ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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新たなアルカナ(2011/4/30)

(12日は雨のち曇り、午前中に霧。15日はほぼ一日雨だったが、未明から明け方にかけて霧か)

 

 有里は車の運転席に座りながら、眼鏡を通した視線をスマートフォンの液晶画面に落としていた。表示しているのは気象情報を扱うインターネット上のサイトだ。しかし今日や明日の天気予報を見ているのではない。過去一ヶ月ほどの、稲羽市周辺の天候実績を確認しているのだ。

 

(シャドウの出現に霧が関係していることは間違いないな。迂闊だった……)

 

 思わずため息が出た。稲羽で死人と影人間が出たのは、いずれも霧の日。分かってしまえばごく簡単なこの法則に、有里は今日まで気付かなかった。もちろん報道などでは、『霧に煙る町の殺人事件』などと言われているから、全く頭になかったわけではない。しかし霧、と言うより天候に特別な注意を払っていなかった。その原因は明白だ。

 

(二年前は月齢だったからな……それが先入観になってたか)

 

 有里がかつて乗り越えた戦いにおいても、シャドウの出現時期には一定の法則性があった。当時は大きな戦いは一ヶ月に一度。具体的に言うと、満月の夜に大物のシャドウが出現していたのだ。その時の経験から、稲羽の問題にも月齢が影響している可能性は考えていた。しかしそれが仇となった。

 

(今年の鍵は天気だったか)

 

 ちなみに今年4月の満月は18日だ。昨日稲羽署で殺人事件の資料を調べた時も、その日に何か起きていないかを重点的に調べたが、何も出てこなかった。今にして思えば当然の結果と言える。目の付け所から間違っていた。自分の視野の狭さに呆れてしまう。

 

 そこへ小鳥のさえずる声が聞こえてきた。

 

(ん……晴れたか)

 

 手元の機械を覗く為に顎を引いた姿勢のまま、上目づかいに外を見てみた。すると眼鏡のフレームの隙間からでも、フロントガラス越しの景色は遠くまで見えた。時刻は朝だ。未明から地上を覆っていた忌むべき霧は晴れたのだ。

 

 有里は視力に問題はない。取り敢えずかける必要のなくなった、青い眼鏡を顔から外した。それは一見するとどこの町でも買える市販品と何ら変わらない、ただセンスがいいだけの普通の眼鏡に見える。だが違うのだ。普通の眼鏡は、ぼやける視界を矯正する為に使われる。その意味ではこれも同じだが、近視や遠視など目の屈折異常に起因する視界不良に対応するものではない。霧、それも恐らくは真っ当な自然現象ではない、シャドウの蠢く稲羽の霧を見通す為のものだ。

 

「はあ……」

 

 深いため息を吐きながら、有里はこれを入手した経緯を思い返した。

 

 

 

 

 日付が30日に変わって数分後。黒沢から救援要請を受けた有里は、大急ぎで天城屋旅館を飛び出した。着替える時間さえ惜しかったので、寝巻の浴衣の上にジャケットだけを羽織り素足に靴をひっかけるという、人前には出られない格好で旅館の外に出た。しかし出てすぐに服装などよりずっと大きな問題に行き当たってしまった。

 

(まずいな……これじゃ車を出せない)

 

 いつの間にか雨は上がっていたが、代わりに霧が立ち込めていたのだ。旅館の建物や駐車場の電灯は光を放っているが、暈がかかってしまっていて、まるで役に立っていない。視界は一メートルもないくらいの、とてつもない濃度の白だ。これで運転などしようものなら、確実に事故を起こす。そうかと言って、走って現場に向かうわけにもいかない。進むに進めない状況に立ち往生していると、不意に光が浮かび上がった。

 

「む?」

 

 駐車場の隅の一角、後ろ向きに駐車した有里の青い車の真後ろに、一つの扉があった。背後に続く建物などは何もなく、ただ扉だけが宙に浮いた状態でそこにある。その佇まいは、あからさまにベルベットルームの扉を連想させるものだ。ただし昨年の初めまで地元のショッピングモールにあったものや、現在のこの町の商店街にもある、青を基調としたそれとは色が違った。

 

 扉は銀色だった。光を滲ませる白い闇の中にあって、なぜかそこだけ霧が吹き払われたように鮮明な姿を見せていた。

 

『どうぞ、お入りください』

 

 近づいてみると、扉の中から声を届けられた。聞き覚えのある、鈴が鳴るような美しい声だ。状況が状況だけに、有里は声に従った。

 

 

「ここは……」

 

 銀の扉の先はベルベットルームではなかった。室内ですらなく、砂漠だった。地平線の彼方まで延々と広がっている、黄色い海だ。風も吹いておらず、砂を踏む有里の足元でだけ、さらさらと衣擦れに似た小さな音がしている。典型的な砂漠の風景だ。いや、人が砂漠と聞いてイメージする風景そのものでありすぎていて、かえって現実感を失っている。

 

 そんな『真っ平らな虚無の王国』に、異分子的に不自然な存在があった。扉だ。やはりと言うか、外からの入り口と同様に背後に続く建物の類はなく、ただ数枚の扉板だけが黙然と立っていた。

 

「まさか……時の狭間か?」

 

 そう呼ばれる空間は、かつては確かに存在した。有里自身は実際に見たことはなく、妻から話に聞いただけであるが。この空間は聞いた風景と酷似していた。しかし時の狭間は、もはやこの世に存在しないはずだった。

 

「いいえ。確かに似てはいますが、違います」

 

 いくつもある扉たちの陰から一人の美女が現れた。マーガレットだ。あの部屋の住人らしく青い服を着ていて、ペルソナ全書を小脇に抱えている。有里と目が合うや、嫣然と微笑みながら近づいてきた。その足取りは優雅と言うか優美と言うか、一種の余裕めいたものが伺えた。

 

「またお会いしましたわね」

 

 挨拶代りのつもりであろうこの言葉は、少しばかり皮肉に聞こえた。つい数時間前にベルベットルームに行くことは当分ないだろうと言っておきながら、この有様なのだから。

 

「お困りのご様子でしたので、扉を用意いたしました」

 

「なら教えてくれないか。どうすればいい?」

 

 有里は皮肉に取り合わなかった。今はとにかく緊急事態だ。ベルベットルームは時間の流れが存在せず、客人があの部屋でどれだけ過ごそうが、外の人間には一瞬としか感じられない。銀の扉の先にあるこの異空間もきっと似たようなものであろうから、体感的にはいくら長居しても関係はない。だが気持ちは焦っている。

 

「これをお使いになればよろしいですわ」

 

 するとマーガレットは青いものを、どこからか取り出した。例の部屋の調度や、自分が着ている服と似た青色だった。

 

「眼鏡?」

 

「今晩だけでなく、今後においても必要になるものです」

 

 今一つ理解が及ばなかったが、ベルベットルームの住人は無意味なことは行わない。全くとは言いきれないが、基本的には。だから事態の打開に眼鏡が役立つのだろうと察した有里は、差し出されたそれに手を伸ばした。しかし有里の手が届く寸前で、マーガレットは眼鏡を持ち上げてかわした。まるで子供が遊びでするように。

 

「何のつもりだ?」

 

「貴方はご存知のはずです。力には代償が伴うのだと」

 

 しかしマーガレットは遊んでなどいない。ぞっとするほどの美貌には、微笑みが浮かび続けている。人間ではあり得ない、観念的な領域にまで達した怪異の美だ。これと同等の存在は、過去に乱れきった女関係を築いていた有里も一人しか知らない。マーガレットの妹であるエリザベスだ。

 

 だが美しいと認めることと、その美しさに惹かれるかどうかは別である。高校生の頃ならまだしも、今の有里は誘惑を感じてはいない。しかし──

 

「僕に何をしろと言うんだ」

 

「今後、貴方はこの地を何度も訪れることになるでしょう。その際には、必ずこちらへおいでくださること。それが条件です」

 

「……それは依頼か?」

 

「いいえ、契約です」

 

(ぐ……)

 

 思わず奥歯を噛み締めた。依頼と契約は似てはいるが、厳密には異なる。それは契約は、未達のままにするのが許されないということだ。反故にすれば、どんなペナルティが待っているか分かったものではない。有里は初めての契約は何も考えずに結び、現在進行中の契約は自ら望んで結んだ。

 

 だがこれはいただけない。はっきり言って、嫌だ。しかし選択の余地はない。

 

 

 

 

(参ったな……)

 

 霧が晴れた朝の光を浴びながら、徹夜明けの有里は考える。ちなみに服装はおかしいままだ。未明に堂島と足立を病院まで運んでから、旅館に一旦戻って着替える暇がなかったのだ。霧はずっと出たままだったので、再びシャドウが出現する可能性を否定できなかった。そこで堂島と足立は黒沢に任せて、自分は外で警戒を続けていたのだ。病院の建物に入らず車内で夜を明かしたのは、服装を不審に思われて余計なトラブルになるのを避ける為である。

 

 取り敢えず今日のところは必要なくなった眼鏡を、有里は上着の胸ポケットにしまった。しかし今後、また必要になるのは明らかだ。

 

(アイギスに知られたら、ただじゃ済まないな)

 

 有里にとって、新たなペルソナを生み出して己の戦力を強化する必要はない。と言うより、これ以上強くなるのは難しい。だから今後、ベルベットルームに行く必要は特にないと思っていた。しかし何たる運命の悪戯か、そこの住人と『契約』を結んでしまった。二年前の4月から約一年、体感的には二年も付き合ったエリザベスともしなかったのに、昨日初めて会ったマーガレットとしてしまうとは。

 

 もしアイギスに知られようものなら、とんでもないことになる。何しろ昨年の3月には、有里はエリザベスの件でボロ雑巾にされたのだ。考えるだけで身震いしてしまう。

 

(だが今さら言っても仕方がない。これからどうするかだ)

 

 この町のシャドウの問題は、どうすれば解決できるのか。根絶する方法などはまだ分からない。そもそも人間がいる限りシャドウが絶滅することはあり得ないのだから、完全な解決など不可能かもしれない。しかし当面の対処法については、糸口は見つかっている。

 

 仕事の定期報告を兼ねて、有里はスマートフォンを操作してアドレス帳を起動した。連絡には早い時間帯だが、敢えて構わなかった。

 

 なお、有里が画面に触れても指がもぐりこみはしない。悠と陽介が携帯電話で試した時と同様である。

 

 

『そうか、やはりシャドウの仕業か……』

 

 電話の相手、桐条美鶴は沈痛な声を届けてきた。世界的な複合企業である桐条グループの現総帥、桐条武治の一人娘である。有里にとっては高校時代の一年先輩に当たる。そして仕事の上司でもあり、稲羽への出張を命令した当人でもある。

 

「新組織の設立に向けて、ちょうど良い追い風と考えることもできますが」

 

 有里が言っているのは、昨日から黒沢とも少々話題にした『組織』のことだ。桐条グループといわゆる公安警察が共同で立ち上げる予定の、シャドウ対策を目的とした非公式の特殊部隊である。昨年から色々と準備をしていて、今や設立は秒読み段階にまで来ているのだが、シャドウ出現の実例は今後に向けて有用である。

 

『……不謹慎だぞ』

 

「分かっています。でも事実でしょう」

 

 この二人を含めた者たちの戦いが終わってから、シャドウが関係している事件が見つかったのはこれが初めてだ。警察や政府の上の方を動かすのに、この事態は利用できる。上手く使えば、組織の規模や権限も想定より大きく得られるはずだ。

 

 なお、黒沢は昨日の昼間に冗談めかして有里を幹部候補生と呼んだが、正しくは候補生ではない。組織に幹部として参加することが決定している。だから不謹慎な物言いでも、敢えてする。

 

『まあいい……。それで、現場に居合わせた二人の刑事に適性があるのだったな?』

 

「ええ。一人はその場で覚醒して、もう一人も見込みがある様子です。そちらに連れていこうと思っているのですが」

 

『あまり他人を巻き込みたくはないのだがな……』

 

「一端なりとも真実を知ってしまった以上、やむを得ないかと思いますが。それに彼らは一般人ではなく、警官です」

 

『選択の余地はないか……』

 

 本題を話し終えてから少々の事務連絡もして、有里は電話を切った。そしてシートに深くもたれながら、霧が晴れて肉眼で見えるようになった病院の建物に視線を送った。今後に向けた鍵はそこにある。

 

(この町の住人で、しかも刑事……)

 

 かつての戦いが終わってから、一年と三ヶ月ほどが過ぎている。戦い抜いた仲間たちは、皆がそれぞれの新しい道を歩んでいる。そこへ来てのシャドウ出現だ。有里は桐条グループのシャドウ対策に関与し続ける道を選んだが、何も戦いがしたくて選んだわけではない。だから有里にしても、この事件は基本的には迷惑でしかない。そしてマーガレットを考慮に入れれば迷惑を通り越している。

 

 だがそれとタイミングを合わせたような、新たなペルソナ使いが見つかったこと。これは大きい。しかも現場の町に住んでいる。そして何より、刑事という事件に対処する為の、最適な身分も持っている。

 

(使わない手はないな)

 

 足立透と堂島遼太郎。この二人を最大限に利用してやることを、有里は決心した。主に自分の生活を守る為に。

 

 

 

 

 新たなペルソナ使いを巻き込むことを、有里が決めたちょうどその頃。巻き込まれる側の一人である足立は、夢の中にいた。何となく見覚えのある静かな駆動音の響く青い空間、謎のリムジンにいる自分を発見した。

 

「お久しぶりでございますな」

 

 前方から声をかけられて、足立は意識がはっきりしてきた。青いクロスが敷かれたラウンドテーブルの向こう側に、やはり何となく見覚えのある怪異な容貌の老人がいる。

 

「私を覚えてらっしゃいますかな?」

 

 リムジンのソファーに悠然と腰掛けた、鼻の長い小柄な老人は血走った目を、じろりと向けてきた。脅すような視線だが、足立は動揺もしない。

 

「今、思い出したところだよ」

 

 これは本当だ。4月の初めに稲羽に赴任してきて、それから間もない頃にこの老人と夢で会ったはずだった。夢から覚めると普通に見る夢と同様に忘れてしまっていたが、再訪した今は思い出した。ここはベルベットルームと呼ばれる場所で、老人の名はイゴール。初回の訪問ではイゴールは占いをしようとしたのだが、足立は断った。そうした細かな出来事までも思い出すことができた。

 

「ふふ……正直な方だ。もうお分かりのご様子ですが、現実の貴方は眠りについていらっしゃる。私が夢にてお呼び立てしたのです」

 

 イゴールは含み笑いを浮かべた。対する足立も、相手に劣らず含みのある笑みを浮かべた。

 

「僕の未来は閉ざされたってわけ?」

 

 これまでに二度、足立は謎の声が脳裏に突然浮かぶ体験をしている。その時は知らない声だと思ったが、今は思い出した。あれはイゴールの声だった。この部屋で言われたことを、忘れながらも無意識のうちに記憶していて、人生の転機において知らず蘇ったのだ。それらの自分を襲った事態を理解した上で、足立は皮肉を込めて聞いた。

 

 未来が閉ざされたことを告げる為に、イゴールはここに自分を呼んだのかと──

 

「いいえ。貴方はただ、ご自分の奇しき運命を見出したに過ぎません。未来が閉ざされるかどうかは、今後の貴方次第です」

 

「へえ……いいの? 犯人隠避って知ってる?」

 

 足立の笑みはますます深まった。イゴールは足立が何をしたのか確実に知っている。いや、事が起きる前から予期していた節さえある。それでいて足立を責めない。もしイゴールが『この人殺しが』とでも言ってきたら、『知ってたくせに』と言い返してやろうと思っていたのだが。足立の予想に反して、むしろ好きにしろとイゴールは言っているようにさえ聞こえる。

 

「貴方の行いは、人の世にあっては許されざるものでもありましょうな。しかし私どもはご覧の通り、人に非ざる者。人の法に従う義務のある身ではございません」

 

「なるほど。確かに貴方はどう見ても人間じゃないね。でも……」

 

 足立は左右に視線を送った。そこには最初に来た時とは異なって、二人の見知らぬ者たちがいたのだ。人形めいた白皙の美女と、愛想のない少女だ。イゴールに比べれば、この二人はずっと人間的だ。

 

「紹介いたしましょう。こちらはマーガレット」

 

「マーガレットでございます」

 

 足立から見て右側に座る美女はイゴールの紹介に応じて、優雅に会釈をしてきた。こちらも足立に何も思うところはないように、声や表情に敵意の類はない。

 

「そして、こちらはマリーです」

 

「……」

 

 しかし左側の少女はそうでもなかった。元より愛想の悪そうな雰囲気があるが、足立を横目に睨むだけで、一言も口をきかない。パンク風のファッションからも窺い知れるが、年上や目上の相手に対して反発するタイプのように、足立には見えた。

 

「どうぞ、お気になされませぬよう。この二人は私よりは人に近いですが、それでも人とはいささか異なっております。そして以前も申し上げた通り、ここは何らかの形で契約をなされた方が訪れる場所。しかし貴方はいかなる契約もしておらず、近くにそうした未来も見えません」

 

 つまり足立は、この部屋の客人になる資格を持たないという意味だ。だから本来的に無縁なマリーが刺々しい反応をしようが、気にするなとイゴールはフォローしているわけだ。しかしそれを言うならば──

 

「あっそ……じゃあ何で僕を呼び出したの?」

 

 そもそも今日、ここに呼び出された理由が分からなかった。行いを責めるのでもなく、今後に何らかの世話になるわけでもないのなら、果たしてイゴールは何の為に夢にかこつけて足立を呼んだのだろうか。

 

「ふふ……」

 

 イゴールは再び笑い、ラウンドテーブルに手をかざした。するとそこに手品のようにカードの束が現れた。どこかで見たような状況である。

 

「貴方は占いをお信じになられないことは、伺っております。しかし超常の世界や存在を目の当たりにし、そして貴方ご自身も力に目覚めた今ならば、考えを変えられたかもしれない……。そう思いましたゆえ、お時間をいただいている次第です」

 

 簡単に言うと、客につれなくされた占い師が客の側に生じた変化を見込んで、もう一度誘っているということだ。要は意趣返しのようなものである。

 

「はは……そんなに僕に構ってほしいの?」

 

 足立は笑った。今度は含むものがなく、本気で笑った。呆れているのだが、悪い気はしなかった。馴れ合いやお節介は嫌いな性格だが、皮肉やウィットは好きな方だ。イゴールの悪魔的な容貌に反した茶目っ気に、面白味を感じてしまった。

 

 そして占いを信じるようになったかと問われれば、敢えて否定するつもりもなかった。足立は基本的にリアリストだが、テレビの中の世界やシャドウを見て自分もペルソナに目覚めた今は、確かにものの考え方に変化はある。この世には超常的な何かが現実に存在することを、否定はしなくなっていた。つまり占いを信じる余地も生まれたわけである。

 

「ま、いいや。占ってみてよ」

 

「では、参ります」

 

 含みの消えた足立の笑顔にイゴールも応えた。テーブルの上をイゴールの筋張った手が巡ると、カードの束は手を触れられないまま自ら踊り出した。もし手品ならば一流の技だが、足立はもう手品とは思わなかった。ペルソナと同様に超能力的な何かであるのだろうと思って、タネや仕掛けを見抜いてやろうとかの意図もなく、ただ占いの結果が出るのを待った。

 

 やがてカードの群れは整列し、そのうちの一枚をイゴールは指差した。するとカードは自ら浮き上がり、絵柄を足立に見せてきた。スキップを踏んでいる一人の男の絵だ。カードの外側を囲う枠には、アラビア数字のゼロが書かれている。それが頭を上にした状態で出てきた。しかし──

 

「おや……これは珍しい」

 

 絵柄を見せたのは一瞬のことで、宙に浮かんだカードはその場で独楽のように回転を始めた。そして数度で回転を止めると、絵柄は元と変わっていた。足立は知らないことだが、数日前にこれと似た現象が起きている。マリーとの絆について悠が尋ねた時だ。その時、イゴールは大アルカナの二十番目のカードである審判を裏返し、永劫のカードを示した。しかし──

 

「ふふ……カードが自ら裏返るとは。実に興味深い」

 

「自ら?」

 

「ええ、決して私が手品をしたわけではございません」

 

 イゴールは元より笑っていた顔に、更なる含みのある笑みを浮かべた。これを俗に、悪魔の微笑みと言う。

 

「最初に出てきたカードは愚者の正位置です。何者でもないが故に、何者にもなれる……。その宿命を背負った方を、私は幾人か存じております。貴方もその一人かと思いきや……似て非なるものであると、カードが告げて参りました」

 

 カードに描かれているのは一人の男であることに変わりはない。しかし元はスキップを踏んでいた男は、おどけるようにダンスを踊る姿になっていた。どこかへ向けて歩いていた男は、歩みを止めてその場で芸をしていた。ただし数字は元と変わらず、ゼロのままだった。

 

「で、これって何のカードなの?」

 

「ふむ、これは私も初めて見るものです。そうですな……『道化師』とでも申しましょうか」

 

「へえ……まあ、いいんじゃないの?」

 

 道化師。ピエロ。ジェスター。人を笑わせて、楽しませる者のことだ。現代ではサーカスに登場するキャラクターの一つだ。歴史的には宮廷道化師と呼ばれる、王侯貴族の笑い者にされる役割を担った者もいる。いわば王侯の『所有物』であるのだが、一方で彼らは絶対的な権力を持つ君主に無礼な物言いをしても許されるという、臣下や下僕は持ち得ない特権を持ってもいた。

 

 足立は実際、ふざけた振る舞いをすることはある。仮面使いの名人として、実際は楽しんでなどいなくても大騒ぎする道化にはなれる。そしてそうしながら、自分を笑う世間を逆に笑ってやることもできる。真の顔は他人に決して見せないまま、世界を嘲笑う者──

 

「結構。ではそろそろ、お暇させていただきましょうか」

 

 与えられた名に納得したところで、話は終わりになった。足立の視界は白く染まり、意識が遠くなり始めた。眠りに落ちる感覚に近いものだった。現実では眠っているはずだが、そこに戻る時にも眠るわけだ。

 

「それじゃね」

 

「お元気で」

 

 足立にとって、最初にこのリムジンに乗せられた時は退屈なだけだった。今回はそれなりに楽しめたが、もう来ることはないのだろうと漠然と感じていると──

 

「ただもしも……もしも貴方が将来、何らかの契約をなさった暁には、再びここを訪れなさるやもしれませんが」

 

 最後にこんな言葉が届けられた。視界はすっかり白くなっていたので、イゴールはどんな顔で言っているのか確認することはできないままに、足立は現実に戻った。戻った先には相棒がいた。

 

 

 

 

「お疲れのところ、済みません」

 

 昨晩にスナックで飲んだ四人組は、午後の時間に再び全員が顔を合わせた。ただし場所は飲み屋や警察署でなく病院である。堂島と足立は入院服を着ていて、他の患者はいない病室のベッドで、ヘッドボードに背をもたれかけながら座っていた。有里は堂島のベッドの横に置かれた小さなパイプ椅子に腰を下ろしており、黒沢はその傍らに立っている。

 

 この日の未明、堂島と足立は稲羽市立病院に意識不明の状態で担ぎ込まれ、そのまま入院することになった。だが二人とも外傷はなく、午後になると揃って目を覚ました。それで早速話を始めたのだ。

 

 ちなみに有里の服装は普通である。ジャケットの下は浴衣ではなく襟付きのシャツだ。スラックスと靴下も履いている。夜が明けて霧が晴れてから、有里は天城屋旅館に一度戻って仮眠を取り、着替えもした上で病院を再び訪れたのだ。

 

「いえ……こちらこそ、迷惑をかけたようです」

 

 堂島はベッドに入った体勢のまま謝罪した。その顔色はあまり良くなかった。傍から見れば、二日酔いで頭痛がしているような風情である。

 

「迷惑だなんて、とんでもないです」

 

 有里にとって迷惑なのはこの町で起きている事態そのものであって、堂島を迷惑に思う気持ちなどない。むしろ歓迎のハグくらいしてやりたい気分である。もちろん気分だけで、実際にはやらない。抱き締める代わりに探るような視線を作った。意図して。

 

「それより昨晩何があったか、覚えてらっしゃいますか?」

 

「……どうも飲みすぎたようで。よく覚えておりません」

 

「本当ですか?」

 

 有里の視線に含まれる相手を探る色が、ますます強くなった。心の上澄みだけでなく、その深層まで見通そうとするように。新しく手に入った武器や道具を手に取って、その使途を検討するように。観察の意図を隠そうともしないあけすけな視線を、現職の刑事に送った。もちろんわざと。

 

「覚えているのに、現実感がなさすぎて夢か何かだとお考えなのではありませんか?」

 

「……」

 

 探ってくる有里に対して、堂島の視線もまた強まった。飲みすぎて二日酔いであるなどとは、到底思えない視線の応酬だ。もう間もなく、視線だけでなく激しい意思の込められた言葉の応酬が始まる。やがてはより現実的な、力のぶつけ合いにまで発展する。そんな予感が二人の間に漂い始めた。

 

「足立さんはどうですか。昨晩のこと、覚えてらっしゃいますか?」

 

 しかし有里はそんな予感をあっさりと裏切った。もう一人の当事者である足立へと、視線を送る先を変更した。対する足立は困惑顔を見せてきた。

 

「えーと……覚えてはいますよ。いますけど……」

 

 幼稚園から小学校低学年くらいの子供であれば、『お化けが出た』と言っても許される。しかし良識と分別のある大人には、そんなことは言えない。言えないのだが、他の言葉も出てこない。自分は一体何に襲われたのか、まるで分からない。己の耳目を疑う事態に対しては、人は無口にならざるを得ない。そんな至極真っ当な反応を足立は示していた。少なくとも、外向きには。

 

「有里さん、何が仰りたいのです?」

 

 ここで堂島が口を挟んだ。実のところ、堂島も昨晩何があったか覚えているのだ。全てではないが、断片は記憶に残っている。例えば亡き妻の声を聞いたとか。ただ妻が生きているはずがないので、夢か幻だったと思っているのだ。

 

「貴方がたは、世界の真実をご覧になったのです」

 

 有里は一つの信条として、『嘘を吐かない』ことを心掛けている。しかし言葉が足りないことはあるし、相手に理解させる意図を持たずに端的すぎる言葉しか与えないことはある。そして有里がそういう言動をする時は、大抵はわざとである。

 

「……分かるように説明してくれませんか」

 

「ええ、もちろんです。ですが、ここでお話しすることはできません」

 

 抽象的な、しかも仰々しい物言いをしたのは、これに繋げる為だ。実際、全てを説明しようと思ったら相当に長い話になるので、ここで話すことはできない。

 

「どうしろと?」

 

「辰巳ポートアイランドに来ていただきたい」

 

 堂島は眉をぴくりと動かした。

 

「しかし私も足立も、仕事のある身ですので……」

 

 当然の反応である。県外まで来いと言われて、はい分かりましたと簡単には言えない。堂島はそんなに暇ではないのだ。しかし──

 

「そこはご心配なく。稲羽署には既に話を通してあります。来週の月曜から最長で一週間、出張としてお越しいただけます」

 

「は……!?」

 

「有里の言う通りです。署への手回しは、私がやっておきました」

 

 ここで黒沢が口を挟んできた。その瞬間、堂島は閃いた。昨日に署で殺人事件の捜査資料を調べていた時は、黒沢が主導して、有里は協力者としての立場だった。だが実は黒沢こそが協力者で、調査を主導していたのは酒を飲める年齢でさえない眼前の青年だったのではと。特に根拠らしいもののないただの勘だが、堂島はそんなことを閃いた。そして堂島は己の勘に一定の信頼を置いている。

 

 現職の、しかも本庁の刑事に手伝いをさせる、この青年は何者なのだ。夢のような昨晩の出来事を考え合わせると、堂島の勘は更なる警鐘を鳴らしてきた。これはただの殺人事件ではない。尋常ならざる何かが裏で動いている。それを見過ごすわけにはいかない──

 

「それから一つお知らせします。松永綾音が今朝、無気力症から回復しました。倒れた原因が分かりましたので、その件についてもお話しできます」

 

「!」

 

 これがとどめの一撃となった。こうまで言われては、もう絶対に見過ごせない。『世界の真実』などとのたまう謎めいた青年から、聞くべきことは全て聞き出さずにはいられなくなった。向こうの懐に来いと言うなら、行くしかない。それこそ万難を排してでも──

 

 そこで病室の扉をノックする音がした。室内の男四人が一斉にそちらを振り向くと、一人の看護師がドアを開けて入ってきた。そしてその後ろには、学生服を着た一人の少年がいた。

 

「失礼します。堂島さん、ご家族の方がお迎えに来られました」

 

「悠……」

 

 来たのは今月から同居している甥だった。今日は土曜日なので、授業は午前中で終わる。学校を終えてから、緊急入院した叔父を迎えに来たわけだ。

 

「では、我々は一旦失礼します。僕の連絡先はこちらですので」

 

 有里は一枚のメモを上着のポケットから取り出して、堂島に手渡した。受け取った堂島の視線には、相当量の訝しさがある。それは相対する有里にも当然分かっていたが、敢えて説明をせず、タイミング良く身内が現れたのを潮として一方的に話を終わりにした。堂島と足立は必ずポートアイランドに来ると確信しながら、有里は席を立った。

 

 ただ去り際に、有里は悠と目が合った。

 

「……どうも」

 

「失礼するよ」

 

 ただし目が合っただけだった。互いに名前も告げないまま、ごく簡単な挨拶だけをして、有里は病室を出ていった。黒沢もそれに続いた。

 

「叔父さん、大丈夫?」

 

 二人の男と看護師が去ってから、甥は叔父のベッドまで歩み寄った。

 

「ああ……心配かけたな」

 

「本当だよ。今朝病院から電話が来た時は本気で心配したよ。事件があった日みたいに、霧が出てたしさ……」

 

 言いながら、悠はさっきまで有里が座っていた椅子に腰を下ろした。そして両肘を自分の膝の上に置き、深く項垂れた。それはまさに、予期せぬ悲報によって突然の心労を背負わされ、途方に暮れる若者の姿だった。しかし──

 

「でもまさか、飲みすぎて入院だなんて……」

 

 堂島は目を丸くした。確かに昨晩は多めに飲んでしまった。だがまさかそのせいで、それ『だけ』が原因で、病院に担ぎ込まれたとの話になっているのかと。

 

「菜々子をごまかすの、大変だったんだよ?」

 

 悠は顔を上げた。その表情に浮かんでいるものは、確かに心労の一種ではある。ただし身内の体調を心配しているのではない。駄目な大人に呆れ果てて、疲れた少年の顔をしていた。これは堂島にとって非常にまずい事態だった。保護者として、刑事として、男として、とにかく色んな威厳に関わる。

 

「あ、ああ……そ、そうだね? あはは……ごめんね?」

 

 そして更に悪いことに、相棒がやらかしてしまった。足立は普段から口が軽く、それは堂島も分かっている。だがこれはいけない。へらへらと笑いながら頭を掻いて、軽い口調で謝ってしまった。これでは悠の言い分を認めているも同然である。

 

「はあ……」

 

 大きなため息を吐きながら、悠は再び項垂れた。疲れた顔は見えなくなったが、代わりに全身が語っている。『うちの叔父さんは、酒癖がとても悪い』と。先ほど有里に言われたことも見過ごせないが、これもまた断じて見過ごすわけにはいかない問題だ。とんでもない誤解をしている甥に、しっかりと分からせなければならない──

 

「もうすぐ旅行行くんだしさ……しっかりしてよ」

 

「!」

 

 だがまたしても堂島は先手を取られた。今日はとにかく、やられっ放しである。

 

「ああ……その、悠。済まんが、旅行の件は……」

 

「どうしたの?」

 

「実は……来週、出張に行くことになった。戻りは……いつになるか分からん」

 

「え、それじゃ……」

 

「済まん。急に決まったんだが、どうしても外せなくてな……」

 

「そ、そうなんだよ! 上からいきなり言われちゃってね! 昨夜はそれで、ヤケ酒みたいになっちゃってさ! ははは……」

 

 またしても相棒がいらないことを言ったが、もうこの際だからそういう話でいいと思った。娘との約束を守れず、甥に迷惑をかける駄目な父親であることは、もはや紛れもない事実となってしまったのだから。

 

「菜々子のこと……気にかけてやってくれ」

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