6月の最後の日、悠は今月の出来事を振り返ってみると、何とも悩ましい一ヶ月だったという気がしていた。特に先週の木曜日、23日に尚紀との間にコミュニティが築かれてからは深刻だった。人を寄せ付けない気配のある硬質な少年との絆に考えさせられた。そしてその後に起きた出来事にも考えさせられた。
具体的に言うと、三件目の誘拐事件、事の始まりであるアナウンサーの死から数えると五件目となる事件が発生したのだ。被害者は帰郷した女子高生アイドルの久慈川りせ。悪いことに、りせが被害に遭うのは予期できていた。それにも関わらず未然に防げなかった。愚かしくも盗撮犯に気を取られて、その隙に犯行を許したのだ。そしてその日の夜に、りせのマヨナカテレビが映った。酷く挑発的な内容で。
翌24日から町でりせの人柄などについての調査を行い、居場所が判明してテレビの世界での捜索を開始したのが25日。今から五日前だ。
りせの救助そのものは様々な事情によって可及的速やかに遂行され、皆の活躍もあって既に達成している。だがそれで『めでたしめでたし』とはならない。犯行は予期できても、犯人は未だ分からないままなのだ。それに加えて、悠は色々な点で考えさせられていた。特にりせの影を倒した後、クマの身に起きた出来事について。
(クマの奴、大丈夫かな……)
取り敢えず無事でいることは間違いないので、それが唯一の安心材料だ。だが思い返せば4月に出会って以来、悠はクマを特別気にかけてこなかった。今になってそれが悔やまれる。
おかげで今日の悠はバスケ部に出たのだが、考え事のせいであまり身が入らなかった。一条もいなかったので、得るもののない一日のように感じていた。そうして無為な一日を悔やみつつ、下校しようと下駄箱の前まで来ると──
「先生……」
職員室から出てきた諸岡と遭遇した。薄いカバンを脇に抱え、猫背の姿勢で廊下を歩いている。周囲に人の姿はない。生徒も教職員もいない。邪魔をする者のいない時間と場所で、まるで秘密のように二人は出会った。
「む……鳴上か。また補習したいのか?」
これは定型の挨拶のようなものだ。
「……ご都合がよろしければ、お願いしたいです」
悠は勉強好きではない。しかし諸岡の補習は嫌いではない。先週の月曜日に聞いた日本の古い信仰に関する話は、無意味ではなかったと感じている。そしてまた、ここ数日抱えている悩みを諸岡に相談したいという気持ちもないではなかった。その前振りとして補習が必要なら、受けてやろうという気になった。
「ふむ……勉強熱心なのは結構だ。だが今日はもう遅い。早く帰れ」
既に部活の時間も終わり、下校時刻は迫ってきている。夏の夕日は古い木造校舎の底を這うようにして、赤い光と蒸し暑さを届けてきている。今から補習をするには遅い時間だ。諸岡も仕事を終えて、帰宅しようとしている風情である。つまり都合が合わなかったということだ。こういう場合、コミュニティなら次の機会を待つしかないのだが──
「では、ご一緒させてもらっていいですか?」
諸岡との間にコミュニティはない。狙ってはいるが、『我』は未だ何も告げてこない。ならば自分から攻めていくのも必要だ。
「やめておけ。わしと一緒にいるところなぞ見られたら、変な噂が立つぞ」
このセリフは以前も聞いた。今月12日に海で釣りをした時も、今のように教師は生徒を気遣っていた。思えば今月は群れを成して襲ってきた種々の悩みは、あれが最初の一歩だったのだ。ならば生徒を悩ませた、その責任を取ってもらおう──
「もう遅いですから、きっと誰にも見られずに済みますよ。爛れた都会と違って、辺鄙な田舎なんですから」
責任を押し付けるような気持ちを抱いて、悠はもう一歩踏み込んだ。転校初日の諸岡自身のセリフも借用しつつ。あの日の出来事は、当時は忘れようと思ったものだが、今となってはすっかり記憶に定着してしまっている。ただし覚えていること自体を、悠は嫌とは感じていない。つまりトラウマになっているわけではない。いないつもりでいる。
「全く……貴様は本当におかしな奴だ」
諸岡はため息を吐いた。怒声ではなく、ため息である。
モロキンと仲良くしているなどと噂が立つのは、大抵の生徒にとって不本意であろう。しかし今は当の諸岡自身にモロキンの影は落ちていない。渋い顔をしてはいるが、怒鳴りはしない。釣りをした時もそうだったが、モロキンスイッチは時間制なのかもしれない。つまりオンになるのは仕事中のみ。休日は一日中オフで、平日もこれくらいの時間になればオフに変わる。生徒と一緒に下校するのを渋ってはいるものの、強く断りもしない。
二人は結局、並んで帰った。
都会から来た転校生と田舎に住み続ける問題教師は、坂の上にある校門を揃って通り抜けた。二人の頭上には桜の枝が伸びている。4月の上旬は花が咲いていた桜は、梅雨の水を吸って葉を青々と茂らせている。花は散って葉が揃う。装いを変えた学校のシンボルツリーは、二人が出会った頃から季節が変わったことを告げている。
もちろん季節を告げているのは、樹木だけではない。春は遠くに過ぎ去り、盛り始める夏に乗って、気温は日々上がっていく。生徒は暑さに追い立てられて、皆が上着を着ないようになる。もちろん悠も今月13日の衣替え以来、ずっと夏服を着ている。ただ暑苦しい冬服を脱いだちょうどその頃から、代わりとばかりに悩みを着るようになったのは、皮肉な巡り合わせである。
「先生、暑くないんですか?」
衣替えは生徒だけでなく教職員にもある。しかし諸岡は4月から変わらず、スーツの上着を着続けている。素材は夏向けのものに変わっているかもしれないが、とにかくいつもジャケットを着ている。ネクタイも締めている。
「心頭滅却すれば、火もまた涼しだ」
悠の気遣いに対して、諸岡は精神論の極点のようなことを言ってのけた。だが次の瞬間、笑った。
「……何てな。わしにとっては、昔からの習慣に過ぎん」
笑ったのだ。授業中は引っ切り無しに怒鳴り、額の青筋は皮膚に定着しているのではと思わせる、諸岡が冗談を言った。そして笑った。ただし唇の端だけを持ち上げて、垂れ気味の目を更に下げるという、見方によっては皮肉や嘲笑とも受け取れる笑みだったが。
「昨今流行りのクールビズという奴は、どうも馴染まんのでな」
学生はともかく、勤め人が夏場に上着を着ず、ネクタイも締めないスタイルで仕事をする風習が広まったのは最近のことだ。それよりずっと長い期間に渡って上着を着続けてきた諸岡は、流行に乗れないらしい。笑顔に慣れていないように、軽装にも慣れていない。
担任のささやかな冗談を聞いて、その後も少々の雑談をしながら、二人はやがて鮫川の土手に辿り着いた。細いながらも水量の多い川は、夏の夕暮れから少しだけ暑さを取り除いてくれる。
「先生はこの川でも、釣りをしておられたんですよね」
「ん? 昔はな」
鮫川は魚の種類が多く、地元の釣り人の間では人気を博している。だが海で釣りをする諸岡は、鮫川の魚は取り尽くしたと豪語していた。
「どんな魚が釣れるんでしょうか」
「色々だ。源氏鮎にコハクヤマメ、稲羽マス……巷では川の主と呼ばれておる、大物もいるぞ」
海で一緒に釣りをした時は、悠はなぜかゴミばかり釣ってしまった。対照的に諸岡は大きな魚を次々と釣り上げていた。同じ場所で同じ道具を使っていたのに、どうしてああも結果が違ったのか。それはつまり、腕にあるのだろう。長年の経験に裏付けられた諸岡と素人の悠の間には、大きな隔たりがある。
釣りの思い出を考えると、悠はあることを連想的に思い出した。
「先生、お聞きしてもよろしいでしょうか」
そして土手の上で足を止めた。一つの決心をしながら。
「何だ」
諸岡も立ち止まった。前歯がはみ出し気味の濃い顔を、どちらかと言えば端正な顔である悠に向ける。
「4月の事件で亡くなった二人についてです」
先週は補習という名の特別指導を受けたが、あの日は始めからそれを望んでいたのではない。聞きたいことがあって、授業を終えた諸岡を引き留めたのだ。しかしその場では聞けず、なし崩し的に補習になだれ込んでしまった。ただ諸岡は学問を授けた後で悠に質問する機会を与えてきたのだが、その時の悠は聞けなかった。
だが今は聞きたかった。今月15日のホームルームで諸岡が言っていたことについて。そのセリフと釣りの思い出が、悠の心の中で衝突していたのだ。それが混乱の始まりだった。
「林間学校の少し前、先生は亡くなった二人を引き合いに出して、ああいう者たちがモラルとモラールを低下させると仰ってました」
事件当時、小さな田舎町は噂で持ちきりだった。発生から二ヶ月半が過ぎた今は、当初に比べれば話題に上がる機会は少なくなったが、まだ忘れられてはいないし、色々と噂もされる。噂の蔓延そのものが、町の人々の良識や士気が下がっている証明と評するのは、あながち間違いでもなかろう。しかし下げているのは事件それ自体と、引いては事件の犯人であって犠牲者ではない。それこそ良識のある人間なら、そう言うはずだった。
「……」
「どういうつもりで、あんなことを?」
ちなみに林間学校で完二から聞いた話では、より言葉が激しくなっていた。曰く、『不倫だの、家出だのする人間は狙われて当然だ』と。山野と早紀がなぜ犯人に狙われたのか、その理由や原因がどこにあったのかは未だ不明だ。警察より真相に近い所にいる特別捜査隊も掴めていない。だが今後にいかなる真実が明らかになるにせよ、殺されるのに相応しい理由などあるものではない。犠牲者の二人こそが、実は人殺しでもない限り。
何にせよ、事件の背景や犯行動機を知らない諸岡が、犠牲者を悪く言う資格はないはずである。ただの暴言だ。まして生徒に向けて言うことではない。
「綸言汗の如しと言う。わしは自分の発言を取り消すつもりはない」
諸岡は悠から視線を外し、川を見つめた。以前は全ての種類の魚を取り尽くすくらい、頻繁に通っていた川を。
「だが……そうだな。あれは言いすぎであったな」
踏み込んできた生徒から目を逸らしたまま、教師は土手の階段を歩き出した。曲がった腰もそのままに、ゆっくりとした足取りでもって河川敷へと下りていく。生徒もそれについて行く。
「確か小西には、弟がいたはずであったな。奴には恨まれても仕方がないであろうな……」
鮫川の土手は、多くの八十神高校の生徒が通学路として使う。生活に密着した通りなので、休日でも大勢の生徒が通るはずだ。ならば諸岡が釣りをしている姿は、昔はきっと何度も目撃されただろう。しかし今は──
「だが鳴上よ。そんなことが聞きたかったのか?」
ここで諸岡は振り返ってきた。足元で無数に転がる河川敷の小石が、革靴の下で音を鳴らして転がった。しかし石は川には落ちず、ついて来た生徒にも当たらない。隣り合った小石同士でこすれ合うのみだ。
「迷惑でしたか?」
「迷惑ではない。だがわしの言葉が荒いのは、いつものことだ。わしの真意など聞きに来る奴はおらんぞ」
そうなのである。諸岡の暴言はいつものことで、その真意をいちいち聞きに来る生徒はいない。だから噂が独り歩きする。林間学校で完二から聞いた噂は、完二自身も言っていたが、きっと尾ひれがついている。噂は決して根も葉もないわけではないが、真実を伝えてはいない。それでいて諸岡自身は噂を放置している。
「俺は……」
真実はどこにあるのか、悠は悩む。
「先生が分からないんです。釣りをしている時の先生が、本当の先生じゃないんですか」
悩むから、もう一歩踏み込んだ。
「本当のわし?」
本当の諸岡。または本当の悠。『お前は何者か』という、今年最初の授業で放たれた問い。ここ数日、悠が悩んでいたのはこれである。テレビの中でりせが、そしてクマがこの問いに大きく関わる言葉を発していたのだ。だから普通に考えれば恥ずかしい、進んで人に問いたくはない質問を、悠は敢えてした。先週の補習において痛々しい問いを既に発していたことも、悠が踏み込む一助になった。
「若いな、貴様は……」
だが諸岡は小さなため息を吐いた。痛い質問でも真摯に向き合う、倫理の教師らしくもなく。
「良いか、人間は一つの性格だけで生きているものではない」
しかし無視はしないし、適当にいなしたりもしない。諸岡は説明を始めた。
「対人関係において、人は相手によって各々異なる側面を見せるものだ。これを心理学用語でペルソナと言う」
「ペルソナ……?」
悠は驚いた。先週の補習の時も、諸岡は悠が知っている言葉を口にしていた。無論、悠が使っているのと意味は異なるが。だが異なるだけに、より深い意味をそこに持たせているように──
「ラテン語で人を意味する言葉だ。顔につける仮面という意味もある。これは誰もが複数持つのが普通だ。むしろ一つしか持たぬ者は、社会に適応できぬ」
「人間とはな、仮面の中のどれか一つが本物で、他は偽物などと単純なものではないのだ。モロキンは偽物ではないし、釣り人の諸岡も本物ではない。逆もまた然り……。例えば貴様は花村と親しくしているようだが、奴と接する時と両親……いや、叔父の家に居候しているのだったな。相手が花村か叔父かによって、応じる貴様は違うであろう? だがそのどちらかが本物でもう片方は偽物であると、貴様は言うか?」
それはその通りだ。陽介と堂島とで違うのは無論、他の人が相手でも悠の応じ方に違いはある。だがそのいずれかのうち、どれか一つが本物で他は偽物とは言えない。しかし──
「でしたら……先生のアイデンティティはどこにあるんです?」
言い方を変えるならば、鳴上悠のアイデンティティはどこにあるのか。この問題に突き当たるはずだ。
「小賢しいことを……」
諸岡は再びため息を吐いた。
「モロキンと釣り人はどちらも偽物でも本物でもないとは、わしの自己同一性を損なうものではない。今年最初の授業で言ったはずであるぞ。これからどう生きていくのか、何を学ぶのか、社会にどう貢献していくのか……この問いに答えてもらうとな。覚えているか?」
「ええ……」
「どう生きていくのかとは、どう行動するかということだ。アイデンティティとは本質的には認識であるが、行動と不可分なのだ」
「……」
「人は行動によってしか己を表せぬ。行動を伴わぬ根拠のない思い込みで、理想の自分などというものを掲げたところで、どうにもならんのよ……」
5月の補習においても、諸岡はこう言っていた。
「ペルソナはいくつあっても良いのだ。だがお前ら若者は、これから何を学び、社会にどう貢献するか……そこに結びつくペルソナを見つけねばならん」
「……」
悠は考えた。この伝で言うならば、諸岡は教師として社会に貢献しているはずである。しかし生徒たちに見せている、モロキンのペルソナがその裏付けであると言うのだろうか。自分の発言を取り消すつもりはないと言いながら、尚紀には恨まれても仕方がないと、己の暴言を反省する言葉も口にしていたのに──
「先生、後悔しておられるんじゃありませんか?」
考えた末に、更にもう一歩踏み込んだ。
「何だと?」
「俺は少し後悔しているんです。今でこそ部活を掛け持ちしたり、花村とかと仲良くしたりしてますが、転校してくる前はそんなじゃなかったんです」
鳴上悠は普通の少年である。知識は年相応で、寛容さはそれなり。勇気はなくもなく、根気は若者級。そして伝達力はそこそこだ。取り立てて優れた長所も、特別な才能もない。その一方で、短所はある。何事もそっとしておきたがるという、行動力における問題が。たとえどんな才能があっても、全てを無にしてしまいかねない致命的な短所がある。
「もったいないことしてたなって……」
そんなものだから、八十神高校に転入する前の悠には友人は多くなかった。もちろん過去に友人は一人もいなかったとは言わないが、かつて過ごした土地の知り合いたちとの繋がりは既に切れている。電話でもメールでも、遠距離の友人と繋がりを維持する手段はいくらでもある、現代社会にありながら。絆を保つ為の、いかなる努力もしなかったのだ。何の行動もしなかったからこそ、普通の少年でしかなかった。
「でも、やり直すことはできるはずです」
八十稲羽に来てから、悠はやり直したのだ。そっとしておき続けた青春を、今取り戻している。
「鳴上、わしと貴様では立場が違う」
しかし諸岡は首を横に振った。
「やり直せぬもの、取り返せぬもの……大人になれば、色々あるのだ。例えば、そう……腐ったミカンと決めつけた、あの小僧とかな……」
諸岡は目を細めた。モロキンを後悔しているとは言わない。しかし後悔しているとも受け取れる、だがやはり違うような、複雑な心の内を出会って二ヶ月ほどの生徒に明かそうとしている──
「おーい、相棒! え、モロ……?」
と思いきや、土手から聞き慣れた明るい声が届けられてきた。陽介だ。その姿を認めた諸岡は、またしてもため息を吐いた。
「ほれ、言わぬことではない……。辺鄙な田舎は爛れた都会と違って、道が少ないのだ」
全くもってその通りである。煩わしい人付き合いを避ける為の最も簡便な方法は、そっとしておくことだ。関わり合いにならなければ、向こうから勝手に歩き去っていく。しかし街路の少ない八十稲羽では、いくらそっとしておいても、どこかで必ず人とぶつかってしまう。悠はそのことを転校初日に悟っている。悟らせたのは陽介だ。
「大丈夫ですよ。花村はいい奴ですから」
せっかくの話に横槍を入れられたわけだが、悠は機嫌を損ねなかった。むしろ笑い出しそうになった。今このタイミングで陽介が現れた、この偶然におかしくなったのだ。
「ならさっさと行け。貴様の居場所は、あ奴の隣だ」
「ええ、今日は行きます。次は釣りでもしながら話を聞かせてください。今度は俺も自分の釣竿を持っていきますから」
陽介は相棒だ。だから陽介の隣に悠の居場所はある。だが諸岡の隣にも欲しい。ペルソナはいくつあっても良いのなら、居場所もいくつあっても良いはずだから。
「ああ? ……馬鹿者め。貴様はそんなに変な噂を立てられたいのか?」
諸岡金四郎と仲良くしていては、他のコミュニティに悪影響が出かねない。現に土手に立つ陽介は胡乱げな顔で、河川敷の二人を見つめている。だが悠は構わない。誰もが嫌い、憎み、疎んじる人間の違う一面を知っているというのは面白い。表面しか見ていない世間は知り得ない、その人の真価を自分だけが知っているというのは、意外と気分の良いものだ。それはまさに、世間は誰も知らないテレビの中の真実を、特捜隊だけが知っているようなもので。この良さに比べれば、変な噂など何であろう?
だが悠が良くても、諸岡は困る。悠はもうそのことに察しがついていた。生徒が大勢行き交う鮫川で釣りをしないという、諸岡の行動にそれが表れているから。
「他の生徒に見られたくないなら、海に行きましょう」
諸岡はモロキン以外の顔を、生徒に見せたくないのだ。教師として生きてきた数十年の間にモロキンがしでかした後悔の種は、きっと山ほどある。しかし諸岡自身はそれを受け入れている。
もし諸岡をテレビに放り込んだら、きっと釣り人のシャドウが現れる。これまでの子供たちのシャドウと違って、理性的で穏やかで、本体に敵意を持たない大人のシャドウであろう。いや、ひょっとするとそもそもシャドウが出ないかもしれない。モロキンも釣り人も、等しく諸岡の一部だ。もちろん古い学問を若者に教える諸岡教諭もそうだ。
「分かった分かった……。夏休みになったら付き合ってやる」
煩わしい人付き合いを避ける為の最も効果的な方法は、青筋を立てて怒鳴りつけてやることだ。しかし世の中にはどれだけ怒鳴られてもまるで怯まず、仮面を剥いで核心へ向けて踏み込み続ける、おかしな人間もいる。そういうおかしな生徒に根負けして、遂に教師は白旗を上げた。しかし──
「だが……覚悟しろよ! 貴様は茨の道を選んだのだ!」
降参したのも束の間。諸岡は今日初めてモロキンになった。見慣れた青筋を額に浮かべ、口角泡を飛ばす。おかしな生徒を脅すには役に立たないと分かっているはずであろうに、なおも怒鳴る。どんなに暑くてもスーツを着続けるように、身に染みついた習慣となった問題教師のペルソナを表に出す。
「期末試験では論述問題を出してやるからな! 貴様の答案は、特に厳しく採点してやる!」
「えー?」
「えー、ではない! 教師と親しくなれば、点数に色をつけてもらえるとでも思ったか? 残念だったな。わしはそんなに甘くない! 誤字や悪筆は論外! 論旨の正当性は無論、文章の構成に至るまで全て見てやるからな! 下手な答案を出した日には、夏期特別講習へ招待してやる!」
「それは楽しみですね」
「ふん、口の減らぬガキめが! さっさと行け!」
「はい、行きます!」
ペルソナという言葉には、演劇や祭礼で使う仮面という意味もある。その通りに芝居がかったモロキンの声に追い立てられて、悠は河川敷から土手へ通じる階段を走った。走りながら、期末試験に向けて倫理は全力で勉強することを決意した。ここまでしてもらったからには、小手先の器用さでかわしてはならない。だがわざと答案に誤字を混ぜ込んで、特別講習を開催してもらうのも面白いかも──
そうして悠は諸岡と別れた。今日も『我』は絆の発生を告げてこなかったが、悠はもうこだわらなかった。『我』のお墨付きがないままでも、諸岡との繋がりは有意義に感じていたから。
「どうしたんだ。またモロキンに難癖つけられてたのか?」
コミュニティのない人と別れて、コミュニティのある人に迎えられた。その人は絆の優しさに促されるように、心配そうな顔を見せてきた。
「先生はいい人さ」
しかし悠はそんな陽介の気遣いを裏切った。平然と、笑顔を添えて。
「お前……今日は4月1日じゃねえぞ?」
「本当なんだよ」
陽介は底なし沼でも見るような目をしている。だが八十稲羽に来て最初の友人の不審にも、悠は構わなかった。毒を食らわば皿までという奴である。何ならこの毒を、陽介にも食わせてやりたいくらいである。
「……このように、イスラム教においてはウンマと呼ばれる宗教的コミュニティが、信徒の生活に密着しておるのだ! キリスト教では教会、仏教では檀家、更に日本では講と呼ばれる共同体がそれに該当するな! かように宗派や国によって差異はあるものの、信仰は人と人を結びつける役割を果たしてきたのだ!」
悩ましい6月は終わり、7月がやって来た。諸岡は月が変わっても暑苦しくスーツを着込み、教壇で熱弁を振るい続けている。額には青筋の他に汗も浮かんでいるが、クールビズに縁のない年かさの教師は自分の汗など一顧もしない。夏の日差しが窓から差し込んできても、全く構わない。
「貴様ら無教養な輩は神などおらんし、教会など金儲けの道具でしかないと、安易に考えているであろう! だがそうではないのだ! 何の神を信じるかは、貴様らの自由だ! 無論、信じぬ自由もある! 好きにするがいい! だが知りもせず、考えもせず、受け売りや思い込みで人の信心を切り捨ててはならぬ! 敬意を払い、興味を持て!」
恫喝が癖になっている教師は教卓を掌で叩いた。もはやお馴染みの光景だ。
「以上をもって、教科書の第二章を終える! 今月の残りの授業では、期末試験に向けてこれまでの復習をしてやろう! ありがたく思え!」
今日は7月4日で、期末試験は19日からだ。試験まであと二週間ほどもあるが、口調も講義も猛烈に速い諸岡は、授業日程に余裕を作ってしまう年が多い。しかし余裕を作っても、生徒に自習させてやったりするほど甘くはない。
「ではまずは……教科書の第一章! 青年期の自己形成についてだ! 鳴上! 立て!」
「はい」
指名を受けた悠は立ち上がった。背筋を伸ばし、問題教師のペルソナが板についた人と正面から向かい合った。
「アイデンティティとは何か? 答えてみろ!」
これはサービス問題だ。つい数日前に、悠は諸岡とこの話をしたばかりなのだから。教師は指名した生徒が答えられることを、聞く前から分かっていたはずだ。
「これこそが本当の自分なのだという、実感のことです。日本語では自己同一性と訳されます。また、アイデンティティを確立するまでの猶予期間をモラトリアムと言います。いずれもアメリカの心理学者エリクソンが提唱した概念です。これが確立されないと、自分が何者なのか分からず、何を学びたいのか、社会でどう生きれば良いのか分からないという、同一性拡散の危機に陥ります」
諸岡の演出に乗って、悠は詳しく答えた。滑舌よく、堂々たる回答をしてみせた。そんな『優等生』に向けて、教室から感嘆の声が上がった。まさにサービスである。
「ふん……4月に教えたはずだが、覚えていたか。それとも教科書を読み直したか?」
「両方です」
つい先日に貴方と話したからです、とは言わない。モロキン以外の諸岡のペルソナを知らない、普通の生徒が大勢いる教室でそう言っては、さすがに諸岡に迷惑であろうから。
「ふん、可愛げのないガキめが! まあ良い! 座れ!」
空気を読んだ悠に対して、諸岡も空気を読む。そろそろコンビを結成できそうだ。
「その通り! アイデンティティとは自己同一性のことだ! 貴様ら未熟者どもは憧れのアイドルを真似て、アイデンティティを確立しようとするらしいが……他人の真似ばかりしているような奴に、本当の自分などあるものか!」
「良いか? 二学期からは、いよいよ西洋哲学の本流に入るのだ! 一学期は小手調べとして、わしも手加減してやったが……これからはそうはいかんぞ! 偉大なる先人たちが積み重ねてきた人類の英知の、その精髄を教えてやろうと言うのだ! アイドルやタレントの真似事しかできず、自分の頭で考えん愚か者には、とてもついてこれん!」
諸岡は先ほどからアイドルという言葉を繰り返しているが、これは先月から町中を大騒ぎに巻き込んだ、りせを念頭に置いているのだろう。だから一部では、諸岡は実はりせのファンで密かに写真集を買っているという噂もある。ただし飽くまで噂なので、尾ひれも胸びれもついている。真実は商店街の本屋辺りで、件の写真集を買って喜んでいた生徒を、今言ったようなセリフでもって窘めたり脅したりしたのだろう。悠はそう考える。
「では貴様らに、一つありがたい話をくれてやろう……。偉大な先人の一人、パスカルの言葉だ! 心して聞け!」
復習をすると言っておきながら、突然予習が始まった。気紛れなものである。
「死後に発表された箴言集『パンセ』の中に、こういう言葉がある! 『人間は考える葦である』とな! 人間はひとくきの葦のように、儚いもの……人間を殺すのに宇宙全体が武装するには及ばん! 葦なら蒸気や風、人間でもバットやナイフで十分だ! しかし! 敢え無く死ぬ人間も、物言わぬバットより尊い! なぜか? それは人間は考えるからだ! 精神があるからだ! 本質的に無力な人間の、自然や死に対する優位性はそこにある! いや、そこしかない!」
「良いか!? 考えない人間は、ただの葦だ! いや、葦なら屋根や簾の材料に使えもするが、人間はそうもいかん! 考えない人間など植物にも劣る屑だ! 即ち! 腐ったミカンに過ぎんのだ! だから貴様らは考えねばならんのだ! 考えぬ愚か者はアイデンティティを確立できん! 確立できぬ者は、世の中を当てもなく放浪するしかないのだ! その末路は孤独の中での野垂れ死に以外にない!」
予習を始めたと思ったら、また復習へと唐突に戻る。してみると、フランスの哲学者にして近代物理学や数学の祖でもある先人を持ち出したのは、気紛れではなく始めからの計画だったのかもしれない。もっとも生徒にとっては計画通りだろうが気紛れだろうが、ついていくのが大変であることに変わりはない。
「貴様らは何者か、貴様らに何ができるのか……考えろ! 一時ではないぞ! 常にだ! 血反吐を吐いて、考え続けろ!」
諸岡の絶叫は止まらない。血反吐を吐いても止まらない。殺さない限りは、誰にも止められない。