ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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仮面の家族(2011/5/6、5/8)

 堂島の本業は刑事である。しかし何という運命の悪戯か、非公式の特殊部隊などという映画や小説のような組織で『副業』をすることになってしまった。その組織における地元の支部長に任命された日の翌日の夜、堂島は住み慣れた自宅に戻ってきた。

 

「はあ……やっと帰ってこれたか」

 

 四日ぶりの帰宅である。これだけ長く家を空けるのは、妻の死後は初めてだった。昨日は桐条グループの過去の話などを聞いた後、参加する組織についての様々な事務的な説明を受けて終わった。そして今日は、今後のシャドウ対策の具体的な実施方針について、朝から打ち合わせを行った。その後は現場で使用する道具、要は武器の選定を行い、更には健康診断などもしていた為、かなりの長時間をポートアイランドで過ごしていた。それらの全てを終えて、ようやく都会から解放されたわけだ。

 

(もうホテルは当分いいな……)

 

 出張先で宿泊していた桐条グループ所有の高級ホテルの柔らかいカーペットは、最後まで慣れなかった。靴越しに伝わる玄関の三和土の硬い感触が、本来いるべき故郷に迎えられたことを告げているようで、いやに嬉しく感じる。

 

『先頃、稲羽北のATMが重機で壊され持ち出された事件で、容疑者逮捕です』

 

 廊下の向こうの居間からは、ATM強盗の容疑者が捕まったとのニュースが流れていて、アナウンサーの声が玄関まで聞こえてくる。それは出張に行ったその日に発生した事件で、堂島も気にしていた。穴を空けてしまったことで署の同僚たちに迷惑をかけたとの思いもあったが、無事に解決できたようである。

 

「お父さん、おかえりなさい!」

 

 そんな小さな安堵を得た直後、もっと大きな安堵がやって来た。娘が駆けてきたのだ。

 

「おう、ただいま」

 

 着替えその他の荷物を詰めたトランクは玄関に置いておき、手提げの紙袋だけを持って、堂島は娘に連れられて居間に入った。そこには甥もいた。

 

「菜々子、悪かったな。また約束破っちまって……」

 

 ちゃぶ台の前に座った堂島は、まず菜々子に謝った。当初の予定では、一昨日と昨日は家族三人で過ごすはずだったのだ。その約束を守れず、出張になど行ってしまったことを詫びた。もっとも行った先で成果を挙げられたのは、そうした己の駄目さ加減を自覚すればこそとも言えるのだが。

 

「あのね、お兄ちゃんたちがあそんでくれた!」

 

 しかしそんな父親の内省、または自嘲を知ってか知らずか、娘は花が咲くような笑顔で答えた。

 

「そうか、そりゃ良かった」

 

 堂島が振り返ると、悠と目が合った。すると『兄』は照れたように小さくはにかんだ。しかしそのいわば『息子』と言葉を交わす前に、娘が食いついてきた。

 

「ね、その袋。もしかして……ジュネス?」

 

「いや……ジュネスじゃなくて、向こうで買ってきたんだ。こどもの日だからな」

 

 こどもの日は昨日である。もちろん堂島もそれくらい分かっているので、本当は昨日のうちに帰ってきたかったのだが、無理だった。だが一日遅れただけなら父親らしいことをするのに遅すぎはしまいと、敢えてこう言った。そうして袋から取り出したものは──

 

(ちょ……提灯?)

 

 親子のやり取りを横から見ていた悠は目を丸くした。菜々子への土産は、伸び縮みする骨組みの外側に和紙を張り、中に小さな電球を入れたもの。つまり提灯だった。白地の和紙には墨痕鮮やかに『巌戸台』と書いてある。提灯は観光地の土産物屋などではたまに見かけることもあるが、小学一年生の女児へのプレゼントとしては、どうかと思わざるを得ない。

 

「すごーい! かっこいー!」

 

 しかし菜々子は喜んでいる。悠の目から見ても本気で喜んでいるようでいる。もしかすると、菜々子の趣味は意外と渋いのかもしれない。もっとも悠はコミュニティと呼ばれる人付き合いを始めたのは最近のことで、自分の観察力にそれほどの自信を持っているわけではないので、確信はないのだが。

 

「はは、気に入ったか?」

 

 コミュニティが既に始まっている従妹の新たな一面に悠が驚いていると、堂島は再び振り返ってきた。

 

「それと、お前にもあるんだ。子供扱いってつもりはないが、まあ公平にな。そのうちいるだろうと思ってな」

 

 紙袋から取り出して悠に手渡してきたのは、水着だった。これは提灯と違って気の利いたプレゼントと言える。季節は新緑が眩しい頃合いだが、夏もすぐに来る。実際のところ、悠は以前より友人が格段に増えた為、きっと皆で泳ぐ機会もあると思われた。自分で企画することはないだろうが、世話焼きな陽介辺りが千枝や雪子も誘って、川や海へ出かけるとかは大いにありそうだ。

 

 しかし残念なことに、堂島の土産は皆の前で着るには、ちょっと躊躇われる代物だった。形はトランクスタイプの普通のものだが、デザインが少々いただけない。ハイカラ(?)なことに紫色なのだ。そして柄は色以上におかしい。後ろに白の極太の書体でもって、提灯と同じく『巌戸台』と大書してあるのだ。

 

「はは……ありがとう」

 

 とは言うものの、土産に文句をつけるほど悠は大人気なくはない。それよりも気になることがあった。

 

「でも巌戸台って確か……港区だよね? あんな所まで行ってたの?」

 

 巌戸台は稲羽からは県外で、結構な距離がある。警察官の出張がどこまで行くものなのか、高校生の悠は詳しくは知らない。だが日本の警察は都道府県ごとに分かれていることくらいは知っている。稲羽署に勤める堂島が出張に行くなら、県内の他の警察署か県庁所在地にある県警本部が普通なのでは──

 

 悠が疑問を口にした瞬間、堂島から笑顔が消えた。

 

「余計な詮索をするな!」

 

 そして一喝した。今週の出張でどこで何をしてきたのか、堂島は決して知られるわけにはいかないのだ。世間には無論のこと、家族や稲羽署の同僚にもだ。だから土産物は行き先を推測できるようなものではいけなかった。副業を始めて早々、いきなり失敗をしでかした己の浅慮に対する怒りが声に出てしまった。一言で言うと、『カッ』となった。

 

「また……ケンカ?」

 

 そしてまた一つ失敗した。悪気のない甥に声を荒げてしまっただけでなく、せっかく帰宅を喜んでくれた娘を悲しませてしまった。先月に相棒を自宅に招いた時、その軽口をつい叱ってしまった時のように。

 

「大丈夫、ケンカじゃないよ」

 

 そして悲しむ娘を慰めたのは、理不尽に叱られた甥だった。

 

 

 その後、悠は菜々子を宥めたりすかしたりして場を繋いで、やがて夜も遅くなったということで、菜々子を寝かせた。叔父のやらかした失敗を、甥が何とかフォローしてやったわけだった。

 

「その……済まんな。何日も家を空けて、迷惑をかけたな」

 

 菜々子が自室に去り、男二人だけになったところで堂島は謝った。キッチンに置かれたテーブルセットの椅子に腰かけながら、何とも気まずげに。

 

「迷惑じゃないよ」

 

 悠にとって、これは本音だ。ゴールデンウィークの間中、菜々子の世話を任されたわけだが、それを迷惑に思う気持ちはない。むしろ菜々子との距離を縮める良い機会だったくらいである。とは言うものの、何事にも限度がある。だから悠は堂島の向かいの椅子に座りながら、一つ苦言を呈した。

 

「でも叔父さん、仕事が忙しいのは分かるけど……菜々子の気持ちも考えてやってよ」

 

 悠は一昨日、友人たちと一緒に菜々子をジュネスに連れていった際、堂島に言うべきことは言わねばならないと思っていた。そこへ叔父が失態をやらかして、そして自分でもそれを悪いと思っているのだろうと察した甥は、好機を逃さずにおいたわけだ。

 

 しかし叔父が抱えている事情は、甥が思うほど単純ではない。

 

(分かるのか……? お前が?)

 

 堂島は考える。実際のところ、刑事の仕事は忙しいものだ。しかしこれからは、きっともっと忙しくなる。そしてその理由は誰にも話せない。話せないから他人には理解できない。悠は他人ではないが、それでも真実は明かせない。なぜ県外の港区になど行っていたのか。家族の約束を反故にしてまで、遠い異郷で何をしてきたのか。堂島は悠に話せないのだ。

 

 もちろん警察には元より守秘義務というものがある。だから家族にも言えない秘密を持つのは、堂島にとってはいつものことである。しかしこれからは今までとは異なる。自分の職業が警察官であることは誰にでも言えるが、ペルソナ使いであることは言えないのだ。何の仕事をしているのか、家族にも言えない。これではまるでスパイである。

 

 家族、世間、署の同僚。これまで堂島の周囲にいて堂島自身を形作っていた者たちの誰にも言えない、絶対の秘密を抱えてしまった。共有できるのは先月から部下になった相棒だけだ。その事実が、家を空けた僅か四日の間に、自分は変わったのだと冷然と告げている。今まで知らなかったことを知り、やらなかったことをする。もし警察を辞めてジュネスのフリーターにでもなったとしても、ここまで変わりはしなかっただろう──

 

「うむ……そうだな。怒鳴ったりして、悪かった。お前には礼を言わなきゃだな」

 

 だが今さらそれを嘆いても仕方がない。秘密を抱えていること自体も知られてはならないのだ。だから『お前に何が分かる』などと言ってもならない。

 

「菜々子があんなふうに笑ってるの、久しぶりに見たぞ。お兄ちゃんだなんてな……」

 

「俺も本当に妹ができたみたいだよ」

 

 スパイめいた仕事だろうが、やらないわけにはいかないのだ。全てはシャドウからこの町を守る為。即ち娘や甥を守る為。どんな苦悩も飲み込んで、顔にも出さずにおかねばならない。その一念で、本来は得意でない『演技』を始めた。

 

「考えてみりゃ、お前がこっち来てからゆっくり話す間もなかったな。その……どうだ? 学校は?」

 

 しかし堂島は他人の演技を見破ることは得意だが、自分が演技することはそうでもない。だから漠然としすぎた、まさに家族との会話に慣れていない仕事漬けの父親が言うようなセリフから始めてしまった。

 

「楽しんでるよ。友達もできたし」

 

 だが今日に限っては、相手が話題を豊富に持っていた。それに助けられた。

 

 悠は八十稲羽での新しい生活を話した。クラスでは親しい友人はもう何人かできて、放課後を彼らと過ごす機会も増えている。部活は運動部と文化部を掛け持ちしていて、そこの友人たちと一緒に菜々子も連れてジュネスに行ったりもしたと。

 

「でも担任の先生がちょっとね……あの人だけは、まだ慣れないな」

 

 ここで悠は苦笑した。担任の教師は都会育ちの人間に偏見があるのか、転校初日に色々と変な言いがかりをつけられてしまったと、笑いながら話した。

 

「そいつは困った先生だな。菜々子が高校に入る頃には、定年しててほしいもんだな」

 

 堂島も笑いながら、冗談を交えて応じた。慣れない演技はいつの間にか忘れて、仲の良い家族がするような話を自然にできていた。しかしここで堂島は一旦笑みを消して、真面目な顔をした。わざとらしくテーブルに肘をついて、身を乗り出しながら。

 

「だが担任が気に入らんからって、勉強しないってわけにはいかんぞ。そろそろ試験じゃないのか?」

 

「嫌なこと、思い出させないでよ」

 

 悠はまた笑った。八十神高校の一学期の中間試験は来週からである。ちなみに堂島は仕事柄、高校生や中学生と接する機会はそれなりにある。例えば学校をサボって町をうろついている不良を補導した時などだ。そして試験期間中は、留年や退学を覚悟でサボる気合の入った不良もいる。だから試験が実施される時期は、高校を卒業して四半世紀近い堂島にも分かる。

 

「はは、程々にやってくれりゃいいさ。成績を上げろとまでは頼まれてないからな。だが留年はさすがに勘弁しろよ」

 

「そこまで酷くないって」

 

 悠は学業に自信のある方ではない。しかしそうかと言って特別悪い方でもない。普通だ。これまで通った学校では、定期試験の成績はいつも似たり寄ったりで、平均ラインを行ったり来たりである。

 

「なら安心だな。あとは無事でいてくれりゃあ、それでいい。無事で……な」

 

 堂島は途中まで笑顔で言いながら、急に声のトーンを落とした。そして向かいに座る悠から視線を外して、床に落とした。何気なく口から出てきた自分の言葉の、秘められた深い意味を自ら掘り下げて、その苦さを噛み締めるように。

 

「ここにはここの、いいところもあるんだがな。よりによって、こんな時に来ちまって……」

 

 堂島のこの言葉は、表向きは殺人事件が起きて物騒になった町に来てしまって、不安を感じることもあるだろうとの意味に取れる。だが表からは見えない裏側にある真意は違う。お伽話に登場しそうな怪物が現実に出現し、住民を襲うという未曽有の危機に陥った、もしかしたら世界で最も危険かもしれない町に来てしまった、甥を気遣う意味だ。

 

「だが安心しろ。必ず俺が守ってやるから、心配するな」

 

 しばしの時間を置いてから、堂島は床から視線を上げた。たとえシャドウに襲われたとしても、自分が守ってやるから安心しろとの言葉を添えて。ただしその意味は決して明かせない。悟られてもならない。娘の世話を焼いてくれている甥に隠し事をしていることそれ自体に、申し訳ない思いを感じながら。そしてその思いが苦悩となって顔に現れても、単に刑事として犯罪者から守ってやるとの責任感のように装いながら。

 

(刑事の叔父が、実は化物退治をするなんて夢にも思わんだろう。済まんな……)

 

「ありがとう」

 

 苦悩する叔父に向けて、悠は柔らかく微笑んだ。ただしその笑顔の裏では申し訳ない思いを感じていた。

 

 今日の悠がした話の中に嘘はない。しかし話さずに隠していたことならば、色々あるのだ。例えば殺人事件で亡くなった被害者の一人が、八十稲羽でできた最初の友人の想い人で、自分は彼と共に謎の異世界を冒険しているとか。そこでは正体不明の怪物が蠢いていて、自分は超能力でそれらを蹴散らしながら、殺人犯に誘拐された被害者を助けているとか。

 

(楽しくやってそうな甥が、実はテレビの中で戦ってるなんて夢にも思わないだろうな。ごめんね……)

 

 堂島と悠は心の中で互いに謝った。その瞬間、時が止まった。

 

『我は汝、汝は我……』

 

 互いに秘密を抱えて、そして抱えていること自体も悟られずにいようとしている、叔父と甥。互いにそうとは知らないうちに似た境遇に置かれた二人の男の間に、一つの絆が生まれた。まるで秘密を隠す為の仮面そのものが絆に変じたように。その絆のアルカナは叔父のペルソナと同じだった。

 

(あ……来たか。これで叔父さんともか)

 

 ただし絆を教える『我』の声を聞いたのは、絆を束ねるワイルドである甥だけだった。言葉も力も不器用な叔父は、自分と甥の間にある精神的紐帯が結ばれたことに気付かなかった。

 

 

 

 

 母親への日頃の感謝を込めて祝う風習は、世界の各地にある。しかし『母の日』をいつ祝うかは国ごとに異なる。日本ではアメリカに倣って、5月の第二日曜日とされている。今年は5月8日、つまり今日だ。ただし祝日とは言っても、学校や会社の休みとは関係がない為、意識していない人も多い。

 

「お母さんにお花あげる日って、先生言ってた」

 

 だから悠も夕方に菜々子からこう言われるまで、今日が何の日なのかを忘れていた。

 

「菜々子、お母さんいないから……お花、どうしよう」

 

 菜々子はキッチンのテーブルに置かれた、赤と緑の折り紙で作った花を困惑気味に見つめている。話によると、昨日の土曜日に学校で作ったものらしい。カーネーションのつもりであろう。ちなみに母の日にカーネーションを贈る習慣は、花言葉が『母の愛』だからだ。ただし亡くなった母親には白いカーネーションを捧げるものとされているのだが、小学校の教師はそこまで気が回らなかったようだ。

 

「……」

 

 しかし花の色はこの際どうでもいい。菜々子は自分が作った花をどうすべきか、真剣に悩んでいる。ここは兄として、何らかの解決策を示さねばならない。普段から家を空けることが多く、今日もいない父親に代わって。

 

「うちに仏壇はある?」

 

 しばしの黙考の末、悠は一つの案をひねり出した。疑問形なのは、悠は居候を始めて一ヶ月にもなっていながら、堂島宅の全容は未だ把握していないからだ。

 

「ぶつだん? あるよ……あ、そっか! お兄ちゃん、ありがとう!」

 

 この家は玄関から通じる廊下を抜けると、右に二階へ通じる階段があり、左にキッチンと居間がある。そしてキッチンの奥には、悠がまだ通ったことのないドアがある。菜々子は折り紙の花を手に取って、そのドアへと早速駆けていった。悠も菜々子の後に従って、未知の領域に足を踏み入れた。

 

 

「ピアノがあるんだ」

 

 初めて入った堂島宅の奥の区画には、ドアが閉められた堂島の寝室らしき部屋と、畳敷きの仏間があった。その奥に仏壇があり、菜々子の母である堂島千里の遺影が置かれている。だが仏間に入った悠が最初に目を惹かれたのはそれではなく、反対側の壁際に置かれたピアノだった。

 

「お母さん、おしえてたから」

 

「へえ……それじゃお供えしようか」

 

 思いがけない事実に悠は興味を覚えはしたが、まずはここへ来た本来の目的を果たすことにした。菜々子と一緒に仏壇に折り紙の花を供え、遺影に向けて合掌した。

 

 

 堂島家のピアノは八十神高校の音楽室にもあったグランドピアノではなく、アップライトのささやかなものだった。その脇には高さが一メートルほどの小さな棚が置かれていて、楽譜はそこに収められていた。

 

「菜々子も弾けるの?」

 

「ううん」

 

 菜々子は小さな首を横に振った。実際の話、ここに来て一ヶ月の間に、悠はピアノの旋律を耳にしたことはなかった。しかし菜々子はジュネスのテーマソングを歌うなどしているので、音楽に興味がないわけではないと思われた。

 

「何か弾こうか?」

 

 そこでこう言ってみると、菜々子は驚いた顔を見せてきた。

 

「お兄ちゃん、ピアノひけるの?」

 

「少しはね」

 

 悠はピアノが弾ける。先月25日に文化部に入る為に実習棟へ向かった際も、吹奏楽部を最初に見学したものだった。あの時は色々と流されて演劇部に入ることになってしまったが、ピアノが弾けるのは事実である。ただしもう随分と長い間、鍵盤に触れていないのだが。

 

 畳に膝をついて、棚の中から知っている曲を探した。そうしてよくよく見てみると、亡き叔母の遺産はかなり充実していることに気付いた。子供向けの教則本を始めとして、バロック以前の古楽から二十世紀前半に至るまでのクラシック音楽の歴史そのものを表す楽譜の数々が、小さな棚にぎっしりと並べられていた。クラシック以外でも、日本や海外の童謡をピアノ向けに編曲した楽譜なども、いくつかあった。その中の一冊に悠は目を留めた。

 

(ラヴェルの鏡か……)

 

 二十世紀の初頭に発表された、印象派と呼ばれる系統に属するフランスの作曲家の手による、五曲からなるピアノ組曲だ。悠は以前、この中の一曲に挑戦したことがある。しかし全体をさらった頃合いで、ちょうど引っ越しがあった。八十稲羽に来る為ではなく、それ以前から何度もあった転居と転校の一つだが、ピアノをやめたのはその時だった。いわば挫折した曲だ。しかし何たる偶然か、こんな田舎で再会してしまった。

 

 この機会に再挑戦してみようかとの思いが、悠の頭に浮かんだ。しかし作曲家の代表作の一つであるこれは、プロのピアニストでも気安く手出しはできない難曲だ。習っていた当時も満足に弾きこなせなかったのに、ブランクのある今では、とちらずに弾ける自信はなかった。初めて菜々子に披露するのに、いきなり失敗しては格好がつかない。そう思って別の曲を探した。もっと簡単で、かつ有名なものを。

 

(エリーゼで行くか)

 

 数秒ほど見回した後、悠は『ベートーヴェン小品集』と題された一冊の楽譜を取り出した。そして譜面台に広げ、埃が薄く積もっていた鍵盤の蓋を開けた。

 

 

 歴史上に数多いる作曲家の中で最高峰と称される、ドイツの楽聖が残したロンド形式の小品だ。親しみやすい曲調と明確な構成から、世界で最も有名なピアノ曲の一つとされている。

 

 曲は日本でも広く知られている半音が揺れ動く短調の主題から始まり、憂いを表現する。それはやがて長調の明るく愛らしいパートに取って代わる。しかし明るさは長く続かず、最初に示された主題が速度をやや抑えた形で再び現れる。そして曲の中で最も激しいパートが登場するのだ。低音部で主音が繰り返し鳴らされ、重苦しい雰囲気を醸し出す。そして最後にもう一度、主題が示される。その時には、主題が表すものは冒頭のようなただの憂いではなくなっている──

 

 はずだった。

 

 

 久しぶりの演奏は約三分で終わった。そつなく、ミスなく、滞りなく終えた。ピアノは練習を一日休んだだけで腕は落ちると言われるが、年単位で休んでいた割には上手く弾けた。

 

「お兄ちゃん、じょうずだね!」

 

 演奏中は静聴していた菜々子は、笑顔で拍手をしてくれた。しかしその笑顔には、どこか物足りなく感じているような気配があった。先週ジュネスに連れていった時のような、傍目にも分かるくらいの大きな感動は与えられなかった様子である。それは悠のピアノは技術的には悪くないものの、表現する精神性が十分でない為か。それとも菜々子の趣味によるものか。

 

「じゃあもう一曲」

 

 音楽の趣味は人それぞれだ。クラシック音楽に興味を示さない人も世の中には多い。と言うより、日本ではむしろそちらが多数派だ。しかしそうした世間の傾向に、ここで文句を言っても仕方がない。ならば聞き手の好みに合った曲を演奏してみよう──

 

「あ……!」

 

 二曲目は冒頭から反応があった。

 

「はい、ご一緒に」

 

「エヴリデイ、ヤングライフ! ジュ・ネ・ス!」

 

 高校生の演奏に小学生の歌声が綺麗に重なった。テレビのコマーシャルでよく流れている、ジュネスのテーマだ。これくらいの短いフレーズなら、音感とリズム感が少々あれば耳からだけで弾ける。

 

「じゃあ次は……」

 

 ジュネスのテーマを、少しばかり変化させて演奏してみた。オリジナルの明るい曲調から、一曲目のような憂いを表すものへと変える。耳慣れたものとは明らかに違うそれに菜々子が戸惑うのを見計らって、更に変化させる。曲調は明るいものに戻して、ただし一オクターブ上げて演奏する。そしてその次は、腕を鍵盤の上で大仰に躍らせて激しいスタッカートを響かせる。そして最後に再びオリジナルに戻るのだ。

 

「わー! お兄ちゃん、すごーい!」

 

 菜々子は目を輝かせながら、夢中で両手を叩いている。即興のジュネス変奏曲は、大層菜々子のお気に召したようだ。これだけ喜んでもらえるなら、弾いた甲斐もあると言うもの。料理人にとっては食べてくれた人の笑顔が最高の喜びだとよく言われるが、音楽家にとっても同様であろう。しかし──

 

「悠、お前……」

 

 いつの間にか帰宅していた堂島は、笑顔は見せなかった。仏間の入り口で畳に片足を乗せながら、鍵盤に向かう甥に目を瞠っていた。

 

「あ、お父さん! おかえりー!」

 

「お帰り、叔父さん」

 

 

 その後、家族三人は夕食を取った。料理を担当したのは悠である。ただし悠はピアノはアマチュアとしてはそこそこのレベルだが、料理は素人同然である。だから決して褒められた出来ではなかったのだが、菜々子は文句も言わずに食べていた。もちろん堂島も。

 

 菜々子が寝てから、男二人はキッチンのテーブルで向かい合った。一昨日に法王のコミュニティが築かれた時と同じような構図である。ただしその時と違って、二人の手元ではコーヒーカップが湯気を立てている。淹れたのは堂島だ。

 

「お前、ピアノが弾けるのか」

 

 堂島は笑みを見せない。父親用の大きなカップにはブラックコーヒーがなみなみと注がれているが、それが苦くて笑わないのではない。帰宅してからというもの、ずっとこの調子である。

 

「少しだけど」

 

「……」

 

 堂島は無言でカップに口をつけた。そんな叔父に、悠は小さくない威圧感を覚えた。まるで警察署に引っ張られて、取調室に放り込まれたような雰囲気である。

 

「叔母さん、教えてたって聞いたけど。菜々子には教えてなかったの?」

 

 訳も分からず威圧されながらも、悠は敢えて一歩踏み込んだ。菜々子にあれだけ喜ばれた以上、ピアノは今後の従妹との関係に確実に影響する。それを曖昧なままにしておくのは、色々な面でよろしくないと思えたのだ。

 

「ああ……千里は近所の子供たちに教えてたんだがな。菜々子には、もう少し大きくなったらってな……」

 

 ピアノでも何でも、音楽を本格的に学ぶなら早ければ早いほどいいと言われる。早期教育の是非は一概に判断できないが、やはり音楽などの芸術方面では幼い頃から学ぶ効果は大きい。しかし堂島家は英才教育とは無縁だった。もう少し後でと言っているうちに、菜々子は母親から教わる機会を永遠に失ってしまったわけである。

 

「あいつが死んだのは……寒い日だった」

 

 堂島は悠から視線を外し、床を見つめながらおもむろに語り出した。悠は堂島に淹れてもらった、ミルクのみで砂糖は入れてないコーヒーを飲みながら、黙って聞いた。

 

 堂島の妻で菜々子の母である千里は、交通事故で亡くなった。ひき逃げだった。菜々子を保育園に迎えに行く途中の出来事だった。目撃者はなく、発見も遅れに遅れた。堂島の元に連絡が行くまで、菜々子は保育園でずっと、いつになっても来ない母親を待ち続けていたのだった。そして母親の死がひき逃げであったことは、菜々子には伝えていない。父親が犯人の足取り一つ掴めていないことも──

 

「それ以来、ピアノって言葉を聞くのもしんどかった……。あいつを思い出させるもの、全てが……」

 

 悠と堂島は血の繋がりこそあるものの、同居を始めてまだ一ヶ月だ。まともに話すようになってからで数えると、たったの二日しか経っていない。それにも関わらず、堂島は自分の心の深い部分を明かしてしまっている。

 

「辛いなら、弾くのはやめようか?」

 

 その不自然さに気付くことなく、甥は苦悩する叔父をただ気遣った。すると叔父は床から視線を上げた。素早く、反射的に、弾かれたような勢いをつけて。

 

「いや、いいんだ」

 

 もし堂島がシャドウワーカーに参加していなかったなら、ペルソナに目覚めていなかったなら。悠の気遣いに対して、違う回答を返したかもしれなかった。しかし堂島はポートアイランドでペルソナを召喚した際に、自分自身と向き合った。泣く子も黙る鬼刑事を召喚器で撃ち殺して、隠された本性を表に出したのだ。それは臆病で、弱くて、娘にも向き合えず、甥に頼りきりの駄目な父親だった。

 

「こいつは俺の我がままに過ぎん。菜々子が聞きたいなら、弾いてやってくれ」

 

 しかしそうした自分の弱さを自覚して、それで終わりではない。むしろこれからだ。

 

(仕方がないんだ。プライベートなど今までもなかったが、今後はもっとなくなる……)

 

 もし事件がひき逃げや普通の殺人だけなら、菜々子も分かってくれると言い訳することもできた。だが今後は言い訳もできない。何しろ『シャドウ対策で忙しいんだ』などと言って、理解を求めることさえできないのだ。ならばどうするか?

 

(結局のところ、菜々子は悠に任せるしかないんだ。ピアノくらい我慢しないといかん……)

 

 弱さは自覚するだけで即座に解決や克服に至るとは限らない。解決の道を現実に見出せないのであれば、耐えるしかないのだ。だから口にするのも辛い家庭の事情を、同居して間もない甥に話す痛みにも耐えられた。妻を思い出させないでくれと頼みたくなる自分を、押し殺すこともできた。

 

「そう……分かったよ」

 

 悠は頷いた。物分かりの良い、素直な少年のように。すると堂島はようやく笑みを見せた。

 

「先週といい今日といい、お前には世話になりっ放しだな。正直、姉貴からお前を預かってくれと頼まれた時は、どうしようかと思ったが……来てくれて助かってるよ」

 

「俺も来て良かったと思ってるよ」

 

 人間が互いを完全に理解するのは、親兄弟や夫婦であっても難しい。堂島家の人々は仮面と本心を交互に入れ替えながら、『絆』を深めていった。本人すら意識しないうちに、仮面の扱いが巧みになっていった。

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