八十神山と呼ばれる山地は、古くから八十稲羽の人々の生活と密接に関わってきた。中世から近世にかけては地形を利用した城塞が築かれ、地域支配の中心地であった。他にも山で採れる染料を用いた染物や、土を用いた焼き物は地域の特産として現代まで伝えられている。中でも変わった形の大きな木の葉は、打ち身や切り傷、その他万病に効くとされ、昔から住民の間で珍重されていた。しかし近頃は不法投棄が祟ったのか、かの木の葉はめっきり姿を見せなくなっている。
二十一世紀も十年を過ぎた現代日本は、高度経済成長期に比べれば環境対策が進んでいる。例えば都市部や工業地域では過去に頻繁に発生した光化学スモッグは、現代では注意報が発表される日も多いとは言えない。しかし八十稲羽では、そういう方面でも『現代』から取り残されているのかもしれない。
そんな近況に対して、八十神高校は毎年ある取り組みをしている。『若者の心に郷土愛を育てる』ことを目的とした課外授業、即ち林間学校だ。やることは山のゴミ拾いである。
「私たちの班、三人なの?」
学校指定のジャージを着た三人の男女が、ゴミ拾い作業における班の仲間になった者たちを互いに見回した。いずれもよく知っている顔ではある。あるのだが──
「つか、何でお前と一緒なんだ?」
「俺が聞きてえよ……クラス違うってのに」
疑問を口にしたのは二年三組の長瀬で、答えたのは一組の一条だ。この二人は小学校以来の腐れ縁である。むしろ腐りすぎでもういいと互いに思っているのに、行動を共にする機会は多い。それはもちろん本人同士は積極的に認めはしないものの、親友の間柄であるからだ。しかし林間学校の班分けは、生徒が自分たちで決めたわけではないのに、なぜか一緒になっている。
まるでどこかの誰かが、そうなるように仕組んでいるかのように──
「まあいいけどよ……それより人手が他より少ないっての、不公平じゃね?」
なぜかクラスメイト以外と組むことになった一条は、人選については流しつつ、人数に不満をこぼした。林間学校の班は四人一組が普通だが、彼らは三人である。人数が一人少ないのは公平を欠く。
「長瀬が二倍働けばいいでしょ」
この班のもう一人は結実だ。長瀬とはクラスメイトで、一条とはクラスが違うものの知り合いではある。生徒数の少ない八十神高校では、学年が同じなら大抵は知り合いになる。
「何でそうなる!」
結実と長瀬は特に親しい間柄というわけではない。しかし話はよくする。と言うか、よく口論をする。どちらも言いたいことを躊躇なく言うタイプである為に、互いに対する口調は遠慮がないのだ。今日もそうやって口論が始まろうとしたところで、それを遮る声が挙がった。
「おーい、お前ら。こいつも入れてやってくれ」
引率の教師が一人の少年を連れてやって来た。
「一年だが、班分けで余っちまってな。お前ら三人だからちょうどいいだろ。それじゃ、頼むぞ」
言うべきことを言い終えるや、教師は連れてきた小柄な一年生を置いて、さっさと去って行った。心なしか急ぎ足に。
「君って……」
「一年二組の小西です」
来たのは尚紀だ。班分けは四人一組が基本だが、クラスや学年ごとの参加者の人数が割り切れなければ、当然余りは出る。だがそれなら五人の班を作ってもよいはずである。学年の違う班にわざわざ入れる辺り、打算と言うか忌憚と言うか、何かを感じる人選である。例えば学年が違えば尚紀を知らないであろうとか、そういう打算を。
「ああ……知ってるよ」
だが当ては外れた。一年生の尚紀は入学して二ヶ月余りだが、八十神高校ではかなり有名である。その要因は言うまでもない。クラスはもちろん部活や委員会でも接点のない、結実や一条も尚紀を知っている。それまで軽い雰囲気のあった空気が、急激に別のものに入れ替わった。
(やれやれだ……)
自分を知っている二人の上級生の声色と表情に、一種の憚りが生まれたのを、尚紀は見逃さなかった。4月以来うんざりするほど見てきたものだから、一見してそれと理解できる。
「よろしくお願いしますね」
理解しながらも、尚紀はそれを気にせず挨拶をした。上級生のグループに一人だけ下級生が混じることも気にしていない。大胆と言うか、斜に構えていると言うか。しかしそんな微妙な空気は、もう一人の上級生によって打ち破られた。軽々と。
「おう、よろしくな。男手は歓迎だぞ」
長瀬だ。三人の二年生の中で長瀬だけは快活に笑った。誰もが憚る尚紀に対して、何も思うところがないように。もし来たのがサボりの常連である金髪の少女などであったならば、きっと長瀬は苦虫を噛み潰したことであろう。しかし尚紀は男なので歓迎された。
「んじゃ、早速行くか」
「はい」
そして二人して、さっさと山道を歩き始めた。その場に残された一条と結実は、互いに顔を見合わせた。
「あいつって、たまに凄いかも……」
「はは、お気楽っつーか、細かいことは気にしないっつーか……昔からそういうところあったからな」
一条は苦笑した。親友兼腐れ縁の胆力、もしくは鈍感さに。
「まあでも、この場合は長瀬が正しいだろ。俺らも行こうぜ」
「そうだね……」
一条と結実は尚紀の事情をある程度知っている。そしてそれに対する憚りは確かにある。だが実は互いも知らないことだが、この二人は最近になって家庭内の悩みを抱え始めたのだ。尚紀のそれとは種類も深刻さも違うものの、起因するところは似ている。元からあった忌憚にある種の共感めいたものが加わったことで、二人は複雑な反応を示してしまった。傍から見れば、まさに殺人事件の遺族に対するような反応を。
そんな自分たちを恥ずかしく思いつつ、二人も山に分け入った。
「テレビを丸ごと捨てるとか、マジっすか……」
山中に放置された大きな箱型の物体を前に、尚紀はため息を吐いた。ゴミは海でも釣れるが、山でも大量に釣れる。空き缶や吸殻は言うに及ばず、自転車や家電製品などの大物がそのまま捨てられている。
この現状を生み出した要因としては、ジュネスの進出とテレビのアナログ放送の終了によって、住民の間で家電製品の買い替えが流行したことが挙げられる。つまり役目を終えて粗大ゴミと化した、古い家電の大量発生である。それに加えて、最近は家電リサイクル法によって処分にも費用がかかる。それがまた不法投棄に拍車をかけるわけだ。
「これ、まだ映るんじゃねえか? 持って帰るかな……」
「おやめなさい!」
長瀬が廃棄物にボケをかますと、すかさず結実のツッコミが入った。
「雨ざらしになってりゃ壊れるって。第一、もうじきこのタイプは映んなくなるっての」
テレビは時代を映す鏡だ。流れる映像はもちろん、機械そのものも。
「それじゃ、下まで運びますか」
かつては文明の利器だったのが、今やただの粗大ゴミに貶められたブラウン管テレビに、尚紀が最初に取り付いた。テレビの正面に立って腰をかがめ、両腕を広げてフレームの両端を掴んで持ち上げようとした。
「ぐっ……」
しかしテレビは微動もしない。両腕にあるだけの力を込めても、びくともしない。それどころか腰を痛めそうだ。ここは画面に膝でも当てて、まずは地面からどうにか浮かせようかと考えた、ちょうどその時──
「おいおい、一人じゃ無理だろ。その大きさじゃ、下手すりゃ俺やお前の体重よりあるぜ」
一条が止めに入った。尚紀の右手側に回って、テレビの側面に屈みこんだ。一条も高校生にしては小柄な方だが、普段から運動をしているので力は尚紀よりある。
「小西は反対側回れ。長瀬、お前は裏に回って。そっちが一番重い」
「……済みません」
尚紀は一言謝って、左手側に回って屈みこんだ。そして両手を地面とフレームの間に差し込んだ。
「根性は見届けたぜ」
次いで最も体格の良い長瀬が裏側に回って屈みこんだ。
「じゃ、せーので持ち上げて」
揃って膝を曲げる少年たちに向けて、結実が声をかけた。粗大ゴミは男三人で運び、残った女子一人は合図をする役回りになったわけだ。すると長瀬は顔を顰めた。
「お前も持てよ」
「私、か弱いから? 力仕事は男の領分でしょ」
「ったく、これだから女ってのは……」
「何よ、夕ご飯作ってあげないわよ」
「……夕飯か」
テンポよく言い合いをする二人だったが、ここに至って長瀬は急に口を噤んだ。そして左側にいる一条に顔を向けた。至って真剣な顔を。
「一条、お前も飯作ってくれ。小沢に任せると何か不安だ。俺、胃薬は持ってきてねえし」
「あんた、私の作ったもの食べたことないでしょうが!」
「ねえけどよ……何か不安なんだ。男の勘って奴だな」
長瀬は何か電波を受信したようである。懐を汚され続けてきた山の神が、殊勝な若者へのご褒美として助言を与えてくれたのかもしれない。例えば『八十神高校の女子生徒に料理をさせると、ろくなことにならない』とか。
「あの……そろそろ行きませんか」
「あ、待たせてごめんね? じゃ、せーの!」
「せーの!」
男三人が力を合わせて、六十キロほどもありそうな大きなブラウン管テレビは持ち上がった。そして苦労しながら山道を下り始めた。その間、多少バランスを崩すことはあっても、取り落としたりはしなかった。クラスと学年がバラバラの即席チームにしては、上手に協力しあえたわけだ。だがそれが仇となった。
人はテレビ画面に手を触れる機会など、そうそうあるものではない。年に一度の大掃除で雑巾がけをしたり、散らかった床でつまずいて転んで、そこにたまたまテレビがあったりしない限り。だが不要なテレビが山中に投棄された今年の林間学校は、その数少ない機会になるはずだった。
しかしこの日の尚紀が触れたのはテレビのフレームだけで、画面には触れなかった。もし触れていれば、一つの真相を知り得たであろうに。学校や近所の誰もが尚紀を憚るようになった、事件の真相に大きく近づけたかもしれなかったのに。この日に初めて知り合った上級生たちが、普通の下級生に対するように普通に接したことが、かえって尚紀を真相から遠ざけてしまった。
日が暮れ始めた夕方の時間、二年生三人と一年生一人はキャンプ用の大きなテーブルで夕食を取っていた。メニューはカレーライスだ。
「うまいっすね」
「カレーくらい、誰でも作れんだろ」
尚紀の隣の席で、一条は謙遜してみせた。長瀬の要望によって、一条はブラウン管テレビを片付けて以降はゴミ拾いを早めに切り上げ、結実と一緒に夕食の準備をしたのだった。その出来は上々だった。高校生の身で一人暮らしをしていて、自炊もできる一条にしてみれば、カレーは特に難しい料理ではない。シングルマザーの母親と十年以上も二人だけで暮らしていて、自分で料理もする結実にとっても同様である。
「でもちょっと、作りすぎちゃったかも……」
尚紀の向かいの席に座る結実が、振り返って調理場を見た。大きな寸胴鍋には班の四人全員分を配膳してなお、半分近い量のカレーが残っている。鍋の隣に置かれた飯盒にも、相当量の白米が残っている。明らかに量が多すぎる。
「いや、ちょうどいいだろ」
そして四人の中で最も体を使った労働をした長瀬は、大盛りのカレーを掻き込んでいる。スプーンを動かす速さには、おかわりをする気が今から漲っている。
こうしたキャンプのイベントではカレーは定番メニューだ。その理由は、日本では苦手な人が少ない国民食で、大勢で食べるのに向いていて、しかも作るのが簡単だからだ。ルーを自分でスパイスから作るのならまだしも、市販のルーを使えば、あとは具材を適度な大きさに切って煮込めば完成する。起こりうる失敗は、火が強すぎて底を焦がしてしまう程度だ。無論味は落ちるものの、食べられなくなるほどの失敗はめったにない。
「ぶはあっ……!」
まして食べた瞬間に吹き出して昏倒するほどの失敗など、まず起こらない。わざとやっているか、そういう宿命か何かを与えられているのでもない限り。
「ん? 鳴上たちか」
隣のテーブルの騒ぎを耳にした長瀬は、席から立ち上がった。ちょうど口に入れたばかりのスプーンを咥えたまま。
「カレーは辛いとか甘いとかだろ! これくせーんだよ!」
クラスの違う友人たちの席に長瀬が近づくと、テーブルの脇で陽介が千枝と雪子を怒鳴っているところに出くわした。ベンチでは悠が横になって、右腕で目を覆っている。腕の下から覗いている頬は青白く、半開きの口は荒い呼吸を繰り返している。
「どうした鳴上。食わないのか?」
「あ、な、長瀬君……」
「おう里中。これ、お前が作ったのか?」
「ま、まあね……」
今年からの新しい友人である悠にはまだ言っていないが、長瀬は女子に対して苦手意識がある。しかし何事にも例外がある。クラスメイトでは結実がそうだし、拳法の『修行』なるものをしている千枝もそうだ。要は女を感じさせないタイプであれば良いのである。もちろん当の相手にそう言えば、猛烈に怒られるであろうが。
「じゃ、一つ」
悠が一口だけ食べたと思しきカレーライスに、長瀬は自分のスプーンを差し込んだ。何気なく、遠慮なく。至って自然な手付きでもって、おもむろに。
「お、おい! やめろ! 命に関わるぞ!」
陽介が止めに入ったが、間に合わなかった。
「ぐ……ぐはっ!」
山の神が長瀬に与えた託宣は、結実の料理に対してのものではなかったようである。せっかくの忠告を無駄にしてしまった若者は、口を押さえながら咳き込んだ。足元はふらついて、目には薄く涙まで浮かんでいる。
「こ、これは……何の修行だ?」
何事にも例外があるように、何事にも限度がある。大食漢の長瀬は人より強靭な胃袋を持っているが、何でも食べられるわけではない。ジャリジャリしている上にドロドロしていて、ブヨブヨのところもある、気持ちの悪さを表すあらゆる形容詞を総動員した暗黒のカレーは、さすがに限度を超えていた。
やがて騒ぎを聞きつけた一条と結実もやって来た。
「これ……まさかジュネスの新商品か何かか?」
悠たちの班が作ったカレーの入った鍋を、一条は恐る恐る覗きこんだ。一見すると普通のカレーのようだが、立ち上る湯気が普通ではなかった。紫色なのだ。瘴気と言うか妖気と言うか、とにかく尋常ならざる気配が漂っている。いかなる超能力も持たない一条でも、深刻な危険がそこにあることを感じずにはいられない。
「んなわけあるか! こんな物体X売り出した日には、訴えられるわ!」
「これ、臭い……。何入れたら、こんなになるのよ」
結実は呆れ顔だ。多少なりとも料理のできる身からすれば、このレベルの失敗は起きる方が不思議に感じる。
「え、えっと……片栗粉とか強力粉? 唐辛子と魚介……それに、愛情? とか……」
雪子が躊躇いがちに説明したが、途中から結実は耳に入れるのをやめた。普段は言いたいことを躊躇なく言う人でも、限度を超えると突っ込む気力も失うものだ。
「一条君、うちのカレー分けてあげたら? あと三人分くらいあるし、余っちゃうじゃん?」
無駄な突っ込みを入れる代わりに、無難な解決策を提示した。
「あれは余りじゃないぞ! 俺が食うんだ!」
「あんたはそれでも食べてなさいよ。ほら、鳴上君。起きなさいって」
「う……お、小沢?」
結実に肩を叩かれて、悠はようやく現実に復帰した。今週は昏倒が続く日々である。一昨日は澄みきったブラックコーヒーに飲まれ、目覚めた時にはなぜか詩が書かれた便箋をその手に握っていた。そして今日は、二人の少女が生み出した呪物によって暗黒の世界に叩き落とされ、別の少女によって現世に戻ってきたわけだ。
「お、おお……! 一条様! 今日ほどお前が眩しく見えたことはないぞ!」
危うく食いはぐれるところだった悠たち四人は、クラスの違う友人たちのテーブルに案内された。陽介はまともなカレーが入った鍋を見るや、感動の面持ちで地面に膝をついた。一昨日の沖奈では一条のスマートさに格差を思い知らされたが、事がここに至って嫉妬や情けなさは一周回って、尊敬に変わってしまった。一条を拝み倒さんばかりである。
「うわー! 助かった! 一条君、ありがとう!」
「い、いや……そんな大層なものじゃ……」
そして千枝も感動している。だが一条はと言えば、むしろ困惑している。目を輝かせる千枝を前に置いて、普段は軽い舌がまるで回っていない。
「これ、一条が作ったのか?」
「それと私ね」
「ありがとう……恩に着るよ」
悠は結実に礼を言った。陽介ほど大仰ではないが、ひもじい思いをせずに済ませてくれた恩人に感謝を込めた。
「うん……ありがとう、小沢さん」
「どういたしまして」
そうして食事が再開されようとした。しかし──
「ん? お前……」
毒の入っていない普通のカレーを皿に盛りつけ、一条たちが元々いたテーブルの席に着こうとした陽介は、先客の男子生徒と目が合った。
「小西です。一年の」
尚紀だ。同じ班の上級生たちと違って、悠が倒れてからの一連の騒動に加わらず、黙々と食べ続けていたのだった。しかし食べ終わる前に、また別の上級生と顔を合わせることになったわけだ。
「そっか……そうだと思った」
「小西……保健委員の?」
相棒が急に雰囲気を変えたことを感じ取った悠も、鍋の前から振り返って尚紀を見た。陽介は元より尚紀を知っているし、悠も十日前に保健室で噂を聞いたので知っている。ただし直接顔を見るのは、どちらも初めてだった。
「花村さんと……鳴上さん、ですよね」
尚紀は八十神高校では有名人だ。しかし陽介と悠も負けず劣らず有名なので、尚紀も二人を知っている。だが尚紀は悠には一瞥をくれただけで、すぐに陽介に戻した。その細い目には、何とも言えない冷たさがある。蒸し暑さが増してくる6月にあっても、自然のそれとは一線を画した稲羽の霧は人を凍えさせるように。この場では本人以外は誰も知らない、尚紀の超能力である『目』でもって、人の裏も表も見通してしまうように。
「俺、あんたが嫌いです。あんたの連れも」
冷たくなった空気に更なる冷たさが加わった。言われた当人はもちろん、千枝と雪子も、今日は尚紀と行動を共にしてきた一条と結実も凍りつかせた。始まったばかりの夏を遠くに追いやる緊張した気配は、八人が集まったテーブルを越えて伝播し、周囲の他の生徒たちの視線まで吸い寄せる。だが誰一人として何も言ってはこない。遠巻きに見つめてくるだけだ。
「おい、小西……そういう言い方はないだろ」
近くの人は凍り、遠くの人は黙る。そんな中でただ一人、長瀬だけは凍らなかった。声は荒げないものの、ストレートすぎる失礼を言い放った下級生を咎めた。
「テントに戻ります」
だがそんな長瀬の気遣いも、尚紀は受け入れなかった。カレーが半分ほど残った皿をテーブルに置いたまま、一人席を立った。上級生たちの戸惑いも、周囲の好奇の視線も意に介さない。その細く硬い目は、自分の周囲には元より誰もいないのだと主張しているように、一切の揺らぎがない。
「あー……悪いな。気にしないで食ってくれ」
ぶち壊された雰囲気の中で一条が明るく言ったが、効果はあまりなかった。山の季節を逆転させる尚紀の発言は、キャンプの食事という本来は楽しいイベントを、単に空腹をしのぐ為だけのものにしてしまったわけである。地獄に仏と感動していた陽介や悠も、一条と結実のカレーをうまいと感じる余裕は奪われた。
街灯もテレビもない山の夜は、町よりも早く訪れる。食事を終えた高校生たちは、日が落ちると共に各々のテントに戻った。なお、言うまでもないことだが、労働する昼間と違って夜は男女別である。そして学年も別である。
「何でお前ここにいんの?」
いくつかある二年生男子のテントの一つに、悠と陽介は腹の膨れた身を置いていた。そして完二もいた。
「バックレたら進級させねえって、釘刺されたんすよ。それに一年のテント、葬式みてえに静かだし」
「まあ、お前がいたらそうなるわな……」
完二は本来真面目な性格である。陽介や悠は特別捜査隊での付き合いからそれを知っているが、大半の同級生たちは知らない。暴走族上がりだとか暴走族を潰したとか、虚実が入り混じった噂を知っているくらいである。金髪で眉毛も薄い、いかにも強面の不良に見える完二自身の風貌が、それを助長している。
「ゆっくりしていけよ」
「お、さっすが先輩!」
規則では駄目なのだが、悠の許可により完二は居つくことになった。ちなみに他の二年生男子は元よりいない。かくして偶然か必然か、特捜隊男性陣は一つのテントに集合することになった。
「そういや先輩ら、尚紀と何か揉めたんすか?」
尚紀の『あんたが嫌いです』は決して大きな声ではなかったが、結構な注目を集めてしまっていた。完二はあの場にいなかったが、人づてに聞いていた。
「ん? ああ……お前、あいつ知ってんの?」
後輩の確認に陽介が応じた。だが聞かれたことに答える前に、質問で返した。
「うちが近所なもんすから、ガキの頃からの知り合いっすよ」
完二の実家の巽屋と、尚紀のコニシ酒店はすぐ近くだ。隣同士ではないが、歩いてすぐの場所にある。学年も同じなので、ごく幼い頃からの家族ぐるみの知り合いである。
「幼馴染って奴か」
「最近はあんま、話とかしてないっすけどね」
しかし幼い頃の友人と、いつまでも友人でいられるとは限らない。仲違いするような事態に陥らなくても、成長すれば関係には自然と変化が訪れる。人との繋がりは切らずにいる努力をしなければ、勝手に切れるものだ。元より社交的ではない尚紀と、不良然とした容貌な上に実際ケンカに明け暮れていた完二は、幼少期の繋がりがほとんど切れかかっていた。
「で? あいつが何か粗相やらかしたんなら、一言言っときますけど」
「よせって……お前が出てきたら、話がこじれるだけだっつの」
完二の『一言』は言葉とは限らない。それは火に油を注ぐだけで、何の解決にもならない。不良然とした後輩が絡んできたらどうなるか、ありありと予測できる。できるだけに、陽介は黙っていれば端正な顔に憂いを浮かべた。
「嫌われてんだよ、俺……ジュネスだからな」
陽介は普段の軽い言動で自分自身の価値を損なっているので、校内では『ガッカリ王子』なる不名誉な仇名がある。だがそれとは別に、『ジュネスの息子』という仇名もあるのだ。こちらは校内だけでなく、町中でも言われている。陽介にすれば、前者よりも後者の方が呼ばれたくない名である。そこへ完二が尚紀に何かすれば、ただでさえ悪い評判をより悪くする結果にしかならない。『ジュネスの息子が不良をけしかけて、酒屋の息子を痛めつけた』とか。
「お前も悪かったな。とばっちり行っちまった」
しかし陽介はそんな自分の境遇への嘆きをすぐに引っ込め、相棒を気遣った。
「いや、いいさ。お前に比べれば、大したことじゃない」
正直に言えば、悠はそれなりにショックを受けていた。人から面と向かって嫌いと言われたのは、初めてだったから。ただ陽介の方が辛いであろうことが、悠に冷静さを保たせていた。
「世知辛いっすねえ……」
完二は大柄な体を丸めて、ため息を吐いた。すると──
「腐ったミカンはー、いねがー!」
テントの向こうに東北地方の風物詩が現れた。もっとも本物が現れるのは年の瀬で、今は夏だが。
「モロキンだ! おい、声落とせ!」
素早く陽介が反応し、小声で仲間二人を制した。消灯時間にはまだ早いが、一年生の完二がいる状況は見つかるとよろしくない。まして相手はモロキンである。下手をすれば停学もあり得る。
「淫らな行為をするやつぁーなー!」
語尾が妙に伸びた諸岡の声は、普段よりしわがれている。キャンプの夕食はカレーが定番なように、教師たちは課外授業の夜には酒盛りをするのが、どこの学校においても定番だ。それはもちろん八十神高校も例外ではない。見回りのなまはげは酒が入っている。
「モロキンって先輩らの担任でしたっけ。そういや前、クラスの奴から聞いたんすけど……」
諸岡はテントを順番に見回っているようである。だみ声が一旦遠ざかると、完二は再び話を始めた。息を潜めた小声でもって。
「あの野郎、例の殺された二人のこと、ボロクソ言ってたらしいっすよ」
「モロキンが? 山野アナと……小西先輩のことか?」
「不倫だの、家出だのする人間は狙われて当然だ、とか何とか……ま、尾ひれついてんのかも知んないすけどね。嫌われてるみてえだし」
「あいつなら言いそうだな……」
「ったく、腐ってもセンコーだろっつんだ。尚紀も文句言うなら、先輩らじゃなくてモロキンに言やあいいんだ……」
故人への暴言は、たとえ冗談でも聞くに堪えないものだ。もし尚紀がそれを聞こうものなら、冷気漂う『あんたが嫌いです』など可愛く思えるほどの、激しい怒りを叩き付けてもうよいところだ。きっと学校中の人間が、尚紀の味方をしてくれるだろう。しかし──
「噂を真に受けるな」
悠は『噂』に花を咲かせる二人を窘めた。
「先輩?」
「確かに……問題のある先生だ。俺も落ち武者とか言われたしな」
諸岡は問題教師には違いない。殺人事件の被害者を悪く言っていたというのも、根も葉もない噂ではない。事実として、諸岡は一昨日のホームルームで山野と早紀を悪く言っていた。悠は自分の耳でそれを聞いている。だから悠も『モロキン』しか知らなければ、陽介と完二に同調するところだ。しかし日曜の海での出来事が、悠は気にかかっていた。
釣竿を持った諸岡は悪い人間には見えなかった。むしろ優しげでさえあった。その印象が悠を少なからず混乱させていた。要するに、諸岡はいつの間にか悠にとって気になる人になっていたのだ。暴言のホームルームを夢で見るくらいに。その為、当初は忘れようと思っていた転校初日の落ち武者呼ばわりも、記憶から去らずに居座り続けてしまっている。
(来週にでも先生に話を聞いてみるか。小西先輩の件で先生から真意を聞ければ、それを先輩の弟に話してもいいし……)
気になると言えば、尚紀も気になる。だがまずは諸岡から話を聞こうと、悠は決心した。ちょうどその時──
「いいかー、不埒と淫らは違うんだからなー! モラルとモラールも違うんだぞー!」
山にこだまするほどの勢いがつけられた、諸岡のだみ声が再び聞こえてきた。
「はあ……」
悠はため息を漏らした。オンとオフの切り替えとでも言おうか。問題があるだけでなく、生徒を混乱させる教師である。うっかりすると、話を聞く気が失せそうになる。
なお、この後に色々あって完二は女子のテントに突撃し、そこで昏倒させられたことは余談である。更にその後にまた色々あって、千枝と雪子が悠と陽介のテントにやって来たことも余談である。そして翌日の昼に特捜隊男性陣は川で凍えそうになったことは、どうでもいい話である。