感極まったような声が上の方で発せられたのを、塔の頂上の床に立つ有里たちも聞いた。しかし視界は晴れないままだった。赤い霧を飲み込んだ白い霧は、依然として天に最も近いこの場所を包み込んでいる。上も横も何も見えない。ただ悠が召喚したと思われる赤黒い巨大な枯れた花の根元の部分が、やや朧に見えるだけだ。
「悠……やったのか?」
「うん……何かそんな感じするね」
陽介の呟きに足立が応じた。二人とも情報系の能力を持たず、あっても役に立たなさそうな濃度の霧の中に身を置いているが、事態が収束したことを肌で感じた。理屈も願望も超えたところで、確信を得られた。ただし悠はイザナミと呼んだペルソナにしては巨大すぎるビジョンに持ち上げられたまま、下りてこない。
「結局、俺は前座止まりか」
陽介は最後の敵を斬ることのできなかった短剣を懐にしまい、腕を組んだ。終幕で自分の出番がなかったことに、少しばかりの悔しさを感じた。
「十分じゃないの? トーナメントだったらベスト4進出ってとこでしょ。カッコはついてるよ」
一方で足立にそういう感慨はない。最後の一発を撃つ機会がなかった拳銃をベルトに差しても、残念に思うことはない。むしろ面倒が少なく済んで良かったくらいだ。恨みを乗り越えて手を組んだ二人だが、こういうところでは気が合わない。
そして二人とは違う意味で出番を取られた有里は、別のものを肌で感じた。上から何かが落下してくる。何であるのかは、考えるまでもなく分かった。自分自身の感覚と、息子たちから預かったペルソナのそれで感じられた。自分の隣に立っていたマーガレットを置いて、白い霧の中を駆け出した。
「アイギス!」
花の根元から少し離れた位置、床の中央近くの上空から妻が落ちてきた。ただし物体が重力に従って普通に落ちるよりも、かなりゆっくりと落ちてきた。羽根が落ちるほど遅くはなく、石が落ちるほど速くはない。その要因は妻の周囲を巡る光の玉だ。色はいずれも金色で、眠るように目を閉じている妻の周囲を揺れながら舞っている。その数は十二だ。
有里の広げた腕の中に、アイギスは収まった。それと同時に十二の光は弾け、二人の体に染み込んでいった。同時に容量が一杯になった器から零れ落ちるようにして、二つの光が有里の体から飛び出した。それらは塔の下へと向かっていった。
「アイギス」
「湊さん……」
夫の呼び声に応えて、妻は目を開けた。長い金髪は解けており、夫の腕から零れた分は床につきそうになっている。
「済まなかった……」
グランプリの準決勝を終えた後も、夫は妻に謝った。その時は一言だけだったが、今度はもう少し言葉を費やした。
「僕は確かに、綾時とタカヤを取り戻したいと思っていた。あの二人は、僕らの子供として生まれ変わってくる……そう信じていた。いや……そうじゃない。僕は分かっていた。必ずそうなると」
死んだ家族や友人が、再びこの世に生まれ変わってくると信じること。それは世間でもそれほど珍しくない、普遍的な願望だ。そしてその願望が叶ったかどうか、確かめることは誰にもできない。しかし有里家の子供はそうでもない。輪廻転生が本当に起きたことが、赤い霧の中で証明された。
失った友を、深い絆で結ばれた相手を取り戻すこと。時の狭間がなくなった世界では不可能な望みを抱いていて、そしてそれが可能であることを、つまり『有里』が言ったことは正しいと有里は認めた。しかし──
「でもその為に……その為だけに、僕は君を選んだんじゃない」
人の行動は一つの理由のみで決まるものではない。生きる理由も戦う理由も複数存在し得るし、時と共に変わり得る。そして変わらないものもある。
「君を守る為に生きていきたいと思っていたから。進路相談の日、君を守ると誓ったのは嘘じゃない。昔から……最初の一年の時からずっと、僕は君を愛している」
「分かっています……」
夫の腕の中で、妻は身を起こした。自分の腕を夫の首に回し、体を寄せる。零れ落ちた長い髪は床から離れた。
「分かっています。私こそ、ごめんなさい。一度でも貴方を疑ってしまって……」
「僕の両親が死んだのは、君のせいじゃない」
「……はい」
では誰の責任なのか。当時アイギスと戦った死神のせいか、それを生み出した者のせいか、この世に生きる全ての人間のせいか。一番目ならそれの生まれ変わりに責任はあるか。二番目なら生み出した者の孫や娘に責任はあるか。三番目ならそもそも責任を負わせることなど可能なのか。
「誰のせいでもないんだ」
「はい……」
有里はそうした全ての問題を放り捨てて、誰の責任も追及しない。アイギスも言わない。誰にも問えない責任というものは存在する。そんな『どうでもいい』ことより重要なのは──
「私、子供を産みます。貴方の子供を、もう一人……」
「ありがとう」
「次の子供は私に名付けさせてくれますか?」
夫婦は最初の二人の子供の名前について、夫が付けること以外に事前の相談をしなかった。それが過ちの始まりだったので、今度はその轍を踏まないようにした。
「ああ」
「では……男の子だったら、陣と名付けます」
有里は驚いた。それはかつての戦いで救えなかった、もう一人の男の名だ。
「女の子だったら、メティスと名付けます」
そしてこれは、かつての戦いで姉に命を捧げた妹の名だ。夫は思いもしなかったが、取り戻したいものなら実は妻にもあったわけである。
「いいですか?」
「ああ、もちろんだ……」
亀裂が入った絆は修復されると、入る前より強くなることがある。有里とアイギスは一つの行き違いを超えて、絆を再び確かなものにした。
後ろで見ている者たちがそろそろ咳払いをしそうな雰囲気が醸し出される中、足元が揺れ出した。有里はアイギスを床に下ろして振り返った。するとマーガレットの姿が見えた。足立と陽介の姿ももちろん見える。世界を覆うほどに濃かった霧が薄くなっている。
「赤い霧は既に飲み込まれて、白い霧ももうすぐ消えるわ。そうするとこの塔も消滅するでしょうね。早く脱出した方がいいのではなくて?」
「へ? ええ!?」
「ありゃりゃ……そりゃヤバいね」
人間たちは全員が息を飲んだり、慌てたりし始めた。テレビの中と外が一体化したこの世界は、カグツチが生み出したものだ。事態の元凶が去った今、世界は元に戻る。つまりこの塔は現実の八十神高校に戻る。そうなっては、この高さにいる自分たちが助かる保証はない。地下にいる他の仲間たちも生き埋めになりかねない。
有里は一瞬思案して、そして意を決した。
「……頼みがある。僕らと塔の地下にいる仲間たちを、安全な場所へ移動させてくれ」
「あら、また契約するの?」
マーガレットは艶のある笑みを浮かべた。こう言ってくることが予想できただけに、有里は逡巡したのだ。だが背に腹は代えられない。しかし──
「いいえ。契約なら私がします」
アイギスが名乗り出た。自分を犠牲にしようとする夫を、或いは莫大な借金を作ろうとする夫を止めるように。または夫の浮気を未遂でやめさせるように。揺らぎのない意志の込められた青い瞳を、人外の金の瞳に向ける。するとマーガレットは微笑の種類を変えた。
「あらあら……まあいいわ。私も楽しませてもらったことだし、そのお礼ということにしましょう」
そして白い手を躍らせ、青い光で中空に円形の模様を描いた。空間を転移する魔法陣だ。有里夫妻と呉越同舟の二人は光に包まれ、塔の頂上が端から少しずつ剥がれ落ち始めた頃に姿が消えた。イザナミも消えた。
そうして人間がいなくなった崩れゆく舞台に、もう一人の『人間』が現れた。
「驚きました。あの方がこのような奇跡を起こすとは……」
エリザベスである。演劇の最中は塔の頂上に姿を見せなかったものの、悠が何をしたのかは見ていたのだ。
「そんなに予想外だった?」
「ええ。この試練は有里様が収めるであろうと思っておりました。鳴上様は絆を捨てておられましたから。体の内に神を宿してはいたものの、あの方自らが神や宇宙と等価の存在になれるはずがない……そう思っておりました」
エリザベスの予想は決して的外れなものではなく、あり得た結果の一つではあったはずだ。しかし現実にはならなかった。どうしてそうなったのか。と言うより予想が外れたのはなぜかと言うと──
「彼は絆を逆から育んだのよ」
有里やアイギスがかつて行った奇跡とは、方向性が逆だったからだ。エリザベスは過去の似た事例から、先入観を持ってしまっていた。それが見込み違いの原因だ。
「逆から?」
「信仰とは受け取るもの……。彼は受け取ることを拒否しただけで、与えることは拒否しなかった。そういうことよ」
マーガレットの説明は簡潔過ぎる。しかしエリザベスは姉の言わんとすることを理解できた。
「なるほど。世界から愛を受け取るのではなく、世界に愛を与える……。それもまた神の一つの在り様でございますね」
「有意義な旅ができたのではなくて? もうそろそろあの部屋に戻ったら?」
「いいえ、私の旅はまだ始まったばかりです」
エリザベスは一枚のカードを取り出して右手の指に挟んだ。スキップを踏む旅装の男が頭を下にしている。虚無の空間で拾った位置のままである。肯定的な意味を持たないはずなのだが、エリザベスはむしろ誇らしげだ。悪い意味はいずれ良い意味に変わる。そういう未来は約束されていないが、希望は持たせる。
「このカードを手に放浪を続けますわ。そしていつの日か、私なりに『愛』を見つけたいと思います」
人間認定された女は、愚者の逆位置のカードをペルソナ全書にしおりのように挟み込んだ。本来は豪華な装丁がされた百科事典は、銃で撃たれたり剣で斬られたりした為にボロボロになっている。酷い有様の商売道具にそっと手を当て、しおりと併せて慈しむように撫でる。その表情はとても人間的なものだった。
職務放棄の継続宣言をした妹は、やはり中空に魔法陣を描いてその中に消えた。
「愛、ね……」
残された姉は妹の言葉を繰り返す。客人も身内も去って一人になった魔女は、誰もいない崩れ行く塔で人間のような笑みを浮かべた。
「ふふ、若いわね。青春真っ盛りなのね」
マーガレットは皆を安全な場所へ退避させたが、全員が同じ場所に送られたのではなかった。そのうち何人かは、事の始まりに送られていた。
「このポスター……」
「ここは……」
因縁の深い二人の男、足立と陽介はマンションかアパートの一室と思しき場所に身を置いていた。塔の頂上で光に包まれて、視界が戻った時にはここにいる自分たちを発見したのだ。ただし有里夫妻はおらず、悠もいない。
部屋の広さは二十畳ほどで、ベッドや冷蔵庫などの家具が置かれている。それだけなら普通の部屋のようだが、壁には同じポスターが何枚も貼られていたのだ。和装の女と思しき被写体の顔は、全て切り抜かれている。そして天井からロープが吊り下げられている。その用途は明白だが、ロープの先に結わえられた赤いスカーフはいかにも破れやすそうな薄いもので、首などかけたら簡単にちぎれてしまいそうだった。
山野真由美のマンションを模した、テレビの中の異空間である。陽介は特別捜査隊結成前の昨年4月14日に一度訪れたことがあるだけで、それ以降は来ていない。そして足立は初めて来た。堂島は調査の為に昨年11月21日に来たことがあるが、その日の足立は高校生たちの相手をしていたので、相棒に同行していなかった。
「……」
「……」
陽介は場所についての説明をせず、足立も聞かない。誰がテレビに落ちて生まれた空間であるのかは、顔のない演歌歌手のポスターが示している。
「ん? 誰か来たか?」
沈黙した部屋に外から足音が届けられてきた。そこから陽介は、クマと初めて会ったのはここだったと連想的に思い出した。しかしぴょこぴょこと特徴的な足音を立てていた着ぐるみと違って、今ここに来たのは人間だった。
「ここは……やはり真由美の……」
程なくして一人の男が現れた。足立より十歳、陽介より二十歳ほど年上の大人の男だ。今夜の戦いの鍵の一つになる活躍をしたペルソナ使いであり、昨年の誘拐事件の犯人であり、そして殺人事件の被害者の一人と深い縁のあった男だ。その為、このマンションが何であるのかは一見して分かる。部屋の中に入るまでもなく、外観を見ただけでもわかる。
「生田目さん……」
「花村君」
昨年12月に自分を殺そうとした少年の一人を、生田目は覚えている。陽介は塔の地下の墓場に落ちなかったので、会うのは約五ヶ月ぶりだ。
「……去年は済みませんでした」
「いや……それはいいんだ」
生田目は悠と陽介を恨んではいない。むしろ殺されなかったことを残念に思っていたくらいだ。自殺はしないと堂島と『契約』しているが、それでも陽介たちへの気持ちに変化は生じていない。生田目が恨むとすれば、その相手は──
「貴方は……足立さんですね」
愛した人の仇である。足立が昨年の殺人事件の犯人であることは世間には発表されてはいないが、生田目は知っている。
「ええ……」
「……」
生田目は恨み言は言わない。ただある気迫の籠った目を、殺人犯にして屈指の実力を持つペルソナ使いに向ける。すると足立はベルトに差した拳銃を抜いた。ただし撃ちはしない。生田目に銃口を向けて構えることさえせず、そのまま放り投げた。無造作な下手投げで。
人を殺せる鉄の凶器は、マンションの床に当たって音を立てた。落ちたのは生田目の足元だ。
「やってもいいですよ。貴方にはその権利がある」
殺されたのだから、殺してもいい。よく言われることだ。もしこれが正しいのなら、足立を殺す権利があるのは被害者本人を除けばこの世に二人しかいない。尚紀と生田目だ。尚紀は殺さなかったが、生田目はどうか。
「……」
生田目は仇が差し出してきた拳銃を拾った。普通にグリップを右手で握る。指は引き金にごく軽くかかっている。前職は議員秘書で警察官ではなかった生田目は、銃を撃ったことはない。しかしただ引き金を引くだけなら、できないことではない。標的は逃げたり抵抗したりするつもりがないので、撃つ側に殺すつもりがありさえすれば殺せる。
「……生田目さん」
陽介が一声かけた。しかし声に勢いはない。もし生田目が足立を殺すと言うなら、止めるべきか止めないべきか。果たしてどちらを選べばいいのか、陽介は迷った。リーダーが間違っていたら止めるのが仲間の役割だが、ここでもそれが当てはまるか。足立の罪と今の態度を考慮に入れるとどうなるか。まだ高校生の陽介には、この難問に答えを出す為の拠り所がなかった。大人でも持つ者は多くはいるまい。
「真由美……許してくれ」
少年が悩んでいる間に、法に詳しい大人が先に結論を出した。生田目は左手で銃身を握り、右手をグリップから離した。撃つつもりがないことを、まず行動で示した。言葉はその次だ。
「人はルールに従わなければなりません。だから私が貴方を殺すわけにはいきません。貴方は貴方自身で、罪を償ってください」
「……はい」
足立は頷いた。世界を嘲笑う道化師ともあろう者が、反論も皮肉の一言も言わず、ただ頷いた。悠や陽介はもちろん、堂島に言われても答えなかった償いの約束をした。いや、これはただの約束ではない。
足立はたった今、『契約』をしたのだ。相手は生田目である。
「ああ……そういうことか」
昨年12月7日にコニシ酒店で特捜隊を叩きのめした時とはまるで違う足立の態度を見て、陽介はあることが腑に落ちた。思わず声が漏れるくらい、納得できたものがあった。
(足立さんは尚紀か生田目さんに殺されたかったのか)
この時、陽介の心の中で殺人事件は完全に決着した。自分は本質的には部外者であるという事実を、悔しさも無力感もなく、自分に言い聞かせることもなく、あるがままに受け入れることができるようになった。それと同時に、塔の頂上手前で足立を殺さなくて良かったと思った。
しかし決着が必要な者はまだいる。それが生田目の頭の中でガラスを割った。
「……太郎さん」
山野のシャドウ、隠者のアルカナに属するペルソナとしての名はウムギヒメという黒いローブを着た女のビジョンが、生田目の体から現れた。仮の主である生田目が召喚するまでもなく、ペルソナの方から表に出てきた。
「真由美……済まなかったね」
生田目の謝罪は何に対するものか。殺人犯から守ってやれなかったことか、仇を取ることができたのにしなかったことか、そもそもの発端である不倫についてか。それとも──
「ううん……貴方は生きていてくれている。それだけでいいわ……」
男が自殺するのを何度も止めてきた女は微笑んだ。切った手首を内側から癒すのも、多量に飲んだ睡眠薬を無害化するのも、もう必要ない。もちろん銃で撃たれて消え去ろうとする命を引き止める必要もない。山野は役目を終えたのだ。早紀と違って、『自分』を殺した仇を自分で取ろうとすることもしない。シャドウは誰もが暴力的なわけではないのだ。
「……ありがとう」
万感の思いを込めた感謝の言葉を男が口にすると、女は光を放ち始めた。闇に溶けて影に隠れる存在が、光と化した。本体を殺して食べたことで『魂』を得たシャドウは、愛する者に見送られて旅立った。早紀が尚紀に見送られて成仏したように、山野もテレビの世界の彼方へと向かった。
光が収まると、三人の男は揃ってマンションから出た。陽介と生田目は当然ながら手錠の類を持っていないので、足立を拘束することはできない。しかし足立は抵抗はもちろん、逃げようともしない。拳銃は生田目が預かっているが、それだけだ。
現実のマンションで言えば共用の通路に当たる道を歩き、敷地と呼ぶべき区域から出ると、もう一人の事件関係者がそこにいることに気付いた。
「足立さん……」
「尚紀君……」
尚紀だった。今夜の足立と尚紀はエントランスで互いに顔は見たが、話はしていない。カグツチが現れた頃に通信越しに話はしたが、声だけなのと直接会うのではやはり違う。相手がそこにいて表情も見えると、それだけで分かるものがある。
「済まなかったね」
例えば犯罪の加害者が被害者やその遺族に謝った時、それが上辺だけのものなのかそうでないのか、電話や手紙では分からなくても、顔を見れば分かるということはあり得る。そして足立の謝罪は本気のものであると、尚紀は感じた。情報系ペルソナで調べたり感じたりしたのではなく、尚紀自身の印象から来る直感だ。それが遺族を一歩踏み込ませた。
「どうして姉ちゃんを殺したんですか」
尚紀がこの質問をするのは二度目だ。今夜以前に足立と会った最後の日、テレビの中のコニシ酒店の先にあった赤と黒の空間で、事件の犯人に犯行動機を尋ねた。その時の足立は理由などないと言っていたが、本当にそうなのかと尚紀は改めて聞いた。
「去年の夏……ジュネスにいたお婆さん、覚えてる?」
そして足立は語りだした。聞かれたことには何でも答える、素直な自分のシャドウのように。尚紀が感じた直感に、裏付けを与えてやるように。その口調は真摯なものだった。
「……」
しかし語られた内容は信じがたいものだった。何を言うかよりも誰がどう言うかの方が重要で、足立の言い方には真実の響きがあった。しかし例えば宇宙人が自分の家にいるのだと、どれだけ真心を込めて説明しても、そんな話を信じるのは子供くらいだろう。まして吐いたのは硬いレンコンのせいだと証明する為に人を殺したなどと、信じられる者が果たしているだろうか?
「信じらんないだろうし、納得もできないだろうけどね……」
「納得はできません……」
「だよねえ……」
尚紀の反応は当然だ。足立自身も、早紀を殺した動機を正直に話して信じてもらえるなどとは思っていない。そうかと言って、殺人に至る物語を捏造するのも気が進まない。だから12月には何も答えなかったのだ。しかし──
「でも……信じます」
「尚紀君……」
足立は驚いた。そして少年に頭を下げた。
「ごめん。本当にごめん……」
心からの謝罪の言葉を口にしながら、足立はまた別のことも思った。この世界を救う為に人柱になどならなくて良かったと、心底思った。
有里夫妻は仲直りして、エリザベスは放浪の旅に出て、生田目は愛する人を見送り、足立は贖罪を始めた。『愚者』たちが各々再生を遂げた頃、最後の一人はスタジオにいた。現実では八十神高校に当たる場所にいたはずだが、いつものジュネスのテレビから入った場所に身を置いていた。それはもちろんマーガレットの仕業のはずだが、どこか皮肉を感じる場所の選択だった。床に引かれた白線に沿うように、つまりは死んだ人間が横たわる位置に寝かされていることを思えば。
程なくして、白線に囲われた死体、もとい悠は目を覚ました。コトドの神話の意味を悟って目を閉じた時、もう二度と目を開くことはないだろうと思った。バレンタインデーに物体Xを食べた時の淡い願望と違って、死の確信があった。有里がアイギスの膝の上で一度死んだ時のような確信だ。しかし目が開いた。
(死に損なったのか……? いや……)
自分が特捜隊の拠点であるスタジオの床に、うつ伏せに倒れていることに気付くと共に、自分の手が目に入った。それで得心した。
若いはずの男の手には皺が寄っていた。様変わりした手を引いて顔に触れてみれば、そこも皺だらけになっているようだった。人生の終焉を迎えようとしている、老人の手と顔だ。
(こういう形か……)
悠は神々の誕生を演じた。そして子供を生み終えた男とは、老いた男のことである。つまりこの姿はやるべきことをやりきった、その証だ。使命を果たした以上は、もはや死があるのみだ。ちなみに痛みは麻痺しているようで、何も感じない。
(悪くない。悪くないが……)
神々の集うこの地に来て一年と一ヶ月が過ぎて、ようやく何かをやり遂げることができた。それは悪くない。誇りに思ってもいい。しかし老人の姿になってしまったことは、少しばかり気に入らなかった。息と心臓が止まると同時に自分の死体は床に飲み込まれ、電柱かテレビアンテナに吊るされるだろう。できれば霧に溶けて消えてしまいたかった。皆が自分と気付くかどうかも怪しい死体を残すよりは、その方がスマートだから。だが文句は言うまい。
悠はうつ伏せに倒れたまま、かさついた頬を自分の腕に乗せた。眠るように目を閉じて、そして死ぬつもりで。
すると前方、現実への出口である三段積みのテレビがある方から光が差した。弱く儚げな光だ。誰かが来たのかと思った。それは現実から仲間たちが来たのか、それとも先に彼岸に渡ったはずの恩師か、はたまた死神が常世の国から魂を刈り取りに来たのか。などと思ったが──
「迎えに来てくれたのか……?」
努力して顔を前に向けると、意外な顔がそこにいた。いや、意外ではない。永久に失ったと思っていたが、実は自分の最も身近な所にいた存在であり、つい先ほど『別名』で召喚した相手だ。
マリーである。虚ろの森で着ていた白い千早ではなく、青色を第一印象として与えてくるパンクファッションに身を包んでいる。その姿全体が朧に光っている。1月に夢で別れを告げられた時のように、本当にそこにいるのかはっきりしない、まさに夢のような薄い存在感をまとっていた。
「違うよ」
霧の中を歩むように、燐光を放つマリーは悠に近づいてくる。そして床に膝をつく。
「もう分かってるよね? 私の本当の名前は……イザナミノミコト。この地の豊穣の意思」
それはイザナミがカグツチに向けて名乗った、神々の母としての名である。
「イザナミはもう一人の私……私のシャドウ」
世界のアルカナを持つ存在について、マリーは端的に語る。そしてそれは悠には理解できる話だった。マリーがずっと悠を守ってきたように、イザナミはこの地と人を守ってきた。両者は櫛を通じて深い縁があることはイザナミ自身が言及していたが、それ以上に深い、存在の根源を同じくするとしても悠は違和感を覚えない。
そしてマリーは話をもう一歩進める。
「ううん……影ってわけじゃないね。本体も影も結局は同じもの……あのらびりすって子が証明したね」
「……」
「虚ろの森で私は一度死んで、イザナミに取り込まれたわ。でも君の中で私とイザナミは再び一つになった……」
イザナミを基礎にしてマリーが取り込まれるか、或いはその逆か。過程は異なっても起きる結果に違いはない。なぜなら本体と影は等価だから。悠の言挙げを楔として、別たれた二人は再び一人になった。シャドウを他人が認めることは本人がそうすることと同じ、またはそれ以上の結果を生む。
「ありがとう……悠。私も君を愛しています」
マリーは自分の膝に悠の頭を乗せた。そして体を屈め、老いた顔とつやのなくなった髪を抱き締めた。光る霧のように儚い姿でありながら、マリーの体には熱があった。血を流しすぎて既に死体のように冷たくなり、もう間もなく本当の死体になる悠の体が仄かに温められた。
愛を言葉だけでなく態度でも示されて、戸惑いを禁じ得ない悠は思わず聞いてしまった。
「この姿でも、いいのか」
するとマリーは笑った。躊躇なく、迷いなく。自由や反骨精神を便箋に書き殴った個性派詩人が、普段の素直でない仮面を放り捨てたように。真実を見つけた以上は、真実を詩に書いたように本心を口にすることを恥ずかしがらない。
「それが何? 君は死体の私でも受け入れてくれた。お爺さんになっちゃったくらい、どうってことないって」
悠は震える手を動かした。重い剣を振るいすぎて疲れ果て、散々傷ついた挙句に老化の異常まで背負わされ、すっかり力を失った手をマリーに向けて伸ばす。ゆっくりと、弱弱しく、途中で折れそうなくらい頼りなさげに。すると愛する人は手を取ってくれた。それもまた温かかった。今夜は初めから死ぬつもりでいて、待ち望んでさえいたその時がいよいよ来たというのに、今になって未練が湧いてくる。
「マリー……君は俺を……許してくれるのか?」
イザナミはカグツチを許した。ではマリーは悠を許すのか。
「許すわ」
では悠の何を許すのか。どんな許されざる罪が悠にあり、傷と老いと、そしてその先にある死の罰を受けねばならないのか。
「虚ろの森で目を背けた君を……黄泉比良坂で逃げた貴方を、私は許します」
悠の罪とイザナギの罪。それはカグツチの親殺しと同様に、どちらも死に値する。しかし人の罪を厳しく問い、容赦なく罰し、時に世界さえ滅ぼすのが神の御業なら、あたかも罪など初めからなかったかのようにすることも、また神の御業である。
「!……」
悠はマリーを握る手に力を入れようとした。ここに至って未練は大きくなるばかりで、後悔が自分の存在を主張し始めた。尽きたはずの力を、体の奥底から呼び起こそうとする。
「君は使命を果たしたわ……私もそう。だからもう、君の中にいるわけにはいかないね」
「そ、それは……」
しかし悠の体から力は湧いてこなかった。それはどういうことだと聞きたいのに、最後まで言うこともできない。悠の中から出ていくとは、別れるという意味か。それは永遠の別れなのか。それとも未来において再び一つになる為に、調和する二つになる為に分離するという意味なのか。捨てた希望を再び抱いていいのか。
悠は聞きたい。そして生きたい。しかしできない。この一年間、常にそうであったように、心だけでは現実は変えられない。
「大丈夫。いつかきっと、またあの場所で……」
悠の命の光が尽きようとしているのと対照的に、マリーが放つ光は強さを増した。朧だった姿は白い光に包まれて、より輪郭が曖昧になる。それと共に手と頭に感じる体温が遠ざかっていく。
「待っ……」
やはり最後まで言うことができなかった悠は、マリーがいなくなったスタジオの床に横向きに倒れた。もう指一本も動かせない。死を表す白線から出ることは、どうしても叶わなくなってしまった。未練が心臓が止まることを妨げているが、それももう後どれだけできるかだ。いっそシャドウになって、死神か幽霊にでもなってマリーに会いに行けないかと、そんなことを思いついた時──
「鳴上君……」
死と蘇りの先輩が現れた。煉獄の闘技場の先にある時間を戻す機能を使って、死人を生き返らせたという先輩の妻も一緒だった。
「鳴上さん……」
「……」
悠は口で返事をすることはできなかった。ただ目だけを何とか動かして訴えかける。すると有里は何か感じたか、床に膝をついて悠と視線を合わせた。
「君は……自分の義務を果たしたんだね」
はい。でも──
「おかげで僕も妻も死なずに済んだよ。ありがとう」
そんなことより──
ここで有里は目に力を込めた。若者に覚悟を問う年長者の目である。
「君は死ぬつもりだったはずだが……どうする。このまま死ぬのかい?」
嫌です。生きたい──
「湊さん……」
アイギスは有里のスーツの袖を掴んだ。命の恩人の為に、何とかしてやれないのかと意図を込める。夫は妻の側を一度振り返り、そして死にゆく少年に戻す。
「これを使うかい?」
有里は懐から一枚の羽根を取り出した。これは3月にマーガレットと試合をして手に入れたものである。
「使えば皆月と似た宿命を負うことになるかもしれないが……それでもやるかい?」
皆月に埋め込まれた黄昏の羽根は、月の母たるミナヅキを生み出した。しかしそれだけでなく、皆月自身も変えた。幾月による実験を経た皆月はペルソナこそ得られなかったものの、太陽のアルカナを得た。死神とその先のアルカナは、本来は人間が得られるものではない。有里が手にしている羽根は皆月の心臓にあったそれとは違うが、似たものではある。だから覚悟を問うたのだが──
はい──
悠に迷いはなかった。一瞬の躊躇もなく、前に進む意志を目に込めて伝えてきた。
「分かった」
有里は月神の突羽根を悠の胸に当てた。それは鮮やかな金色の光を放ち、悠の中へと入り込んでいく。まるで刃物が体に滑り込むように、血が服に染み込むように、言葉が心に食い込むように、物質と情報の中間の存在は悠の中に深く浸透してゆく。悠は口より雄弁な目を閉じて、超常の存在が自分の中に突き刺さるのを感じる。
羽根が進むごとに、悠は痛みを強く感じ始めた。それは生きている証である。抜け落ちた体の感覚が戻りつつある。下ろす瞼に力を込め、歯を食いしばり、拳を握って痛みに耐える。耐える力が戻ってきている。全身に負った傷は癒え、皺が寄った肌さえ元に戻ってゆく。
「くっ……!」
やがて羽根が完全に潜り込んで心臓にまで達すると、有里は手を離した。そして悠は目を開けた。
「君……」
視線が合った有里は、少しばかり驚いた。悠の瞳は以前と変わっていたのだ。しかし──
「……」
悠は再び目を閉じて自分の胸に手を当て、そして握った。胸の中にいる『もの』を掴んで握りしめるように。或いは手で胸に蓋をするように。中にいるものが、表に出てこないようにした。
「……ありがとうございます」
悠が改めて目を開けた時には、瞳の色は元に戻っていた。そして膝を起こして立ち上がった。