世界の宗教においては、神の姿を見ることは禁じられることが多い。神の方から姿を見せることは稀で、見せる場合でも象徴を使った仮の姿で現れ、真の姿は人間に見せないのが常だ。神社で祀られる御神体は、人目に触れない奥に隠されているように。『神を見てはならない』のは、普遍的な禁忌である『見るなのタブー』の典型的な例だ。
ただし神は姿を見せない一方で、声を聞かせることに関してはかなり鷹揚だ。神が巫女に託宣を与えるのは洋の東西を問わない。一説によると、古代人は脳の構造が生理学的な意味で現代人と異なり、現代であれば幻聴として片付けられてしまう『声』を聞く能力が、普遍的にあったとされる。それが特に紀元前千年以上の古い時代の伝承には、神が『声』として立ち現れることが多い理由とされている。
ラウンジの超大型テレビは喀血した悠の姿が消えた後は、しばらく映像を映さなかった。しかしP-1クライマックスを今も戦っている悠と陽介、そして有里と通信はできるので、彼らがまだ無事でいることはラウンジにいる者たちにも分かる。よって映像が映らないのは、今は誰も戦っていないから。そう思うのが当然だが、事実は異なる。
「はっ……こ、これは!?」
最初に気付いたのは風花だった。風花は情報系ペルソナ使いの後輩二人と違って戦闘能力を全く持たないので、見えない壁を壊すことはできないが、本業である探知能力は二人を凌ぐ。
「何かが……途轍もなく巨大な何かが塔の上空に現れました! まさかこれが……!?」
風花の脳裏に浮かんでいるのは赤色のイメージだ。朝焼けと夕焼けが同時にやってきたような、壮絶な紅。一見すると炎のようであるが、実体は恐らく光そのもの。しかし色が分かるだけで形は結ばない。目を閉じて太陽に顔を向けたようなものだ。
「え……ええ!?」
「な、何だこれ……アメノサギリの比じゃないぞ!」
やがてりせと尚紀も感じ取った。何かとんでもないものが舞台に登場してきた。天から降ってきた災いそのものだ。
「お二人とも、手を貸してください!」
風花の提案で情報系の三人は互いに手を取り合い、三角形の布陣を取る。言い出した風花がラウンジのテレビに正対する形を作る。この三人は一人でも塔の上の方にいる人と話をすることはできるし、二人でやれば他人の声を伝えることもできる。ならば三人揃えば、天災のように突然現れた謎の存在の姿を、このテレビに映し出すこともできるはず──
──
しかしそうそう上手くはいかなかった。沈黙していたテレビに『電源』は入ったが、画面に映るのは砂嵐だけだった。普通のテレビを放送時間外につけたように、映像は乱れるばかりで耳に障るノイズが流れ続けている。大画面でやられると不快感も酷い。
神が定めた見るなのタブーは、そう容易く乗り越えることはできない。破れば罰が下るという宗教的な、または迷信的な壁に阻まれて、神の玉座たる頂上の様子はテレビに映らない。足立と皆月の戦いも映らなかったように。
しかし実は完全に失敗というわけでもなかった。
「これは……足立さん!?」
今度は尚紀が最初に気付いた。頂上の映像は映らないが、そこに誰かがいることは分かる。誰なのかも、その人と縁の深い尚紀は気付くことができた。
すると足立の元相棒が飛んできた。
「何だと!? おい、足立! お前なのか!?」
堂島は尚紀とりせが繋いでいる手の上に、自分の手を重ねて呼びかけた。それが無線のスイッチであるかのように、砂嵐に向けて叫ぶ。初めてシャドウの声を聞いた昨年4月の夜のように、見えない向こう側に呼びかけた。
『……なんです、こんな時に!』
すると昨年と違って、今度は向こう側から返事が来た。画面は相変わらず何も映していない。映像は禁忌の壁に阻まれてマヨナカテレビの予告以下の粗さで何も見えないが、声はどうにか聞こえる。ノイズは消えていないが、相手が何を言っているかくらいは分かる。
「お前、どこにいるんだ! 何が起きている!」
『僕は忙しいんです! 話は後にしてください! 後なんかあればですけど!』
しかし事情聴取は拒否された。足立が堂島にこんな粗雑な受け答えをするのは、初めてかもしれなかった。堂島は思わず目を丸くする。そんな相棒たちの言い争いを無視して、堂島に手を取られた尚紀が自分で話しかけた。
「足立さん! これだけ教えてください! 無事なんですか!?」
『……無事だよ、まだね。今、塔の頂上にいる。クマ総統っつったっけ? そいつが大暴れしてるよ』
足立は尚紀にはまともに返事をした。そして堂島に聞かれたことを、尚紀に向けて答えた。何を聞かれたかよりも誰に聞かれたかの方が重要なのは、世の中の法則だ。誰とも『契約』していない自由の身であるはずの足立でも、法則から逃げられないことはある。
『アイギスさんの棺桶出して、それを核にしてシャドウと合体……って言うのかな? よく分かんないけど、真っ赤な化物に変身して空に浮かんでるよ。アメノサギリの十倍……いや、百倍ヤバい奴だ』
そこで通信が切れた。テレビの画面も電源を落としたように、砂嵐さえ映さなくなった。それは足立の拒絶の意志によるものではない。現実で言えば電波障害のようなもので、通信が不安定すぎるのだ。
「あいつ……やっぱり皆月と組んでたわけじゃなかったか」
堂島は尚紀から手を離し、誰にともなく呟いた。エントランスで中断させられた事情聴取の時から疑っていたが、思った通りだった。足立は皆月の味方ではない。足立なりのやり方で、自分たちを支援してくれていたのだと確信した。
昨年の事件に対する罪滅ぼしか、元とは言え刑事にして特殊部隊員としての責任感か。その動機までは分からないが、元相棒に対する評価と昨年の事件の後始末について、考え直さなければならないと思った。だがそれも、まさに足立が言う通り『後』即ち未来があればの話だ。
「山岸、すぐに有里に伝えてくれ! 敵はアイギスのペルソナのみならず、アイギス自身も利用している!」
「はい!」
美鶴の指示に応えて、風花は有里と通信を繋ぐ。墓場送りにされた者たちにできることは少ないが、それでもできることを探す。
一方、塔の頂上にいる足立はできることが比較的ある。
「このっ!」
足立はマガツイザナギを召喚して万能魔法を放った。カグツチは上空にいるので、ペルソナの長柄を直接当てることはできないから遠距離攻撃が必要だ。紫色の光球がカグツチの前に出現し、炸裂する。並のシャドウなら百匹でもまとめて殺戮できる、渾身の一撃だ。しかし──
「ははは……ぬるいな」
炎に包まれた男の顔をした怪物は、空から響く声でせせら笑う。マガツイザナギの攻撃は確かに当たったはずだが、まるで堪えた様子がない。
(マジかよ……)
足立もこの一手で倒せるとは思っていなかったが、ダメージがゼロとは思わなかった。万能魔法はペルソナ使いとシャドウを縛る耐性の例外だ。つまり誰が相手でも効く攻撃のはずである。しかし本物の神が相手では、それもアメノサギリと違って最高の依り代を得て真の力を、或いはそれ以上の力を発揮できる状態で顕現した神には通じないのか──
「くくく……
カグツチが手を伸ばしてきた。距離があるのでカグツチの方も手は直接届かない。しかし異形のその手の周りから、何かが湧いて出てきた。その形もまた手だった。炎の巨人の手は己を祀る塔を一抱えにできそうなほど巨大だが、それに群がり従う手は普通の人間と同じ大きさの手だった。それが何十も何百も襲ってきた。
「ちっ! マガツイザナギ!」
見るからに鬱陶しい手の大群に向けて、赤と黒の魔人は得意の斬撃を放った。眼前に殺しの空間を作り上げ、雨のように降って来る手たちを受け止め、切り裂いた。すると無数の悲鳴が上がった。声色は男も女も、老人も子供も色々だ。口がない手だけのくせに、悲鳴だけは上げられるとは趣味が悪い。思わず足立が眉を顰めると──
「分かるか、足立透。貴様とよく似たものであろう?」
「あ?」
「己が為にのみ生き、死の安寧に触れんとする者たちよ。この地を霧が覆った時は、それはもう溢れんばかりであったな」
足立は昔のことを思い出した。晴れない霧が八十稲羽を襲ってからまだ半年ほどしか経っていないが、足立にはもっと以前のように感じられた。言われてみれば、当時は霧は毒ガスだの何だのと病院に押しかけてくる群衆がいたし、他にも色々おかしくなっていた。暴動が起きても不思議ではない状況だった。
「貴様もそうであろう? だからサギリの誘いに乗ったのだろう?」
カグツチは人間離れした姿ながら、表情は意外に豊かだ。嘲笑だけでも、相手の無力を笑うか愚かしさを笑うかによって顔が微妙に違う。まるで喋る着ぐるみさながらである。
「ふん……一緒にすんじゃねえよ」
対する足立も表情のバリエーションを見せた。エントランスで皆月を嘲笑った時の、口先で粋がるだけで実際は何もできない子供を笑うのとは違う種類の、上目遣いに嘲笑する顔を作って見せた。訳知り顔で上から見下ろして分かったようなことを言うタイプの、自分が子供だと自覚できていない者を笑う。
「要は世の中僻んで文句ばっか言ってる、ウザいだけのホントのガキか、大人の顔したガキだろうが。俺は本気でこの世界が嫌いなんだよ!」
言い終えるや、銃を一発撃った。銃弾は神の額に向けて一直線に進んでいったが、寸前で炎に包まれて蒸発してしまった。
「そうかそうか……有象無象とは格が違うか。ならばその誇りを抱いて死ね!」
そしてカグツチはまた違う種類の笑みを見せた。自分は他と違う、ありふれた並の人間ではないと嘯く者を嘲笑う。笑い声を吐き出すその口から炎が放たれた。
いや、炎と言うよりレーザー砲とでも呼んだ方が正しいだろう。直径が数メートルもあり、人の体など軽く飲み込んでしまう太さの光の柱が飛んできた。天変地異の象徴だった赤い霧は瞬き以下の刹那の間に蒸発してプラズマ化し、神の火の威力を示す彩りに過ぎないものになる。
「くっ……!」
足立はその場から跳躍して後ずさり、直撃は避けた。だが余波だけで体は吹き飛ばされた。体に感じるものは炎の熱より、万能の光に近いものだった。負う傷は火傷と言うより溶けるような感覚がある。
マガツイザナギは火炎に耐性を持たないが、たとえあっても意味はなかっただろう。ペルソナを持たない皆月の刀は堂島の反射攻撃をすり抜けたように、カグツチの炎はペルソナやシャドウの耐性を貫通してしまう。つまり誰も防げない。神は人も悪魔も等しく滅ぼせる。
「あぐっ……」
今夜の足立は命懸けで皆月と戦うなど、昨年12月に有里と戦った時よりも本気の度合いが高いくらいである。しかし今の事態は、気合や根性による僅かな力の底上げでどうにかなる範囲を超えすぎている。
「あー……駄目だこりゃ」
降伏宣言が口をついてしまった。シャレや冗談ではなく、本当に駄目だ。まるで歯が立たない。足立は信心などないが、そんなものは関係ない。天から降臨してきた神、カグツチを倒すことはできそうもない。だが──
「ん?」
自分は塔の頂上の床に転がったと思っていた。しかし目に見える景色はそれとは全く違っていた。足立は今、六畳ほどの部屋に身を置いている。小さなちゃぶ台が中央に置かれ、隅に畳まれた布団が置かれている。畳の向こう側には洗面台とトイレがある。
「まさか夢……? それとも戻ってきたのか……?」
ここは港区にある拘留先で、自分に割り当てられた部屋だ。皆月たちに誘われて脱走させられ、奇妙な塔で堂島や悠と再会し、カグツチと戦ったのは夢だったのか。それとも誰かが、例えば悠が事態を奇跡的にも解決して、自分は気を失うなりした間にこの部屋に連れ戻されたのか。
振り返ってみれば、外から鍵のかけられた扉があった。自由と不自由を隔てる境界の扉だ。ただいつもは扉のすぐ向こうに立っている看守が、なぜかいないようだった。
「いいや、これが夢だよ」
声をかけられて再び振り返ると、ちゃぶ台の向こうに鏡があった。警戒して思わず腰が浮く。
「お前……僕の偽物か?」
顔から服装まで全て足立と同じ存在がそこにいた。目の色も本物と同じ黒で、金色ではなかった。表情は穏やかな限りだったが、足立が一声かけると呆れ顔になった。
「違うって……僕は君だよ、足立透」
クマ総統ことカグツチが作った偽物のシャドウは、顔と能力、更には記憶まで本物と同じだったが、本物と不可分の存在というわけではなかった。言わば双子だったわけだが、ここにいるもう一人の足立は自分は違うと主張している。本物が鏡に映った像、つまり左右は反転しているものの同一人物に等しい、本物の心から出た『本物のシャドウ』だと言っている。
「ここは……?」
「言った通り、ここは君の夢の中だよ。あの化物にやられて気を失ったんだね」
ベルベットルームに夢で招かれるようなものである。もっとも『契約』をしていない足立はあの部屋の正式な客人ではないので、ペルソナに目覚めた昨年4月以降は一度もあの部屋を訪れていないが。
「それで……お前は何で今になって出てきたの。今までテレビに入っても、影も形も出なかったくせに」
足立はちゃぶ台の前に座り直した。そして改めて問うと、足立のシャドウは笑った。無知や無力を嘲笑うのではなく、おかしなことを聞いて笑うように笑った。
「はは、君ってそんなことに興味あるクチだったっけ?」
テレビに人が入るとその人のシャドウが出る。これは既にお馴染みの法則だが、『どうして』出るのかということは解明されていない。足立はそうしたある種観念的、哲学的な問いに興味がないので、深く考えたことはない。力は必要な時に必要なだけ使えればよく、敵はいつどこで出てくるか分かればそれでいいのだ。
「……」
足立は自分自身をそう見なしていたが、思わず『どうして』などと聞いてしまったことに、そしてそれを突っ込まれたことに気を悪くした。悠に本心を言い当てられた時のように、子供のようにへそを曲げた。
「ごめんごめん、そんなに怒んないでよ。えっとね……僕が出てきたのは、さっきの君の大嫌い宣言のせいじゃないかな」
「は? どゆこと?」
「世界が嫌いだって言うのが普段の君。僕はその反対ってわけさ」
足立の鏡像は自分を指差した。テレビの中で出てくるシャドウは、本人の抑圧された側面だ。つまりは表に出していない、時に本人さえ知らない願望や嗜好が出てくる。足立の場合はこうだった。神に向けて言挙げまでしたら、かえってその反動がシャドウの出現という形で現れたと言ったところか。
そして足立のシャドウは感じのいい男だった。昨年から主に尚紀と接する時によく出てきた、善良な大人の顔だ。
「シャドウってその人の嫌な面だけってわけじゃないんだ」
「うん。普通の人は、世間には人当たりのいい顔を出してばっかりだからね。だからシャドウは嫌な奴になるのが多い。でも全員がそうってわけじゃないね」
これまで特別捜査隊とシャドウワーカーが見てきた実例に『綺麗なシャドウ』はいなかったが、それは決して言葉の矛盾ではなかったわけだ。ただ初の悪人面でないシャドウが自分のそれであるとは、足立にとってはいささか複雑だった。他と違うことを誇るべきか、そうでないか。
「なんだかなあ……」
しかし喜ぶのも嫌がるのも、今やるべきことではない。足立は気持ちを切り替えた。
「じゃ、次の質問。こうやってわざわざ夢で話してるのは、お前は僕に何かさせようと思ってるの?」
「うん、君が諦めたら困る人がいるでしょ」
鏡の男は首肯した。天邪鬼な本体とは反対に、素直な限りである。
「諦めるってのは、今夜の戦いのことだけじゃないよ? 君さ、自分の人生をすっかり諦めちゃってるじゃん?」
誰とも『契約』していない、何からも縛られない自由の身であるからこそ、いかなる行動も厭うこと。自由という刑罰を科された人間の行き着く先。外に向けてはただ
「しょうがないだろ。僕は人殺しなんだから」
足立の主張は原因と結果が逆かもしれない。しかしそれを追求することに意味はなかろう。鶏と卵だ。意味があるのは──
「塀の中でも生きていくことはできるよ」
これからの話だ。起訴されて刑が確定したとして、その後にどう生きるかだ。足立は視線を鏡に映る像と真っ直ぐ合わせた。本物のシャドウの、噓を吐かない純粋な目は痛いくらいだった。
「それにさ、皆月をやっつけたじゃんか。功罪相償うって言うじゃん? 減刑されるよ、きっと」
ここで足立は目を逸らした。
「あれはただの三人目の殺しだよ……日本に司法取引はないんだから減刑なんてないって。つか、分かって言ってるでしょ?」
シャドウは本体と同じ記憶を持っている。当然法律に関する知識も、シャドウは足立と同じだけあるはずだ。しかしそれと同じくらい現実というものも知っている。
「君こそ分かって言ってるでしょ。世の中建前だけで回ってるわけじゃないんだから、取引なんか裏じゃバリバリあるよ」
世の中には何でも表と裏がある。真実は一つではない。
「去年のシャドウ対策の功績だって必ず考慮されるよ。そりゃ無罪や執行猶予はあり得ないけど、十年くらいで仮釈放とかなら全然あり得るって。十年経っても今の堂島さんより年下だし、人生やり直すくらいできるって。服役中でもまたシャドウ絡みの事件が起きたら、きっと招集されるよ。そこで手柄立てれば、また刑期が縮む。出所したら、有里君からすぐ仕事貰えるだろうね。ま、汚れ役だろうけど? その分報酬はいいはずだね」
大嫌いなこの世界の現実は、決して足立にとって都合の悪いことばかりではないのだ。だから自分の人生を現実に置け。シャドウが言っているのはそういう意味だ。それが分かるだけに、足立は困ったように頭を掻いた。
「説教するシャドウなんて初めて見たな……いや、そうでもないか?」
「そうでもないね。つか、シャドウは説教好きな奴らばっかりだよ。去年からマヨナカテレビで見てたんだから、分かるでしょ? あいつら、実は言ってることは正しいんだよ……言い方が最悪なだけで」
何を言うかよりも誰が言うかの方が重要で、もっと重要なのはどう言うかである。言っていることがいくら正しくても、言い方が悪ければ受け入れられないのだ。それは受け入れることができない聞く側よりも、受け入れてもらう為の努力を怠る言う側の方が悪い。その辺り、シャドウのコミュニケーション能力は最低と言わざるを得ない。どこかの倫理の教師のようなものである。
「だから……お前が言ってることも正しいわけか」
その点、足立のシャドウのやり方は実に上手い。ひねくれ者の本体から同意を引き出した。
「そうだよ」
本体と影は再び視線を真っ直ぐ合わせた。しかし何も起こらない。影の言い分を正しいと認めても、足立の影は光に変わらない。なぜか?
「お前は僕だよ……って言わないと駄目なの?」
「いや、そうじゃなくて。今の僕はこうしてシャドウとして君と話してるけど、とっくにペルソナになってるからね。改めて認知してもらっても、別に何も起こらないの」
足立は思わずバランスを崩した。山野をテレビに落とした夜、天城屋旅館でうたた寝をして起きた時のように、座りながら転びそうになった。
「おいおい……ここは超絶パワーアップするところじゃないの? あの化物を倒せるくらいに」
シャドウとペルソナは同じものである。影が光に転じることも、光が影に転じることもある。しかし転んだだけで強くなることはない。シャドウとペルソナの入れ替わりは、同じ人間が服を着替えるようなものである。今のままでは、足立はやはりカグツチには敵わない。
「そんなうまい話はないんだって。あいつを倒すにはみんなの協力が必要だ。絆って奴ね」
ここで足立の表情が消えた。
「……」
「君が嫌いなものだってのは、もちろん分かってるよ。でもね、それがないとあの化物を倒すことはできない。ロシアンルーレットを重ね掛けしたって駄目だ。あと一歩届かない」
足立の銃に弾薬はあと一発だけ残っている。運が良ければ、最大で四回自分を撃つことができる。しかしそれでもカグツチは倒せないと言う。
「それは……嫌だな」
足立は首を横に振った。3月のあの日、白い霧の世界で悠が自分の前に差し出された大いなる力を拒否したように、足立も拒む。希望を語る、光を放つ眩しいシャドウから視線を外した。目を背けて、ついでに目を閉じた。眠ってやって来た夢の中で再び眠りについて、現実に戻ろうとする。
「駄目だよ。君はみんなの希望にならなきゃ。守らないといけない人がいるんだろ?」
シャドウの声が遠くに聞こえだした。ベルベットルームから立ち去る時のように、全ての音が遠くへ向かって行く。その一方で、現実の音が近付いてくる。休憩時間は終わりだ。辛い仕事をまたやらなければならない。
「……おっと」
足立は夢から戻ってきた。目覚めた瞬間にバランスを崩して、階段に左手をついた。
「ん?」
ここは夢を見る前にいたのと同じ、塔の頂上だ。ただし足立が今身を置いているのは、ちょうど下の層から通じている階段がある場所だった。カグツチのレーザー砲をかわしきれずに吹き飛ばされたら、飛んで行った先が偶然にもこの位置だったのだ。これなら逃げられる。皆月を相手にロシアンルーレットをした時も五分の一の生存が当たったように、足立の運勢は昨年より良くなっているのかもしれない。
しかし何もかもが良くなっているとは限らない。階段につけた自分の左手を見てみると、何かを持っているのに気付いた。拳銃ではない。それは右手にある。左手にあるものは、掌から少しはみ出すサイズの厚紙のような質感のものだ。
「これは……」
タロットカードである。4月に初めて召喚した時にも、嘔吐感に襲われた体から吐き出されるようにして、突然手の中に現れた。それを思い出すと共にカードを見てみると、先に裏面が目に入った。カーニバルで使われそうな古典的なデザインの仮面が描かれている。そして裏返して表を見てみると、そこに描かれていたのは──
「これが僕の限界か……」
カードの表面には一人の男が描かれていた。おどけるようにダンスを踊る姿で、頭を上にした状態で出てきた。カードの外側を囲う枠には、アラビア数字のゼロが書かれている。しかし愚者ではない。愚者はスキップを踏みながらだが、前へ向けて歩む男だ。足立のカードの男は前へ進むことはなく、その場に留まって一人で芸をする男だ。道化師である。
「絆ってのがないと、駄目なのか……」
ため息が止まらない。だが仕方がない。カグツチはあまりに強すぎるのだ。一人で倒すことはできないと、認めるしかない。
もし皆月たちが当初言っていたように、カグツチが有象無象のシャドウやペルソナの欠片に降臨したのであれば、足立一人でも何とかなったかもしれない。しかしアイギスの、つまりは有里のペルソナを、即ち最高の素材を使われたのでは駄目だ。元々の神格の違いと相まって、どうにも敵わない相手になってしまった。
だが最低でも自分と同等、できればそれ以上のペルソナ使いが何人かいれば、また別だ。それも絆とやらを集めている者がいれば、きっと──
(ったく、しょうがない!)
足立は柄にもなく、根拠の乏しいやみくもな希望にすがっていた。自分と共に神と戦う『仲間』になってくれる者を求めて、階段の下の方へと視線を向ける。逃げるのではなく、戦略的撤退だ。
(ホントはこんな面倒放り出して焼肉でも食べに行きたいけど、そうもいかねえ!)
何度も言うようだが、足立はいかなる『契約』にも縛られていない。足立にとって、自分を縛っていいのはこの世に一人しかいないのだ。そしてその一人がいる限り、足立は逃げるわけにはいかない。まさにシャドウの言う通りで、足立には守らなければならない人がいる。
(クソッタレが……尚紀君を捕まえたの、絶対僕への人質だよな)
皆月たちの周到さに悪態が出る。だがそれを言っても意味がない。誰に頼って何をしてもらうべきか、具体的な名前を考えた。
(有里君はペルソナを奪われたから駄目だ。すると鳴上君か……あのスーパーご都合主義パワーが炸裂すりゃあ、何とかなるだろ)
一月半ほど前の出来事だ。ちょうど拘留先で昼寝をしていた時、夢で白い世界に呼び出されたのだ。今まさに世界を焼き尽くさんとしている神と似た存在と、悠は一人で対峙していた。取り巻きたちが大勢いたが、それを無視して一人で対峙していた。
(あのガキ、あん時はダダこねて逃げやがったけど、今度は許さねえ。ケツ蹴っ飛ばしてでも、やらせてやる!)
「くくく……足立透、何を企んでいる? 世界を嘲笑う道化師ともあろう者が、他人にすがると言うのか? 虚無の役割が聞いて呆れる!」
方針を考えているうちに、空から嫌味が飛んできた。クマ総統は時々人の心を見通すような言動をしていたが、当然カグツチも同じことができる。神に隠し事はできない。
「馬鹿やろ……僕をそんな恥ずかしい仇名で呼ぶ奴はいねえよ!」
神の光を目の当たりにした人間は、塩の柱と化して立ち尽くすと言う。しかし足立はただ無為に佇んで、従容として自分の死を受け入れる気にはならなくなっていた。絶対的な存在を向こうに回して、まだ抗う姿勢を見せる。もし稲羽に来たばかりの頃の自分が今の姿を見たら、この諦めの悪い男はどこの誰だと呆れるだろう。