ゴールデンウィークが終わった次の週は、八十神高校では一学期の中間試験が行われる。特別捜査隊の面々では、悠や陽介、それに千枝などは頭を悩ませている頃合いだ。シャドウワーカーでは非常任のあるペルソナ使いの言葉を借りれば、暗黒のテストデイズを彼らは送っている。
高校生が試験で苦労している、ちょうどその頃。稲羽署では都会からの来客を迎えていた。先月末に黒沢と有里を迎えて以来、再びの訪問客だった。
「稲羽署の堂島です」
「同じく、足立です」
稲羽署の最上階にある応接室で、堂島と足立は最近口にする機会の多い、型通りの挨拶をした。対する訪問客、年の頃は堂島と同じくらいと思われるスーツを綺麗に着込んだ男は、名刺を二人に差し出してきた。
「こういう者です」
(やっぱり来たか)
名刺に印字された男の肩書を見ても、足立は驚かなかった。
男の所属は警察庁警備局警備企画課、いわゆる公安警察だ。国家の治安維持を目的とする警察組織であり、他の部署とは一線を画した職務を担っている。中でも男の名刺にある部署は、公安の頂点に立つエリート中のエリートだ。各都道府県の警察本部長や警察署長の頭を越えて、全国の公安警察官を指揮する権限まで持っている。そんないかにもきな臭い彼らの主な役割は、国際テロリズムやスパイ活動の防止、更には過激思想の持ち主の取り締まりなどだ。そして最近は桐条グループと共同でシャドウ対策に臨んでいる。
「貴方がたのお力については、我々も聞いております。今後に向けて、大いに期待しているところです」
公安の男は、立場や階級ではずっと下である所轄の刑事に対して、随分と丁寧な口調で話し始めた。
(期待ね……。まあ公安としては、そりゃあ自分らの駒も欲しいよね)
しかし足立は一言目で、相手の意図を簡単に察した。警察庁、中でも公安は桐条グループとシャドウ対策について昨年から協議を重ねていたと言うが、先月までペルソナ使いは桐条グループの関係者しかいなかったのだ。その事実だけでも、『協議』の実態は想像がつくというものだ。
だがシャドウ事案が現実に持ち上がったこのタイミングで、警察官の中から新たなペルソナ使いが現れた。これで期待するなと言う方が無理だろう。理想を言えば、刑事ではなく公安警察官から現れれば、なお良かったのだろうが。
「それで……今日はどういったご用件でしょうか」
堂島も訪ねてきた相手の所属に驚いた素振りはない。公安の男が示した『期待』にも恐縮したりせず、むしろ直線的に突っ込んでいった。単に挨拶に来たわけではないだろうと、強い視線が語っている。
「桐条美鶴と有里湊をご存知ですね」
堂島の物言いから余計な前置きは不要と判断したか、公安の男は素早く本題に入った。シャドウワーカーの隊長と副隊長、つまり組織を実質的に取り仕切っているトップ二人の名前を出した。
「ええ」
「貴方がたには彼らの……特に有里の監視を頼みたい。彼は今後、霧の発生が見込まれる時期にこちらに来ると聞いています」
「内偵ですか」
「その通りです」
堂島が端的に言うと、公安の男はあっさりと認めた。
「我々は桐条グループと協力関係にありますが、彼らを信用しているわけではありません。桐条は昔から、黒い噂が絶えませんでしたから」
桐条グループから協力要請を受ける前は、警察はシャドウやペルソナについて全く把握していなかった。しかし桐条に関する噂は色々と聞いていた。例えば親族で固められた経営陣は、オカルトめいた思想にのめり込んでいるとか、人体実験をしているとかだ。そうした噂の中で、公安が最も注目していたのが桐条エルゴノミクス研究所、通称エルゴ研だ。これまで警察は何度か強制捜査に踏み切ろうとしたのだが、その度に政治的な圧力がかかり、立ち消えになったという苦い経験もある。ちなみにエルゴ研は十一年前のいわゆるポートアイランド・インパクト後に解散しており、現在あるのはその後継の組織だ。
そして桐条グループが警察にシャドウ対策への協力を要請したのが、昨年の11月である。その際、桐条は旧エルゴ研の遺産目録と一部の実物を警察庁に提出している。警察は驚愕と共にそれらを受領し、要請を受諾した。そして今月のシャドウワーカー設立となったわけだ。
なお、シャドウもペルソナも、知らない人間にとっては荒唐無稽な話でしかない。そんな『与太話』を警察に信じさせるのに、堂島と足立が訓練で使った影時間の再現装置が役に立ったことは余談である。
しかし警察は桐条側の言い分を鵜呑みにしたわけではない。また提出された資料は量が膨大な上、元々門外漢の警察では内容を理解しきれないという側面もある。そして当然ながら、桐条側も相手の理解が及ばないことは承知しているので、意図的な情報操作も可能なはずである。だから未だ明かされていない、更なる秘密があると警察は睨んでいる。そしてそれは一部当たっている。
「未成年を使って事故の後始末をしていた……とかですか」
「それもありますし、他にも色々。例えばこの男です」
そう言って、公安の男は一枚の写真を取り出した。ウェーブした長髪に、眼鏡をかけた人の良さそうな男が映っている。年齢は四十代半ば頃と思われた。
「幾月修司……。一昨年の7月まで、月光館学園の理事長だった男ですが、同年11月に自殺しています」
月光館学園と言えば、美鶴や有里を始めとするシャドウワーカー本部のペルソナ使いたちの出身校だ。彼らは在学当時、表向きは部活動の形でシャドウ対策に臨んでいた。それは公安も知っているし、堂島と足立も先週に有里自身の口から聞いている。
「他殺の可能性があると?」
「ええ」
実際のところ、桐条グループは警察に全てを開示してはいないのである。特にポートアイランド・インパクト以前にエルゴ研が何をしていたかについては、現在の桐条グループ自身さえ把握しきれていない。そしてそれ以降、有里や美鶴が行ってきた過去の戦いに関しても、全ての事実を明かしてはいない。写真の男、幾月修司もその一つだ。彼が生前いかなる立場にあって、なぜ死んだのか。それらは明らかになっていない。
そうした警察から見れば不審な点は、桐条グループには未だいくつもある。その為、桐条と警察は同床異夢にある。だから公安は、警察官にしてペルソナ使いである堂島と足立に内偵を要請しているわけだ。ただその中でも特に有里をと、名指しで言っているのは──
(桐条さんは社長の娘さんらしいから、そっち方面からのガードが固そうだよね。だから有里君狙いってわけね。しかも彼、副隊長って言うより実質的なリーダーっぽいよね。何か腹黒い感じもするし……その分、叩けば埃も出てきそうだよね? 彼を追い落としちゃえば、そりゃあ色々とやり易くなるだろうねえ……)
公安の狙いは、足立には読めた。
(つっても……やり易くなるのは、こいつらだけなんだけど)
「是非ともお願いしたい。状況によっては、お二人に警察庁へ出向していただくことも考えています」
読めるだけに、呆れた。
(はあ……早い話が、足の引っ張り合いに僕らを巻き込もうってわけじゃん? 下らないな)
足の引っ張り合いなら、足立も本庁にいた頃によくやっていた。だから公安の狙いが読める。引っ張ったことも引っ張られたことも、何度もある。その結果として足立は稲羽にいるようなものなのだ。そんな自分を棚に上げて何であるが、公安の要請は馬鹿馬鹿しく思えた。見返りのつもりであろう警察庁への栄転にも魅力を感じなかった。
(今さら本店に戻ろうとか思わないし、サッチョウも嫌だな。ましてチヨダなんて……頼まれたって行きたくないよ。面倒すぎるって……)
公安は出世コースだ。もし本庁にいた頃に誘いがあれば、喜んで乗ったことだろう。しかし都落ちした先で、イゴールが言うところの『奇しき運命』を見出した足立に出世欲はもうなかった。だから公安に味方する気にはなれなかった。そうかと言って、桐条側につく気もない。組織同士の政治的な対立など、どうでもいい話だ。あまりの下らなさに、ため息が出そうになる。もちろん気分だけで、実際にはやらないが。
しかしどうでもいいのは、この場では足立だけだった。
「一つ、お伺いしてよろしいですか」
堂島は当初と変わらない厳しい表情のままである。
「何でしょうか」
「仮に彼ら……本部のペルソナ使いたちに犯罪の事実があった場合、どうするつもりなのです?」
警察官にあるまじき質問である。犯罪者を見つけたら、どうするかなど聞くまでもない。証拠を押さえて、逮捕して、法の裁きを受けさせるのが警察の仕事だ。しかしこの件は事情がいささか特殊すぎる。真相の公表さえできない事案に対しては、法の支配にも限度がある。
何事も建前を押し通せば、どこかで必ず無理が出てくる。それが世の中というものだ。そしてこの場合にしわ寄せが来るのは、堂島の故郷の町とそこに住む人々だ。
「然るべき報いがあるのみです」
「……」
公安の男に向ける、堂島の視線が更に鋭くなった。堂島と足立はペルソナこそ持っているものの、シャドウ対策の知識と経験は全く足りていない。十分とはお世辞にも言えない。だから仮に今の時点でシャドウワーカー本部を壊滅させでもしたら、稲羽のシャドウ対策が立ち行かなくなるのは目に見えている。それなのに建前で答える眼前の相手に、堂島は怒りさえ覚えた。すると公安の男は言葉を繋いできた。
「しかしその為に、この町の被害が拡大するような事態は避けたいと考えています。何事もそうですが、時期が重要です」
「なるほど……」
堂島は視線を緩めた。公安は目に見えている困難に対して、柔軟性がないわけではないようだ。そしてそれは当然と言える。警察官僚はものの見えない愚か者の集団ではないし、権力に固執する者たちばかりでもない。だから今はとにかく桐条に対するカードを確保しておき、使うタイミングは個別に判断する。そんな公安の意図を堂島は察した。察すると同時に、気に入らないとも思う。
(全く……何でもかんでも、俺に背負わせる気か?)
つまるところ、公安の要請で苦労するのは堂島だけだ。
堂島は桐条グループを信用することはできない。その点は公安と同じだが、公安を信用することもできない。同じ警察の身内ではあるが、刑事とは職務内容が違いすぎるので、親近感が湧くような相手ではないのだ。むしろ公安はその特殊性から他の部署からの評判が悪い。そしてシャドウワーカーは存在自体が公表できないという点において、元よりスパイのような仕事だが、公安の要請は二重スパイをやれと言っているに等しい。はっきり言って、気が進まない。だが無視するわけにもいかない。
ノンキャリアとして犯罪捜査の現場でのみ働いてきた堂島は、それが自分の性に合っていると思っている。だから出世欲は乏しい方だが、足立と違ってどうでもよくないものが多々あるのだ。犯罪を取り締まる者として、警察組織の一員として、故郷の危機に立ち向かう力のある者として、家族を守る父親として。数え上げればきりがない、ないがしろにできない数々の問題による板挟みになってしまった。ならばどうするか?
(先入観を排除して、客観的にならんといかんな……)
物事を自分の目で見て、自分の頭で考えることだ。対立する二つの組織のいずれにも自分自身を預けず、己の良心に従うことを第一に置く。それは社会人としては最も難しい生き方である。しかし他の道はない。
「お二人とも、どうかご理解いただきたい。我々とて、国民を守る警察官です」
堂島の悩みを察したか、公安の男は再び語り始めた。
「しかしペルソナを得た警察官は、これまで一人も現れませんでした。私自身、ペルソナはおろか影時間の適性も身に付けられなかったのです」
「……」
「もし彼らに非がないのであれば、それに越したことはありません。しかし今の時点では、この国をシャドウから守るのに、信用に足るのは貴方たちしかいないのが実情なのです」
彼もまた人なり、という言葉がある。警察組織にセクショナリズムは確かにあるし、権力闘争もある。企業グループと共同で特殊部隊を設立となれば、主導権を争うこともあろう。しかし警察は決してそれだけの組織ではない。外からは得体の知れない連中のように見える公安警察にも、良心はある。堂島はほんの僅かだが、それを救いに感じた。
「我々は……できることはやります」
そして要請を受けた。選択肢は元よりないような要請だが、取り敢えず納得した上で受諾した。
「感謝します」
このようにして、甥が試験で苦労している頃、叔父もまた困難な問題を突きつけられていたのだった。
(何と言うか……面倒事が次から次へと舞い込んでる感じ……)
ジュネスのエレベーター前で足立は一人黙然と佇んでいた。特に何も考えていなさそうな顔で、店内で流れ続けているジュネスのテーマ曲を、右から左に流していた。しかしそれは表情や言動を自在に操れる、道化師の仮面の一つに過ぎない。人が良さそうな顔の裏側では、あれこれと考え事をしていた。
(内偵つってもねえ……。僕ら刑事なんだし、そういうのは畑違いだっつの。まして堂島さんなんか、堅物が服着て歩いてんだから……上手くいくわけないって。どんな無茶振りだよ)
今日は公安から接触が来た日の翌日、5月13日の金曜日だ。季節は多少の揺り戻しがありつつも、春から夏へと少しずつ向かい始める。足立にとっては、季節も仕事も鬱陶しい限りである。
「こんにちは」
そんな足立の思考を遮る形で、少年の声が届けられてきた。
「あれ? あー、鳴上君か。こんにちは……買い物かい?」
「ええ」
悠はジュネスのビニール袋を片手に持っていた。トマトや大根などの野菜類が、半透明の袋から透けて見えている。
「堂島さんから聞いたよ。君、最近菜々子ちゃんのご飯作ってるんだって?」
「毎日じゃありませんが、たまに」
「そりゃいいお兄ちゃんだね! 菜々子ちゃんも嬉しいだろうねえ」
考え事を横から中断させられたわけだが、足立は機嫌を損ねはしなかった。十歳年の離れた少年を相手に、リズムよく世間話をする。
「足立さんは仕事ですか?」
「ん? ははは……まあね。ここって人の話、聞きやすいからさ」
そう言うものの、足立は仕事をしている雰囲気はない。傍からは仕事中に見えるよう演じることもできるのだが、そうしていない。
山野と早紀の『殺人事件』の捜査で、先月から稲羽署は大忙しだ。しかしこの若い刑事はサボっているようにしか見えない。ジュネスを行き交う主婦たちにも、足立はデパートで時間を潰している、外回り担当の会社員か何かだと思われているだろう。それくらい今の足立は緊張感がなかった。もし堂島に見つかろうものなら、確実に雷が落ちる──
とは限らない。もし堂島がシャドウワーカーに参加していなかったら、相棒のサボりは許さないだろう。悠にも、もしジュネス辺りで見かけたらガツンと言ってもいい、くらいのことは言ったかもしれない。しかし今の堂島の認識では、山野と早紀の死は殺人ではなく獣害事件となっている。シャドウワーカー本部も、公安もそう思っている。よって普通の警察が行う捜査には、もはや意味がない。だから堂島も目に余らない限りは足立を咎めない。つまり足立は堂々とサボっているわけだ。
しかしそんな足立と堂島の裏を悠は知らない。夢にも思わない。
「あの、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
だから偶然出会ったこの機会に、悠は以前から気になっていたことを聞いてみた。
「何だい?」
「事件のことですけど……」
警察には守秘義務というものがあることは、悠も知っている。現に堂島は事件に関する話は、家では全くと言っていいほどしない。しかしこの若い刑事は違う。違うと悠は思っていた。思い起こされるのは、先月に稲羽署で初めて話をした時と、堂島宅を訪れて食卓を囲んだ時だ。あの時の足立は、聞かれてもいない雪子に関する情報をペラペラと喋っていた。ならば今日も聞いてみれば、殺人事件に関する情報を漏らしてくれるのではと期待があった。
簡単に言うと、悠は足立を甘く見ていたのだった。それが大きな誤解であることを悠が知るのは、もう少し先の話──
「何か分かってないんですか? 例えば動機とか」
連続誘拐殺人事件を追う特別捜査隊は悠、陽介、クマの三人で結成したが、今は千枝と雪子も加わって五人になった。しかし人数は増えたものの、肝心の『捜査』は進展していないのが実情だ。犯人に直接繋がる情報はテレビの世界にも落ちていないのだ。被害者の一人である雪子も、犯人の顔などは分からない。そうすると警察の捜査情報も欲しいところだった。もちろん凶器は警察に分かるはずがないが、動機など犯人像を浮き彫りにする情報なら、何か掴んではいないかと期待していた。
「うーん……難しいところだねえ……」
「例えば小西先輩が狙われたのは、口封じなのかとか……」
「あー、いいとこ突かれちゃったね!」
現職の刑事相手に、悠は堂々と突っ込んでいく。対する足立はノリよく応じた。
「そうだねえ……彼女、山野アナの死体発見後に殺されたでしょ。もし口封じだとすると、彼女以外の人間が見ても、証拠だと分からないものが遺留品にあったとかね。あり得そうじゃない?」
「そうすると……犯人は小西先輩に非常に近しい人?」
「お、その推理、いい線いってるかも!」
高校の屋上で、またはデパートのフードコートで高校生が思い付くままに意見を述べ合うように、これまで陽介たちを相手に実際にやってきたように、悠は推理を展開させていった。そして足立も付き合う。守秘義務など忘れて童心に返ったように。だがもちろん、そんなはずはない。足立は捜査情報ではなく、この場で思い付いたことを喋っているだけである。
(楽しそうだねえ?)
悠は足立の裏を知らないが、足立は悠の裏を知っている。テレビの中でヒーローを演じて、特捜隊を自称していることも知っている。ある意味では、本人以上に特捜隊を理解しているつもりでいる。これまで面と向かって話した機会は少なく、活躍ぶりをテレビで見ているだけなのだが、それでも理解している。しかもかなり正確に。
「あっと……ちょっと喋りすぎたかな?」
思い付きを言い尽くした後で、足立は口の前で人差し指を立てた。わざとらしく、悪戯っぽく笑いながら。
「ああ、済みません。でも、ありがとうございます。参考になりました」
「はは、堂島さんには内緒だよ? 事件は僕ら警察が何とかするからさ。君らは安心してていいよ」
こうして足立は話を切り上げた。そしてエレベーターホールの窓に目をやり、外の景色を見るともなしに見た。予報では明日には雨が降るらしい曇り空の下には、タイルで模様が施された歩道と、アスファルトで綺麗に舗装されたばかりの車道がある。その向こうには何もない。外に出て少し歩けば、畦道で区切られた広い田畑があるばかりだ。先週行ってきた辰巳ポートアイランドでは、全域を歩き回っても見つからないものだ。
「しかしまあ、噂もしたくなるよねえ……こんな田舎だと、やることないでしょ? やっぱ都会とは違うよねえ」
足立がかつて過ごした都会的な空間と言えば、八十稲羽にはジュネスしかない。そのジュネスでさえ、ポートアイランドのような本物の都会と比較すればささやかなものだ。そんな都落ちを嘆く口調を作りつつ、以前はやはり都会にいたらしい少年に同意を求める言い方をしてみた。
「そんなことはないですよ」
「あ、そう?」
期待していた返答を得られずに驚いた顔を、足立はしてみせた。もちろんわざと。
(そりゃそうだよね。面白いこと見つけちゃって、楽しくてしょうがないんだよね。この坊や、ガキの頃は特撮とか大好きだったんだろうな……てか、今でもガキか)
「でもそのうち分かるよ。ホントやることないからさ、ここ」
最初の質問は、同意を得られないことを予期した上で聞いた。しかしこれは本音だった。足立の予想では、悠は田舎の退屈さ加減を『そのうち』思い知るはずだった。高校の仲間たちを集めて結成した仲良しチームは、目標を失って中途半端に終わるはずなのだ。なぜなら──
(だってもうヒーローを演じるチャンスはないからね。残念!)
悠がヒーローとして活躍するには、テレビに放り込まれる被害者が必要だ。しかし先月16日と27日の24時に、雪子の狂態とそれを救わんとする特捜隊の姿がマヨナカテレビに映し出された。あれを見れば、生田目はもう人をテレビに落とすことはないはずだった。生田目がやらなければ足立がやるしかないが、もちろんそんなつもりはない。
つまり悠のヒーロー稼業は廃業だ。視聴率が底辺の深夜の特撮番組は、たった二回で打ち切りになる。先行きを予想して、足立は内心でだけ笑った。しかしそれがいけなかった。
「透ちゃん! 透ちゃんじゃないの!」
一階の食品売り場から、あるお婆さんが出口へ向かっているのに気付かなかったのだ。先に見つけていれば、悠の陰に隠れるなりしてやり過ごせたものを、相手に先に見つけられてしまったのだ。
「お仕事、終わったの? 危ない目に遭ってない?」
「あ、いえ。まだ仕事中で。これから署に戻るところ」
そう言う足立は頭を掻きながら、困った顔になった。困っていたのだ。悠にもそう見えていたし、本人も本当に困っていた。
「お仕事頑張ってて嬉しいわ。ご近所さんにも、いつも自慢してるのよ」
しかしお婆さんは足立の困惑に構いはしない。昼に見た刑事ドラマや、家族についての話などが止めどなく溢れ出てくる。悠にすれば、何となく見覚えがあるような光景である。
(まるで先生の説教だな……)
担任の諸岡のことだ。四六時中怒っているようなあの教師は、小柄な体のどこから取り出しているのか想像もつかないくらいの、言葉の奔流で生徒を溺れさせることを特技としている。悠はそれを泳いだりかわしたりする術を、未だ身に付けていないが、足立も同じのようだった。高校生相手の軽妙なお喋りは得意でも、年長者のマシンガントークには耐性がない。
「あのー、そろそろ署に……」
時間にして十分ほども経っただろうか。世間話の弾幕に撃たれ疲れた足立は、ようやく口を挟む機会を得た。
「あら、もうこんな時間? それじゃあ、お仕事頑張ってね。また煮物、持っていくからね。体調に気を付けないと駄目よ」
そう言ってお婆さんは去っていった。ジュネスの建物を出て、開店に合わせて綺麗に舗装されたと思われる歩道を、ゆっくりとした足取りで歩いて行った。
「やーっと行ってくれたよ……。あの人の息子さん、何か僕と同じ名前らしくてさ……」
去りゆくお婆さんの背を見送りながら、足立は愚痴を零した。今のお婆さんは何かと足立に構ってくるのだ。差し入れと称して、署まで大量の煮物を持ってきたりするのだと、悠に話した。
「ここってさ、人と人の距離感が都会とはまるで違うんだよね……」
足立は稲羽に赴任して間もない頃から、都会との人間関係の違いに戸惑うことが少なからずあった。その最たるものが上司兼相棒の堂島であり、それに次ぐのが今の煮物のお婆さんである。しかし普段は『どうでもいい』と思って、深くは気にせず過ごしてきた。
雨が降ってもビニール傘を差してさえいれば、水は頭にかからないように。肩や足元は濡れることもあるが、自分の核心にまで触れさえしなければ、別に構いはしない。スーツが汚れるくらい大して気にならない。足立はそう思っていた。
「君も感じない?」
そんなふうに思っていながら、足立はつい悠に同意を求めてしまった。思わずと言った態で。しかし本気で。
「そうですね。いつも感じてます」
そして悠が同意すると、予期せぬことが起きた。
足立はこれまでの人生では想像もしなかった、数々の異常な経験を既にしている。テレビに人を入れる力を得て、雨の夜に電源が入っていないテレビを見て、霧の夜に怪物と戦って、超能力に目覚めて、非公式の特殊部隊の一員にまでなった。そこまでやっておいて、まだネタが打ち止めになってはいなかった。今度は時間停止という、SFのような出来事を経験したのだ。
『彼は汝、汝は彼……』
悠は足立に共感したように、小さな微笑みを浮かべている。遊びの予定に追い回されている少年は、多忙な日々の中で思いがけず真実を耳にして、穏やかな心境の内に感銘を得た。まさにその瞬間を狙って、ビデオの再生を停止したように日常が止まった。
微笑が悠の顔に固定された状態で、それだけが足立の視界に映っている状態で、時間が停止した。限りなく無に近いその瞬間に、『足立の』脳裏に声が響いた。
『彼、汝との間に道化師の絆を見出したり。絆は即ち、まことを知る一歩なり……』
厳粛すぎる声を聞いている間、足立の思考も停止していた。感覚だけを残して世界の一切が動きを止めていた。いかなる『契約』もしていない、何者にも縛られない自由の身にある足立さえも、『我』の宣告からは逃げられなかった。一瞬の隙をついて、『我』または『彼』は人間を強制的に結び付ける。
(え? 何、今の……。道化師って、確かイゴールが僕をそう呼んでたけど……)
停止した時間から解放されるのは、全てが終わった後だ。つまり手遅れになってからだ。
(絆を見出したって……まさかこの坊や、僕を友達認定したってわけ!?)
足立がベルベットルームを訪れたのは、過去に二回しかない。そしてそのいずれでも『絆』や『コミュニティ』という単語は聞いていない。しかし自分が何に襲われたのか、自分と眼前の少年の間に何が起きたのか、それは理解できた。
(やれやれだ……。お節介なお婆さんの次は、ガキに友達扱いされちゃうとはね。ま、どうでもいいけどさ)
しかし理解はしたものの、それだけだった。嬉しいとも悲しいとも思わない。面倒とは思うが、敢えて構いはしなかった。だからこの後に足立は悠と適当に話を切り上げて、ジュネスから稲羽署に戻ったのだが、名残惜しいと思うようなことはなかった。
なお、この日の夜に暴走族の特番があり、そこに映し出されたある少年が、殺人事件と現役女子高生女将に続く新たな話題を田舎町に提供したことは余談である。