人は見たいように見る。自戒の意味で、或いは人間の愚かしさを嘆く意味で、よくそう言われる。だがそれ以前に、そもそも物事の本質を人間は認識可能であるのかという問題がある。
事故や事件の真相を究明し、白日の下に晒すという意味ではない。現象の背後に存在する、或いは存在すると想定される『実体』を、人間は果たして認識できるのか。限定された時間と空間にのみ存在し、五感を通した現象でしか物事を認識できない人間が。これは論理の不整合を発見することや、印象や既存の観念に囚われないでいることとは、全く次元の異なる問題だ。
『真実』ならば人間でも掴めるかもしれない。では『実体』は認識できるだろうか。もし認識できる者がいるとすれば、それはもう人間とは言えないかもしれない。人間でないならば、それは何か──
(ここは……?)
辺り一面、白、白、白。視覚がまるで役に立たない白い闇の中に、足立は一人で佇んでいた。右を見ても左を見ても、ペンキを満遍なく塗ったような隙間のない濃い白色があるばかりだ。
自分の周囲には何かがあるのか、それとも何もないのか。そんなごく単純な二択さえ選べない、極めて密度の高い白の中に足立は身を置いていた。見えるものなど己の手足がせいぜいだろう。それも足は屈まなければ、手は目の前まで持ち上げなければ見えないほどに──
「ん?」
手足に意識が及んだ時、足立は自分が手ぶらではなく一丁の拳銃を手にしていることに気が付いた。
拳銃。女子供でも、大の大人を容易く殺せる兵器。それ故に、日本では一般人は使用はおろか所持も許されていない。逆に言うと、これを持つことはそれだけで『特別』の証になる。これが欲しくて、自分は警察官になったのだ。
(使う機会は一度もなかったけど)
交番勤務の巡査などと違って、刑事は普段から拳銃を持ち歩かない。拳銃は署内の装備課で厳重に保管され、持ち出しには規程に則った申請と上長の許可が必要だ。そして拳銃本体は無論のこと、弾薬も一発ずつ管理されている。持ち出すだけでも面倒な上に、撃てば撃ったで、それまた延々とした書類の手続きが必要になる。
そのようにして、足立は仕事を選んだ動機を思い出した。それに続いて、実際はどうだったかを思い出した。周囲が何も見えない場所に突然放り込まれるという異常な事態に出くわしながら、卑近な事柄を冷静に考えた。考えながら、悟った。
「ふん、なあんだ……」
これは夢であると。夢でなければこの『特別』の証を、そして面倒事の塊を、知らず手に握っているなどあり得ないのだから。ならば──
『何を望む……?』
突然、白い世界の向こう側から声がした。
「へ?」
よくよく見れば、白い闇の中に浮かび上がる、人影らしきものが伺えた。
『君は何を知りたい? 真実か?』
再びの声に、足立は呆れた。随分と藪から棒だ。見たこともない場所で、どこの誰とも分からない相手からいきなり『何を知りたい』などと聞かれても、一体何と答えようがあるだろうか。まして『真実』などとは。夢とは往々にして論理性がなく、リアリティもない。もっとも、だから夢なのだとも言える。そしてそれは今晩も同じだ。ただそれだけのこと──
「別に」
唐突な人影に対して、足立は一言だけで答えた。脈絡のない質問に、まともに答える気などない。しかしたかが夢で怒り出すほど足立は感情的でもない。仮に夢見がちな子供から同じことを現実で聞かれたとしても、怒ったりするほど大人気がないわけではない。足立は自分自身をそう見なしている。怒った振りならするかもしれないが。
『そうか……では去るといい』
人影は白い闇に溶けて消えていった。その時、闇が少しだけ左右に揺れたように、足立には見えた。それで気付いた。この白いものは霧であると。今月から赴任してきた地域で、かなりの頻度で観測されている異常気象と同じ霧なのだと。
そして霧の中に一人残される形になった、自分をどうしようかと思案し始めた。放っておけばそのうち自然と目が覚めるだろう。ただ何となく、早く目覚めなければならないような気がしていた。理由は分からないが、とにかく目覚めなければならない気がしていた。
どうしたものかと思っていると、右手に持った銃の重みに意識が向いた。すると足立はにやりと笑い、おもむろに右手を持ち上げて銃口をこめかみに当てた。
「一度やってみたかったんだよねえ……こういうの」
求めていた銃。警察学校時代の射撃訓練以外で撃つのは、これが初めてだ。初めての殺しの相手が自分自身とは、なかなかに皮肉が効いているではないか──
足立はその程度しか考えなかった。たったそれだけで、自分を撃ち殺した。
「……おっと」
足立は左側に傾いた体を、手をついて支えた。そして次の瞬間、首を右側に巡らせてみた。だが右手は何も持っておらず、皺が寄り始めた上着のポケットに何気なく触れていた。それで自分の現在の状況を悟った。ソファーに座っていたら、いつの間にかうたた寝してしまっていて、ついでにおかしな夢まで見てしまった。霧の中で佇んでいて、拳銃自殺して目が覚めた。その勢いで倒れそうになってしまったというわけだ。
「やれやれ……ちょっと疲れてるのかな?」
誰にともなく呟きながら、周囲を見回した。足立が座っているソファーの他に、背の低い小さなテーブルと大型のテレビが置かれている。ここは地域随一の人気を誇る、老舗の温泉旅館である天城屋。そのロビーだ。ここには最近、議員秘書との不倫疑惑でニュースにもなっている地元テレビ局のアナウンサーが密かに宿泊している。正確には宿泊していた。今はいない。
有名人の不倫騒動とは一種の娯楽である。話題の乏しい田舎町であればなおさらだ。しかしそれに人が群がりすぎれば、当人や周囲に及ぶ迷惑は多大になる。そこでマスコミ対策として、足立は署の命令でこの日の午後から警護に出ていたのだ。実際、旅館に押しかけてきたマスコミの群れを、足立は署の他の刑事と一緒に追い払ったりしていた。
「足立」
「あ、堂島さん。お疲れ様です」
足立はソファーから立ち上がり、今月からの新しい上司で相棒の堂島を出迎えた。奇妙な夢の中で目覚めなければならないと思っていたのは、これが原因だ。居眠りしている現場に上司が来たりしたら、何を言われるか分からないから。夢を見ながらでも、現実の危険を無意識的に覚えていたわけである。
「ったく、今日は甥が来た初日だってのに……。休みの日に呼び出しとか、勘弁してほしいぜ」
「済みませんね。何か変なことになっちゃって」
「状況は?」
「ええ、それがですね……」
足立は説明を始めた。宿泊客の山野真由美が失踪した状況について、旅館の従業員への聞き込みなどで得られた情報を。曰く、最後に山野の無事が確認されたのは正午過ぎ、仲居が昼食の膳を下げに来た時だった。その後、夕食を運んできた仲居が、山野の不在に気付いたのが事の始まりだった。従業員と警護の警察官が総出で旅館中を探し回ったが、見つからなかった。部屋には貴重品を含めた、身の回りのものは全て残されていた。山野は精神的に不安定な状態だったので、着の身着のままで出ていったか、更には拉致の可能性もあると判断された。それで甥の出迎えの為に今日は休暇を取っていた堂島にも、お呼びがかかったというわけだった。
「分かった。取り敢えず山野が泊まってた部屋に行くぞ」
足立の説明を一通り聞いてから、堂島は歩き出した。足立はそれに従いつつ、ロビーを出る前に一度だけ後ろを振り返った。目に入ったのは、電源が落ちて何も映っていない、一台の大型テレビだ。
別に、あの女が取り分け気に入っていたのでも、気に入らなかったのでもない。ただこの田舎町に来て以来、何度かテレビで見て、いいなと感じてはいた。清潔な印象のある彼女の容貌が、いつか見た夕暮れの空の美しさを思い起こさせたのかもしれない。強いて理由を挙げるならば、それくらいしかない。つまるところ、若気の至りとか気の迷いとか。とにかくそういう奴だ。
「目ぇかけてやったのに、こんな下らない女だったなんて……」
言いながら、無茶な理屈だと自分でも思う。これが噂の不倫相手本人が言うならば、まだ分かる。しかしテレビで見ていただけの人間が恨むなど筋違いもいいところだ。しかしそうした筋違いを行う人間は、世間ではそれほど珍しくない。アナウンサーに限らず、アイドルやタレント、更にはプロスポーツ選手など、会ったこともないのに意味不明な理由で恨む人間はこの世に大勢いる。それが事件に発展することもある。
「何なの、貴方……ひ、人を呼ぶわよ!」
この際だから、そうした愚か者を演じてみるのも悪くない──
「あー、うるさい。うるさいうるさい黙れ」
思い通りの表情を作るのは昔から得意だった。わざと棒読みにした言葉に合わせて、口の端を下げて眉根を寄せた。いわゆる悪人面、そのうちの怒りの系統に属する形を作ってみた。容疑者の取り調べなどで本庁にいた頃に作ったことがあるので、どんな顔なのかは自分でも分かっている。その顔で一歩近づくと、女は一歩下がった。
「あんたさあ、一度怖い思いして、頭とか冷やした方がいいよ」
今度は口と眉の形を逆にしてみた。嫌らしいと呼ばれる系統の悪人面をしているつもりだ。しかしこれは仕事でした覚えがないので、どんな顔なのかは想像するしかない。電源の入ってないテレビがそこにあるので、近づけば画面に顔が映るはずだが、あいにくちょうど直線上に女がいるので邪魔で見えない。
こちらが一歩近づけば、女は一歩下がる。そうしてあっという間に、テレビの前まで女を追い詰めた。
「ひっ……」
女の顔が歪んだ。この反応から見て、どうやら今の顔は最初の悪人面よりも人を怖がらせる効果があるようだ。家に帰ったら鏡の前でやってみよう。もっとも数秒も持たないかもしれないが。表情を作って内心を隠すのが得意な自分でも、鏡の顔のおかしさに思わず吹きだしてしまう。そんな予感が今からしている。
「な、何をする気……」
女の肩を掴んだ。そして背後のテレビの画面に押し付けた。すると画面に波紋が広がった。
──
「落ちた……。はは、凄いな。完全に入っちゃえるんだ」
家に帰る必要はなかった。波紋が消えた後のテレビ画面で、新しい自分の顔を確認できた。思った通り、笑えた。しかし──
(あ……しまった。これで失踪とかになったら、堂島さんも呼ばれちゃう? 今日は甥っ子が来るとかで、休み取ってるんだった。うわ、悪いことしちゃったなあ……)
一頻り笑った後で、まずいことになったと思った。
今日この日、山野真由美を落としたテレビを見て、足立は考える。怖い思いをしてみろとは言ったものの、果たして本当にそうなったのかと。
(実際のところ、あの中ってどうなってんだろ? 案外安全で快適で、楽しい場所だったりして。それであの女、明日辺りにひょっこり出てきたりして?)
もしそうなったら、少しばかり面倒になるかもしれない。無論、『テレビに落とされた』などと言っても誰も信じるはずがないが、『乱暴された』とか言われると困る。しかし警察の仕事に未練はないので、クビになろうがどうでもいい。足立はそう思っていた。ただし深く考えるのではなく、心の上澄みの部分だけで簡単に考えていた。
「おい、何してる! 早く来い!」
「は、はい!」
そして相棒が呼ぶ声で、深く考える機会も逸した。
(ここは……?)
足立が旅館でうたた寝をして、白い世界の夢を見て、そして目覚めた少し後。悠もまた一面の霧が覆う白い世界で目を覚ました。足立からは一歩遅れたが、同じように訪れた。
『何を望む……?』
そしてやはりこう聞かれた。白い闇の中に浮かび上がる人影らしきもの。それは朧な立ち姿で、人間大の大きさであることくらいしか分からない。男なのか女なのか、若いのか年寄りなのか、姿はもちろん声からも判別できない。世界を覆う白色は、目だけでなく耳までも曇らせている。それが悠に奇妙な不安感を覚えさせた。
『君は何を望んで、ここに来た? 真実か? それとも……』
「別に……」
言葉を連ねようとする人影を、悠は途中で遮った。
来たくて来たわけではない──
悠はそう言おうとした。それは少なからず本音だった。八十稲羽に来たのは親の都合。それが全てだ。決して自分の意志で来たのではない。むしろ気は進まなかった。何も望んでいなかったし、期待もしていなかった。その代わり、特に悲観もしていなかった。テレビのチャンネルを何度変えようが、映っている番組に興味がなければ関係ないように、どうでもいいと思っていた。しかし──
(あれ……?)
思いながら、悠は引っかかった。何かに捕われている、『何か』を求めているような気がした。しかしそれが何なのかは分からなかった。いつから求めるようになったのか、それも分からなかった。今日か、昨日か、その前か。どれほど昔かも分からない、遥かな遠い日からだったのか。ただ一つ分かるのは、それが何かに『捕われている』ということ。
『なるほど……。君はまだ、絶望の底に沈んではいない。望むことも望まない者ではない……。そういうことなんだね』
唐突な問いを発した人影は、勝手に納得してしまった。こういう自己完結は現実でもそれほど珍しくない。言葉を知らない為か、議論の仕方を知らない為か、とにかく人と話し合うことをせずに、自分が持っている情報だけで物事を判断してしまうのだ。自分から話を振っておきながら、一方的に話を終わりにする。そしてこういう類の人間は、あまり好まれない。
悠は人に対して怒りを露わにすることはめったにない。少なくとも、怒りやすい性格ではないと自分自身を見なしている。しかし今ばかりは、少々苛立ちを感じた。その苛立ちを何かにぶつけてやりたいと、不穏なことを考え始めた時──
「ん?」
初めて気付いた。自分が手ぶらではなく、一振りの刀を手にしていたのだと。
刀。人を斬る為の道具。しかしその目的を達するには、それなりの鍛錬が必要だ。素人が真剣を振り回しても、そうそう人など斬れるものではない。据え置かれた竹ならともかく、動いて抵抗もする相手に刃が立つよう正確に刀を振るのは難しい。更には心構えにおいても並々ならぬものが必要だ。何しろ斬れば、人は死ぬのだから。そして悠は戦場で振るう剣は無論のこと、競技としての剣道も習っていない。だから竹刀すら握ったことはないのに、なぜか刀を持っていた。
『なら、捕まえてごらん……』
刀に驚いている間に、影が動いた。夢を見るように、緩やかに向こう側へと移動していく。それを見て悠は悟った。
「ああ、なるほど……」
これは夢であると。午後の電車でも奇妙な夢を見ていたが、その時のように自分は夢の中にいるのだと気付いた。夢であるならば、何を恐れる必要があろうか。上手に使えば人を殺せる凶器を持っていようが、それが何であろう。
悠は構えを取った。ただし正眼の構えなどはしない。右足を後ろに引いて腰を深く落とし、刀を右脇に抱えて、束を相手に向けて切先を下げた。剣道で言うところの脇構えだ。もっとも習っていない悠は、そう呼ばれる構えであることも、競技には不向きであることも知らない。ただ何となく、格好がいいと思ってやっているに過ぎない。
「やっ!」
霧に覆われた床を右足で蹴り、左足を僅かに浮かせた。体全体を前へと押し出しながら、刀を脇から上段へ振り上げ、滑らせた左足が床を踏みしめると同時に、袈裟懸けに振り下ろした。剣道は習っていないものの、悠は運動神経にはそこそこ自信がある。だからイメージした通りに体と刀が動いた。そして影を捉えた──
『なるほど……なかなか面白い素養だ。何も持たない、何も見せない。だがそれ故にこそ……。古き良き力、その新たな形となり得るか……』
捉えたつもりだったが、手応えは乏しかった。それを裏付けるように影は言葉を発し続けている。一度で仕留められなければ、二度目を放つのみ。そう言わんばかりに、悠は再び刀を脇に構えた。しかし──
『だが留意せよ、人の子よ』
影の雰囲気が急に変わった。砕けた口調で、どこか相手を見下す嘲りの色が含まれていた声は唐突に厳粛さを含んできた。見下していることには変わりがないが、それを相手に不快とは感じさせないもの。それは真実、『上』の存在であることの証明。即ち神性。
聖なる存在を前にすれば、人は誰しも恐れ入る。
『人は見たいように見て、聞きたいように聞く。それは真理である。太古の昔から変わらぬ、人間の真理である。だがそれだけには留まらないのだ』
一言続けるごとに、声の迫力は大きくなり続けていき、やがて見た目まで変わってきた。元は人間くらいの大きさだった影は、いつの間にか見上げるような巨体に変貌していた。本当に大きくなったのか、霧のせいでそう見えているだけなのか、悠には分からなかった。ただ刀の束を握る手に力が入った。汗も滲んだ。
『ある人の子に曰く……お前が深淵を覗く時、深淵もお前を覗いている。これもまた、真理である』
「深淵……?」
これはある哲学者の有名な言葉だ。だが悠はこれまでの人生で思想を学んだことはない。学校の授業では倫理は未だ履修していなかったし、特に読書家でもないので思想書を自発的に読んだこともなかった。だから影が何を言わんとしているのか、理解できなかった。
『お前が真実を覗く時、真実もお前を覗くのだ。ましてこの霧……。欲にまみれ、個の為にのみ生き、しかも死の封印すらなき今世……。事と次第によっては、お前が覗くのを待つまでもなく、真実の方からお前を覗きにくるやもしれぬ……』
戸惑い、緊張しながらも、悠は影の声を黙って聞いていた。そうしているうちに、やがて気付いた。影の意図を。
(忠告……なのか?)
尊厳なる者、神聖なる者。そのように言い表すのが相応しい、もしくは相応しいかもしれない存在が、自分を気にかけて忠告を与えてくれている。それに気付くと悠の緊張は解けた。そして構えも解いた。右手を束から離して左手一本で刀をだらりと下げ、膝を伸ばして上体を起こした。そして茫漠と広がる霧を、ただ見つめた。その先にいる何者かが、いると期待される何者かが、自分を見ているのかと。漠然と感じながら。
『よくよく、気を付けることだ。見る者と見られる者。いずれも互いから自由ではいられぬのだ……』
そこで夢は途絶えた。
日付が変わって4月12日。『真実』が一人の人間を殺戮した頃。その姿が『窓』に映し出され、そして消えた頃。一人の小柄な少女が白い帳の中を歩いていた。自宅を抜け出て、住宅街の道路を歩いているのだ。傍から見れば、夜中に家出しているかのような風情である。しかしその足取りは決してしっかりしたものではなかった。
一歩進めるごとに小さな肩は上下し、おかっぱ髪の頭は左右に揺れている。普段は赤い頬は青ざめ、実年齢よりずっと幼い印象を与える顔からは一切の表情が消えている。まるで夢遊病患者のようである。しかし──
「え……?」
突然少女は歩みを止めた。焦点の合っていなかった目に光が戻り、頬は赤味を取り戻した。しかしそれは一瞬のことだった。赤い頬は再び青ざめ、そして表情は恐怖に覆われた。
「な、何……!?」
少女の周囲には、いくつもの影があったのだ。真夜中の白い闇の中にあって、黒く浮かび上がる影が眼前にあった。ただし影と言っても、光を浴びた人や建物が地面に落とす、ただの陰影ではない。自ら動き、光を襲う影だ。
「い、いやああー!」
悲鳴を合図とするように、影は少女を襲った。顔に体にまとわりついて、そして影を引き出した。少女がいたのは田舎とはいえ住宅街だ。周囲には家がある。その中には人がいる。しかし少女の悲鳴は、誰にも聞こえなかった。
これが運命が道を踏み外す、最初の一歩だった。しかしその足音を聞いた人間はいなかった。足立も悠も聞かなかった。彼らは未だ聞く術を手に入れていなかったから。聞いたのは、二人に予告や忠告を与えた者たちを除いては、たった一人だけだ。厳密には『一つ』と言うべきかもしれないが、『一人』とも言える、ある存在だけだった。
少女が倒れた場所からかなり離れた八十稲羽の外れの地区に、ぽつんと佇む一軒家がある。その家は元はある家族が住んでいたのだが、最近になって父親が職を失い、夜逃げ同然で町から逃げ出す羽目になってしまったのだ。その後、一人の少年がそこに住むようになっていた。一人でいるには広すぎる家の一室で、少年は何もせずにベッドに片膝を立てて座り込んでいた。
「……」
少年がいる部屋に、ものはあまり置かれていなかった。椅子もなく、机もなく、カレンダーもなければテレビもない。あるのはシングルベッドと小さなクローゼットと、ベッドの枕元に立てかけられた一メートルほどの長さの反り返った二本の棒。そしてローテーブルが一台と、そこに置かれたノートパソコンがあるばかりだ。パソコンは起動しているが、自分の膝を見つめる少年は、そちらを見てはいない。モニターから放たれる青一色の光が、他に光源のない部屋の闇をより深くしている。
青い光が浮かび上がらせる少年の顔は端正なものだった。しかしそこに刻まれた傷が痛々しさを醸し出している。豊かな前髪で隠れた額から、鼻梁を通って目の下まで達する大きな傷痕だ。それが左右に二本ある。美形と言って差し支えない少年の顔に、十字の刻印を押している。何年も前につけられたと思われる、だが消えていない傷が顔の中央にあった。
「あ、何だ?」
突然、少年が声を上げた。部屋には誰もいないままだが、見えない誰かに声をかけられたように創面を上げた。
「うん、うん……何だって!?」
もし少年がその手に携帯電話を持っていれば、別に不自然な光景ではなかったはずだ。現代は人、物、金、そして情報の流れが史上類例がないほど活発だ。真夜中だろうが早朝だろうが、電話をかけてくる相手がいたところで何の不思議もない。
「何だ……何だ何だ何だあ! クソつまんねえ町だと思ってたのによ! マジかよ!」
しかし少年は電話を手にしてはいない。マイク付きのヘッドホンをパソコンに接続しているのでもない。それにも関わらず一人で喋っていた。少なくとも傍からはそう見えた。
「シャドウがその辺のシャドウを歩いてるってのか! 何つって! ははは!」
青い光が照らす部屋で、少年は顔を歪めて一人で笑っていた。