「堂島さん、大丈夫ですか?」
30日に日付が変わって間もない頃、稲羽署の刑事二人はスナックをようやく出た。若い方が年長の方に肩を貸しながら。
「馬鹿やろ……どってこたあねえよ……」
酔漢の言葉ほど、この世で信用ならないものはない。もちろん堂島は少しも大丈夫ではない。顔は耳まで赤く染まり、足元は覚束ない。もし足立が手を離せば、道路に倒れ伏してそのまま眠り込んでしまうだろう。完全な酔っ払いの状態である。足立も初めて見る、相棒のだらしない姿だった。
もし娘に見られようものなら、父親の威厳など音を立てて崩れ去るしかない。しかし夜はすっかり更けたので、もう寝ているであろうことが唯一の救いだ。しかし同居している甥は起きているかもしれない。多感そうな高校生に何と説明しようか、足立は今から頭を悩ませた。
「済みませんね、こんな時間まで」
前後不覚の相棒を支えながら、足立は店の側を振り返った。するとちょうど黒沢が出てきたところだった。こちらは堂島と違って、足取りはしっかりしている。顔は赤くなっているが、飲まれてはいない。
「構わんさ。久しぶりに楽しい時間だった」
実際、黒沢は迷惑そうな顔はしていない。ただ周囲を見回すと、鋭い目の中にいささかの訝しさが現れた。
「しかし……これは霧か?」
飲んでいる間に、朝から降り続いた雨は上がっていた。しかしそれに代わるように、地上には霧が立ち込めていた。真夜中の商店街を照らす街灯は、月が暈をかぶるように滲んでいて、真下にさえ光が届いていない。黒い闇に白い闇が侵食してきたことを、町の少ない灯りが示していた。
「ええ、最近よく出るんですよ。けど、これじゃちょっとまずいっすね。代行の人、来れないんじゃ……」
黒沢と堂島はそれぞれ車で店まで来ていたが、飲んでしまったので運転はできない。それで代行の業者を呼んでいるのだが、この有様では店まで辿り着けないかもしれない。仕方がないので、霧が少しは晴れるのを待たせてもらおうと、足立は相棒を連れて店に戻ろうとした。ちょうどその時──
「千里……?」
頭に回りすぎた酒の重みで、雪をかぶった柳のようにしなだれていた堂島は、急に顔を上げた。
「え、何ですか?」
足立が問い返したが、堂島は答えなかった。ただ足立は自分の肩にかかる重量が、急に軽くなったのを感じた。酒に飲まれてすっかり駄目になってしまった相棒は、どういうわけか足に力を取り戻した。唐突に、脈絡なく。しかもそれに留まらず、霧の中を歩き出そうとさえした。
「千里……お前なのか!?」
堂島は白い闇に向けて身を乗り出し、声を張り上げた。そして相棒を引きずって歩き出した。どこにそんな力が残っていたのだと、突っ込みたくなるほどだ。堂島は四十を過ぎているが、体力はそこいらの若者に負けていない。まして線の細い足立では普段ならとても敵わないくらいの膂力がある。しかも今は普段を大幅に超えた、火事場の馬鹿力が全身に込められていた。
「ちょ、ちょっと! 堂島さん!?」
「ええい! 離せ!」
遂に堂島は相棒の手を振り払った。そして一寸先も見えない白い闇へ駆け出した。今月から同居を始めた甥が、二週間ほど前に恐怖を覚えないまま崖へと踏み出したように。或いはそれより愚かにも、或いは哀れにも、『何か』に誘われて。
「ま、待ってくださいよ!」
「どうしたんだ……」
堂島の後を足立が追い始めると、黒沢も追おうとした。だが店の前から足を踏み出した瞬間、黒沢は急な寒気に襲われた。それは右手の指が痺れるような感覚と共に体の中に忍び込んでくるようで、やがて血の流れに乗って全身を覆い始めた。酒で熱くなっているはずの体が、急激に冷えてくる。寒気の起点となっている箇所に左手をやれば、金属の硬い感触があった。指輪だ。稲羽に来てから、寝る時にも身に付けている指輪だった。
「これは……まさか!」
黒沢がこの感覚を知ったのは、最近のことである。昨年の初めまではこれをもたらす『時間』が毎晩訪れていたのだが、その頃の黒沢は認識できなかった。そして今も認識する為の感覚、と言うか『適性』を、黒沢は持っていない。しかし有里たちに昨年よりも深く協力する立場となった今、適性をある程度付与する道具を貸与されていた。それがこの指輪だ。
堂島は商店街を南に向けて走り、足立がそれを追う。そして黒沢も二人を追って走る。霧の中では、ほんの数歩先を行くだけで背中も見えなくなってしまう。
自然の夜の黒い闇は、光が差せば切り裂かれるのみだ。しかし酷く不自然な白い闇は、光をも眩ませる。霧の先に何かがあっても、それは真の姿を見せてこない。見えているようでも実は見えていないのだ。手を伸ばせば触れられる距離にまで近づかない限り、真実は認識できない。そしてそこまで近づいた時には、もう手遅れだ。
相棒の手を振り払って霧の中を駆け出した堂島は、『真実』に限りなく近づいた。そしてその姿を目の当たりにした。
「何だ……これは!?」
霧の向こうから堂島に『声』をかけたのは、亡くした妻ではなかった。それどころか人間ですらなかった。白い闇の中に浮かび上がる、黒い泥濘だ。下水に流されて顧みられずにいたまま時を経て増殖し、どこかに開いたひびを伝って、地面の表にまで顔を覗かせてきた汚泥のように、人間の前に湧いて出てきた。泥の中心に浮かんでいるのは、人の顔を模した青い物体だ。幼い頃に縁日で気紛れに買ったきり、一度も使われずに捨てられたお面のようなものだ。
「堂島さん! って……え、ええ!?」
数秒後、足立が追いついてきた。立ちすくむ相棒の横に並び、二人一緒になって『真実』を目にした。
初めて見る堂島と違って、足立にとっては見覚えのあるものだ。ただし深夜のテレビで見たことがあるだけで、自分の目で見るのは初めてだ。突如として現れた『実物』の影は、青い仮面を中心として立ち上がった。高さは大人の刑事たちの身長を、ゆうに超えている。
「やはり……シャドウか!」
そして最後に黒沢も追いついてきた。黒沢は歯噛みしながら足を止めて、二人の前には出ずに素早く懐に手を入れた。ただし取り出すのは拳銃の類ではない。有里と違って黒沢は武器を持ち歩いていないし、持っていたとしても役に立たない。普通の人間では現れた異形の怪物に対抗し得ないのだ。拳銃どころか機関銃や爆弾を使っても倒せない。それを知っている黒沢にできることはたった一つ。倒せる力のある者を呼ぶことだ。
「すぐに来てくれ! シャドウが出た!」
黒沢は取り出したスマートフォンに向けて大声で叫んだ。しかしその声は、すぐそこで立ち尽くす足立の耳には届かなかった。日常の中でだけ生きてきた人間は、突如として非日常が立ち現われた時、何もできずに佇んでしまうことがままある。しかし足立はそのせいで黒沢の声が耳に入らなかったのではない。頭に蘇った別の声を聞いていたからだ。
『貴方は元より少々変わった運命をお持ちです。しかし貴方自身に由来しない過去のある出来事によって、更なる奇しき運命が待ち受けているかもしれないのです』
奇しき運命が姿を現した。
『貴方のみならず、周囲の方々をも巻き込んで』
堂島を巻き込んで。
(そっか……未来が閉ざされるって、こういうことか)
どこで聞いたのかも覚えていない謎の言葉。早紀をテレビに落とした際も頭に浮かんだが、今になってその意味が分かった。眼前に現れた正体不明の怪物。深夜のテレビで特撮ヒーローを演じていた少年たちは、こうしたものをシャドウと呼んでいたが、あれはテレビの中だけの『架空の存在』ではなかったのだ。この通り、現実にもいた。それに食われて死ぬのが自分の運命だ。そこまで悟って、足立は天を仰いで目を閉じた。
別に惜しい命ではない。進んで捨てる気はないが、しがみつくつもりもない。そしてもはや、どれだけ足掻いても暴れても、どうしようもない状況だ。運命を受け入れて、肩や膝から力を抜いた。まだ立ってはいるが、一押しされれば倒れるだろう。
従容として死を受け入れる──
予期せぬ時に予期せぬ死が突然襲って来た時、人はどうするか。例えば大規模な自然災害に巻き込まれて、もうどこにも逃げ場がないと分かった時、人はどうするか? 意外なことに、死にたくないと取り乱したりしない人は、かなり多い。そういう人は手近なものに遺書を書いたり、電波が通じれば家族に電話したりメールを打ったりする。そしてそれを終えたら、時が来るのをただ待つのだ。
死を前にして冷静さを保つのは、実はそれほど大きな克己心を必要としない。なぜなら人は、いつかは死ぬものだから。誰もがそれを知っているから。そこに恐怖や後悔はもちろんあるが、大人であれば抑えられないほどのものではない。
足掻いたり暴れたりするのは、頑張れば死から逃れる術がある場合や、守らねばならない人がいる場合などだ。
目を閉じた足立は何か太いものに押されて倒れた。支える力を失っていた体は、あっさりと地面に尻餅をついた。その瞬間、足立は自分がシャドウに押し倒されたのかと思った。しかしそうではなかった。
「足立、逃げろ!」
開いた目の前にあるものは堂島の背中だった。両腕を大きく広げて、倒れ込んだ足立の前に立ち塞がっていた。酔いを忘れた堂島に突き飛ばされたのだ。その向こうには、立ち上がった泥のシャドウがいる。人を飲み込んで、噛み砕いて、深淵の底へ送り込んで消化してしまうもの。事によると食べ残しをテレビアンテナや電柱に吊るして、モズのハヤニエめいたことをするかもしれない怪物から、堂島は体を張って年若い相棒を庇おうとしている。するとシャドウはその姿を変えた。
──
不定型な泥の塊は青い仮面を中心として無数の泡を浮かべ、やがて人型をそこに出現させた。だが形は似ていても、明らかに人ではない。身の丈は二メートル以上あり、酒樽のように膨れた腹には、背中まで貫通している巨大な穴が開いている。右手に拳銃を、左手には手錠を持っている。そして顔があるべき場所には仮面が貼り付いていて、その上には帽子が載っている。シルクハットや野球のキャップではなく、警察の制帽だ。何たる皮肉か、刑事たちの前に現れたシャドウは警官を擬した。
「……化物め!」
堂島は吐き捨てるが、もちろん怪物に言葉は通じない。シャドウは堂島を標的に定めたか、手錠を猛烈な勢いで振り回し始めた。それは明らかに間違った使い方だった。手錠は相手の手首にかけて、傷つけずに動きを封じるのが本来の用途だ。しかし怪物は警察を象徴する道具を、単に鎖で繋がれた二つの輪と見なして、相手を打ち据える為に使おうとしている。そしてそれを刑事に向けて振り下ろした。対する堂島は広げていた両腕を頭の上で交差して、頭上から襲い来る打撃を受けた。
「ぐっ……!」
腕の一本くらい折れたかと思う衝撃に、堂島は呻いた。だが膝は折らない。立ったまま巨大な怪物を睨み続けている。
「何……!?」
ここで黒沢が驚きの声を上げた。シャドウに驚いたのではない。その攻撃を受け止めた堂島に驚いたのだ。普通の人間ではシャドウに対抗し得ない。倒すのは無論、攻撃を受け止めることもできないはずなのだ。打撃を一発でも食らえば、腕が折れるくらいでは済まない。それなのに堂島は自分の足で立っている。
「まさか……!」
しかしそれ以上を考える間はなかった。堂島が振り返って再び叫んだのだ。ただし視線は黒沢とは合わなかった。堂島の目は、地面にへたり込んだままの足立に向けられている。
「何をしている! 早く行け!」
だが足立は動かない。相棒に叱られても動けない。手足は地面に縫いつけられたように、微動もしない。死を前にして異様なまでに冷静でいる心が、自分を庇う相棒に反論していた。
(違いますよ)
そう、違うのだ。このシャドウは、僕が呼び寄せたに違いないのだ。僕はただ、この町に災いを運んできた、ただそれだけの者。貴方が庇ってやらねばならないような、そんな価値のある人間ではないのだ──
そこへ銃声が響いた。映画やドラマでよくある残響が長く続く作り物の音ではない。パン、と短く乾いた、本物そっくりの銃声だった。
「あぐっ……」
シャドウの攻撃に一度は耐えた堂島も、二度目で膝をついた。左の上腕に右手を当てて、歯を食いしばって額に脂汗を浮かべている。シャドウは銃を堂島に向けて放ったのだ。急所にこそ当たらなかったものの、決して浅い傷ではない。そしてシャドウはまだ止まらない。縦にも横にも大きく広がった歪な巨体を揺らしながら、堂島へ一歩二歩と近づいていく。
殺される──
「堂じ……うぐ!?」
足立は相棒の名を呼ぼうとした。だが声は途切れた。突然、口の中に酸味が広がったのだ。そして腹が捻じれた。体の内部に手を差し込まれて胃を直接絞られるような、激烈な痛みを伴う不快感が体の中から襲ってくる。動かなかった両手は、火に煽られたように地面から跳びはねた。右手は引きつった口を覆い、左手は腹を押さえた。
この感覚には覚えがあった。吐き気だ。つい先ほど酒を飲んだばかりだ。相棒よりもずっと少ないが、自分にしてはかなりの量だった。まさかここで自分は吐くのか。いつぞや、消化に悪い硬いレンコンを吐いたように──
『我は汝』
(何……?)
不快感に埋め尽くされた頭に、唐突な声が響いた。運命がどうとの、気取ったセリフをのたまった声ではない。もっと重く、くどく、まとわりつくような鬱陶しい声。そしてセリフそのものには聞き覚えがあった。ジュネスのチンピラや顔の崩れたヒロインたちが、テレビの中で似たようなことを言っていた。
『汝は我』
そして突然、右手と口の間に厚紙のような質感の何かが現れた。思わず手を口から離して、見てみると──
「え……?」
それは仮面のようなものが描かれている、一枚のカードだった。こんなものを自分は吐いたと言うのか。もういつ口にしたのかも覚えていない消化に悪い異物は、体の中を巡り巡ってこんな形に結晶してしまったのか。その結晶は何と呼ばれるか。
『ペルソナ』
どこからともなく、一つの言葉が告げられた。これは知っている言葉だ。特撮ヒーローたちが超能力を使う際に、叫んでいる合言葉だ。それに気付くと共に、再び胃が捻じれた。腹を押さえる左手に力が入るが、その甲斐もない。不快感はまるで収まらない。それどころか酷くなる一方だ。カードを持ったままの右手で再び口を押さえ、その弾みでカードが口に触れた。
その途端に、胃の辺りで暴れていたものが更に大きく動き出した。そして口の中に錆びた鉄の味が広がった。カードで唇を切ったか、それとも歯で舌を噛み切ってしまったか。はたまた体のもっと奥の方を、『何か』に傷つけられたのか。暴虐に振る舞う吐き気に加勢した血の苦味が、ますます足立を追い詰める。
もう駄目だ。これ以上は戦えない。体の中から襲ってくる、何者かに負けてしまう──
「うわあああ!」
悲鳴と共に、体内の『何か』を吐き出した。吐き始めたら、止まらなかった。体は反り返って地面に仰向けに倒れ、視線は霧で塞がれた天へと向く。月も星もまるで見えない、茫漠たる暗黒の白だ。その瞬間、足立は悟った。
道はとうに踏み外している。しかし今、更に大きく外れてしまった。社会に生きる人としての道ではない。もっと根源的な、存在としての道を踏み外した。そしてそれは隠せない。落ちたら最後、二度と元には戻れない崖の底へと転落したのだ。それを悔やむように、幼い頃の過ちを振り返って身悶えするように、足立は霧が覆う地面をのた打ち回った。体を丸め、仰け反り、両手で頭を抱えて絶叫した。
「ああああ!」
──
これまでの全人生を通じて初めて、腹の底から声を上げた。その悲鳴自体を切り裂いて、頭の中でガラスが割れる音が響いた。それは単なるイメージではなく、ナイフのように尖った破片が飛び散って、体の内側を本当に傷つける感覚さえ伴っていた。無数のガラス片は胃も心臓も差別なく、全身余すところなく貫いた。死んだ女の復讐のように、痛く、鋭く、容赦なく。
吹き出す血は虚無へと流れ込み、血を吸った虚無は形をなした。衰え死にゆく町を襲った霧の災いは、更なる災いを生み出した。
「な、何と! ペルソナに目覚めたのか!」
黒沢が声を上げた。うつ伏せに倒れた足立の頭上に突如として顕現した、血に濡れた暗黒のビジョンは、これ以上ないほど広げられた黒沢の目にも映っている。いや、もはや誰の目にも明らかだ。周囲に漂う白い霧の中で無数に閃く、赤い雷電も異形の実在を主張していた。足立の覚醒は誰にも隠せない、明白な事実として立ち現れた。
「あ、足立……?」
膝をついたままの堂島も見た。赤黒い外套らしきものに身を包み、長柄の刃物を携え、赤い鋼鉄の仮面で顔を隠した魔人と、その下で倒れ伏す相棒の姿を。
「ど、堂島、さん……!」
足立はもう意識が飛びそうになっていたが、自分の名を呼ぶ相棒の声を聞き分けた。そして両手と両膝を地面について立ち上がろうとした。しかしできなかった。
「うぐ……」
痙攣した手足は自分のものではないようで、体を支えてくれない。膝立ちになるのが精一杯だ。気持ちの悪さはまだ収まらない。峠を攻める車に乗せられて、右に左に煽られた五臓六腑が体中で玉突き事故を起こしたようだ。胃液どころか血まで吐きそうになる。だがこのままではいけない。
「い……行け!」
顕現した『自分自身』に命令した。テレビの中で大活躍している高校生たちの真似事をしているようで気に入らないが、そんな場合ではない。とにかく相棒を助けなければならない。その声に応えるように、赤と黒の魔人が動いた。その踏み込みは風のように速かった。
魔人は警官のシャドウに突撃するや、右手に持った長柄を下段から突き出して、シャドウの喉らしき場所を貫いた。目にも止まらぬほどの一瞬の早業だ。そして何たる怪力か、巨体を串刺しにしたまま跳躍した。更に空中で長柄を返して、敵と自身の全体重を乗せて地面に叩き伏せた。
人間にはとても真似できない、空想的なまでの凄まじい技だ。それを事も無げに披露してみせた魔人は、長柄を突き立てた体勢のまま音もなく姿を消した。打ちのめされたシャドウも、黒い煙を一瞬だけ発してすぐ消えた。
「何という……いかん! まだいるぞ!」
黒沢が再び声を上げ、堂島も周囲を見回した。白い霧の向こうから粘性のある物体を引きずるような音がいくつも聞こえてきて、やがて姿を現した。最初に現れた泥の塊のようなシャドウが、三人を四方八方から取り囲んだ。十体は下らない数で、いずれも同じ仮面をつけている。仮面だから表情は動かないが、シャドウたちの意図は明白だった。ここの三人の心を食うか、肉体ごと食うか。どちらにしても害意しかないはずだ。
この場でシャドウに対抗できるのは一人だけだ。その一人に黒沢は目を向けるが、足立はまだ膝をついて、両手で頭を抱えている。赤と黒の魔人は姿を消したままだ。
「う、ううう……!」
足立はどうにも収まらない吐き気に、歯を食いしばって耐えていた。噛み締めた奥歯が軋んで、呻き声が漏れてくる。顔は蒼白で、目は黄色く濁っている。髪の間に指を掻き入れて、全力で自分の頭を握った。
(クソ……クソがあ!)
全てはクソだ。世の中は言うまでもないし、自分自身も。体中の血という血が毒へと変わり、内側から腐りゆくイメージが止まらない。沸騰した脳裏では鉄仮面のペルソナが赤黒い外套を翼のように広げ、上から見下ろしながら世界の真理を囁いている。その声の鬱陶しさが、そして言葉の正しさが、壮絶極まる嘔吐感で摩耗しきった神経を更に苛立たせる。
『我は汝、汝は我、我は彼、彼は我、彼は汝、汝は彼』
この世の全ての存在は等価だ。世界も人も、等しく無価値だ。世界は一つ。一切皆苦。人間など汚物を詰め込んだ皮袋に過ぎない。その全てをぶちまけて、焼き尽くしてしまいたい衝動が止まらない。だが今それをやってはいけない。頭皮に爪を立てて、力の限りに擦った。天地も反転する気持ちの悪さを、指で掻き出した。
そうして僅かに空いた頭の隙間を使って、盲目的な力を形象化する。イメージするのは雷だ。頭を傷つけて滴り落ちる血から、そのまま迸る雷光。それを周囲へ広げるのだ。だがやみくもに、衝動のままに破壊してはいけない。飽くまで慎重に、注意深く。相棒を巻き込まないように、稲妻が走る軌跡を頭の中で描いた。
「ぬがああ!」
足立は頭を抱えたまま、背骨も折れよと仰け反った。刃物を突き立てられた男が、己の意志ではなく反射でそうするように。足立の悶絶に応えて、ペルソナは再び顕現した。背を屈めた姿勢で中空に現れるやいなや、猛烈な勢いで起き上がった。長柄を持った両腕を広げて、内に秘められた力を解放した。
その色は赤で、形は稲妻だ。力は霧を引き裂きながら、電光の速さで地上を疾走した。
──
魔人が放った血の電撃は、堂島と黒沢を避けて通った。あらかじめ定められたレールを走るように、一つの誤りもなく。死を振りまく破壊の力は、足立の意図した通りに刑事たちの隙間を縫い、地面を蠢く影だけを正確に襲った。目に映るもの全てを皆殺しにできる力を、そうしないようにした。
そして群がる泥のシャドウたちは、いずれも滅ぼされた。
「はあ、はあ……」
足立は肩で息をしながら、仰け反った上体を元に戻した。両手を頭から離してだらりと下げ、憔悴しきった目に無理やり光を戻らせた。すると呆然とする堂島と、ちょうど目が合った。二人とも地面に膝をついているので、視線の高さは同じだった。
難しい仕事だった。腕の数がいきなり十本にも増えて、その全てを別々に動かすようなものだ。十本の腕で十丁の拳銃を構え、十個の的に同時に当てることを要求されたに等しい。奇跡的なまでの集中力でやり遂げたが、もう限界だ。足立は膝立ちの姿勢から、糸の切れた人形のように地面に倒れ伏した。そしてやはりと言うか、魔人も消えた。
「足立! しっかり、し、ろ……」
「堂島さん!」
堂島は立ち上がって、相棒の下へ駆け寄ろうとした。しかしこちらも限界が来ていた。相棒に声をかける途中で踏み出した足がもつれて、その場に崩れ落ちてしまった。寸前で黒沢が受け止めたが、意識はもうなくなったようで、大柄な体が重くのしかかってきた。しかも重いだけでなく、冷たかった。
「む、そうか。まずいな……」
黒沢は思い至った。足立がペルソナに覚醒する直前、堂島は警官を擬したシャドウの銃撃を受けていたはずである。見てみれば、左腕が血に塗れていた。急所ではないが、重傷には違いない。出血に起因する体温の低下も始まっており、即時の手当が必要なことは明白だ。そこへ──
「くっ、またか!」
シャドウが己の体を引きずって地面を鳴らす音が、またしても近づいてきた。新手のシャドウが二体、商店街の北側からやってきている。数は先ほどより少ないが、対抗手段はもう尽きている。足立は倒れ、堂島も気を失っている。ペルソナを持たない黒沢一人では、どうしようもない。もちろん逃げることもできない。万事休す──
しかしそこへ、けたたましい排気音が南側から響いてきた。
「む!? ……有里!」
霧に滲んだ二つの光が、猛スピードで接近してきた。車のヘッドライトだ。それは黒沢のほぼ目の前でいきなり右側へターンし、タイヤでアスファルトを抉りながら急停止した。見事なドライビングテクニックだ。道交法には完全に違反しているが。そしてドアが蹴り飛ばされたような勢いで開いて、中から一人の青年が飛び出してきた。有里だ。
「黒沢さん、伏せてください!」
言うが早いか、有里は大型の拳銃を両手で構えた。黒沢は堂島を抱えたまま、膝を折って首をすくめた。その直後、轟音と共に銃弾が飛翔し、新手のシャドウを粉砕した。そして間を置かずにもう一発。それで終わった。
ペルソナ使いとシャドウの戦いは、物理法則を無視した形で結果が現れる。実力に差があれば、剣の一振りで戦車を切り裂くこともできるし、拳の一撃で巨人を粉砕することもできる。限界まで鍛え抜いたペルソナ使いの銃撃は、大砲から放たれた炸裂弾のごとき破壊力でもって、泥のシャドウを塵も残さず蒸発させた。
「大丈夫ですか?」
「俺はな」
黒沢は膝をついたまま、腕の中の堂島と、すぐ近くで倒れている足立を目で示した。有里も見る。
「メサイア」
有里が一声呼ぶと、翼を持った白い男のビジョンが頭上に現れた。それは右腕を掲げて、白い光を立ち上がらせた。光は煌めきながら二人の刑事を優しく包み、体に染み込んでいった。光の粒子は、特に堂島の左腕に多く集まってその中に吸い込まれた。ペルソナによる治癒の魔法である。これは外傷を癒やす他に解毒の作用などもあるのだが、疲労や失神には効果がない。だから堂島と足立は目を覚まさず、気を失ったままである。
「ありがとよ。助かったぜ……」
黒沢はようやく一息ついて、生きた心地を取り戻した。猛獣の檻に小動物が放り込まれたような絶望的な状況からの生還劇だったわけだ。有里も安堵の息をつきながら、拳銃をジャケットの内側に収めた。
「しかし、よくご無事でしたね」
無事でいたことは良いのだが、有里は疑問も禁じ得なかった。正直なところ、間に合わないかと思っていたのだ。連絡を受けてから大急ぎで来たつもりだが、天城屋旅館からここまでは車を飛ばしても数分かかる距離だ。実際、それくらいの時間を要した。その間、非戦闘員三人でどうやってシャドウの攻撃を凌いだのか。
「足立刑事がペルソナを使ったんだ」
「何ですって?」
「それから、堂島刑事は召喚こそしなかったが、恐らく適性がある。素手でシャドウに立ち向かったくらいだからな……」
「……取り敢えず、二人を病院に運びましょう。僕の車に乗せますから、手伝ってください」
そう言って有里はドアを開けたままの車に戻り、フロントシートを倒した。この車は後部座席に人を乗せるには、シートを倒さねばならない。
「この霧の中をか? いや、待て。お前、どうやってここまで来たんだ?」
霧はまだ晴れていない。刑事たちがスナックを出た時から変わらず、地上を覆っているままである。ほんの数歩離れるだけで、互いの顔も見えなくなる濃さだ。街灯はあるが、光は霧に滲んでしまうので遠くまでは見通せない。無論ヘッドライトも同様に滲む。これで車を運転するのは危険すぎる。土地勘があっても危ないくらいで、まして来たばかりの有里がどうやって──
「これです」
有里は自分の目元を指差した。それで黒沢も初めて気付いた。有里は眼鏡をしていたのだ。青のフルリムのセルフレームタイプで、やや吊り目のスクエア型だった。ついでに言うと、有里は服装が少々おかしかった。上は昼間も着ていた濃い緑色のジャケットを羽織っているが、下はスラックスではなく浴衣だった。
「それが何だってんだ」
「……後で説明します」
有里と黒沢は協力して、失神した大人二人をスポーツカーに放り込んだ。元より後部座席は快適とは言い難いスペースしかない車だが、とにかく二人を乗せた。そして黒沢は助手席に乗り、有里が運転してその場を離れた。
四人が去った後に残ったものは、霧以外には何もなかった。近所から駆けつけてくる人もいなかった。異形の怪物同士が戦い、雷光が閃き、銃声まで響いたと言うのに、町の人間は誰も外に出てこなかった。あたかも常人には認識できない、この世ではない時間や空間で戦いが行われたかのように。
認識できたのは、二人だけだった。傍目には一人でいるようにしか見えない、例の二人だ。
「クソが……逃げやがったか!」
シャドウの出現を感知したミナヅキと、その案内に従って自宅から全速力で駆けてきた皆月だ。だが二人は間に合わなかった。二人は霧の中でも迷うことはないのだが、車より速く走ることはさすがにできなかった。皆月が商店街に辿り着いた時には、もう戦いは終わっていた。足立と堂島を乗せた有里の車は走り去り、その場にはシャドウの欠片も残っていない。
『いや、むしろ幸運だった』
「あ!? 何がだよ!」
『あの男……桐条の手の者だろうが、あの男は危険だ。鉢合わせずに済んで、幸いだった』
待ち望んでいた戦いを逃して激昂する皆月とは対照的に、ミナヅキは冷静に事態を分析していた。未だ誰にも存在を知られていないこの二人は、元より誰よりも『真実』に近い所にいると言って良い。そして今また大きな情報を得た。新たなペルソナ使いと当代最強のペルソナ使いの姿を、ミナヅキは見たのだ。相手に見られたことを悟られないまま。