今週の八十神高校は保健週間である。学年ごとに何人かいる保健委員は校内の見回りに出払っており、養護教諭も外出している。空になった保健室で、悠は一人で留守番をしていた。
「ガーゼの発注の件ですね。分かりました。伝えておきます」
そして保健室にやって来た、備品を卸している製薬会社の会社員の応対をしていた。
悠は部活を二つ掛け持ちしているが、委員会には入っていない。いないのだが、今日は保健委員の手伝いをしている。なぜかと言うと、悠は真面目で勤勉で行動的な性格なので、保健週間ともなれば率先して手伝うのみ──
だからではない。決してない。
(おのれモロキンめ……俺は忙しいってのに)
業者が帰った後、保健室に一人残された悠は内心でぼやいた。今日の授業を終えた直後の放課後の時間、教室に担任の諸岡がやって来て、保健委員の仕事を手伝えと言われたのだ。曰く『都会の学校ならいざ知らず、ここでは労働は生徒の義務』とのことである。ただその時の教室には、悠の隣の席の千枝を始め他にも何人かの生徒がいた。その中で狙ったように悠が指名されたのは──
(俺、目を付けられてるのかな……)
先月は倫理の補習を受けさせられたし、今日は仕事を押し付けられた。ちょっと気になるくらいの頻度である。腐ったミカン帳とやらには、悠の名前の上に赤ペンで丸がつけられているのかもしれない。そうだとしたら憂鬱を禁じ得ない。これから先も、どんな面倒が待ち受けているか分かったものではない。
(新しいコミュが出てくるようなら許すけど……)
そんなことを考えていると、本職の保健委員たちが戻ってきた。眼鏡をかけた、髪の一部を左右で束ねた髪型の女子生徒を先頭にした、数人の生徒たちだ。
「お疲れ様、何かあった?」
「ええ。サントー製薬の北尾さんから……」
悠は業者の話を委員たちに伝えた。これで留守番は終わりである。しかし仕事はまだ残っている。
「それじゃ、校内の見回りの発表しよっか。えーと、まず一班……あ、そうか。ここは一人で行ったんだっけ」
保健委員の委員長と思しき女子生徒は、皆に向けて話を始めた。しかし出だしからいきなりつまずいた。
「そうっすよ、小西がいないから」
それに答えたのは後輩と思しき男子生徒だ。
「そっか……小西君、今日は学校休んでるんだっけ」
「つか、何か明日も明後日も……ひょっとすると今週ずっと休みかも、みたいっすよ。遠くの親戚か何かのトコに、挨拶に行くとか何とか……噂っすけどね」
男子生徒の説明は、わざとそうしているのかと疑えるほどに酷く曖昧だった。言葉の端々から、『憚ってます』という意識が大量に漏れ出ている。確かなことと言えば、噂されている当の生徒の名前くらいだ。だがその名前は、転校して二ヶ月の悠にも聞き覚えがあった。
「あの、小西って?」
「一年の小西尚紀君。小西早紀さん……知ってるでしょ? あの人の弟さん」
確認のつもりで委員長の女子生徒に聞いてみると、案の定だった。なるほど生徒たちにとっては、色々と憚られる名前であろう。
(そう言えば……)
4月に死んだ早紀には二歳年下の弟がいる。悠はその話を陽介から聞いたことがあった。悠は早紀とは一度しか会ったことがないのだが、その時は『お姉さん』という印象を持ったものだった。それは悠や陽介よりも年上であるからだけでなく、家族構成にも由来していたのだった。そんなことを、今になって悠は思い出した。そして今日、保健委員の仕事が舞い込んできたのは、実際に人手が足りていないから。そんな委員会の裏事情が、部外者である悠にも察せられた。
「えーと、それじゃ発表の続き。二班は……」
だが小西家の人々に関する話は長く続かなかった。仕事を邪魔する者も気を遣わせる者もいない委員会は、スムーズに進んでいく。『問題なし』ばかりの報告会を終えてから、続けて備品の整理や棚の雑巾がけなどの雑務を、委員たちと悠は行った。ただ行った。
(……何も起こらないな)
黙々と働く悠に、新たなコミュニティの発生を告げる『我』の声はなかった。『この機会に、正式に保健委員に入ります』とでも言って、委員たちを喜ばせるようなことはしなかったから。得たものと言えば担任の教師への恨みと、友人の亡き想い人の身内に関する噂くらいだった。
なお、大抵の噂がそうであるように、保健室で語られた噂は真実ではない。確かにこの日、尚紀は学校を休んでいる。そして遠方に行っている。ただし親戚に会いに行っているわけではない。言うなれば、アルバイトの面接に行っているのだ。
悠が保健室で労働に身をやつしている頃、八十神高校の本来の保健委員である一年生は、県外にその身を置いていた。諸岡風に言えば、辺鄙な田舎を出て爛れた都会へ向かっているところだ。
「……」
高速道路のとあるパーキングエリアの一角で、尚紀は遠くの風景を眺めていた。車を速いスピードで走らせると、乗車した人は普段とは異なる疲労を覚える。そんな疲れた人々にリフレッシュ感を与える為、休憩所には見晴らしの良い展望台が置かれていることもある。そして尚紀のいるここからは、片側には初夏の緑に包まれた山々が連なり、その反対側には背の高いビルが連なっているのが見える。いわば田舎と都会の境界だ。
「どうかしたかい?」
展望台で一人佇む尚紀のもとへ、有里がやって来た。手には缶コーヒーを二つ持っている。
二日前にシャドウに襲われた尚紀は、ペルソナ能力を見込まれている。それも現在のシャドウワーカー稲羽支部において最も欲しい、情報系の能力だ。しかし組織に参加するかどうかは、まだ決めていない。だが取り敢えず訓練だけは受けようとのことで、有里が運転するバンに乗ってポートアイランドへ向かっているのだ。今はその途上の小休止である。
ちなみに堂島と足立は同行していない。本業である警察の仕事があるからだ。先月の初め、本来は忙しいゴールデンウィークを通じて穴を空けた二人は、その僅か一ヶ月後に連休は取れない。桐条グループの裏の手を使って稲羽署に根回しをしたり、圧力をかけたりしない限り。もちろん有里はそんなことはしない。先月はやったが、今月はやっていない。
「いえ……うちは自営業なものですから。家族で旅行に行ったりとか、あんまりなかったんです」
小西家は酒屋を営んでいる。個人商店にはよくあることだが、まとまった休業日と言えば正月くらいしかなかった。そしてそれらの数少ない休みの日も、遠方の親戚に会いに行くなどのことはなかった。だから尚紀は、稲羽の外は電車で行ける沖奈市くらいしか、行ったことがないのだ。その更に遠くまでとなると、小学校と中学校の修学旅行くらいでしか経験がなかった。人や物の流れが、史上類例がないほど活発な現代に生きていながら。
「車をちょっと走らせるだけで、こんなに遠くまで来れるんだなあって……」
これから自分たちが行く先にあるビル群へと、尚紀は細い目を向けた。テレビのニュースか都会派のドラマくらいでしか見たことのない、遠い異郷へと。ただ遠いのは心だけで距離はそうでもなかったのだと、たった今知った場所へ。
「望みさえすれば、どこにだって行けるよ」
故郷を離れた感慨に浸る少年に対して、有里は一般論でもって答えた。大昔はともかく、現代日本では移動の自由は保障されている。もちろん職業選択の自由も。義務教育は終えている尚紀は、明日にでも高校をやめることもできる。寂れた故郷や潰れかけの実家を捨てて、遠く離れた土地で就職することさえできるのだ。
「飲むかい? ブラックと砂糖ミルク入り、どっちがいい?」
「ブラックでいいです」
「じゃ、どうぞ」
「ありがとうございます」
そうして高校生と大学生の二人組は、揃って展望台でコーヒーを飲んだ。どちらも口数は少なく、梅雨を迎えようとする曇り空の下で、やや湿気を含んだ風の音を並んで聞いていた。
(そう言えば、天田もブラックを飲んでたな)
甘さを口に感じながら、有里はふと昔のことを思いだした。尚紀と少し似た雰囲気のある少年と、有里はコミュニティと呼ばれる絆を結んだ経験がある。かの少年は本当は甘いものが好きなのだが、背伸びをしてブラックコーヒーをよく飲んでいた。まさに稚気というものである。そんな若くて生意気でシニカルな少年と、有里は強い繋がりを持っていた。男の仲間たちの中では、実は最も深い絆であったのかもしれない。
ただ当時は絆を教える『我』の助力を得ていたのだが、今の有里にはそれがない。かつての戦いにおいて有里はコミュニティをアルカナの数だけ全て揃え、そしてその全てが使命を終えた。よって今となっては、普通の人間として可能な人付き合いしかできない。言い方を変えると、絆の『不条理』は利用できない。その上で、尚紀の協力を取り付けなければならない。甘いコーヒーを飲みながら、有里は今後の段取りを考えた。
(まあでも、何とかなるだろう。それより美鶴に何て言うか、考えておかないと……)
そうして二人は高速道路を走って港区へと向かい、夕方の早い時間にポートアイランドに到着した。そしてその後の経過は、先月に刑事たちを招いた時と概ね同じだった。桐条グループのビルでシャドウワーカーの隊長たる美鶴と面会し、シャドウやペルソナについてある程度教えられ、地下室で召喚器を使った訓練を行った。
そしてその日の内に、限定的に生み出された影時間の闇にガラスが割れる音が響き渡った。足立ほど簡単ではなかったが、堂島ほど手間取りもしなかった。
「これがペルソナ……」
尚紀は高校生にしては小柄な方だ。だが呼び出されたペルソナは更に小さかった。尚紀の腰の辺りまでの体高の、服を着て二本足で立つ兎のような姿の、一見すると可愛らしいペルソナだった。
「山岸よりも、ストレガのチドリに近いな」
八十稲羽から高校生を拉致、もとい本人の同意を得て連れてきた翌日、6月8日の午後。近頃は大学を休みがちな有里と、出席日数が足りているのか心配になるくらい仕事漬けの美鶴は、会議室でタブレット端末を確認していた。画面に表示しているのは、尚紀のペルソナについての調査報告書だ。
尚紀のペルソナ呼称は『イナバノシロウサギ』。アルカナは刑死者で、見込んでいた通り情報系のペルソナだった。ただし一口に情報系と言ってもその中でタイプがいくつかあり、尚紀はシャドウワーカー本部のサポート役よりも、やはり刑死者のアルカナに属するあるペルソナ使いに近かった。シャドウの探知や解析で味方を支援するだけでなく、敵の認識を妨害するジャミング能力や戦闘能力も持っている。
「では彼も前線に立てるのですか?」
「いや、戦闘に関しては往時のチドリよりもずっと低い。稲羽のシャドウは強くないと聞いているが、それでも直接戦えるレベルではない。ジャミングも展開できる範囲は狭い。何か使い道があれば……と言った程度だな」
つまり尚紀は攻撃能力はあるものの、意味は乏しい。自分の身を守れるかどうかさえ、危ない程度のものだ。
ちなみに稲羽のシャドウは強くないとの評価は、今月5日未明の戦いに関する有里の報告の中にあったものである。二年前の4月から始まったかつての戦いは、毎回のように死の危険を感じるほど厳しいものだった。余裕などないに等しかった当時と比べれば、今年の難度はぬるま湯でしかないことは、解析の能力を持たない有里にも一目瞭然だった。なお正確に言うと『二度目』の戦いと比べればずっと楽で、『最初』の戦いと比べれば同程度である──
「そうですか……。しかし本業はなかなかのものですね。大いに活躍してくれるでしょう」
有里は少しだけ残念さを声に出したが、すぐに気を取り直した。報告書によれば、尚紀の探知と解析の能力はかなりのレベルにある。シャドウワーカーの前身の時代、戦いが本格化した初めの頃は美鶴がサポート役を務めていたが、それよりもずっと上だ。探知可能な範囲や精度、可能な解析の深さや速度は、美鶴のそれを大きく超えている。もちろん経験が少ない分、本部のサポート役には及ばないが、シャドウ対策の現場運用には十分耐えられる。
戦闘に関しては、何も無理して尚紀にやらせる必要はない。何しろ足立というこの上なく有望な前線要員が、稲羽支部にはいるのだから。良いタイミングで良い人材が手に入ったと、有里は尚紀の発掘を前向きに捉えた。
しかし前向きなのは有里だけだった。
「正直に言えば、彼の参加に諸手を挙げて賛成はできない。あまり他人を巻き込みたくはないし、しかも彼はまだ高校生だ」
美鶴は浮かない表情を浮かべている。何しろ美鶴はかつての仲間たちに対してさえ、そのほとんどに新組織への正式参加を、そもそも求めてもいないくらいなのだ。桐条グループと何の関係もなく、しかも高校生の尚紀を積極的に使えとは言いたくない。
しかし『言いたくない』程度では、尚紀を巻き込むことをとうに決心している、有里を説得することはできない。
「僕たちも高校からやっていたではありませんか。美鶴さんはもっと前からでしょう?」
「当時と今では状況が違う」
「そうでしょうか? むしろタルタロスと違って探索する領域は広いのですから、人手はより必要です。情報系は特にそうです」
かつての戦いでは美鶴は他人を巻き込む側で、有里は巻き込まれた側だった。そうとばかりは言いきれない事態もあったが、基本的にはそうだった。それが現在はこの通り美鶴は巻き込むことに消極的で、有里は積極的になっている。立場が変われば考え方や行動も変わるものである。
「では……私がサポート役になるのはどうだ? 山岸や小西君とは比べるべくもないが、私のアルテミシアにも情報系の能力はある。探知機の補助もあれば、何とかなるだろう」
そして考え方の変わった美鶴は、一歩踏み込んできた。踏み込まれた有里は、思わず目を丸くした。
「美鶴さん、あのですね……」
そしてタブレットを机に置いて、目を閉じながら手を眉間に当てた。素っ頓狂なことをいきなり言われて、頭痛がしてきたと言わんばかりである。
「霧の発生頻度は、月に一度から三度程度なのだろう? それくらいならスケジュールの調整はできる」
「そういう問題ではありません。稲羽のシャドウ事案の本質を、よく考えてください」
「本質だと?」
美鶴の視線が鋭くなった。先ほどは自分が現場に出向くことを遠慮がちに提案するような口ぶりだったが、ここに至って本気の度合いが増した。簡単に言うと、『カチン』と来た。
「今さら何を言うのだ。我々の目的は人々をシャドウから守ることではないか。シャドウワーカーはその為に設立した組織だ。危機が現実に発生した今、私が現場に臨むことに何の不都合があるのだ」
美鶴は視線に続いて、口調も鋭くなった。今さら本質を云々するなど、愚問だと言わんばかりである。しかし有里も怯まない。手を眉間から離し、相手を凌ぐ強い意志を込めた視線を返す。
「そうではありません。稲羽のシャドウは世界のどこでも起こりうる事案の一つに過ぎません。つまり過去の桐条グループと関係がないのです。それが問題の本質です」
「何だと……?」
火に油を注ぐことも、有里は躊躇しない。事の『本質』を容赦なく暴き出す。
「これは桐条美鶴が責任を負わねばならない事態ではないのです。もちろん僕も」
過去の桐条グループは神への挑戦、もしくは悪魔との取引と言うべき所業を重ねてきた。その後始末に、美鶴はこれまでの人生の大半を捧げてきたのである。しかし霧の稲羽に出現するシャドウは、桐条グループとは関係がない。もちろんグループの過去について全容は未だ把握できていないが、それでも稲羽のシャドウとは無関係であるというのが、グループの見解である。警察庁にもそう伝えてあるし、堂島と足立にも先月にそう言っている。
「責任とは客観的に自分に帰する責任のうち、取れる分だけ取るものです。それ以上を背負うのは傲慢であり、背負わされるのは理不尽です。僕はそう考えます」
この言葉は過去の戦いの経験から生まれたものだ。有里はかつて、無限大に理不尽な責任を背負わされそうになったのだ。その恐ろしさの記憶が真実の響きとなる。しかし美鶴もまだ収まらない。
「……責任に関する君の考えは分かった。だが隊長である私が責任を負う必要がないとは、どういう意味だ。私は稲羽支部のサポート役を務められるのに、それをするなと言うのはなぜだ」
「責任があるのはシャドウワーカーの隊長であって、桐条美鶴個人ではないという意味です。そして隊長の責任とは、人を使うことです。組織の長とは、そういうものです」
「む……」
「同じ質問を返すようで恐縮ですが、小西君は稲羽支部のサポート役として最適な人材です。その彼を使うなと言うのはなぜです。彼よりも能力的に劣る、貴女を使えと言うのはなぜです」
有里のこの言い方は、相当な語弊がある。だが美鶴は部下の非礼を咎めるでもなく、腕組みをして深く俯いた。顔を隠すように。
「それは……そうだな」
そして言葉から勢いが消えた。有里の主張は要約すると、『組織の長としての責任と、個人としての責任は別だ』という意味だ。稲羽のシャドウが桐条グループに責任がない以上、桐条美鶴個人にも責任はない。よって無理をして美鶴が現場に出向くのは、公私混同も甚だしいというわけだ。
なお、たとえ桐条グループに責任のある事態であっても、それは美鶴個人の責任とは別だと有里は考えている。しかしこの場ではそれを言わずにおいた。話がこじれるだけだから。
「分かった……私を使えとはもう言わん。彼はまだ高校生だからというのも、理由にはならん。だがなぜ彼が最適なのだ。山岸を正式隊員として再度勧誘すべきだと、なぜ言わないのだ」
美鶴は主張を引っ込めた。しかし転んでもただでは起きない。そして実はこの点は、有里にとってはかなり痛い指摘である。非常任の身分にあるシャドウワーカー本部のサポート役を、有里が使おうとしないのは、公私混同もここに極まれりな理由からだ。
「それは彼が稲羽の人間だからです」
だが有里はそうは言わない。美鶴がこう言ってくるであろうことは、昨日に稲羽から戻ってくる途中の車内で、予想がついていたから。
「自分たちの町は、自分たちで守れ……そう言いたいのか?」
「そうです。もし現地で新たなペルソナ使いが現れなければ、仕方がありません。我々が対処するだけです。しかし現れた以上は、彼らを使う選択肢を排除するべきではありません。本部も人材に余裕があるわけではないのですから」
本部に人的余裕があるかどうか。これは少々微妙な問題である。ペルソナ使いの数は、非常任を含めれば全部で十人いる。これを多いと見るか少ないと見るかは、判断の基準によって分かれる。だがサポート役に関して言えば、専門と専門外が一人ずついるだけだ。それはやはり余裕があるとは言い難い。
「もしサポート役が小西君一人では足りなくなったら、その時こそ山岸を現地に連れていくことを考えます。それでも足りなければ美鶴さんにも来ていただくか、もしくは他の人間……例えば僕が情報系の訓練を受けます」
「……」
美鶴は腕組みをしたまま天を仰いだ。愁眉を寄せ、考え込む。時間にして十秒ほどもそうしてから、視線の位置を元に戻した。
「分かった……だが一つ条件がある」
「何でしょうか」
「小西君の意思を最大限尊重することだ。組織への参加に本人の同意が必要なのは、言うまでもない。そしてもし今後……彼が脱退を望むようであれば、受け入れることだ」
「もちろんです」
かくしてシャドウワーカーの隊長と副隊長、トップ二人の議論は終わった。事実上、隊長が折れる形で決着したわけだ。
「何か、凄いっすね……」
夕方の時間になって、ペルソナの訓練と調査の一通りを終えた尚紀は、ビルの高層階に来ていた。桐条グループ職員の休憩室を兼ねた、全面ガラス張りの展望室だ。ポートアイランドの全景と海、そして巌戸台を繋ぐムーンライトブリッジが一望できる。昨日立ち寄った高速道路のパーキングエリアの展望台の数倍の高さがある。高い場所が苦手な人間なら、窓際に立っただけで足がすくむだろう。
「この島だけで、まるで一つの国みたいです」
尚紀は高所に特別な苦手意識はない。その代わり、視界の全面に広がる風景そのものに圧倒されていた。両手の指を使っても数えきれない摩天楼が島のそこかしこに林立し、背景の海と空を切り刻む様は凄まじい限りだ。しかも島そのものが海上に築かれた人工のものと聞いては、もう少年の想像力を超えてしまう。
「そうか」
そんな尚紀のいささか大仰な、だが素直な気持ちであろう感想に対して、有里は短く答えた。ポートアイランドは都会だ。こうした現代的な風景は、尚紀も見たことが全くないわけではない。例えば隣町の沖奈だ。だが沖奈も所詮は地方都市である。眼前に広がる景色とは比べるべくもない。
「うちの地元にもジュネスとかありますけど……凄くちっぽけに思えてきます」
八十稲羽にジュネスが開店してから半年以上が過ぎている。しかし尚紀は一度も行ったことがない。尚紀自身はジュネスに敵対意識などないが、両親や近所の目がうるさいので、自然と距離を置いていた。特に姉の死後は、ますます足が遠ざかっていた。だからジュネスの規模を自分の目で見てはいないものの、見ていなくても分かるものはある。
ジュネスは田舎町に経済的な地殻変動を起こすくらいの力はある。その力によって、尚紀の実家を含む昔ながらの商店街の人々は悩まされてきた。しかし桐条グループは桁が違う。地殻変動どころか、町をまるごと一つ作ってしまえる。ジュネスが黒船なら、桐条グループは巨大戦艦だ。動かす人も物も金もジュネスの何倍あるのか、考えるのも馬鹿らしい。その経済力が生み出す権力、そしてもしかすると武力は、国家そのものにはさすがに及ばないものの、近いものはある。少なくとも行政に影響を与えるくらいには。
そんな『国』を目の当たりにしては、高校一年生の価値観は大きく揺さぶられてしまう。稲羽にあるものなど、商店街とジュネスを全部ひっくるめても、取るに足らない矮小なものに思えてくるのだ。もちろんその矮小の中には、尚紀の実家も含まれている。
「有里さんは、この国を守ってきたんですか?」
「まあね」
尚紀の言う『国』がポートアイランドや巌戸台の地区なのか、日本国なのかは定かではない。だがその意味を問い返さずに、有里はただ肯定した。どちらも守ってきたことに違いはないから。
「俺にもやれって言うんですね」
「いや、少し違う」
有里はこれまで尚紀の問いに対して、一言二言でしか答えなかった。人付き合いが得意でなさそうな斜に構えた少年には、少ない言葉の方が受け入れやすいだろうと思って。だがここから有里の口数は急に増えた。
「君の力は欠かせないものだ。だが何を守るのかは、君自身が決めればいい」
有里は言葉を増やすだけに留まらず、体全体を尚紀の側に向けた。過去の実績に裏付けられた、歴戦の勇士としての貫録を見せるように。尚紀の中にもある、少年らしい強者への憧憬を刺激するように。
「シャドウワーカーの設立は今年だけど、前身にあたる組織が昔からあってね。国と言うか世界と言うか……とにかく大きなものを守ることを目的にしていた。実際、大きなものを守った。でも本当は違った。皆それぞれに、個人的な事情があったのさ」
これは本当である。有里や美鶴は過去の戦いにおいて世界、もしくは人類の滅亡を防ぐことを掲げてきた。事実、そういう危機の只中にあった。しかしそれは建前で、本音のところでは大きな目的を持っていたわけではない。例えば美鶴の場合は身内の不始末の清算であり、もっと言えば父親一人の為に戦っていた。
「小さな、身近なものを守って……その結果として、国や世界も守ることになったのさ。僕たちは皆そうしてきた」
「有里さんは何を守ったんですか」
「妻を」
「奥さん?」
「そう、妻は当時のクラスメイトさ」
妻帯者の未成年は左手を顔の高さに持ち上げて、手の甲を尚紀に見せた。薬指には指輪がはめられている。
「俺は……誰を守ればいいんですか」
しかし有里と違って、尚紀に交際している異性はいない。特別な好意を抱いている相手もいない。元より社交的ではないし、しかも高校に入ってからは周囲の方から遠ざかっていったので、交友範囲はかなり狭い。誰かを守る為と言われても、具体的な顔は浮かんでこない。
(姉ちゃんはいなくなっちゃったしな……)
姉とは取り立てて仲が良かったわけではない。シュークリームなど、些細な理由で言い争うことも多かった。もっとも高校生の姉弟ともなれば、ろくに話もしない関係というのも世間には多い。その意味では姉とは親しかったと言っても、あながち間違ってはいない。だが姉はもういない。死んだのだ。生きた人間が死んだ人間を守ることはできない──
そんなことを思っていると、有里は意外な名前を口にした。
「例えば……そうだね。松永綾音さんって知ってるね?」
「うちの学校の、松永のことですか?」
「そう」
戦う目的に悩む尚紀に、有里は一つの真実を説明した。八十神高校一年生の松永綾音は、4月12日の早朝に意識不明の状態で発見され、そのまま入院することになった。原因は表向き不明とされているが、実はシャドウに襲われて影人間、いわゆる無気力症になったのだ。回復したのは同月30日。足立がペルソナに目覚めて、霧のシャドウを蹴散らした時だ。
そして綾音と尚紀はクラスメイトである。特に親しいわけではないが、知り合いではある。
「そうだったんですか。入院していたとは聞いてましたが……」
有里が綾音を話題に出したのは、もちろん二人の関係を知っていたからだ。尚紀の経歴や交友関係などは、既に桐条グループによって一通りが調査されている。しかし有里は尚紀を煽るつもりで、個人名を出したわけではない。話の糸口という奴である。
「別に松永さんを守れと言ってるわけじゃない。何でもいいのさ。君自身の命を守る為でも、君の人生を守る為でもいい」
「人生?」
「大袈裟に思うかな」
有里が乗り越えたかつての戦いにおいては、人生云々は戦う理由としては、大袈裟どころかむしろ小さい。己の死や愛する者の死を何よりも恐れる人間の主観的な視点から離れた、客観的な視点で見れば非常に小さな理由だ。つまりある意味では不謹慎な動機でもって、有里や当時の仲間たちは戦っていた。
だが世界の終わりだの人類の滅亡だの、そうした誇大妄想的なまでに大きな問題は稲羽には見えていない。限定された地域と日時において、数十匹かそれ以下の『害獣』が出現する程度の問題でしかないのだ。だから稲羽のシャドウ対策に臨む理由として、人生は大袈裟でも卑小でもなく、極めて適切な理由だと有里は思っていた。
「いえ……」
ここで尚紀は目を逸らした。
(あと一押しだな)
尚紀は視線を合わせてこない。だが短い否定の返事には、ちょうどいい理由として感じている響きが含まれている。過去のコミュニティの経験から、有里は観察力には自信がある。話の持っていき方が成功していることを、少年の乏しい反応の中に認めた。
「やってくれるかい?」
最後の一押しはストレートな言い方を選択した。最初は回りくどく側面から攻めておいて、とどめの一撃は真っ直ぐ打つ。交渉の進め方としては、一つの有効な方法である。回り道に付き合うのに疲れた人間は、不意に目の前に現れた直進通路が気になるものだ。何も考えていなければ、反射的にそちらを選んでしまうだろう。
「高校生ですけど、いいんですか?」
しかし尚紀は反射的には歩き出さず、逆に反撃に出た。ただし軽く。本気で断ろうとしているのではないと、容易に察せられるくらいに真率の響きがなかった。ただ会話のリズムを刻むだけのとても軽いジャブを、横目と共に放ってきた。
「構わないさ。前身の頃は僕も高校生だったし、小学生までいたしな」
対する有里も軽く打ち返した。年齢や職業など何の問題にもならないと、さも当然のように。
「……」
尚紀は再び目を逸らし、大きなガラス窓の向こうに視線を送った。眼下にあるものは、傾き始めた日差しが赤く染めている、初めて見る大都会の風景だ。そしてその向こうには、見慣れた生まれ故郷がある。ただし小さすぎて、ここからは見えない。
「分かりました。やります」
かくして尚紀は落ちた。足立が予測した通り、大した時日も要さずに首を縦に振らされた。
「あのつまんない町を守るってのは、ちょっと気に入らないですけどね。どうせなら、こういう場所の方が良かったです」
ただし落ちたものの、しおらしくはなかった。情報系のペルソナ能力は認識の能力だ。姉の死を認識した少年は4月以来の陰鬱さを振り払い、それに代わる顔を表に出してきた。元より細い目を更に細くして、唇の端を僅かに持ち上げる皮肉な笑みだ。今年から中学生になった、あるペルソナ使いを彷彿とさせる稚気である。色白の顔がそれをより際立たせている。
「もしこっちで働きたいのなら、希望は聞くよ。稲羽の問題が解決してからになると思うけど」
「まあ、何か探しますよ。守る価値とか、甲斐とか……そういうの」