普段の堂島はスーツの上着を着ない。寒くなればもちろん着るが、春から秋の間は着ない日が多い。その方が動きやすいからだ。外出する時も羽織らず、手に持つか肩にかけている場合がほとんどだ。ならばそもそも家に置いておけば良いのだが、身に染みついた癖のようなもので、手元にないとそれはそれで落ち着かなくなる。しかし今日はしっかり着込んでいた。ついでに普段は緩めているネクタイも、きちんと締めている。
「高いな……」
身なりを整えた堂島は、高さが二百メートルはある摩天楼の入り口前で、しばし立ち尽くしていた。現代のビルを初めて見たからではない。普段の勤め先は建物の老朽化が指摘されている稲羽署だが、年中稲羽市内だけにいるわけではない。隣町の沖奈市に行くこともあるし、県警本部に出向くこともある。だからそこそこの都会的な風景は、何度も自分の目で見ている。しかし今見上げているものは、過去の経験とは規模が違っていた。
ここは八十稲羽から遠く離れた、港区の人工島辰巳ポートアイランド。桐条グループのお膝元だ。そのオフィス街に屹立する、とある超高層ビルを堂島は見上げていた。自分の目で見たものとしては、間違いなく最も高い建造物だった。
「あの……そろそろ入りませんか」
「おう……行くか」
故郷の町から一緒に来た若い相棒に促されて、堂島は気を取り直した。この先に何が待っているのか、まだ想像もつかない。だが門構えから気圧されていたのでは、話にならない。腹に力を入れて自動ドアの敷居を跨いだ。その手には数日分の着替えを詰めたトランクがある。
「遠い所から、わざわざありがとうございます」
受付で名前と用件を告げると、ロビーまで出迎えが来た。有里だった。稲羽市立病院で別れた後、有里は地元に戻ってきていたのだ。
八十稲羽には私服で訪れていた有里は、今日は紺色のスーツにノーネクタイという姿だった。しかし大学生や高校生が就職活動などで普段と異なる装いをするのとは違って、『世慣れている』という雰囲気があった。刑事として観察力には自信のある堂島だが、この青年が未成年であるとは、今一つ信じられなかった。
「いえ、これも仕事の一環ですから」
そうして有里の案内でエレベーターに乗り、堂島と足立は高層階まで連れていかれた。そして会議室と思しき部屋に通された。長いテーブルが部屋の中央にあって、左右に椅子が並べられている。部屋の構造としては、三日前に長い時間を過ごした稲羽署の応接室と似たものだ。
だが中身は全く違う。調度品の高級感は桁が違うし、部屋の奥には巨大なスクリーンがある。そしてテーブルには全ての席に、備え付けのタブレット端末がセットされていた。そんないかにも最新式ですと言わんばかりの会議室で、一人の女が待っていた。
「お待ちしておりました。私は桐条美鶴という者です」
席から立ち上がりながら、若く見える女は名乗った。桐条──
「稲羽署の堂島です」
「同じく、足立です」
堂島と足立は、女の姓に引っかかりを覚えつつも、まずは警察手帳を出して型通りの挨拶をした。すると有里は女の傍まで歩んでいき、そこで振り返った。
「どうぞ、お好きな席におかけください。先日貴方がたの身に起きたことを、これから説明します」
有里は早速とばかりに話を始めた。呼び寄せた二人の刑事が、女の姓名から余計なことを考えたりする前に、話すべきことを先に話してしまおうとするように。
「まず始めに、一日は二十四時間ではなかった……ということを申し上げておきます」
そして話の異様さでもって、わざと相手を混乱させて訳が分からない状態に追い込んで、そこから思い通りに進めようとするように。
昨年の1月末まで世間を大いに騒がせた無気力症は、シャドウと呼ばれる怪物によって引き起こされる。先月30日の未明、霧の中で堂島と足立を襲った怪物がまさにそれだった。シャドウに襲われた人間はいわゆる無気力症、有里たちは『影人間』と呼ぶ症状に陥る。先月中旬、霧の日に倒れた松永綾音と海老原あいは、それになったのだ。
この世には『影時間』と呼ばれる特殊な時間帯がかつて存在し、シャドウはその時現れる。普通の人間は影時間中には『象徴化』と呼ばれる状態になり、影時間の存在さえ認識できない。よって一般には全く知られていない。
そしてシャドウとは何かと言うと、人間が生み出すものである。人間は誰しも無意識の下に抑圧された精神を持っている。それは己の暗部であったり、こうなりたくないと思う姿であったりする。そうした精神的な存在が、人間の制御を離れて出ていったものがシャドウだ。人間はシャドウに対して基本的に無力だが、例外的に自らのシャドウを意識的に制御し、シャドウに対抗可能な人間がいる。それを『ペルソナ使い』と呼び、有里自身もその一人である。
「シャドウ事案に対処する為、ペルソナ使いから成る特殊部隊、通称『シャドウワーカー』の設立を昨年から桐条グループと警察庁で協議しておりまして、近日中にも正式決定する見込みです。貴方がたには、それへの参加をお願いしたいのです」
ここで説明は一旦終わった。未成年の大学生は言葉を切り、二人の刑事を見回した。
「何かご質問は?」
有里と堂島の目が合った。何か言えと促されていると感じた堂島は、やや躊躇いがちに口を開いた。言いにくいことを努力して口にするように。
「正直に申し上げれば……荒唐無稽な話に聞こえます」
これは当然の反応と言える。有里の説明は平たく言えば、『この世には人に危害を加える怪物がいるので、それに立ち向かう超能力者の集団に入ってくれ』ということだ。こんな話を聞かされて『知らなかった。世界にそんな危機が迫っていたなんて』と感心したり、『そうか、俺は世界を救う使命を与えられていたのか!』と勇み立ったりするのは、特撮やアニメが大好きな小学生か、せいぜい高校生までの子供だ。
分別のある大人であれば、まともに取り合うはずがない。それどころか怒って席を立つ者もいるだろう。堂島がそうしないのは、ひとえに一昨日の未明に超常の存在を目にしていたからだ。正確に言えば、目にしたような気がしているからだ。だが現実だったとは思っておらず、夢か何かだと感じている。
「ええ、そうでしょう。しかし事実なのです」
有里は頷いた。この言葉をこそ待っていたとでも言うように深く頷いて、席から立ち上がった。
「論より証拠。ご自分の力をご覧になれば、お分かりになるでしょう」
男三人は会議室を出て、エレベーターに乗ってビルの地下まで向かった。男だけである。今日は顔見せだけのつもりだったか、美鶴はついて来なかった。
辿り着いた地下は、奇妙に物々しい雰囲気があった。壁も天井も一面銀色で、金属的な光沢がフロア全体を覆っている。映画などでよくある近未来の施設を連想させる佇まいだった。宇宙船と言うか、秘密のラボと言うか。
そんな現代日本らしからぬ廊下を通り抜け、IDカードや網膜認証などのセキュリティシステムが施された扉を何枚も通り抜けて、三人の男は十メートル四方ほどの部屋に辿り着いた。廊下と同様に銀色の壁に覆われているが、設備と言えばテーブルが一台と椅子が数脚あるばかりの、何とも殺風景な部屋だった。そこに一人の男がいた。
「お二人とも、遠い所からご苦労様です」
「黒沢さん……」
警視庁の刑事である黒沢だ。これで先週に八十稲羽で顔を合わせた者たちが、ポートアイランドで再び揃ったことになる。ただし各々が演じる役は大幅に変えて。
「今日の私は証拠品です」
「は?」
有里に先んじて、黒沢は己の役割を説明した。しかし田舎から来た二人は、その言わんとするところを理解できない。しかしそれに構わず都会の二人は話を進めた。
「有里、頼む」
部屋の中央に置かれたテーブルの上には、四つの箱が用意されていた。掌に収まるサイズの小さな箱が二つと、アタッシュケースが二つだ。テーブルまで歩いていった有里は、小箱の一つを手に取り、蓋を開けた。それは赤いスイッチが一つだけついている、何かの起動装置めいた代物だった。
「見て驚かないでください」
返事を待たずに、有里は小箱のスイッチを押した。すると異界が出現した。
「え……?」
堂島と足立は二人揃って目を瞠った。部屋の電灯は全て消え、代わって空気が緑色に発光し始めたのだ。完全な暗闇ではないので視覚は一応きくが、暗視装置を通した映像を見ているようで、奇妙に落ち着かない。気温は心なしか下がったようで、スーツを着込んだ体にも寒く感じられる。だが何より驚くべきなのは黒沢だ。
「黒沢さん……?」
堂島の声掛けに返答はなかった。さっきまで黒沢が立っていた場所には、物言わぬ赤い棺桶が一つあるばかりで、人の姿はない。棺桶なのだ。何の脈絡も見えない、だがもしかしたら何かを暗示しているような、死者を収める為の箱が不吉に沈黙しながら立っている。
「これが象徴化と呼ばれる状態です」
そう言う有里は棺桶の姿になっていない。そして目を丸くしている堂島と足立も、人の姿のままでいる。
「この装置は一定の空間に影時間を再現させるものです」
簡単すぎる説明を終えるや、有里は再び小箱のスイッチを押した。すると冷たく邪悪な緑は去って、電気の光が照らす銀の部屋に戻った。黒沢も戻った。
「済んだか?」
棺桶に入っていた間、黒沢は自分がそうなっていたことを、いかなる感覚によっても認識できない。つまり黒沢にとっては、有里がスイッチを押してから切るまでの時間は『存在しなかった』のだ。だから事が済んだかどうか、本人には分からない。棺桶の中にいては、外界の事象は一切認識できないのだ。
「ええ、ありがとうございました」
自ら『証拠品』になってもらった刑事に礼を言いつつ、有里はもう一つの小箱を取り、蓋を開けた。そこにはいくつかの指輪が収められている。それはもちろん、何かの誓いの証とかの指輪ではない。見た目は何の変哲もない無骨な金属の輪だ。色も形も美しいとは言えず、宝飾品とはとても思えない代物だ。
「影時間で象徴化せずにいるには、その為の適性が必要になります。黒沢さんはそれを持ちませんが、疑似的な適性を付与する道具がありまして、それがこの指輪です」
言いながら有里は箱から指輪を一つ取り出して、黒沢に手渡した。黒沢はそれを右手の薬指に通し、堂島と足立にも見えるよう手の甲を二人に向けて説明を始めた。
「先週稲羽に行った時はこれをつけていましたので、私もシャドウを認識できたわけです。なければきっと、何があったのか理解できないままであったでしょうな」
有里は再び装置のスイッチを入れた。するとまたも緑の闇が部屋を覆ったが、今度は黒沢も棺桶に入らなかった。人の姿のままで話を続けた。
「しかし貴方がたは指輪なしでシャドウを認識できて、今も象徴化しない。貴方がたはご自分に備わった素養によって、影時間を体験可能なのです。私と違って」
ここに至って、単に事実を説明するのとは違う、ある真摯な思いが黒沢の声に加わった。しかし話は止まらず、核心にまで急いで触れた。
「そして堂島刑事はシャドウに立ち向かうことができて、足立刑事に至ってはペルソナを発現させた……。つまり貴方がたは、ペルソナ使いとなり得るのです」
「……」
堂島と足立は黙っている。実際のところ、二人は語られた話を理解しているとは言えない。しかし黒沢と有里は客人の困惑に構わない。言葉でいくら説明しても、分からないものは分からないのだ。ならば行動で示さなければならない。
有里はアタッシュケースに手を伸ばした。二つあるそれらを両方とも開け、その中身を取り出した。無造作に、当たり前のように。
「これをお持ちください」
「!……どういうつもりです!?」
堂島は目を剥いた。有里がアタッシュケースから取り出して、堂島と足立の前に持ってきたのは二丁の拳銃だった。日本では一般人は所持も携帯も許されていない、人を殺す為に作られた兵器だ。警察官として決して見過ごせない物だ。普段であれば、銃刀法違反の現行犯で逮捕するところである。
「ご心配なく。弾は入っていません」
差し出された自動式拳銃を、堂島と足立は一丁ずつ手に取った。すると堂島は即座にグリップからマガジンを取り出し、中を改めた。日本の警察官が装備するリボルバー拳銃とは勝手が違うが、さすがに職業が職業であるだけに銃器の扱いに慣れている。
「確かに……弾薬は装填されていませんね。銃口も詰められている」
「我々はそれを召喚器と呼んでいます」
「……」
堂島が手早く銃を調べている間、足立はずっと黙っていた。マガジンや銃口を改めもせず、兵器の形をしたそれを黙って見つめている。『特別』の証明であるそれを。拳銃とは、実は日本でも金と伝手さえあれば入手可能で、世界的には珍しくもない。しかし堂島と足立が手渡されたそれは、ありふれた兵器ではない。真の意味で『特別』の証明なのだ。それを言われなくても分かっているように、足立は召喚器を見つめている。
「足立さん、それの使い方が分かりますか?」
有里の問いかけに応えて、足立は手元から目を上げた。すると二人の視線が出会った。
有里湊と足立透。愚者とそれに限りなく近い者。元より変わった運命を与えられていて、そして更なる奇しき運命を見出した二人の男は、互いが互いから目を離さない。
「もしかして……こうですか?」
足立は右手を持ち上げ、銃口を自分のこめかみに当てた。拳銃自殺をするように。しかも足立は自分の銃を改めていない。堂島のそれと違って、実は弾薬が装填されているとしたら。僅かな指の運動だけで、人を殺せる状態にあるとしたら。もしもそうであったら足立は確実に死ぬ。しかし二十七歳の若い刑事は、躊躇う素振りを見せない。まるで自分の死など、どうでもいいと言うように。とうの昔に覚悟は済ませていると言うように──
「おい! 何してる!」
「その通りです」
堂島が焦るのとは対照的に、有里は飽くまで冷静に、ただ事実だけを告げた。足立が言われないまま正解を示したことにも驚かない。ペルソナ使いは召喚器の使い方を知らなくても、本能的に分かることが往々にしてあるのだ。有里も初めてペルソナを召喚した時は、教えられないまま召喚器の使い方を理解した。同じように足立も理解できたのだ。ただそれだけのことだ。
なお、本人は忘れているが、足立が『自殺』するのはこれが二度目である。最初は山野真由美をテレビに落とした日、天城屋旅館でうたた寝した時に見た謎の夢の中で行った。
迷いや躊躇いが一切ないまま、足立は引き金を絞った。
──
足立の頭からガラスが割れる音が響いた。本物の発砲音とは異なる硬質で甲高いその音は、この場の全員の耳に届いた。あらゆる戸惑いや疑念を切り裂いて、有無を言わせぬ確かな現実として。全ては真実であると証明するように、霧の稲羽でシャドウを蹂躙した赤と黒の魔人が再び現れた。
「な……!」
有里は初めて見るもので、黒沢と堂島は二度目だ。ただ堂島にとっては、意識がはっきりした状態で見るのは初めてだ。
「夢じゃ……なかったのか」
両目をこれ以上ないほど見開きながら、堂島は呟いた。一昨日未明の出来事を、堂島は覚えていたのだ。霧の中で妻の声に呼ばれ、謎の怪物に襲われ、相棒に助けられたことを。相棒は苦悶しながら赤黒い人型の『何か』を体から出して、怪物を叩き伏せた様を覚えていた。しかし覚えてはいても、信じられなかった。夢だと思っていた。だがここに来て、いわば『物的証拠』を突きつけられてしまった。
「そうです。夢みたいな話ですが、紛れもない現実なのです」
黒沢がフォローを入れてきた。どれだけ信じがたくても、リアリティのないお伽話のようでも、現実は現実でしかない。あり得ないと否定しようが嘘だと叫ぼうが、現実は何も変わらない。人間の認知に関わらず、ありのままに存在し続ける。だから分別盛りの大人であっても、否、分別があればこそ、現実に怪力乱神を見せられては認める以外にない。
「これが、僕のペルソナ……」
呆然とする堂島を余所に、足立は酷く落ち着いていた。動揺もしないし、もちろん吐いたりもしない。あたかも召喚器の銃撃でもって、頭痛や吐き気そのものを撃ち殺したように。
「そうです。名前は分かりますか?」
ペルソナ使いは自分のペルソナについては、どんな能力を持っているのか、どれだけの強さなのか理解できる。詳細まで分析するには専用のペルソナ能力や機材が必要だが、何と言っても自分のことなので、感覚だけでもある程度は分かる。そして名前も分かる。
「マガツ……」
「禍つ?」
「マガツイザナギです」
名前を呼ぶと同時に、ペルソナは姿を消した。足立はずっと冷静でいるが、有里は引っ掛かりを覚えた。そして考え込む。
(イザナギと言えば、日本の創造神だが……禍津神?)
不吉な名である。ペルソナは元より、世界の神話や宗教に登場する神や英雄の名前を持つものが多い。だから有里はかつての戦いの頃から、ギリシャ神話やキリスト教はそれなりに勉強していたし、それ以降は他の国の神話も積極的に学んでいた。だから『イザナギ』という神の名も知っている。だが頭に『禍つ』とつくとは、一体どういうことなのか。
(まあ僕のペルソナにも悪神は色々いる。由来は問題じゃない)
だが考えたのは一瞬だけで、有里はすぐに頭を切り替えた。由来や姿が不吉なペルソナなど、有里が持つものの中にも大勢いる。例えば聖書でも言及されている蠅の魔王などの大物から、夢魔や食人鬼などの小物まで、数え上げればきりがない。そしてそうした邪悪な存在であっても、それが何か問題を起こすわけではない。ペルソナは心の一側面であり、悪は誰にでも存在する。
足立のペルソナ呼称に関する思考を打ち切って、有里は説明を再開した。
「ご覧の通り、召喚器はペルソナ召喚をサポートする為の道具です。ただし熟練すると、なくても召喚可能になります。このように」
有里は瞬きを一つした。すると音もなく、忽然と一つのビジョンが頭上に現れた。赤い服を着た、人形めいた体のペルソナだ。ただし首から上は人間のそれで、白い顔と金髪が鮮やかな光を放っている。そして大きな竪琴を背負っている。霧の稲羽で堂島の傷を癒やす為に呼んだ、白い男のペルソナとは別物である。
このペルソナは名をオルフェウスと言い、ギリシャ神話の登場人物である。日本の創造神とは、比較神話学の対象としてよく引き合いに出されている。
「まずは召喚器を使った召喚を、確実にできるようになってください」
それから有里はペルソナに関する説明を続けた。例えばペルソナは影時間でしか召喚できないわけではなく、原理的には通常時間であっても可能であること。現在のところ稲羽で影時間は確認されていないが、霧が出るとそれに非常に近い状態になることなどだ。それらの一連を説明してから、有里は堂島に向き直った。
「やってみてください」
足立は力を示した。次は堂島の番である。
「……分かりました」
事がここまで至って、ようやく堂島も腹を括った。召喚器を持ち上げて、銃口をこめかみに当てる。元がダブルアクション式の拳銃である召喚器は、親指で撃鉄を起こす必要もない。人差し指一本だけで撃てる、ごく簡単なものだ。弾が入っていれば確実に死ねる状態から、堂島は引き金を絞った。素早く、躊躇いなく。しかし──
「……何も起こりませんが」
ガラスが割れる音が響いた足立の時と違って、堂島が撃った召喚器は、カチッと撃鉄が倒れる音がしただけだった。そして何も現れなかった。影も光も、何も出てこない。堂島の頭上には、緑の闇がぽっかりと空いているだけである。
「あれ?」
隣で見ていた足立は目を丸くした。実は少しばかり期待があったのだ。自分にペルソナがあることは、一昨日未明に吐き気を催した時から分かっていた。だが堂島にもあるとの見立てを聞いて、何とはなしに期待する気持ちがあった。日常の相棒は非日常においても相棒になるのかと。それを嫌とは感じていなかったのだ。しかし肩透かしを食らってしまった。
「ふむ……」
そして有里も腕を組んで考え出した。見込みのある人間が、召喚器を撃っても何も起こらない。それはなぜか。過去の実例と推察できる堂島の心境を照らし合わせてみると、一つの仮説が思い浮かんだ。
(これは、ゆかりのケースの逆パターンかな)
二年ほど前に有里がこの土地を訪れて、最初に出会った少女のことだ。彼女はペルソナの素養を見込まれていたものの、召喚に成功するまでかなりの時間を要した。拳銃の形をしたもので自分の頭を撃つ行為に、恐怖を過大に感じていた為だった。
堂島はそれとは逆に、恐怖を感じていない。その理由は、銃器に接する機会が職業的に多い為だ。弾薬が装填されておらず、銃口に樹脂が詰められた拳銃など、撃っても何の危険もない。その事実をしっかりと分かっている為、ペルソナが顕現しないのだ。
「召喚器が拳銃を元にしているのは、ペルソナ召喚の基本は死を覚悟することだからなのです」
ペルソナが住まうのは、死の彼岸に広がる大いなる海だ。死の恐怖を乗り越えなければ、ペルソナを操ることはできない。召喚器は所詮は玩具みたいなものだが、一般人なら多少なりともそれに恐怖を感じる。だから撃つことに意味がある。しかし玩具であることを理解しすぎると、そもそも恐怖が生まれない。生まれなければ、乗り越えるも何もない。だから召喚器を撃っても何も起こらない。堂島が陥ったこの厄介な問題を、どうやって解決するか。
「リボルバー式の実銃に実弾を一発だけ装填するのが、一番効果的ですが……」
手っ取り早いのは、玩具ではない本物を使うことだ。生物として最も根源的な恐怖を、仮想ではなく現実に呼び起こす。その恐怖を、ただ指一本の動きだけでもって乗り越える。生きるか死ぬかは運次第。ロシアンルーレットこそが最も効果的で、かつ真実のペルソナ召喚なのだ。有里自身、経験があるからよく分かる。
「マジですか?」
足立が尋ねてきたが、有里は薄く笑った。
「冗談ですよ。召喚はできるはずですが、危険すぎるので推奨はしません。それに成功しても発揮される力が過大になって、ペルソナが暴走してしまう可能性が高いです」
冗談だが、真面目な話でもある。有里もロシアンルーレットをやったのは過去に一度しかない。それ以降にやらなかったのは、もちろん危険すぎるからだ。怖いもの知らずだった当時はともかく、今はやれと言われても絶対に断る。ついでに言うと、やった後で妻に咎められて、もうやらないと約束もしている。
「要はイメージです」
とにかく無茶はできない。安全でいる中で危険を感じてもらい、それを乗り越える。一種の矛盾した難題を克服する為、有里はあの手この手を試してみた。
「想像してみてください。それは玩具ではなく本物なのだと」
失敗した。言葉をいくら尽くしても、偽物だと知っている人間に本物と思わせるのは至難の業だ。
「優れた剣道家は、気迫でもって竹刀を真剣に見せることもできると言います。同じように、モデルガンを実銃に見せるつもりでやってください」
やはり失敗した。堂島は警察官として剣道も修めているが、時代劇に登場する剣豪のような離れ業はできない。
「うーん……そうだ! 銃って何か、それ自体がロマンみたいなもんじゃないですか。ここは一つ、ハードボイルドな映画みたいに『頼むぞ、相棒』とか言いながらやってみたらどうです? 堂島さんだったら、絶対似合いますよ!」
「馬鹿野郎……んな恥ずかしいセリフ言えるか。高校生じゃねえんだぞ」
「そっすか? じゃあ『今宵のペルソナは血に飢えておるわ』とか……」
足立にも色々なアイディアを出してもらったが、それらも全て失敗した。
結局、堂島のペルソナ召喚は成功を見ないままに、この日は終わった。もし今日のうちに成功していたら、娘と約束した旅行の日程に間に合うように家に帰れたかもしれなかったのに。しかしどんなに頭を捻っても想像力を逞しくしてみても、堂島からペルソナは出てこなかった。酷く恥ずかしがり屋な、初心な少年のように。
P4Uをプレイしていない方の為に、シャドウワーカーについて少し解説します。
・2010年11月、桐条グループがエルゴ研の負の遺産を警察庁に開示。提出と引き換えに対談を実施。対シャドウ組織の設立を提案。
・2011年5月、公安警察と桐条グループが共同で警備部シャドウ事案特別制圧部隊シャドウワーカーを設立。リーダーは桐条美鶴。正式メンバーとして旧特別課外活動部よりアイギスが参加。その他に桐条家メイドの斉川菊乃などペルソナ使いでない者も参加。他の旧特別課外活動部メンバーは非常任として参加。
以上が公式設定です。今回の話で出てきた影時間の再現装置や適性を付与する指輪などは、いずれも原作P4Uに登場するアイテムです。
本作では有里や桐条武治が生き残ったことで、組織の構成などに若干の違いはありますが(アイギスは産休中とか)、基本的には原作の通りです。この後にどう変わっていくかは、続きの話をご覧ください。