ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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星に願いを(2011/7/5、7/7)

「あのね、そろそろ『たなばた』だから、ささのは、かざったよ」

 

 帰宅した悠は、菜々子のこんな言葉で迎えられた。見れば居間の柱に小さな笹の葉が飾られている。何枚かの色とりどりの短冊が、紐で枝に結わえられている。その一つに小さな字で、『お兄ちゃんができて、うれしいです』と書かれていた。他にも『ひこぼし』と書かれた短冊もあった。

 

「そうだったね」

 

 今日は7月5日。七夕は明後日だ。

 

 とあるペルソナ使いの集団は今から二年前の七夕の日、かなり激しい戦いを演じていた。しかし悠たち特別捜査隊は至って平和なものである。戦いはあったのだが、先月の内に済ませておいたのだ。放置しておくと、被害者にとって極めてよろしくない事態になることが目に見えていたから。もっとも敢えて救助を先延ばしにして、それこそ七夕の辺りまで待つという方針もなくはなかった。しかし結局は速やかに救助することになった。延ばしたいと思っていても、なかなか口には出せなかったから。

 

「お兄ちゃんも、おねがいごとかく?」

 

 ちゃぶ台の前に座っている菜々子は、『兄』を促してきた。菜々子の短冊は願い事と呼ぶには少しばかり違うが、気持ちは伝わってくる。鳴上家に七夕を祝う習慣はなかったので、悠は今まで短冊など書いたことはないが、できたばかりの『妹』に応えるつもりになった。

 

「うん、そうだね」

 

 悠はちゃぶ台に置いてあった未使用の短冊と、ボールペンを手にして畳に座り込んだ。浅黄色の小さな紙片を見つめ、何を書くか考える。

 

(願い事か……)

 

 書く内容はすぐに思い付く。例えば『事件が早く解決しますように』とか、『テストでいい点が取れますように』とか。もし『菜々子とたくさん遊びたい』と書けば、きっと菜々子は喜んでくれるだろう。しかしそれとは別に、星に願いをかけたくなるものはある。それは──

 

(何だかなあ……)

 

 先週に諸岡に話した通り、悠は転校前の自分を後悔している。しかし転校後の自分にも、後悔が全くないわけではないのだ。もしできるのならばやり直したい、ある後悔の種を思い返した。

 

 

 

 

 6月のある日のことだ。悠は千枝と一緒に、商店街で不良グループと対峙した。

 

 悠が千枝と戦車のコミュニティを築いたのは、千枝がトモエと呼ぶペルソナを手に入れた日の翌日、4月18日だった。その後に誘拐された雪子を救助し、更にその後は『特訓』なるものをしたりして、仲を深めていった。クラスでは席が隣同士であることもあって、親しくなるのは早かった。

 

 転機が訪れたのは、千枝の幼馴染である河野剛史という少年との出会いだ。正しく言うと、その少年が不良グループと揉めている現場に遭遇したのだ。もっと正しく言うと、少年が恐喝されているのを千枝が助けに入り、当の少年は逃げた。それがこの日の数日前、6月初め頃の出来事だ。

 

「……俺もやろう」

 

「うん……こいつら、絶対許さない!」

 

 そしてこの日、件の不良たちが今度は小学生と思しき少年を脅している現場に遭遇した。今度こそ殴り合いになるかと言うところで、悠も前に出た。二人並んで三人組の不良と対峙した。人数では不利だが、そうも言っていられない。

 

「そーゆーこと言ってていいわけ? 大事な人、どうなっても知らないよ?」

 

 人数では有利な不良たちのリーダー格と思しき少年は、こんなことを言い出した。大事な人とは雪子のことだ。千枝の幼馴染は天城越えの挑戦者なのだが、不良に脅されて色々喋ってしまったのである。卑怯な行いだが、それを言ってやったところで始まらない。そこへ──

 

「分かった……じゃああたしを殴んなさいよ!」

 

 千枝はリーダー格の少年の前に自ら進み出た。両手を腰に当てて、隙を見せる。

 

「あたしにムカついてるってことでしょ? だったらあたしを殴ればいいじゃん。抵抗しないからさ。存分にどーぞ。顔でもおなかでも、どこでも何発でもいいよ!」

 

 千枝は相手を真っ直ぐ見据える。しかし相手の方は、すぐに目を逸らした。

 

「……キモ」

 

「なんだ……この女、マジ? 白けちった……行こうぜ」

 

『キモい』とは便利な言葉である。理解力が足りないことを隠すのに使えるし、恐れをなしたことを隠すのにも使える。そんな覇気のない捨てゼリフを残して、不良たちは去っていった。千枝に指一本触れないまま、呆気なく引き上げた。

 

「お、おねえちゃ……あ、ありがと……」

 

「……えっ? あ、ああ、いいのいいの!」

 

 子供の涙声に一拍遅れて、千枝は返事をした。そうして子供も去ってから、千枝は肩を落とした。運動神経はともかく体格は女子としても小柄な少女は、よく見れば肩も細い。

 

「はあ……何か、まだドキドキしてる……」

 

(全くだ……)

 

 はっきりした形で安堵する千枝とは対照的に、悠もこっそり息を吐いた。

 

 悠は特別勇敢なわけではない。テレビの中で暴れ回るシャドウは恐れないが、それは『守られている』と感じているからだ。現実の世界で不良相手に立ち回るとなると勝手が違う。何しろ現実ではペルソナは使えないのだから。しかしだからと言って、千枝の幼馴染のように千枝を置いて逃げるわけにもいかなかった。

 

 振り返ってきた千枝の顔を見ると、なおさらそう思う。可愛らしい少女であるから。

 

「あたし……馬鹿だった?」

 

 馬鹿と言うか、無鉄砲と言うか。何事もなく済んだのは、相手が良かったからである。

 

 あの不良たちは完二など本物の腕自慢と比べれば、まず体格からして違う。姿勢や言動、雰囲気を考え合わせれば、満足にケンカをした経験もないことは、その道の玄人が見れば一目瞭然だ。気弱そうな千枝の幼馴染や小学生をわざわざ狙う辺りにも、それが表れている。雪子がどうと言うのもただの脅しだ。実際にできはしない。つまりあの不良たちは、口だけの連中であったので無事に済んだ。

 

 悠は現実ではケンカの経験などない。千枝も拳法は自己流に近く、『特訓』や『修行』も型で汗を流す程度で、対人戦は練習さえほとんどしていない。それでも本気でやれば、見かけ倒しの不良に負けはしなかっただろう。しかし無傷で済んだとは限らない。顔に痣の一つや二つは作ってしまったかもしれない。

 

「結果オーライだ。あの子も守れたしな」

 

 千枝の顔に痣を作らずに済んだのだから、結果は上々だ。ついでに言うと、悠も自分の顔に痣を作って堂島に叱られる羽目に陥らずに済んだ。

 

「ありがと……。馬鹿だったかもしんないけど、助けたかったんだ」

 

 誰かを助けたい。誰かを守りたい。千枝にすれば、自分自身の存在意義のようなものである。それを極端な形にデフォルメしたのが千枝の影だったわけだが、本物の千枝も根は同じである。それはつまり、シャドウと本体は不可分であることの証明と言えよう。言い方を変えると──

 

「あ、の……あたしね、鳴上君のことも、守りたいなって思う……」

 

(え……?)

 

 悠は小さくない驚きと共に、千枝の茶色の瞳と視線を合わせた。不良の壁を乗り越えた千枝は、更なる壁を乗り越えようとしてきた。

 

「あたしじゃ頼りないかもしんないし、守ってもらう必要なんかないかもだけど……あたし……」

 

「!……」

 

 瞬間、千枝の目が光った。この日、雨は降っておらず、もちろん霧も出ていなかった。それにも関わらず、光ったように悠には見えた。金の瞳の獰猛な肉食獣のように、爛々と光っている。テレビの霧に映し出された鏡像のように光る。その光源はこう呼ばれる。期待だ。

 

 千枝の目は口以上にものを言っている。悠を守りたいと、女が男に言うにはあまり相応しくない言葉の裏で、千枝は悠に期待している。男が女に言うのに相応しい言葉を求めている。例えば『俺が君を守る』とか、或いはもっと直接的に『付き合ってくれ』とか──

 

「これからもよろしく」

 

 しかし金の光を浴びた悠の口から出てきたのは、こんな言葉だった。期待されていることを理解した上で、期待に応えない言葉が出てきてしまった。ナイフや長巻で背中を刺された男が、体を仰け反らせるように。己の意志でそうするのではなく、反射でするように。

 

「う……うん! よろしく。頼りにしていいからね!」

 

 千枝は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ拍子抜けしたような顔を見せた。しかしすぐに普段の拍子に戻った。確かに存在した無念は、瞬時に快活な仮面の裏に隠れた。

 

 この後、悠と千枝は商店街で人気の中華料理屋、愛家で食事をした。千枝が頼んだのは肉丼の大盛りである。顔に十字の傷があるどこかの少年が見たらそれこそ肉食獣と評したであろう、見事なまでの食いっぷりだった。千枝は元より健啖家だが、いつにも増して勢いが良かった。その理由は言うまでもない。やけ食いだ。

 

 その隣に座る少年は、野菜が多く入った焼きそばを控え目に食べた。

 

(仕方がないんだ。だって最近、天城が困ってるし……)

 

 思い起こせば、雪子の救出作戦を共に遂行するという連帯感が、千枝との絆が発生したきっかけだった。そして転機も雪子が関係していた。例の幼馴染は天城越えの挑戦者であったとか、先ほどの不良たちもその名を口にしていたとか。ならば千枝との絆において、雪子をないがしろにはできない。雪子を置いて、千枝と幸せになるわけにはいかない──

 

 

 食事をしながら心の中で言い訳を並べた、その数日後のこと。悠は言い訳にした当のその人と、放課後の時間を過ごした。場所は愛家のすぐ近く、商店街の北側にある辰姫神社だ。お参りをしたいと言う雪子に連れられて、やって来た。

 

 雪子と女教皇のコミュニティを築いたのは、マヨナカテレビに完二の粗い絵姿が映った次の日、5月17日だ。完二の動向を探る為に特捜隊は二手に分かれ、悠は雪子と組になったのだ。完二の実家の巽屋を一緒に見張ったのは、ここの神社の鳥居の陰からだった。そして完二の救助を達成後、二人は何度も放課後や休日の時間を共に過ごした。

 

 そして数日前、千枝と食事をした日の翌日、雪子は奇しくもここの神社でたちの悪いマスコミを追い払った。『現役女子高生女将』なる刺激的なフレーズが受けたのか、バラエティのような番組を撮りたいと、テレビ局から取材の申し入れがあったのだ。彼らは余程暇なのか、田舎町に何度もしつこく足を運んできた。その度に言動がエスカレートしていき、とうとう雪子がキレたのだ。

 

 この神社で最初のきっかけを得て、転機も得た。ここは言わば、思い出の場所である。

 

「鳴上君も何かお参りする?」

 

「……君のことを」

 

 大胆なセリフである。だが本当だ。嘘ではない。

 

「わ、私のこと……?」

 

 雪子の頬に朱が差した。雪子は意外に素っ頓狂な言動が多いが、やはり大変な美少女である。恥じらいを含むと、より一層際立つ。コノハナサクヤと呼ばれる雪子のペルソナは、咲き誇る桜を連想させる姿をしているが、本人も桜の色が良く似合う。

 

「ありがと……」

 

 頬の色を元に戻してから、雪子は自分のことを語り出した。

 

「私はね、みんながずっと元気でいられますようにって。千枝も、鳴上君も、みんなも。それから旅館の人も」

 

「そうか」

 

 至極真っ当なお参りの内容だが、ここで重要なのは最後の旅館の人についてだ。悠も良いことだと感じる。しかし──

 

「それから……貴方に相応しい私になれますように、って……」

 

「……」

 

 殊勝なセリフに、大胆なセリフが付け加えられた。まるで先ほどの悠に倣うように。応じる言葉が咄嗟に出てこない。

 

「じゃ、心を込めてお参りしよう?」

 

 雪子は賽銭箱の前で手を合わせ、悠もそれに倣った。柏手が小さな神社に響き渡り、数秒の沈黙が二人の間を別ち、そしてまた元に戻る。

 

「私ね、ここを出て行くの……やめようと思うの」

 

 お参りを済ませた後、雪子は自分の思いを告白した。実家の旅館への思いを切々と、だが吹っ切れたように語る。色々ありつつも、やはり旅館は大切な場所なのだと。だから守りたいと。出て行きたいと思ったこともあったが、この町に残ることにすると。静かな口調でそう語る雪子は大人びて見えた。逃亡を求めていた夢見る少女が、社会を少しは知ったように。しかし──

 

「あ、あのね、前から聞きたかったこと……」

 

 雪子の告白は、実家についてだけでは終わらなかった。むしろここからが本題だった。落ち着いて大人びた雰囲気は一瞬にして消え去り、夢見る少女が戻ってきた。

 

「どうして……いつも、一緒にいてくれるの?」

 

「!……」

 

 千枝に続いて雪子の目も光った。言うまでもなく、ここはテレビの中ではなく現実だ。現実の霧さえ出ていないのに、なぜか光る。光っているように、悠には見える。つい先日、遠慮のないマスコミにキレたように。テレビの霧に映し出されたピンクのイブニングドレスを着た鏡像が、役立たずの親友を詰ってキレたように。

 

 もちろん今の雪子は怒っているわけではない。だが普段は隠している、ある本性を見せたという意味では同じことだ。金の瞳の猛禽類のように、爛々と光っている。光源は肉食獣のそれを光らせたものと、もちろん同じもの。つまり期待だ。

 

 どうして一緒にいてくれるのか。それは言葉にしなくても分かろうというものだ。『私、貴方のこと』などと同様に、映画なりドラマなりの無数の物語で何百回も繰り返されてきたのだから。

 

「き、聞いても……いいかな……」

 

 しかし金色に光る雪子は言葉を求めている。即ち『契約』を求めている。ただし男の手を掴んでペンを握らせ、無理矢理にでも書類にサインさせようとはしない。男の方から、自分の意志で署名するよう促している。姫君は自分専用のホストクラブに、王子が自ら入ることを求めている。そして一度入ったら最後、もう後戻りはできなくなる。古い旅館にはきっとある、錠前つきの蔵か何かに閉じ込められる。或いは古い城には付き物の、石造りの尖塔に閉じ込められる──

 

「大事な仲間だからさ」

 

 千枝の時に続いて、またしてもこんな言葉が悠の口から出てきた。まるで燃え盛る炎に近づけた手が、勢いをつけて懐に引っ込むように。己の意志でそうするのではなく、反射でするように。

 

「そっか……そ、そうだよね! うん!」

 

 悠は引き返せる場所で立ち止まって、そのまま後戻りした。すると雪子も後戻りした。僅かな一瞬の間だけ、驚きと言うか拍子抜けと言うか、とにかく瞬きほどの自失の後に、自分に言い聞かせた。

 

「えっと……そうだ、用事があるんだった! 行くね……」

 

 そして雪子は神社から去った。翼が生えたような速さでもって、男の前から走っていった。4月のテレビの中で、鏡に映った雪子の像は鳥の姿に化けていたが、まさに猛禽のような速さで飛び去った。翼を持たない悠は追いかける術も持たない。大急ぎで去りゆく赤い背中を、ただ見送ることしかできなかった。

 

(俺……また失敗した?)

 

 お参りで雪子のことをお願いしたというのは、本当である。つい先日に千枝に関して『失敗』してしまっていたから。今度は上手くいきますようにとか、そんな気持ちを確かに抱いていた。だがそれを口にしたのは良くなかった。自分から期待を持たせておきながら、肩透かしを食らわせたような形になったのだから。

 

 しかし悠は頭を振った。雪子の姿が見えなくなってから、自分の胸の辺りを手で探り、考え直した。

 

(いや、仕方がないんだ。この場所では、ああとしか言いようがない……)

 

 悠にすれば辰姫神社は雪子との思い出の場所なのだが、実は思い出はもう一つあるのだ。ここは5月20日、マリーから便箋を貰った場所だ。センスが過剰な詩を綴ったものではなく、意味の分からない漢字の羅列を記した便箋を、ここで貰った。そして互いが何者なのか互いに探そうと、ここで約束したのだ。つまりここは、マリーと『契約』した場所なのである。その場所で『雪子が好き』だとか、それに類することを言うわけにはいかない。

 

 なお、マリーに貰った便箋は制服の上着のポケットに入れてある。今は夏服を着ているので、胸に当てた手はそれに触れない。しかし触れなくても、何かがそこにあるような気がしていた。後悔とか。

 

「……」

 

 天城越えを今まさに達成するところだったのに、険難踏破の栄誉は寸前で手から零れ落ちた。便箋で足を滑らせて、最後の一歩を踏み外してしまったのだ。これでどうして後悔せずにいられようか。

 

 

 

 

(里中は時期が悪かった……。天城は場所が悪かった……)

 

 人間関係はきっかけである。タイミングやシチュエーションが悪ければ、思い通りにはいかないものだ。堂島宅のちゃぶ台で短冊にペンを当てながら、悠は瞑目して心静かに過去を省みた。そうして考えれば考えるほど、思考が煮詰まっていくのを感じた。後悔はやがて大人しくなり、あれはやむを得なかったのだとの結論に至る。他の選択肢はなかったのだと。むしろ自分は正しかったとの認識を、考えるほどに強固にするのだった。

 

 愚痴のような迷いが収まったところで、目を開けた。

 

(あれ?)

 

 回想から戻ると、短冊には既に文字が書きこまれているのに気付いた。どうやら知らない間に、ペンが勝手に動いていたようである。小さな短冊に余白は少ないので、願い事を書き直したり書き足したりするのはできそうもない。

 

(まあ、いいか。菜々子には読めないだろう)

 

 これはお焚き上げのようなものだ。後悔を忘れる為に、忘れたのだと思う為に書く。知り合いの詩人よろしく自動筆記で書いてしまった短冊を、そのまま笹にくくりつけた。

 

「お兄ちゃん、なんてかいたの?」

 

「内緒」

 

 世の中には知る必要のないこともある。真実を何もかも明らかにすることが、正しいとは限らないのだ。特に小学一年生の女児には、教えたくない事柄は色々ある。だから悠は菜々子の質問に答えなかった。答えずにいること自体を申し訳ないと思うこともなく、ただ願い事を笹の葉の中に隠した。

 

「ただいま」

 

「あ、かえってきた!」

 

 ちょうどそのタイミングで堂島が帰宅した。菜々子は小さな手足を一生懸命動かして、居間から玄関へと駆けていく。微笑ましい姿である。

 

「あのね、ささのは、かざったんだよ!」

 

「笹の葉? ああ、そういや七夕か」

 

 娘に連れてこられた父親は、居間の柱に飾られた笹を見る。鮮やかな緑の葉の群れに、無骨な手を優しげに差し入れる。そして短冊の一つを手に取った。取った途端、笑顔が消えた。

 

「ん? 彼女が欲しい……?」

 

(し、しまった!)

 

 悠の顔から血の気が引いた。菜々子には読めないだろうと、高を括ってそのまま笹にかけたのは失敗だった。それも頭に大がつく。堂島に読まれる可能性を、まるで考えていなかった。しかも菜々子のいる前で声に出して読まれるとは、完全に想定外である。と言うより、当然想定すべき問題であるのに、気付かずにやってしまった。問題が顕在化してから、それと気付いた。

 

「お前な……」

 

 書くにしても『おりひめ』とでも書けばよかった。刑事の目を欺く暗号になったはずだった。それなのにストレートな形で書いてしまった。

 

「いや、いいんだ。若いんだから、当たり前だ」

 

 恋人を欲しいと思うのは、若い男ならば当たり前のことだ。色々と格好をつけて女などいらないと嘯く男もいるが、大抵の男にとっては極めて当然の、普遍的な願望だ。だからそれを持つこと自体は何も悪くない。この場合に良くないのは──

 

「かのじょって、なに?」

 

 菜々子の教育上の問題だ。小学一年生の女児には、あまり聞かせたくない話題である。しかし面と向かって聞かれた以上は、何か答えなければならない。可愛い従妹を無視するほどの冷酷さを、悠は持ち合わせていない。

 

「な……仲のいい女の子のことさ」

 

 咄嗟の答えは辞書的な意味だった。食べ物のことだとか、適当なごまかしは出てこなかった。すると菜々子は眉根を寄せて口を尖らせてきた。5月4日にジュネスに連れていった時以来の、久々に見る菜々子の不機嫌な表情だ。

 

「菜々子がいるじゃん」

 

「家族以外でだよ」

 

 これは失言だった。間違ってはいないが、失言だった。潮が引くように菜々子の顔から怒りが去り、代わって憂いが現れた。年に不相応なくらいの。まるで子供の目に触れないようにと隠しておいた知識を、実は父兄の知らないところで、こっそり得てしまっているかのように。正しい知識に裏付けられた、本物の憂いのようなものが現れた。

 

「じゃあ菜々子は、お兄ちゃんのかのじょには、なれないの?」

 

 返答に困る質問である。まるで『彼女』という言葉の意味を尋ねながら、実は初めから知っているかのような言い方が、特に困る。そして隣にいる堂島が余計に悠を困らせる。目を合わせなくても、肌で感じられるくらいに痛い視線を送られている。

 

「……」

 

 堂島は『泣かせたら許さん』とプレッシャーをかけているのか、『お前にはやらん』と怒っているのか。はたまた単に『この馬鹿が』と呆れているのか、判別がつかないのがより困る。しかしいつまでも黙っているわけにはいかない。

 

「菜々子がもう少し大人になったら、その時にね」

 

 その時に、何であるのか──

 

「……」

 

 沈黙が降りた。重量感のある何かが頭上から降ってきて、ついでに冷たい何かが足元から締め付けるような沈黙だ。猛烈に痛々しい静寂の中で、『妹』は十歳年上の『兄』を黙って見上げている。もう少し大人になったら何であるのか、はっきり言えと菜々子は言っている。言葉にしなくても目で語っている。テレビに入ったことのない菜々子の目は、金色に光りはしない。しないのだが、悠は答えられない。

 

 悠はつい最近、千枝と雪子を相手に失敗したばかりである。しかしだからといって、菜々子に食指を動かすわけにはいかない。今の時点では早すぎるのは言うまでもないし、ここで将来を約束するほどの甲斐性もない。完全に追い詰められた──

 

「それよりピアノ弾こう。七夕の曲があるよ」

 

 窮した少年は現実から逃避した。

 

「ほんと?」

 

「うん、行こう」

 

 そうして年の離れた従兄妹は、揃って居間から仏間へと向かった。父親にして叔父は居間に一人残された。そして大きなため息を吐いた。

 

(あからさまに話を逸らしやがったな。つか、今のは菜々子が許してやったってとこか……)

 

 今のやり取りを見て、堂島は思う。悠が上手く逃れたのでは、断じてない。思いがけず悠を追い詰めてしまった菜々子が、追及の手を緩めたのだ。高校生が十歳年下の小学生に手加減される様には、呆れる他にない。

 

(子供ってのは、難しいな……)

 

 幼い娘は無邪気なだけかと思いきや、男を追い詰めたりもする。対して甥は年の割にしっかりしていると思いきや、変に抜けたところがある。

 

 人は一つの性格だけで生きているものではないと、先月末に諸岡は悠に教えたが、今日はそれが実証された。同じ人間でも相手によって違う顔を見せることはよくある。そして同じ二人の人間の間でも、日によって違う顔を見せ合うこともある。

 

「ささーのはー、さーらさらー」

 

 やがて仏間からピアノの旋律と、菜々子の歌声が聞こえてきた。音楽に疎い堂島も知っている、日本の有名な童謡だ。しかしピアノに辛い思いを抱いている堂島は、己の耳に入れまいとキッチンから仏間に通じるドアを閉めた。

 

 ちなみに七夕伝説は、働き者同士の二人の若者が結ばれた途端に遊んでばかりになった為に引き離され、年に一度だけ逢瀬を許されるというストーリーだ。要は恋物語である。

 

 

 

 

「里中さんだよ! 何だよ! アホ!」

 

 七夕の当日、つまりは古い物語にある恋の日。二年前は港区のとあるアミューズメントホテルで、壮絶な騒動があった日。悠も予期せぬ恋の騒動に巻き込まれていた。ただし自分のではなく、友人同士の恋だ。当事者は剛毅の一条と月のあいだ。

 

 事の発端は昨日だ。悠は放課後の時間に一条とそのクラスメイトたちと下駄箱前で遭遇したのだが、そこであいについての噂話が持ち上がったのだ。『パパ』がいるとか、4月から入院していたというのも嘘で実は『パパ』と云々、といった具合だ。話が暴走したところで、さすがに不快になった悠と一条が止めたのだ。

 

 そして今日の放課後、悠はあいに呼び出され、一条とあいの間を何度も往復させられる羽目になった。要するに昨日の噂事件をあいも見ていて、あいは一条に恋したのだった。

 

 なお、あいから相談を持ちかけられた際に、あいは『好きになっちゃったみたい』とか言い出した為に悠の心臓が跳ねて、次の瞬間に肩透かしを食らったことは余談である。

 

 その後、悠は一条の好きなタイプなどを聞いては、あいに伝えた。そしてまた他の事柄を聞きに行く。そうやって何度も校舎を走らされて疲れを覚えた悠は、とうとうストレートに『好きな子は誰だ』と尋ねたのだ。トイレに向かう一条を引き留めて。最初は回りくどく側面から攻めて、とどめの一撃は真っ直ぐ打った。そうして引き出した答えは『里中さん』だった。悠にとっては意外にも、一条は千枝が好きだったのだ。

 

「お前、席隣とか言って羨ましいんだよ! チクショー!」

 

 捨てゼリフを残して、一条はトイレに駆け込んでいった。そして次の瞬間、悠は一階から屋上まで全力でダッシュする羽目になった。

 

 

(うわっ……!)

 

「里中って、アレでしょ? あのダッサイ子でしょ!? あたし、あんなのに負けたの? あたしの方が、ずっとずっと可愛いのに!」

 

 屋上に辿り着いた悠は一瞬肝を潰した。何とあいは屋上のフェンスを乗り越えていた。恋は盲目と言うか、何と言うか。一条の答えを密かに盗み聞きしていたあいは、色々なものが暴走してしまっていた。

 

「みんな……可愛い子が好きなんでしょ? あたし、可愛くなったよ!?」

 

 あいは感情の振り幅が大きい。それは付き合いのまだ浅い悠にも分かっている。しかしいくらなんでも身投げはやりすぎだ。とにかく宥めなければならない。少ない語彙の中から、何か良い言葉を探して止めなければならない。演劇部で学んだ仰々しいセリフでも、自分の耳で聞いたリアリティのあるセリフでも、とにかく何でもいい。

 

「大丈夫、可愛いよ」

 

 慌てた悠の口から、こんな言葉が出てきた。これは5月4日に長瀬が菜々子に言っていた、暴言か気遣いか何だか分からないが、とにかく剛毅な言葉のバリエーションだ。悠は長瀬ほど大胆ではないが、眼前の緊急事態が口を回らせた。

 

「当ったり前よ! 頑張って、可愛くなったんだもん!」

 

 あいはフェンスの向こうで振り返ってきた。狭い足場で器用に体を回転させ、細い指で金網を掴む。

 

「でも愛されなかったら……意味ないじゃん!」

 

 あいは金網に噛みつかんばかりだ。思わず後ずさりしてしまいたくなる剣幕である。しかし二人がいるのは、テレビの中ではなく現実だ。現実のあいの目は、どれだけ興奮しても金色に光ったりしない。テレビに放り込まれたことはなく、霧の鏡に我が身を映したこともない少女は、少年にシャドウの幻を見せたりしない。

 

「……詳しく聞かせてくれないか」

 

「ん……」

 

 光るはずのない目は、やはり光らない。動揺しつつも致命傷は受けなかった悠は、後戻りをしなかった。千枝や雪子の時と違って、『そっとしておく』選択肢は選ばなかった。

 

 

「あたしね……昔、デブでドン臭くて……家も貧乏でね、イジメられてたの」

 

 フェンスの向こう側から戻ってきたあいは、己の過去を告白した。好きな男子に『こっち見るな、菌がうつる』と言われたこともあった、暗い日々を悠に語った。しかし中学に上がると同時に転機が訪れた。父親が土地の投資で大当たりして、家が急に裕福になったのだった。すると今度は周囲に妬まれるようになり、ここへ引っ越してきたとのことだった。

 

「あたし、チャンスだと思った……。見返す時だと思ったの……」

 

「そうだったのか……」

 

 この気持ちは悠にも分かる。身に沁みて、よく分かる。青春をそっとしておき続けた少年は、八十稲羽でチャンスを掴んだ。知らない土地を訪れた異邦人は、常とは異なる大胆な行動に出ることもあるのだ。

 

「そう……だから頑張ったの。ダイエットして、ファッション誌もあるだけ読んで……モテるコツとか笑顔とか、全部雑誌で勉強した」

 

 そうしてあいは、過去を脱ぎ捨てて大胆になった。つまり今のあいの魅力は、生まれ持ったものではない。自分を変える努力の成果だったというわけだ。

 

「でも……駄目だった。可愛くなっても……なったと思っても、結局愛されない……。バイクに乗せてもらっただけで、もうおしまい……。あんなダサい子にも負けちゃった」

 

 ただし実地ではなく、机上の努力である。初めて実地に臨んだ結果は失敗だった。

 

「焦ることはないさ」

 

 自嘲するように笑うあいを、悠は共感を込めて慰めた。何のかの言っても、あいは十分魅力的である。悪い噂も多いが、校内での人気ぶりを見れば分かる。

 

「一条は君の魅力が分からなかっただけさ」

 

 ただ千枝に勝るかどうかは、個人の好み次第だ。あいの方が上だと誰もが認めるほどの明白な差は、二人の間にはない。一条が千枝を好きなのは、単に一条の好みの問題であろう。もしくは悠が知らない一年生の頃にでも、一条と千枝の間に何かがあったか。いずれにせよ、あいの失恋は『縁がなかった』と言うべきもので、勝った負けたの問題ではない。客観的に考えればそういう結論に至る。

 

 そして主観的に考えると──

 

(一条は里中のあれを見てないからな……)

 

 4月17日、千枝のシャドウが出現した時のことを思い出す。あのエグさはちょっとしたトラウマだ。百年の恋でも冷めると言うか、何と言うか。淡い憧れなど一発で粉砕する破壊力だ。あれが千枝の全てではないことを、悠はもちろん分かっている。頭では。だが頭と感情は別のものだ。特に惚れた腫れたの問題は、頭ではなく心の問題だ。繊細で壊れやすくて、ちょっとしたことで飛躍したり裏返ったりする代物だ。

 

 そんなことを思っていると──

 

「あんたは優しいね……」

 

 あいの言葉で我に返った。

 

(……って、いや、そうじゃない。俺は優しいわけじゃないんだ)

 

 悠は鈍感でも朴念仁でもない。だから千枝は自分に好意を寄せていたことは分かっていた。しかしいざと言う時、悠は怖気づいてしまった。千枝のシャドウの瞳を、あの霧の中で爛々と光る金の瞳を、普段の千枝の茶色の瞳の中に幻視してしまったのだ。だから思わず流してしまった。

 

 もちろん雪子の時も同じだった。普段の雪子の黒い瞳に、シャドウの金の瞳が重なって見えたのだ。本当に光っていたはずはないのに、そう見えてしまった。期待で輝いた目は眩しすぎて、鏡像と実像が一緒くたになってしまった。

 

(何やってんだろうな、俺……。せっかくチャンス貰ったのに、結局駄目だったんだ)

 

 冷静になって振り返ると、惜しいことをしたと思わざるを得ない。時期が悪かったとか場所が悪かったとか、そんなものは下らない言い訳に過ぎない。二人の好意を受け入れられなかったのは、決して『仕方がない』ことではなかったのだと、悠も本当は分かっている。だから惜しいと思う。後悔は古い酒の瓶底に溜まった澱のように、少年の心に沈殿していた。

 

 せめて向こうから好きと言ってきたら、トラウマくらい無視できたかもしれなかった。しかしあの二人は、悠に好きと言わせようとしていた。自分から告白することと金の瞳の二段ハードルは、ちょっとやそっとの男らしさでは乗り越えられない。

 

 そうやってぶり返した後悔に浸っていると──

 

「あんたみたいなのを、好きになってれば良かった……」

 

(え……!?)

 

 思わず『ドキッ』とした。心臓が跳ねたその音が、眼前の美少女にも聞かれたのではないかと、心配になるくらい大きな音がした。あいは家が裕福になって、引っ越しをした時に自分を変えるチャンスを得た。しかし失敗した。悠もチャンスを得ていながら、結局は失敗した。だがここで再度のチャンスが与えられた。お互いに。

 

「……」

 

 しかし悠は黙った。あいと知り合ったのは先月の15日で、その翌日には買い物に付き合ったりしたが、それくらいだ。男女の付き合いをするには、まだ早い。どう考えても早い。悠はどちらかと言えば気が早い方だが、それでも早いと感じる。しかし──

 

「ねえ……あたしたち、付き合おうか?」

 

 そっとしておこうとする男に、女の方から近づいてきた。その顔を真っ直ぐ見ると──

 

「ああ、いいよ」

 

 こんな言葉が口から出てきた。これこそまさに『仕方がない』という奴である。可愛いと言うか美人と言うか、とにかく綺麗なあいの顔を見ては、それだけを見てしまっては他の言葉は出てこない。過去がどうあれ過去の姿は目に見えない。心の裏側も目に見えない。テレビに放り込まれでもしない限り、隠された心の内は見えないのだ。現実の世界では内面が金の光を放って、目から漏れ出るようなことはない。

 

 悠は目に見えないものを見通せるほどの、透徹した観察力を持ち合わせていない。だが目には見えなくとも、耳には何かが届いた。

 

『きらいばかさいてー』

 

 幻聴だ。

 

『女たらし! 遊び人! 間男!』

 

 幻聴と言ったら幻聴だ。良心の声とは幻聴のことだ。と言うか、間男って何だ。一条と付き合っているあいを寝取るわけではないのだから、間男呼ばわりは的外れだ。意味が分からない。

 

『当て馬! 便利屋! 落ち武者!』

 

 ますます意味が分からなくなってきた。なぜここで落ち武者が出てくるのか、全くもって意味不明である。

 

『恋愛だ異性交遊だと浮ついてるんじゃないぞ!』

 

 幻聴が他の人の声に変わったところで、悠は耳を塞いだ。もちろん両手で頭の側面を覆いはしない。ただ心の中でだけ耳を塞いだ。

 

(と言うか、あれだよな。お星さまが願いを叶えてくれたんだ。うん、そうに違いない)

 

 幸運をお星さまのおかげにして、少年は考えるのをやめた。知り合って日の浅いあいが、唐突に交際を申し込んできた、その不自然さの意味を考えることもなかった。千枝や雪子は自分をどうして好きになったのか、自分自身の魅力とか才能とか、そうした目に見えるものの裏で何が動いて自分を人気者に『してくれている』のか、考えることをしなかった。

 

 昔の哲学者風に言うと、考える葦であることをやめた。諸岡風に言うと、腐ったミカンになった。




 駄目番長。
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