ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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疑惑の街角(2011/6/23)

 曇天が太陽を遮り、人の影が地面に落ちずにいる放課後の時間。尚紀は商店街にある惣菜屋の惣菜大学に来ていた。連れはいない。店先に置いてある裏返したビールケースを椅子代わりにした、ささやかなテーブル席に一人で座って、携帯電話を覗き込んでいた。悠や陽介も使っている、折り畳み式のいわゆるガラケーではない。最新式のスマートフォンだ。裏面にはKJというイニシャルが彫られている。

 

 尚紀は文明の最先端を手にしてから、まだ二週間ほどしか経っていない。しかし何と言っても若いので、操作にはすぐに慣れた。左手にコロッケを持ちながら、右手だけで機械を淀みなく動かしている。

 

 買ったばかりのまだ温かいコロッケにかじりつく。揚げたての衣が口元から零れて画面に落ちる。しかし液晶画面には保護フィルムが貼ってあるので、本体が汚れはしない。左手の小指で衣を軽く弾いて、地面に落とす。

 

 保護フィルムはポートアイランドで買った。言うなれば、都会に行った記念の土産のようなものだ。しかし付属品と違ってスマホ本体は土産ではない。市販品ですらない。影時間にも稼働する、シャドウワーカーの隊員向けの情報端末だ。特殊部隊への加入を決めた際、副隊長の有里に手ずから貰ったものである。

 

(タロットねえ……占いは興味ないけど、こんくらい頭に入れとかないとな)

 

 この日の尚紀は買い食いをしながら、シャドウワーカーの資料に目を通していた。読んでいるのはペルソナとシャドウの分類についてだ。

 

(えっと……堂島さんは法王で、足立さんと有里さんは愚者だったっけ。シャドウは魔術師から刑死者までで、死神がごく稀にいる……)

 

 ペルソナとシャドウはいずれもタロットカードの大アルカナを元にして分類される。シャドウは各々のアルカナを象徴する姿形を取ることが多い。能力はアルカナごとに一定はしていないが、ある程度の傾向はある。例えば戦車や剛毅のシャドウは物理的な打撃を多用し、魔術師や隠者は魔法的な力に長けたものが多いといった具合だ。もちろん例外もいるが、外見からイメージできるものと実際の特性が一致するケースはままある。資料にはそのように記されている。

 

 情報系ペルソナ使いとして前線要員をサポートする役割を担う尚紀にとっては、シャドウのカテゴリーは知っておくべき情報である。だがこの資料は、どこに人の目があるか分からない外で読むようなものではない。しかし高校生の尚紀は、そこまでは思い至らない。

 

 やがて尚紀はコロッケを食べ終わった。油のついた手をハンカチで拭って、スマホにロックをかけて制服の胸ポケットに放り込んだ。席を立って商店街の北の端にある実家へ帰ろうとした。しかしちょうどその時、見知った顔が通りを歩いているのに気付いた。

 

「松永」

 

「あ、小西君……」

 

 声をかけると、八十神高校の制服を着た、おかっぱ髪の少女が振り返ってきた。小柄な尚紀より更に背が低く、小学生と間違えられても仕方がないくらいに幼い容貌である。リンゴの皮でも貼り付けているかのような、赤い頬がそれをより際立たせている。クラスメイトの松永綾音だ。

 

 霧の稲羽で起きた事件の被害者の一人である。4月12日の未明にシャドウに襲われ、影人間になったのだ。ただし世間はそれを知らない。本人さえ知らない。

 

(テレビや新聞では姉ちゃんが二人目の被害者だって言われてるけど……実は二人目はこいつで、姉ちゃんは三人目なんだよな)

 

 二人の死者を出して全国区のニュースになった『稲羽市連続殺人事件』は、実は殺人ではない。獣害事件である。そして真実を知らない世間は、事件の本質はおろか被害者の数さえ分かっていない。本当は二人ではなく七人だ。一人目はアナウンサーの山野真由美で、二人目は眼前の少女。姉は三人目。四人目の被害者は、会ったことはないが知ってはいる。八十神高校二年生の海老原あい。五人目と六人目は知り合いの刑事である堂島と足立。そして七人目は自分。尚紀はそう認識している。

 

「うちに帰るところ?」

 

「う、うん……」

 

『獣害事件』の被害者七人のうち、五人目以降は未遂に終わった。病院に担ぎ込まれはしたものの、すぐに回復している。逆に『害獣』に立ち向かう力を得た。しかしそれ以前の被害者は違う。死を免れた者は影人間の症状から回復して退院はできたものの、力は得られていない。だから綾音は決して事件と無関係ではないのだが、シャドウに立ち向かうことはできない。真実を覚えてもいない。被害に遭う前と変わらず、無力なままである。

 

(こういうのを守ることになるんだな)

 

 誰かを守る為に戦う──

 

 それは魅力的なシチュエーションである。『怪物と戦う選ばれし者』であるだけなのと、具体的な顔が念頭にあるのとでは実感が違う。シャドウワーカーの前身の時代ではペルソナ使いたちは世界や人類などの大仰なものでなく、身近な誰かを守ることを真の目的としていた。有里はそう言っていたが、それもむべなるかな──

 

 そんな唐突に湧いた、いささか安易な気持ちに乗って尚紀は世間話を始めた。

 

「それ、楽器? 確か吹奏楽部だったよな」

 

「え……うん。トロンボーン」

 

 綾音は肩に担いでいた、長さが九十センチほどの大きなケースに両手を触れた。

 

「小西君は部活とかしてないの?」

 

「ああ、保健委員だったんだけど……こないだやめたところだよ」

 

「え……委員会ってやめられるの?」

 

 部活と違って委員会は一種の労働である。諸岡が言うような『生徒の義務』ではないが、近いものはある。正当な事情がない限り、やめたいと思ってもやめられるものではない。サボる生徒は多いが。

 

「おみそ扱いになっちゃったんでね」

 

 だが尚紀に『事情』はある。正当かどうかはともかく、とにかくある。

 

「おみそって知ってる? いてもいなくても、いいって奴」

 

「……」

 

「いい加減、そういう扱いにうんざりなんでね……。保健室の先生に話して、やめるってはっきり言ってきた。俺、保健週間の時もずっと学校休んでたもんだから、先輩とかに迷惑かけてたみたいでさ。先生もほっとした顔してたよ」

 

 尚紀は自分のことであるのに、笑顔さえ浮かべながら平然と話している。だが綾音は表情を暗くした。大きな楽器ケースに再び手を当てて俯いた。

 

「どうした?」

 

「うん……いてもいなくてもいいって、嫌だよね」

 

 綾音は尚紀に話したことはないが、実は所属している吹奏楽部では『おみそ』なのだ。主な原因は二つだ。本人の演奏技術が十分でないのと、押しの弱い性格だ。演劇部の結実とは対照的に。長い期間に渡って入院して、腕が更に落ちたことも拍車をかけている。だから今日は木曜日で部活のある日なのだが、綾音は出ないでいる。今後も吹奏楽を続けるかどうかの岐路にいるのだ。優しく励ましてくれる人も、練習に付き合ってくれる人もいないから。

 

 だがそんな少女の憂いを、尚紀は違う意味に解釈した。

 

(こいつ、もしかして……)

 

 シャドウは『声』で人間を自らの領域に誘い出す。しかしどんな人間を選んで声をかけているのかは不明確だ。たまたま目に付いた人間を襲っているだけなのか、もしくは何かの基準があるのかは判然としない。シャドウワーカーの資料にも記されていない。ただペルソナに目覚める要因の一つとして、家庭環境の問題があるとの仮説は記されていて、それは尚紀も知っている。何しろ自分自身がその好例だ。ならば襲われる要因も同じなのでは──

 

 そんなことを閃いた尚紀は一歩踏み込んだ。

 

「お前さ、何か悩みとかあるの? 親御さんとか……」

 

 尚紀は4月以来、周囲の同情や好奇心に倦んでいた。だが今月になって姉の死の『真相』を知り、超常の力に目覚め、更には非公式の特殊部隊の一員にまでなった。激変した認識と環境は、少年を大きく変えていた。足立や堂島が変わったように、尚紀も変わったのだ。『本来あるべき運命』から。

 

(松永は回復したけど、もし襲われた要因があってそれが改善してないんなら……。また襲われる可能性だってあるよな)

 

「え? う、ううん、家では別に……」

 

「何かあったら、何でも言えよ。俺で良ければ相談に乗るよ」

 

 だから陽介が生前の早紀に言っていたセリフを、ほぼそのままの形で言ったりもする。

 

 もちろん陽介と違って、尚紀は相手に特別な感情を抱いてはいない。尚紀と綾音は知り合ってから日が浅いし、まともに話すのも今日が初めてだ。そもそも尚紀は人付き合いに積極的ではない。だが客観的に言って、綾音は庇護欲を掻き立てるタイプの少女だ。惚れた腫れたの前段階であっても、守ってやりたいと男に思わせるところがある。林間学校で尚紀と同じ班になり、悠が絆を結んでいる結実とは、まさに対照的に。

 

 ちなみに悠が吹奏楽部を見学したのは4月25日だが、その頃の綾音はまだ入院中だった。もしシャドウに襲われず、普通に生活していたならば。もしあの日に音楽室にいて、悠と出会っていたならば。綾音は雑用係に甘んじている部活にあって、一人の頼れる先輩を得られただろう。しかしいなかった為に、悠は演劇部に入ってしまった。学年の違う悠とは知り合いですらない。つまり今の綾音に頼る人はいない。言い方を変えると、自由の身でいるのだ。

 

「あ、ありがとう……」

 

 綾音は元より赤い頬を更に赤くした。有里はポートアイランドで尚紀に綾音の話をしたが、別に煽るつもりはなかった。しかし結果的には煽ったのと同じ事態になっている。綾音にすれば全く脈絡の見えない話だが、出だしから不幸が続いた高校生活にあって、突然降って湧いたクラスメイトの気遣いに動揺させられてしまった。思わず眼前の少年から目を逸らすと──

 

「あっ……あれ、何?」

 

 逸らした先で、おかしなものを発見した。商店街の南側を指差して目を丸くする。

 

「ん? 何だ、あいつ? マル久さんとこか?」

 

 綾音が指差した先を尚紀も見た。そしておかしなものを尚紀も見つけた。豆腐屋の入り口前の電柱に、よじ登っている男がいたのだ。そしてその下の道路に五人の制服姿がある。男が三人と、女が二人だ。

 

「待ちやがれ!」

 

 気付かれた男は電柱から下りて、道路を南側へ向けて駆け出した。五人の男女は声を上げながらそれを追う。追う側の先頭を行くのは、尚紀にとっては十年来の知り合いだ。

 

 

「大人しくしやがれ! コラァ!」

 

 商店街の南の端、ガソリンスタンドの前で捕り物騒ぎが起きた。リュックサックを背負って首からカメラをぶら下げた、いかにも怪しげな男が悲鳴を上げている。金髪の屈強な少年によって道路にうつ伏せに転がされて、腕を捻り上げられているのだ。そしてその周りを、四人の高校生が取り囲んでいる。

 

 白昼の出来事としては、なかなかの異様さである。近くに交番があれば、すぐにでも巡査が飛んでくるだろう。

 

「きっ、君らね、善良な一市民にこんな乱暴な真似して……」

 

「るせえ! 人様ぶっ殺しといて、てめえはそれか!? ああ!?」

 

「はあ!? タンマ! ぶっ殺しって何のこと!?」

 

 男が弁明を始めたところで、尚紀が追いついた。綾音はその後ろから恐る恐るついてきた。

 

「何してんの、完二」

 

「尚紀……!」

 

「あ……こ、小西君……」

 

 一声かけると、人垣を作っていた高校生たちは左右に分かれた。先週の林間学校でも顔を見た、四人組の上級生である。悠と陽介、千枝と雪子だ。

 

「ぼ、僕はただ、りせちーが好きで、部屋とかちょっと見てみたくて……荷物これ、全部カメラだよ!」

 

「りせちー? ああ、マル久さんとこ、盗撮でもしてた?」

 

 弁明を続ける男の姿を見て、尚紀は大体の事情を察した。芸能人にはあまり興味がないが、マル久豆腐店に孫娘が今週から帰ってきたことは知っている。何しろ昨日は豆腐屋を中心に野次馬が大量に集まって、大騒ぎになったのだ。近所に住んでいれば嫌でも目に入る。しかし今日は人だかりはできていなかった。その代わり、盗撮犯と言うかストーカーと言うか、そういう不審者が出没したのだと。尚紀はそのように考えた。

 

 しかし完二の返答は、予想を大幅に裏切るものだった。

 

「違え! こいつは殺人犯だ!」

 

「は? 誰を殺したんだよ」

 

「誰って、そりゃお前……」

 

 完二は言い淀んだ。今の八十稲羽において、殺人犯や殺人事件と言えば決まっている。被害者は誰もが知っている。しかし被害者の身内を前にして、その名前をはっきり口にするのは、やはり憚られる。

 

 だが尚紀にすれば、全く訳の分からない話である。完二が取り押さえているのは、なるほど不審な男ではあるが殺人犯であるはずがない。どこをどう押せば、そんな馬鹿げた考えが出てくるのか。理解に苦しむところだ。

 

(こういうのも守ることになるのか……)

 

 尚紀はため息を吐きながら、シャツの胸ポケットからスマホを取り出した。ロックを解除してアドレス帳を起動し、登録されている番号を呼び出した。

 

「もしもし、小西です。はい、どうも……今、電話しても大丈夫ですか? ちょっと変なことになっちゃって……久慈川りせって、ご存知ですか? 商店街の豆腐屋の。そこ盗撮してた奴がいて、高校の先輩たちが捕まえたんです。え……? そうなんですか」

 

「おいこら、盗撮じゃねえっつってんだろ!」

 

 完二が怒鳴るが、尚紀はうるさそうに一瞥しただけで、すぐに電話に戻る。

 

「済みません。殺人犯だとか言ってる奴がいるんですが……ええ……」

 

 八十神高校の生徒は無論、教職員さえその多くが恐れる完二の剣幕に、尚紀はまるで頓着しない。それは完二とは幼馴染で、今のような不良然とした容貌になる前の姿も知っているから──

 

「犯人なわけないですけど、何とかなりません? ……はい、お願いします」

 

 ではない。たとえ知り合いでないただの不良が相手でも、尚紀は恐れはしない。もちろん武道や格闘技を習っておらず、体格も細い尚紀は、殴り合いなどでは大抵の不良に勝てないだろう。シャドウが相手でも、戦闘型でない尚紀のペルソナでは戦えない。しかし人でもシャドウでも、恐れるかどうかは戦力差とイコールではない。

 

「商店街のガソリンスタンドの前です。お忙しいところ、済みません」

 

 何かに『守られている』悠は、シャドウを恐れない。虚無に沈む足立は、自分と他人のいずれの死も恐れない。そして守りたい人を既に失っている尚紀は、何も恐れない。綾音は同じ被害に遭った者として気にかけているが、姉の代わりにするつもりはない。だから尚紀は拳銃で自分の頭を撃つことさえ、平気でできる。もちろん召喚器は弾が出ないと知っているが、たとえ出るものでも尚紀は撃つ。

 

 眼中にないものを恐れる道理はない。不良であれ、上級生であれ。

 

「知り合いの刑事さんに連絡しました。誰か人を回すそうですから、来たら引き渡してください」

 

 通話を終えた尚紀はスマホをポケットに戻し、一人の幼馴染と四人の上級生に向き直った。電話したのは稲羽署の刑事課で、出たのは足立だ。堂島でも良かったのだが、たまたま電話を取ったのが足立だったので、尚紀はそのまま事情を話した。

 

「でも日本には盗撮罪ってないそうですから(2011年時点)、すぐ釈放されるかもしれないですけど」

 

「そ、そうだろ! 日本に盗撮罪ってないんだよ! もっと言ってやってくれ!」

 

 突然の弁護人の登場に、取り押さえられている『犯人』は救いを求めてきた。だが尚紀はもちろん『犯人』も眼中にない。懇願する声は耳に入っているが、聞きはしない。

 

「だから、盗撮じゃねえんだよ。こいつは殺人犯なんだ!」

 

 完二に代わって、今度は陽介が言ってきた。すると今度は尚紀も無視しなかった。先週は面と向かって失礼なことを言った上級生の目を、真っ直ぐ見つめる。

 

「……」

 

 尚紀は陽介が好きではない。これまでまともに話したことはないし、顔を見たのも先週の林間学校が初めてだ。だが嫌いだ。家業の対立とは関係なく。関係ないと思っている。

 

 五感を超えた領域において物事を認識する情報系ペルソナ使いも、その視力が自分自身に働くかは別問題だ。普通の人間と同様に、深い内省を経なければ自分の心の深層は見通せない。そうした努力を未だ行っていない高校一年生の少年は、眼前の二年生をただ嫌っている。陽介本人のみならず、その周囲にいる者にまで累が及ぶほどに。

 

 だが今日に限っては陽介を嫌う、と言うよりその軽挙に呆れる資格がある。なぜなら──

 

「そんな奴が、姉ちゃんを殺せるわけがない」

 

「!……」

 

 空気が凍った。誰もが憚る『殺人事件』の被害者について、他でもない遺族の口から言い放たれた。予報によれば夜には雨が降り始める、湿って暑苦しいはずの夏の風が真冬の硬さを帯びた。先週に山の中で食事をまずく感じさせた、『あんたが嫌いです』など遠く及ばない緊迫感が生じる。いくつも重なった息を飲む音が、割れる寸前のガラスのように張り詰めた空気を鮮明に揺らす。

 

「俺には分かります」

 

 そうなのだ。姉を殺したのは人間ではない。だから犯人など、そもそも存在しないのだ。だがその『真実』は誰にも明かせない。昼間は虚勢を張って夜に泣く両親にも、同じ被害に遭ったクラスメイトにも。姉を好きだったらしい、都会出身の馬鹿な先輩にも──

 

(姉ちゃんの仇は、誰にも取れないんだ……)

 

 尚紀はシャドウに立ち向かう力を手に入れた。しかし復讐を目的に戦うことはできない。早紀の復讐など、したくてもできないのだ。力が足りないからではなく、相手がいないから。猛獣に家族を殺された人間が、復讐の為にこの世から動物を絶滅させようとするなど、愚かな話でしかない。現実的に不可能だし、しかも復讐になっていない。尚紀はそう思っている。

 

 そう思っている尚紀にも実は誤りはあるのだが、それは考えもしない──

 

「あ、あの……小西君?」

 

 これまでずっと黙っていた綾音が、耐えきれなくなったように声を漏らした。すると尚紀の目から硬さが抜けた。そして首を後ろに巡らせ、緩めた視線をクラスメイトに送る。

 

「ああ……悪い。下らないことに付き合わせて」

 

 そして尚紀は首を元の位置に戻す。その視線の先には、固まっている陽介がいる。その隣には悠がいる。こちらもやはり固まっている。その姿を見ると、一つ思い出したことがあった。

 

「あ、鳴上さん」

 

「……何だ?」

 

「こないだの保健週間の時、休んでた俺の代わりに保健委員の手伝いしてくれたんですよね。聞きました」

 

 悠は今月7日に保健委員の手伝いをした。尚紀はそのことを、委員会をやめた際に養護教諭から聞いていた。

 

「ああ……そうだが」

 

「ありがとうございました。でも俺、保健委員やめたんで。もう迷惑はかけません」

 

 悠は冷たい視線の中に何かを感じた。まるで叩きのめした相手に少しだけの気遣いを示すことで、徹底的に恨まれることのないよう仕向ける。そんな意図を感じた。

 

 感じた途端、時間が停止した。

 

『我は汝、汝は我……』

 

 絆を教える『我』の声が、緊迫したガソリンスタンド前の空気をそのまま固定した。この重さを、この硬さを忘れるなと、停止した時間そのものが告げている。風が一つ吹けば浮き上がる軽い布を地面に縫い付ける楔のように、絆が二人の男を貫いて結んだ。

 

(コミュが来た……? こいつと?)

 

 逆さ吊りにされた男の絵が描かれた、一枚のカードが悠の脳裏に浮かぶ。『我』が告げたコミュニティのアルカナは刑死者。寓意画といい名前といい、どことなく不吉だ。

 

「行こう」

 

 事の初めから困惑し通しの哀れな少女に一声かけて、尚紀はスタンドの前から立ち去った。しかし綾音はなおも訳が分からず、その場で左右を見ながら慌てている。

 

「え、えっと……皆さん、先輩なんですよね。し、失礼します……」

 

 しかしいつまでも佇んでいるわけにはいかない。尚紀が敬語を使っていたことから悠たちが上級生だと察して、小柄な体を折り曲げて挨拶をした。そして急いでその場から去った。先を行くクラスメイトの小さな背中を、小走りで追いかけた。

 

 言葉が端的すぎて、いっそ単純明快な少年が去った後には、大量の訝しさがその場に残された。何が何だか分からない。自分たちは一体何をしてきたのか、その段階から悩まされてしまう。

 

「クソ……尚紀の奴、何だってんだ」

 

「小西先輩の弟さん……か。先輩と顔は似てるけど、雰囲気全然違うね。ちょっと怖いくらい……」

 

「私たち……間違ってたの?」

 

 特別捜査隊は悠、陽介、クマの三人で結成した。その後に加入した、いわば後期メンバーの三人はいずれも戸惑いを隠せずにいる。彼らは生前の早紀と大きな関わりを持っていなかった。テレビの中のコニシ酒店で語られた、早紀の『遺言』を聞いてさえいない。犠牲者に関する情報と印象の少なさが、余計に混乱を招いていた。

 

「……」

 

 そして特捜隊の中で唯一、犠牲者と深い関わりのあった陽介は沈黙している。

 

(こんな奴が……先輩を殺せるか?)

 

 未だ完二に押さえつけられている怪しい男を、陽介は見る。この男が犯人ではないとなぜ分かるのか、尚紀は何も説明しなかった。だがああも断言されてしまっては、反論は何も出てこない。かえって同意してしまいそうになる。想い人の弟を視線で追ってみれば、豆腐屋の前の辺りに小さな後姿が見えた。もう遠い場所だ。声をかけても届かない。

 

「……」

 

 そして相棒に倣うように、悠も沈黙してしまった。その心には刑死の楔が突き刺さっている。

 

(俺は……甘すぎるんじゃないのか?)

 

 特捜隊が追っているのは殺人事件だ。人の命が関わっていて、実際に犠牲者も出ている。自分はそれを解決する為、皆と一緒に日々努力を重ねている。だが事件に対する心構えに甘いところがあったのではないか──

 

 悠は初めて自分自身に疑問を抱いた。事件に対する姿勢において、自分は誰よりも甘いのではと。想い人を失った陽介は言うに及ばず、おかしくなり続けるテレビの世界の住人であるクマよりも甘い。親友が被害に遭った千枝や、本人が被害に遭った雪子と完二よりも。

 

 なぜなら悠は誰も失っていないから。事件によって人生の何も奪われておらず、生活を乱されてもいない。むしろ充実した日々を事件から貰っている。霧に映る鏡像に詰られたことさえない。そんな自分に、仲間たちと並んで立つ資格があるのだろうか。

 

 まして姉を失った尚紀に、自分は何をしてやれるのか? あらゆる同情や気遣いを拒絶し、それでいて人の表も裏も見通すあの硬い目と、自分は向き合うことができるのか。研ぎ澄まされた短い言葉でもって、無責任な野次馬を叩き切る遺族と、どんな絆を育めばよいのだろうか。

 

『もう迷惑はかけない』

 

 コミュニティが生じる契機となった、この言葉。果たして誰が誰に迷惑をかけていたのか。『下らない騒ぎを起こして、こっちに迷惑をかけるな』と、悠が言われたのではないか。そんな気がしてしまう。

 

 悠はこれまで築かれたコミュニティに対して、不安や迷惑を覚えたことはなかった。むしろ楽しみに思ってばかりだった。女が相手なら期待もするし、男が相手でも『友達が増えた』くらいにしか思っていなかった。だがこの時初めて、告げられた魔術的な絆によって背筋が寒くなるのを感じた。

 

「相棒……りせの様子、見にいこうぜ。犯人、マジで別の奴かもしんねえ」

 

「ああ……そうしよう。お前たち、この場は頼む」

 

 事の初めから苦楽を共にしてきた相棒と二人で、次の被害者となりそうな人の自宅へ向かった。その結果は、更なる不安を掻き立てるものだった。

 

 そしてこの日の晩、足立が言うところのマヨナカテレビの『ライブ放送』が映し出された。これまでで最も先鋭化した企画でもって。

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