6月21日は昼から雨が降り、夜になっても窓を叩いている。堂島は自宅の書斎兼寝室でそれを聞いていた。いや、耳に届けられてはいるが、それに意識を向けてはいない。左手に持った小さな液晶画面をじっと見つめ、右手の人差し指で繰り返しなぞっていた。スマートフォンを操作しているのだ。無骨な指の動きは、雨が窓を叩くよりもずっと緩やかだ。時には操作を間違えて、同じページを行ったり来たりすることもある。
こうした文明の利器には、堂島は昔から苦手意識があった。今時は警察署でも職員一人一人にパソコンが用意されており、堂島も毎日仕事で使っている。だが得意な方ではない。警察官になったのは二十年以上前で、最初の数年間はパソコンなど職場にほとんどなかったから。就業当初の習慣というものはずっと残るらしく、コンピューター機器の操作は今でも不得意だ。キーボードでの日本語入力すら、使う指の数は少ない。
まして一般に普及するようになったのはごく最近の、指先で操作するタッチ式インターフェースには本当に慣れていない。だがそんな時代遅れなことは、もはや言ってはいられない。この機械からしか手に入らない情報が大量にあるからだ。
(イレギュラーのシャドウか……)
泣く子も黙る強い視線で見ているのは、シャドウワーカーの隊員用の端末から閲覧できる資料の一つで、過去の戦いにおけるシャドウの被害の実態に関するものだ。今の堂島の立場では全ての資料を閲覧する権限はない。それでも得られる情報量は膨大なものだ。その全てに目を通し、記憶し、書かれていない裏側にまで堂島は思考を巡らせる。
堂島はここ一ヶ月半ほどの間、頻繁にスマホを操作していた。ただし内容が内容である為、周囲に耳目がある外ではなかなか見られない。だから堂島は家に帰るや、部屋に籠ることが多くなった。おかげで同居している甥には、『俺だって持ってないのに、スマホにはまったのか』などと思われているかもしれない。しかし堂島はそんな些末なことに気を留めてはいない。
(まあ今となっては、イレギュラーもレギュラーもないんだろうが)
資料によれば、影時間が常態化していた昨年1月まで影人間は全国各地で発生していた。高校時代の有里たちが戦っていた当時のシャドウは、タルタロスと呼ばれる影時間にのみ出現する塔に棲息していたが、塔の外に現れることもあった。そうしたシャドウは『イレギュラー』と呼ばれていて、人が影人間になる主な原因はこれだった。
そして影人間の発生について特筆すべきなのは──
(シャドウの声……)
影時間中では常人は象徴化するが、稀にこれが解けた人間はシャドウに襲われる。襲われた人間は己のシャドウ、即ち精神を抜き取られて影人間になる。死に至る場合も稀にだがある。ただし象徴化が解ける契機は、影時間の適性を得ることだけとは限らない。シャドウが被害者に『声』をかけて強制的に象徴化を解除し、影時間に『落とす』ケースもある。
資料にはそう書かれていて、読んだ途端に堂島は眉根を寄せた。元より厳しい表情だったところへ、泣く子を更に泣かせる鬼の形相がそこに浮かんだ。左手に力が入り、カバーをつけていない剥き出しの機械が軋む。
(あの晩、千里の声を聞いたような気がしたが……実はこれだったってわけか)
堂島がシャドウに襲われた、4月30日未明の出来事だ。あの時の記憶には曖昧なところもあるが、確かに亡き妻に呼ばれたような覚えがある。だが実は、人を貪る怪物の罠だった。思い出すだけで、はらわたが煮えくり返る。
(小西も言ってたしな……。奴らが人間に声をかけるのは間違いないだろう)
今月5日にシャドウから救助した高校生から、堂島は当時の証言を得ている。曰く、夜中に姉の声を聞いたような気がして、家の外に出た。出てみたら、そこにいたのは怪物だった。シャドウワーカーの資料と堂島自身の経験を考え合わせると、証言の信憑性は高い。
つまり稲羽のシャドウは昨年まで影時間に現れていたシャドウと同様に、能動的に人を襲うということだ。親しい人を装って『声』をかけ、獲物を霧の中へとおびき寄せる。そして食う。言葉も喋れない怪物でありながら、『声』は出せる。人が自分で足を滑らせて崖に落ちるのとは訳が違う。もちろん滑落だけでも問題だが、事態はより深刻だ。道路に落とし穴があるのと、通り魔が出没するのとでは問題の大きさが異なる。
(やはりどう考えてもシャドウは放置できん。だが小西は……)
堂島は悩む。救助した少年、小西尚紀はペルソナ使いとしての素養を見込まれて、そして実際に力はあった。本人の希望もあって、稲羽支部に情報担当のサポート役として加入することになったのだ。高校生を巻き込むことには反対だったが、シャドウワーカーの隊規では人員の採用と配備は本部の権限だ。堂島の立場では本部に意見は言えるものの、決定を覆す力はない。そしてそれ以上に、尚紀の力が稲羽支部に必要なことは確かなのだ。
(有里さんの言うことも分かるが……)
シャドウワーカー本部、具体的には副隊長の有里に対して、堂島は不信を募らせていた。本業である刑事の仕事においても、県警本部の捜査方針などに違和感を覚えることは昔からあったが、副業においても同じだ。いや、シャドウワーカーは警察と言うよりスパイめいた仕事であるだけに、違和感はより強い。公安は桐条グループに疑惑を抱いているが、それもむべなるかな──
そんなことを思っていると、大量の文字情報を映していた液晶画面に、電話の着信を告げるメッセージが浮かんだ。この端末は桐条グループの裏の手による特別製だが、元の機械が機械なので通常の携帯電話としての機能もある。そして画面に表示されている名前は、知っているものだった。
「堂島です」
『黒沢です』
電話口の向こうの相手は、4月に稲羽を訪れた黒沢だ。警視庁に勤務する刑事で、シャドウワーカーの協力者でもある。
「これはどうも……」
『ご無沙汰しております』
堂島と黒沢は4月にスナックで飲んだ後、5月2日にポートアイランドを訪れた際にも会っている。しかしそれ以降は連絡を取り合っていない。
『大体の話は聞いています。被害者の弟を仲間に加えることになったとか』
だが堂島から連絡しなくても、黒沢は自分で情報を入手している。
「……ええ」
『どうぞ、疑ってください』
「はい?」
『私が何を言ったところで仕方がないでしょう。ならば徹底的に疑えばいい。疑って、疑って……疑う余地がなくなって初めて、彼らを信じればいい』
堂島はポートアイランドから戻ってきた後に、公安から桐条グループの内偵、特に有里の監視を頼まれた。堂島はその件を、当然だがシャドウワーカー本部には報告していない。もちろん黒沢にも話していない。黒沢は警察官の身分だが立場としては桐条側だ。そして桐条も公安の動きは先刻承知のこと。黒沢の口振りから、堂島はそれを察した。
ただし黒沢は堂島を自分たちの側に釣り返すつもりで、連絡してきたのではない。
『堂島さん、私は貴方が羨ましい』
「何がです?」
『私は本部の連中をガキの頃から知っています。自分の半分も生きていない奴らが体を張っているのに、大人は何もできない……。私は彼らをそんなふうに見ていました』
黒沢はポートアイランドで交番勤務をしていた頃から、高校生だった有里たちを独自に支援していた。ただし黒沢は今も昔もペルソナ能力を持っていない。だから支援をしていた当時は、あの町で何が起きていたのか、詳細は知らないままだったのだ。今はシャドウワーカーの協力者として、当時と現在の事態について当時よりは知っているが、それでも知らない事柄も多い。自ら戦うことのできない人間は、得られる情報にもやはり限りがある。
『だが貴方は違う』
「……」
『その力、無駄にしないでください。稲羽の町は貴方を必要としている』
「買いかぶりですよ。私はそんな大層な人間ではありません」
これは本音だ。堂島は自分自身を田舎の一介の刑事と見なしている。無論、職務には全力を挙げてきたが、それだけだ。売りと言えば実直くらいで、取り立てて派手な活躍を遂げてきてはいない。能力と実績の両面において、飛び抜けて優秀な刑事であるわけではない。
「私はただ……私にできることをするのみです」
『ええ、期待しています』
それで通話は終わった。スマートフォンを耳から離すと、通話モードから復帰した液晶画面は再びシャドウに関する資料を映し出した。
「……」
思えば黒沢の稲羽署への訪問が、そしてその応対を引き受けたのが、事の始まりだった。あれから運命が変転してしまった。あの日、他の刑事に任せていれば。あの晩、飲みに誘わなければ。霧が出る前に帰っていれば。いくつも思い付く『もしも』のうち一つでも選んでいれば、今のような悩みを背負うこともなかったのに──
(いや、そうじゃない。俺がペルソナに目覚めなくても、シャドウはこの町に出るんだ)
堂島は頭を振って、浮かんだ弱気を振り払った。どれだけ悔やんでも、現実は現実のままであり続ける。そして真実を知ってしまった以上、引き返す道はない。たとえシャドウ対策をやらなくていいと言われても、今さら抜けるつもりはない。故郷の問題が解決するまで、堂島は戦い続けるしかないのだ。たとえそれが何年も、何十年も先の日のことだとしても。
(ごちゃごちゃ言っても仕方がない。やるしかないんだ……)
もはや理屈ではない。シャドウを放置していては、いつ娘や甥に被害が及ぶか分からないのだ。父親として娘を守らねばならないのは言うまでもないし、甥にも必ず守ると約束している。そうして堂島は決意を新たにすると共に、資料を精読する作業に戻った。端末に保存されているリンクを辿り、また別のファイルを展開させた。
(影時間の記憶補正……)
次の資料は影時間で起きた出来事が、世間ではどう認識されるかについてだ。一言で言うと、『別の出来事に置き換えられる』のだ。真実はシャドウの仕業であるのに、交通事故や通り魔の犯行として認識される。もちろん事実とは異なる為、詳しく調べれば矛盾が出てくる。だが恐ろしいことに、常人は矛盾を矛盾として認識しなくなってしまうのだ。
例えば港区の巌戸台にある神社の神主は、タルタロスの外に現れたイレギュラーのシャドウによって殺された。だが当時の警察はひき逃げと判断した。客観的に見れば、被害者の遺体や現場の状況には交通事故である証拠など何もなかったのに。それでも『なぜか』ひき逃げとされてしまった。つまり影時間に迷い込んだ当人のみならず、周囲の人間までもが正常な判断力を失ってしまう。資料にはそう書かれている。
(とんでもねえ話だな……。超常現象にかかりゃあ、警察なんざただの飾りかよ)
この世に不可解な事件や迷宮入りした事件はいくつもある。もちろんその全てが超常的な力によって引き起こされたわけではないはずだ。だがそのうちのいくつかは、確かに『本物』だった。本業は警察官である堂島にすれば、断固として認めたくないくらいの話だ。不可思議を不可思議のままにしてしまうのは、警察にとってアイデンティティの危機に繋がる。ジュネスの進出で経営が脅かされている、昔ながらの個人商店のようなものだ。
(そんなんだから、シャドウワーカーなんてのが立ち上がったわけか……)
だがどれだけ認めたくなくても、目を背けたいような話でも、事実は事実だ。超常の事件の真相には、超常の力をもってしなければ辿り着けない。その事実を認めた上で、堂島は自分にできることをやらなければならない。そして幸か不幸か、超常の力を自ら得た堂島にはできることがある。
実直を旨とする堂島は、自宅でも精力的に仕事をする。時計の針が0時を指しても、それは続いた。二階にある悠の部屋と違って、堂島の寝室にはテレビが置かれていない。だから仕事の邪魔をするものはない。
(ん? 待てよ? シャドウの仕業なのに、ひき逃げ……?)
そうやって根を詰めていると、やがてあることを閃いた。
「堂島さん、何か届いてますよ」
夜中に降り続いた雨がようやく上がった、22日の昼間の時間。稲羽署の刑事課にある自席で、堂島はファイルの束を睨んでいた。新聞記事の切り抜きや、事件現場と思しき写真などが整理して並べられている。そんな中、隣の席に座る足立から一封の封筒を手渡された。
「ん……市原さんからか!」
堂島は差し出された薄い茶封筒を相棒の手からひったくり、早速開いた。中身は一枚の書類だ。当初は食い入るようにそれを読んでいたが、視線が書類の下半分まで下りた頃には落胆の色が表情に現れた。
「何なんすか、それ?」
「ああ……お前には話してなかったか。市原さんって、俺の元先輩でな……」
しかし話を始めようとした堂島を遮る声があった。
「すいませーん、悪いけど手貸してくんないすか?」
刑事課のフロアに一人の制服警官がやって来た。交通課に所属する若い警官だ。
「商店街がえらいことになってて……人手が欲しいんですけど」
話によると、中央通り商店街にある豆腐屋を中心にして、野次馬と違法駐車が大量発生したので交通整理を行う必要があるとのことだった。しかし何と言っても稲羽署は小さな警察署で、人手が少ない。しかも野次馬は若い男が中心で殺気立っている者もいるので、体力自慢の男が揃っている刑事課の応援が欲しいとのことだった。
「商店街に野次馬? ああ、久慈川りせの件?」
自席で話を聞いた足立は事情を察した。休業中のアイドルの里帰りは、足立も知っている。普通のテレビと真夜中のテレビの両方で見たから。
「そうっす」
(とすると……坊やたちも行ってるんじゃないのかな?)
足立は芸能人にさほどの興味はない。全く無関心とは言わないが、熱を上げることはない。だがこの時ばかりは、商店街に行ってみようかという気持ちが湧いてきた。しかし──
「足立、少し現場に付き合ってほしい」
話を遮られた堂島は、交通課の警官を遮り返した。
「え? 現場ってどこに……」
「悪いが、交通整理なら他を当たってくれ」
言うが早いか、堂島は自席のノートパソコンの蓋を閉じた。そして椅子にかけていたスーツの上着を手に取って、席を立った。その顔色はあまり良くなかった。
現職の刑事にしてペルソナ使いの二人は、『現場』にやって来た。周囲に民家はなく、水田が延々と広がっている。畦道をアスファルトで舗装した農道の交差点脇に、堂島は車を停めた。交差点に信号はなく、横断歩道もない。6月下旬のこの時期でありながら、何とはなしに寒々しさを感じさせる場所である。
「山野と小西早紀の捜査は一向に進んでない。まあ当然と言えば当然だが……」
ここは『殺人事件』とは何の関係もない場所である。そんな場所に身を置きながら、なぜか堂島は事件の話を始めた。
「そりゃそうっすよ。いくら調べたって、何も出てくるわけないですって」
足立はまさに当然とばかりに答えた。稲羽署と県警による捜査は事件発生以来、ずっと継続して行われているが、これまで成果は特にない。容疑者はおろか死因や凶器の特定さえできていない。それは全くもって当然の結果である。シャドウによる被害は、世界の真実を知らない普通の警察がどれだけ調べても、真相には決して到達し得ない。
「思いっきり税金の無駄遣いしてますよね……。世間やマスコミからも批判食らってるし、うちの署、大丈夫っすかねえ? 実は事故でしたとかって話に持ってって、捜査に幕引いたりできないもんすかねえ……。その辺、有里さんにでも相談してみません?」
「いらん心配してんじゃねえよ」
「済みません……。それで、ここは?」
昨日は雨だったが今日は曇りだ。しかし予報では今夜から再び雨が降ると言われており、季節からすると雷の一つくらい落ちるかもしれない。だが鬼刑事はいらない心配をする相棒に、雷を落とさない。その顔には怒りの代わりに疲れの色が浮かんでいる。
「なあ、シャドウはいつからこの町に出るようになったんだ?」
「え? えっと……霧が出始めたのって、いつからでしたっけ?」
意図が見えない話に戸惑いながらも、足立は相棒に応じる。しかしいつからと聞かれても、よく分からない。足立が稲羽に赴任してきた当初から霧は出ていたが、具体的にいつから始まったのかは調べていない。
「もし……もしあれもひき逃げじゃないってんなら……」
「え?」
「俺の女房は……ここで死んだんだ」
そうして堂島は話し始めた。先月上旬、ポートアイランドへの出張から帰ってきて二日後に甥に話した『ひき逃げ事件』について、初めて相棒に話した。ただし今日の相手は高校生ではないので、先月よりも詳しく話した。
曰く、推定される車は白のセダンで、大きな外車。まず間違いなくこの町の住民のものではない。修理も廃車も該当する記録が出てこない為、既に日本にない可能性もある。今は警察を引退した元鑑識の先輩に、個人的に調べてもらってもいるが、成果は上がっていない。犯人が捕まらないまま、いたずらに時間だけが過ぎている。要は迷宮入りしそうな事件なのだ。
「その事件、本当にひき逃げなんですか? 外車がどうとかって、根拠はあるんですか?」
話を聞きながら、足立は相棒の言わんとすることを理解した。妻を死なせた『ひき逃げ事件』は、実はひき逃げではないのではと。妻はシャドウに殺されたのではないかと、堂島は疑っているのだと察した。
「……本当だ」
しかし相棒の問いかけに、堂島は大きなため息を添えて答えた。堂島は過去の自分自身を疑ったのだ。シャドウワーカーの資料にあった影時間の記憶補正によって、妻の死をひき逃げだと思い込んでいたのではないかと。
「今日、捜査資料を洗い直した……。間違いなく、ひき逃げだ。シャドウの仕業じゃねえ……」
だがそうではなかった。影時間の適性を得てペルソナに目覚めた上で、もう一度捜査資料を確認した結果は、以前と同じように見えただけだった。妻の死は、やはりひき逃げだった。4月以前とは確かに変わった知識と認識をもってしても、そうとしか考えられなかった。
「そうでしたか……」
この世にはシャドウによる事件は確かに存在する。しかし世の中の未解決事件の全てが、シャドウの仕業というわけではない。シャドウがいなくても、人が人を襲う。犯罪も戦争も人間が起こすものだ。人ではない存在がこの世にいても、この世に満ちている悪や不幸の全てを、それに帰することはできない。
もしも妻の死がシャドウの仕業であれば、堂島は今より楽になれた。刑事の仕事などそっちのけで、シャドウ対策に全力を挙げるのみでよかった。だが現実はそんなに甘くない。一つの物事に集中できるほど、この世は単純明快ではない。
「犯人は捕まえる、シャドウは狩る……やることが多いな」
思い通りにいかない現実に、堂島は珍しく弱音を吐いた。そしてそんな心境にあるから、こんなことも考える。
(せめて俺のペルソナが情報系だったらな……)
超常の事件の真相には、超常の力をもってしなければ辿り着けない。だが逆は有効かもしれない。超常の力で通常の事件を追えば、何か大きな成果を上げられるかもしれない。そんな期待もあるのだが、そこでも現実は甘くない。堂島のペルソナは堂島自身のように不器用だ。力で殴り殺すことにしか使えない。
(もし小西をここに連れてくれば……)
殺すこと以外にも使える器用なペルソナの持ち主は、堂島の知る限りでは一人しかいない。だが──
(いや、駄目だ。あいつは警官でも何でもないんだ。必要以上にあいつを働かせるわけにはいかん)
堂島は浮かんだ想念を振り払い、頭上を見上げた。刑事として冷徹な思考は身に付けているが、それだけで動くほど常識や良識の持ち合わせが少ないわけではない。昨夜は真夜中を大きく過ぎた時間帯まで起きていて、今日も細かな資料を読み漁って疲れた目を、雨が間もなく落ちてくる淀んだ空へと向ける。
「……」
そんな相棒の背中を、足立は黙って見つめる。そして数秒後に目を逸らす。逸らした先は商店街のある方角だ。それはひき逃げ事件とは関係ないが、超常事件とは関係する場所だ。
(今頃、マル久豆腐店は大騒ぎだろうな)
交通整理の為の人手を、職掌外である刑事課まで求められたくらいだ。久慈川りせの帰郷はテレビのワイドショーでも取り上げられたし、八十稲羽の町中で相当な噂になっている。そして足立は昨晩のマヨナカテレビに、水着を着たりせが映るのを見た。こうなった以上、生田目がりせをテレビに落とし、悠たちが救出に動くのはほぼ確実だと足立は予測した。つまり天城雪子と巽完二に続く、三件目の失踪事件が発生する。足立にしてみれば、それはもはや避けようがない確定事項とさえ言える。
しかし世間を賑わせた二つの殺人事件と違って、過去の二つの失踪事件は公式には事件扱いされていない。両者を結びつけて考える者も、ごく少数だ。足立の見る限り、稲羽署の刑事たちの中にもほとんどいない。いたとしても本人の勘レベルで、具体的にどんな関連があるのかは分かっていない。だから失踪騒ぎは事件として捜査されることもないのだ。重大事件の影で霞んでしまう、日常の些末な出来事として処理される。高校生の消息が数日掴めないなど、この世にはいくらでもある。
(具体的に考えられるのは、この人くらいなんだけど……)
殺人事件と失踪騒ぎの関連を、具体性をもって考えることが可能な刑事がいるとすれば、それは堂島遼太郎だけだ。なぜなら両者を結びつけている当事者は、鳴上悠だから。これまでの二人の失踪者が、いずれも悠の取り巻きになっていることを知り得るのは、悠の保護者である堂島だけだ。
しかし堂島は豆腐屋には目もくれず、こうしてひき逃げ事件の現場に足を運んでいる。二人の死者と二人の失踪者が、いずれも『テレビで取り上げられた人』であるという、基本的な共通点にも気付いていない。どうしてこうなってしまったのか?
その原因は堂島の顔に表れている。足立の目には、それが見える。
(今の状況じゃ、堂島さんも目配りが行き届かないか)
堂島は自称特別捜査隊の動きに気付いていない。それは堂島自身がペルソナなどというファンタジックな能力に覚醒し、非公式の特殊部隊の支部長などとファンタスティックな立場に置かれてしまったことが原因だと、足立は考える。つまり4月以前と比べて激変した環境や、それに伴って得た世界の裏側に関する知識が、堂島の視野を狭めてしまっている。それに加えて超常事件の被害者遺族で、しかも高校生の小西尚紀の面倒を見なければならなくなった。
堂島の双肩にかかる責任は、田舎の一刑事に過ぎなかった昔とは比較にならないほど増大してしまった。だから目の前にあるもの以外の事柄にまで、考えが回らないのだ。足立が観察する限り、それくらい今の堂島は余裕がない。甥を気にかけていられないほど、精神的に飽和状態なのだ。
(こりゃ当分の間は、坊やたちのことは教えない方がいいだろうな……)
殺人事件と失踪騒ぎの関連性を、足立は当然分かっている。しかしそれを堂島に伝えるのは、取り敢えずやめておいた。自分に容疑が及ぶ可能性を考えてのことではなく、相棒の心身を案じてのことだ。
今月5日に初めて霧の町をパトロールした時は、悠たちの『遊び』を堂島に告げて、彼らの遊び場を奪うことも考えた。だがやめておくことに、この日の足立は考えが傾いた。テレビの中の世界などというファンタジーもここに極まれりの異空間と、それに甥が関わっている情報を渡した日には、堂島はいよいよ潰れてしまいかねない。
尚紀を稲羽支部に加入させたくらいだから、シャドウワーカー本部、正しくは有里は、当然悠たちも支部に入れようとするだろう。口が巧みでない堂島が巧みな有里に逆らって、本部の意向を阻止できるとは足立には思えない。つまり堂島は現状の飽和状態に加えて、甥とその取り巻きの命まで背負わなければならなくなる。それはさすがに良くないと、足立は考えた。
(つってもまあ……僕が何もしなくたって、いつかはバレるだろうけど?)
「ただいま」
「お父さん! おかえりなさい!」
外回りを終えた堂島は比較的早い時間に帰宅した。玄関の引き戸を開けると、家の奥から声だけの迎えが来た。菜々子は父親が帰宅すると、大抵は廊下をパタパタと駆けてくるものだが、今日は来なかった。代わりに食欲をそそる香辛料の香りが届けられてくる。
「お帰り、叔父さん」
人の迎えがない廊下を一人歩いていくと、キッチンで悠が料理をしていた。大きな中華鍋に、細かく切り分けた豆腐を入れているところだった。菜々子は椅子の上に立って、料理のレシピ集を広げて持って悠の側に向けていた。従兄が料理するのを、菜々子なりに手伝っているようだった。
「豆腐買ったから、今日は麻婆豆腐だよ」
「そりゃいいな。うん、うまそうな匂いだ」
心労の多い堂島にとって、悠は数少ない安心材料である。4月は馬鹿騒ぎをして補導しかけたこともあったが、その後は何事もなく過ごしてくれている。ついでに最近は料理の腕も上がっている。娘と甥が仲良くしている姿は、昨晩から続いている疲れも癒やしてくれると言うものだ。
「レシートはちゃんと出せよ」
堂島は保護者として悠に小遣いは渡しているが、食材の購入費は別口である。二週間ほど前に買ってきた家庭料理のレシピ集も、代金は後で堂島が出した。
「そこに置いてあるよ」
悠は振り向かずに、背中越しに肘を突き出してテーブルを示した。真剣そうな顔で、菜々子が広げた本と鍋を交互に見つつ、お玉で鍋をかき混ぜている。手が離せないタイミングのようだ。堂島はテーブルに置かれた紙片を手に取ると、少し驚いた。悠の買い物はいつもジュネスだが、今日のレシートは普段と違っていたのだ。
「マル久豆腐店? 随分渋いところで買ったんだな」
寂れた商店街にあって、黒船ジュネスの来航後も潰れずに残っている数少ない専門店だ。
「うん、友達に久慈川りせのファンがいてね」
これは本当の話だ。今日の放課後、悠はマル久豆腐店に行ったのだが、言い出したのは陽介である。その動機は色々あるが、陽介には『りせちー』に会いたいというのはあった。無駄のない脚線美を確かめたいとか、他にも色々と。
「久慈川……? ああ、そう言や署でもそんな話あったな。豆腐屋が実家なんだったか」
「お兄ちゃん、りせちゃんに会ったの!?」
本を持ったままの菜々子が食いついた。アイドルというものは、男ばかりが憧れるものではない。菜々子くらいの年頃の少女にすれば、色々と真似などもしたくなる。
「うん、ちょっとね」
だが悠の反応は乏しい。鍋をまだ覗きこんでいる。
「芸能人に熱上げるのもいいが……店は自宅だろう。迷惑にならないようにしろよ」
「熱上げてるわけじゃないよ」
ここでようやく悠は鍋から顔を上げた。火を使っている最中なのだが、これは聞き捨てならんと言うように。
「何だ、照れなくてもいいんだぞ。お前らくらいの年頃なら、当たり前だ」
「だから、友達に付き合っただけなんだって」
悠は唇を尖らせた仏頂面を見せた。ミーハーと思われるのは、多感な高校生にとっては不名誉なことだ。当たり前だと言われても、大した慰めにはならない。
「はは、分かった分かった……。そういうことにしといてやるよ」
甥が商店街の豆腐屋に行った。その理由はアイドルの追っかけ。もしくは友人との付き合い──
堂島はそれくらいで、普段と異なる店での買い物に納得した。娘に夕食を作ってくれる年の割にしっかりしている甥が、何かの事件に関係しているかもなどとは思わない。刑事としての勘も何も言ってこない。霧の日のシャドウに『声』をかけられる以外の方法でもって、人がペルソナ使いになる可能性には気付いていない。甥がそれであるなどとは、夢にも思わない。
雪子と完二の失踪そのものは、捜索願が出されていたことから堂島も知っている。しかし戻ってきた彼らが、悠と仲が接近していることには気付いていない。たとえ気付いたとしても、それを根拠に悠を疑いはしないだろう。同じ高校の生徒同士なら、誰が誰と仲良くなろうと何の不思議もないのだ。二人の死者と二人の失踪者にはある共通点があることも、それは久慈川りせにも当てはまることも、堂島は気付いていない。足立が案じた通り、堂島の視野は狭まっていたのだった。
せめて悠が嘘を吐いていれば、また話は別だった。素人の高校生の嘘くらい、刑事として見破るのは難しくない。表情や言動の不審さから疑いを抱くことも可能だったはずだ。しかし悠は堂島に隠し事こそしているものの、嘘を吐いたことはない。友人に付き合って豆腐屋に行ったとの話も、本当なのだ。ただアイドルの追っかけではなく、誘拐犯に狙われるかもしれないから気を付けろと注意を促すのが、真の目的だったことを伏せているだけで。
言葉が足りないのは嘘とは違う。その違いが、ごく身近にペルソナ使いがいることを、堂島に気付かせなかった。もちろん悠も気付かなかった。