自然の霧は空気中に含まれる水蒸気が冷えて結露し、小さな水滴となって空中を浮遊することで生まれる。だから一日の中で最も気温が下がる未明から明け方にかけて発生することが多い。そして気温が上がれば消える。シャドウが蠢く稲羽の霧は明らかに通常の自然現象ではないが、日が昇って暖かくなれば消える傾向がある。それはこの日も同じだった。
初の霧の夜のパトロールを終えた朝、シャドウワーカー稲羽支部は稲羽市立病院に来ていた。と言っても、負傷した人員の治療の為ではない。支部長の堂島と副支部長の足立、そして現場指揮官兼アドバイザーとして本部から来た有里は、いずれも今日未明からの作戦で怪我は負っていない。たとえ負ったとしても、外傷は回復魔法で簡単に治せる。病院に来たのはパトロール中に保護した少年、小西尚紀を搬送した為だ。
現場で倒れた尚紀は、夜の間ずっと目を覚まさなかった為、ここに連れてきたのだ。入院の手続きは有里が、稲羽署への連絡は足立が、家族と学校への連絡は堂島が受け持った。要は仕事の後始末だ。三人のうち、最も早く終えたのは足立だった。
(どうなってんだよ、全く……)
病院の駐車場の隅の一角に、喫煙所と自動販売機がある。そこで足立は眼鏡を外した顔を顰めていた。そして蝋燭なら十本くらいまとめて吹き消しそうな勢いをつけて、紫煙を吐き出した。煙草がまずいことは分かっているのに、吸わずにはいられない。吸ったら吸ったで、やはりまずい。表情と呼吸にそんな内心をありありと表している。仮面使いの名人である足立にとっては、珍しいことだった。
「お疲れ様です。何か飲みますか?」
そこへ有里がやって来た。自動販売機の前で立ち止まり、財布をポケットから取り出しながら尋ねる。
「ああ……ブラックを」
「はい、どうぞ」
有里はブラックの缶コーヒーを二本買い、一本を足立に差し出した。初仕事の労いと言ったところだ。ごくささやかではあるが。
「ありがとうございます」
足立は表情から苛立ちを消し、冷たい缶を受け取った。仕事の上司に対するような敬語を添えて。そうして愚者と道化師の二人は並んで立った。ただし視線は合わせず、二人揃って田園の広がる景色を何とはなしに眺める。
喫煙所に二人以外の人はいない。それだけでなく、目の届く病院の周囲のどこにも人影は見つけられない。朝のまだ早い時間である。人の少ない田舎の、更に郊外にある病院の近くに人はいない。
有里は自分の缶の蓋を開けて口をつけた。足立も開けて中身を喉に流し込んだ。無糖のブラックコーヒーの苦い味が、徹夜明けの体に浸透していく。元々煙草の味を不快に感じていたところへ飲み物の苦さが加わって、足立は再び顔を顰めた。ここにいるのは自分一人ではないのに。
そんな常ならぬ心理状態にいたものだから、ついこんな言葉が口をついて出た。
「ねえ、有里君」
「……はい?」
有里は足立の側を振り返りつつ、驚いたように瞬きを一つした。足立にこう呼ばれたのは初めてだったから。すると足立は慌てだした。
「あ……す、済みません! 『くん』なんて失礼ですよね! 貴方は本庁の刑事みたいなものですし!」
表情や言動を自在に操れる道化師は慌てた振りもできる。稲羽署や世間では『お調子者の若い刑事』を演じている足立にとっては、狼狽はむしろ得意技だ。だがこの時ばかりは本気で慌てていた。今まで敬語で話していた相手に、意図せず内心での呼び方をしてしまったことに慌てた。
「僕は刑事じゃありませんよ」
だが有里は非礼を咎めるでもなく、八歳年上の刑事に向けて小さく微笑んだ。
「敬語はなくて構いません。一本分けてもらえれば」
そう言って、有里は口の前で二本の指を揃える仕種をした。すると足立は目を大きく広げた、意外そうな表情を見せてきた。
「君、煙草吸うの?」
口調を改めながら、足立は胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出し、未成年に差し出した。刑事の身で法令違反をしてしまっているわけだが、そんな些細なことは気にならなかった。
「普段は吸いませんが、たまに。……ありがとうございます」
火を点けてから、有里は礼の言葉を添えて箱とライターを返した。
「意外だね」
有里が煙草を覚えたのは昨年である。高校三年生に上がると同時に、それまで住んでいた寮から引っ越しをしたのだが、新しい寮のルームメイトとの付き合いが事の発端だ。親友でもあるかのルームメイトは家庭の事情から酒嫌いだったのだが、ある時『トラウマを克服しよう!』と言ったか言われたかして、高校生の身でクラブやバーに飲みに行ったのだ。その時、ついでに煙草も覚えた。
もっとも有里もルームメイトも未成年らしく酒も煙草も嗜む程度で、依存するほどやりはしなかった。特に煙草は、結婚後に吸うのはこれが初めてである。禁煙していた理由は、もちろん身重の妻を気遣ってのことである。
「足立さんも吸うとは意外です」
「ああ、僕もそんなに吸わないけどね」
言いながら、足立は再び有里から視線を外した。実際、足立も普段はあまり吸わない。毎日一箱は消費する相棒と違って、丸一日吸わない日も多い。吸うのは苛立ちを抱えている時くらいである。
「それで、何かお聞きしたいことでも?」
有里は右手に煙草を、左手に缶コーヒーを持っている。缶に二口目をつけてから、話を戻してきた。
「聞きたいって言うか……何の皮肉だよって思ったんだ」
対する足立は、三たび顔をしかめた。先ほどから内心の感情を表に出してしまっていることは自覚している。自分自身を制御できないのは、足立にとって一種の屈辱である。畦道に膝をついて、朝食の煮物を吐いてしまうようなものだ。だがそんなコミュニケーション上の失態よりも、その原因となった苛立ちの方が足立の心理では勝っている。だから屈辱は敢えて無視して、感情が自然と吐き出てくるのに任せた。
「と言いますと?」
「姉がシャドウに殺されて、弟がペルソナに目覚めるってどういうことよ。いくら田舎だっつっても、稲羽の人口何人だと思ってんだよ」
足立と堂島は稲羽支部の結成に際して、人がペルソナに目覚める要因を少しばかり聞いている。確かなところは未だ明らかになっていないが、家庭環境の問題がその一因であると有里は話していた。そしてそうであるならば、家庭問題など世間では特に珍しくもない為、今後に新たなペルソナ使いが現れる可能性があるのかと、堂島は尋ねた。その時、有里は否定しなかった。だから稲羽の住民の中から、足立と堂島に続く三人目の霧の日のペルソナ使いが現れることは、足立も考慮に入れてはいた。
だがそれにしたところで、小西尚紀はないだろうと足立は思う。なるほど小西家に問題は山積みであることは想像に難くないが、だからと言って──
「何でよりによって被害者の遺族なわけ? ゲームやマンガじゃあるまいし……」
確かに偶然と言うには、少々出来過ぎている感のある人選である。何らかの意図の下に、裏で仕組まれているものがあるのではないか。そう疑いたくなるほどに。
「復讐せよ……とか誰かが言ったの? 神様とか」
もしも本当に裏で仕組んだ者がいるのだとすれば、そいつは相当に意地が悪い。このろくでもない世界を作った神様か何かのように。足立は信心などないし、自分の力の背景に何があるのかも知らない。だからこの世に神などいるとは信じていないが、それでもそういう存在を想定してしまう。尚紀がペルソナに目覚めたこの事態には、どうにも苛立ちを感じずにはいられない。銃を好きなだけ撃てる面白さなど、軽く吹っ飛んでしまう。
そんな訳の分からない苛立ちを紫煙と共に吐き散らす足立とは対照的に、有里は感情を見せない。
「神様が何か言ったかどうかは、僕には分かりません。ただシャドウの被害に遭った人やペルソナ使いが身近にいると、覚醒が促される可能性はあります」
「……そうなの?」
「明確に証明されているわけではありませんが、過去にそういう実例はあります」
有里は足立と堂島には、過去の戦いの経緯をある程度は説明している。だが戦った者たちがどのようにペルソナに目覚めたのかは、話していない。極めてデリケートな事情があったり、故人が関わったりしている者が多いからだ。例えば父親がシャドウ研究の第一人者であったとか、母親がペルソナの暴走事故で死んだとか。
「もしかして、君も?」
「……ええ」
しばらくの間を置いてから、有里は煙草を持った右手を額に当てて顔を隠すように頷いた。有里がペルソナに覚醒したのは二年前の4月だが、真の契機は十年以上前に起きた、両親の死に関わるある出来事である。
そして有里はその時の情景を、一昨日に見せられた。だから実は、少しばかりデリケートになっていたのである。普段であれば、同じことを聞かれたとしても得意の鉄面皮で跳ね返せるところだが、昨日の今日では内心の憂いが思わず顔に出てしまった。
「ごめんね。何か悪いこと聞いちゃった」
世界を嘲笑う道化師から、真摯な謝罪の言葉を引き出してしまうほどに。
「お気になさらずに」
しかしすぐに気を取り直した。足立もそうだが、有里は気持ちの切り替えが得意である。
「それで……小西君をどうする気?」
マーガレットが暴こうとしている有里の核心に、足立はそうとは知らずに触れてしまった。しかしそれ以上を追求はせず、話を元に戻してきた。今問題にすべきなのは、大人のペルソナ使いであるこの二人ではなく、高校生の少年だ。
「ポートアイランドに来てもらおうと思っています」
「容赦ないね、君……」
足立は表情を歪めつつ、ため息を吐いた。姉が死んでからまだ二ヶ月も経っていない弟を、有里は戦いに巻き込もうと言うのだ。
「反対ですか?」
対する有里は再び煙草を吸い込み、そして吐いた。紫煙が縁取りをした呼吸は、視覚に映し出される。それでいながら、有里の吐く息には一切の動揺が伺えない。躊躇や逡巡がまるでないことが、足立の目には見える。見ているうちに、足立はやがて自分の顔から歪みが消えていくのを感じた。
他人は自分を映す鏡だ。飽くまで感情を見せない有里は、足立に自分を取り戻させた。煙草とコーヒーの苦さは時間と共に体中に広がって、顔に出る分は薄くなった。
「いや……僕がどうこう言うことじゃない」
尚紀に対して思うところはある。足立は腐れ果てても市民を守る警察官であり、シャドウから人々を守る特殊部隊の一員だ。そうなった経緯や動機が何であれ。だから悲劇の少年に何も感じないわけではない。ただし何を感じているのかは、足立自身にも分からなかった。深く考えることも億劫だった。
「やるかやらないか、彼が自分で決めればいい」
小西尚紀の苦悩の原因はどこにあるのか、足立は知っている。誰よりも理解している。だがそれ故にこそ、少年を巻き込むなとも巻き込めとも言わないことに、足立は決めた。そしていかにもわざとらしく、冗談めかした笑顔を作った。
「だからね、堂島さんを説得するのは君に任せるよ! 僕は何にも言わないから!」
足立は考えることをやめた。言い方を変えると、成り行きに任せることにした。そして尚紀をシャドウワーカーに入れることに反対するであろうことが目に見えている堂島を、どうやって説得するかといった難題は、有里に丸投げすることに決めたのだ。そして堂島の側に立つこともやめたのだった。
「困りましたね。是非貴方の口添えをいただきたかったのに」
仮面で笑う足立に倣うように、有里もわざとらしく苦笑した。もちろん本当に困っている様子はない。堂島と尚紀本人に何と言うか、どうやって少年を巻き込んで利用するか、プランは既にできあがっている。紫煙を吐く有里の顔には、そんな余裕が伺えた。それが分かるだけに、足立は冗談ではなく本気で笑い出しそうになってしまった。
(こいつは悪党だ……それも頭に小がつくタイプの悪党だ)
足立は有里との付き合いはまだ短い。しかし相手の本質は見抜くことができていた。
(シャドウワーカーブラックだな、マジで)
先月にペルソナの訓練の為にポートアイランドを訪れた時、足立は堂島と一緒にある小料理屋で食事をした。その際、酔った堂島に合わせるように、足立はシャドウワーカーを戦隊物になぞらえた。そしてノリでメンバーの色分けまで設定してしまった。その時は冗談のつもりだったが、今にして思うと正しい分類だったことがよく分かる。貰った缶コーヒーのように、有里には砂糖もミルクも含まれていない。
(警察だったら出世しまくるか、左遷されるかのどっちかだな)
そしてそんな小悪党に、足立は少なからぬ親近感を感じていた。自分とは方向性が異なるが、悪党であることには違いないから。
コンビを結成できそうな二人組が、各々煙草を吸い終えた頃。足立の本来の相棒である堂島が喫煙所にやって来た。小西家と八十神高校への連絡を終えて、二人に合流してきたのだ。そして大人三人による密談が開始された。
「私は反対です。彼はまだ高校生です」
三人の男が雁首揃えているのは、未明から乗り回していたバンの後部座席である。二列あるシートの前の方を回転させ、後ろのシートと向かい合わせにして、互いの顔を向け合う形で座っている。わざわざ車内で話しているのは、もちろん機密性を重視してのことである。
ただ季節は初夏だ。パトロール中は霧のせいで肌寒かったが、晴れた今は気温が上がり始めている。居住スペースを広く取ってある車とはいえ、大の男が三人も揃うと何とも暑苦しい。ジュネスのフードコートで開催されている、高校生たちによる『特捜会議』とは大違いである。
話題はペルソナ使いとしての素養が見込まれている、尚紀の稲羽支部への加入だ。だが有里が話を始めた途端、堂島は即座に反対してきた。
「町をシャドウから守る為には、彼の能力は不可欠です。また彼自身を守る為にも、組織に入れるべきです」
しかし反対されることが分かっていた有里は、当然怯まない。理屈でもって反論する。
「そうでしょうか? シャドウの居場所が分かるのなら、彼が一番安全なのでは?」
「そうとは限りません。居場所が分かっても、戦闘型でない彼だけでは対処できません」
「戦わなくても、逃げればいいでしょう」
「シャドウから常に逃げられるとは限りません。町のどこにシャドウが現れるのか、我々も事前に予期できないのですから。それこそ昨晩のように、至近距離にいきなり現れればどうしようもありません」
これは事実だ。シャドウは霧の日に現れる。それは分かっているが、それ以上のことは分からないのだ。町のどこに出現するのか、出現しやすい場所、しにくい場所があるのか。襲われやすい人間、襲われにくい人間がいるのか。そうした詳細な出現条件は、まだ何も分かっていないのだ。
「それに目覚めた以上は、何もしないのはかえって危険です。シャドウに関して最低限の情報は教えなければなりませんし、訓練を受けさせて力を安定させる必要があります。不安定なペルソナは、使用者に危害を加えることもあるのです」
これも事実だ。ペルソナは安定して使えれば大きな戦力になるが、そうでなければ危険でしかない。実際の話、ペルソナが使用者自身に害を及ぼした事例は過去にあるのだ。しかも命に関わるレベルにおいて。そして一度目覚めたペルソナを、消したり封じたりする方法も見つかっていない。従って尚紀をそのままにしておく選択肢は、ないに等しいと言ってよい。
「そうだとしても……彼を戦わせる必要があるのでしょうか。シャドウを探し出すのは、この車でもできるでしょう」
「一応可能ではありますが、精度は十分ではありません。探査が及ぶ範囲も狭く、地域全体はとてもカバーできません。情報系のペルソナ能力を主体として、この装置を補助的に使うことで、初めて十分な探査が可能になるのです」
今日の未明に尚紀を無事保護できたのは、多分に運の要素があった。霧の日のパトロールを今の状態で継続しても、シャドウによる被害を完全に防ぎきれる保証はない。と言うより、いつかどこかで漏れが出る可能性が高い。稲羽支部が任務を全うする為には、情報系ペルソナ使いは不可欠と言ってよい。
「有里さん……貴方は一般人の未成年に命懸けの仕事をさせることに、何の躊躇いもないのですか?」
一つ一つ反論された堂島は、論点を最初の問題に戻してきた。そして堂島にすれば、この点が最も大きな問題である。成人で、しかも本職の警察官である自分や相棒はいい。しかしそのどちらでもない者を巻き込むことに、堂島は進んで同意はできない。怒りさえ滲む鋭い視線を、眼前の青年へ向けて放つ。
しかしこの程度では、有里には通用しない。
「いいえ。シャドウ対策は年齢や職業を理由に人を選んでいられるほど、余裕があるわけではないだけです。そもそも僕自身も未成年であることを、堂島さんもご存知でしょう」
(く……)
堂島は言葉に詰まった。有里が言っていることは、全て事実なのだ。そして堂島はそれが理解できる。理解できるから悩む。悩むから言葉に勢いが生まれない。一般人を巻き込んではならないと感情が訴えれば、町をシャドウから守る為にはやむを得ないと理性も言い返す。対する有里は悩むところがまるでなく、ただ事実でもって、堂島の中にもある冷たい理性を後押しする。
未成年ならば既にここにいる。年齢を問題にするなど、今さらではないか──
こう言われては、返す言葉が咄嗟に出てこない。二十年に及ぶ刑事としての仕事で磨かれた堂島自身の冷徹さが、堂島の言葉を封じ込める。高校生だろうが小学生だろうが、疑う時は疑うし、引っ張る時は引っ張る。泣く子も黙る稲羽署の鬼刑事。そう呼ばれることもある堂島の容赦のなさを、有里は容赦なく突いてくる。
「……」
数秒間ほど黙った堂島は、隣の席に座る足立に目を向けた。お前も何か言えと、目で訴えた。
「えっと……本人の意思も聞いてみたらどうですか?」
足立は決して有里の肩を持つつもりはないのだが、そうかと言って堂島の味方をするつもりもない。成り行きに任せるつもりなのだ。だから自分の意見は言わず、こんな言葉を口にした。
しかしこれは有里の思う壺だ。本人の意思を聞けば、それを無視するのは難しくなる。そして尚紀を説得するのは、堂島を説得するよりずっと容易なはずである。
「ごもっともですね。では彼が目を覚ますまで、まずは待ちましょう」
我が意を得たりとばかりに、有里は頷いた。そして一時休戦を申し出た。
「やるのは小西君自身なのです。我々の意見より、彼の意思を優先するべきでしょう」
かくして車内の議論は結論を先延ばしにされた。しかし実態は有里の優勢勝ちと言って良い。つまり堂島の救援要請は、結果的に裏目に出た。
尚紀が目を覚ましたのは、この日の午後だった。4月の堂島と足立もそうであったように。ちなみに小西家には、『明け方に町中で倒れていたのを発見したので、病院に搬送した』と連絡してある。しかし尚紀の両親は、未だ息子を迎えに来ていない。家庭の内部事情が伺える腰の重さである。
そうして外からの邪魔が入らない状態で、少年への説明が開始された。
「貴方たちは……俺を助けてくれた人ですよね?」
病室に有里たち三人が入ると、ベッドのヘッドボードに背をもたれさせていた尚紀は、まずこう言った。
「そうだよ。昨夜何があったか、覚えているかい?」
「……夜中に姉の声を聞いたような気がして、外に出たんです。そしたら、何て言いますか……泥の塊みたいなのがいました。それで、貴方たちが……」
桐条グループの研究によれば、ペルソナ使いは覚醒した当初は記憶障害が起こりやすいと言われている。実際、そういう状態に陥った者はシャドウワーカーの前身の時代から何人かいた。しかし必ずそうなるわけではない。そして尚紀はかなり正確に記憶していた。
「その通りだよ」
話が早くて助かるとばかりに、有里は尚紀に大まかな事情を説明した。
「へえ……警察って、そんなことまでしてるんですか」
「そうなんだ。そこで君の意思を聞きたい」
荒唐無稽な話を聞かされても、尚紀は笑ったり呆れたりしなかった。終始落ち着いた状態のままで、世界の裏側に関する話を抵抗なく受け入れていた。情報系のペルソナ能力は、『認識』の能力と言い換えてもよいものだ。つまり世界で生起している諸々の現象を、五感を超えた領域において正確に把握する為の能力だ。そして認識は記憶とも密接に関わる。
だから尚紀は自分を襲った事態を記憶できていたし、『怪物と戦う超能力者の集団に入ってくれ』との要望を、嘘や冗談とは受け取らなかった。簡単に言うと、尚紀は世間の常識よりも自分の認識を優先していたのだ。
「やるかやらないか、俺が決めるんですか」
ただ、どこか斜に構えた態度でいた。ルールを無視することに充実を感じる不良ではないが、大人の言うことを何でも聞く優等生でもない。暴力は無論、理屈によっても反抗しないが、何となく従順ではない。中学生から高校生くらいの年頃では決して多数派ではないが、どこのクラスにも一人くらいはいる、いわゆる『変わり者』の部類に属する少年だ。
「もちろんだ。でも意見を聞きたいなら、言うよ」
「……言ってください。貴方たちは俺にどうしてほしいんですか」
人の話は聞く。従うかどうかは聞いてから決める。そういうタイプの少年だ。だから今日も聞いた。
「俺は反対だ」
「僕は……何も言わないよ。君が自分で決めることだ」
「僕は君に協力してほしい。君の代わりが務まる人は、この町にはいないからね」
「……」
三人の大人の意見を一通り聞くと、尚紀は黙り込んでしまった。
君の代わりはいない、君でないといけない。これは殺し文句である。単純だが、強力な口説き文句だ。こんなセリフを言われる機会は、一生のうちにそう何度もあるものではない。斜に構えていようと変わり者であろうと、やはり尚紀はただの高校生である。こんな言葉を与えられては平常心ではいられない。つまりこれは揺さぶりだ。
「決めるのは訓練を受けてからでもいいよ」
一つ揺さぶったところで、有里は妥協案を示してきた。
「……じゃあ取り敢えず、行くだけは行ってみます」
そして一応の同意を引き出した。
(落ちたな)
足立は顔には出さず、内心で慨嘆した。有里が示した妥協案は、言わば逃げ道である。迷っている人間に当面することを示してやると、取り敢えずやってみようという気にもなる。だが有里のこれは逃げ道ではなく、罠だ。示された道を歩き出したら最後、気付いたら引き返せないところまで来てしまう。
何しろポートアイランドは桐条グループのお膝元だ。つまりシャドウワーカーの巣だ。そんな所に連れていかれたら、もう終わりだ。義務感や使命感に訴えたり、ヒーロー願望に火を点けたり、高額な報酬で釣ったり。手を替え品を替えて尚紀を勧誘するだろう。ただの高校生に過ぎない尚紀が、有里に抵抗できるとは思えない。大した時日も要さずに、必ず首を縦に振らされる。足立はそう予測した。
「……」
仮面をかぶり続ける足立とは対照的に、堂島は顔に出していた。唇を強く噛んだ、苦りきった表情を隠そうともしない。しかし口では何も言わない。堂島は元より口が巧みな方ではないが、だから言葉を重ねないのではない。有里は間違ったことは言っていないからだ。町に怪物が出ることも、尚紀の力が必要なことも事実なのだ。
(利用されていると分かっていても、そうせざるを得ないとはな……)
有里は嘘は吐いていない。甘い虚言で高校生を誑かすようなことはしない。ただ真実でもって反論を封じてくる。それはある意味で、単純な嘘吐きよりもたちが悪い。真実が持つ強制力は絶対である。