だ。本物が過去に何をして、何を知っているのか。偽物は本物と同様に事実を分かっている。そして違うものの一つは、その解釈だ。テレビの中に現れる本物のシャドウは、本体の事実を知っており、その解釈は本体が受け入れがたいほど過激だった。それと同じである。

 

「お前は僕と契約したのさ」

 

 そして『有里』は事実を語りだした。シャドウがそうするように。

 

「覚えているだろう。二年前の3月5日、お前は僕と契約したんだ。リボンのプレゼントと引き換えに、僕は何を要求した?」

 

 あの日の有里は最初にアイギスのネジを求めた。しかし既に機械でなかったアイギスに与えられるものではなかった。ではその代わりにと、有里が望んだものは──

 

「子供……」

 

「そう、子供を産んでくれ。僕はあの日、そう言った。奇跡の力で人間の体を与えた見返りに、お前に僕の子供を産むことを要求したのさ。そしてお前は受けた……進んで引き受けたな! 目の前に差し出された幸せに飛び付いて、喜んで契約したな!」

 

 卒業式の日に有里が求めたことと、アイギスが承知したことは事実である。事実はそれだけで、それ以外は解釈だ。ただし両者を区別することは意外に難しい。人は概して物事を結び付けて考えることは得意だが、分けて考えることは不得意だ。混乱の只中であったり、何日も何ヶ月も前から不安で落ち着きをなくしていたならば、なおさらである。人が詐欺に引っかかるのは、大体がこういう時だ。

 

「馬鹿な奴……。どうして僕はお前を選んだと思っている? 僕を愛した女なら、他にも大勢いたのにな」

 

「それは……」

 

「他の誰よりも、お前が一番僕を愛していたから? 僕はお前を愛していたから?」

 

 愛は事実であり得る。しかし愛の理由は解釈でしかあり得ない。若いアイギスはその真理をまだ理解できていない。

 

「違うな……その体は僕が与えたものだからだ。その体はパピヨンハートに焼き付いた、僕自身の遺伝情報から組み上げられたものだからだ! 僕が望んでいる子供は普通の女では産めないんだ。他の人間の血が混じったら、純粋でなくなるからな!」

 

 純粋。或いは純血──

 

「僕の二人の子供たち……あの子たちに名前をつけたのは誰だ?」

 

「それは……」

 

「そう、僕だ。あの時、お前は気付いたはずだ。僕が欲しかったのは、お前じゃないんだと」

 

 子供を名付けたのは妻ではなく夫。それは事実だ。ではそれ以外はどうか?

 

「ち、違う……」

 

 何を言ったかと、どう思ったかは違う。声に出して言った言葉は他人に聞こえるし、ボイスレコーダーにでも記録すれば客観として後々まで残る。しかし思ったことはそうではない。ある日のある出来事に対してどう思ったかは、完全な主観である。後から思い返した時に思うことは、その当時に思ったこととは別である。思考した当人にとってさえそうだ。印象は時間の影響を受ける。そこに言いがかりの余地が生まれる。

 

「僕はあの戦いで失ったものを取り戻したかった……。救えなかった二人の男! あの二人をお前に産ませる! それが契約だ!」

 

「違う! 違う! 彼はそんなことの為に、私を人間にしたんじゃない!」

 

「そうかな? だったら証拠を見せてやる」

 

『有里』は再び笑った。容疑者が逮捕されてもなおも粘り、罪を認めるまいと取調室で孤独に頑張っているのだが、刑事はそんな必死な努力を嘲笑うように。言葉でどれだけ否定しようとどうしようもない、容疑者から犯人へと進歩させる為の決定的な材料を、追い詰める致死の武器を披歴するように笑う。

 

「お前が産んだあの子たちが何者なのか……見るがいい」

 

『有里』が後ろを振り仰ぐと、装置の内壁にテレビ画面が現れた。テレビは外壁にもあって尚紀たちが見ているはずだが、内にもある。そこにある真実が映った。状況証拠ではない、言わば物的証拠が映し出される──

 

 最初に映ったのは大きな橋だった。そこは港区に住む者たちにとってはお馴染みで、八十神高校の生徒たちも修学旅行で見た場所だった。巌戸台とポートアイランドを結ぶ海にかかる橋、ムーンライトブリッジだ。かつて存在したオリジナルの影時間においては、大きな戦いの舞台にもなった。

 

 この橋は人工島における人と物の流れの要であるが、映像では車も歩く人も誰もいない。そもそも本物ではないから当然だが、そんな寂しげな橋の道路の中央に、現実であれば事故の元に必ずなるであろう異物があった。

 

 三メートルほどの高さの、一本の鉄柱が立っていた。そして柱の上には金属製の檻が置かれている。動物を閉じ込めておくような檻だが、中に入っているのは人間だ。二人の赤子である。

 

「綾時! 隆也!」

 

 本物の有里とアイギスがずっと探していた人質だ。

 

 人質のはずだが、よくよく考えれば奇妙な話である。誘拐した側は、『こいつの命が惜しければ言うことを聞け』などの要求をするべきだ。グランプリの放送室で、『陽介』が尚紀を盾に取った時のように。

 

 しかし皆月や偽物たちは、有里家の子供たちを使って何かを仕掛けてくることはなかった。これ見よがしに檻に入れて親たちを戦いに誘ったものの、果たしてそんな必要があったのか。人質などいなくても、幾月が関係していると匂わせるだけでシャドウワーカーは必ず挑んでくる。それなのにわざわざ託児所から誘拐して、今その姿を母親に見せる、その意味は──

 

「さあ、そいつらの正体を暴け!」

 

 偽物の父親の号令に応えて、大量の黒い泥が橋の上に現れた。かつての影時間でもテレビの中でも無数にいた、アルカナに応じた形を取る前の、不定形のゲル状のシャドウである。泥に浮かんだ仮面は魔術師から刑死者に至るまで色々である。それがまるで海から押し寄せた津波のように、橋を丸ごと飲み込んで崩壊させかねない大群でやって来た。まさにシャドウの海だ。人間がこの中に落ちれば、取り殺される前におぞましさで気を失うことは必定だ。

 

「やめて!」

 

 シャドウの群れは動きが速い。あっという間に鉄柱に到達し、檻に向けて上り始める。アイギスが叫んでももちろん止まらない。目の前で子供を殺される母親とは、およそ考えられる限りで最悪の悲劇だ。拘束されているアイギスは目を覆うことさえできない。目に涙を滲ませて、子供が引き裂かれる様をぼやけさせるのが精一杯だ。

 

 しかしシャドウの群れは、そもそも赤子たちを殺そうとしているのではない。

 

 最初のシャドウが檻に取りついて鉄格子の隙間に体を滑り込ませると、続くシャドウも次々と侵入していった。津波は人の手では止められないように、シャドウの奔流は誰にも止められない。黒い泥は二人の赤子の足を掴み、胴体にのしかかり、そして頭を覆う。全身がすっぽり隠れてしまうまで、息を一つ飲み込む程度のほんの僅かな時間しかなかった。気付いた時には、もう檻全体に黒い塊が充満してしまっていた。

 

 聖杯は霊で満たされた。伝承によれば、それは救世主の再臨を促す──

 

 ──

 

 そしてシャドウの塊は弾けた。猛烈な爆発と共に赤黒い煙が発せられた。これは実はミナヅキが足立に語った、シャドウの大きな塊を作り、そこに超常の存在を降臨させるのと同じ手法である。捧げられた生贄を受け入れた神または悪魔が現世に顕現するように、シャドウが滅ぶ時に発する煙の中から二人の存在が現れた。

 

『まさかこんな形で呼ばれるとはね』

 

『思いもしませんでしたね』

 

 煙が晴れると、テレビ画面に二人の男が映し出された。シャドウの大群は一匹残らずいなくなっている。檻に辿り着いた足の速かった個体はもちろん、橋を埋め尽くしていた黒い津波も丸ごと消滅していた。檻も吹き飛んだようになくなっており、開けた鉄柱の上に二人の男が立っていた。いや、男と言うより少年と言うべきか。

 

 一見すると、生後半年の赤子とシャドウの群れは突然いなくなり、代わって二人の少年がどこからかやってきたように見える。だがそうではないのだ。

 

 

「だ、誰だ……?」

 

 メンテナンス装置の外壁のテレビを見ていた五人の中で、尚紀が最初に声を上げた。現れた二人の男は、尚紀は知らない顔である。一条と長瀬も同様だ。

 

「ワンワン!」

 

 戸惑う稲羽支部の者たちを余所に、コロマルがテレビに向かって吠えた。有里かアイギスが聞けば、今の鳴き声の意味は『マジであいつらなのか!?』であることが分かるだろう。

 

「ま、マジであの人たちなんですか……?」

 

 天田にはコロマルの鳴き声の意味は分からないが、奇しくも、いや当然のこととして人間の言葉で同じセリフを口にした。画面に映るこの二人の男については、稲羽支部には堂島と足立にも伝えられていないが、本部の面々にとってはよく知っている顔なのだ。

 

『おおっと、ここで乱入だ!』

 

 そこで突然テレビからナレーターの声がした。クマ総統ではなく、グランプリで実況をしていた『りせ』でもない。プロモーションビデオで『シスコン番長』を始めとする、キャッチフレーズ付きで選手の紹介をしていた声だ。大会の開始時にはエントリーされていなかった飛び入り参加選手として、檻を砕いて出現した二人の少年を紹介した。

 

『女はみんな、僕のもの! 世界を滅ぼす悶死の神! 望月綾時!』

 

『あら、前世の名前で呼ばれちゃった』

 

 そして紹介されている本人にもナレーションが聞こえているようだった。『キャプテン・ルサンチマン』や『女を捨てた肉食獣』並にあんまりなキャッチを気にする様子はないが、今世の名前で呼ばれなかったことは気にしている。

 

『白い肉体美はカリスマの証! 世界を滅ぼす惰眠の神! 榊貴隆也!』

 

『私自身さえ忘れていた本名で……』

 

 もう一人の少年も似た反応を示した。

 

 

 P-1クライマックス二回戦第四試合が始まる前に、クマ総統は『マイタワーの全電波をジャックする』と言っていた。有言実行と言うか、異界のムーンライトブリッジの様子はアイギスのメンテナンス装置の内と外だけでなく、他の大会参加者全員に見せられている。地下のラウンジにある超大型テレビにも映っているし、月光館学園の天文台こと『月見の塔』でも十字架の一つにテレビが突然現れて、そこに映し出された。

 

 だから第三試合を終えた有里チームの四人も、有里家の子供たちが変身する様を見た。いや、変身ではなく成長だろうか。もしくは復活か。

 

「え? 同じ名前なのは分かってたけど……まさか本当に?」

 

 風花は画面に見入っている。赤子にシャドウが群がった様子が映った時は惨劇を予感して目を覆ったが、今は目を丸くしている。

 

「え……? 綾時君と隆也君って、マジであの綾時君と、ストレガのタカヤの生まれ変わりとか……そういうの?」

 

 ゆかりも元から大きな目を更に大きく見開いている。そして核心を突いた。

 

 今テレビに映っている二人は、二年前の1月31日にタルタロスで消えた男と、死んだ男と同じ顔をしている。髪型や服装さえ当時と同じだ。綾時は黒い髪をオールバックにして、黄色いマフラーを首に巻いている。隆也は上半身裸でダメージジーンズを履いており、ウェーブした長髪がやたらと白い顔を縁取っている。

 

「あ、有里。これは一体、どういうことだ……」

 

「……」

 

 美鶴が尋ねるが、有里は答えない。無視しているのではなく、聞こえていない。テレビを見つめて呆然としている。子供たちにあの二人の名前を付けたのは確かに有里だが、こんなことになるとは夢にも思っていなかった。完全に想定外の事態なのだ。

 

 

「ああ……」

 

 そしてもちろん、アイギスにとっても想定外だ。子供たちが殺されると思った絶望は、現実にならなかった。しかし別の『絶望』が頭をよぎる。あの二人を出産した昨年12月25日、有里はかつての戦いで救えなかった二人の名を子供に与えた。その時、アイギスは思った。愛する夫は、子供たちと同じ名前の二人の男の為に、自分と『契約』したのかと。そう疑ったことをアイギスは覚えている。しかし──

 

「分かったか? 僕が欲しかったのは、お前じゃないのさ。あの二人を生まれ変わらせるのに、お前の体が必要だっただけだ」

 

 金の瞳を歪ませる『有里』の、この言葉が正しいとは限らない。原因と結果は必ずしも整合しない。まして人の行動とその動機は、一言で説明できるようなものでないことがある。曖昧なものを切り捨てて、物事を単純化してこうと断言すると話は分かりやすくなるが、それは多くの真実を失わせる。

 

 物語は解釈であり、事実ではない。足立が早紀を殺した動機を答えられないように、有里がアイギスを選んだ理由は簡単には説明できない。

 

 そもそもの話として、偽物の話を鵜呑みにしていいはずがないのだ。本物の本音を言い当てている可能性はあるが、『本音』は言い方によって聞こえ方が変わる。まして今は戦いの真っ最中だ。偽物の言葉に含まれるものは、真実よりも戦術としての言いがかりの方が遥かに多いはずだ。

 

「嘘です……貴方は彼ではありません!」

 

 だからアイギスはまだ認めない。聞く耳を持つまいと、何を言われたかではなく誰が言ったかを強く意識する。『有里』は有里本人ではない。その確かな事実を盾に絶望することを防ぐ。

 

「つくづく……馬鹿な女だな」

 

 必死なアイギスとは対照的に、『有里』はまだ余裕がある。狭い装置に押し込められてほぼ密着する体勢のまま、拘束されて動けないアイギスを傲然と見下ろす。まな板の鯉を見るように。的外れな答えばかり返す人工知能に、無用の烙印を押すように。全霊で挑まねばならない勝負に手ぶらでやってきて、意地だけで乗り切れると思い込んでいる素人に呆れるように。あらゆる抵抗を無意味にしてしまう切り札が相手の手の内にあることを知らず、無駄なカードを切り続ける愚か者を嘲笑うように見下ろす。

 

 そして『有里』は切り札を切った。

 

「お前は僕が、お前を恨んでいないと思っているのか?」

 

 恨み。有里はアイギスを愛していないばかりか、恨んでさえいると偽物は言う。それはあり得るだろうか。何をどう捻じ曲げれば、そんな解釈に至れるか。そこに至る事実は、過去と現在のどこに存在しうるか。

 

 あるとしたら、それは十年以上前──

 

「忘れたか。僕の両親を殺したのは、お前だ」

 

 これまで『有里』は有里が何をしたか、どう思っているか、事実と解釈を恣意的に織り交ぜて攻撃してきた。だがここで攻め方を変えてきた。アイギスは何をしたか、そこを責めてきた。責められたアイギスは顔から血の気が引いた。心臓を撃ち抜かれて、顔に回す血がなくなったように青くなった。ただの機械にはできない反応だ。

 

「あ、ああ……」

 

 有里の両親が死んでいることは事実だ。ではその死因は何か。誰が殺したのか。どんな解釈があり得るか。その解釈は正当化できるか。

 

 過去の記憶が蘇る。十二年前のある夜、世界は緑の影時間に覆われた。桐条エルゴノミクス研究所で爆発事故が発生し、そこから飛び去った死神はムーンライトブリッジに降り立った。対シャドウ特別制圧兵装七式アイギスはそれを追い、同じ場所に立った。海にかかる橋の上では、一台の車が横転して炎を噴き上げている。そこから這い出てきたのは、小学校一年生くらいの男児一人だけだ。車の中にいたはずの大人は出てこない。

 

 あの車をひっくり返したのは誰か。火をつけたのは誰か。運転していた父親と、助手席に座っていた母親を死なせたのは誰か。誰が殺したのか。その責任は誰にあるのか。その罪の重さはどれほどのものか。どうやって償えばいいのか。償う方法など、果たしてあるのか。子供を産むことと奪われることが、償いになるのか。

 

「湊……さん……」

 

 子供だった有里に、アイギスは死神を封じた。そのことについて、有里はアイギスに恨み言を言ったことはない。それは許したという意味なのだろうか。そして両親の死について、有里とアイギスは話し合ったことがない。話す機会も詫びる機会もあったのだが、今までずっとそうしてこなかった。

 

(あの日、彼はあの橋の上で泣いていました……)

 

 あの日とは両親が死んだ日ではなく、それを悲しんだ日のことだ。二年前の4月1日、突然の雨が降った日だ。心の質量を持たない、数字のゼロのような人でなしではなくなった日。人を憎むことも恨むこともできなかった人が、できるようになった日──

 

(そうでしたか……あの時、彼は私を恨むようになったのですね……)

 

 それを悟った瞬間、糸が切れた。折れそうな心を繋ぎ止めていたものが失われた。

 

「あ……」

 

 それはペルソナを心に繋いでおく糸でもあった。蜘蛛の糸で摑まえるように、荒ぶる力を自らのものとして留めておき、仮面の形で心の箱に保管しておくのがペルソナだ。しかし心の中で縛り、操る糸は切れた。たった今、切れてしまった。人形は手を離れ、より原初的な存在へと変わる。

 

「オルフェウス……」

 

 アイギスはギリシャ神話の吟遊詩人の名を口にしたが、そう呼ばれるべき力はもう心の中に留めておけない。糸は切れたのだ。ペルソナの『欠片』ではない、もっと大きくもっと力のあるものが、アイギスから抜けて出ていった。自由になったペルソナはシャドウと呼ばれる。最強のペルソナは最強のシャドウになる。

 

 もちろんオルフェウスだけではなく、他のペルソナもシャドウになる。キリスト教の救世主も、神の下僕も魔界の王も、何もかもだ。アイギスが持つ、即ち有里が持つ光の全てが影に変わる。

 

「メタトロン……」

 

 夫との間にある絆を証明するものだった機械の天使の名を呼ぶ声は、何とも弱弱しかった。妻は失われてゆくペルソナを呆然と見上げるばかりで、引き止める為に手を伸ばすこともできなかった。椅子に拘束されているせいもあるが、たとえ縛りつけられていなくても、去り行く天使を追って立ち上がることはできなかっただろう。心は折られたのだ。

 

 アイギスの罪は十年以上も昔の出来事である。今さら気付いても、もう遅い。既に起きたことを、なかったことにはできない。

 

「ふっ……分かったか。だからこれは復讐と思え!」

 

 偽物の夫は本物の妻に剣を突き立てた。アイギスは抵抗できない。と言うより、抵抗しない。刃が胸に刺さっても、表情は虚ろで痛がる素振りも見せない。人形は刺されても痛みを感じることがないように。しかし人間は刺されれば棺桶に入る。アイギスは象徴化した。

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