「つか、菜々子ちゃんホントここ好きね。どっか行きたいとこ……でジュネス! 即答だもんなあ」
楽しいゴールデンウィークも残り二日。今日はみどりの日だ。悠は菜々子を連れて、ジュネスの家電売り場に来ていた。引っ越してほとんど初めの頃から、いつかやろうと決めていた『菜々子をジュネスに連れていく』計画を、遂に実現した──
「昨日も来たのに、本当にここで良かったのか?」
のは昨日である。今日は元々、叔父を含めた家族三人でどこか旅行に出かける予定だったのだが、一昨日から叔父が突然出張に行ってしまったので流れてしまったのだ。約束を守ってもらえなかった幼い従妹を、さてどうしたものかと考えていた頃、堂島宅に千枝がやってきた。そして千枝に誘われる形で、菜々子をジュネスに連れていったのだ。アルバイト中の陽介や、家の手伝いを切り上げてきた雪子とも合流し、五人で楽しい時間を過ごしたのが昨日だった。
そして今日の朝、悠は陽介から遊びに誘われて菜々子も連れてきた。どこに行くかは菜々子の希望に任せた結果、昨日と同じ場所になったわけだ。
「ジュネス、だいすきだもん!」
家電売り場に花が咲いた。春の陽気が溢れる5月には、ハマナスやシャクヤク、バラも咲く。そして人も咲く。菜々子の笑顔は、男女を問わず人々の心を綻ばせる。これを俗に天使の微笑みと言う。
なお、天使と言えば正義のアルカナに属するペルソナには、ユダヤ教やキリスト教の天使が多い。エノク書や偽ディオニュシオス文書などで語られる彼らは、必ずしも愛らしい存在ではないが、それはこの際関係ない。ないはずである。信心の乏しい日本においては、『天使』という言葉から連想されるものは限定的だ。菜々子はそれを体現している。昨日に悠との間に結ばれた、コミュニティと呼ばれる絆の属性に倣うように。
「な、菜々子ちゃん……!」
陽介は感動の面持ちだ。やはり何だかんだ言っても、陽介にとってジュネスは我が家も同然である。その心境には、父親が店長を務めていることが影響しているのは言うまでもないが、それだけではない。ジュネスは八十稲羽で唯一と言ってよい、陽介がかつて過ごした都会的な空間である。地元民にとっては異物や征服者であっても、陽介にすれば自分のルーツとの繋がりである。それにこうも真っ直ぐ好意を示されては、感動せずにはいられない。まして『可愛い』の化身のような娘に示されては。
「まー、でもここって何でもあって、ワンダーランドだよな。妹ちゃんの気持ちも分かる……」
そう言うのは、バスケ部の部活仲間である一条だ。そして長瀬もいる。なぜこの二人がいるかと言うと、陽介が誘ったからである。陽介と二人はクラスこそ違うが、陽介が稲羽に来た昨年以来の、それなりに仲の良い友人同士だった。
「つか、マジで可愛くね?」
高校生のスポーツマンは突然話を変え、小学生の女児をまじまじと見る。
一条の顔立ちは端正なものだ。そしてそれに留まらず、服のセンスもある。今日着ている私服は白のシンプルなポロシャツだが、青い襟元が仄かな高級感を醸し出している。だから学校では一条は女子からの人気がかなりある。調理実習などがあると、一条に食べてもらおうと張り切る女子がいるくらいに。もっともいい人止まりで、真面目に付き合っている相手はいない。なぜなら──
「うちも妹いるけどさ。菜々子ちゃんみたいになってくんねえかな」
どうして一条に彼女がいないのか。聞き方によっては、その理由が見出せそうなセリフである。
「な、菜々子、かわいくないよ……」
菜々子は困惑しながら、悠の後ろに隠れた。先月26日、足立が堂島宅に来た時に続いて、二度目の従兄へのかくれんぼだ。半分だけ覗かせた顔には朱が差している。
「あ、やべ。俺、嫌われた?」
菜々子の反応に一条は慌てだした。いくら顔が良かろうが、今の言動はちょっとした不審者のそれだ。だが一条にすれば些細な失言に過ぎず、本気ではない。菓子を差し入れたりしてくる女子と一条が付き合わないのは、決して幼女趣味だからではないのだ。しかし一条が弁解する前に、突然の爆弾が投下された。
「大丈夫、可愛くないよ」
長瀬だ。線の細い一条とは対照的に普段は精悍な印象のある少年だが、この時ばかりは優しく微笑んでいる。しかし言葉の内容は表情とは全くそぐわない。一体何が大丈夫なのか。これはボケを通り越して、言葉の暴力に等しい。
「それダメだろうが!」
「アホかお前は!」
すかさず一条と陽介のツッコミが入った。
「よし、このアホ締めよう」
友人たちの勢いに悠も乗った。右の拳を左の掌で包んで、指の関節に力を入れる。するとバキ、と威嚇に向いたいい音がした。体格では長瀬は悠を上回っているが、この際だから関係ない。何しろ都合の良いことに、ここには大型テレビがそこかしこにあるのだ。ここは一つ、この不埒な輩に灸を据えてやろう──
などと、特別捜査隊の部外者がいる前では口に出すわけにはいかない冗談を、内心でだけ並べていると、侮辱された当の被害者が止めてきた。
「お兄ちゃん……」
菜々子が悠を『お兄ちゃん』と呼ぶようになったのは、昨日からである。
「ケンカはダメだよ」
『妹』は『兄』のズボンを掴んで、友人をテレビに放り込もうとするのを引き留めてきた。悠を見上げるその顔は、怒っているものだった。眉根を寄せて、小さな口を尖らせている。菜々子は笑顔が可愛いのは言うまでもないが、怒りも悪くない。それはまるで、出会って一ヶ月の従兄はおろか父親にさえ見せていない本当の顔を端的に表しているかのようで、ギャップの衝撃が素の可愛さに上乗せされる。
可愛いは『正義』だ。可愛ければ全てが許される。そして許されている者は許すこともできる。菜々子がこう言っている以上、悠の出番はない。
「大丈夫だよ、ケンカじゃないよ」
止められた悠を余所に、長瀬が菜々子を気遣った。再びの優しげな笑顔を浮かべて。長瀬はセンスのある一条の私服とは対照的に学校指定のジャージ姿だが、普段は暑苦しさを周囲にまき散らすその服装が、なぜか不思議な爽やかさを醸し出している。
「お前が言うか……」
「俺だから言うんだ。俺はアホじゃないぞ、断じて!」
「断じてって……はあ、まあいいや」
陽介は呆れたが、これ以上は言っても無駄というものである。可愛いは正義であるように、断言は『力』である。かくして長瀬を締める作戦は、うやむやになってしまった。
長瀬の真意は、親友(当人たちにそう言えば、きっと認めないだろうが)の失言に対するフォローである。ただ表現が迂遠すぎて理解されなかった。もし長瀬が『可愛くないよ』ではなく、『一条はロリコンじゃないよ』と言えば、皆がその真意を分かってくれただろう。もっとも菜々子が『ロリコン』という言葉の意味を知っていればの話だが。
「は、はは……菜々子ちゃん、フードコード行かない? 何か食べようよ」
訳が分からなくなった話を流すつもりで、一条は話題を切り替えた。すると菜々子はまた笑った。
「うん、いく!」
そしてパタパタと足音を立てながら、屋上へ続く階段へと急いで駆け出していった。高校生の少年四人は走る女児を追って、普通の足取りで歩いた。それですぐに追いついた。
(まあ、いいか。菜々子が楽しそうなら)
五人連れ立って家電売り場を出て、屋上へと移動しながら、悠は思う。八十稲羽に来てからの新しい友人たちは、どうも個性派揃いである。特捜隊の面々は言うまでもないが、一条と長瀬もそうだ。そしてそんな彼らに菜々子は一様に好かれている。これならもう何日も父親の顔を見ていない娘も、寂しい思いをしなくて済むというもの。家族で旅行に行くのは、また次の機会にでも──
(あ、そうだ)
そんなことを考えた途端、悠は一つのことを思い出した。元より今日は旅行に行くつもりで、自分は弁当係を仰せつかっていたのだと。そしてその大役を果たすには、必要なものがあったはずだった。
「なあ、ここって本屋はあったか?」
悠は隣にいる一条に尋ねた。すると一条はそのまた隣にいる、陽介に目を向けた。
「いや……確かなかったと思うけど。花村、どうだったっけ?」
「書店は入ってねえよ。雑誌くらいならあるけど」
一条はジュネスを『何でもある』と評したが、当然ながらそれは誇張である。食料品や家電製品、服や文房具などは買えるが、それでも限度はある。ここで買えないものなど山ほどあるのだ。
「そっか。本なら商店街の四目内堂か、もしくはネットだな」
「……だな」
陽介の声に一抹の陰りが落ちた。一条は陽介に含むものなど何もないし、陽介の側も同様である。ないのだが、一条が口にしたジュネス以外の購入手段の存在は、陽介の声のトーンを少しだけ落とした。
「何か欲しい本でもあんのか?」
「ああ、料理の本を探してるんだが……」
「そういや、昨日そんな話したな。お前、やっぱ料理できんだ?」
料理の話題は昨日も出ていた。もっとも昨日は、千枝の料理の腕前へと早々に話題が移ってしまい、悠に関しては詳しく説明する機会はなかった。そして実際のところはと言うと──
「少しだけな」
これは謙遜ではなく、事実だ。少ししかできないから勉強が必要なのだ。今の悠の腕では、自分一人で食べるだけなら我慢できるのを作るのが精々だ。食材に謎の化学反応を生じさせて、紫や緑の瘴気漂う物体を製造するようなことは、さすがにない。しかしうまいものは、たまにしか作れない。だから今日から行く予定だった旅行は、実は流れて幸運だったかもしれないくらいなのである。
しかし堂島家の食卓事情を鑑みれば、いつまでも消極的なことは言っていられない。旅行に持っていく弁当は作らずとも、普段の食事はたまにでも良いから作るべきだと、悠は考えている。主に菜々子の健康管理の観点から。毎日惣菜ばかりでは色々とよろしくない。などと思っていると、陽介は声から陰りを振り払った。
「良かったな、菜々子ちゃん。今日の晩御飯はお兄ちゃんが作ってくれるってよ!」
「おい……」
「ほんと!?」
反射的に焦り出した悠を遮るように、菜々子は再び笑った。先ほどの一条と長瀬の失言の応酬など、すっかり頭から取り払われたように。少なくとも傍からはそう見える、屈託のない笑顔の花を咲かせる。隣の陽介と一緒になれば、5月の現実の花々と競えるだろう。
全くもって、可愛いは正義である。こうなってはもう、何が何でも料理をせねばならなくなった。
「材料はうちで買ってけよ! タイムサービス、ちっとくらいなら繰り上げてやっから!」
「一条は料理できんだろ。教えてやったら?」
「料理っつか、自炊な。人に教えられるレベルじゃねえよ」
悠はまだ知らないことだが、一条の家は稲羽では名士と呼ばれる家柄なのである。だから金銭的には余裕がある。それだから、と言うのもおかしな話だが、一条は一人暮らしをしているのだ。その為、一条は料理もそれなりにできる。しかし悠は内心の考え事に捕われていて、一条と長瀬の話を耳に入れてはいなかった。
(取り敢えず何か簡単なものでいいから、今日の夕飯から試してみるか。あ……そう言えば、家に調理器具がどれくらいあるか、確かめるのを忘れていたな)
悠は今後の予定を考えていた。フードコートで昼食を取った後には、一階の食料品売り場に行こうと。そこで品揃えの程を確かめつつ、今日の食材を何か買っておく。そして料理の本もどこかで手に入れねばならない。商店街の本屋は未調査だが、場合によっては携帯電話を使ってインターネットで本を買うことも検討すべきだ。高校生の身空でそんな生活臭の漂う事柄を、色々と考えていると──
(叔父さん、今頃何やってんだろ……)
可愛い娘を放り出して出張に行ってしまった、父親に思いを馳せた。刑事の仕事がどれだけ忙しいのか、悠には想像することしかできない。だが近頃の状況は、いくらなんでも良くない。放任にも限度があるし、多忙を言い訳にするのも程度問題だ。いずれ機会を見て、言うべきことは言っておかねばなるまい。何事もそっとしておきたがる悠にしては珍しく、そんなことを思いながら屋上へ続く階段を上った。
刑事の仕事は実際に忙しい。家に帰れない日が月に何度かあり、出張も年に何度かあるくらいには。だがまさか今週の出張は超能力の訓練の為であるなどとは、悠は夢にも思わないのだった。しかも自分がテレビの中で使っているのと、同じ超能力を。おまけに叔父はテレビではなく、現実で使うことを目的にしているなどとは、夢はおろか妄想でも思わなかった。
呪術や魔術においては、呪文と呼ばれる言葉が多用される。それは由来を辿れば神への賛歌であったり、経典からの引用であったりするのだが、長い時を経るうちに本義が忘れ去られ、意味不明な音の羅列にしかなっていない場合がある。特に人間の力がかつてないほど増大し、それと反比例するように信心が後退した現代社会にあっては。
「オン、イリダラタムン」
現代の人間社会を象徴する大都会の、とある一角。海抜はマイナスに達するほど地下深くに設けられた異空間で、一人の男が呪文を唱えていた。しかし僧侶が護摩壇の前で印を組んだりするのとは違って、男は手に拳銃を持っている。己の口から滑り出す言葉の音楽的なリズムに合わせるように、男は拳銃を持ち上げた。
「オン、サッタジノウヤ、バンジャビジャヤ、ゼンホダマソラ、ビノウラキサン……」
しかしその銃口は他人に向けられてはいない。向けられたのは当の男のこめかみである。男は謎めいた異国の言葉を口にしながら、拳銃自殺をしようとしているのだ。人を殺す為に作られた兵器を、自分自身に向けている。それでいながら、男は酷く落ち着いていた。まるで死は恐怖や苦痛ではなく、傷ついた男を優しく包み込む救いの手であるとでも言うように。
「バンバト、ソワカ」
呪文を終えると同時に、男は引き金を絞った。太い無骨な指に力は入れず、死そのものが静かに舞い降りるように、優しげに。そして拳銃の撃鉄が倒れた。射出される弾丸に乗って、男は死の国へと飛翔する──
と思いきや、死への翼は銃から出てこなかった。当たり前だ。男の銃には弾薬が装填されていないのだから。そして弾丸以外の『何か』も出てこなかった。
「……どうにも、上手くいきませんな」
ここはポートアイランドにある、桐条グループ所有のビルの地下室だ。限定された影時間の緑の闇の中で、堂島はため息を吐いた。右手に持った召喚器を、だらりと力なく下げながら。
地下室の外では時刻は夕方になっている。堂島は知らないことだが、悠はジュネスで友人たちに勧められるまま、あれこれ食材を購入し、菜々子に食べさせる夕食を作るのに苦労している頃合いである。そして悠は知らないことだが、堂島も苦労していたのである。だがその成果はまるで上がっていない。
家族で旅行に行く約束を反故にしてまで、堂島は遠い異郷で訓練に時間を費やしてきた。しかしそんな涙ぐましい努力の甲斐もなく、堂島からペルソナは未だ出てこない。初日に初回の挑戦で、あっさり召喚できた相棒とは大違いである。
「やっぱ駄目でしたか。どうしたもんでしょうね……」
疲労を滲ませた顔で、ため息を重ねたのは足立だ。両手で大きな色紙を持っていて、堂島に見せるようにしている。しかし相棒の失敗を見届けると、左手をそこから離して体の脇に下げた。色紙には『オン』から始まるカタカナの文字が、いくつも並べられていた。
足立は2日に召喚に成功して以降は、自分のペルソナを桐条グループが色々調査するのに協力して過ごしていた。しかしそれも一通りが済んでいるので、今は相棒に付き合っているわけである。
「ふむ……」
そんな足立の隣で、腕を組んで考え込んでいるのは有里だ。刑事にして新手のペルソナ使いである足立と堂島の、いわば教官役である。
堂島が唱えていた呪文は、占星術の一種である宿曜道に伝わる死を司る北斗七星に捧げる言葉である。ペルソナはその多くが、世界に伝わる神話や宗教の神や英雄の名を持っている。ならば神にまつわる呪文を唱えながら、召喚器を撃ってみたらどうかと有里が提案したのだ。足立の色紙に書かれているのは、本来は梵字で書かれる呪文をカタカナに転写したものだ。要はカンニングペーパーである。呪術や魔術にはかなり詳しい有里ならではの案だったが、効果はなかった。当然と言えば当然だが。
(ここまで手間取るのは予想外だったな……)
堂島がペルソナ召喚の訓練を始めて、今日で三日目である。連休も明日には最終日を迎える。これ以上失敗が続くようだと、さすがに堂島の処遇について考えなければならない。しかし有里としては、やはり堂島にペルソナ使いになってもらいたいのだ。
堂島は既にシャドウを目撃している以上、これまでの日常にただ戻ってもらう選択肢はないも同然である。そして足立は潜在能力こそ並外れているが、稲羽のシャドウ対策を足立一人にやらせるわけにもいかない。だから堂島を覚醒させる方法を、有里は有里なりに真剣に考えてきた。
「では、こうしてみてはどうでしょう」
これまで試してきたアイディアは、全て失敗に終わった。しかし百回失敗しても、百一回目で成功するかもしれない。だから有里はめげない。そしてまた一つの案をひねり出した。
「堂島さん、貴方はいわゆる二重人格なのです」
「は?」
「普段の貴方と違うもう一人は、ペルソナを使えるのです。しかしそのもう一人は酷く恥ずかしがり屋で、どうにも表に出てこないのです」
ペルソナは極めて精神的な力である。気の持ち方一つで、明暗が分かれることは大いにある。要は堂島の心境に合う方法であればよいのだ。その気にさせるつもりで、有里は相手と視線を真っ直ぐ合わせながら、年長の刑事に近づいた。自分の説明で相手が困惑していても、それに構いはしない。むしろ少しくらいは惑っていた方が、都合が良いとでも言うように。
「そこで貴方はこれを使うのです。召喚器で、普段の人格を撃ち殺すのです」
有里は堂島の召喚器に手を触れた。力なく下げられたそれを、堂島の右手ごと持ち上げた。
「撃ち殺す……」
二人は互いの手に触れはしない。怪物を倒す為に作られた兵器だけを、互いが握っている。
「そうです」
そう言って、有里は召喚器から手を離した。そして数歩身を引いて、再び腕を組んで堂島を見つめた。しかし堂島はもう有里と視線を合わせようとせず、ただ右手にある超常の兵器に目を落とした。
(普段の人格、普段の俺……)
拳銃の形をしたものを見つめながら、堂島は考える。堂島遼太郎は何者か──
片田舎の稲羽市で生まれ、以来ずっとそこで生きてきた四十がらみの男だ。職業は町を守る警察官。勤続年数は二十年を超え、関わった事件の数はもう数えてもいない。泣く子も黙る稲羽署の鬼刑事。そう呼ばれることもある典型的な仕事人間で、丸一日家に帰らない日もある。そして妻に先立たれた男やもめだ。
そんな刑事を撃ち殺して、後に残るものは何であろうか。
(臆病で、弱くて……娘にも向き合えていない、駄目な父親か……)
妻の生前は娘は妻に任せきりだった。そして妻が死んだ今は甥に頼っている。その甥は、姉夫婦が海外に転勤する為に預かることになった。しかし実はそれは方便で、すっかり駄目になってしまった堂島家を何とかする為に、姉が気を遣ってくれたのではないか。そんな疑いを持てるほど、堂島は家庭を顧みてこなかった。
先日、甥に酒癖の悪さを呆れられた。その日はとんでもない誤解をされたと思ったものだが、果たしてあれは、それほど的外れだったのだろうか。飲みすぎて病院に担ぎ込まれるのと比べて、自分の事実はどれだけ上等だと言うのか──
その事実を無心に見つめながら、堂島は大きく息を吸い込んだ。それと共に右手を持ち上げた。と言うより、手に持った召喚器が自ら意志を持って、手の方が引きずられるように。緩やかに、だが淀みなく拳銃は持ち上がった。
銃口がこめかみに当たると、堂島の手は震えだした。まさに拳銃自殺をするように。人の命を確実に奪う凶悪な兵器に、無力な手が必死に抗うように。眼前に迫った死の来訪を恐れるように。そして死んだ後に、あらゆる虚飾が取り払われて白日の下に晒される己の本性を、その醜さを恐れるように。浅ましさを恥じるように。
手の震えが収まらないまま、堂島は引き金にかけた指に力を入れた。銃の引き金は引くのではなく、絞るように慎重に、指の力を抜いてやるものだ。しかしそんな射撃の基本さえ忘れるほどに、堂島は緊張していた。恐怖に実感を抱いたそのままで、兵器の引き金を引いた。
──
ガラスが割れる音が影時間の闇に響き渡った。そして堂島の頭上に一つのビジョンが現れた。
「おお、出た!」
「お見事です」
足立は快哉を挙げ、有里は頷いた。諦めずにいた甲斐があったと言うものだ。
「名前は分かりますか?」
努力の成果として現れたのは、使用者の大柄な体格をも遥かに凌ぐ筋骨隆々の偉丈夫だった。濃い青色の警官の制服らしき服を着ている。ただしかなり着崩していて、磨き抜かれた鋼を束ね合わせたような筋肉を、はだけた胸元から誇示している。顔は口を引き結んだ、鬼かと見紛う忿怒の仮面に覆われている。
霧の稲羽で堂島を襲ったシャドウは警官を擬していた。それに対抗するかのように、堂島のペルソナもまた制服警官の姿によく似ていた。ただし拳銃や手錠など、武器になるものは持っていない。だが相撲取りも驚くであろう、大木を連想させる太さの剛腕は、それ自体が十分な武器になりそうだった。
自らの内から湧いて出たそれを見つめながら、堂島は『自分自身』の名を呼んだ。
「タヂカラオ……です」
このペルソナは堂島の中から生まれたものである。決して相棒や甥から『与えられた』ものではない。たとえ覚醒の契機には、彼らが関係しているのだとしても。日本神話に登場する、太陽神を岩戸から引きずり出した剛力無双の神の名を持つこのペルソナは、堂島自身に由来するものである。