かつて存在したタルタロスは日によって構造が変わり、同じ日でも人によって行ける階層に違いがあった。有里の次男は、正しくはその前世の男は、変わる理由はかの塔は人の心を映す鏡だからと語ったことがある。しかしそうだとすると、その『映し方』は傍目には分かりにくいものだった。
一方で、昨年来の事件で何度も発生した霧の鏡に映るその人のシャドウや、テレビの中で生まれるダンジョンは分かりやすい。その人の過去やその時の思いや現実で置かれた状況が、直接的な形で反映されていた。その点はカグツチを祀るこの塔も同様である。
「ゴホッ……」
悠は階段を上りながら咳き込んだ。天城屋旅館の駐車場を出て、塔の上を目指して歩いている途中である。その間に多量の血を吐くことはなかったが、咳そのものはずっと続いていた。今夜の初めの頃は抑えられていたが、二人目の陽介の偽物を倒してからは、体内の霧は遠慮がなくなっていた。りせの通信を通じて皆に知られてしまい、隠す意味もなくなってしまったからか。
そのりせは悠を止めようと何度も呼びかけていたが、悠は返事をしなかった。もちろん聞こえてはいたのだが、心には落ちなかった。二回戦を終えた時には、生き延びることを最優先に考えてと言っていたりせに奇妙に申し訳ない思いを抱いたものだが、それもなくなった。
血を流したら心が乾いたのか、ボールが壁に当たって跳ね返るのに任せるように、自分でボールを受け取って投げ返すことができなくなっていた。そうしているうちに、りせの通信は止まった。まるで愛想を尽かされたように。
「……」
口から左手を離して見てみると、掌はもちろん制服の袖も酷い状態だった。剣を握る時に滑ってはならないと思って、階段を上る途中で手を制服の裾で拭った。だが洗ったわけではないので、血の汚れはまさに事件を連想させる状態だ。来る途中に鏡はなかったから分からないが、顔もきっと酷い有様だろう。
そうして歩くこと数分か数十分か、自分でもよく分からなくなった頃、悠の前に扉が現れた。相変わらずの学校の教室の扉を模したそれを開けると、またも見覚えのある場所に出た。
(ここは……海か)
八十稲羽から最も近くにある海、七里海岸だ。昨年はバイクに乗って何度か来たことがある。特別捜査隊の仲間たち全員と泳ぎに来たこともあったし、その後に陽介と二人で来たこともあった。
「……」
思い返せば夏の終わりのあの頃から、ジュネスの屋上でバンド演奏をした10月前半くらいまでが一番楽しかった気がする。その後の辺りから少しずつ辛い出来事が多くなり、年の瀬から二年生の終わりにかけては最悪だった。そして今は、血で汚れた手や顔そのもののような惨状である。
楽しい思い出から嫌な記憶を連想しながらも、悠は足を止めなかった。体調不良を通り越した病気のような体は重たいが、乾いたタオルを絞ればまだ動ける。堤防の上を歩いて、この空間で待ち構えているであろう敵と先へ続く階段を探した。
(確かあそこで……)
歩く途中で海に突き出た波戸に目をやった。ここは仲間との思い出の場所であるのだが、実はもう一つ思い出がある。と言うより、悠の心の中ではそちらの方が印象が強い。6月にあの波戸に腰を下ろして、諸岡と一緒に釣りをしたのだった。諸岡は夕食のタコを釣り、悠はなぜかバス停を釣ってしまった。
「……」
この異界の領域にまともな魚や普通の漂流ゴミがあるとは思えないが、見た目だけは普通の海だった。世界で最も巨大な水たまりは、月や星こそ曇っているように見えないものの普通の夜のように黒い空の下で、絶えずうねりを上げている。傷ついた心を癒すのに良いと言われる波の音は、一定のリズムを刻んでいる。あの波戸から飛び降りて波間に身を任せれば、気付いた時には何の悩みもない平和の国に辿り着いていられそうだった。
即ち常世の国に──
すると死の国から誰かが流れてやって来た。まるで彼岸から気紛れで海を渡って気ままに漂流していたら、腕のいい釣り人に釣り上げられてしまったように、海の方から一人の男が姿を現した。しかしもちろん思い出の日と違って、釣り人の諸岡はそこにいない。瞳が金色に光る偽物の諸岡もいない。釣られたわけでない人は、自分からここにやって来た。
「鳴上君」
現れたのは悠の先輩だった。金色ではない本物の先輩だ。
「有里さん……」
下の層から続く階段が波戸の奥の方にあったか、または波間にありでもしたか、とにかく異界の開けた場所に二人のワイルドが揃った。別行動をしていた本物同士が鉢合わせて偽物が現れないのは、グランプリではいつもそうだったが、今夜にしては珍しい。だがあり得る事態ではある。偽物は既に全滅しており、皆月もいないのだから。
残っている大会参加者は悠と有里、陽介と足立の四人だけだ。つまりこの四人がP-1クライマックスのベスト4である。
「君……」
有里は悠の様子に驚いた。エントランスで別れた時と違って明らかに普通でなく、どう見ても万全とは程遠い。口の回りは血で汚れており、顔色は蒼白で鼻梁を斜めに走る傷跡だけが赤い。肌はかさついており、髪の色艶も悪い。呼吸は細く速く、息をする度に胸が上下しているのが分かる。実戦をこなせば当然疲労も負傷もあり得るが、これは極端すぎる。今の悠は負傷者と言うより病人だ。よくここまで歩いてこれたものだと、不思議になるくらいだ。
そんな惨憺たる有様で、目だけが爛々と光っている。色はもちろんシャドウの金色ではないが、次の瞬間に変わってもおかしくない。
「……例のリングを出される感じはしませんね」
その目を有里から隠すように、悠は周囲に視線を巡らせた。左右を見てから上を見上げ、ついでに血で汚れた手を伸ばして見えない壁はそこにないことを確認する。
「……そのようだね」
本物同士が出会って同士討ちを強いられることもないなら、単に合流したというだけの話だ。ここから先は二人で協力して進めばいい。しかし悠の状態を見ると、そうも言っていられない。今夜の有里は、たとえ仲間や後輩に犠牲が出ても顧みるつもりがないレベルで本気だが、それでも心配くらいはする。純粋な心配も、足手まといになられる心配もある。
これはさすがに止めるべきだと思った時、それを後押しする声が聞こえてきた。
『有里さん、鳴上先輩を止めて! 先輩はもう戦える体じゃないの!』
りせだ。有里にだけ聞こえる専用の通信ではなく、この空間にスピーカーが置かれたかのように響いた。声色は必死な限りだ。
「りせ……それはできない」
悠は久しぶりにりせに返事をした。しかし今度はりせが返事をしなくなった。もしりせ本人がここにいれば、大好きな先輩と敢えて目を合わせず、涙ぐむその目を先輩の先輩に向けてすがりついているところだ。その様が、どういうわけか悠は目に見えるように感じられた。目に見えないものが見えるような気がした。
『私からも頼みます』
今度は堂島だ。もちろん堂島自身はここにいないが、悠は『父』が特殊部隊の上司に頭を下げている様が見えるような気がした。
「叔父さん、今さら何を言うんだよ。命懸けなのは初めからじゃないか」
『有里さん、私情を承知でお願いします。その馬鹿を止めてください』
りせと同じように、堂島も悠に返事をしなかった。クマたち特捜隊の残りや尚紀たちは何も言ってこないが、言葉にしなくても反対の意思が肌で感じられるような気がした。もちろん『気がした』だけだが、間違ってはいない。仲間も身内も友人も、遂に悠の周囲にいる誰もが悠に反対するようになった。八十稲羽に来て一年と一ヶ月で、ここまで孤立無援になるのは初めてだった。
「聞いた通りだ。ここから先は僕が引き受ける。君は休め」
そして先輩も止めてきた。有里にそうされるのは、悠にとって少なからずショックなことだった。思わず目を見開く。
「……できません」
だが直後に目が据わった。
「なぜだい?」
「俺は……この地を守る義務があるんです」
有里は少し驚いた。意外なことを聞いてやはり目を見開く。
「権利じゃないのか」
この塔に突入する前、特捜隊の面々も彼らなりに『この町を守る権利がある』と、有里は堂島に言った。子供が誘拐されたこの戦いに、特捜隊を利用しようという打算がそこにあったことは否定しないが、言ったことそのものには道理があると思っている。現に陽介は堂島に同じことを言ったし、エントランスでも美鶴に言って認められていた。
だが権利を主張していたのは陽介で、悠ではない。
「違います」
悠の考えは有里と陽介のいずれとも違う。権利とは主張するものだが、義務は先験的なものだ。
なお、アイギスから奪ったペルソナとアイギス自身を利用することで、塔の頂上に『何か途轍もないもの』が降臨したことは、有里は風花から聞いている。目的は定かでないが、足立がそこにいることも聞いている。しかし悠は聞いていない。三人の情報系ペルソナ使いのうち悠との通信を担当したりせは、悠をこれ以上戦わせたくないので、敢えて伝えなかったのだ。
頂上で今何が起きているのか、何者が出現したのか知らないまま、悠は自分に義務があると言う。そしてこれは、実は死に瀕した男の妄言ではない──
「義務か……」
悠の『義務』が何を意味しているのかは、有里にも分からない。有里にとって特別課外活動部の時代に戦う主要な動機は『責任』だった。死神を体の内に宿し、育てた人間としての責任だ。もっとも終わりの頃には動機が変わったし、シャドウワーカーの設立後はただの仕事として戦ってきた。しかし今は違う。
「……」
悠の義務と有里の責任は、実は同じ意味であるのか違うのか。同じだとしたら、悠は今夜の事件にどんな責任があるのか。広く考えれば、昨年の殺人事件にどんな責任を負っているのか。有里は考える。
愚者のアルカナを持つ二人が睨み合う最中、ある不思議なことが起きた。悠の顔の傷が赤く光ったのだ。
(彼は……そうか。死ぬ気か)
有里は直感した。論理的な思考の帰結ではなくただの勘だが、ある確信を持った。眼前の高校三年生の少年は、今夜死ぬつもりでいる。恐怖や後悔を感じていないわけではないようだが、それを抑え込むだけのものを抱いている。それはかつて、世界の果てで滅びを食い止める人柱になることを受け入れたかつての自分と、通じるところも通じないところもある思いだ。
後輩の好きにさせてやろうかという気持ちが、先輩の心に僅かながら浮かんできた。しかし──
「だが僕には責任がある。悪いが、大人しくしてもらう!」
仕事で足立と戦った12月の頃とは違って、今夜の有里は責任を感じている。悠の心中に期するものがあることは察せられるが、それを認めるわけにはいかない。有里は懐から銃を取り出し、悠は長剣を構えた。
四強同士の戦い、即ちP-1クライマックス準決勝第一試合が始まった。複数のペルソナを操るワイルドの先輩と後輩の、死に場所を争う勝負である。大会主催者のクマ総統ことカグツチは足立の優勝を宣言したが、参加者たちは構わず続ける。
「マガツ!」
悠は足立に貰った道化師のペルソナを召喚した。ペルソナ呼称を叫びながら目を見開き、左手をこめかみに当てている。頭の奥で何かが動き、痛みとなって使用者に抗議の声を上げているのだが、悠は手でそれを強引に抑えている。マガツイザナギは長柄を逆手に構え、体を下半身から大きく捻りながら刃物を振って空間ごと切り刻む。
「タナトス」
有里は長男から借りた死神のペルソナで対抗した。タナトスは銀色に光る剣を目にも止まらぬ速さで連続して斬りつけ、刹那の間に斬られた空間を更に細かく断ち切って刈り取る。
「メサイア!」
次いで悠は有里に貰った審判のペルソナを召喚した。そうしながら悠の左手は頭から胸に移動し、祈りを捧げるペルソナと似た姿勢になる。心臓が発する痛みを手で抑える。ボロボロの体と違ってペルソナはまだ動けるようで、メサイアは手を胸から離して上へ掲げる。すると紫色の万能魔法の光が炸裂した。
「ヒュプノス」
今度は有里は次男から借りた運命のペルソナを呼び出した。ヒュプノスが手を合わせると、頭上から黄金の光が降り注いできた。夜明けを意味する名を冠した、秘術中の秘術である。属性としてはメサイアが使ったものと同じ万能魔法だが、威力はそれより大きく勝る。悠が体が破裂しそうな痛みに耐えて放った力を、上から押し潰して無効化する。
今夜の悠が柱としているペルソナの秘技と秘術は、いとも容易く防がれた。しかし悠は諦めない。昔と違って、悠は物分かりが破滅的に悪くなっているのだ。何度も咳をして既に割れている喉を、更に酷使する。
「カグヤ!」
掠れた大声と共に永劫のペルソナが召喚され、無数の呪符が展開する光の魔法を放った。悠はこれで『陽介』を倒したが、有里には通じない。先輩は右手に持った銃を下ろし、後輩がやみくもに行使する力をただ受けた。ヒュプノスに光の魔法は効かないのだ。
「もうやめよう。タナトス」
全ての呪符が裂けて消えた直後、有里は再び死神を召喚した。有里自身も悠に向けて歩み寄る。無謀な後輩を制止するように、武器を持たない左手を伸ばしながら。
「マガツイザナギ!」
そして悠も再び禍津神を召喚して、近づいてくる有里へ向けて駆け出した。長剣は肩に担いでいる。引き留めてくる先輩に向けて、ペルソナと生身の体の両方で突撃をかける。
しかし悲しいかな、悠は力が足りない──
足立が皆月に対抗する為にやったように、もし悠もロシアンルーレットをやればマガツイザナギでタナトスに対抗できるかもしれない。しかし素の状態の悠では無理だ。死の義務を心の支えにしたところで、精神力による実力の底上げは微々たるものだ。神の兄弟のペルソナとの間にある差を埋めることはできない。
マガツイザナギが振り下ろしてきた渾身の長柄を、タナトスは剣で受け止めた。そしてそのまま強引に横に逸らす。それとほぼ同時に、悠が振り下ろしてきた石割の太刀を、有里は一歩踏み込んで剣の持ち手を左手で掴んで止めた。そして右手を一閃させた。
「あぐっ……」
有里は銃のグリップを悠の腹にめり込ませた。これはもちろん拳銃の正しい使い方ではないが、ペルソナに由来する力は乗る。圧倒的な実力を持つタナトスの膂力で打たれては、さしもの悠も執念だけで立ち続けることは不可能になった。一発で足に来てしまい、膝が笑う。もはや慣れたはずの長剣が急に重く感じられて、振り上げることもできなくなった。
「貴方だけは……分かってくれると思っていたんですが」
悠は崩れ落ちようとする体を支えるように、左手で有里のスーツの襟を掴んだ。右手はまだ剣の柄を握っているが、切先は堤防の地面に力なく触れている。
「誰が止めても……貴方だけは……」
有里は最後までは聞かなかった。ただ銃のグリップを振り下ろし、悠の首の後ろに打ち付けた。
「……っ」
スーツから手を離し、堤防の地面に倒れ伏す直前で、悠は姿が変わった。これまで脱落した二十人の先例と同じように、死を象徴する棺桶に入れられた。ただしこれは飽くまで象徴に過ぎず、本物の死に抱かれたわけではない。むしろ生きていることを証明するものだ。かくして先輩は死に向かう後輩を死なせずに押し留めた。
(許せ……)
有里は銃を懐に収めながら、瞑目して詫びの言葉を心の中で言った。有里はこれまで悠に先輩らしいことを何一つしてやっていないが、最後までそうだった。希望を叶えることはせず、教え諭して正しい道に導くでもなく、ただ力で抑え込んで活躍の場を奪った。
『有里さん……ありがとう』
しかし感傷に浸っている場合ではない。本命の敵はまだいるのだ。気を取り直して、自分以外のペルソナ使いの動向を確認する。
「花村君はどうしている?」
『かなり先まで行ってます……。今のところ敵の反応もないですし、このままだと花村先輩が先に頂上に到達すると思います』
「なら彼にも伝えてくれ。僕がすぐに行くから、それまで無理しないようにと」
『はい……』
悠の棺桶が完全に沈み込んだのを見届けてから、有里は先へ進んだ。
一方その頃、足立は塔の頂上と下の層を繋ぐ階段を少し下りたところにいた。かつてのタルタロスであれば王居エレスと呼ばれていたはずの場所から、体を一歩下がらせた。頂上の様子が見えてはいるが、そこに身を置いてはいない。言わば神と人の領域の境界ギリギリの位置に立つ。
カグツチは依然として塔の上空に開いた穴から、上半身だけを出した格好でいる。そこから全身を表に出したり、塔から離れて町を襲いに行ったりはしていない。足立はその様子を確認して、内心で頷く。
(あいつ、僕をやらない限り外に出ない気だな……)
これは刑事の勘と言うより、歴戦のペルソナ使いとしての直感だ。そしてそれは正解である。カグツチは自ら『最初の贄』と定めた足立が生きている限り、ここを動くつもりはないのである。『できない』とも言う。人間と違って、神は嘘を吐かない。
(けど、僕が下まで降りたらどうなるかな……)
神は嘘を吐かないが、論理の穴を突いてくることはあり得る。一度やると言った優勝賞品をやっぱりやらないとは言わないだろうが、受け取らないなら仕方がないと言い出す可能性はある。ならば悠を迎えに行くことはしない方がいい。頂上からつかず離れずのこの位置で待つべきだ。足立はそう判断した。
(偽物があとどんだけいるのか分かんないけど、皆月はもういないし? 鳴上君たちだけでも何とかなるんじゃないかな……)
頂上に現れたテレビはアイギスと『有里』の戦い以降の経過は映さなかったので、足立は本物と偽物が何人残っているのか分かっていない。ただ柄にもなく希望的観測にすがる。
(さっきの尚紀君の通信で状況聞いときゃ良かったな。次来たら……)
そんなことを思っているうちに、後ろから足音がした。
(来たか!)
悠が期待に応えて、迎えに行くまでもなく向こうからやって来てくれたかと思った。しかしそうではなかった。
「足立……」
一番乗りは陽介だった。連れはおらず、一人だけで来た。当然と言うか、その表情は厳しい。
(うわ! よりによってこいつかよ!)
やはりこの事態は現実だ。ゲームや小説と違って、そうそう都合よく事が運びはしない。むしろ最悪な相手を連れてくる。このろくでもない世界を作った神様のように、運命は途轍もなく理不尽だ。
(理不尽は慣れてるよ? でもだからって、花村君はないんじゃないの……)
などと思っている間に、陽介は早速動いた。短剣を両手に持って襲ってくる。踏み込みは速く、込められた力は本気のものだった。前口上もないままで、P-1クライマックス準決勝第二試合が始まった。
──
陽介の初撃の突きを足立は拳銃の銃身で防いだ。陽介の狙いは喉だった。足立が防がなければ、人を殺したペルソナ使いが増えるところだった。そこから間を置かずに第二撃。魔術師のペルソナが召喚され、双剣を恐ろしいほど速く、鋭く振るう。狙いは足立の首だ。
「のわっ!」
足立は陽介を甘く見ていたことを悟った。エントランスで一度対峙した時、軽く捻ってやった昨年とは違っていると感じたが、それでもまだ先入観が抜けてはいなかった。しかし今の陽介のペルソナを見ると、そんなことは言っていられない。足立を殺す覚悟さえあるようで、油断していると首を切り落とされる。象徴化する前に死んでしまう。
体を屈めて致死の斬撃をかわし、そのまま前転して階段を何段か下りた。直後に陽介よりも下の位置に思わず来てしまったことに気付き、これはまずいと振り返る。すると短剣が再び飛んできた。
「ちょっとタンマ!」
カグツチが気ままに動き出す危惧を拭えない以上、足立は塔の頂上から離れすぎるわけにはいかない。襲い来る凶器を踏み込みながらかわし、殺意に満ちた少年に拳銃を向けた。陽介の右の短剣が自分の顔のすぐ傍を通り抜けると同時に、少年に銃口を突きつけた。狙いは額だ。
「……」
特撮やアニメが好きな子供ならチェックメイトとでも言うべきシーンだが、勝負はまだついていない。陽介は左の短剣を顔の前で構えている。足立は見ていないが、陽介は『アイギス』のマシンガンもこれで弾き飛ばしたのだ。陽介はこの距離で足立に撃たれても対応できる。人殺しの男と人殺しになろうとする少年は、互いに次の一手を仕掛けるタイミングを伺うように動きを止めた。
そうしているうちに、足立は自分の額から血が流れてきたのを感じた。それが眉を通り、瞼を通り、そして目に入る。
「ねえ、君は何でそんなに僕を殺したいの?」
これ以上陽介と戦うわけにはいかない。かと言って軽くあしらえる相手でもないので、言葉で何とかしなければならない。足立は血が涙のように目から零れても瞬きもせずに、少年と真っ直ぐ向き合う。
「……」
「早紀さんの仇討ちって言うんなら、筋違いじゃないのかな。君にそんな権利あるの?」
「ねえよ、んなもん。あんのは尚紀だけだ」
ここでようやく陽介は口をきいた。
「そうだね。じゃあ何でだい?」
恨みや憎しみは理屈ではない。復讐が筋違いであろうと、そんなものは理屈に過ぎない。もし陽介がただ憎いから足立を殺すと言うなら、暴論ではあるがあり得る話だ。硬いレンコンのせいで早紀を殺した、足立よりも余程分かりやすい。しかし──
「世界を滅ぼすだの作り変えるだの、与太話みてえだがよ。どっちにしろ、ろくでもねえこと企んでやがんだろ。だったら止める! 遊びじゃねえんだ!」
陽介は憎悪に凝り固まってはいなかった。ラビリスの奇跡を目の当たりにする前ならともかく、今は違う。今夜の戦いは遊びではなく、復讐でもない。もちろん金を稼ぐ為の仕事でもなく、正義だ。足立は内心で胸を撫で下ろすと共に、少しの呆れを感じた。そしてごく僅かな憧憬を覚えた。
「そうかい。なら、ものは相談なんだけど……」
言いながら、足立は銃を下げた。陽介は眉を顰めたが、隙ありと襲い掛かりはしない。構えはまだ解かないが、人殺しの話を聞く気になった。
「まず勘違いしてほしくないんだけど、僕は皆月と組んでるわけじゃないよ。僕を脱獄させたのはあいつだけど、あいつは僕を利用しようとしていただけだ」
「……それを信じろってのか?」
「世界を滅ぼすなんて与太話みたいだよね。僕もそう思うけど、シャレじゃなくてマジなんだ。この階段をちょっと上がったらもう頂上だけど、そこに皆月が呼び出したとんでもない奴がいる。それは分かるでしょ?」
信じにくい話を最初にして、次に信じざるを得ない話をする。一つの話を信じれば、もう一つの話も信じやすくなる。よくある交渉のやり方である。
「……」
陽介は振り返りはしない。足立から視線を外さないまま背後を探ってみれば、確かに巨大な存在の気配と熱を感じる。情報系の能力などなくても肌で分かる。思わず汗が流れそうになるくらいだ。そして実は陽介は、頂上に『何か』が降臨したことを既に尚紀から聞いているのだ。それがまた足立の話を信じるきっかけになる。
「僕はあいつを何とかしたい。君だって奴を野放しにはできないはずだ」
「……」
足立と陽介の間には、早紀の復讐を脇に置いてもなお深い因縁がある。いくら理屈を並べても、やはり敵同士なのだ。しかし今の二人には共通の敵がいる。ならばどうするか?
「だったら協力しようじゃないか」
敵は常に敵であるとは限らない。呉越同舟という言葉があるし、敵の敵は味方とも言う。ただしそれが成立する為には、頂上に現れた敵が足立の敵でもある必要がある。
「……お前は何で奴を倒したい」
「もちろん善意や正義感なんかじゃないし、罪滅ぼしでもないよ。僕自身に思うところがあって、あいつの好きにさせたくないの。んで、それに君を利用したいってだけ。でも君にも損にはならない。僕を利用できるわけだから」
友情や信頼で結び付くのではなく、ただ互いに利用価値があるから協力する。他人を利用し、自分も利用される。それは高校生にはなかなか受け入れにくいことだ。まして皆月風に言うと『絆ごっこ』をしていた者には、素直に従うことはできまい。たとえそれが世界の真実であろうとも。この世に真実は複数存在し得ることさえ、認めがたい少年には。
しかし足立は敢えて誘った。正義を語る少年を、大人としてこっちに来いと引き寄せる。
「どう? やる?」
「……」
陽介はしばらく答えなかった。歯を食いしばり、自分の口から答えが出そうになるのを抑えた。短剣は依然として構えたままで、柄を握る手に力が入る。それは足立の喉を切り裂きたいのを我慢しているのか、それとも武器を収めて足立と握手しようとするのを堪えているのか。まだ高校三年生の、しかし大人の領域に片足を踏み入れている男の心の天秤は、どちらに傾くか──
『花村』
陽介が自分一人で結論を出す前に、助け船が来た。専用の通信ではなく、足立にも聞こえるスピーカーである。声の主はもう一人の大人だ。
「堂島さん」
『お前にすれば、そいつを信じるなんて無理な話だろう。だが……信じてやってくれ。足立は嘘は言っていない』
異形の塔の頂上一歩手前で対峙する二人の因縁は、堂島も知っている。知った上で少年を諭す。刑事としてでも特殊部隊員としてでもなく、大人として。眼前にいる大人の男は、少なくとも今この場においては信用に足ると保証した。
「……!」
陽介は目を閉じた。それも一瞬ではなく、数秒間に渡って瞼に力を入れて強く下ろした。もし足立が敵なら致命的な隙をさらしていることになる。しかしもちろん足立は攻撃してこない。それ自体を堂島の保証の裏付けと捉えて、陽介は決断した。
「上等だぜ! お前とだって組んでやらあ!」
「結構」
かくして準決勝第二試合、同じ敵を持つ敵同士の勝負はタッグマッチへの移行が提案されたことにより中断し、無効試合となった。
そうして一時休戦が成立すると、事情聴取が始まった。
『足立、皆月はどうした』
「殺しました」
『……そうか』
しかし聴取は一言で終わった。昨年11月5日に足立が生田目を射殺した時は、堂島は厳しく咎めたものだが、今はそうしない。この一連の事態はもはや犯罪捜査の範疇に収まるものではなく、大規模テロか戦争とさえ言ってよいものだ。戦争であれば足立が皆月を仕留めたことは殺人ではなく、むしろ功績になる。堂島はよくやったと称賛することはさすがにしないが、叱ることもなかった。
『二人とも……生きて帰ってきてください』
そして最後に、尚紀が二人を気遣った。