ゴールデンウィークも既に後半、今日は憲法記念日である。世間は祝日で大学も休みだ。しかし有里は昨日に引き続いて、今日の予定も仕事で埋まっている。妊娠中の妻を家に残して、職場である桐条グループ所有のビルにやって来た。新たなペルソナ使いである足立と、候補の堂島の訓練の為である。
そして日が傾き始めた午後の時間、有里は高層階の会議室に向かった。上司である美鶴から、相談したいことがあると呼ばれた為だ。
「来たか」
昨日は二人の刑事を迎えた部屋に、美鶴は既にいた。部屋の奥の椅子に足を組んで座りながら、タブレット端末を操作しているところだった。
「何事でしょうか」
「足立刑事のプロファイルが上がっている。見てみろ」
言われて有里も席の一つに置いてあったタブレットに指を触れて、リンクを辿り始めた。すると『稲羽市のシャドウ事案について』と題された一連の文書の中に足立の経歴とペルソナの調査報告書を見つけ、中身を表示させた。
報告書の最初のページには、足立の生年月日や出身地、学歴や職歴などが大まかに書かれている。それによれば、学生時代の成績はかなり優秀でとある一流大学に現役合格し、公務員試験も良い成績で通ったとのことだった。そして警察官になった当初は県警本部で勤務していたが、今年の4月から稲羽署に異動になったと記されている。ただし『異動』の詳しい経緯は記されていなかった。
しかしそうした表の経歴などは、有里にとってはどうでもいい話であり、美鶴にとっても特に重視する事柄ではない。だから有里は報告書の最初は軽く流して、端末を操作して次のページへとすぐに表示を切り替えた。そこには足立のペルソナについて、かなり事細かに記されていた。
読んでみた途端、有里は目を見開いた。冒頭の部分にこう記されていたのだ。
<ペルソナ呼称:マガツイザナギ>
<アルカナ:愚者>
「これは……アルカナの解析に間違いはないのですか?」
「ああ、間違いない。足立刑事のアルカナは君やアイギスと同じだ」
愚者はタロットの大アルカナにおける最初のカードである。ただし一番目ではなく『ゼロ番目』と数えられ、タロットの版によっては通し番号が振られていないこともある特殊なアルカナだ。そして愚者を象徴とするペルソナ使いは、桐条グループは過去に二人確認している。有里と妻のアイギスだ。
「では足立さんも複数のペルソナを?」
「いや、それはないとのことだ。だが戦力は尋常ではない。ポテンシャルでは私や明彦よりも上で、ストレガのタカヤに匹敵するレベルだ」
ペルソナ能力にも限界はある。成長の上限がペルソナごとにある程度決まっており、それを超える力は基本的には得られない。得るには何らかの強い決意や他のペルソナと融合するなどの方法によって、ペルソナを進化、変容させる必要がある。美鶴はかつての戦いにおいてペルソナの進化を一度経験しており、そのいわば『二段階目』のペルソナも既に限界近くまで成長させている。そんな美鶴を、目覚めたばかりの足立は潜在的には凌いでいると言うのだ。
「……そのようですね。僕のペルソナと比べても、ほとんど差がありません」
報告書に改めて目を通した有里は、美鶴の評価に納得した。調査によれば、マガツイザナギは非常に強力な全方位型のペルソナで、膂力や魔力の程度は、いずれもそれぞれの特化型と同等の域にある。能力の種類は電撃と疾風の魔法を使いこなし、物理的な打撃の技も高いレベルで扱う。更にはあらゆる存在を等しく薙ぎ払う万能の魔法や、敵の精神に作用する魔法、自分の能力を強化する補助魔法も、将来的には使えるようになると見込まれている。
そしてほとんどのペルソナやシャドウは何らかの弱点を抱えているが、マガツイザナギにはそれがない。逆に光と闇の力に対して完全な耐性を持つなど、死角がまるでない。これはもはや並のペルソナとは一線を画した最強の一角と言える。
だがこれほどの潜在能力を有しているとなると、懸念されるのは安定性だ。身の丈に合わないペルソナは、本人や周囲に多大な危険をもたらす。だが──
「不安定さはなし……ですか」
報告書の次のページには、安定性に関する調査結果が記されていた。それによれば普段及び召喚時に、暴走に繋がる危険な兆候などは確認できなかったとのことだった。
「ああ。以前の荒垣やストレガのように制御剤が必要なのかと心配したが、その点も問題ないらしい。本人の申告によれば、先日の稲羽で初めて召喚した際は激しい嘔吐感があったらしいがな。その報告書にあるのは召喚器を使った場合の調査結果で、見ての通り良好だ」
つまり事実上、リスクなしで力を使えるというわけだ。なぜなのか──
「こういうケースは……コロマルの例がありましたね」
有里と美鶴が知る過去の実例の中では、ワイルドでない普通のペルソナ使いたちは、その多くが最初は並の力しか持たなかった。そして例外的に強大なペルソナを初めから持っていた者たちは、その多くが安定性に欠けており、余命を削るほどの副作用がある制御剤を服用しなければならなかったのだ。だが更にその例外として、強大なペルソナを初めから完全に制御していた者もいた。それが有里の言っている異色のペルソナ使い、今は有里が自宅で飼っている犬だった。
「そうだな」
その犬、名をコロマルがなぜペルソナを安定して使えたのか、はっきりしたことは分かっていない。だが有里の推測では、大きく分けて二つの要因があった。一つ目は出会う前の辛い体験、具体的に言うと以前の飼い主の死だ。もう一つは、人間と動物の死に対する向き合い方の違いだ。そうすると──
(この人、過去に色々あったのかもな)
人は絶望しやすい生き物だ。金や物に恵まれていてもいなくても、絶望する時はする。たとえ客観的には報告書に記されないような些細な出来事であっても、主観的には生きる希望を失うほどの衝撃となることはあり得る。足立はそうした出来事を過去に経験していて、そしてそこから立ち直っているのだとすれば。簡単に言うと、『大人』であるとすれば。強大なペルソナを自在に操るだけの、十分な適性を初めから備えていることもあり得る。それくらいで有里は足立の不自然さに納得した。
「とんだ逸材でしたね」
無論、現時点で顕在化している力量においては、足立は有里や美鶴に遠く及ばない。だがペルソナ能力は通常の運動能力と比べて非常に速く成長する。今後の経験次第では、一年も経たないうちに組織の主力としての活躍が期待できるかもしれない。
「確かに……。本意ではないが、これほどの力を持つ者を放ってはおけない」
美鶴は元々、足立たちを巻き込むことに積極的ではなかった。だがこの調査報告によって考えを変えざるを得なくなった。そして有里はと言えば、以前からあった疑問に対する解答を得た気がした。
(稲羽のベルベットルームは、この人の為にあるのか……)
先月29日の夜に稲羽の商店街で、久々に訪れた部屋のことだ。イゴールはあの部屋を有里ではない、別の人間の為に用意したのだと明言した。韜晦を好むイゴールにしては珍しく、そうとはっきり言っていた。
ワイルドでないのであればベルベットルームに行く必要はない。だがそれでも稲羽のあの部屋は、足立の為にあるのだと有里は確信した。なぜならペルソナ能力は後から変質することが往々にしてあるからだ。より強力なペルソナに進化するだけでなく、全く異なる性質のものに変わることもある。
(今はワイルドじゃないが、将来は目覚めるかもしれないしな)
複数のペルソナを操るワイルドの能力は、ある意味では後天的なものだ。有里自身もワイルドは生まれ持ったものではなく、十年ほどの期間に渡って体内に住まわせていた、ある存在の影響によるものだ。もしもそれがないまま普通に影時間の適性を得て、普通にペルソナに覚醒していれば、有里は『一段階目』のオルフェウスのみを操れる並のペルソナ使いであっただろう。今となっては確かめようがないが、そう推測できた。
そして有里の妻であるアイギスもワイルドだが、そちらはまさしく後から目覚めた。更に言うと、ワイルド以外でも能力を後付けした例はある。例えばシャドウの探知や解析の能力を、美鶴は後から自身に付与していた。そのようにペルソナ能力とは限度はありつつも、色々と融通がきく代物なのである。
こうして有里は納得した。だから気付かなかった。まず足立のアルカナは愚者ではなく、道化師であることに。桐条グループのペルソナやシャドウ研究におけるタロットの大アルカナを元にしたカテゴリーに、道化師は存在しない。だからそれと最も近い愚者のアルカナだと誤認したのだ。そして稲羽のベルベットルームは足立の為ではなく、未知のワイルドの為に用意されたことに有里は気付かなかった。可能性さえ考慮しなかった。
「それから、堂島刑事のプロファイルも上がっている」
気付かないまま、有里と美鶴の話は次へと進んでしまった。有里は促されるまま、堂島について記された文書を開いた。
「やはり、堂島さんにも見込みはあるようですね」
堂島は未だペルソナの召喚に成功していない為、報告書の分量は足立のそれよりずっと少ない。だがペルソナ使いとなる素養は、間違いなくあると記されていた。最初に堂島を見出したのは黒沢だが、その見立ては正しかったわけだ。有里はまずそれを確認してから端末を操作し、堂島の経歴に目を通した。報告の内容は二十年に及ぶ警察官としての実績が中心で、実直に仕事に取り組んできたことが、それからだけでも分かる。
その中で一点、有里の目を引いた記述があった。堂島は妻を交通事故で亡くしている。ひき逃げ事件で、犯人は未だ捕まっていないとあった。だが詳しく内容を確認する前に、次の美鶴の言葉で思考は中断された。
「彼らの加入はやむを得ないと、私も思う。そこで懸念されるのが……公安の動きだ」
昨日に堂島と足立にも説明したが、シャドウ対策の新組織『シャドウワーカー』は桐条グループと警察庁、特にいわゆる公安警察が共同で立ち上げることになっている。しかし現時点では、両者は緊密な協力関係にあるとは言えない。むしろ警察は桐条を出し抜こうと虎視眈々とその機会を伺っており、桐条はそうはさせまいとしている。言うなれば、綱引きの真っ最中だ。
「公安は必ずや、二人を自分たちの側に引き入れようとするだろう」
大いにあり得る話である。同じ警察でも公安と刑事では職務に大きな隔たりがあるが、それでも身内だ。そして堂島と足立はペルソナ使いとして新組織に参加することになる。これまでペルソナ使いは桐条グループの関係者しかおらず、シャドウ対策の経験と知見も、当然ながら桐条が圧倒していた。だから両者の交渉は桐条の主導で進められてきたが、ここで警察は一つのカードを手に入れることが可能になる。美鶴はそれを心配しているわけだ。
美鶴が相談したいと思って、有里を呼んだ理由はこれである。対する有里は端的に答えた。
「むしろ二人をグループと警察を結び付ける楔として使うことを考えては?」
「ふむ……」
「僕たち自身は、過去のグループの暗部に関わっていたわけではないのですから。まあ……敢えて言うなら、未成年の身で実戦をしていたのはあまり良くありませんが。でもそんなことは、とっくに向こうも承知しているでしょう」
そうなのである。警察や政府との交渉の前面に立っている美鶴と、その補佐をしている有里は今現在も未成年のままである。美鶴はもう間もなく二十歳の誕生日を迎えるが、有里はまだだ。そして新組織の前線における実働部隊、つまりは戦闘要員となるべきペルソナ使いは、足立と堂島を除けば常任と非常任を含めて全員が未成年だ。
従って人選を見れば、過去のシャドウ対策は未成年を中心に行われていたことは、誰でも容易に判断できる。よって年齢に関しては、今さら問題にする方が話の順序的に言っておかしいくらいである。
「要は隠し事を極力しないことです」
「耳が痛いな……」
美鶴は苦い笑いを浮かべた。昨年初めに一区切りがついた戦いにおいて、美鶴は責任者の立場にいたのだが、仲間たちにはかなりの秘密主義で臨んでいた。戦いが本格化した二年前の4月からペルソナ使いの仲間が急増したのだが、彼らには過去の桐条グループとシャドウの関わりなど、自らの暗部に触れる点は意図的に隠していた。しかし後になってからその点に関して突き上げを食らい、チームの雰囲気を一時的に悪化させてしまっていた。
「分かった。その方針で考えよう。二人には話せる限りのことを話そう」
簡単に言えば、誠意をもって向き合うということだ。何一つ隠し事をしないというわけにはさすがにいかないが、話せること、話すべきことは先に言っておく。そうすることで、公安が堂島と足立に接触しても印象のコントロールが可能になる。むしろ上手く使えば、桐条グループと警察の結び付けに利用できる。
そもそも新組織を警察と共同で設立となったのは、桐条の側から求めてのことである。その理由は、シャドウ事案は全国至る所で、広くは世界のどこでも発生し得るものだからだ。それに対応するには警察の協力が不可欠だ。よって長期的に見れば、警察との対立は桐条グループにとってもデメリットしかないのだ。
「だが有里、君の役割はますます大きくなるぞ」
今後の方針が一つ決まったところで、美鶴は話題を次に移してきた。
「はて……何のことでしょうか?」
「決まっているだろう。足立刑事の素養がいかに優れていると言っても、まだまだ未熟だ。それに彼らに不信感を抱かれない為には、我々が真摯に事件に向き合っていることを示さねばならん」
良くない話の流れである。有里にとって。
「どうしろと?」
「稲羽への赴任を頼みたい」
「お断りします」
即答である。一瞬の迷いもなく、あっさりと蹴った。
「では提案ではなく、命令しよう」
シャドウワーカーは特殊部隊、いわば軍隊である。そして軍隊であれば、部下は上官の命令を聞く義務がある。そうでなければ全体の行動に混乱をきたしてしまう。部下は命令の遂行に最善の努力を尽くし、上官は結果に対して責任を持つ。それが組織というものである。
「では命令に対して、意見を申し上げます」
しかしそうは言っても、命令は絶対ではない。明らかに間違った命令の為に、組織全体が危機に陥っては本末転倒だ。よって不当または不合理な命令に対して、部下は意見を述べる権利がある。ただしその権利を行使するには、かなりの大胆さを要求される。しかしそうした点において、有里は相当な胆力の持ち主だ。特に自分の利益を守ることに関しては、遠慮というものが基本的にない。
「本業を気にしているのなら、心配には及ばない。オンラインでの講義の視聴とレポートの提出で、単位を取得できるよう取り計らおう」
ここ数日、仕事ばかりしている為に忘れそうになるが、有里の本業は大学生である。過去の戦いの頃も、本業は高校生であったように。
「そういう問題ではありません」
学業の問題を軽くいなして、有里は反論を始めた。
曰く、これまでの被害の状況から、稲羽では霧の日のみにシャドウが出現すると推定される。また、ここ数ヶ月の稲羽市周辺の天候実績を確認したところ、霧が発生する頻度は月に一回から多くても三回程度。そして霧の発生日時は一般向けの天気予報レベルでも予測されており、しかも確実に的中している。従って霧の発生が見込まれるタイミングで、有里が稲羽に出張し、アドバイザーとして堂島と足立を支援してやれば十分。今後に状況が変化すれば検討の余地があるが、現時点では常駐する意味はない。かえって二人の行動を阻害する要因になる──
「警察もそうですが、現場にも相応の役割と権限を与えなければいけません。何でも本部が口出しすれば、それで事態が改善するわけでもないでしょう」
道理である。例えば日本の警察では警察庁が組織上の頂点に立つが、彼らは全国各地で起きる事件の実働捜査は基本的に行わない。行うのは各都道府県の警察本部と、地域ごとの所轄の警察署だ。連続殺人のような重大事件では上部の組織も現場に出向くが、事件の規模が小さくなればなるほど、下部の組織が独自に対応していく。それは組織運営の手法として、効率性の観点においては当然のやり方である。
「実戦の指揮は当面僕が取りますが、将来的には彼らに現場指揮権を持たせることも考えるべきです。何と言っても、稲羽は彼らの町なのですから」
「そうか……」
美鶴の言葉から勢いが消えた。いささか呆気ないほどに。もし『シャドウの発生時期を断定するのは時期尚早』とか、『有事にだけ出向くのは、体よく利用されているだけとの印象を堂島と足立に与えかねない』とか言えば、この議論はもっと長く続いたであろう。しかし美鶴はそうしなかった。
(新婚早々に単身赴任なんか、冗談じゃない)
有里が命令を拒否する最大の動機はこれである。道理をつらつらと述べながらも、決して嘘を言っているつもりはなくても、やはりそうなのだ。そしてそれを美鶴も察している。
かつての戦いの頃は、コミュニティと呼ばれるものによって美鶴を含む当時の有里の仲間たちは色々と惑わされてきた。しかしコミュニティが使命を終えた今は、そう容易く惑わされはしない。組織の上役として普通に持ち得る洞察力でもって、普通に有里の真意を察することができている。それにも関わらず、議論を投げ出すように常駐の要請を取り下げた。なぜなら──
(やれやれ……扱いが難しい部下だ。しかし無理にやらせるわけにもいかん……)
シャドウ対策自体は絶対に必要だが、それに人を使うことに美鶴は積極的になれずにいるからだ。桐条グループと関係のない他人は無論のこと、かつての仲間たちに対してもそうである。彼らには彼らの生活があり、人生があるのだから、可能な限りそれを乱したくなかった。
だから例えば過去の戦いにおける情報担当のペルソナ使いは、ある意味で最も必要な人材であるにも関わらず、新組織に正式参加する予定はない。本人がそれを望んでいないからだ。有里は正式参加する予定なので、もし命令を素直に聞いていればそれで良かった。しかし反論に反論を重ねてまで、有里とその妻の生活をかき回すのは本意でなかった。
この日の訓練を終えてビルの外に出た足立は、隣を歩く堂島に軽い調子で話しかけた。
「ちょっと町に出てみません? 有里さんから、いい店があるって聞いたんすけど」
堂島は今日もペルソナの召喚に成功しなかった。影時間には既に馴染んでいて、桐条グループによる種々の調査では徐々に改善しているとされているが、達成には未だ遠い。しかし四六時中訓練ばかりしていても、成果が出るわけでもない。
何事もそうだが、根を詰めれば結果がついてくるわけではないのだ。ましてペルソナ能力は極めて精神的なものだ。時には気分転換も必要になる。有里はそんな意図を持って足立に外食を勧め、足立はそれに乗ったというわけだった。
そうして二人の刑事は夜のポートアイランドに出かけた。ちなみにこの二人は昨日の出張初日は訓練を終えた後、桐条グループ所有の高級ホテルに案内され、食事はそこで取った。だから観光をするのは、今晩が初めてである。
有里から聞いた店の情報を元に、二人はポートアイランドの駅前にやって来た。映画館などがある広場を通り抜け、細い路地に入る。すると背の低いビルの一階部分に、木製の引き戸の扉があった。外目にはちょっと古い感じの、だがシンプルさの中にもセンスが感じられる、レトロとモダンが融合した佇まいの小料理屋だった。黒の暖簾には白抜きで『シンジ』と書かれている。相撲や寄席でよく使われる、極太の書体で。
「いらっしゃいませ」
入ってみると、無骨な男の声で迎えられた。店内にはカウンター席が十席弱と、小上がりになっている座敷が一つあった。カウンターの向こうには、作務衣を着た板前が一人いるだけだ。音楽はかかっておらず、テレビなどもない。ささやかな規模で隠れ家的な雰囲気を醸し出している。
「へえ……いい感じっすね」
足立は感心した。こういう店は、先日に飲んだスナックよりも足立の好みに合っていた。
「お好きな席にどうぞ」
板前に促されて二人はカウンター席に座り、取り敢えずビールを注文した。
「料理はどうなさいますか?」
「お勧めを適当にお願い」
そして料理は店に任せる形にした。こういう頼み方をすれば値段も張るものだが、足立は頓着しなかった。
「おい……」
「いいじゃないっすか! せっかくだし、好きに飲み食いしてやりましょうよ!」
足立にすれば、何を食べるか考えるのが面倒というのもあるが、予算の心配がないこともある。今回の『出張』にかかる経費は、全て桐条グループが負担する話になっているからだ。交通費やホテル代は無論のこと、食事代も全てそうだ。公務員の出張費関係は色々と世間がうるさいものだが、今回はそうした方面にも桐条の手が伸びている。だから自然と足立は気が大きくなっていた。
「畏まりました」
堂島にすれば、人の金で飲むのは気が進まない。しかし板前は早速仕事に取り掛かってしまったので、辞退する機会を逸してしまった。
「うまいな……」
前菜から始まって吸い物に手をつけた頃、堂島は思わず呟いた。妻を失って以降、惣菜ばかり食べているものだから、堂島は味覚に自信のある方ではない。だがそれでも、うまいものはうまいと感じる。板前が一人でやっている小さな店だが、味は一流だった。素人の舌を唸らせるくらい、造作もないほどに。
「お勧めなだけありますね。有里さんって、いつもこんなの食ってるのかな」
続いて刺身が出てきた頃から、二人の飲み物はビールから日本酒に変わった。どんな料理にも、それに最も相応しい酒というものはある。しかし日本酒はビールよりもアルコール度数が高い。二人で銚子を手に取って猪口に注ぎ合っているうちに、堂島は段々と口が軽くなってきた。
「世の中には何でも表と裏がある。だから警察にも、表に出せねえ裏の仕事ってのはあるんだ。そんくらい知っちゃいたが……」
堂島は酒が入ると言動が変わるタイプだ。先日、甥に酒癖の悪さを呆れられたばかりだが、実際のところ、それほど的外れではないのである。さすがに病院に担ぎ込まれるほど飲みはしないが、潰れて前後不覚になることはままある。そして今日は隠語を使うことも忘れている。
「裏の仕事をするのが気に入らないんですか?」
だが足立はそれを上司兼相棒に注意したりはしなかった。この店には他の客がいないし、板前も焼き物の準備で店の奥に引っ込んでいるから。
「それもあるが……一番気に入らんのは名前だ!」
堂島の声が急に大きくなった。飲み干した猪口をカウンターに叩きつけ、酒で赤くなった顔を更なる朱に染める。元より色づいていた柿が、熟しきって枝から落ちる寸前にまでなってしまった。
「何だ、シャドウワーカーって! 子供向けの戦隊物か!? 警察舐めてんのか!」
「わ、わーわー!」
慌てて足立が騒いだ。客は他にいないが、板前は店の奥にいるのだ。これだけ大声を上げれば必ず聞こえる。そして今の堂島のセリフは世間に漏らしていい話ではない。情報漏洩をしでかした企業や警察が、謝罪会見を開いたりするのはよくある話だが、これはそんな程度で済む問題ではない。シャドウワーカーは国家機密に匹敵するレベルの話だ。
「あー……ははは! 戦隊っすか! たまにはそういうノリもいいっすねえ! つまりこういうことっすね! 堂島さんはブルーで、僕はイエローってとこで! 有里さんはブラックかな? 彼、何か腹黒い感じだし……」
足立は堂島を凌ぐほどの大声を出しながら、話を合わせているように見せつつ無理やりに逸らした。職場の上司や同僚を、特撮番組の定番である戦隊物になぞらえているかのように、会話を装った。
ちょうどそこで板前が戻ってきた。両手に一つずつ、大きめの皿を持っている。
「イシモチの塩焼きです。どうぞ」
「あー、ありがとう! 凄いね、うまそうだ!」
足立は内心で焦りながら、手を伸ばして差し出された皿を受け取った。その時、板前と目が合った。これまで足立は相手の顔を注意して見てこなかったが、この時になって驚いた。板前は腕に反して、随分と若かったのだ。多めに見積もっても足立より若い。ひょっとすると、今年辺りに成人式を迎えたばかりであったりして──
などと思っていたら、板前は作務衣帽子の下にある目を鋭くしてきた。
「お客さん……ご覧の通り、うちはガラガラですがね。けどちっとばかり、声が大きいんじゃないですかね?」
そしてよく見れば、右の頬から首にかけて火傷の跡があった。年こそ若そうだが、鋭い目つきと相まって、なかなかの強面だ。
「はは……うるさくしてごめんね?」
足立は内心で冷や汗をかいていた。もちろん眼前の若者の凄味に恐れ入ったのではなく、不穏なキーワードを聞かれていないかと心配してのことだ。しかし若者は急に視線を緩めた。
「戦隊物っつったら、今はフェザーマンでしたっけ? 知り合いに好きな奴いますけど、大人になっても見るってのも、別に悪くないっすよね?」
「う、うん。そうだよね? お兄さん、話分かるね? ほら、堂島さん。いい肴が来ましたよ!」
そうして二人の刑事は食事を続けた。その後の会話は声のトーンを落として。
「何やってんだろうな、俺は……」
焼き物に続いて出てきた煮物も食べて、止めの味噌汁も飲み終えた頃、堂島は猪口を手に呟いた。銚子は飲み終える傍から片付けられていたので、何本飲んだのかはもう分からない。
「はい?」
「事件を放り出して、こんな遠い町に来てよ……。俺は……こんなことしてる場合じゃねえんだ」
「……」
「俺はよ……ひき逃げ犯をとっ捕まえねえといけねえんだ……」
それを最後に、堂島はカウンターに突っ伏した。空になった猪口は手から離れて、静かな音を立てながら少し転がって、そしてすぐ止まった。足立はそれを拾って立ててやった。
「しょうがないっすねえ……」
酒に飲まれて愚痴にも疲れた堂島は、寝息を立て始めた。足立も今日はかなりの量を飲んだが、相棒が熱くなりすぎていた為にかえって冷静になり、飲まれずに済んでいる。こういう時、足立は自分が相棒とどれだけ違っているかを感じるのだ。そんな時は──
「済みません、灰皿あります?」
煙草を吸いたくなる。
「どうぞ」
足立がスーツの内ポケットから煙草の箱とライターを取り出すのと、カウンターの向こうから灰皿がやって来たのは、ほぼ同時だった。気が利くと言うか、細かなサービスの行き届いた店である。飲食店は味が良いだけでは往々にしてやっていけないが、この店はその点も問題ないようである。これで他の客が来ないのが不思議なくらいである。
「ふー……」
火を点けて煙を吸い込むと、久しぶりの味が身に染みて、酒の入った頭が少しだけ静かになる。店の天井に向けて立ち上る小さく揺れる紫煙を目で追いながら、足立は考える。
(真面目な話、これからどうなるんだろう?)
堂島が零した愚痴の話だ。堂島は未だペルソナを召喚できていないが、足立はできている。そして有里たちの話によれば、堂島も必ずできるはずであるらしい。だから今後、二人揃って戦隊物のような仕事をする羽目に、冗談ではなく本当になりそうな雰囲気である。
組織の名前などはどうでもいいが、それに入るとなったら自分たちは今後どうなるのか。正直に言えば面倒な話である。テレビの中で活躍している高校生ヒーローの真似事など、別にしたいとは思わない。
「お客さん、お仕事大変なようですね」
すると突然、板前が話しかけてきた。煙の隙間から目を送れば、板前は味噌汁の茶碗を白い布巾で拭いていた。
「ああ、まあね……。新しい仕事任されそうなんだけどさ、ちょっと特殊すぎって言うか……」
セリフの途中で足立は言葉を切った。しかし足立に代わって、板前が言葉を繋いできた。
「その仕事、もし断ったらどうなるんでしょうね?」
「ん?」
「シカト決め込むわけにいかねえってんなら……愚痴ったってしょうがねえ。腹括る以外にねえでしょう」
板前は茶碗を拭く手を止めた。足立を真っ直ぐ見つめてくるその視線は、真摯なものだった。女だったらコロッと騙されそうな。
「気に入らねえこともあるんでしょうが、だからってやらねえわけにはいかねえ……世の中、そういうこともあるでしょうよ」
「そうだねえ……」
足立は指に挟んだ煙草を軽く叩き、灰を落とした。厚手のガラスでできた灰皿の底に、白と黒の混ざった模様ができるのを眺めながら、また考える。
足立と堂島が巻き込まれようとしているこの事態を、もしも無視したらどうなるか? ペルソナを自ら持ち、シャドウとの戦闘経験も豊富そうな有里が、一人で事に当たるだけかもしれない。しかし稲羽の住人に、果たして無視など可能なのだろうか。故郷の町に謎の怪物が出現して、人々を襲うこの事態を看過できるのかどうか。
(僕は別にどうでもいいんだけど……)
稲羽に来て一ヶ月の足立は、あの町に特別な思い入れはない。だがカウンターに突っ伏している堂島は足立とは違う。気に入らない点がいくらあろうと、見過ごせはしないはずだった。板前が言う通り、世の中とは得てしてそういうものだ。納得のいくことや楽しいことばかりを選んで生きてはいけない。人生には妥協が付き物である。堂島も、足立も。
(ま、いっか。僕はこの人の相棒ってことになってるんだし?)
ここで足立は一つのことを決めた。シャドウワーカーに参加するかしないか、それは堂島に従うことにしようと。相棒が妥協して参加を決めるなら、自分も妥協しようと決めた。どうせ思いのままにはならない、退屈な人生なのだ。妥協の一つや二つ、今さら増えたところでどうでもいい──
そうしてまるで板前の言葉に従うかのように、足立は将来を一つ決めた。
「お兄さん、結構人生経験積んでる? 若く見えるけど」
足立が冗談めかして言うと、板前は唇の端を持ち上げた小さな微笑みを見せてきた。
「はは……済みませんね。若造のくせに、生意気言っちまいました」
「いいよ。うまいもの食わせてもらったし」
足立も微笑みを見せながら、煙草を灰皿に押し付けて火を消した。名前も知らない人間にあれこれ言われるのは、本来は好きではない。しかし今日ばかりは別に嫌な気分にはならなかった。
「タクシー呼びましょうか」
「ああ、お願いするよ。堂島さん、そろそろ帰りましょうよ」
「うん……おう……」
足立が肩を揺すってやると、堂島は身動ぎした。
この日の唯一の客だった二人は支払いを済ませて帰った。そして片付けを終えた板前は、一人残された店で茶を淹れた。仕事の後の一服のようなものである。湯気を立てる湯呑を片手に、板前は過去と現在に思いを馳せた。
「有里よ……てめえが食わせ者だってことは分かっちゃいたが、今度は何するつもりなんだ」
有里が足立にこの店を勧めたのは、理由のないことではない。顔に火傷の跡があるこの男は、シャドウワーカーの前身に当たる組織に属していたのだ。かつての戦いを終えて以降は一線から退き、こうして板前をしている。それでもある程度の情報は入ってくる。
そして今日は事前に有里から連絡があり、新たなペルソナ使いとその候補が店に来ることを、実は始めから知っていた。煽るようなセリフを言ったのは、もし二人が悩んだりしていたらフォローを入れるよう有里に頼まれたからだ。しかし──
「おのぼりのオッサン二人も捕まえて、何に利用しようってんだよ」
男、荒垣真次郎は、過去の付き合いから有里の性格や行動パターンも知っている。知っているだけに、巻き込まれようとしている二人の年長者に同情を禁じ得ないのだった。