ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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人間の定義(2012/5/6)

 陽介と足立は手を組み、塔の頂上に現れた存在に協力して対処すると決めた。ならばまずは敵の顔を拝んでやろうと、陽介は最後の階段を上って頂上に立った。クマによれば制覇した者は神にもなれるという創世の舞台の、その至聖所に特別捜査隊としては最初に到達したのだ。しかし最後の関門を見ると、思わず体が硬直してしまった。

 

 炎に包まれた巨人が天に空いた穴から身を乗り出して、下界を見下ろしている。ファンタジー系の映画かゲームであればありそうなシーンだが、現実に見るとその凄まじさに圧倒されてしまう。

 

「おい、何なんだよアレ!」

 

「僕が知るか!」

 

 陽介はシャドウ相手ならば大型のものとも何度か戦った経験があるが、これはそれら『小物』とは違う。体の大きさ以前に、存在としての格が違うことが見れば分かる。これに比肩するものと言えば、3月20日にテレビの中で見た枯れた花のような女の怪物だけだ。

 

 あの女の怪物は何だか分からない間に消えてしまったが、この炎の巨人はそうはいかないだろう。陽介は疲労とは違う理由で膝が笑いだしそうになったが、巨人が言葉を発すると恐怖より困惑を覚えた。

 

「ほほう……貴様が来たか、花村陽介。思えば貴様も鳴上悠と同じく異邦人であったな。もし星の巡りが一つ違えば……くく、貴様が希望の役目を負うこともできたであろうに、惜しいことよな」

 

「……?」

 

 強大極まる絶対の存在が、たった一人の小さな人間を気にかけて声をかける。それは信心深い者なら、恐縮しすぎて縮んでなくなってしまうほどの奇跡的な恩寵だが、陽介は縮まない。陽介は現代日本の少年らしく信心などないし、しかも何を言われたのかまるで分からないのだ。

 

「ところで足立透よ。天の与うるを取らざれば、と言うであろう」

 

 一方で足立は何を言われたか分かった。『かえってその咎めを受く』だ。

 

「ったく、そんなに僕に構ってほしいの?」

 

 階段にいた時に心配していたことは、杞憂ではないようだった。P-1クライマックスの優勝賞品である『最初の贄になる栄誉』を足立が受け取らないならば、またろくでもないことが起きる。カグツチはそう言っている。ついでに言うと、既に優勝が宣言されているのに、参加者たちが勝手に準決勝をやったことも主催者には気に入らないことかもしれない。

 

「花村君、僕はもうここを離れるわけにはいかない」

 

「あんた……」

 

 陽介は隣に立つ足立を見た。かつて想い人の仇として恨み、憎んだ殺人犯は、自分を犠牲にするつもりでいるように聞こえた。圧倒的な敵を向こうに回して逃げずに見据えるその横顔は、腹立たしいことに格好良く見えた。

 

「君、逃げ足は速いでしょ。鳴上君を呼んできな!」

 

 ここは自分が引き受けるから。男なら一生に一度は言ってみたい、命を懸けるセリフとして聞こえた。しかし──

 

「そいつは無理だ。相棒は有里さんにやられちまった……」

 

「へ?」

 

 陽介もりせから話に聞いただけだが、悠はもう戦うなどとてもできないボロボロの状態だったので、有里に頼んで止めてもらった。その有里は一度ペルソナを奪われて脱落したが、今は復活している。そういう事情を簡潔に伝えた。

 

「なら有里君を呼んできなよ」

 

「いや……もう山岸さんに案内されて、こっちに向かってるはずだ」

 

 ここで陽介は腹を括った。足立だけに格好をつけさせるわけにはいかない。目的の為に互いに利用し合う間柄だろうが何だろうが、それももう関係ない。足立を仲間として受け入れ、全力を尽くす。補助魔法で支援することも傷を手当てしてやることも、もはや厭わない。頭上に浮かぶ敵に感じた恐れも抑え込む。

 

「俺も付き合ってやるよ! テセウス、追い風を!」

 

 一度は『仇』の肝を冷やしてやった魔術師のペルソナを召喚し、陽介は自分と仲間に緑の風をまとわせた。

 

「ふん……そんじゃあやろっか!」

 

 青春の風を浴びた足立は、皆月に殴られた顔の腫れと陽介に斬られた額の傷が両方とも癒えた。もちろん風の速さで動けるようになったことも理解している。仲間のありがたみを久しぶりに感じて、生意気な高校生のガキに向けて、礼の意味を込めてにやりと笑った。二人がかりでもカグツチを倒すことはできないだろうが、それでもやる。有里が来るまで粘ってやると、腹を括る。

 

 

 

 

 呉越同舟の二人が上空の敵に立ち向かう中、到着を待たれている当の男は、まだ階段を走っていた。悠を象徴化させて以降は敵味方の誰とも出会わず、ひたすら上を目指していた。

 

 そんな中、通信が入った。

 

『山岸です。今、花村君と足立さんが頂上で合流しました』

 

「合流?」

 

『はい、足立さんが協力してくれるそうです。皆月も足立さんが倒したみたいです』

 

 風花は詳しい経緯までは説明しないが、当座の情報としてはこれで十分だった。

 

「そうか、これで見通しが立ったな」

 

 有里の考えでは、事態を解決するには自分以外にもう一人ペルソナ使いが必要だった。陽介にその役を期待していたが、足立の協力を得られるなら成算は大きく上がる。ならば残る最後の問題は──

 

「お待ちしておりました」

 

 突然乱入してきた、因縁浅からぬこの女だ。

 

 階段を塞ぐ形で配置された引き戸を開けると、そこは映像で見た子供たちが囚われていた場所だった。檻とそれを載せていた柱はなくなっている。夜の吊り橋を模したこの光景は、ロマンティックでないこともない。現実では港区本土の巌戸台と人工島ポートアイランドを結ぶ海にかかる橋、ムーンライトブリッジだ。夜空はかつてあった影時間を模した邪悪な緑色だ。今夜と同じ巨大な満月も、飾りのようにかけられている。

 

「ああ」

 

 有里は吊り橋の柱の根元にある扉から出ると、橋の中央に佇むエリザベスに歩み寄った。

 

「君は何の為にここに来たんだ?」

 

 この質問はどうして自分と戦うのか、という意味ではない。そもそもなぜこのP-1クライマックスに乱入したのかと聞いている。

 

「貴方に会いに来た……では答えになりませんか?」

 

「僕が声をかけなければ、会わずに帰るつもりだったんじゃないのか?」

 

 有里がこう言う根拠は、ラウンジでりせがエリザベスに礼を言ったことだ。りせは何に感謝したのか言わなかったが、突然戦う力を得たことと関係していると、有里は直感した。つまりこの塔に突入する前、今夜のかなり早い段階からエリザベスは霧の稲羽に来ており、りせと会っていた。それでいながら、自分から有里に接触しようとはしていなかった。

 

 するとエリザベスは俯いた。図星を指されたように。

 

「私は……分からないのです。自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか……」

 

 自分がしたいことが分からない。これを同一性拡散の危機と言う。エリザベスはりせに自分を永劫のモラトリアムにある身だと称したが、そういう人間が陥りやすい人生の危機だ。諸岡は毎年最初の授業で、アイデンティティを確立できない者はそうなるぞと生徒を脅していた。

 

「湊様……教えてくださいませんか? 私は何をするべきなのか。私が目指すべきものを、貴方が与えてくださいませんか」

 

 何をするべきか。それは『自分は何者か』という問いと深く関わる。諸岡に言わせれば、アイデンティティとは本質的に認識だが行動と不可分だ。しかし有里は首を横に振った。

 

「それは無理だ」

 

 ラウンジに綾時と隆也を連れて行き、有里をそこから出す依頼の報酬としてエリザベスが何者なのか教えると約束したにも関わらず、この物言いだ。それは有里は約束を反故にする気なのか、それとも──

 

「ええ、そうでございましょう。貴方の愛は、あの方一人のもの。他に与える方がいるとすれば、ご子息たちだけ。かつてのお仲間も後輩の方も眼中にない。まして私など……」

 

 エリザベスが望み、手に入れようと求めるものは、かつてはあった。しかし得られないまま時間だけが過ぎてしまった。ベルベットルームには時の流れが存在しないが、外に出たエリザベスは時が過ぎ去ることを感じられる。求めていたものを与えてくれるはずだった男は昔より更に遠ざかり、自分から男に近づくことも憚ってしまっている。有里の言う通り、向こうから声をかけられなければ、会わずに去っていたに違いないのだ。

 

 誰もが変わってゆく中で、自分だけが変わらずにいる。外で人を見るたびに、何かをするたびに、お前は何をしていると責められるような思いが募る。かつて望んでいたものを今でも望んでいるのか、それさえ分からなくなってしまった。

 

「私がここに来たのは……鳴上様に期待していたのかもしれません」

 

「鳴上君に?」

 

「あの方が私に答えを与えてくださるとは思えませんが、あの方の内に宿る方ならば……私を終わらせてくださるかもしれない。そんな期待でございます」

 

 悠の内に宿る者──

 

「そうか」

 

 しかし悠は既に脱落している。エリザベスを終わらせることはできない。できるのは有里だけだ。エリザベスはペルソナ全書を持つ手に力を入れ、因縁の男を鋭く見据える。同時に覇気が漲り、影時間に似た空気が震えて逃げ出す。

 

「では……始めましょう。どうかご遠慮なさらず、私を殺すつもりでおいでくださいませ」

 

(殺すつもりで……か。これは決まり文句やはったりじゃないな)

 

 有里は昨年の8月にマーガレットに聞かれたことを思い出した。二年前の1月にエリザベスと戦った時は敗れたが、今戦えば勝てるかと。その時の答えは『試合ならやるが、殺し合いならやらない』だった。一見すると聞かれたことの答えになっていないが、意味は『やってみないと分からない』だ。だから殺し合いはやりたくないが、命に関わらない試合ならやってもいい。そう答えた。

 

 しかし今のエリザベスの放つ殺気は、試合で済むとは思えないものだった。それは子供たちの力を預かっている今の有里は、二年前より遥かに強い為か。二年間色々とこじらせ続けたせいで、エリザベスの本気度合いが上がっている為か。それとも悠の仇討ちをするつもりか。とにかくこの勝負は、命の保証のない殺し合いになる。

 

 それでいて、有里は迷惑に思う気持ちは湧いてこなかった。世界の危機の只中にあって不謹慎だが、自分の過去に真面目に決着をつける気になった。

 

「分かった。やろう」

 

 エリザベスに『答え』を与えることと、終わらせること。どちらの道を選ぶか、有里はやる前から決めることはしていない。ただ結果としてエリザベスを殺すことになっても、後悔しないと決めた。拳銃で美女の眉間を撃ち抜いて、無残な死体を異形の塔にさらすことになっても構わないと。それでマーガレットから復讐されようと受けて立つと、腹を括った。

 

「参ります。ルシファー!」

 

 P-1クライマックスの場外戦第一試合の開始である。審判のアルカナに属するペルソナが召喚された。悠やりせと戦った時と同じである。ただ心なしか、ペルソナの表情は強張っているような気がした。

 

「はいっ!」

 

 先手はエリザベスが取った。三対の翼を備えた巨大なペルソナが右手を上に翳すと、緑色の空から電撃が雨のように襲ってきた。有里はタナトスを召喚し、命を刈り取る剣を頭上で回転させた。剣を追うように八枚の棺桶は死神の周囲を巡る。すると斬撃の波動が傘のように展開し、それで全ての雷を防いだ。防ぎながら、有里は意外に感じた。

 

(電撃から来たか)

 

 二年前に『深層モナド』と呼ばれる空間で試合をした時は、エリザベスの初撃は火炎だった。使うペルソナも北欧神話の巨人で、地獄の第九層に封じられた魔王ではなかったはずである。そして第二撃は雪だるまのペルソナが放つ氷結だったはずだが──

 

「ふんっ!」

 

 エリザベスのペルソナは相変わらず魔王のままで、今度は左手を翳して竜巻を放ってきた。地上から天まで届く空気の暴力の柱がいくつも立ち上がり、整列した軍隊さながらに一斉に進撃してくる。橋を埋め尽くすそれに対して、有里はヒュプノスを召喚する。眠りの神は顔の前で手を一度交差させ、そして開く。すると中空から電撃が発せられ、竜巻を打ち消した。

 

(こいつ、パターンを変えている? いや……自由に戦えるようになったのか)

 

 3月に『パンドラの間』と呼ばれる空間でマーガレットと試合をして勝った後、かの魔女から不吉な忠告を貰ったが、どうやらその通りになったようである。自我も知性も持たないシャドウのような、決まったパターンを延々と繰り返す融通のきかなさがなくなっている。

 

「行きますわよ! 私を受け止めてくださいませ!」

 

 そしてエリザベス自身が動いた。吊り橋の床を蹴るや、ロケットのような勢いで一気に間合いを詰めてきた。二年前は遠距離攻撃ばかりで接近戦を仕掛けてはこなかったのに、こういう点でも変化がある。得物は刃物や銃器ではなく、分厚いペルソナ全書だ。現実では人を殺す為の武器としては心もとないが、ペルソナ使いの戦いでは別だ。大上段から振りかざしてくるそれはなかなかの、と言うより猛烈な力が込められていた。

 

 エリザベスの全書の角の一撃を、有里は瞬きを一つしてから拳銃の銃身で防いだ。銃と本を通じて二人の視線が出会う。

 

「……」

 

 有里は過去のある女と目が合っても何も言わず、本を巻き取るように銃を動かす。装着するペルソナを死神に変更しているので、膂力では有里が勝る。細腕の女が剛腕の男にあしらわれるように本は弾かれ、次の瞬間に銃口が女の眉間に向けられた。

 

 ──

 

 世界最強の大型拳銃が容赦なく発砲されたが、女の顔が撃ち砕かれることはなかった。弾かれた百科事典を引き戻すのがかろうじて間に合い、銃弾はペルソナ全書の表紙を貫き、中間辺りまでめり込んだ状態で止まっている。そしてエリザベスは後方に跳躍し、間合いを外した。

 

「なるほど、背中を走るものがあるという言葉がありますが、文字通りの意味でございましたか」

 

 エリザベスは顔の前から全書をどかした。美貌を誇るその顔は一見すると普段通りで、セリフとは裏腹に怯えの色は浮かんでいない。今はまだ。

 

「タナトス、行け」

 

 有里は長男のペルソナを召喚して突撃させた。獣の頭蓋骨に似た仮面をかぶった冷酷非情な死神は、まさに獣が獲物に食らいつこうとするように頭から吶喊する。

 

「なんの、まだまだ!」

 

 恐るべき敵が襲ってきても、エリザベスは後に退かない。魔王のペルソナを召喚し、地獄から呼び寄せた業火を放って死神を迎え撃つ。対する死神は剣を振るう。穀物を刈り取るように人を狩る剣を刹那の間に五回も十回も振り回し、襲い来る炎を解体した。そして剣を逆袈裟に大きく振り、魔王を斬り捨てた。

 

 一瞬だが力のビジョンを搔き消され、守る者のなくなったエリザベスに向けて、タナトスは袈裟懸けに斬りつけた。最強の人外であるエレベーターガールを、究極のペルソナである死神はただの人間を殺すように殺そうとする。そして実際のところ、まともに当たれば殺せる。

 

「おお怖い!」

 

 分厚い百科事典の背表紙で防御した。しかし死を与える剣はペルソナ全書の半ばまで食い込み、刃が持ち手の指に触れた。既にめり込んでいる銃弾と相まって、普通の本ならもう使い物にならない有様だ。武器としても、あと何回有里の攻撃を防げるかというところだ。ちなみにエリザベスの得物が本ではなく剣だったとしても、結果は同じだったはずだ。銃撃を防げばひびが入り、斬撃を受ければ刃こぼれしただろう。タナトスはエリザベスに勝ることを、武器の状態が証明している。

 

 連続攻撃を終えた死神のビジョンがようやく消えると、エリザベスは金色の目を細めて相手の男を観察した。子供たちから預かったペルソナが規格外の強さなのは分かっていたが、それだけに使用者にかかる負担も大きいはずだ。ならば勝機は持久戦にあるが──

 

「……全く揺らいでおりませんわね」

 

 有里の立ち姿は、まるで背骨に鉄柱が通っているかのようだった。身の丈を超えるペルソナは、使用者に甚大な危険をもたらすのが普通だ。暴走すれば使用者を襲うことさえあり得る。しかし有里は至って普段通りである。やせ我慢しているのか、ペルソナが父親を気遣って負担を軽くしてやっているのか、それとも有里自身が神の兄弟のペルソナに相応しいほど強くなったのか──

 

「多分二番目だと思いますが……はっきりとは分かりませんね」

 

 グランプリで悠と戦った時からそうだったが、今のエリザベスは分からないことや驚かされることが多くなっている。いつも超然として、当たり前のように真理を見抜き、特にペルソナやシャドウに関しては未知のものなどないように振舞っていたベルベットルームの住人が、今や形無しと言っても言い過ぎではない。

 

「何が二番目だ?」

 

「いえ、こちらの話ですので。お気になさらず」

 

 エリザベスは視線の中心を相手から外さないまま、目の端でペルソナ全書を持つ左手を確認した。タナトスの剣を防いだ時、少しだが斬られた。青い手袋が裂け、赤い汚れが広がり始めている。脈動に合わせて血が流れ出て、左手の小指が疼く。いつから始まったのか覚えてもいない生涯で、初めての感覚である。思わず右手をそこに添えた。

 

(そうですか。これが痛みと言うものですか)

 

 今のは指だったが、タナトスの剣が次に触れるのが首だったら痛いでは済まない。そう思うと、背中を走るものを再び感じた。ありふれた勝利よりも稀有な敗北を望んでいたはずが、敗北が死を意味することに実感を持ち始めた今、うっかりすると考えが変わりそうになってしまう。転移の魔法陣を描いて逃げ出したくなるのを、意識して抑えなければならない。

 

 自分はいつの間にこんなに弱くなったのか。それとも実は元から自分は弱く、強い者がいなかったから気付かなかっただけなのかと、自分自身に呆れてしまう。しかし──

 

「決着をつけましょう」

 

 ペルソナ召喚の基本は死を覚悟すること。死の恐怖を乗り越えることだ。しかし昨年5月に訓練を始めた頃の堂島は、召喚器に恐怖を感じなかった為にしばらく召喚に成功しなかったように、恐怖のないところには覚悟もない。

 

 そして今、エリザベスは恐怖を感じている。絶対に近い死の予感に体が震える。失った過去には手を引いてもらったこともある男から吹いてくる死の風の、何と冷たいことか。何と慈悲のないことか。

 

 だがそれ故にこそ、踏み出す覚悟は真実のペルソナ召喚になるはず──

 

 今や死そのものと化したかつて愛した男に向けて、エリザベスは一歩を踏み出した。拳銃で自分の頭を撃つ気持ちになって、銃と剣でボロボロになったペルソナ全書を開く。神に反逆した魔王を再び呼び出し、神の定めた死の法則に抗う。

 

「ルシファー!」

 

 機械の天使と似た角のある所作で、天使の兄弟とも言われる魔王は両手を広げ、掌を上にして持ち上げた。すると紫色の光球が中空に現れ、螺旋状に回転しながら落ちてきた。世界の終わりを意味する、天から下された裁きの光だ。二年前の試合で有里を一度殺した、万能魔法の秘術である。

 

「ヒュプノス、やれ」

 

 対する有里は次男のペルソナを召喚した。心優しき眠りの神は白い指を光に向ける。するととぐろを巻いた黒い光が地の底から呼び出された。伝承では魔王の別称とされ、別の伝承では神の忠実なる下僕とされる黒い蛇だ。その名を冠した秘術中の秘術を放った。

 

「むう……!」

 

 究極のペルソナであるタナトスは膂力でエリザベスに勝るように、同じく究極であるヒュプノスは魔力で勝る。エリザベスが放った終末の光は天へと昇る蛇に貫かれ、粉砕された。真実のペルソナ召喚をしてなお、世界を滅ぼす神には敵わない。悠が3月に対峙した死の女神もまたそうであるように、有里が宿した神にはワイルドどころか力の管理者さえ及ばない。

 

「タナトス」

 

 そして黒い兄のペルソナが再び召喚された。白い弟はまだ顕現しているのに、父は兄弟のペルソナを同時に呼び出した。

 

「眠れ」

 

 黒い闇と白い闇が同時に襲ってきた。これは誰であろうと倒せる、無敵の力である。神の力の顕現である赤い闇や緑の闇さえも、等しく飲み込んでしまう。

 

「ああ……」

 

 そしてエリザベスも飲み込まれた。

 

 

 神の兄弟が有里の頭上から消えると、闇も消え去った。戦いの騒擾は去り、かつてあった影時間と同じ静寂が戻ってきた。勝負ありだ。勝って橋の上に立つ男は、敗れて倒れ伏す女の傍まで歩み寄り、膝をついた。女は目を閉ざしているが、死んではいない。

 

「君は人間だよ」

 

 そして有里は『答え』を与えた。眠るエリザベスの返事を聞くことはなく、立ち上がって踵を返した。大技を使った反動で頭痛がするが、顔に出るのを意識して抑えた。

 

 かくして過去から続く因縁に決着がついた。後は今夜の本命の敵である超常の存在だけだ。邪神を祀る塔の頂上へ向かうべく、有里は妻と初めて会い、両親が死んだ場所を模した橋を歩く。そこで風花から通信が入った。

 

『ご苦労様です。頂上まであと少しです』

 

「ああ」

 

『ただ……気になることがあります。鳴上君が下りてこないんです』

 

 有里は立ち止まった。海岸のような空間で悠が象徴化してから、かなりの時間が過ぎているはずだ。それにも関わらずラウンジに棺桶が落ちてこない。そして今夜はそれと同じことが既に一度起きている。

 

「まさか敵は鳴上君も何かに利用する気か?」

 

『分かりませんが……有里君は頂上の敵に集中してください。鳴上君はこちらで探します』

 

「頼む」

 

 有里は歩みを再開した。傷ついた後輩が気にならないと言えば嘘になるが、今は気にしている場合ではない。

 

 

 戦いに敗れて、己が何者かを知る。そんなことがあり得るだろうか。勝利に飽き、力に驕り、いかなる我がままも押し通せる傍若無人な者が敗北を知り、己の分際を知るという意味ならばあるだろう。しかしエリザベスが望んでいる『答え』は、そういうことではない。

 

「ここは……」

 

 エリザベスは虚無の懐にいる自分を発見した。地球と月の間にある宇宙、即ち絶対の孤独を表す空間のような場所である。しかし天文学的な意味での宇宙空間ではないことは、何度も訪れて慣れてさえいるエリザベスには分かる。ここは人の心の深層の領域であり、愚者の怪物が時々現れて月に手を伸ばす、神秘のプラネタリウムだ。

 

「私は……敗れたのですね。では……」

 

 有里との二年ぶりの、二度目の手合わせは終わった。エリザベスの完敗である。しかし死んではいない。有里が最後に放った神の兄弟の合体技は、死と眠りのいずれかを与えるものだ。魔王のペルソナに闇の力は効かないので、エリザベスは眠らされたわけだ。

 

 機械以上の永劫の時を許されているはずの自分の生が、終わらされることも覚悟していたつもりだった。しかし終わらなかった。ならば今は分からなくなったが、昔は望んでいたはずの『答え』を得られるはずである。しかし──

 

『君は人間だよ』

 

 虚無の空間に響いた声は、二重の意味で意外だった。

 

「これは……内なる声ではありません。あの方の声……」

 

 ベルベットルームの住人は力で自らを上回る存在が現れた時、自分が何者であるかの答えを得られると言う。しかしそれは内なる声が告げるはずであるのに、どういうわけか有里の声で告げられた。しかも答えの内容は納得しがたいものだった。

 

「一体、何の冗談でございましょう。私が……人間?」

 

 人間という言葉が持つ意味は広い。機械であれシャドウであれ、神でさえも『人間だ』と言うことはできる。『人間でない』と言うことができるのと同じように。そんな言いがかりのような答えに眉を顰めていると、答えの裏付けがやって来た。

 

 ──

 

 銃でガラスを撃ち抜いたような音が中空から発せられ、割れた空間から零れ落ちるようにして、光を放つものがエリザベスの眼前に舞い降りてきた。一枚のタロットカードである。

 

「これは……彼に与えられたもの? それとも……私の内から生じたもの?」

 

 蝶が羽ばたくように揺らめくそれは有里やアイギスと、そして悠を表すカードと同じものだった。タロットのゼロ番目のカード、愚者である。それが頭を下にした状態で手元に落ちてきた。カードは傷を負った左手が触れる寸前で弾け、光になって体に染み込んだ。

 

「愚者の逆位置……」

 

 愚者のアルカナの逆位置の意味は、逃避、無責任、愚行だ。昨年の4月に悠が八十稲羽を初めて訪れた時、ベルベットルームでマーガレットが占って出たカードだ。それに対するイゴールの解説は──

 

「そうですか……私は当てのない放浪者だと仰るのですね。ふふ……これまた何という面白い冗談」

 

 エリザベスは何をするべきなのか、何を目指すべきなのか。結局のところ、有里はそれを教えることはなかった。それでは『自分は何者か』との問いの答えを与えたことにはならない。ただ最初の一歩を踏み出すよう促すこと、それだけはした。諸岡が悠にしたように。

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