ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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虚無の影(2012/5/6)

 悠は深く沈んでいた。P-1クライマックスで敗れた本物は象徴化して、塔の地下まで沈んで墓場送りになる。しかしそれとは違う意味で、自分自身の心の深くに沈潜した。

 

 それは夢を見るのと少し似ていた。

 

 

 時計の神殿。奈落への入口。かつて存在した影時間に聳えていた異形の塔のエントランスホール。その一部はギリシャの神殿のような装いである。ドーリア式の太い円柱が立ち並び、青いカーペットが敷かれた階段が備え付けられている。階段の先には巨大な時計が掲げられている。異界の時を測るその時計が、月光館学園が変貌した奈落と呼ばれた塔の入口だった。そして八十神高校が変貌した、火の神を祀る塔も同様だった。

 

 タルタロスのエントランス、正しくはそれを模した空間に十数人の男女が集まっていた。その多くは若い少年少女で、年齢不詳の着ぐるみが一人、そして四十歳くらいの男が一人いた。悠は部屋の隅で彼らを眺めていた。自分自身が何をしているのかは分かっていない。自分はそこにいるはずなのだが、自分の手足が見えずその他の感覚もなく、自分の体がそこにあることを認識できないでいた。ただ純粋な視線そのものと化している。人は夢の中で、時々こういう状態になる。

 

 悠は映画を見るように、純粋な視界をしばらく漫然と眺めていたが、やがてそこに誰がいるのか改めて見てみた。特別捜査隊とシャドウワーカー稲羽支部の面々だった。信仰(コミュニティ)で結ばれていた者たちである。ただし足立はおらず、有里もいない。ここにいるのは、言わば並の絆の担い手たちだ。その全員が画面の側に、つまり悠の側に顔を向けている。

 

 そして並でない絆の担い手が一人いた。緑のミリタリー風のシャツを着て、八十神高校の制服の上着を腰に巻いた『人物』だ。大勢の側に向き合って対峙している。画面に背を向けているので、つまり悠に顔を見せていないので、皆月とミナヅキのどちらなのかは分からない。そのはずなのだが、『なぜか』悠はそれがミナヅキだと分かった。

 

 なぜだろうか。死神のコミュニティがあるからだろうか──

 

 悠が自分自身の認識について不思議に思っているうちに、夢のような映像は動き出した。ミナヅキは腰に差した二本の刀を抜いた。滑らかな達人の動きで、一切の隙がないことが背中からでも分かる。そしてその背中が動いた。

 

「コンゴウリキシ!」

 

 大勢の側は最初に堂島が応じた。忿怒尊のペルソナが召喚され、堂島自身も警棒を振りかざしてミナヅキを叩き伏せようとする。しかしミナヅキは一合も交えず、右の刀の一振りで堂島を斬り捨てた。

 

(叔父さん……? いや、叔父さんはもうとっくに……)

 

 父のような叔父が斬られる様を見た悠の反応は乏しかった。ミナヅキの斬撃は、現実感を持てないほどの一瞬の早業だったせいもあるが、それ以上にエントランスに堂島がいることに現実感を持てなかった。

 

「タケミカヅチ!」

 

 続いて完二がペルソナを召喚し、ミナヅキに向けて突撃させた。巨体を誇るペルソナは体当たりを食らわせようとするが、ミナヅキは左の刀を一閃させるやそれも斬り捨てた。次の瞬間、ミナヅキはどこからか取り出したサバイバルナイフを投げつけた。電光の速さで飛翔したそれは完二を貫いた。

 

「コノハナサクヤ!」

 

「トモエ!」

 

 続いて雪子と千枝もペルソナを召喚し、各々火炎を放ち、長柄を振り回す。しかしやはりミナヅキには通じない。炎の弾丸を刀で両断し、女武者を長柄ごと斬り飛ばす。そして使用者の二人に肉薄するや、左右の刀でまとめて斬った。エントランスでやった時は同時ではなかったはずが、このエントランスでは同時だった。

 

(ん? 同時? 別々?)

 

 以前に見た光景と今見ている光景が、重なるようで重ならない。同じ点と違う点が各々気になって、悠の意識はあちらこちらへ巡り始める。過去の記憶と眼前の『映像』が頭の中で混ざってしまい、悠は戸惑っていた。

 

「スクナヒコナ!」

 

「シロウサギ!」

 

「エビス!」

 

「コトシロヌシ!」

 

「キサガイヒメ!」

 

 悠が理解できずにいる間にも、絆で結ばれた人たちは次々と斬られていく。特捜隊と稲羽支部は各々ペルソナを召喚して立ち向かうが、いずれもミナヅキの相手にはならない。全て刀で斬られ、投げナイフで刺され、蹴りでやられる。

 

(ミナヅキ……だよな)

 

 ただしミナヅキはツキヨミを召喚せず、皆月のように刀と自分の肉体だけで戦っている。だがそれでもやはり、この二刀流の剣士はミナヅキであるとの確信は揺らがない。なぜだろうか。かつて存在したタルタロスのエントランスそっくりであるというこの場所で、ミナヅキ一人が多勢を相手に圧倒したのを、自分の目で見たからか。いや、あれはこの塔に突入して割とすぐの頃の出来事で、自分はその後の堂島宅の仏間や天城屋旅館の駐車場での戦いを経ている。ではなぜ今、エントランスの戦いが目の前で行われているのか?

 

(ん? 駐車場? あれは……そうだ。マリーを……)

 

 まるで眼前の事態から目を背けるように、別のことに意識が向いた。すると──

 

『寝ぼけないで!』

 

 意識したその当の人の声で、悠は少しだけ我に返った。何が何だか分からないが、仲間と友人たちが次々と斬られている。これはまずい事態だ。既に死体の山ができあがっている。

 

(ん? 死体?)

 

 幻聴のようなマリーの声を聞いても、悠はまだ正気に戻っていない。今度は斬られた人たちがどうなったかが、急に気になってしまった。しかし象徴化の棺桶はない。かと言って床に転がる死体もない。斬られた人たちは、斬られた途端に消えていくようだった。まるで夢か幻のように。

 

(夢? いや……!)

 

 この殺戮劇は夢ではないかと、悠はその可能性に初めて思い至った。しかし直後に否定する。現実ではないが、夢でもない。ではそれは何かと考えようとした途端、少女と少年の高い声で呼ばれたペルソナ呼称によって眼前の光景に意識を向けさせられた。

 

「ヒミコ!」

 

「キントキドウジ!」

 

 りせとクマがペルソナごと斬られるところだった。十二人中、十一人がやられた。ここまであっという間である。寝ぼけている間に、殺戮は佳境まで進んでしまった。残っているのは相棒だけだ。

 

(陽介……!)

 

 悠は期待を抱いた。特撮ヒーロー番組で戦隊のメンバーたちが次々とやられていく中で唯一残った、しかも視聴者としての自分がこいつはいいぞと周囲に推薦したくなるキャラクターに、逆転勝利の期待を寄せるように。陽介なら何とかしてくれるはず。何が起きたのか知らないが今夜になって突然新たなペルソナを得て、自分と並ぶほどの力を得た陽介ならば。テセウスという名の、イザナギと縁もゆかりもないペルソナならば──

 

「ジライヤ!」

 

 しかし陽介が召喚したのは、アリアドネの恋人でアルゴナウタイの一人としてオルフェウスとの縁もある、アテナイの王子ではなかった。もう遥か昔のように思える昨年4月、テレビの中のコニシ酒店で悠が叩きのめしたカエルの怪物がペルソナに変じたものだった。

 

 これはいけない。ジライヤではミナヅキに敵うはずがない。眼前の事態は現実ではないが現実であるように、悠は初めて感じた。と言うより現実であるように『演じて』、ミナヅキの背中に向けて叫んだ。

 

「やめろ!」

 

 テレビに映った主観映像の視聴者に過ぎなかった悠は、その場に現れることができた。声を出すと同時に、白と黒の市松模様が描かれたエントランスの床に立っている自分を発見した。

 

「……」

 

 しかしミナヅキは振り返らず、無言のままに陽介に向けて駆けた。一瞬で間合いが詰まる。速度に優れるはずの陽介はミナヅキの動きにろくに反応できず、刀の一振りで斬られた。あっさりと、呆気なく。テレビ番組で言えば、陽介は主役を食うほどの活躍を見せる重要なキャラクターではなく、間抜けな引き立て役に過ぎないようにやられた。ゲームで言えば、フィールドでエンカウントするただの敵のように。特捜隊の現実で言えば、その辺をうろつくシャドウのように倒されると姿が消えて見えなくなった。

 

「クソッ……! 何てことを!」

 

「何がだ。やったのはお前だろう」

 

 そしてミナヅキは初めて口をきいた。しかしその声はミナヅキのものではなかった。もちろん皆月でもない。あの二人は口調が違うが声は同じだ。

 

「何……?」

 

 ミナヅキは背を向けたまま、自分の足元を刀で指し示した。よく見ると、陽介がいたその場所に何かが落ちている。絆創膏だ。剣で斬られたように、真っ二つになっている。

 

「!?」

 

 驚いて床をよく見てみると、他にも色々なものが落ちていた。眼鏡拭きにサイン入りの写真、演劇の台本やバスケのルールブック、コーヒーカップその他諸々である。そのいずれもが斬られたり穴が空いたりしている。ミナヅキの言う通りだった。剣で絆を斬ったのは、他の誰でもなく悠である。では仲間と友人を次々と斬り捨てた『ミナヅキ』は──

 

 死の絆の担い手が振り返ると、その顔は鏡になっていた。

 

「自分が何をしたか、分かったか。そして俺が誰なのか」

 

 瞳の色以外は悠と同じ顔の少年がそこにいた。ただし武器と服装はミナヅキのものだ。

 

 これは夢ではない。しかし普通の現実でもない。これはテレビの中にペルソナ使いでない人間が入った時に発生する現象だ。つまりその人の『現実』が目に見える形で立ち現れる。そしてシャドウが出る。

 

「お前は……俺の!?」

 

 ここにいるのは悠の偽物ではない。今夜いくつも現れた偽物たちはその辺のシャドウをこねて作った、本体と縁のない存在だ。しかしこれは違う。本体と極めて縁の深い、本体そのものと言っても過言ではない、双子よりもずっと近い者。霧の鏡に映った像だ。服装は違うが、それは関係ない。服を着替えても本人が本人であることに何の変わりもないし、昨年はそういう例がいくつもあった。

 

 悠自身から生まれた本物のシャドウである。何度テレビに入っても出なかったそれが、とうとう出た。

 

「そうだ。俺はお前だ。だが俺には何もない。空っぽの人間……それがお前だ」

 

 そしてシャドウは本体を詰る。足立の夢に現れた希望の影はそうしなかったが、あれは例外だ。悠の影は違う。金色に光る瞳で悠を非難する。

 

「お前は何もできなかった。先生の仇は取れず、生田目は止められず、足立は救えず、マリーは死なせた。そして陽介にも負けた」

 

 悠は昨年から負けが込んでいる。本体と同じことを知っているシャドウは、当然それを知っている。自分自身に隠せることなどない。

 

「陽介は凄い奴だ。あいつは小西先輩を忘れられずにいて、それでも前を向いている。愛する人も見つけた。人じゃないが、それでも構わずに愛している」

 

 悠は陽介がラビリスを口説き落としたシーンを見ていないので、陽介についてのシャドウの話は理解しきれない。だがそれは置いておく。陽介が凄いことは悠には分かっている。

 

「マリーを愛せなかった、お前とは大違いだ」

 

 しかしこれは聞き捨てならない。

 

「違う! 俺はあの日……」

 

 悠はマリーを愛していないとシャドウは言う。それは正しいか。シャドウは全般的に言い方が悪く解釈が過激であるだけで、言っていること自体は正しく、事実に基づいているのが常だ。では悠の何がマリーへの気持ちを表しているか。どんな事実に基づいているか。

 

「分かっているはずだ。マリーは虚ろの森で死んだんだ。お前に見捨てられてな」

 

 見捨てた。神話のイザナギがイザナミを見捨てたように、悠はマリーを見捨てた。それは正しいか。

 

「……」

 

 悠は反論をやめた。自分の口が動いて何か言おうとするのを唇を噛んで制した。アイギスが『有里』の言いがかりを必死に否定したのとは対照的に。

 

「お前はもう、誰も愛していない。小沢も海老原も。里中や天城やりせ、直斗なんかは言うまでもない。菜々子さえ、お前は愛していない」

 

 悠が黙っている間に、シャドウは話を続ける。ただその言い方に感情は込められていない。足立の影のように優しくはないが、特捜隊の仲間たちの影のように感情的でもない。機械か人でなしか、心の質量を持たない数字のゼロのような人間の無感情だ。昨年7月に自首して保護室で堂島に吠えていた、久保美津雄とは対照的に。

 

「そして有里にも負けた。特別な人がいて子供もいる、豊かに満たされた世界に生きる男にお前は負けた」

 

 豊かに満たされた世界。それが有里を表すアルカナだとすれば、悠は何か──

 

「……」

 

「だがお前は何も感じていない。この戦い、お前は始めから勝つ気なんかないんだ。お前は死に場所を探しているだけなんだから」

 

 シャドウが話して悠が黙っているうちに、景色が変わり始めた。斬られた絆創膏を始めとする絆の残骸は消え、それと共に幾何学的な模様が描かれた床も消えた。柱も階段も時計扉も消えた。

 

「何一つ上手くいかないこの世界……。上手くやっていける奴は才能ってチケットを持っているが、お前にそんな才能はない。お前は嘘で塗り固めた絆しかすがるものがない。それでいながら皆の信仰を受け入れることもできない。お前はこんな世界、認めていない。お前はただ死にたいだけだ」

 

 消えた奈落への入口に代わって、ゲームのダンジョンのような景色が立ち現れた。床は一見すると土のような、と言うより土のつもりでいるのだろうが、表現が簡易的過ぎてただの茶色い板のようになっている。壁は床より濃い茶色のレンガ造りで、数メートルの高さがある。時々色の薄いものが混ざっていてそれがアクセントになっているが、レンガ自体は画一的なものだ。その為、本物の壁ではなく張りぼてか絵のように見える。そして天井はただの黒一色だ。部屋全体の形は円形で、闘技場を思わせなくもない。

 

 まさにゲームのダンジョンで、ボスキャラが待ち構えている最奥の部屋という装いだ。ただし二十一世紀の現在に開発されているゲームのように、映像美を誇る凝ったものではない。堂島が悠くらいの年齢の頃に流行した、一昔以上前のレトロなゲームだ。堂島の世代なら懐かしさを感じ、悠の世代なら退屈さを、オブラートに包んで言えば古拙の味わいと呼ぶべきものを感じるだろう。ゲームという言葉自体から連想されるものであり過ぎる、典型的で無個性的な景色である。

 

 こんな場所を生み出す者は、何と呼ばれるか。

 

「お前は、無だ。お前こそが虚無だ」

 

 虚無(ボイド)。宇宙的な虚無。絶対の孤独。即ち世界の裏、宇宙のアルカナ。それが悠──

 

「……」

 

 悠は答えなかった。そしてシャドウは自ら発した黒い煙に包まれた。悠に否定される前に、姿を変えた。

 

「俺は……影」

 

 本体から現れた本物のシャドウは、本体の願望やコンプレックスをデフォルメした形で現れる。大体の場合において、肥大した自我そのもののように見上げるような巨体になる。そうして登場した怪物たちを、悠は昨年仲間の数だけ倒してきた。しかし今現れた『自分自身』は、とても小さな姿だった。

 

 宙に浮かぶ赤子である。悠自身のように、3月に霧の源泉で見た女神の真の姿のように小さかった。赤子らしく体全体に比較して大きな頭の周りに、黄色く光る何かの文字めいたものが浮かんでいる。悠は思わず手を握ると、そこに重さを感じた。

 

「ん?」

 

 今さらながら、悠は自分が長剣を持っていることに気付いた。特捜隊の今までのやり方であれば、これを振り上げて斬りつけて、現れたシャドウを叩き伏せてやるところである。しかし──

 

「……メサイア」

 

 一声呼んでもペルソナは出てこなかった。悠の頭上にはゲームの世界の漆黒があるばかりで、光も影も何も出てこない。それは赤子の姿に変じたこの存在が、他でもない『自分自身』であることを証明していた。

 

「……」

 

 自分の血で汚れた手を開き、重たい剣を床に捨てた。この赤子と戦ってはならないと、本能的に感じた。

 

 ──

 

 武装解除した直後、赤子が吠えた。いや、泣いたと言うべきか。泣き声に合わせて頭の周りの文字が動き、呪文が読み上げられたように明滅し、そして力の波動が放たれた。あらゆる敵を等しく薙ぎ払う万能魔法だ。

 

「ぐっ……!」

 

 容赦のない一撃をまともに食らい、悠は仰向けに倒れた。

 

(俺は……)

 

 天井の何もない黒を見上げながら、悠は考える。仲間のいない所で自分のシャドウと出会えばどうなるか。普通に考えれば自分のシャドウに殺されるだけだ。山野と早紀がそうであったように。しかしそれは果たして『死』だろうか。一種の生まれ変わりを意味するのではないかと、悠は漠然と感じていた。何一つ上手くいかないこの人生を、やり直すことにならないか──

 

(ん? 待て。ラビリスは……)

 

 グランプリの決勝でラビリスがアステリオスに飲み込まれたシーンが、唐突に思い出された。あれは殺すと言うより、『食う』とでも言うべきやり方だった。もしや山野と早紀のシャドウもそうしたのだろうか。ならば早紀を『食べた』早紀を、尚紀は早紀と認めたことになり、そしてその認知は正しかった。ではラビリスも同じか──

 

(まさか陽介が見つけた愛する人って……そうすると……)

 

「オオオ……グアアア!」

 

 悠が考え事をしている間に、悠のシャドウは唸り声を上げた。赤子らしからぬ獣のような声だと思って身を起こして見てみれば、本当に獣が現れようとしていた。小さな赤子の手は黒く変色して長く伸び、床に手をつく。顔も大きく変わる。目が巨大な赤く光る球体になり、額が後退する。耳は長く伸びて、巨大な歯を剥き出しにする。ただし歯の形は牙ではなく、人間の歯だ。そして手と同じように足も黒くなって伸びる。胴体は見る見るうちに巨大化し、円形の広場のようなこの空間を満たしてしまいそうだ。

 

(黒い犬……じゃないな。やっぱり人間の赤ん坊だ。二人が繋がってるみたいだが……)

 

 両手両足を床につく姿は獣のようであるが、この体勢は赤子のそれでもある。赤子とは人生の始まりであり、タロットで言えば愚者がそれに相当する。自分のシャドウが変身する姿としては、これ以上相応しいものはないかもしれない。

 

 やがて膨らんだ愚者の怪物の体がレンガの壁に当たると、張りぼてのような壁は壊れた。虚無(ボイド)に生まれた『ラスボス』の部屋は脆くも崩れ、外の景色が露わになった。それはまさに虚無の空間、遠くに星が瞬く宇宙のような光景だった。四つ足で這う幽冥の赤子は、神秘のプラネタリウムに手をついてにじり寄って来る。

 

「……」

 

 赤子(エレボス)は口を開けて覆いかぶさってきた。霧の日の獣害事件に現れる害獣よりも遥かに大きいそれは、獲物の喉笛を食いちぎる必要はない。人間など飴玉と同じで、ひと飲みにできる。視界を覆いつくす巨大な怪物に飲み込まれるとは悪夢にありそうなシチュエーションだが、悠は抵抗しなかった。

 

 ──

 

 自分自身が投影された存在、即ち自分のシャドウに自分が飲み込まれた。飲み込まれて行く先は、自分自身の腹の中である。まさに自分の尾を食う蛇が暗示する、永劫の輪の中だ。

 

 

「……そういうことか」

 

 虚無の影たる自分自身に食べられた悠は、自分の『体内』で目を覚ました。梅のような白い花びらが頭上から無数に舞い降りてきて、足元も覆っている。黒い宇宙とは対照的な白い空間だ。ただし虚無である点は宇宙と同じである。

 

 ここは死んだ神を埋葬する墓、虚ろの森だ。

 

 忌むべき2月12日、マリーの死によってこの空間は失われた。テレビの中からでも探し出せない、二度と行くことのできない場所だった。しかし忌み嫌い過ぎていた為か、ここに通じる道は実は自分の一番身近なところにあったことに、今まで気付かなかった。つまり自分の体の中だ。

 

「……」

 

 2月に来た時はジュネスや総菜屋の看板、学校の門柱に高台のベンチなど八十稲羽で見られる日常の景色が、白い無の中に見えていた。しかし今はそれもなくなっている。悠は花びらが敷き詰められた道に立っているが、右を見ても左を見ても道以外には何もない。霧に覆われて見えなくなっているのではなく、本当に何もないのだ。テレビの中のスタジオからダンジョンまでの間のような無の空間だ。

 

 時が巻き戻ったような白い参道を、悠は一人で歩いた。武器は持っておらず、手ぶらである。剣は虚無の闘技場に捨ててきた。

 

 途中でシャドウに妨害されることはなく、自分や他の誰かの声がどこからか聞こえてくることもなかった。ただ花びらが舞う沈黙の世界を歩き続けているうちに、神秘の森の奥まで辿り着いた。卵型のドームのような建造物だ。いや、卵と言うよりも──

 

(まさに古墳か)

 

 改めて見てみると、初めてここを訪れた時とは違う感慨が湧いてくる。マリーがここで死のうとするのを認めなかった為に、当時はこの建物から古代の墳墓を連想することを無意識的に抑圧していた。だが今はこの形が腑に落ちた。絶望を通り抜けて、ありのままに受け入れることができるようになった。どこからか掘り出した土を盛ったのか、元からあった大岩や小山に穴を掘ったのかは分からないが、とにかくこれは古墳の墳丘である。

 

 参道から繋がる入口は以前と変わらず開いていて、閉ざす扉はなかった。開放された石室に、悠はそのまま足を踏み入れた。内部はやはり以前と同じで、外側の大きさに比較して小さな空間で、奥に祭壇と石棺が置かれている。どこからどう見ても墓である。

 

 そして祭壇の前に膝をついている一柱の女神がいた。赤いストールを羽織った背を、悠の側に向けている。両手は一見すると祈るように合わされているように見えるが、そうではなくて顔を覆っている。兜をかぶっているような頭の側面から指が一部見えているので、それと分かる。

 

(マリー……いや……)

 

 悠は背を向ける女の名前を呼ぼうとして、一旦やめた。一つの存在に呼び名が複数あることは、普通にあり得る。人間でも名字と下の名前があり、人によっては仇名や芸名もある。神やそれに類する超常の存在ならなおさらだ。経典に記されて広く知られる通称や役職名から、信者が呼ぶ愛称、隠された真の名まで色々ある。

 

「クスミノオオカミ」

 

 マリー自身がそれが自分の名であると告げた名でもって、悠は呼びかけた。すると女神は肩をびくっと震わせた。まるで悠が来たことに今気付いたように。或いはとうに気付いていたのに目を背けて、そこにいないものと思い込もうとしていたのに、声をかけられたことで男がそこにいることを意識せざるを得なくなったように。

 

「……」

 

 しかし女神は返事をしなかった。ただ顔を覆う手の指が震え始めた。

 

「他の名前で呼んだ方がいいか?」

 

「……」

 

 名前は存在を縛る最も古い呪術である。名前を聞かれて名乗れば、または名前を呼ばれて応じれば、それは『契約』の証明にもなる。しかし女神はやはり答えなかった。ただ震えが大きくなった。指だけでなく肩が震え、膝も胴体も震え出した。まるで怯えているように。

 

 神が恐れる者。それは──

 

「……」

 

 女神は悠を無視しようとしているが、それは上辺だけで実際はできていない。女神の様子から悠はそう判断した。こういう態度を取る相手には押すだけでなく、敢えて深追いしないで身を引くのも一つのやり方だ。と言うより、世間ではそれが正解だろう。

 

 しかし諦めの悪い悠は、そっとしておきはしない。話しかけても答えないなら行動で示す。祭壇まで歩み、祈るように怯える女神の左隣に立つ。

 

(そう言えば……)

 

 女神と並び立つ悠は、ふと昔のことを思い出した。マリーの詩を初めて読んだ昨年5月20日、悠は今のようにマリーと並んで辰姫神社に身を置いた。あの日はしばらくの間、何をするでもなくただ傍にいた。やがて神典の序文を書いた便箋を貰い、そして互いが何者か探そうと『契約』したのだった。

 

 今はあの時のように、いやあの時以上に世界でたった二人だけでいる。孤独を分け合うように、悠は女神の左の肩に右手を置いた。

 

「!……」

 

 女神はまた震えた。しかし逃げ出しはしない。女神は赤いストールの他は、黒のインナーらしき服で全身を覆い、その上から白い鱗のような鎧を着ている。頭は全体を包む仮面で隠されており、その上から更に手で顔を覆っている。これでもかと言うほど顔も体も隠しているわけだが、それでも悠は手に熱を感じた。いくら拒んでも触れられれば相手に伝わる、生き物の熱である。

 

 悠は祭壇に置かれた石棺に目をやった。そこには誰も入っていなかった。

 

「どうして……」

 

 ここまでやって、ようやく女神は口をきいた。ただし言うことは恨み言だ。

 

「どうしてそっとしておいてくれない! 霧の中にこそ平和と安息があるというのに!」

 

 もし有里がここにいれば、身につまされるものを感じただろう。マーガレットに言わせると『世界の果てから帰ってきた男』は、かつて永劫の苦痛と絶望を味わったことがあるのだ。世界を救うという『ゴミクズみたいな自己満足』と引き換えに、究極の不条理を背負わされた。その結果、辛い記憶を手放した。苦しみから目を逸らしたのだ。それを愚かであると笑えるだろうか?

 

「……」

 

 悠は笑わない。だから女神の嘆きにそれは違うと理屈で反論するような、無駄でしかも無粋なことはしない。肩に手を置いたまま、嘆く女に更に一歩近づく。

 

 千の言葉よりも一つの行動。神社で『契約』したあの日、マーガレットはそう言っていた。しかしただ『単に』相手に寄り添うことは行動ではないとするならば、あの日の悠は実は何もしていなかったことになる。だが今は違う。祭壇に膝をつき、両手を相手の肩に回して抱き締めた。

 

「死ぬ時は一緒だ」

 

 悠は命を懸けて寄り添った。ここまでやれば、千の言葉よりも雄弁なはずだ。

 

「私はもう……死んでいる」

 

「いや……君は俺の中で生きている」

 

 心の中で生きているとは思い出を忘れずにいるという意味で、本人はやはり死んでいる。故人を覚えているからと言って、生きているのと同じことには、やはりならないのだ。しかし悠が言っているのは、そういう意味ではない。神は死んだと言う者に対して、そうではないと答える意味だ。

 

 これは一つの『契約』だった。人と人ではなく、神と人の契約である。または神と神の契約だ。

 

「私は……」

 

 虚無の中で生きていたクスミノオオカミは、顔から手を離した。すると光が溢れた。

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