ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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海を見つめて(2011/6/12)

 四方を海に囲まれた島国の日本では、古代から海は山や巨木と同様に信仰の対象だった。特に海の彼方にあるとされた異郷を、常世の国と呼んでいる。『常』とは即ち永遠不変の国だ。つまりは人類にとって普遍的な観念である、理想郷の一形態である。それは死後の世界や、神々の住まう世界とも密接に関わってくる。それを証明するように、日本神話には使命を終えた後に常世へ渡った神も登場する。

 

 ただし海は絶え間ない波浪と時折の嵐によって、人を容易に向こう側へ渡らせはしない。古代においては特に。だが絶対に不可能というわけでもない。文字が存在しなかった先史時代から、人間は筏や丸木舟で大洋を横断していたという考古学的な証跡もあるのだ。

 

 このような他界観、及び死生観は、世界の在り様そのものをも規定している。つまり常世とは、次元か何かの異なる超越的な領域ではない。何らかの境界によって区切られているものの、常世は現世と『空間的に』連続した世界であることを意味している。一年と数ヶ月前まで存在していた異界は、『時間的に』連続していた世界であったのとは対照的に。

 

 そして連続的であるということは、境界の向こう側へ生きたまま到達可能であるということに他ならない。無論、誰にでも可能なわけではない。極めて稀な幸運、ないしは不運に与った人間だけが彼岸に渡る。もしくは招かれる。例えばかつて神聖時間で戦っていた者たちや、今現在に神聖空間で戦っている者たちだ。

 

 

 

 

(綺麗だな……)

 

 悠は常世へ続く道を見つめていた。水が降されそうで降されない鈍色の天の下で、絶えずうねりを上げる、この世で最も巨大な青の原野が眼前にある。日々を送っている土地から少しばかり離れてみれば、永遠の世界へと続く道があったのだ。そこへ身を浸して、大いなる存在が導くのに任せれば、目覚めた時はどこに至っているのだろうか。

 

 言葉が異なるだけで、死すべき定めを負っていることは変わりのない、同じ人間が住む異国か。それとも言葉は通じるが、人とは異なる存在の住む夢の国であろうか。空と水はどこまでも美しく、時の流れが川の流れに等しく、生死の境も意味をなさない国──

 

 などと誰かさんが便箋に書き殴りそうなことを、悠は考えているわけではない。途方に暮れているのだ。

 

(どうやって帰ろう……)

 

 梅雨時の空がそのまま落ちてきて、頭を滑って海へと流れてゆくような、長い憂鬱なため息をついた。原付バイクのサイドミラーにかぶせたハーフヘルメットから垂れ下がる顎紐を、潮風が虚しく揺らしている。今日は日曜日だ。せっかくの休日に、悠はたった一人で人気のない海に来ていた。季節は夏に足を踏み入れているが、泳ぐにはまだ早い。堂島に貰ったハイカラな水着も、今日は持ってきていない。

 

 事の起こりは、先週水曜の8日に陽介が企画した、『背中にギュー作戦』またの名を『密着作戦』である。モテる男の条件は行動力だとか相応しいステータスだとか、とにかく夢のありそうな話を懇々と説いてきたのだ。思い返すと今一つ要領を得なかったが、とにかくバイク、と言うか原付の免許を二人で取ろうということになった。そして堂島に相談したのがその日の夜で、試験を受けて免許を取り、堂島からバイクを貰ったのが翌9日のことだった。

 

 そして近々実行に移されるであろう『作戦』の前に運転に慣れておこうと思って、今日は散策に出かけたのだ。だが地図も持たずに出たのがいけなかった。学校やジュネス周辺の地理は分かるものの、市街地を離れるともう駄目だった。散々迷った挙句、七里海岸と書かれた看板のある、こんな場所にまで来てしまった。ガソリンは堂島が満タンにしてくれたので、まだ余裕があるのが唯一の救いだ。

 

(花村に連絡してみるかな……。いや、あいつ自分のバイク、もう持ってたっけ?)

 

 試験は陽介と一緒に受けて、一緒に合格した。陽介が自分のバイクを入手したとは、まだ聞いていない。だがちょうど今日辺りに手に入れているかもしれない。もし持っていれば、連絡しさえすれば飛んで来てくれるだろう。昨日にジュネスで助けてもらったばかりで、頼りすぎな感もあるが、陽介ならきっと──

 

 ポケットの携帯電話に手を伸ばそうとしたその時、排気音が聞こえてきた。原付バイクのそれより、ずっと大きな音だ。車である。悠が迷い巡った道路から、海岸の駐車場に入って停止した。そしてエンジンが切られ、右側のドアが開いて人が降りてきた。小柄なその姿を目にした途端、悠は顔を引きつらせた。

 

(うわっ……)

 

「ん? 誰かと思えば……鳴上か」

 

 何たる偶然か、車から降りてきたのは担任の諸岡だった。学校ではいつもスーツを着ているが、今日は私服だ。ポケットがいくつもついたライフベストを着ている。

 

「こんな所で何をしている」

 

「……散策です」

 

「バイクでか」

 

 悠はこの点には、できれば触れたくなかった。しかしあっさりと指摘された。当然だ。寂れた海岸には、悠と諸岡の間を遮るものはない。目が節穴でない限り、悠が乗ってきたバイクは見つけられる。

 

「ふむ……ミッション式とは悪くないな。だが貴様の年にしては、少々年季が入りすぎているようだが。どこで手に入れた?」

 

 この指摘は当たっている。このバイクは堂島が悠くらいの年頃に乗っていたもので、二十年を超える年代物だ。新たな乗り手の為に整備はされているが、やはり見た目からして古い。

 

「叔父に譲ってもらったんです」

 

「そう言えば、貴様は叔父の家に居候しているのだったな。ふん……身内に恵まれているようだな。叔父に感謝するといい」

 

 それだけ言って、諸岡は自分の車の後ろに回った。そしてトランクを開け、中を覗きこんだ。もう話は終わりだと言わんばかりである。

 

「あの……それだけですか?」

 

 拍子抜けした悠は、思わず聞いてしまった。八十神高校には免許の取得やバイクの乗車を禁じる校則はない。何と言っても田舎であるから、足を求める生徒の要望は切実だ。しかし相手はあのモロキンである。バイクに乗っているなどと知られれば、どんな難癖をつけられるか分かったものではない。

 

 海の波以上の圧力で押し寄せるであろう説教の波をどうやって乗り切ろうかと、悠は密かに心配していたのだ。それなのに入手経路だけ聞かれて終わりになった。声の一つも荒げないとは、肩透かしもいいところである。

 

「ん? ……そうだな。通学に使わんこと、安全運転を心掛けること、その他交通ルールを守ること……以上だ」

 

 諸岡の反応は依然として荒くないままだ。悠を見もせずに、トランクの中を漁りながら普通の注意事項だけを述べた。やがて何かの荷物を取り出してトランクを閉めた。そしてようやく悠に向き直った。

 

「ふん……道に迷ったか」

 

 トランクから取り出されたものは、大きなクーラーボックスと一メートルほどの細長い袋だった。諸岡は左手に持った袋を、呆れたように肩にもたれさせた。

 

「いえ……」

 

「とぼけんでいい。引っ越してきたばかりの奴が、地図も持たずにこんな遠くまで来れるものか」

 

 転校初日もそうだったが、諸岡は相手をこうと決めつけて話すところがある。それが生徒から嫌われる理由の一つなのだが、実は諸岡の断定は意外と当たっている。腐ったミカン帳の件も、最近の悠の交友関係を鑑みれば、あながち外れてはいない。そして今日も正解である。予言と言うか千里眼と言うか、とにかく鋭い。

 

 これで口調がもう少し柔らかければ、『厳しいが言っていることは正しい先生』という、少しは肯定的な評価も得られることだろう。しかし残念ながら、荒すぎる言葉が諸岡を『いい先生』でいさせてくれない。テレビの中で現れる金の瞳のシャドウが誰からも拒絶されるのは、言葉の荒さに一因があることは間違いない。どれだけ正しいことを言っても、言い方が悪ければ受け入れられないのだ。

 

「釣りが済んだら、町まで送ってやる。それまで待て」

 

 だが今日の諸岡は、どういうわけか普段の乱暴さが影を潜めている。それどころか生徒を気遣うセリフまで言ってきた。そしてさっさと歩き出した。

 

(どうなってるんだ……?)

 

 すっかり戸惑ってしまった悠は、荷物を持って堤防へ向けて歩いていく諸岡の背をただ見送ってしまった。為すことなく、手持無沙汰に。モロキンともあろう者が、熱でもあるのだろうか。

 

 ──

 

 そこへ潮風が強く吹いた。彼岸から届けられる甘くない風が悠の豊かな前髪を揺らして、普段は隠れている額を一瞬露わにした。風が目に染みて、悠は反射的に瞼を下ろした。同時に潮の香りが鼻孔に入り込み、頭の奥まで突き抜ける。そして頭から何かを揺り落とした。

 

「……」

 

 目を開けた悠は、風にさらされた自分の額に手を当てた。額は自分では見えないので、汚れがあっても気付かないことが往々にしてある。転校以来ずっと取り付いていたある固定観念が、突然頭から滑り落ちた気がした。

 

 そして諸岡の後を追った。

 

 

「何だ」

 

 コンクリート製の波戸の端に、諸岡は胡坐をかいている。袋から棒状のものを取り出し、それにいくつかの部品をくっつけていた。釣竿である。それが組み上がった頃、悠が追いついた。気付いた諸岡は振り返って、訝しげな視線を生徒に送る。

 

「その辺をひとっ走りしてきたらどうだ」

 

「一人で走ってたら、迷ってしまいますよ。地図もないんですから」

 

 道に迷っていたことを遠回しに認めつつ、悠は諸岡の隣に腰を下ろした。目に入りそうなくらい長く伸ばした前髪が、再びの潮風に揺られる。額が洗われて目がある自由を得た悠は、視線を海へと向けた。だが諸岡は獲物がひしめく眼下ではなく、隣に座る生徒を見ている。その視線に含まれる色は、相変わらず訝しげなものだ。

 

「お邪魔ですか?」

 

「邪魔ではない。だが釣りは暇だぞ」

 

「たまにはいいです」

 

 そう、たまにはいいのだ。近頃の悠は少しばかり調子に乗っていたところがあった。テレビに入ってシャドウと戦うだけでなく、捜査会議や被害者の調査などで何日も費やしてきた。そして新たな友人たちと過ごす機会は、それ以上に多い。

 

 悠は手帳を持っていないが、もし予定や実績を書き込んでいけば、あっという間に真っ黒になるだろう。去年以前とはまるで違う忙しい日々は、俗に充実と呼ばれる。しかし何事にも限度がある。充実も度を過ぎれば多忙へと呼び方を変える。そして多忙の果ては過労だ。

 

 だから時には、暇な一日があってもいい。気難しい担任の教師から怒鳴り声以外のものを聞く日というのも、あっていいはずだった。

 

「ふん……好きにするがいい」

 

 諸岡は視線を悠から外した。そして座ったまま釣竿を振りかぶり、波戸の向こうへと投げた。繰り返し寄せる白波の間に、浮きをつけた釣り針は音もなく落ちた。

 

「おかしな奴だ」

 

 これが教室や職員室であれば、さっさと行けと怒鳴り散らすところだろう。しかし海に来た諸岡は生徒が留まる許可を与えてきた。まるで常世から吹く風が、味噌も醤油もクリームも一緒くたの諸岡の濃さを、適度な味わいに薄めたように。世の中には釣竿を持つと性格が変わる人間がいるが、諸岡もその一種であるかのように。

 

 

「先生はいつも、こんな遠くまで釣りに来てるんですか?」

 

「まあな。鮫川の魚は取り尽くした」

 

 稲羽市を流れる鮫川は、地元の太公望たちの間では人気の釣りスポットだ。金魚のような小さな魚から、鮎、ヤマメ、マスなども釣れる。中でも川の主と呼ばれる大物は、多くの釣り人の憧れの的である。

 

「ふん……」

 

 話し始めた途端に、早速とばかりに引きが来た。長さが四メートル半ほどある釣竿が大きくしなり、激しく揺れ動く。だが諸岡は手元を軽く握るだけで、立ち上がりもしない。魚は仕掛けられた罠から逃れようと、前後左右に全力で動いているはずだが、諸岡は最小限の力で魚を制している。そうしているうちに、浮きは見る見る近づいてくる。

 

「まずはこんなものか」

 

 事も無げに釣ってみせたそれは、体長一メートルほどのマグロのような魚だった。しかし諸岡は慣れた手つきで釣り針を外すや、立ち上がって波戸の向こうへ魚を放した。

 

「逃がしちゃうんですか?」

 

「あの大きさは食いきれんからな」

 

 釣った魚を生かしたまま再放流する。キャッチ・アンド・リリースと呼ばれる釣りの楽しみ方である。売ったり自分で食べたりする目的でなく、純粋な遊漁目的で釣りをする場合、または目当て以外の魚を釣ってしまった場合に行われる。

 

 その後、諸岡は何匹も魚を釣り上げたが、どれも放流してやった。そうして一時間ほども過ぎた頃、それまでとは異なる一風変わったものを釣り上げた。英語では悪魔の魚と異称される、茶色の軟体動物だ。

 

「やっと来たか」

 

 大きなタコだった。今日の諸岡が狙っていたのは、これだったようである。表面がぬめって掴みどころがなさそうな、陸上では見慣れない全身筋肉の生き物は、触るのはなかなか躊躇われる。しかし諸岡は慣れっこだと言わんばかりに、素手で迷わず取り押さえる。そしてやはり慣れた手つきで釣り針を外し、脇に置いていたクーラーボックスに放り込んだ。

 

「今晩の夕食ですか?」

 

「まあな。だがちと大きかった。しばらくはタコ尽くしだな……」

 

 諸岡は立ち上がり、普段は曲がりがちな腰に手を当てて伸びをした。目的を達成したので、帰るつもりでいるのが見て取れた。これで道に迷った悠も一緒に帰れるわけだが──

 

「俺にもやらせてくれませんか」

 

 このまま帰るには惜しい気がしていた。暇な一日があってもいいとは思いつつも、無為に過ごすのはやはり惜しい。

 

「貴様、釣りの経験があるのか?」

 

「いいえ」

 

 遭遇した当初は、道に迷ったのかと聞かれた悠は控え目にとぼけた。しかし今度は正直に答えた。嘘を吐いてもすぐに見破られそうだったし、曖昧な言い方でごまかす気にもなれなかったから。平日の学校で生徒たちを怒鳴りつけるモロキンと違って、休日の釣り人の諸岡は叱責を回避する為の嘘が必要とは感じなかった。

 

「ふん……まあいい。やってみろ」

 

 諸岡は竿を悠に手渡した。生まれて初めて持った釣竿は、堂島に譲られたミッション式バイクのように年季が入っていた。十年は使っていそうな気配があった。

 

「……」

 

 やらせてくれと自分から言い出しておいて何であるが、いざ道具を手にしてみると悠は緊張してしまった。釣竿のロッドは特に先端部分が非常に細いので、素人目にはすぐに折れてしまいそうに見える。万が一壊してしまったら大変だ。モロキンに恨まれたら大変なのは言うまでもないが、釣り人の諸岡にも悪い。などと思っていると──

 

「心配はいらん。そいつは見た目よりずっと頑丈だ」

 

 諸岡は悠の困惑を察したように、フォローを入れてきた。全くもって、鋭い人である。垂れ気味で白目がちな目は、嘘も困惑も見通してしまう。

 

 

「……」

 

 悠は獲物がかかるのをじっと待った。釣りは根気を要する作業だ。悠にとっては自信のある素養ではないが、近頃は個性的な友人たちに付き合ったり、緩いとはいえバスケ部で汗を流したりもしている。針のように細い釣竿の先端と、波間に浮かぶ浮きを交互に見つめながら、沈黙と緊張に耐えた。

 

「おっ……」

 

 そうして十分ほど待つと、先端が大きくしなった。手にかかる圧力は強い。これは大物かと、立ち上がって釣竿を引っ張ってみたが──

 

「失敗だな」

 

 獲物が釣り上げられる前に、竿の持ち主が成果のほどを予言した。罠にかかった魚は逃れようとして、竿は前後左右に激しく振られるのが普通だ。しかし今の竿はしなっているものの、抵抗を示す振りがない。魚でないものを釣ってしまった時によくある反応だ。

 

「……何ですか、これ」

 

 釣れたのは、およそ何かの役に立つとは到底思えない古いタイヤだった。ホイールは錆びていて、ゴムは穴だらけだ。おまけのように海草がへばりついている。諸岡の予言は当たったわけである。

 

「それはリリースするんじゃないぞ」

 

「はい……」

 

 漂流ゴミから釣り針を外して、悠は再び竿を振りかざして海へと放った。

 

 

「わしも時にはゴミを釣ってしまうが……ゴミばかり釣る奴は初めて見たわ」

 

 悠が釣竿を手にしてから三十分ほども経過した頃、諸岡は逆に感心した。悠が釣ったのは、おかしなものばかりだったのだ。古タイヤから始まった失敗は、長さが三十センチ以上はある大きな風車の二本セットへと続いた。その次は、何に使うのか見当もつかない取っ手付きの小型のドリルだ。そして最後はバス停と来た。礎石のコンクリートブロックが外れて、時刻表や路線図が記されたポール部分だけのものだ。先端部分には『高校前』と書かれている。

 

「環境破壊が進んでるんですかね……」

 

 ゴミの山を波戸に積み上げた悠は、大きなため息を吐いた。来た当初は綺麗な海だと思ったが、釣りの成果を見ると撤回したくなってきた。美しい表面の裏側に醜悪なものを隠している海。これでは夏が本番を迎えても、皆で泳ぎに来るのも躊躇ってしまう。穴の開いたタイヤに足を引っ掛けて、溺れでもしたら一大事だ。

 

「それは違うな。昔に比べれば、日本の環境破壊は大分改善されている」

 

「そうなんですか?」

 

「わしが子供の頃は最悪だった」

 

 諸岡の少年時代は日本の高度経済成長期と重なっている。戦争の災禍を乗り越えて飛躍的な復興を遂げた一方で、深刻な公害が社会問題になった時代だ。海も川も汚し放題だった当時に比べれば、現代は環境政策がずっと進んでいる。

 

「世の中は良くなってるわけですか」

 

「それも違うな……右肩上がりも右肩下がりも、永続はあり得んというだけよ。人間の本質は昔から変わりはせん」

 

「え?」

 

「ふん……要するに、貴様は釣りの素人というわけだ」

 

 諸岡は話を打ち切るように、悠から釣竿を取り上げた。見た目より頑丈と自負する、手入れの行き届いた古い道具は、魚以外のものを散々釣り上げても無事だった。折れてはいないし、弾力も失われていない。だがこれ以上やらせても無駄と思ったか、諸岡は竿の片付けを始めた。手付きは当然と言うか慣れたもので、迷いのない所作で分解されてゆき、あっという間に竿袋に収められた。

 

「素人がいきなり海釣りをするものではない。鮫川辺りで練習することだ」

 

 新しいことを始める時は、まずは基本から練習すべきである。しかし学校教育のような義務ならともかく、義務でない習い事や趣味などは、そこに何らかの成果や楽しみがなければ甲斐がない。呆れ果てるほど失敗続きだった悠は、釣りに楽しみは見出せなかった。川から始めて海に再挑戦するまで、面白くもない釣りの練習を継続する根気は、自分の中から絞り出せそうにない。しかし──

 

「でしたら、教えてくれますか?」

 

 諸岡に教えてもらうのであれば、やれそうな気がした。なぜかと言うと──

 

(この人からコミュを貰えるかもしれないな)

 

 コミュニティは既にいくつもある。特捜隊全体の絆である愚者を始めとして、個人では陽介、千枝、雪子があり、先日は完二からも得た。他に校内では一条と長瀬、結実がいる。校外では菜々子、堂島、足立。そしてマリーとマーガレットだ。既に十指に余っている。しかし昨日買ったタロットの解説書によれば、大アルカナの数は全部で二十二。よってコミュニティはまだまだ手に入れられるはずなのだ。

 

 諸岡には転入以来、腐ったミカンとして目を付けられているような感じがする。しかしコミュニティになれば、災い転じて福となるはずだった。もちろんペルソナの戦力も向上するし、もしかしたら試験などで恩恵があるかもしれない。つまりもし『諸岡コミュ』を得られれば、いいことずくめなのだ。ならば積極的に狙うべきだ。

 

 このように悠はいささかの打算を抱きながら、釣りの授業を頼んでみた。しかし諸岡は渋い顔をした。

 

「馬鹿者め……人に見られたら困るぞ」

 

「生徒にものを教えて、何か困ることがあるんですか?」

 

「違う。貴様が困るだろう」

 

(え……?)

 

 諸岡は瞬間的に渋面を解いた。えらの張った濃い顔に見たことのない色が浮かぶ。今日の諸岡は一度も声を荒げず、ずっと穏やかな口調で話している。まるでテレビやラジオのスイッチをオフにして、大音量の説教が流れ出るのを止めているように。だが今のような顔は、今日の中でも初めて見た。相手を気遣う優しげな色がある。温厚と言ってもよいものだ。

 

「わしと一緒にいるところなぞ見られたら、変な噂が立つぞ」

 

 なるほどその危険はある。田舎のネットワークを甘く見てはいけない。八十稲羽では噂の伝播速度は驚くほど速いのだ。転校して僅か数日で、悠の顔と名前はクラスや部活での接点のない、一般の生徒にまで広がっていたことが証明している。『転校生』というものは、それだけで好奇の的になりやすい。まして『転校生がモロキンと仲良くしている』などとは、噂好きな生徒たちにとって格好のネタであろう。何しろ諸岡の不人気ぶりは八十神高校では別格の領域だ。下手をすれば、他のコミュニティに悪影響が出かねない。しかし──

 

「噂なんか気にしませんよ」

 

 悠は間を置かずに答えた。

 

「おかしな奴め……」

 

 温厚な教師はおかしな生徒から視線を外した。きっと教え子たちには誰にも見せていない、モロキンではない顔を隠すように。その果てには理想郷があるという海を眺めながら、言い訳のように言葉を繋いだ。

 

「わしが教えるのは学問だ。釣りではない」

 

「では学問を教えてください」

 

 諸岡は目を背けて逃げようとするが、悠は回り込んで逃げ道を塞ぐ。照れて顔を隠す諸岡を、そっとしておく選択肢は浮かびもしない。相手が逃げれば追撃し、怯めば総攻撃を仕掛けるのみだ。好機を逃してはならないのは、テレビの中の戦いも現実の人間関係も同じだ。

 

「貴様……また補習したいのか?」

 

 無遠慮なくらいに踏み込んでくる生徒に、教師はとうとう垂れ気味の目をじろりと剥いてきた。三白眼と相まって、なかなかの迫力である。休日でモロキンスイッチがオフ状態だったのが、急にオンになったようだ。気の弱い生徒が相手なら、一睨みで沈黙させられるだろう。

 

 しかし転校生は黙らない。悠は決して気が強い方ではないが、もはや諸岡の恫喝は通じない。今日の釣りで悠はモロキンに耐性ができていた。シャドウやペルソナは特定の攻撃が通じないように。

 

「いいですね。お願いします」

 

 陽介と一緒に倫理の授業で居眠りをして補習を受けさせられたのは、まだ記憶に新しい。あの時は放課後の予定を潰してくれた教師を恨めしく思ったものだが、今はもうそんな気にならなくなっていた。釣りでも補習でも、諸岡と繋がりを持つ手段は何でもいいのだ。なぜならモロキンは困った教師だが、釣り人の諸岡は悪い人間ではないから──

 

 悠はそう感じていた。同級生たちは誰も気付いていない、一つの『真実』を見ていた。見た気になっていた。

 

「この……腐ったミカンの分際で! ぬかしおったな! その言葉、後悔するなよ!」

 

 完全にスイッチが入った諸岡は、額に青筋を浮かべながら、いっそ懐かしいくらいの怒声を響かせた。だが踏み込み続けるおかしな生徒は、担任の怒りの仮面を恐れはしない。

 

「もちろんです」

 

 

 なお、この日に悠が釣ったゴミの山は、諸岡の車のトランクに放り込まれた。不法投棄されたそれらを、町のゴミ処分場に運ぶ為である。悠は自分も持ち帰ると申し出たが、リュックサックもない手ぶらの悠が、バイクを運転しながら持ち帰れる大きさのゴミはなかった。その為、全てのゴミを諸岡が処分することになった。

 

 モロキン以外の諸岡の顔を初めて見たこの日の成果を、いわば思い出の品を、悠は得ることができなかったのだ。それは後々に、一つの悔いになる──

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