(昨日は疲れたな……)
授業を終えた悠は、疲労を滲ませた顔で商店街を歩いていた。疲れている原因は、ここ一週間で頻繁に降った雨から始まる様々な騒動だ。
事の起こりは、今月の14日と15日の24時に始まったマヨナカテレビだ。先月の雪子に続いて再び人が映った。最初は誰だか分からなかったが、ジュネスのフードコートで陽介たちと『特捜会議』をやっているうちに推測が立った。次に狙われるのは八十神高校の一年生で、昨年に暴走族を潰した有名な不良である巽完二だと。
その後、特捜隊は完二の実家である染物屋の巽屋を訪ねたり、完二本人とも話をしたりした。しかしそうした努力の甲斐もなく、結局完二は犯人の手によりテレビに放り込まれてしまった。17日深夜のマヨナカテレビで、先月の雪子のようなバラエティ番組が映し出されたのだ。そして次の日から完二の人柄について調査などをして、テレビの世界に新たに作り出された完二の居場所に到達したのが19日。昨日のことだ。
ちなみに18日から二日もかけて完二の『調査』をしなければならなかったのは、クマの鼻が不調だったからだ。その為に悠はある小柄な少年、それもかなりの美少年に話を聞いたりして、町を駆け回らされた。それがまた疲労を増幅させた。
そうして特別捜査隊は二度目の被害者救出作戦に挑んだのだが、とにかく疲れた。シャドウに苦戦したのではない。先月もそうだったが、霧に蠢く怪物たちとは十分以上に渡り合えた。しかしシャドウとは別のものに色々な疲労感を味わう羽目になってしまい、昨日のうちに完二を救助するには至らなかったのだ。
そして今日、5月20日はテレビに行かず、特捜隊は各々で過ごすことにした。悠だけでなく陽介たちも疲労を覚えていた為、反対意見は出なかった。要は戦いの合間の、ちょっとした小休止である。
なお悠は知る由もないことだが、特捜隊がテレビで戦う機会はもうないだろうと、足立は先月末から予測していた。しかしそれは外れたわけである。この世でただ一人事件の真相を知っている足立であっても、間違えることはある──
(さてと……今日は何をしようか?)
晴れ渡った5月の空を見上げながら、悠は放課後の時間をどう過ごすか考えた。疲れてはいても、無為に過ごすのは惜しい気がしていた。
今日は金曜日なので、バスケ部も演劇部もない。こういう日は、悠は特捜隊の仲間と個人的に過ごす機会が多かった。特に千枝だ。そして17日に巽屋を張り込んだ際に、イゴールやマーガレットがコミュニティと呼ぶ絆が雪子との間にも築かれた。だからできれば彼女たちのどちらかと一緒に過ごせれば良かったのだが、二人とも今週初め以来の疲れから早めに帰った。ついでに言うと、陽介もそうだ。だから今日の悠は珍しく手持無沙汰になっていた。
(たまには早めに家に帰って、菜々子と遊んでやろうかな。またピアノ弾いてもいいし)
ちなみに早めに帰って勉強しようなどという考えは、悠にはない。昨日は中間試験の結果発表があったのだが、概ね普段通りだったから。八十神高校は進学校ではないので、そこそこの勉強で普段通りの成績を取れた。だから学業に励む必要性は感じていなかった。ちなみに普段通りとは、普通の成績だったという意味だ。平均ラインとほぼ同じ。陽介や千枝には若干勝り、雪子には大きく引き離されていた。
そうやって商店街を当てなく歩いていると、ふと青い扉が目に入った。寂れた田舎には不似合いな、豪華絢爛たる例の扉である。
(あ、そうだ。マリーがいたな)
今日は千枝と雪子は帰ってしまったし、演劇部もないので結実とも会えない。しかしまだマリーがいた。思い立ったら吉日とばかりに、悠は早速ベルベットルームの扉に向かった。
コミュニティはいくつもあるのだが、女子相手の絆ばかり優先して考えてしまうのは、悠の癖のようなものだった。もしこうした悠の行動の傾向を諸岡が知ろうものなら、確実に腐ったミカン認定することだろう。転校初日にミカン帳に刻まれたのは言いがかりに近かったが、今にして思うと正しい評価だったと言わざるを得ない。
だがそうした淡い邪念を含んだ、悠の期待は外された。斜め上に。予想もしない方向に。
「ようこそ、ベルベットルームへ」
「あれ……貴女だけですか?」
悠はこの青いリムジンを、先月以来もう何度も訪れている。昨日もイゴールに頼んで、また新たなペルソナを生み出してもらった。おかげで最初に手に入れたペルソナであるイザナギは、既に悠の中から姿を消して、今やマーガレットのペルソナ全書に記録されているのみだ。
「ええ。主は今、席を外しております。マリーも」
ベルベットルームはもはや慣れた場所なのだが、今日はいつもと様子が違った。迎えの挨拶をくれたマーガレットはいるが、イゴールはいない。そしてマリーもいない。
(ん?)
その代わり、いつも通りいつの間にか後部座席に座っていた悠の足元に、一枚の便箋が落ちていた。拾い上げてみると、何行かの文章が書き連ねてあった。文字はかなり乱雑だが、読むのに支障はなかった。なかったことが転機の始まりだった。
<うたかた>
ねえ、聞いて
アタシの声を
叫んでいるこの声を……
アタシはここにいる
血を声に替えて
世界の果てで叫んでいる……
アタシは人魚姫
もう帰れない人魚姫
泡へと還る
(……リトルマーメイド?)
読み終えた悠は思考が停止してしまった。何と言ったらいいのか、コメントに困る代物である。先月のマヨナカテレビで雪子のバラエティが映った時、悠はテレビの前でしばらく固まってしまったが、同じような状態に陥った。人は想像を超える事態に対しては無口になってしまう。まして『人魚姫』と三行も並べられていては。しかも最後の一行に、ご丁寧にルビが振ってあっては。あらゆる感想や評価は奪われて、ただ頭の中で復唱することしかできない。
「わあああああっ……!」
思考停止していた悠は、体も一緒になって停止していた。春の陽気にまどろんでいたところへ、突然の木枯らしを浴びせられたようなものだ。肩や顎の辺りに余計な力が入って、奇妙に引きつっている。体温も実際に低下したような感覚さえある。だからいきなり後ろから湧いて出てきた人にひったくりをされても、抵抗できなかった。
「よ、読んだ? 読んだでしょ!」
ひったくり犯、もといマリーは振り返るや、目を剥いて叫んできた。世界の果てではなく悠の目の前で。便箋を握りしめながら、必死に。とにかく必死に。
「ち、違うの! これはその……そう! 詩とかじゃない! 詩って書いて、『うた』とか読まないって、世界の果てで叫んでるの! 勝手に言葉が溢れてくるだけで……」
会いに来た人が不在で肩透かしを食らったと思ったら、タイミング良く戻ってきた。それはいい。だが残念なことに、その人は一体何を言っているのかさっぱり分からない。分かるのはただ、あの詩はマリーが書いたものであるということだけだ。
詩人や小説家は、時に『ペンが勝手に動く』という現象を体験する。しかしそうした言うなれば自動筆記は、他人には理解できない謎の呪文を生み出してしまうことが、往々にしてあるものだ。推敲を経ずに、生身の感情や印象をそのまま発露した言葉の羅列が、綿密に考え抜かれ、建築にも比すべき精緻な構成を持った文章に勝ることは稀である。天才でもない限り。
そしてマリーの言葉は、文字で書かれたもののみならず、口で喋る言葉も理解できなかった。恐らくは言っている本人も理解していない。マリーは天才と言うより異才だ。芸術に関してはピアノと演劇を少々かじっているだけで、詩歌には疎い悠には訳が分からなかった。すると──
「べーるべるべるべるべっとー、わーがーあるじーながいはなー」
高級感溢れるリムジンに、『うた』が響き渡った。ただし訳の分からなさにおいては、人魚姫の詩の上を行っている。
「ふふ……驚かせてしまいましたか?」
しかも歌ったのが魔女のような美女と来れば、もう本当に意味不明である。ナンセンスもここに極まれり。車の外を漂っている霧さえも、ここまでは人を惑わさないだろう。
「ご存知ですか? この世に文字を知らない人間はいますが、歌を知らない人間はいないのです」
人類学的にはその通りである。例えば中国から漢字が伝来する前の、古代の日本には文字がなかった。あったとする説もあるが、ないとする説が主流である。しかし歌は存在した。歌は文字よりも起源が古く、しかもより普遍性が高い。世界に文字のない民族はいるが、歌のない民族はいない。
「だから……恥じることはないのよ、マリー。存分に歌いなさい」
「い、いいよ、もう……」
ただしそうした学問的な事実と今の状況がどう関係するのか、悠にはさっぱり分からない。姉のような魔女から『お許し』をもらったマリーも、何が何やらよく分かっていない。ただ悠から向かって左側の、いつもの場所に座った。
「てゆーか、何で落ちてんだろ……訳分かんないよ」
マリーは帽子を目深に下ろして、自分の爪先を見つめている。先月に夢でこの部屋に招かれて、再会した時のような雰囲気である。いや、あの時の『どうでもいい』と言わんばかりの愛想のなさ以上の、関わりにくさを醸し出している。
(そっとしておこうかな……)
悠が今日ここに来たのはマリーに会う為だった。しかし尋ね人は機嫌を損ねてしまった。こうなったらもう諦めて、触らぬ痛さに面倒なしとばかりに、そっとしておくことを考え出した。
最近の悠は仲間たち、特に千枝と行動を共にしたりして、不良に絡まれた千枝の幼馴染を助けたりしている。しかし人に引きずられた行動を重ねても、元来の性格はそうそう変わらない。面倒な事態に直面して、他人の後押しのない状況で自らの勇気だけを拠り所にして行動するには、悠はまだ何かが足りていなかった。しかし──
「お待ちください」
椅子から腰を上げようとした悠を引き留めるように、再びマーガレットが口を開いた。
「ここはお客様の定めと不可分の部屋。この部屋では、全く無意味なことは起こらない……はずなのです。主が不在の時に、私が貴方を迎えた……。そしてまさにその時、貴方は一つの真実を目にした……」
マーガレットは微笑んでいる。事務的な普段とは違い、優しげな情、もしくは情らしきものを金の瞳に浮かべていて、口元も緩んでいる。
「この奇妙な縁……私たちは何か、特別な絆で結ばれているのかもしれないわね」
「……!」
いつも敬語で話すマーガレットの口調が、急に砕けたものになった。いやに親しげに。思いがけない打撃を受けた悠の心臓は、大きく跳ね上がった。先月に雪子のマヨナカテレビを見た時もそうだったが、悠はこの種の不意打ちに弱い。振り返ってみれば、演劇部に入ったのも結実に釣られたからだったし、転校初日に千枝と雪子と話をした時も似たような状態に陥った覚えがある。そして──
『我は汝、汝は我……』
絆を教える『我』の声が、時の流れの存在しないベルベットルームをも止めた。柔らかく微笑むマーガレットの姿を一幅の絵として、ある『特別』な、普通の人間同士の関係ではないという意味において特別な絆の、その新たな一つが生まれたことを告げられた。
「そうね……貴方にお願いをしてみようかしら?」
(え……ええ!?)
宣告が終わって青いリムジンが駆動を再開してから、マーガレットは更に言葉を継いできた。それでもう、悠はすっかり惑乱してしまった。今日はマリーに会いに来たのだが、訳が分からない内に当ては外されてしまった。しかし思いがけなくも、美の化身が興味を示してきた。それはそれで、と言うか願ってもない──
しかしそんなあからさまな邪念は、不機嫌が極まった声によって遮られた。
「……何、鼻の下伸ばしてんの」
もちろんマリーだ。目深にかぶった帽子のつばの向こうから、上目遣いに睨んでくる。眉は寄せられ、唇は尖っている。普段は鮮やかな緑色の瞳は、ベルベットルームの闇を映して緑よりも青に近い暗黒を湛えている。
「あ、いや……」
冷や水を浴びせられた悠は、咄嗟に言葉が出てこなかった。失態である。別にマリーとは何の約束もしていないが、それでも今のはまずかった。非常にまずかった。大失態である。イゴールに教えてもらったタロットの永劫のカードが、なぜか脳裏に浮かんでくる。そしてカードが揺らめき始めた。もうあと一瞬でも黙っていたら、カードは反転する──
「ご安心なさいな」
と思いきや、またしても遮られた。マーガレットだ。微笑ましくてならないといった様子でいる。黙っていると怪異の域にも届く美貌の持ち主は、なぜか今日はとにかく親しげだ。そんなマーガレットが喋ると、悠もマリーもそちらを向かされる。半ば強制的に。
「自分はここにいると、血を声に替えて、世界の果てで叫んでいた……」
注目を集めたマーガレットは、不意に詩を朗読し始めた。するとマリーの瞳から闇が抜け、眉は開かれた。簡単に言うと『きょとん』とした。擬音が聞こえそうなほどの急激な変化だ。そして次の瞬間、頬に朱が差した。黒い髪から半分ほど覗かせている耳まで真っ赤になった。それを見届けてから、マーガレットは言葉を繋いだ。
「……人がいたのよ。でもその人は、今はもう世界の果てから戻ってこれたの」
世界の果てから戻ってきた人──
マーガレットは何を言っているのか、マリーも悠も分からない。その人の顔だけは、実は二人とも見ているのだが。
「だからね、人魚姫さん。私は彼を取ったりしませんよ」
「さ……さいあくきらいばか遊び人!」
遂にマリーは席から立ち上がった。満身の力を込めた捨てゼリフを叩き付けながら、悠の脇を通り抜けて走り去っていった。外の白い光が一瞬だけベルベットルームを満たし、そしてまた元の青い闇に戻る。部屋から出ていったのだ。
「ふふ……手に余るじゃじゃ馬っぷりね」
「……そうですね」
局所的な嵐が通り過ぎた後で、マーガレットは微笑んだ。悠は理解の域を超える話を聞かされ続けて疲れてしまい、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
「妹も頓狂な子だったけれど……人ならざる者とは、皆がああなのかしらね?」
「はい?」
「あら……言ってなかったかもしれないわね」
ここでマーガレットの顔から笑みが消えた。とは言うものの、普段の事務的な顔に戻ったのではない。月光を思わせる冷たい金の瞳に、憂いが宿った。
「あの子はね、人ではないの。ある定めを負ってこの地を彷徨う、人外の存在なのよ」
「……どういう意味です?」
人外。読んで字のごとく、人間ではない存在のことだ。広くは動植物も含まれるが、妖怪、幽霊、悪魔、神、その他諸々の『架空の存在』を意味することが多い。ただし架空ではなく現実に存在する人外もいる。例えばシャドウ。他にはイゴールとかだ。かく言うマーガレットも、その一人であるはずだった。
「ベルベットルームに集う者は皆、自らを探求する定めにあるわ。主も私も、そしてマリーと貴方も……。当てもなく放浪していたマリーを、見習いとしてここに迎えたのは私よ」
「放浪……?」
当てもなく放浪する者。それは──
「自分が何者であるのか探して、求めて……手に入れた結果が人の範疇を超えたものだった。そういうこともあり得るのよ。例えば、そう……宇宙と等価の存在になった者……」
宇宙──
「世界の果てで叫んでいた人は、本当にいたのよ。そしてもしかしたら……貴方も宇宙へ至る道を歩むかもしれないの。その道で貴方の傍にいるのは、あの子かもしれない……。だからどうか、人でないというだけで、あの子を拒まないであげてほしい……」
悠は聞くごとに自分が冷静になっていくのを感じた。眼前の『姉』のような女性に惑乱しかけた自分が、急に愚かしく思えてきた。しかし頭は静かになっても体はそうでもなかった。悠は席についたまま、知らず身を乗り出していた。そんな悠の様子を見て、マーガレットは表情に微笑みを戻した。
「ふふ……ちょっと喋りすぎたみたいね」
「もっと教えてください」
「まことかと聞きてみつれば言の葉を、飾れる玉の枝にぞありける」
食いついてきた悠に対して、再びマーガレットは『詠った』。急いで崖へと身を躍らせようとする悩み多き少年を宥めるように、ゆったりとした声で。最初のナンセンスな歌ではなく、極めて古典的な歌を詠った。
「はい?」
しかし悠に理解できない点においては、最初の歌と同じである。先月の雨の日にマリーと高台に出かけた時、少女が口走った歌を理解できなかったように、今も理解できなかった。古文の教師や物知りな高校生なら典拠くらい分かるだろうが、年相応の範囲から抜け出ていない悠には分からない。
「言葉を尽くしても蓬莱の玉の枝は作れない……。千の言葉よりも一つの行動に、心は震えるものよ」
「……」
「今の貴方がすべき行動は、マリーを追うことよ」
この地に来て最初に出会った印象的な少女の、その秘密の一端を思いがけず聞かされて、悠は前のめりになっていた。しかし突然詠われた和歌によって、肩透かしを食らった。そして今度はやるべきことを示された。未だ足りないものに満ちている少年は、こういう時は勧められた通りのことをする気になりがちだ。一言で言うと、流されやすいのだ。
「行ってきなさい。貴方へのお願いは、また後でお話しするわ」
「……はい」
そうして悠は席を立った。
「ふふ……全く、手のかかる子供たちね。もし力を管理する者がエリザベスだったら、どんな騒動になったのかしら?」
少女と少年が立ち去り、主人も依然として戻ってこないリムジンで、マーガレットは一人呟いた。膝の上に置いたペルソナ全書に、そっと手を添えながら。
悠を取る気はないとマーガレットはマリーを窘めたが、それは本当だ。ペルソナ全書、即ち力の管理者として決して悠に無関心ではないのだが、真の意味での『特別』な興味を抱いてはいない。マーガレットは悠の周囲にいる女の中で、悠への関心が最も薄いくらいなのである。それは今日の話の中で言及された、『世界の果てで叫んでいた人』がいるからだ。その男とマーガレットは『契約』を結んでいる。
もしその男、言うなれば悠の先輩がいなければ、マーガレットの態度や考えは違ったものになっただろう。しかしそんな仮定は、もはや意味がない。もはやマーガレットが悠を見る目は、『手のかかる妹の彼氏』のようなものにしかなり得ない。
ベルベットルームを出た悠は周囲を見回した。しかしマリーの姿はなかった。それどころか誰もいない。無人だ。活気が失われて衰えた町といえども、普段のこの時間の商店街に人の姿はある。雨や霧に襲われない限りは。しかし今はなぜか違っていた。新緑を眩しく照らす太陽の光の下にありながら、人影が全くない。
皮膚病のようにひび割れたアスファルトの隙間から、雑草が飛び出しているのみだ。それは見捨てられた病人の、顔の吹き出物が破れて流れた膿を連想させる。死を約束された町の中で、悠の影だけが絶対の孤独をかこっている。まるで神秘の領域に招かれた男が、僅かな遊びの時を楽しんでいる間に、現世では永劫の時が過ぎていたように。誰もが知っている、ある昔話のように。
(そんなはず……)
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、あり得ないと否定しつつも、悠は急な不安を覚えた。知らずに犯した何かの罪によって、取り返しのつかない罰を受けていたような。冷たいものを背筋に走らせる、猛烈な後悔が襲ってきた。
(マリー……!)
マリーを探さなければならない。意図せずとはいえ、自分は彼女を傷つけてしまった。探し出して謝らなければならない。それができない時は、未来が閉ざされる。自分も、この町も──
人の気配が消えた町を、悠は一人で走った。昔話の登場人物と違って『老い』の罰をまだ受けていない悠は、走ることができた。
「マリー!」
意外と言うか、街路の少ない狭い町なら当然と言うか、尋ね人はすぐに見つかった。ベルベットルームの扉から僅かな距離を走っただけで、青い帽子をかぶった後姿が目に入った。
「あ、来たんだ」
ここは商店街の北寄りの位置にある、辰姫神社だ。賽銭箱の前で腕を組んで佇んでいたマリーは、名前を呼ばれて振り返った。緑の目は意外そうに見開かれている。
「悪かったよ……」
悠はマリーの近くに歩み寄りながら、まず謝った。何に対して謝っているのか、自分でもよく分からないままに。許可なく詩を読んでしまったことか、一瞬とはいえマーガレットに惑わされたことか。だがとにかく、謝らねばならない気がしていた。
「……」
しかしマリーは悠の謝罪を受け入れなかった。駆けてきた少年から無言で視線を外し、古びた神社の境内へと戻した。
「……」
そんな愛想のない少女の隣に、悠は並んで立った。話しかけはせず、二人揃って神社を眺めた。風のない春の日に、虚ろな静寂が横たわった。
「……」
千の言葉よりも一つの行動。マーガレットはそう言ったが、なるほどそれは真理であろう。言葉をいくら尽くしても、マリーの機嫌は直せない。しかし行動と言われても、何をすれば良いのかは分からない。差し当たってできることは、ただこうして傍にいるだけである。
そのまま数分間、二人は黙っていた。傾きかけた神社にも鳥居の向こうにある寂れた町にも、人の気配はまるでない。世界にたった二人で残されたように、沈黙でもって静かに存在を主張し合った。
「……はい」
しかしそんな純情な時間も、いつかは終わりが来る。マリーは肩に下げているバッグから一枚の便箋を取り出して、悠に差し出してきた。
「……何だい?」
「あげる」
(え……)
悠は困ってしまった。これはもしや、先ほどの人魚姫の詩なのかと。それともまた別の、センスが溢れすぎた詩を綴ったものなのかと。もしそうなら、今度は何か気の利いた感想を返さねばならない。しかし普段から口数が少なく語彙に自信のない悠には、かなり困難な作業になりそうだった。
そうやって勝手に悩んでいると、マリーが説明してきた。
「これが私の仕事……まーがれっとが、やれって言ったの」
マリーはベルベットルームにいるものの、ペルソナの創造や記録などには携わっていない。テレビで戦う悠の為に、何か役に立つことは特にしていない。永劫のペルソナを生み出せばコミュニティの恩恵を受けるが、それだけだ。これまであの部屋で何の役割も与えられていなかったのだが、ようやく仕事ができたようだった。
悠は差し出された便箋を受け取った。しかし──
「これ……何で書いてあるんだ?」
ベルベットルームで拾った便箋の文字は、かなり乱れていたが判読はできた。しかし今手渡されたものは、紙は同じのようだが中身は読めなかった。悪筆という意味ではない。書かれている文字そのものは読めるのだが、それが何を表そうとしているのか読み取れない。
『夫混元既凝気象未効』
このように始まっている、かな文字が一切ない漢字の羅列なのだ。一見すると漢文のようだが、ルビも返り点もない白文の読み下しなど、悠にはできない。
「知らない……勝手に言葉が溢れてくるの」
どうやら人魚姫の詩と同様に、自動筆記で書かれたもののようである。しかし叙情詩ならばまだしも、漢字の群れが溢れてくるとはどういうことか。
「持ってて。何かの役に立つよ。きっと……」
「分かった……」
悠は便箋を受け取り、制服の内ポケットに入れた。テレビの中でも外でも大抵の時間は制服を着ているので、ここに入れておけば必要な時に使えるだろうと。何の役に立つのか、推測さえまるで立たないが。しかしマリーの便箋については、悠はそれ以上触れるのはやめた。代わりに気になっていたことを聞いてみた。
「君は……どこから来たんだ?」
マリーの容貌は一部日本人離れしているので、西洋の血が入っているのかと以前から思っていた。だが漢文を書くようなら、実は中国系なのか。そんなことを思った。『人外』云々については意識しなかった。せっかくマーガレットが教えてくれたのだが、人間にしか見えないマリーの容貌がそれを忘れさせていた。
しかしマリーは首を横に振った。
「分からない……覚えてない」
(記憶喪失……?)
「ただ歩いてて……行くトコなんてなくて、何となくあの部屋について……。そしたらまーがれっとが、ここにいなさいって」
「……」
「マリーって名前も、あの人がくれただけ……名前ないんじゃ、不便だから」
「本当に、何も覚えてないのか?」
「覚えてるって言うか……」
そう言って、マリーはショルダーバッグの中から細長いものを取り出した。
「このカバンも、帽子も、あの人に貰ったもの。だから私のものじゃない。でもこれは最初から持ってた……これは絶対、私のもの」
「竹……? 竹櫛か?」
櫛。髪を梳く為の道具、もしくは髪飾りとして使うものだ。主に使うのは女性であるから『女』を象徴するものであり、日本では古くから呪術的な意味合いを持つものでもあった。
「この町……懐かしい気がするの。私、昔ここに住んでたのかもしれない……」
マリーは櫛をバッグに戻し、アームカバーに包まれた腕を再び組んだ。そして空を見上げた。雨の気配のない、雲の一片もない快晴だ。しかしマリーの表情には雲が湧いた。
「でも……雨が違う。霧も違った……」
先月27日、雨の日に悠とマリーは稲羽の町を歩き、高台から町を見下ろした。要はデートをしたわけだが、その時のマリーは雨が違うと感じていた。何が違うのか分からないが、とにかく違うのだと漠然と感じていた。そして30日の未明から朝にかけて、霧が出たのだ。
「何で違うのか、分からない。それが嫌……」
「怖いのか?」
「そうじゃない。分からないだけ」
言葉とは裏腹に、マリーの白い顔を覆っているのは明らかに怯えだ。その気持ちに悠は思い当たる節があった。霧だ。テレビに入れられた人がいると、殺される合図となる霧。異世界と連動している霧。先月30日は犠牲者を出さずに済んだが、それは特捜隊の努力の成果であって、霧そのものの異常性がなくなったわけではない。
なお、30日はテレビの中ではなく現実である被害が発生しそうになったのだが、悠たち特捜隊はそれをまだ知らない──
「だから……思い出したい。何を忘れてるのか、私は誰なのか……知りたい」
マリーは真剣だ。その姿は、悠に自分を省みることを促してくる。
(自分は誰なのか……か)
今年最初の授業で『お前は何者か』との問いが放たれた。これは古代から現代に至るまで無数の人々の間で問われ続けてきた、古典的なテーマだ。しかし答えられる者は少ない。そして答える以前に、十分に考える者も多いとは言えない。なぜならこの種の問いに対して、人は他人と議論などしないのが普通だから。特に現代日本では哲学や宗教に通じる問題は、口にすること自体が憚られる傾向がある。そうした空気感を無視して話題に挙げる人は、世間からこう呼ばれる。痛い。もしくはウザい。
(これが本当の問い方なんだ)
そのようにして、この世の大半の人間は問いについて多少考えることはあっても、真剣に向き合う人は稀だ。諸岡が怠ける子供たちを恫喝したように、無理にでも向き合わせない限りまともに取り合わない人が大半だ。向き合わずにいれば、やがて問いは意識から切り捨てられて顧みられなくなる。霧に惑うシャドウのように。
(じゃあ俺は……?)
他人は自分を映す鏡だ。マリーの懊悩は悠に己を省みるよう、無言のままに促してくる。少女に倣って少年も考えてみた。鳴上悠は何者か──
高校生で、稲羽市に住んでいて、海外に転勤した両親の子供だ。堂島の甥で、菜々子の従兄。試験の成績は並程度。バスケットボールと演劇をかじっている、アマチュアのピアノ弾き。千枝と雪子の友達。友達以上の関係になれるかは今後次第。そして陽介の相棒で、クマの『センセイ』。即ち少年たちにペルソナを教える教師だ。更に言えばペルソナ使いの中でも特殊なワイルドで、自称特別捜査隊のリーダーだ。
(イザナギはああ言ってたけど……)
先月にテレビの世界で初めてペルソナを召喚した時、イザナギは問いに対して『我は汝、汝は我』と答えた。しかしその『答え』の意味するところを、悠はこれまで深く考えてこなかった。表の浅いところだけを見れば、イザナギの答えは『自分はペルソナ使いだ』との意味にしかならない。それはきっとマリーが求めている意味からは遠い。
諸岡の問いに、自分は未だ答えていない。悠は初めてそれを悟った。
「俺も知りたいな」
悩むマリーに悠は寄り添った。マリーは何者か、そして自分は何者か。二つの意味を、短い言葉に込めながら。
「探すの、手伝ってくれる?」
「ああ、いいよ」
悠はイザナギの答えを聞いただけで、全ての『答え』を得たつもりになっていた。だがもう少し考えてみる気になった。
「じゃあ……私も手伝う。君が誰なのか、探してあげる」
この時、マリーは初めて笑った。今日初めてではなく、出会って初めての笑顔を悠に見せた。それと同時に人のざわめきや車の音が、道路から届けられてきた。
これもまた一つの『契約』だった。悠は既にクマと契約していて、それによってあの部屋に招かれる資格を得たのだ。そしてこの二つ目の契約により、悠はマリーの笑顔を見る資格を得た。達成する為に何をすればいいのか、どれだけ苦労するのか分からない契約だが、人魚姫の笑顔はその報酬として釣り合うもののように思えた。
ちなみに人魚と言えば、最も有名なのはラストで『泡へと還る』童話だ。それは子供向けの童話でありながら、大人も悩ませる暗示に満ちた物語である。具体的に言うと、異種族間の恋愛だ。人と人ならざる者の恋は、ほぼ必ず悲劇で終わる。
更に言うと、世界には人魚にまつわる様々な種類の伝承がある。例えば日本では人魚の肉は不老長寿の霊薬とされ、それを誤って食べてしまった娘が心ならずも不死の身になってしまった悲劇が伝えられている。
そして不死と言えば、神の属性の一つである。
なお、この日マリーの怒りを誘ったマーガレットの『お願い』は、特定のペルソナを創造することだった。最初は速度を強化する魔法を持った一つ目一本足の日本の妖怪を作って、自分に見せろと頼まれた。かの魔女はなぜそんなものを見たがったのか、真意はまるで分からないながらも、悠は要望に応えた。そしてそんな悠をマリーは咎めなかった。