ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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怨念の補習(2011/5/25)

 一学期が始まって、はや一月半。メニー・ゴッド・ハイスクールもとい八十神高校の倫理の授業は『青年期の自己形成』と題された教科書の最初の章を終え、第二章の思想と宗教の歴史に入っていた。それは世界史の授業内容とも一部重複するが、哲学者の名前と主著の組み合わせを覚えれば十分な世界史と違って、倫理では思想の中身にまで踏み込む。

 

「アリストテレスは師のプラトンとは一線を画しておる! ルネサンス期の画家ラファエロが、『アテナイの学堂』と題したフレスコ画でこの師弟を描いておる! プラトンは天を指差し、アリストテレスは掌を地に向けるという構図だ! 貴様ら未熟者にも覚えやすかろうから、最初に言っておく!」

 

(ふわ……)

 

 教科書を漫然と眺めながら、悠はあくびを噛み殺した。先週にマリーと過ごした時もそうだったが、自覚症状付きで疲労していた。眠くて堪らない。諸岡の怒声さえ、瞼を持ち上げる釣り糸にはなってくれない。

 

「プラトンはイデア、即ち個別の存在をその存在たらしめる観念は個から独立した実体であると唱えたのは、前の授業で教えた通りだ! 対してアリストテレスは形相と質料という対になる概念を示した! 形相、ギリシャ語でエイドスは、イデアと同じく存在をその存在たらしめるものである! しかし素材たる質料、ギリシャ語でヒュレーと不可分であるとされる!」

 

(俺、疲れてるな……)

 

 疲労の原因は、昨日達成した完二の救出作戦だ。ただその中で起きた、どの出来事がこうも瞼を下ろせと命じているのか──

 

(……そっとしておこう)

 

 悠は軽く頭を振って記憶から目を背けた。そっとしておく選択肢はいつでも頭に湧いてくる。これが千枝や雪子が相手のコミュニティであれば、なるべく行動的でいようとしている。そうした方が好感を持たれることをかなり早い段階から学習していたし、彼女らが喜ぶ様を見るのは自分も楽しい気分になれたから。しかし自分の記憶に対しては遠慮がなかった。はっきり言って、思い出したくない。完二が囚われたダンジョンは、とにかく精神的に疲れる場所だった。陽介は終始嫌そうな顔をしていたし、悠も同感だった。

 

 目を曇らせ、頭をまどろませる優しき霧の誘惑に乗るように、悠は目を閉じた。怒声の授業は室内楽におけるチェロが発する低音のように、ポップスにおけるバックグラウンドのコーラスのように、耳に心地よく感じさえする。ボタンを外した上着から感じる小さな涼しさが、更なる眠気を誘う──

 

「そして形相と質料が結びつき、現実化した存在をエネルゲイアと呼ぶのだ! 日本語では現実態と訳される! それに対して未だ現実にならぬ潜在的な存在をデュナミス、可能態と呼ぶのだ! この分類が何を意味するかと言うと……」

 

 用語の紹介からその意義の説明に入ろうとしたところで、諸岡の目が光った。存在論の起源についての熱弁を唐突に止め、教室のちょうど中央辺りに人を刺し貫かんばかりの視線を放射する。

 

「花村!」

 

「ふわ……? ……は、はい!」

 

 浮き上がりそうな声を上げて、そして短くない間を置いてから、陽介は慌てて返事をした。居眠りをしていたところへ不意打ちを食らったのだと、教室中の誰もが察せられる、とても分かりやすい反応だった。

 

「エネルゲイアとは何か? 答えてみろ!」

 

「え……やべ、聞いてなかった! 鳴上、エネルゲイアって何だ?」

 

 担任に抜き打ちの斬撃を振るわれ、窮した陽介は、前の座席に座る悠に助け舟を求めてきた。隣り合った席でなければ聞こえないくらいの、ごくささやかな小声で。

 

「えっと……」

 

 対する悠は、首を少し回しつつ舟を出した。やはり小声で。

 

「石油とか、石炭とか……?」

 

 陽介が答えると、教室のそこかしこから失笑が漏れた。そして教壇の諸岡は肩を落としてため息を吐いた。

 

「全く……入れ知恵なら、せめて人を選べ。仲良く居眠りしてた奴に聞いてどうする」

 

 悠の助け舟は泥舟だった。諸岡は怒鳴る気力も失せたと言わんばかりに、静かな口調で陽介を嗜める。しかし──

 

「花村! それと鳴上! 貴様らには放課後、補習をさせてやる! ありがたく思え!」

 

 諸岡が静かなのは一瞬だけだった。次の瞬間には、よく喉が枯れないものだと感心するほど絶え間ない怒声を発し続ける、普段の様式に戻った。

 

「うへっ……マジかよ!?」

 

「俺も!?」

 

「サボったらどうなるか……分かるな?」

 

 諸岡は目の形は垂れ気味だが、視線は鋭い。そしてそこに含まれる色は本気のものだった。目を付けられると停学もあると噂される、八十神高校随一の嫌われ教師の諸岡金四郎、通称モロキンである。それにこう言われては、サボる選択肢はないに等しい。たとえ今日の放課後にアルバイトやデートの約束があったとしても、投げ出さざるを得ない。

 

「悪い、お前にまでとばっちり行っちまった……」

 

 不意に来た狩人に捕まった陽介は、声を落とした。対する悠も声を落とした。

 

「いや、俺こそ悪い。恥をかかせた……」

 

 悠と陽介は行動を共にする機会が多い。一緒に登下校することもあるし、屋上で時間を過ごす時もある。放課後にはジュネスによく一緒に行っている。それはもちろん特捜隊としての活動なのだが、特捜隊の事情を知らない普通のクラスメイトたちからは『都会出身同士で気が合うらしい、仲の良い二人組』と見られていることであろう。そして今日も二人揃って居眠りをして、仲良く補習となったわけだ。

 

「その、ご愁傷様……」

 

「人間、我慢が必要な時もあるよ。頑張って!」

 

 だが悠は隣に座る千枝から慰めを、斜め前に座る雪子から励ましの言葉を貰えた。それがせめてもの救いだった。

 

 

 この日の通常授業を全て終え、大半の生徒たちが教室から去った後の時間。太陽は夏へ向けて、少しずつ長く空に留まり続ける。まだ高い位置から注がれる日の光が、残っている二人の生徒の影を教室の床へと憂鬱を込めて落としている。もちろん影だけでなく、本人も憂鬱に落ちている。

 

「ちっきしょ、今日はシフト入ってるってのに……」

 

 自席に座る陽介は腕と足を組みながら、不満をこぼしていた。陽介のアルバイトの日程はかなり不定期だ。昨年以来、地域経済の中心に躍り出たジュネスであるから、仕事はいつでもある。だから突発で援軍要請を受ける日も少なくない。そんな忙しい職場である上に、今日は始めから勤務が予定されていた日だった。

 

「今度、俺もバイト手伝うよ」

 

 そんな陽介を悠は気遣った。先ほど陽介は携帯電話で職場の上役に連絡を入れていて、恐縮しきりだったのだ。仕事の当日になって予定を変えるのは、色々と問題が多い。それを見ていた悠はフォローを入れたわけだ。

 

「お、ホントか? つかお前、普段バイトしてる?」

 

「いや」

 

 悠はアルバイトをしていない。海外の両親からの仕送りと、堂島の小遣いが頼りだ。昨年までの生活ではそれで何の不自由もなかったが、近頃は出費が目立って増えてきている。武器になるものの調達は無論のこと、コミュニティで使う食事代や電車代なども地味に馬鹿にならない。だから金を稼ぐ手段も必要かと、近頃は考えていた。

 

「ならいっそ、本格的にうちでバイトしてみたらどうよ?」

 

「考えておくよ」

 

 そうは言うもののジュネスで働きはしないだろうと、悠は自分自身の行動を予測した。いくつものコミュニティによって、放課後の予定は大半が埋められているので、アルバイトは夜できるものがいいと考えていたから。以前に商店街の掲示板を確認したところ、封筒貼りなどの内職めいた仕事は多少だがあった。活気の失われた町といえども、仕事が全くないわけではない。

 

 そんなことを考えていると、廊下に通じる教室の扉が開いた。諸岡がやって来たのだ。

 

「ほほう、二人とも残っていたか。てっきり逃げ出したものと思っていたがな」

 

 来た途端に、この物言いである。

 

「サボったら、とか言ってやがったくせに……」

 

 腕組みをしたまま、陽介は小声でぼやいた。悠は口にこそしなかったが、同じ気持ちを抱きながら、こめかみに手を当てた。全くもって疲れる教師である。

 

(でもまあ、しょうがない。今日は花村とコミュをしているんだと思おう……)

 

 特に勉強好きなわけではない悠にとって、補習など面倒極まりない。だが今さら文句を言っても仕方がないので、今日は陽介との付き合いの一環と思うことにした。最近は個人としてのコミュニティは千枝や雪子を優先してしまっていて、陽介に付き合う機会は減っていた。陽介はそれについて何も言ってこないが、今日はその埋め合わせになるはずだった。苦難を共にするのは、絆を深める最も有効な方法なのだから。そんなことを思っていると──

 

「全く、貴様らときたら……ルサンチマンが服を着て歩いておるな! 花村など典型だな!」

 

 扉から教壇まで移動した諸岡は、突然こんなことを言いだした。陽介の小声を聞き逃さなかったのか、それとも腕組みをしているのを見咎めたのか。とにかく授業に続く、再びの怒声を響き渡らせた。特に陽介を名指しで。

 

「……?」

 

 もっとも教壇から放たれた言葉の意味は、席に座る二人には理解できない。二人とも教科書を授業で触れられる前から読んだりしないし、フランス語が分かったりもしないから。

 

「憎しみや嫉妬、怨念という意味だ! 特に自分より強く優秀な奴を嫉妬する感情を指すとされる! ニーチェはそういう卑劣さを、口を極めて非難しておるな!」

 

(何だと……?)

 

 憎悪、嫉妬。陽介はその典型──

 

 友人に対するこの評価に、悠は眉をひそめて反応した。先月にテレビの商店街に行った際の出来事を思い出して、頭の片隅で何かが凝る感覚を覚えた。俗な言い方をすると、『カチン』と来た。

 

「先生、それは違います」

 

 転校初日の悠は諸岡に落ち武者呼ばわりされたが、特に口答えはしなかった。しかしこれは見過ごせない。なるほどテレビの世界で見た、鏡に映る陽介は憎悪に満ちていた。慣れない田舎暮らし、地元の人々の反感、そして想い人の『遺言』。それら全てをまとめて浴びせられた陽介は、秘められた憎悪が鏡に映し出された。だがそれだけが陽介ではない。憎んで、嫌って、試練から逃げる道を示されても、逃げなかったのだ。

 

 あの出来事を知らない他人が、陽介を悪く言うのはそっとしておけない。八十稲羽に来て初めて得た友人の為にも、この困った教師に一矢を報いてやらねばならないと、悠は急な決心をした。

 

 何、恐れることはない。自分はもうテレビの中で何度も怪物と戦っている。そればかりか、刑事の叔父にも言うべきことは言っているのだ。諸岡がシャドウや堂島よりも恐ろしいなど、あり得ないのだ──

 

「話は最後まで聞け!」

 

 しかし機先を制された。諸岡は右手で教卓を激しく叩き、反論を始めようとする悠を遮った。生徒が意を決した、まさにその瞬間を狙ったような絶好のタイミングを捉えて。

 

 八十神高校は田舎の高校らしく生徒数は多くない。例えばポートアイランドの月光館学園と比べれば数分の一程度しかいない。それでも諸岡は毎年数十人からの生徒を相手に、教鞭を取り続けているのだ。それだけの人数がいれば、大声で怒鳴られれば畏縮する生徒ばかりであるはずがない。感情的に口答えする生徒も理屈でもって反論してくる生徒も、毎年何人かは必ずいる。そしてその全てに諸岡は応じてきた。つまり諸岡はプロの教育者として、生徒に反撃されるなどいつものことなのだ。敵を進んで作る者は、戦いにも慣れている。

 

「ニーチェはこう言う……『ルサンチマンの人間が考える敵を想像してみよ』とな。分かるか?」

 

「……?」

 

 思想書を読んだことのない悠には分からない。陽介ももちろん分からない。

 

「教えてやろう。『まず悪人を思い描く。そしてそれを基礎として、その対照となる善人を考え出す。それが彼自身だ』。悪を想定せずにはおられぬ者……自ら善を生み出せぬ者のことだ。物事に対して常に受け身で不平不満ばかりを並べ、そのくせ自分では何もしない……。どうだ、思い当たる節はないか?」

 

(それは町の……あ、いや……)

 

 何もせず不満ばかりを並べる者。それはテレビのコニシ酒店で聞いた、町で囁かれるジュネスへの陰口そのものだ。それと同時に、鏡に映った陽介自身でもあるはずだった。それだけが陽介ではないと、悠は弁護するような気持ちで諸岡に反論するつもりになったのだが、嫉妬や憎悪そのものに対する諸岡の分析によって、勢いが削がれてしまった。

 

 そして4月の出来事を顧みた。陽介は鏡像を自分自身と認めてペルソナを得た。しかしそれは、陽介自身が憎悪を克服したことの証明なのだろうか──

 

 そんな疑問に捉われた悠は、後ろの席へ注意を向けてみた。しかし陽介は黙っている。黙っていることしか悠には分からない。諸岡の話を聞いているのか、それとも聞いていないのか。今の状況では振り返って顔を見るわけにいかないので、気配を背中から感じるしかないが、それでは陽介の状態は判別がつかない。席が横隣りではなく、前後であるのが悔やまれた。

 

「誤解のないよう言っておくが、わしは別にニーチェの信奉者ではない。ニーチェ自身こそルサンチマンの権化よ」

 

 悠が不意な疑問を考え込んでいる間、諸岡は話を進めた。

 

「人は誰しも妬む……わしも、貴様らも、歴史に名を刻む哲学者さえも。人は何かの奴隷であることから免れぬ。ニーチェが夢見た自由で、高邁で、自律的な優れた人間……。これを超人と言うが、貴様ら風に言えばヒーローやカリスマか。そんな者はマンガや小説にしかおりはせん。いると考えるのは、ロマンティシズムの典型よ」

 

 ここで諸岡は視線を教室から外し、窓へと向けた。傾いた日差しに目を細めながら言葉を繋ぐ。

 

「つまりだ……現状に不満を持つこと自体は構わん。人間であれば、それが当然であるからな。悪いのは現状に対して真の反応……つまり行動による反応をせず、想像上の復讐や幻想への自己投影によって、不満を補おうとすることよ。それの行き着く先はニヒリズムに他ならぬ。社会的には人種差別やテロリズムにも発展する……」

 

 行動──

 

「もしニーチェを学ぶつもりがあるなら、十分に注意することだ。批判とは、まず何よりも自分自身にこそ向けねばならぬ。その点、ニーチェは特に危険だ。世の中には挑発的な警句をカッコいいなどとぬかして、ありがたがる輩が多い。自らに対して問わず、真の意味を考えることもせず、世間に向けて嘯くような奴らだ。底の浅い解釈は捏造よりたちが悪い。例えば『神は死んだ』や、『深淵もお前を覗いている』とかな……」

 

「あの、先生」

 

 話がずれ始めたところで、悠は挙手をした。反論するつもりではなく、ただ質問のつもりで。

 

「何だ」

 

「深淵もお前を……ってのは何ですか?」

 

「ふん、知らんのか。それは良かったな」

 

 これまで諸岡は横を向きながら話していたが、ここで教室の側に向き直った。教師と生徒。互いに正面から向け合う視線が、親子以上に年の離れた二人の間で出会った。

 

「特別に教えてやろう。『善悪の彼岸』という晩年の著書にある言葉だ。『怪物と戦う者は、己も怪物とならないように留意せよ。お前が深淵を覗く時、深淵もお前を覗いている』とある」

 

(これって……)

 

 悠は既視感を覚えた。この言葉を人から聞いた気がする。それはいつどこで、どういう文脈の中で聞いたのか──

 

「さて、これの意味が分かるか?」

 

 霧に隠された曖昧な記憶を掘り起こす作業は、諸岡に遮られた。諸岡は教えてやろうとは言ったものの、簡単に教えてやる気はないようである。普段の授業でもよくするように、生徒に答えさせようとしてきた。

 

「えっと……深淵って、崖みたいなものでしょうか」

 

 何となく聞き覚えのある言葉だが、今の今まで忘れていたので、もちろん意味を考えたことなどない。しかし聞かれた以上は何か答えなければならない。『分からない』とだけ返してはいけない。悠はそんな風に感じていた。

 

「ふむ。で?」

 

「崖を覗く時は、落ちないように注意しろ……ですか?」

 

 しかし口を動かしながら考えた結果は、この程度だった。何を言っているのか、自分でもよく分からない。

 

「試験だったら落第だな。補習であったことに感謝するがいい」

 

 教壇に立つ諸岡はため息を吐いた。普段の授業であれば、次の瞬間に怒声が飛んでくるところだ。今日の授業で泥舟に乗った陽介を叱り飛ばしたように。

 

「ニーチェは哲学者と言うより詩人に近い。だから一義的な解釈はそもそも不可能だ。それ故、わしの解釈を教えよう」

 

 だがこの時の諸岡は怒鳴らなかった。代わりに教卓を指で二、三度叩いた。

 

「これは『相手もお前を見ている』という意味だ。全てを知りつくし、全てを己の掌に乗せている……人は得てして、そういう錯覚に陥りやすい。特にお前ら若者はな」

 

 ここまで言ってから、諸岡は再び教卓を軽く叩いた。木製の板をコツコツと鳴らす音でもって、思考そのもののリズムを刻むように。出来の悪い生徒の頭を叩くべきところを、代わりに叩いているように。

 

「要は……自惚れるなということだ。お前だけが知っている真実などない。お前が知っていることは、他の人間も知っている。相手が見えるところに立っていれば、相手からもお前が見えるのだ。特に誰かと争う時は要注意だ。己は正義であるつもりでも、敵とみなし、悪とみなした怪物と実は何ら変わるところがない。この世の争いとは、どれもそんなものであるのよ……」

 

「……」

 

 悠は沈黙した。その後ろに座る陽介も依然として沈黙を続けている。

 

「二人とも、よく考えることだ」

 

 言葉の通じないシャドウとの戦いならば、悠と陽介はそれなりに経験を積んでいる。しかし言葉の戦いにおいては、諸岡には遠く及ばなかった。

 

「前置きはここまでだ! 補習を始める!」

 

 かくしてろくに反論できないまま、今日の放課後の予定を塗り潰した倫理の補習が始まった。内容は今日の授業のおさらいである。

 

「エネルゲイアとデュナミスは、英語のエネルギーとダイナミックの語源ともなっておる! 本来は現実と潜在という意味であるのに、後世では意味がほぼ逆転しておるのだ! 何とも興味深い事実であるな! 両者は不可分であるとアリストテレスは説いたが、その真実性を端的に表しているようなものだ!」

 

 諸岡の講義は言葉の洪水である。年長者として若者を諭すようだった先ほどと比べると、口調は大違いだ。常に絶叫するような大声でもって、大量の知識を生徒に流し込んでくる。しかも猛烈な速さで。

 

「両者の関係は大理石と彫像になぞらえられる! 石の塊に過ぎんものの中から、神をかたどった彫像が出てくるというわけだ! だがしかし! ここでよく考えてみよ! アリストテレスはなぜ存在の在り様を二つに分類したのか? それは現実の存在は、そうなる可能性のないものから生じはせんということだ! 泥から彫像は作れん!」

 

「よってアリストテレスはこうも言うのだ! 『我々の性格は、我々の行動の結果なり』とな! 即ち! 人間は己の性格に責任を持たねばならん! 人間の変化や成長は自らの努力によらねばならんのだ! 行動の伴わぬ根拠のない思い込みで、理想の自分などというものを掲げたところでどうにもならん! 虚構や妄想は決して現実に化けはせん!」

 

 万学の祖と称され後世に多大な影響を与えたギリシャ哲学の巨人について、諸岡は熱弁を振るい続けた。留まるところを知らずに。

 

「更にアリストテレスはエンテレケイアという第三の在り様を示した! エネルゲイアは現実でありつつも完成へ向けて進行するものであるのに対して、エンテレケイアは存在が目的に到達し、完成した姿のことを言うのだ! 分かりやすく言えば、英語の文法にもある現在進行形と現在完了形の違いだな! だがアリストテレスの著作において両者は厳密には区別されておらん! なぜか? それは完成などあり得ぬもの……もしくは目的をそれ自身のうちに内包しておるものが、この世には多々あるからだ! 例えば『人生』や『幸福』、更には『善』などだな!」

 

 通常の授業でクラス全員に向けて講義した内容を超える範囲まで、諸岡は解説を続けた。まるで落ちこぼれに対する補習ではなく、有望な生徒に対して特別指導をするように。

 

(もう満腹だよ……)

 

(何やってんだろな、俺。カッコわる……。ルサンチマンとか、響きだけちょっとカッコいいのが余計やな感じ……)

 

 もちろん実際はそんなことはない。悠と陽介は二人揃って言葉の濁流に飲まれるのみである。用語をノートに取るのが精一杯だ。

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