ワイルドの力を持つ者は絆を集め、それを力の源にする。担い手の側も力の恩恵を受けることもある。ただし誰との間に絆を結ぶか、主であるワイルドに選ぶ権利はない。もちろん担い手の側にもない。選ぶのは『我』だ。その『我』は突き詰めればワイルド自身であるのだが、とにかく誰と絆を結ぶかを意識的に選ぶことはできない。普通の人付き合いでは友達を選べるのと違って。
昨年の悠は諸岡との間にコミュニティが発生することを期待していたが、結局発生しなかった。また夏休みに病院で何度か見かけた老婦人、ひさ乃との間に期待したこともあったが、そちらもなかった。『本来あるべき』死の絆の担い手は早いうちに八十稲羽を去ってしまい、それに代わる担い手になったのはミナヅキだった。悠はミナヅキを担い手として選んだつもりはなかったのに、そうなってしまった。それは結果的に皆月とミナヅキを大幅に強化させてしまい、今夜の戦いを困難にした。
そして死の絆は地下闘技場の戦いにある意味を与えた。
「マガツ! 走れ!」
長柄を下に構えて吶喊するペルソナと並んで、悠は姿勢を低くして滑り込むようにして足を払いに行く。床に触れそうなペルソナの刃は電光を発しており、悠自身の斬撃と合わさって、まともに当たれば転ばされるくらいでは済まないだろう。両足を切り落とされかねない攻撃は、皆月の背に走るものを感じさせる。
しかし皆月は逃げることなど考えもしない。ただ消えた。
「!」
皆月は悠の眼前で、唐突にいなくなった。跳躍して下段の攻撃をかわしたのではない。もちろん勝負から逃げたのでもない。これはミナヅキがエントランスで何度かやっていた、瞬間移動の術だ。悠は背後に何かを感じ、上へ跳躍した。次の瞬間、元いた場所を斬撃が襲った。
「ちっ!」
空中にいる悠に向けて、皆月は追いかけるように跳躍しつつ切り上げてきた。対する悠は顕現したままのマガツイザナギを踏み台にして、陽介のような空中機動をやってみせた。長剣を肩に担ぐようにして構え、突進の勢いをつけて突き刺す。グランプリの一回戦で堂島を倒した跳び斬りを、空中で放った。
「ぬっ!」
皆月は切り上げを中断し、首を捻って悠の剣を回避した。しかしかわし切れず、右の眉の上を掠めた。あと数センチずれていたら、剣が額に突き刺さって死んでいただろう。しかしやられっ放しにはしておかない。すかさず空中で刀を振り下ろし、悠の首を狙う。対する悠はマガツイザナギの矛を差し込んで防ぐ。
着地すると、皆月は額に手の甲を当てて拭った。目の上の傷から血が流れ始めており、感じる痛みも決して小さくない。しかし歯を食いしばって耐える。床を蹴り、改めて勝負を挑む。
「このクソ野郎がよ!」
「言ってろ!」
皆月が悪態を吐くのは相変わらずだ。負傷を気にしない悠に気味の悪さを感じても、それは実は恐怖と呼ばれる感情であっても、口が悪いことは変わらない。悠と違って自分が負った傷は気になるが、耐えて前に出る。悠も応じる。
剣と刀を打ち合わせ、ペルソナの長柄が衝突し、雷や闇の力が交錯する。戦いながら、悠は自分の力が増してくるのを感じていた。その一方で皆月も自分の技が鋭くなっているのを感じていた。普通はこんな激しい動きを続けていれば疲労で力も技も鈍るはずなのに、なぜこうなるのか? 悠はその答えに見当がついていた。そしてその答えに苛立つ。
(死神のコミュだな……!)
戦うことで進むコミュニティというものは存在しうる。昨年に悠が築いた絆の中にそういうものはなかったが、有里はあった。今は次男として生まれ変わった男が担っていた、運命のコミュニティがそれだ。そして皆月はミナヅキからペルソナと共にコミュニティも受け継いでいることに、悠は確信を持った。結ばれた絆そのものが、主と担い手の両方に力を与えている。まるで戦う二人をどちらも煽るように、戦争の当事国両方を支援するように。死の絆は他と異なる。
ただし他の絆と同じ点もある。コミュニティは神への信仰に通じる。今は亡き恩師が悠に教えてくれた通り、信仰とは畏れと祟りにその本質を置く。
(こいつは俺が嫌いだって言うが……!)
信仰の形は人それぞれだ。ある人は畏れるから祈りを捧げ、祟りを遠ざける。畏れはやがて愛へと変わり、ますます信じるようになる。またある人は畏れるから、その畏れ自体に挑むようになる。
畏れは
悠の信者たちは誰もが悠を愛していた。陽介を始めとして千枝も雪子も、完二もりせも直斗もそうだ。クマはその中で最も深く悠を信じ、愛していた。一条も長瀬も結実も、あいも、堂島と菜々子もそうだった。彼らは各々のアルカナに象徴される絆を育む中で自分自身の仮面を自ら剥がし、その下にあるものを悠に見せてきた。その一方で、悠の仮面の下を見ようとはしなかった。彼らは禁忌を課されたからだ。
『神に隠してはならない』
『神を見てはならない』
そして彼らは一年の間、それを守り続けた。ただし足立と有里は例外だった。彼らは自分の内面を悠に見せてはきたが、それ以上に悠の本性を暴いた。なぜならあの二人は、悠と同じか裏のアルカナを持っているから。つまり彼ら二人は悠と『同格』で、そもそも信者ではない。
そしてミナヅキも例外だった。タロットの解釈に倣うように、死神の絆は『別格』だ。もちろん皆月も。
「こんの、死にたがりが! 死にてえんなら、大人しくくたばりやがれ!」
「そうはいくか!」
皆月は左の刀で悠の首を狙い、悠は長剣で受ける。すかさず右の刀で足を狙うと、悠は踏み込んでくる。それを読んでいた皆月はツキヨミを召喚し、長柄で悠の顔を突き刺そうとする。悠はそれを首を捻ってかわし、髪が数本切れて床に落ちる。
皆月は神に挑戦する反逆者だ。見るなのタブーを乗り越えて、神へと刀を突き立ててくる。
ただし諸岡が補習で注意した通り、神の否定は神について学んでからでなければなし得ない。否定する相手のことを知りもせず、ただ否定するのは思想の受け売りに過ぎない。そして皆月たちは悠のことをよく知っている。戦いを始めた当初から悠を見ていて、その栄光も挫折も、結んだ絆の本質も知っている。しかし知っていることそれ自体が、皆月たちを
反逆は死に値する罪だ。しかしその罪が罪として成立するのは、信仰の枠内にいればこそである。戦いながら増していく力が、反逆即ち禁忌に対する違犯そのものがコミュニティの内にあることを証明している。皆月は神を知らないくせに否定する、無責任で無関心な冒涜者とは違う。皆月が悠を嫌い、憎むのは実は愛の裏返しだ。
夢で悠のシャドウは悠を死を望む者と呼んだが、それは皆月も同じである。悠が皆月と死の絆を育むことは、死に向かうことに等しい。それが望みだから。だから戦うこと、即ち殺し合ってどちらも死に近づくことでコミュニティが前に進む。
そしてそれが悠には気に入らない。奥歯が削れるくらい噛み締める。コミュニティの牢獄に閉じ込められていることが、どうしようもなく腹立たしい。ではどうすればいいのか?
(俺はこいつを殺さない……殺されるわけにもいかない!)
答えは決まっている。殺すことを目的とした本物のデスマッチで、殺さず殺されずに決着をつけることだ。互いに武器を使って本気で切り結びながら、それを成し遂げる。手加減できない真剣勝負で、どうやればそんなことができるのかは分からない。剣を捨てて和解することは、取り敢えずない。ただ全力で剣を振るい、ペルソナを突撃させ、魔法を放つ。
なお、今夜最も激しいくらいの戦いをしながらも、咳はもう出なかった。
皆月からすると、痛みや恐怖は少しずつ後退し、代わって気持ちが昂ってくるのを感じていた。思い返せば不本意な戦いばかりだった。昨日以前は言うまでもなく、今夜も今一つ乗り切れなかった。自分は勝つのが好きだと思っていた。熱く激しい戦いが好きなのではなく、勝って蹂躙して、相手を苦しめてやるのが好き。それなのに、大嫌いな『死にたがりのクソ野郎』との勝負を楽しんでいる。
これが自分のやりたかったこと。現実の霧の中でシャドウを狩り、マヨナカテレビで特別捜査隊の戦いを見てから心はずっと沸き立っていた。自分の力を思う存分振るえる環境が欲しかった。即ち自分の居場所──
しかしこの男、鳴上悠の傍にいつまでもいるわけにはいかない。死んだ人間の腕の中に、生きた人間の居場所はないのだ。殺し合いは相手がいなくなるか自分がいなくなるか、二つに一つ。夢のひと時は、月齢が新月に向かうように時そのものに侵食されて失われる。
「そろそろケリつけっか。ツキヨミ!」
「マガツ! 切り刻め!」
皆月は怪人のペルソナを召喚して長柄を構えさせ、皆月自身は両手の刀を交差させる。直後、赤い半月形の波動をいくつも放つ。煉獄を飛翔する翼の技だ。これは闇の力に属するもので、今の悠が装着しているマガツイザナギには普通は効かない。しかし色々とイレギュラーな皆月は耐性の不思議を超えてしまう。不条理な力に対抗すべく、悠は禍津神を召喚して空間を切り刻む。
「おらあ!」
技が相殺された瞬間、皆月は低い姿勢で駆けて間合いに入る。左右の刀を連続して、時に同時に斬りつけて悠を押し込む。しかし膂力で勝る悠は強引に押し返し、皆月の体勢を崩す。そして悠は長剣を振りかぶり、皆月の頭を両断すべく振り下ろす。手元と足元でペルソナ使いの力が爆発する、生者と死者の国を別つ大岩をも叩き割る渾身の一撃だ。しかし皆月はもうこの技は見切っている。
「なまくらがよ!」
皆月は剣を恐れず踏み込んだ。技と手数で勝る皆月に対抗する為、負傷を恐れない悠は刀に向かって踏み込む立ち回りを既に何度もしている。そして今、初めて皆月もそうした。石割の太刀が威力を発揮する直前、息がかかる距離にまで接近した皆月の二本の刀は、下から悠の長剣の鍔元を捉えた。瞬間、皆月の足元、膝、腰、背中から肩に腕に至るまで、全身の力が残らず爆発した。その爆風に煽られて、悠は上へ弾き飛ばされた。
「決める!」
好機を逃さず皆月は追撃する。床を踏み砕くように跳躍して、空中で悠に追いつく。そして二本の刀を振り下ろした。体勢の崩れた悠には対応できない。
まず左の刀が顔面を襲った。悠は長剣で防ごうとしたが一瞬遅く、刃が額の右側から鼻梁を通って左の頬まで食い込んだ。だが左の刀は悠の剣に阻まれ、それ以上進まない。顔を両断されることはない。しかし皆月は二刀流だ。次いで右の刀が悠の左肩から胸にかけて襲った。
刀がこのまま進めば心臓は真っ二つだ。落下の勢いをつけて床に叩きつければ、二人分の体重とペルソナ使いの力が衝突の瞬間に炸裂して、両断どころでは済まない威力を発揮するだろう。大気のない月面に隕石が容赦なく落ちて月の大地を割るように、悠の肉体は粉砕される。
「うあああ!」
しかし悠は諦めない。ここで自分が死ぬことは認めない。死は恐れないが、皆月に負けて死ぬ結末は許さない。ある種の理不尽な思いが、顔の十字傷を赤く光らせる。
──
闘技場の床に叩きつけられて命が砕かれる直前、悠はガラスを割った。ただしペルソナを召喚したのではない。光ではなく、影が悠の中から溢れ出た。
「!?」
勝利まであと瞬き以下の刹那の一瞬を残すのみとなった皆月は、思わず目を見開いてしまった。大昔の闘技場めいた、占い師の女が『煉獄』と呼んだ空間の景色が急に変わったのだ。象徴化の棺桶と同じ赤と黒が溢れ出て、世界が変貌した。テレビの中のコニシ酒店の先にあった、虚無の空間が突如として出現した。
気付けば皆月は汚泥に囲まれていた。立ち上がって見上げるような高さになった泥のシャドウがいくつもいて、四方八方からアルカナの仮面の顔を向けて見下ろしてくる。それがいずれも泣き叫び、唸って吠える。怖気が走る。世界そのものが敵になったように、ひとくきの葦同然の儚い人間を押し潰して取り殺そうとする。
これは幻か、はったりか。恐怖を与えるペルソナの精神攻撃か──
いずれでもない。これはペルソナの慟哭だ。絆創膏を始めとする絆の証明を壊され、心の海に作られた部屋に鍵をかけられたように、召喚してもらうことができなくなった仮面。陽介の魔術師を始めとする絆から生まれた、悠の失われたペルソナたち。まさしく墓場に葬られた死せるペルソナたちの、もはやシャドウと呼んでもいい者たちの、亡者の嘆きである。
「……ふん!」
哀れな嘆きの声が襲うのは皆月だけではなく、悠もだ。むしろ悠をこそ襲う。
「あああ!?」
不覚にも皆月は動揺し、恐れを感じてしまった。死んだ人間が化けて出てきた幽霊を、生きた人間が恐れるように。生きたペルソナなら普通に戦えば勝てるのに、死んだシャドウの声は勝手が違った。月を粉砕する必殺の一撃は外れてしまった。
「マガツイザナギ!」
そして虚無の世界を支配する禍津神の、反撃の一閃が決まった。勝負あった。
黄泉そのもののような禍々しい空間の幻影は消え去った。時計の装飾が施された闘技場の床に、皆月は仰向けに倒れている。悠は全身傷と痣だらけで荒い息をついているが、膝はつかない。痛みは感じない。長剣を杖代わりにして立っている。
「……メサイア」
救世主のペルソナを召喚して治癒の光を立ち上げた。煉獄の勝負が始まってからずっと傷を負うに任せていたが、勝った以上は手当てすることを自分に許した。しかし違和感を覚えた。
(傷が……)
自分の手足を見下ろしてみると、傷の治りが遅かった。いつもなら瞬時に効果が出るはずの治癒の光が、体に染み込んでいかない。あちこち破けた服もそのままだ。
(そう言えば去年の生田目さんは……)
昨年11月に足立に撃たれた生田目は致命傷を負い、回復を受け付けなくなっていた。今の自分はそれと同じ状態にあるのだと察せられた。
(霧は……)
自分の喉に手を当ててみたが、勝負の最中と同様に咳が出る気配はない。しかしこのままでは、病気の前に怪我で死ぬだろう。立っていられるのが不思議なくらいだ。
「……」
喉から手を離し、自分の眉間に指を当ててみた。ここに鏡はないが、顔に傷が増えている。3月にマガツイザナギの秘技を自分で食らって負った傷と交差する形で、皆月の最後の技で刀傷を負っていた。血は止まっているが、傷は塞がっていない。聖別の印のように、絆の証明のように担い手と似た傷ができてしまった。
などと思っていると、床から声がした。
「けっ……ド素人め。ご大層な剣なんか持ちやがって、ちっともなってねえじゃねえか」
もちろん皆月だ。相変わらず口が悪い。しかし起き上がりはしない。首だけを動かして、悠と同じ創面を向けてくる。
「てめえなんか、ペルソナがなけりゃただのガキだ。一分で三回は殺せるぜ……」
「大の字で寝ながら何を言ってるんだ」
至極当然な突っ込みを入れてやると、皆月は首を元の位置に戻した。赤と黒の嵐のように踊る空を見上げ、そして体から力を抜く。長い息を吐くように、終わりを受け入れるように手を開き、二本の刀を手放す。
「まあいい、少しは楽しめた……殺せ」
煉獄の床に身を投げ出しながら、皆月は目を閉じた。霊山の頂を目前にしながら力尽きて倒れるように。思いを遂げられなかった無念さも、非力を認める諦めもそこにはない。あるのは禁忌に挑んだことそれ自体でもって、聖別の印を得られた満足感だ。
神話の時代から、人間には多くの禁忌が課されてきた。それは現代法にまでその流れを保ち続けている。つまり禁忌は法や戒律の根源なのだ。古くは王権の根拠でもあった。そして法であるから、違犯した者には罰が下る。即ち死だ。しかし──
「嫌だね」
「あ!?」
皆月は跳ね起きた。どこにそんな力が残っていたんだと突っ込みたくなるくらい、猛烈な速度で上体を起こした。ミナヅキから不死性を受け継いだ皆月は、これくらいでは死なない。
「もう俺は……皆が望む俺でいたくないんだ」
信仰は人を律し、規定し、人生をも変えるものだ。だが信仰を受ける側、即ち神も信じる者たちから影響を受けてしまう。コミュニティの担い手たちが捧げてきた愛と信頼は、悠の目を曇らせてしまった。
例えば逃亡を続ける殺人犯であっても、自分が説得すれば罪を反省して自首してくれるはずだと思い込んだり。世界の為に岩屋で自害することを選んだ、少女の決意の重さも顧みずに、意志の力で運命など変えられると思い込んだり。意地や思い込みでは使命も宿命も変えられないのに、何も理解していなかった。考えの足りない愚行の結果は、今さら言うまでもない。
「だからお前の頼みなんか、聞いてやらない」
「この……クソ野郎が。あんたの取り巻きどもはとんだ間抜けだな? 馬鹿でケチで、意気地なしの腑抜けで、おまけにやることはちぐはぐと来た。あんたみたいなサイテー野郎のどこがいいんだ。僕にはさっぱり分からない……」
酷い評価である。グランプリの放送室で陽介の偽物は悠を落ち武者と評したが、それより更に悪い。有里は妻の妹から、何の取り柄もないただの愚者だと評されたことがあるが、それと比べても一段下だ。
しかし悠は不当だと抗議はしない。
「全くだな」
悠は笑みを見せた。これは嘲笑や狂気の笑みではなく、理解者に向けるそれだ。死神のコミュニティが進んでも悪態をつく皆月に、安堵する気持ちが湧いてきた。近親憎悪の狂気は悠から去った。それと共に体が軋んだ。
「はあ……」
皆月は再び床に身を投げ出した。やれることは全てやり尽して、苦しい思いも散々に味わって、その果てにやっと得た安息に抱かれるように寝転がった。そして目を閉じた。殺されるのを待つのではなく、疲れた体の奥の方からやってきた眠気に身を委ねて目を閉じた。すると青い光が床から発せられた。
悠が驚いて目を見開くと、皆月は光の中に消えた。手から離れた刀も一緒に消えてしまった。少年がいた場所には、青い光が描く魔法陣めいた模様が一瞬だけ残ってすぐ消えた。そして拍手の音が聞こえてきた。皆月と校門前で初めて会った時のように、後ろの上の方からパチパチと手を叩く音が聞こえてきた。
「お見事……」
観客席に座るマーガレットだった。
「黄昏の羽根に宿った人格から引き継いだペルソナを、見事に使いこなしてみせたわね。あれほどの力を持つお客様は久しいわね」
お客様。マーガレットがそう言うということは──
「皆月がベルベットルームに?」
「ええ、末恐ろしい後輩の出現……と言ったところかしら?」
「さあ……どうでしょうね」
皆月がベルベットルームに出入りするようになったら、どんなことになるか。今はまだ想像はつかないが、多くの人と関係を持つことになるのだとしたら、果たしてどんなものになるやら。口の悪さと反骨心が生み出す絆はどんなものか。悠のコミュニティのように神と信者の関係か、もう少し人間的なものになるか。多分後者だと思うが。
(だけど……)
皆月の行く末に少しばかり興味が湧いたが、それを見届けることはできないだろうと思った。狂気の仮面が外れて感じ出した全身の痛みが、もう自分に残された時間は本当に少なくなったことを告げている。今夜の戦いで象徴化した者たちが手当てされずに放置された場合のように、数分もあるかどうかだ。膝でもついたら、二度と起き上がれなくなるだろう。その前に最後の仕事をしなければならない。
「さて、貴方はどうするの?」
マーガレットの声が近くに聞こえたと思ったら、いつの間にか観客席から闘技場に下りてきていた。金の瞳の魔女は左手でいつものペルソナ全書を持ち、右手の指に一枚のカードを挟んでいた。髑髏が描かれた絵柄の面を、上下逆にして悠に見せている。人生を象徴するタロットの大アルカナの分岐点に置かれた、死神のカード。逆位置では意味は再生、新生、復活だ。では何が再生するのか。
「……」
悠が黙っていると、マーガレットはカードを持った手を宙に巡らせた。そして緩やかに、だが休まずに、カードで次々と虚空を切った。逆さまの髑髏を悠に見せたまま、その上下を変えずに。すると切った空間に別のカードが現れた。いずれも表の絵柄を悠に見せている。マーガレットの所作は上下左右に斜め方向、合わせて二十回に及んだ。帰郷の日に電車の中で夢で見せられた、セフィロトの木が死神のカードで描き出された。
そしてマーガレットは中心から右下に伸びるヌンと呼ばれる線に、筆代わりのカードを差し込んだ。ただし白磁の指はまだ離していない。
「このカードは、ここの欠けた枝にちょうど収まるわ。やってみる? 以前に白い霧の世界で貴方が壊した絆……その全てが元に戻るでしょうね」
絆が戻る──
それをやったら、きっと悠はヒーローになれる。男たちは一生頭が上がらず、女たちは惚れ直すだろう。何もできなかった失意の落ち武者は、誰もが夢見る超人願望を体現した言わば『架空の人物』として皆の前に立つのだ。
ひょっとすると、もっと色々な点で今より良くなるかもしれない。例えば事件の犠牲者たちが生き返ってしまうとか。足立はエリート刑事として出世コースを歩んで、生田目は山野と結婚して議員に当選して、諸岡は生徒たちに慕われながら教鞭を取る。陽介は早紀とラビリスで両手に花で、皆月は冗談の上手い養父に連れられて八十神高校に転校してくる。そして堂島家では妻が毎日料理を作って帰りの早い夫を迎え、娘のピアノが美しい旋律を響かせる。それを笑顔で聞くのは、熊田という名字の美少年だ。
そんな理想的なまでに平和で、嘘くさいほど素晴らしい夢の世界が、ろくでもない現実に取って代わるのだ。悠の前に『再び』差し出された力は、きっとそういうこともできる。いかなる奇跡も奇跡でなくす、宇宙と等価の存在の力。世界を変える神の権能、即ち創世の権利だ。
「いや、やりませんよ」
悠は首を横に振った。皆月と少しは分かり合えた気はする。だがそれを利用したくはない。人の心を弄び、正当な評価を互いにできなくしてしまう不条理な絆は、もうたくさんだ。霧の世界と何も変わらない、誰もが幸せな夢の国など築きたくはない。
「そう、それもいいわね」
マーガレットは指を弾き、虚空に描いた生命の木を消した。それと同時にさりげなく死神のカードを持ちかえた。上下が正しい位置になった髑髏の絵を悠に見せてくる。死神のアルカナは正位置では死、破滅、終末を意味する。
「じゃあどうする? 例えば……時間を三ヶ月くらい戻してみる? もちろん一年でもいいわよ」
(う……)
この誘惑は効いた。激動の高校二年生をもう一度やり直す。それは魅力的な提案だ。今の力を持ったまま過去に戻ればどうなるか。いや、力は最初の状態に戻っても構わない。記憶と精神だけでも今のままなら、この一年の間にしでかした数々の失敗を取り返せるはずだ。虚ろの森のあれさえも。
「……いいえ」
しかし悠は首を再び横に振った。気持ちは少しばかり、いや相当に揺らいだ。しかし堂島からもう大人だろうと言われた高校三年生の男は、世の人々の大半が逃れ難い過去への未練を断ち切った。たとえ三ヶ月前に戻って虚ろの森に再挑戦しても、きっと同じ失敗を繰り返すか、また別の失敗をするだけだ。一年前に戻ったなら細部はこの一年と違う経過を辿るかもしれないが、大きな流れはきっと変わらない。
悠がやらなければならないことは、残り僅かな未来にある。
「それより頼みがあります。俺を塔の頂上に送ってください」
「あら、彼の頼みは断ったのに私には頼むの?」
「済みませんが、頼まれてください。これは俺からじゃなくて、貴女が妹のように世話してきたあの子からの頼みだと思ってください」
あの子。今夜の戦いが始まる時、マーガレットは『妹たちにとっても、今夜が決着の時』と言った。その『妹』が誰のことなのか、悠はようやく理解した。
「ふふ……そうね。あの子はそう願っているかもね」
マーガレットは目を細めた。ベルベットルームの住人は基本的に、契約者の頼み事をただで引き受けることはない。しかしこの時、人外の『姉』は人間のような気持ちになっていた。普通の人間の姉が、妹や妹の彼氏の頼みを不承不承、または頼りにされたことを密かに嬉しく思って無償で望みを叶えてやるように、『妹』の願いに応じる気になった。