ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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テセウスの船(2012/5/6)

 ラビリスの斧がクマの胸を断ち割った時、陽介はまだクマ総統と戦っていた。実力差があるからさっさと終わらせるつもりだったのだが、クマ総統は想定外に強かった。

 

「クマ! クソッ……!」

 

 人間なら致命傷の傷を同居人が受けても、助けに行けなかった。陽介が左の短剣を振るえばクマ総統が右手に持った杖で受けられ、右の短剣を突き刺せば左手の爪で受け止められる。力も速さも、本物のクマとはまるで違った。

 

風を(パンタ・レイ)!」

 

(ほむら)よ」

 

 ついでに使う魔法も違った。クマ総統が口に咥えた葉巻を揺らすと、本物のクマは使えない火炎が迸るのだ。その威力は『アイギス』が使ったオルフェウスの業火と同等か、それ以上であることが伺えた。『アイギス』を倒した風の秘術は総統の火炎と衝突すると、相殺されてどちらも消えてしまった。

 

 ただしクマ総統は積極的に攻めてはこない。陽介の攻撃は防ぐしそれなりに反撃もするものの、敵として本気で倒そうとしているようには見えなかった。総統が得意な属性のようである火炎はテセウスには効かないことも相まって、互いに決め手を欠いたまま時間ばかりが過ぎるような戦いだった。

 

 陽介の気持ちは焦っているが、むやみに突撃を仕掛けるにはクマ総統は不気味すぎた。しかしいつまでも小競り合いをしているわけにいかないので、どこかで勝負を賭けなければならない。油断なく隙を伺っていると──

 

「ほう……」

 

 クマ総統が『油断』を見せた。陽介と対峙している最中に突然後ろを振り返り、コーナーポストの向こうを眺めやる。見えないリングは対戦者を逃がさないが、視線は遮らない。

 

「ふふ、意外な結果だな」

 

「余裕のつもりかよ!」

 

 隙と言うのもおかしい、勝負の放棄に等しい態度を見せるクマ総統の背に向けて風が走った。テセウスが召喚され、仮面で顔を隠した金髪の男のビジョンは赤い霧の漂う空気を駆け、霧そのものごと斬りつけた。河川敷で『悠』を倒した十文字の斬撃だ。マントは切り裂かれ、着ぐるみは解体された。もし中身があるのなら、それも斬ったはずである。しかし──

 

(何だ、この手応え……!?)

 

 ペルソナが受けた衝撃は本体にも還元されるので、テセウスの剣の手応えは陽介自身にも感じられる。それは空気を斬った時の感覚に等しかった。何の抵抗もない、素振り同然だ。クマ総統はクマと違って、いや、出会った当初のクマと同じで中身がないのか。

 

「象徴化するシャドウか。それは濡れた火と同様に言葉の矛盾と言うべきであるが……死神が死んだり生まれ変わったりするくらいだからな。そういうこともあるか」

 

 そして外側を斬られても、何の痛痒も感じていない様子だった。しかも着ぐるみとマントは崩れていない。だるま落としの駒を綺麗に弾き出したと思ったら、だるまが落ちずに宙に浮いているように、野獣の装いは十字に切断されていながら、どういうわけか地面に落ちずにいる。今夜の陽介は昨日以前よりずっと肝が据わっているが、それでも言い知れぬ寒気を覚えた。

 

 これは一体何なのか。クマ総統は不死身なのか。それともこの姿は幻覚の類なのか──

 

「ぷぷぷー! ちょっと面白いもの見れちゃったクマね! ま、メイドのミヤゲと思っとくクマ!」

 

 クマ総統は再び振り返って陽介に向き直る。依然として斬られても形を保っている幻のような有様だが、目の色は黒に戻っていた。

 

「あ、メイドってヨースケが好きな、喫茶店のベイベーチャンのことじゃないクマよ?」

 

「んなトコ行ったこともねえよ!」

 

 八十稲羽にメイド喫茶などないし、文化祭でそういう企画が立ち上がったこともない。そして都会に住んでいた頃には行く勇気がなかったから、陽介は『ご主人様』と呼ばれた経験はない。

 

「はっはっはー! そーいえばヨースケはナースさん好きだったクマね! そんじゃあクマは忙しいから、あとはラビチャンとよろしくやっとりんしゃい!」

 

「!?」

 

 クマとラビリスの勝負が決着したのを潮に、クマ総統は消えた。偽物の形が崩れて泥や煙になって消えるのとは違って、唐突にその場からいなくなった。プロジェクターの電源を落として、投影されていた立体映像が消えるように消えた。不自然なくらいに呆気なく、勝負を投げ出した。それと同時にコーナーポストが割れた。

 

 敵が急にいなくなって開けた視界の先では、ちょうど赤と黒の棺桶が完全に沈み込んで消えるところだった。その棺桶に誰が入っていたのかは、残った者がその存在でもって教えてくれている。銀髪碧眼の美少女の顔が、強烈な歓喜を表す笑みを浮かべて陽介を見ていた。象徴化したのはクマで、勝ったのはラビリスだ。

 

 P-1クライマックス三回戦第二試合の前半戦、二つの一対一の勝負の決着はついた。クマは敗れ、クマ総統は戦いを放棄した。残ったのは因縁の二人である。

 

「……」

 

 クマ総統が何者なのか、陽介には分からない。わざわざリングを出して戦いを仕掛けてきながら、どうしていきなりやめたのか。どこへ行ったのか。分からないことだらけだが、陽介は気持ちを切り替えた。もっと重要なものが、今はある。

 

「ラビリス、探したぜ」

 

 陽介は短剣を手にしたまま、霊園を模した空間を歩む。ここは『小西家先祖代々之墓』と刻まれた墓石くらい、探せば見つかるかもしれない。だがもちろん陽介は探すつもりはない。女の前で他の女を気にするほど、陽介は最低ではない。

 

「奇遇やねえ、ウチもやで!」

 

 その点は女の側も同じだ。ラビリスは悠には興味がなく、クマは叩き切って追い払った。クマ総統も去った今、邪魔する者はいない。二人きりである。

 

「そりゃ嬉しいね。俺のこと、気にしてくれてたんだ?」

 

「もっちろん! あんたにゃお礼が途中やったからな!」

 

 言うまでもなく、ラビリスの『お礼』は物理的なものだ。互いに想いを寄せる男女が再会を喜び合うようなセリフから始まり、実際喜んでいるのだが、それでも戦いになる。

 

「そりゃあああ!」

 

 大上段から斧が振り下ろされてきた。クマがやられたギロチンの一撃と比べるとブースターが起動していない分、やや遅い。ラビリスの体勢も全身を投げ出すほど前のめりではない。つまりこれはフェイントだ。一目見て陽介はそれと気づき、一歩下がってかわす。

 

 斧が地面にめり込む寸前、ブースターが起動して振り下ろすより速く引き戻される。グランプリのエキシビションマッチの初撃と同じパターンである。あの時の陽介は引きの速さに虚を突かれて顔に傷を負ったが、今はもう半歩下がってかわした。その動きには余裕がある。

 

「アリアドネ! 捕まえや!」

 

 召喚された女のペルソナが右手を広げると、五本の赤い糸が飛んできた。首と四肢を各々絡め取ろうと襲ってくる。ただし相手を絞め殺したり、手足を切り落とすような力は込められていない。本当に捕まえるだけのつもりの、速さを重視した糸飛ばしだ。しかし陽介はもっと速い。体を横にして一歩前に進み、腰をやや曲げる。それだけで全ての糸を回避した。

 

「ふん!」

 

 通り過ぎた糸が出戻ってきて、後ろから陽介を捕まえようとしている。これもよけるか、それとも──

 

 一瞬考えた後、陽介は両手の短剣で反時計回りに円を描いた。右手を上へ、左手を下へ移動する。ミナヅキがやるような回し受けを短剣でやり、後ろから襲い来る糸を振り返らずに、根元の側から全て切り落とした。

 

「ちい……舐めとんのかいな!」

 

 ラビリスは歯を食いしばった。目の開き方といい顎の強張り方といい、顔だけ見ているととても機械とは思えない。なお、ラビリスは糸の攻撃を見もしないで凌いだ陽介に侮られていると感じたが、陽介にそんなつもりはない。

 

(やっぱ疲れてきてるな、俺)

 

 家電売り場で『アイギス』とやった死闘はもちろん、クマ総統との戦いも精神的にかなり疲れるものだった。今夜はもう四戦目で、この先いくつあるかは分からない。陽介は自分の動きが少し鈍ってきたことを感じていたので、足を休めるつもりで手を使ったに過ぎない。

 

「おらあ!」

 

 しかし地力が違うので、このくらいの疲労ではラビリスに捕まりはしない。巨大な斧をかわし、細い糸を短剣で防ぐ。ほとんどの攻撃は反射神経だけで対応できるし、続けば慣れてくる。

 

 アリアドネを操るラビリスは強い。シャドウワーカーの本部に入れても他と比べて見劣りはしないし、特別捜査隊に入れば上位に来る。ただし悠と陽介に次いで三番目だ。今の陽介は特別課外活動部の時代で言えば、戦力の平均では彼らを上回っていたストレガの領域に達している。本気で戦えば普通に勝てる。だが陽介は攻撃しない。

 

 

 ラビリスの実戦経験は、ペルソナ覚醒前の訓練も含めるなら非常に多い。だから技術的には優れている。自己流の陽介よりも上であるくらいだが、技がいいだけでは実戦には勝てない。そして勝負が長引くに連れて、その優位まで失われつつあった。

 

「当たれええ!」

 

 斧を払い、振り下ろし、突きもやる。ラビリスの斧には槍として使う為の穂先はついていないので、突きは当たっても刺さらないから効果は乏しいが、昂っているラビリスは構わず突く。しかしいずれも陽介には当たらない。下がり、屈み、跳躍してかわす。

 

 野球のピッチャーは単に球が速いだけではバッターを押さえられない。コントロールと緩急が必要であるように、斧のブースターはオンオフを切り替えて速度に差をつけ、更にフェイントも織り交ぜてこそ真価を発揮する。ラビリスは当初はそれができていたのに、いつの間にか使い方を忘れてしまっている。先ほどからブースターはずっと起動し続けており、負荷がかかり過ぎた為か異音を発し始めている。

 

 機械仕掛けの斧が暴走して壊れてしまいかねない騒擾の中で、陽介の声は不思議とよく通った。

 

「君のことを教えてくれ」

 

「ああ!?」

 

 グランプリの決勝でアステリオスを従えたラビリスの鏡像は、相手を翻弄するように戦う陽介に怒り心頭だった。その時のように、このラビリスも口が荒くなっている。当然と言えば当然だ。両者は瞳の色と言葉遣いは違うが、『土台』は同じなのだから。

 

「君はどこで生まれた?」

 

 機械の製造場所で言うならば、鹿児島県の屋久島である。島内にある桐条グループ所有の秘密のラボだ。

 

「誕生日は?」

 

 製造年月日で言うならば、1999年の4月20日だ。ラビリスの年齢を人間と同じように見なすことはできないが、それでも陽介よりかなり年下と言うべきだ。

 

「好きな食べ物とかでもいいぜ。奢るよ」

 

 言いながら陽介は短剣を懐に収めた。勝負はまだ続いているのに、武器を手から離してしまった。これは相手を舐めているなら敗北の予兆であり、舐めていないなら無謀な振る舞いと言うべきだ。いくら実力で勝るとはいえ、丸腰では事故が起こり得る。

 

「さっきから何言うとるんや!」

 

「君のことを教えてほしいんだ」

 

「教えたってあんたにゃ分かりっこないわ!」

 

 陽介はラビリスの過去を知らない。本人からはまだ聞いていないし、桐条グループによる調査も済んでいないので、そこから教えられてもいない。ただラビリスの言動の端々や焼却炉の情景などから、何となく想像はつく。

 

「グランプリ、またやったろか! 今度はルール変えて! 相手殺さんと先に進めんようにしたろか!」

 

 その想像は的を射ていることが、こういうセリフからも裏付けられる。金の瞳のラビリスが言った通り、幸せそうにしている連中に分からせてやりたい。それがラビリスの望みだ。それを実現するには、真の意味で同じ経験をさせるのが一番だ。グランプリでは『真打』に止められたからできなかった、本物のデスマッチを仲間同士でやらせれば──

 

「そいつは勘弁してほしいな。そんなことされたら俺、ぶっ壊れちまうよ」

 

「せやろ! せやからあんたは何も分からへんねん!」

 

 ラビリスは過去を捨てて自由になったつもりが、迷宮(ラビュリントス)の深淵から自分を引き戻す鎖が伸びてきた気がした。その鎖を断ち切る為に、陽介に『与えられた』力を行使する。

 

 召喚されたアリアドネは両手の指を一度絡ませ、文字通り糸を引くような動きで指を離す。あやとりの所作で紡ぎ出された糸を、剣の形にする。古代の神話でも後世の物語でもよく出てくる、愛憎の二人が決着をつける為に用いられる凶器だ。それが陽介の心臓に向けて放たれる。

 

 対する陽介はラビリスの『為に』得たペルソナを召喚した。

 

「ああ、分からない」

 

 テセウスは双剣を胸の前で交差させ、襲い来る剣を挟み込んで叩き切った。敢えて刺されて、ラビリスが感じている心の痛みを体の痛みで代用するというのも、一つのやり方ではある。だが陽介はそうしない。ラビリスと同じ痛みを背負うことはしない。それは自分や仲間の命が惜しいからというのは、もちろんあるが──

 

「俺は君じゃない……だからいいんだよ」

 

 ラビリスは斧を肩に担いだ体勢で動きを止めた。目を大きく見開き、『無理解』であると認める男を見る。青い瞳に満ちていた怒りの中に違う色が混じる。その色の名は困惑だ。

 

「同じ境遇の奴ばっか集まってさ……同じ経験して、どいつもこいつも同じこと言ってたら……そりゃあ気持ち悪いぜ」

 

 我は汝。または彼は汝。その意味は、本来異なる存在である二人の人間が無意識の領域で同化すること。神への信仰に通じる道。神の前に己を投げ出すこと。それはまさに悠が築き、そして捨てたもの。コミュニティと呼ばれる不条理な絆だ。陽介はそうした絆を築く資格を持たないし、求めてもいない。以前はともかく、今は求めていない。

 

 絆の種類は同じ思いを共有することだけではない。今の陽介が求めているのは、差異から生じる絆だ。

 

「俺は君と違うから……外から来たから見せてやれるんだ」

 

 ラビリスは(ラブリュス)を下ろした。巨大すぎる刃が霊園の石畳に当たり、大きく重い音がする。その重さはラビリス自身とラビリスの過去の重さに等しい。

 

「……ウチに何を見せるっちゅうんや」

 

 一方で陽介の短剣は軽い。心も普段は比較的軽い。だから真摯な言葉の引き出しは、実はそれほど多くない。それでも言葉を連ねる。大好きな少女に一生懸命に真心を伝える、初心な少年のように。

 

「世界は君が思ってるより、ずっと広いんだってこと」

 

 陽介は片目を閉じて笑顔を見せた。するとラビリスは目を逸らし、床に下ろした斧を見る。5月の花が咲くような笑顔を見るのが、急に辛く感じた。

 

「あんた、言う相手を間違えとるわ。ウチは小西先輩たらいう人やないで」

 

「間違えてねえよ。君は先輩とも全然違うんだから、間違えるはずがねえって。第一、あの人はもういねえ……。尚紀が連れていっちまったからな」

 

 早紀はもういない。昨年12月の戦いで光と化して消えたのだ。グランプリの放送室では一瞬未練がぶり返したが、あの時と今は状況が違う。陽介の心境も違う。

 

「ラビリス、俺は君を外に連れていきたい」

 

「やっぱ間違えとるわ。ウチはラビリスやない……そのシャドウや。あんたらが散々ぶっ飛ばしてきた、偽物と一緒や」

 

「君こそ間違えてるぜ。シャドウは偽物じゃない」

 

 シャドウは『真なる我』と言う。もしそれが本体に対する言いがかりではなく、中傷でもなく、影の思い上がりでもないとすれば、その意味するところは何であろうか。

 

 人を形作るものは何か。肉体なら例えば皮膚、血、筋肉、骨、脳。精神なら例えば勇気、知性、根気、寛容さ、愛。

 

 早紀の例で言えば、昨年12月7日にテレビの中のコニシ酒店に現れた早紀は、肉体はその時点でとうに失われていた。そして性格は大分酷かった。テレビの中までわざわざ探しに来た弟を、問答無用で殺そうとしたくらいに。言うなれば、生前の早紀を形作っていた要素が全て置き換わってしまっていたわけだ。それを元の存在とは別物であるとするならば、12月の早紀は早紀ではなかった。本物の早紀は死んでシャドウが残っただけだ。しかし尚紀は早紀を殺したシャドウを、早紀と認めた。

 

 ではラビリスはどうか。陽介は認められるか。何をどうだと認めるか。どんな言葉でシャドウを定義するか。

 

「君は……ラビリスだよ。生まれたばかりの、小さな女の子さ」

 

 本体を食べたシャドウは完全に自存した存在となり、『魂』を得る。青い瞳のクマが生き物であり人間であるならば、青い瞳のラビリスもまた──

 

「花村君……」

 

 ラビリスは顔を上げ、陽介を見た。その笑顔はとても眩しく、いつかの海を思い出させた。

 

 十三年前のあの日、島の研究所から脱走して浜辺まで来たものの、この体ではどこにも行けないと諦めた。しかしこの男は、自分を(クレタ)の外に連れていってくれると言う。広い世界を見せてくれると言う。あの時、この男は仲間になれと赤い瞳の自分の手を取った。今の自分は色が変わっているが、それがどうしたと言う。それは即ち──

 

 ──

 

 ガラスが割れる音が響いた。手や頭の中で弾けるペルソナ召喚の音ではない。体のもっと奥の方で鳴った。それと同時に、機械にはないある感覚を覚えた。もちろん体の異常を知らせる危険信号は機械にもあるが、そうした明確な目的を持った機能ではない生の感覚は、生き物しか持たないものだ。ラビリスはそれを感じた。

 

「い、痛っ……!」

 

「ど、どうした?」

 

 ラビリスは顔を顰めた。片目を閉じて、右手を斧から離して左の肩を押さえる。支えを失った巨大な武器は地面に転がった。

 

「いたた……そ、装甲が……きついわ! 肩! 肩の辺り……!」

 

 クマは車輪刑と斧の一撃に痛みを感じた。ラビリスが感じているのは、それと同じ系統の感覚である。もちろんクマのそれよりずっと軽いが。

 

「きつい……?」

 

「な、何やっちゅうねん! ウチの体、どないなってんねん!」

 

 ラビリスの装いはグランプリの時と同じで、白い装甲の上から八十神高校の夏の制服を着ている。左の袖に右手を差し込み、肩を強く握って引っ張った。するとバキッと大きな音がした。ネジで止められた機械の部品を強引に引きはがして壊してしまったような、まさにその音がした。

 

 左肩のパーツが零れ落ちた。するとそれと繋がっていたのか、左の上腕のパーツも落ちた。二年前の1月にアイギスの側頭部にあったファンが止まって落ちたように、ラビリスの鎧が外れて落ちた。

 

「え……?」

 

 ラビリスは制服の袖から伸びる自分の左腕を見た。肘の上と下は繋がっているのに、その『構造』は明らかに違っている。まるで二人の作者が別々に作り上げた作品を、変にくっつけたかのようである。肘から指にかけての部分の作者の名は『人工』で、肘から肩へのそれは『自然』だ。

 

 造形の違和感を解消しようとするように、ラビリスは自分の左の前腕を右手で握った。そして引っ張ると、今度は壊れるような音はせずあっさり外れた。何が外れたかと言えば、銃弾も通さない鉄だ。その下にあったのは──

 

「に、人間の手……?」

 

 陽介は驚きの余り、目をこれ以上ないほど大きく見開いている。そしてラビリスはもっと驚いている。口を半開きにして、何か言おうとしているのだが言葉にならない。人生観がひっくり返る衝撃を受けた時、人は無口になる。

 

「……」

 

 ラビリスは自分の左手を動かした。指を一本ずつ曲げ、手を握っては開き、肘を曲げたり伸ばしたりする。その動きはとても滑らかなものだった。指先には爪があり指紋もある。掌には手相がある。手の甲を見れば、肌は白く抜けるようで奥の血管が透けている。

 

「……」

 

 そして再びラビリスは陽介を見た。言葉を失った二人は見つめ合う。目で、表情で気持ちを伝える。陽介はラビリスの肩に手を触れた。右手に感じるラビリスの左肩は細く柔らかい。左手に感じる右肩は硬いが、これも装甲の下にはきっと──

 

 体を寄せたのは、男女のどちらが先だったか。それは分からないし、決める意味もない。陽介とラビリスは抱き締めあった。

 

 

 一方その頃、塔の地下のラウンジでは皆がテレビの前に集まっていた。最前列でかぶりついているのは、ついさっき落ちてきたクマだ。致命傷のはずだった傷はもう治っている。断ち切られて血塗れだったフォーマルシャツも、バラの造花も元通りである。

 

「ラビチャン……」

 

 ラビリスの左腕のパーツが落ちて、人間の手が現れたシーンはラウンジにいる全員が見た。クマたち特捜隊だけでなく、有里たちシャドウワーカーも見た。奇跡と言うか異常事態と言うか、とにかく余りに想定外の出来事に、クマが呟いた後は皆からしばらく声が出てこなかった。

 

「な、何つーミラクルだ、ありゃ?」

 

 かなりの時間を置いてから順平が言うと、クマが答えた。

 

「試むる者きたりて言ふ、汝もし神の子ならば、命じてこれらの石をパンと為らしめよ……。答へて言ひ給ふ、人の生くるはパンのみに由るに非ず、神の口より出づる(すべ)ての(ことば)に由ると(しる)されたり……」

 

 昨年から時々やる、聖書を読んでいない者には馴染みのない聖句の引用だ。もっともこれは有名な言葉なので、ラウンジにも知っている者はきっといるだろうが、文語なので分かりにくい。

 

「石が……パンに変わった……」

 

 マタイによる福音書が伝えるところによれば、救世主は石をパンに変える奇跡は行わなかった。しかしやろうと思えばできたはずである。ヨハネによる福音書に伝えられる、婚礼で水をワインに変えた時のように。ただ試練即ち悪魔に誘惑されて、断食して飢えた自分が食べる為に、つまりは自分に都合よく奇跡を用いるのを良しとしなかっただけだ。

 

「あのー……クマ君?」

 

「とうとう壊れちゃった?」

 

 謎の言葉を吐く美少年を千枝は普通に心配し、雪子は容赦なく心配する。だがクマは依然としてテレビに釘付けである。

 

「ク、クマクマ! ラビチャン、クマになったんだクマ!」

 

「そっか……あのラビリスって元のロボットじゃなくて、シャドウが本体を食べちゃって生まれたものだから……」

 

 クマに続いて、りせも理解が及んだ。ラビリスは見た目が機械で、言葉遣いは金の瞳のシャドウと違っているので、ロボットであると皆が思っていた。だが違うのだ。その実体は限りなくシャドウに近いもの。

 

 機械の体が人間のそれに変わるなどあり得ない。石はパンに変わったりしないし、水もワインに変わったりしない。無論、鉄が肉に変わることも普通はない。変えられるのは神の奇跡か悪魔の異能であり、人間には不可能だ。だがシャドウであれば話は別だ。

 

 シャドウは神ではないし、悪魔とも言い切れない。しかし『向こう側』の存在ではある。だから人間には不可能でも、シャドウには可能なこともある。そしてシャドウが人間の体を得ることは、可能の範囲内だ。何しろ前例があるのだから。

 

「クマ公みてえに、中からニンゲン生えてきたってのか!?」

 

 その前例について完二が口にした。中から生えてきたと言うか、鉄の体そのものが変容したと言うか。だがとにかく昨年の夏にテレビから出てきた時のクマと同じことが、ラビリスの身にも起きた。それは確かだ。

 

「マジか……ロボッ娘ラブをこじらせた挙句、人間にしちまったのか。湊とアイちゃんと一緒かよ……いやまあ、姉妹なんだしいいのか?」

 

 順平は天井を仰いだ。正確に言うと、二年前の1月に有里がアイギスに対して行ったことと違って、今夜は陽介が奇跡の力を使ったわけではない。しかし陽介がいなければ起こり得なかった奇跡ではある。

 

「ラブ……何ですか?」

 

「いや、ラブでしょこれ。どう見たって」

 

 雪子は疑問を呈したが、順平の言う通りだ。ラウンジの超大型テレビには映画のようなシーンが映し出されている。陽介は画面に背を向けており、それにラビリスの鉄の右腕と肉の左腕が回されている。もう絶対に逃がさないと言わんばかりに、しっかりと。

 

「えっと……つまり、結論はこう? 花村、ラビリスを口説き落としたの?」

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