塔の頂上で、足立は床に置かれたテレビから目を離して月を見上げた。現実の数倍も巨大な赤い光の円盤、もしかしたら空に空いた穴を見る。頂上に戻ってきた先ほどはシャドウの群れが渦を巻いていて、月は隠れて見えないくらいだったのが、有象無象たちは高度を下げて脇へ移動した。ちょうど足立の視線くらいの高さで、頂上の周囲をぐるぐると回り始めた。まるで足立を包囲しているかのようだった。
そして塔の下方から複数の大きな影が飛翔してきて、月の外周に等間隔で配置された。新たにやって来た『大型シャドウ』の数は十二。ちょうど時計の形をしている。月が文字盤で影は数字だ。
(あれはアイギスさんと有里君のペルソナ……だったシャドウか)
ワイルドの夫婦が持っていた全てのペルソナがシャドウ化し、塔の頂上、と言うよりその上空に集められたわけだ。その前から集められていた塵芥のごときシャドウの群れは、上位者に道を譲るように場所を開けた。
(その辺のシャドウを集めて、大きな塊を作るってのは嘘か。ん!? だったらまさか……)
元刑事の勘が働いた。ミナヅキが語った計画のうち、超常の存在が降臨する器としてシャドウを寄せ集めて大きな塊を作るというのは嘘。ならば計画におけるもう一つの重要な点である、降臨した存在を飼い慣らす為にペルソナの欠片を集めるというのも、嘘ではないかと。
そもそもペルソナの欠片が本当に必要なものなら、ここに見張りを置いていないのはおかしい。だとすれば、集まって結晶体になった欠片を足立が砕いたことにも意味はなくなる。それどころか、砕かれることさえ皆月たちの計画の一部という可能性もある。つまり足立も踊らされていた──
「サシクニワカヒメ」
足立が計画の真実に辿り着こうとしたその時、背後でペルソナ呼称が呼ばれるのを聞いて振り返った。いつからそこにいたのか、誰もいなかったはずの頂上に知った顔が一人いた。八十神高校の制服を着た少女だ。瞳は金色に光っている。
「何をしている!」
現れたのは『結実』だ。留袖を着た女のビジョンが手を広げると、床に散らばった青い氷の破片めいたもの、足立が砕いたペルソナの欠片が四方へ飛んで行った。
「マガツ!」
魔人のペルソナを召喚して突撃させた。後方支援型のペルソナ使いの偽物は一発で胸を貫かれ、あっという間に形を失った。しかし手遅れだ。蘇生の力を持つ女神の名を持つ存在は、既に術の行使を終えている。
──
有象無象のシャドウの壁にペルソナの欠片が突き刺さり、ガラスが割れる音が四方八方から何重にも響いた。中心にいる足立が顔を顰めるほどの猛烈な破砕音がやっと収まると、シャドウの壁は塔の下へと滝のように落ちていった。
「今度は何だよ……」
皆月たちの策はまだ続きがあるようだった。足立は珍しい本気の光を目に湛えて、拳を握る。
陽介とクマは再び階段を上っていた。ジュネスの家電売り場を模したテレビの林でアイギスチームの顛末を見て、これはまずいと駆け出したのだ。具体的に何がどうまずいのか、陽介はよく分かっていないが、とにかく何かろくでもないことが起きていることは分かる。
「急ぐクマー! このままじゃ、マジのホントにヅッキーの世界ができちゃうクマ!」
「そうかよ!」
事態は坂道を転げ落ちるどころか、奈落を真っ逆さまに墜落するように急速に悪化している。今から挽回することが可能なのか、それはもう考えない。二人はただ前に進むのみだ。家電売り場の奥にあった階段を飛ぶように駆け上がり、ひたすら先を急いだ。ちなみに人の姿をしているクマは着ぐるみよりも足が長い分、走るのは速かった。
やがて目の前に扉が現れた。これまでの傾向では、扉を開けると広い空間に出て、そこで敵が待っているケースがほとんどだった。この先はどんな場所で誰が待ち構えているのか。それはあらかじめ考えても意味がない。出たとこ勝負、言い方を変えれば誰が相手でも蹴散らすのみである。前にいた陽介が勢いよく引き戸を開けた。
「おろ? 今度はお墓クマ?」
「ここは……」
墓と言っても、勝負に敗れて象徴化した者たちが送られた塔の地下ではない。墓石が立ち並ぶ文字通りの墓地だ。八十稲羽にある霊園を模した空間である。クマは行ったことはないが、陽介は年が明けてから二度訪れた。
もちろん『アイギス』たちと戦ったジュネスの家電売り場もどきが現実離れしていたように、この霊園も大概だ。墓石がいくつも積み重なって、何メートルもの高さになっているくらいは当然。中には墓石自体が人や動物、果ては泥の塊に仮面がくっついた形のものもあった。墓をシャドウの形にするとは死者への冒涜か、それとも墓に入れられているものをありのままに表しているだけなのか。相応しいのかそうでないのか、考え始めると悩んでしまうデザインだった。そんな場所を──
「あ、ニセクマじゃねえか!」
丸い物体がぴょこぴょこと音を立てて走っていた。軍帽をかぶってマントをまとい、髑髏つきの杖を持った着ぐるみだ。今夜のクマ総統はテレビには頻繁に登場したが、本人が姿を現したのは塔の外のコンビニ前で結実と生田目を拉致した時以来だ。
「ヨースケ! ニセクマとっちめるクマ!」
「おう!」
クマ総統は着ぐるみのクマとほぼ同じ装いをしているので、既に数が大分少なくなった偽物と同じように思ってしまいがちだ。しかしP-1クライマックスの出場者に過ぎない偽物と違って、総統は主催者のはずである。もちろん犯人を名乗る皆月が、それらしく演じるよう命令しているだけの可能性もあるが、総統を倒せば戦況を逆転させるきっかけになるかもしれない。
「待つクマー!」
クマがそこまで考えているかどうかはともかく、クマ総統をそっとしておくことはやはりできない。陽介と共に霊園を走る。謎の生物を模して、より謎を深めた不可思議極まる存在を追う。
「うるさい奴クマね! クマは忙しいの!」
クマ総統は逃げる。と言うより、クマを相手にしない。今夜の偽物は本物と出会えば問答無用で襲ってきたが、クマ総統はそうしない。この点だけを見ても、やはり他と違う。
「む……」
しかし何を思ったか、クマ総統は突然立ち止まった。あってなきがごとしの首を上へ向ける。この空間は一見すると屋外のようだが、頭上にあるものは空ではない。一点の曇りもない完全な黒と原色の赤で分割された、空と言うより抽象的な天井画を思わせるものだった。早紀がテレビに入れられて生まれた異形の商店街の、頭上に見える景色と同じだった。
そんな月も星も隠してしまう『天井』も、クマ総統の視線を遮ることはできない。
「ふむ……あの愚かな人間に最後の遊びをさせてやるか。あ奴の父のように得意の絶頂から突き落とすも、また一興」
クマ総統は振り返り、自分を追ってきた自分と同じ姿の者に向き直る。いや、今のクマは着ぐるみを失って中身を見せているので、総統とは姿が違う。ではもし総統が着ぐるみを脱いだら、果たして何が出てくるか──
「プークスクス! シャドウのくせに、なんちゅーカッコしてるクマ? お花なんか挿して、カッコいいつもりクマか?」
「クマはシャドウじゃないクマ!」
クマ総統の指摘をクマは否定する。その声は決然として揺るがず、美しい青い瞳は敵を強く見据える。悠からの卒業を宣言したクマは、悠がここにいなくても背中に芯が通っている。対するクマ総統は瞳の色を金に変えた。
「己を偽るか。分かっているはずだぞ? 形だけ人になっても、貴様は所詮シャドウであることに変わりはない。人に非ざる者。貴様は年を取らず、子も産めぬ。そのような人間がいるか?」
シャドウと人間はどう違うのか。それはシャドウとは何かの定義によって答えが変わる。同様に、人間とは何かの定義によっても変わる。クマはシャドウかそうでないか。意地や思い込み以外で、ラビリスに搭載された機能のように『自分を騙す』以外の何を根拠にして、クマは自分がシャドウでないと主張できるだろうか。
「だが安心せよ。死だけは貴様にもあるのだ!」
金の瞳を嘲りの形に歪めながら、クマ総統は杖を赤と黒の天井に向けてかざした。するとしばらくぶりの赤いコーナーポストが、天井から降ってきた。
死。生き物とそうでないものを区別するのが死だ。クマ総統は霧の鏡に映ったシャドウのようにクマを詰るが、クマには死があることを保証した。つまり最低限、クマは生き物ではあるということになる。話がまず一歩進んだ。しかしクマとクマ総統の議論はここまでだった。
「下がってろ!」
降下してきた柱が地面に突き刺さる前に、陽介が動いた。謎の生物と、それと見た目だけ同じで輪をかけて謎の存在の間に割って入り、クマを後ろへ突き飛ばした。
「ヨースケ! あだっ!」
異様な墓標が立ち並ぶ霊園にリングが作られた。クマは陽介のもとへ駆け寄ろうとしたが、見えない壁に高い鼻をぶつけてうずくまる。死があると保証されたクマには、痛みもある。世界全体に死をもたらす死神も、足を踏まれれば痛みを感じたように。
「ムキー! 卑怯クマよ! タイマンはなしって言ったクマ!」
「我は言った覚えはないな」
一対一のルールを破棄すると言ったのはミナヅキだ。だから総統は自分の発言を翻したわけではない。屁理屈のようなものだが、嘘は言っていない。
「だが……花村陽介。貴様が我の相手をするのか?」
割り込んだのは陽介なりの考えがあった。偽物は本物と同等の力を持っている。だから互いに万全なら互角の勝負ができる。しかし今のクマはこれまでの戦いで疲労しているので、己の偽物を相手にするのは分が悪い。ならば実力で勝る自分が戦った方がよいと考えたのだ。疲労の度合いで言えば『アイギス』と壮絶な戦いをした陽介の方が酷いが、それでも普通にやればクマには勝てる自信があった。そしてそうした打算の他にも、二つくらい理由があった。
「こいつとはもう結構長い付き合いなんでね。それにちょっとばかり、カチンと来ちまったからな」
「ヨースケ、クマの為に……」
同居人の献身にクマは感動の面持ちだ。だが──
「それはあの人形のことか?」
陽介が『カチン』と来たのはクマを悪く言われたこともあるが、実はそれだけではない。年を取らず、子供も産めない。そこから連想される『人』がいたのだ。
「くくく……機械を妻にした男といい、貴様らが信仰した男といい……ペルソナ使いの男とは、誰もが人外に執心するのか?」
クマ総統の金の瞳は色々なものを見通す。人の心の表も裏も、業も願望も見抜く千里眼だ。偽物たちは自分の本物の事実を知っているが、総統は陽介の心まで見抜いている。ついでに有里と悠が人外を愛したことまで知っている。その点だけを取っても、やはり総統は他の偽物たちとは違う。
「愚かなことよ!」
「はん! ほっとけ!」
陽介は煽られても怒ったり照れて挙動不審になったりはしない。クマと同様で、背骨に芯が通った心に揺らぎはない。引き立て役の三枚目は返上済みだ。
「ヨースケ、ニセクマなんかコテンパンにしちゃれクマー!」
見えない壁は回復や補助の魔法も通さないが、声までは遮らない。クマの声援を背に陽介は戦う。
左の短剣が風の速さで駆けると、髑髏の杖で防ぐ。直後、着ぐるみの左手から野獣の爪が手品のように生えてきて陽介を襲う。陽介が屈んでかわすと、総統はより深く屈む。体全体が床に沈み込んだように、瞬きする間に姿が掻き消えた。どこへ行ったかと陽介が振り返ると──
「ヨースケ! 後ろクマ!」
「分かってるぜ!」
陽介が跳躍するとほぼ同時に、背後から総統の爪が振るわれた。掌には赤い光球が出現しており、背中にまともに受ければ危なかっただろうが、後ろへ宙返りしつつ魔手をかわした。
「同じ技、グランプリでもやられたからな!」
「ふん、小賢しい!」
P-1クライマックスは普通のトーナメントと違って、多数が一人を袋叩きにしたり一人が多数を蹴散らしたり、複数人同士が入り乱れて戦うのもありだ。格闘技の試合なら基本中の基本ルールである一対一の原則が守られない中、三回戦第二試合は珍しく陽介対クマ総統で一対一になっている。
しかし予定外や想定外はいつでも起きる。強制されたものを拒絶し、自由にこだわる者がいればなおさらだ。
この塔は人によって構造が変わる。例えば本物たちはエントランスの扉を通った後、各々因縁のある場所で偽物とぶつかった一方で、足立は頂上まであっという間に辿り着いた。そこには『誰かさん』の作為があるはずだが、塔を歩む本人が何を求めているかも影響するかもしれない。
「お! ようやっと見つけたわ!」
現実では早紀や諸岡の墓がある霊園を模した空間に、巨大な斧を持った『機械の乙女』が現れた。鉄の足が石畳を踏む音が鮮やかに、喜びを表すように鳴る。
「あ、ラビチャン!」
悠に『お前に興味はない』と言い放って仏壇から逃亡したラビリスは、その後は望んだ通りになったと言うか、悠と鉢合わせることはなかった。他の本物とも偽物とも出会わず、一人で塔を歩き回った末に、アリアドネの神話に登場する糸を辿ったように目的の人を見つけた。しかし目的の人は取り込み中である。情報系の能力を持たないラビリスは、見えない壁を壊して乱入することはできない。不本意だが、まずは待つしかない。
「ラビリス……!」
そして陽介も因縁の『人』が現れたことに気付いた。ラビリスは陽介が今夜の戦いに身を投じた、主な目的の一つである。しかし見えない壁は陽介にも壊せないので、クマ総統を先に倒さねばならない。
「ラビチャン、ナイトに会いに来てくれたクマね!」
壁の向こうで同居人が戦っている間、クマがラビリスに話しかけた。グランプリの学校で『生徒会長』を名乗る少女に出会った時のように、気安く。
「ん?」
『機械の乙女』は声をかけてきた人に青い目を向けた。この金髪碧眼の美少年に見覚えはないが、声は知っているものだった。
「何や、誰やと思ったら……あん時の着ぐるみかいな。あんた、中身あったん?」
「ぬっふっふ……そークマよ! クマをただのプリチーなクマと思ったら大間違い! 花も実もある、中身もある!」
そしてこうした言動は、何よりもクマがクマだと証明するものだった。もし人の姿でもいつもの丸い着ぐるみでもなく、虎や狼の格好をしていたとしても、知っている人が見れば分かるだろう。解析の能力など必要ない。
「よーし、決めたクマ! クマのスーパーハーレム、栄誉ある第一号はラビチャンクマ!」
「気に入らんなあ……」
相手が誰か分かったラビリスの反応には、ある棘があった。もしクマが着ぐるみを着ていたならば、或いは中身の造形がもっと人間離れしたものであれば、ラビリスは待ち時間を雑談でもして潰したことだろう。しかしクマの中身の『人間離れ』の種類は美しすぎるという意味でしかないことは、少なくとも外見上はそうであることは、ラビリスを酷く苛立たせた。
顔貌だけで言えばクマとラビリスは甲乙つけ難い。金と銀、男形と女形の違いはあるが、どちらも大輪だ。しかしラビリスは顔以外は機械である。しなやかで柔らかく、人と触れ合うのに適したクマの手足とは違う。もっともクマの体もレントゲンに映らないなど、人と違うところはもちろんあるのだが、それはこの際関係ない。目に見えるものの方が重要だ。
「ほえ? 二号さんの方がいい?」
「気に入らんゆうとんのや! シャドウのくせに、人間の振りなんぞしよってからに!」
ラビリスは噛み合わない話を斧で叩き潰しにきた。クマとは根本のところでは同じであるのに、枝葉のところが違う。その違いがどうにも目について、同じところまで巻き添えを食って気に障る。人はそれを同族嫌悪と呼ぶ。
「のわ! クマの美少年ぶりがアダに!?」
「暇潰しにちょうどええわ!」
かくしてP-1クライマックス三回戦第二試合は、分断された二対二の戦いになった。ラビリスは別にクマ総統と組む気はないのだが、成り行きでそうなった。
「おらあ!」
ラビリスはブースターで加速した斧を横薙ぎに振るった。振り回しながら爪先を中心に下半身が回転し、全身の力を余さず伝える。グランプリの場外戦で陽介を気絶させた一撃である。
「どわー! クマ死んじゃうクマー!」
クマは人間の右手に野獣の爪を装着したが、それで防ごうはせず、力感溢れる斬撃を屈んでかわした。重たい鉄塊のようなラビリスの武器と比較すると、クマのそれは一発で粉々になってもおかしくなさそうである。
なお、クマは着ぐるみをなくしても武器は取り出せる。ではそれは『どこ』から出しているのか。次元か何かが異なる異界に通じている、ポケットのようなものを持っているのか。それは謎である。虚空から眼鏡も体も取り出せるクマは、とにかく謎に満ちている。
「クマ、逃げろ! お前一人じゃ無理だ!」
陽介はラビリスの実力の程度は分かる。格付けで言えばシャドウワーカー本部級だ。有里は別格で真田も頭一つ抜けているが、ラビリスは他の隊員とほぼ同レベル。クマが一対一で勝てる相手ではない。耐性を含めた相性が良ければまた別だが、むしろ悪い。
「よそ見とは余裕だな!」
敵から目を離した陽介に向けて、クマ総統が杖を振ってきた。野球のバッティングのように杖を両手で持ち、腰を入れて横向きに振り回す。その途中で杖自体が丸太のように膨らんで、面での攻撃になる。よそ見をしたことと相まって、陽介はかわせずに短剣で受けた。
「てめっ……!?」
陽介は驚いた。短剣越しに手に響く衝撃は予想を大きく超えていたのだ。本物のクマの比ではなく、二回戦で戦った『荒垣』や『アイギス』の打撃にも勝るかもしれないほどだった。
後ろに跳んで間合いを外すと、クマ総統の金の瞳と目が合った。セリフとは裏腹に、余裕があるのは総統の方だ。
(こいつ……)
陽介は背中に寒気を感じた。今の打撃でも、クマ総統はまだ本気ではない。歴戦の戦士としての勘がそう告げてきた。陽介はやる前は総統を舐めていたが、実は『アイギス』以上の強敵かもしれないと気を引き締めた。クマとラビリスの戦いは気になるが、今は目の前の相手に集中しなければならない。やっとラビリスを見つけたのに、ここで死ぬわけにはいかないのだ。
「クマのアイスショークマー!」
「ぬるいわ!」
クマが放った氷の散弾に対して、ラビリスはペルソナが放つ糸で対抗した。ペルソナのビジョンが持つ武器や使う技は、典拠の神話に倣うことがままあるが、このクレタの王女の名を持つペルソナもそうだ。彫像のような女が指から紡ぎだす赤い糸は、攻撃も防御も自由自在だ。
アリアドネの糸で編まれた網は、クマの弾丸を全て防いだ。そしてそのまま攻撃に移る。網は一瞬で解け、所々で折れ曲がる。その山を角に見立てて、糸で編まれた猛獣が吶喊する。有里はこの技をオルフェウスの竪琴で弾き飛ばしたが、クマがキントキドウジで同じことをやればミサイルが貫かれる。
「テレビっ子クマ!」
クマは片足の爪先を持ち上げ、霊園の石畳をポンと叩いた。すると拠点のスタジオに常設してあるそれと同じような三段テレビが、クマの背後の地面から生えてきた。それにクマは後ろ向きに飛び込んだ。その直後、闘牛の牛が画面を割り、機械を粉砕した。もしクマがテレビの中に、と言うより古式ゆかしいメディアの箱を盾として中に逃げ込んでいたのなら、牛の角で白い体を貫かれていただろう。しかしそうはならない。
「ビッグ・トマホーク!」
テレビはそれ自体がある場所とは別の場所の景色を映し出す。つまり空間を超える。クマが今使った術はそういうものだ。後ろ向きに飛び込んだテレビの出口は、上に開いた。ミナヅキが影から影へと瞬きする間に移動するように、クマはラビリスの頭上にワープした。そしてペルソナが持つ爆弾を投下した。
ラビリスの武器が斧なら、キントキドウジの典拠である昔話の登場人物の武器はマサカリだ。その武器と同じ名前のミサイルを、クマはラビリスに向けて投げつけた。まともに当たれば有効打になっただろうが──
「やっぱぬるいわ」
頭上から襲い来る
「アリアドネ、捕まえや!」
奇襲に失敗したクマが地面に下りてくるのに合わせて、ラビリスは地面に糸の束を置いた。それは円形に編み上げられており、先ほどの牛の角と同様に折り曲げた糸の山側が、棘のように円の縁にいくつも置かれていた。
「い、痛いクマ!」
中世のヨーロッパでは罪人の四肢を車輪で砕き、更にその車輪に括りつけるという恐ろしい処刑方法があった。ペルソナの糸で作られた車輪または円盤は、それと少し似た使い方をするものだ。飛び出た赤い棘はクマの足に食い込んだ。人間のような痛覚のあるクマは、顔を歪めて悲鳴を上げる。
しかしP-1クライマックスは子供のケンカではなく、仲間同士の摸擬戦でもない。真剣勝負である。痛いと叫んでも相手はやめてくれない。むしろそれは隙になる。クマが痛がっている間に、ラビリスは斧を大きく振りかぶった。
──
自分の体ごと縦に回転する勢いで、ラビリスはブースターで加速した斧を叩きつけた。技を振り切った瞬間にはラビリスは左足一本で立っていて、右足は垂直になるまで持ち上げられ、上体は胸が左の膝につくほど完全に折り曲げられている。武術や格闘技と言うより体操のような大きすぎる動きだが、車輪刑にかけられたクマには当たった。
「あ……ヨースケ、ゴメン……」
ギロチンの一撃はクマの右肩から胸にかけて叩き割った。人間なら完全に致命傷、と言うより痛みを感じる暇もなく即死だ。この大会のルールでは人は死ににくいが、エントランスでクマ総統が注意したように油断して棺桶に入る間もなく首が飛んだら、やはり死ぬ。これまで油断する本物はおらず、敗れても棺桶に入る暇があった。しかしここで遂に死人が出る。霊園の墓石の下に葬られるべき、本当の死体が出来上がる──
「ただのシャドウが、こんなトコうろついとったら駄目やないの」
ラビリスは再び斧を持ち上げ、今度は肩に担ぐように構えた。横薙ぎに振って、首を斬り飛ばそうとしているのだ。容赦するつもりはない。まるで死体に鞭打つような、駄目押しの一撃を放つが──
「ク、クマはシャドウじゃないクマ!」
クマは死体になってはいなかった。首を狙われた大振りの斬撃を屈んでかわす、と言うより立っていられなくなって床に膝をついた。それが結果的にかわす動きになった。
「クマは……人間クマ……」
そして喋る。繰り返すが、クマは人間なら即死する傷を負っている。しかし死なない。そればかりか、口をきくこともまだできている。断ち割られた胸から大量の血を流しながら、死にそうな痛みを感じながらも、死にはしない。ただ瞳に悲しみを湛える。
「クマはジュネスでバイトして、ホームランバー食べて、ナナチャンが大好きなんだクマ……。そんなシャドウ、いないクマ……」
そこまで言って、金髪碧眼の美少年は赤と黒の棺桶に入った。ギロチンの刃から守るように音もなく湧き出た蓋によって、クマは仲間たちと同じように隠された。
象徴化は生きた人間に起きる現象で、シャドウがそうなることなどあり得ない。しかし自分はシャドウではないと主張する謎の生物は人間のように、主張が正しいことを証明するように、象徴化することができた。