しとしと。ぱらぱら。ざあざあ。
雨音を表す日本語にはいくつか種類がある。例えば昨晩は『ざあざあ』だったし、今は『しとしと』だ。実際にそういう音に聞こえるかどうかは国や地方によっても異なるだろうが、悠にはそう聞こえていた。空気の中を舞い散る細かな雨が、視界を霞ませながら傘を優しく叩いている。
その音だけを聞きながら悠は歩いていた。他の音を耳にしたのは、家を出て数分歩いてからだ。
「あと、この道、まっすぐだから」
高校生の隣を小さな歩幅で歩く小学生が、川沿いの一本道を指差しながらこう言った。霧雨が傘に当たる微かな音さえ、耳は拾ってしまえるくらいにかな初登校だった。そのようにして、十歳差の従兄妹たちの同居二日目の朝は場面が転換した。
「わたし、こっち。じゃあね」
「ああ、気を付けて」
自分を『わたし』と呼ぶ従妹を見送ってから、悠は河川敷を歩いた。二級河川鮫川と書かれた看板を横目に、悠は少しばかり悩んだ。
(いくらなんでも、これじゃまずいな……)
雨が煙って霧の漂う空気に、悠の小さなため息が混じった。悠と菜々子の間には、昨日から気まずい感じはあったが今朝もそのままだった。事の発端は昨晩の夕食だ。同居を始める甥の歓迎会を始めようとした途端、父親に呼び出しの電話が入ったのだった。娘による言葉の少ない説明によれば、父親は地元の警察署に勤める刑事であり、突然の呼び出しも一晩中帰ってこないのも、決して珍しくはないらしかった。これは何を意味しているのか?
それは三人でも広いくらいの古い家で、小学一年生の女児が一人で夜を明かすという安全と教育の両面において望ましくない事態が、月に数回かそれ以上の頻度で発生するということだ。家に母親がいればまだ良いのだが、菜々子の母、悠にとっては叔母に当たる人は数年前に亡くなっている。それは悠も自分の母から聞いている。
ここまでの事情を鑑みれば、悠が堂島家に預けられたのは悠の為ではなく、菜々子の為ではないのか。少々気の回る人間であれば、誰でもそこに思い至るだろう。それが実際に鳴上家の真意かどうかはともかく、そうすべきであると考えることはできる。しかし悠は昨晩と今朝、己に課せられた『義務』を遂行することはできなかった。
家を出て河川敷に至るまで、悠と菜々子の間に会話はまるでなかった。特別社交的なわけではなく、兄弟もいない少年は、十歳差の従妹をどう扱えば良いのか全く分からなかったのだ。押せば良いのか、引けば良いのか。分からないまま同居二日目の重大イベント、朝のお出かけ時間は終わってしまった。
今日は初登校なので道案内を兼ねて二人で一緒に登校したのだが、道順は一度で覚えられる。だから明日からは案内してもらう必要はない。従って気まずい登校はもうないと予想できた。しかし問題はそこにあるのではない。これから一年間、菜々子とは毎日顔を合わせるのだ。内気そうな従妹と何とか上手くやっていかねばならないと、悠は一つの決心をした。目下のところ、その糸口は──
(エヴリデイ、ヤングライフ! ジュ・ネ・ス! ……かな)
昨晩の夕食中の出来事だ。堂島がいなくなって菜々子と二人だけで残されてしまい、早速の気まずさが襲ってきた。それを幼い少女も感じたのか、それとも食事中はいつもそうしているのか、菜々子はテレビを点けた。最初は退屈なニュースだったが、ジュネスのコマーシャルが流れた途端、菜々子は突然テーマソングを歌い出したのだ。しかも振り付きで。その時は従妹の予想外の行動に面食らっただけだったが、今にして思うとあれは何かのヒントであったような気がするのだ。
(一緒に買い物にでも行くか)
そんなことを考えたちょうどその頃、横合いを自転車が通り抜けた。そして霧雨の慎ましい音など軽くかき消す、大きくて痛そうな音がした。
「う、おごごご……」
既に河川敷は通り抜け、悠は学校前にある交差点に差し掛かっている。そこの電柱の下で、髪を茶色に染めてヘッドホンを首にかけた少年がうずくまっていた。強打すると死ぬことさえある急所を押さえながら、苦悶の呻きを上げている。少年の傍らには、車輪が虚しく宙を切る黄色のマウンテンバイクと、広げられたビニール傘が転がっている。
「……」
何があったのかは想像に難くない。堂島に呼び出しの電話をするまでもない。霧雨を浴びる証拠品の数々が、事件の詳細を悠に伝えている。犯罪捜査の素人であっても、発生した原因から被害の状況に至るまで、一見して理解できる明白さだった。理解しながら、悠はそのまま交差点を渡った。
犯人の逮捕と事件の真相究明は警察の仕事で、法律に照らして犯人を裁くのは裁判所の仕事だ。そして犯人や被害者と接点のない、世間に無数にいる他人には、事件に関する仕事は何もない。田舎町を『何もないがある』と評するように、他人は『何もしないをする』のが役割だ──
哀れな少年の姿を目にしてから、再び歩き出すまで数秒しかなかった。たったそれだけの僅かな時間に、悠は役割云々を考えたわけではない。ただこれまでの人生では、面倒事は避けて通ることが多かった。そうした身に染み付いた思考と行動の習慣に、今朝も従ったに過ぎない。同居する従妹と違って、見ず知らずの人間をそっとしておくことに、悠は躊躇う理由を見出さなかった。
交差点を越えれば坂道がある。それを上りきった先では、二本の桜が咲き競っている。その間を通り抜けた先に、木造三階建ての鄙びた校舎がある。学校の名は八十神高校だ。メニー・ゴッド・ハイスクール。魔術に詳しいどこかの養護教諭であれば、由来や典拠を徹底的に調べ上げて、そのエッセンスを生徒に披露しそうな名前である。
学校という場所は、トランプやタロットのカードになぞらえられるかもしれない。同年齢の少年少女ばかり数十人、多ければ数百人も集めて一つの学年とする。それをいくつかのグループに分けて、一つの部屋に入れさせる。それをクラスと呼んで、一年間その部屋で生活させる。一年が過ぎると、また学年の中でクラスをシャッフルする。同じカードを操っているはずが、まみえる結果はその都度変わるように、同じ人間を混ぜ合わせているはずが、出会いの組み合わせはその都度変わる。占い師ならばそんな風に表現するかもしれない。
「静かにしろ!」
しかし占い師でない普通の高校生には、見知った顔を組み合わせただけでは人生の神秘を感じるのは難しいだろう。
「今日から貴様らの担任になる、諸岡だ!」
ましてクラスをまとめる大人、即ち担任の怒声が響く中にあっては。
「いいか、春だからって恋愛だ、異性交遊だと浮ついてんじゃないぞ。わしの目の黒いうちは、貴様らには特に、清く正しい学生生活を送ってもらうからな!」
八十神高校の二年二組の一年間は、このようにして始まった。だがこれだけでは終わらなかった。今年は少々変わった出し物があったのだ。
「ああ、それから不本意ながら転校生を紹介する」
転校生。それは少しばかり浮ついた雰囲気を醸し出す言葉だ。親の転勤、親の離婚、本人の素行の問題など、それが生まれる原因は様々だが、いずれにせよ転校生という人間は注目の的になる。何しろ『異分子』であるから。トランプで言うならばジョーカーだ。見知った顔をシャッフルしただけでは面白味を見出さない若者たちも、転校生と来れば、何をしてくれるのかと期待もする。まして季節は春。寒い冬を乗り越えて、人も植物も浮つく時期だ。
厳格な教師であれば、静かなクラスを掻き回す異分子の加入を不本意に感じることもあろう。ただし心の中で思うだけならまだしも、口に出してしまっては、それは言いすぎというものである。
「爛れた都会から、辺鄙な地方都市に飛ばされてきた哀れな奴。いわば落ち武者だ」
ましてここまで来れば、言いすぎを通り越して暴言だ。一昔前ならばともかく、ハラスメントという言葉が流行する現代では、扱いによっては教師の首くらい飛んでしまいかねないのに。
「では、簡単に自己紹介しなさい」
普通なら腹を立てるところだろう。繊細な男であれば傷つくだろう。そして大胆な男であれば、この場で教師に口答えの一つもするかもしれない。だが悠はほんの僅かに唇の端を持ち上げた。
(そういう言い方もあるか)
教師の呼ばわりが気に入ったわけではない。悠は非難や揶揄を喜ぶような、一風変わった趣味は持っていない。だが昨日の電車で似たようなことを言われたから、正確には似た言葉を夢で聞いたような気がするから、暴言によって傷つくところは少なかった。皮肉な笑みを密かに作れる程度には、内心穏やかでいられた。
落ち武者──
戦いに敗れ、本来いるべき場所から追われた者のことだ。追放された者は、当てもなくさまよう放浪者となる。悠はこれまでの人生で、誰かと戦ったつもりも敗れたつもりもないが、何も望まず、何も期待せずに八十稲羽に来たことは確かだ。即ち放浪者としてここに来た。そのつもりでいる悠にとって、自分を表す言葉の新たなバリエーションを教えてもらったような気になった。
それが実は、単に『見たいように見ている』だけなのだとしても、少なくとも悠自身はそう思った。
「鳴上悠です。よろしく」
このジョーカーは何をしてくれるのか。そんなクラスの無言の期待を裏切って、悠は自己紹介をした。諸岡に言われた通り、ごく簡単に。そしてこれから一年間、人里離れた庵で隠棲するがごとき静かな生活を送るであろう教室を見回した。
最初に目に留まったのは、他の全ての席が埋まっている中で一つだけ空いている席だった。位置はちょうど教室の中央付近だ。そこが自分の席になるのだろうと当たりをつけた。そしてその次に目に留まったのは、空席の後ろの席で机に突っ伏している少年だった。
(ん? あいつは……さっきの?)
傘を差しながら自転車をこいで、盛大に転んで、大切なものをぶつけて苦悶していた少年だ。現場では顔を見なかったし、今も少年は顔を見せていない。しかし特徴的な茶色の髪と、首にかけられたオレンジのヘッドホンが、事件の被害に遭っていた当の人物であることを示していた。
「……」
煩わしい人付き合いを避ける為の最も簡便な方法は、そっとしておくことだ。関わり合いにならなければ、向こうから勝手に歩き去っていく。世界を蜘蛛の巣のように切り分けている街路を、ただ通り抜けていく人々をやり過ごすのは、何も難しくない。少なくともこれまで住んでいた町ではそうだった。しかし八十稲羽は田舎なだけあって街路が少ないようだ。蜘蛛の巣などとは、とんでもない。道など一つか二つくらいしかないようだ。そっとしておいてから僅か数分で、また同じ人に出会ってしまう──
「貴様! 今、色目を使っただろう! 中の列、前から二人目の女子生徒に! わしの目を欺けると思ったら大間違いだ!」
突然、右から叱責が飛んできた。悠の視線が一点に留まっていたのを見咎めたのだろうか。もっとも見ていたのは突っ伏している男子生徒なので、その指摘は的外れなのだが。
「貴様の名は、腐ったミカン帳に刻んでおくからな!」
「……」
見てみれば、諸岡の額には青筋が浮かんでいる。諸岡は小柄な上に猫背である為、視線の位置は悠より低い。だが怒りの表情はなかなかの迫力である。気の弱い生徒であれば、どれだけ不満を感じても反論できないくらいに。
「あの、先生。転校生の席、ここでいいですか?」
悠が目を留めていた男子生徒から見て、右斜め前に座る女子生徒が挙手をした。そして自分の隣、最初に見た空席を示した。すると諸岡は表情から怒りを消した。いともあっさりと。
「よし、貴様の席はあそこだ」
こうして悠は『クラスメイトに自己紹介』という転校生の定番イベントを、つつがなく終えた。つつがなかった。始業式や終業式における校長の長い話のように、何の不都合もなく、スムーズに終えた。そのつもりでいた。
どこの地方のどこの学校にも、困った教師はいるものである。それは困った生徒や父兄と同様で、地方の特産品にはなり得ない、ありふれたものである。もっとも諸岡ほど激しいのは珍しい。しかし不純異性交遊を校則で禁じる学校は珍しくない。だから今の叱責は、実はごく陳腐なものなのだ。悠はその陳腐さをもって、今の出来事を心に留める価値はないと判断する理由とした。簡単に言うと、忘れようと思った。そして忘れて構わないとは、つつがなかったということだ。
自分の名前を名乗ろうとしたが、なぜか出てこなくて金髪の美女に占いをしてもらってようやく名乗れたとか、そんな忘るべからざる異常な事態は、現実には起こらなかった。
これから一年を過ごす新たな自席に辿り着くと、悠はまず後ろの席を確認した。名乗ってすぐに目を留めた少年は、今なお机に突っ伏し続けている。果たして悠の名乗りも耳に入っていたかどうか。
(別にいいけど)
少年を起こして改めて名乗ったりはせず、悠は席について前を向いた。しかしすぐに右を向く羽目になった。
「あいつ、最悪でしょ? まあ、このクラスになっちゃったのが、運の尽き。一年間、頑張ろう?」
隣に座っている挙手をした女子生徒が、小声で話しかけてきたのだ。その口振りと話の内容は、担任教師の人気のほどを如実に示すものだった。たった今身をもって知った悠にすれば、聞くまでもないことだったのだが、それでも少女の話を聞いた。僅かながらに身を乗り出して。
もし諸岡が、今の悠と隣の女子生徒の姿を目に入れれば、二度目の叱責が飛んできたことだろう。『また他の女子に色目を使っとるな!』とか。今度こそ的外れではなく。なぜならその女子生徒は、目を惹く可愛らしい容貌をしていたから。だが諸岡はその間、クラスの出席を取っていたので、今度は見咎められずに済んだ。
「では、授業を始める!」
諸岡の担当は倫理だった。悠を含めたクラス全員にとって、初めて履修する科目だ。教科書を開いて目次を見ると、最初の章は『青年期の自己形成』とある。そして次の章は宗教が中心だ。哲学の嚆矢となるギリシャ思想から始まって、続いてキリスト教、イスラム教、仏教など世界の大宗教の歴史と内容の概説がされている。三番目の章は、イギリス経験論と大陸合理論に代表される近代思想から、二十世紀の実存哲学まで続く西洋哲学の潮流を紹介している。そして最後の章は日本の思想史だ。古代以来の日本独自の死生観や生活観に、仏教や儒教が加えられ、更に近世の鎖国体制における独自の発展を経て、西洋思想の受容から現代へ至るのだ。そうした人類の観念の歴史が一冊の教科書に丁寧に解説されていることが、目次を見ただけで分かる。
「良いか! まずは貴様ら未熟者どもに、己に問うてもらう!」
もし目次を読んで終わりであれば、これほど楽なこともないだろう。しかし現実はそうはいかない。八十神高校の不人気教師レースでは毎年トップを独走している諸岡金四郎教諭、通称モロキンによる倫理の授業が始まった。
「貴様らは何者だ!」
ひどく抽象的な問題を、怒声でもって投げかけてくるというやり方で。
「ああ、答えんでいい。貴様らが思いつくことくらい、大体分かる」
そして間を置かずに、答えを聞くことを拒否した。犬でも追い払うように手を振りながら。
「貴様らの何人かは、自分の名前を考えただろう。もしくは自分は高校生だ、稲羽市民だ、両親の子だ……。中には歌手やアイドルを思い浮かべて、そのファンだとでも考えた低俗な者もおろうな。だが最も多いのは、何も思いつかんかった奴らであろう!」
諸岡は教卓を掌で叩き、クラスの全員に向けて断言した。普通、人は他人から『お前はこうだ』と断定されると良い気分はしない。しかし的は射ている。実際、八十神高校二年二組に在籍する少年少女の大半は、諸岡の問いに対する答えを何も思いつかなかった。悠を含めて。考える時間を与えられなかった為もあるが、たとえ一晩与えられたとしても、諸岡が挙げた例以上のものを思いつく高校生はそうそういるものではない。
「これから自分はどう生きていくのか、何を学ぶのか、社会にどう貢献していくのか……。貴様ら全員、この問いに答えてもらう!」
熱弁を振るう諸岡の額には、再びの青筋が浮かんでいる。傍から見れば恫喝しているかのようだ。
「答える為には、これこそが本当の自分なのだという実感が必要になる! これをアイデンティティと言う! 日本語では自己同一性と訳される! そしてアイデンティティを確立する為の猶予期間をモラトリアムと言うのだ! 貴様らには一年間のモラトリアムをやろう。だが、それ以上はないと思え!」
諸岡は顔の特徴で言うと、ひっきりなしの怒声に煽られて口からはみ出し気味になった前歯が最も印象的だ。その他には、尖った顎と張ったえらなど、全体的に角が立っている点が目立つ。一言で言うと、濃い顔だ。だが濃いのは顔だけではない。今日は一学期の初めなので、授業は一限目だけで終わる予定なのだが、それだけで満腹してしまいそうな味の濃さである。味噌も醤油もクリームも、何もかもが一緒くただ。
「良いか? アイデンティティを確立できぬ愚か者は、世の中を当てもなく放浪するしかないのだ! その末路は、孤独の中での野垂れ死に以外にない! よくよく肝に銘じておけ!」
「では、今日のところはこれまで。明日から通常授業が始まるからな」
チャイムが鳴ると同時に、アメリカの心理学者が提唱した概念についての長い長い授業がようやく終わった。もちろん時計の針は長針が一周もしていないのだが、とにかく長く感じる授業だった。苦役から解放された生徒たちの、疲労のため息があちこちから漏れている。その中には悠のそれも混じっている。
(一限目からこれじゃあ、一日をやたらと長く感じそうだな……)
そんな状態だったから、緊急職員会議が開かれるとの校内放送も、部屋から出るなと指示された生徒たちが窓辺で霧に悪態を吐くのも、悠は適当に聞き流していた。右斜め前の席に座っている女子生徒が、ある男子生徒からアナウンサーがどうと聞かれていたのも頭には入れなかった。疲労から立ち直ったのは、帰ろうと席を立った時だ。
「あ、帰り一人? なら一緒に帰んない?」
隣の席になったクラスメイトが話しかけてきたのだ。着席してすぐの時も悠は思ったが、里中千枝と名乗ったその少女は、一言で言えば可愛らしい子だった。そしてその隣に立つ少女は、一言で言えば美人だった。視線は知らず少女の顔に吸い寄せられ、心臓の動きが速くなる。授業の疲れなど、どこかへ飛んでいってしまう。
(うわ……これじゃ先生に言われた通りじゃないか)
己の動悸を自覚した悠は、諸岡に色目云々と言われたことを思い出してしまった。あれは叱責ではなく、実は予言だったようだ。言われた時は男子を見ていたのだが、今になって的中した。転校を重ねてきた悠にとっても、過去に類例のない事態だった。これでは忘れようと思っていた自己紹介イベントが、記憶から去らずに居座ってしまうかもしれない。
(まあ……男の転校生が十人来たら、ああ言っておけば五人は予言が的中するだろうが)
町ですれ違えば振り返り、教室で見れば視線を離せなくなる。天城雪子と名乗ったクラスメイトは、そういう類の少女だった。ちなみに残りの五人のうち、三人は千枝に色目を使うのだ。そしてもう一人は、誰かまた別の女子に。そして最後に残った一人だけが、俗に硬派と呼ばれる剛健なる魂をもって、世の青少年の大半が逃れ難い色の誘惑から免れる。
悠はその珍しい一人ではなかったので、自分の動悸をそっとしておくことはできなかった。だから千枝の誘いを断る選択肢は頭に浮かびもしなかった。本人は意図しないまま予言者を援助する少女たちに連れられて、悠は教室を出た。
余談であるが、登校時に事件に遭遇した例の男子生徒は、帰り際に更なる事件に巻き込まれた。その現場も悠は見たが、やはりそっとしておいた。事件とは言うものの、主に自業自得であった為に。
もう一つ余談を重ねると、この日の早朝、道端で意識不明の状態で発見され入院した一年生の女子生徒がいたのだが、そちらもそっとしておかれた。悠だけでなく、全校的に。ただしそちらは当の生徒に非があったわけではなく、また生徒に対する何らかの悪意が働いたのでもない。ただ緊急職員会議の議題に挙がった、ある事件の陰に隠れてしまい、この日は話題にならなかったのだ。
稲羽市周辺では、最近になって霧が頻繁に観測されている。これは地域の地形を考えれば、気象学的には明らかに異常であるらしい。しかし異常も続けば、やがては正常の範囲内に収まってしまう。稲羽市民の間では霧は好ましくは思われないものの、そろそろ特別嫌とは感じられなくなってきている。そこには慣れという人間の普遍的な心理がある。そして雨が連続して降り続いた後に出るという、気象予報士ならずとも誰にでも予測しやすいごく簡単な出現の法則性も、霧の日常化に一役買っている。
(なぜだ……)
朝から出ていた霧が、ようやく晴れ始めた昼間の時間帯。足立は畦道に両手と両膝をついて、水田に顔を向けていた。
昨晩天城屋旅館から失踪した、アナウンサーの山野真由美の捜索は終わった。死体となって発見されるという、限りなく最悪に近い形で。その現物を確認した途端、足立は胃の辺りが不意に捻じれる感覚を覚え、この場所まで走ってきたのだった。そして今、スーツを泥で汚し、ワイシャツの襟も少しだけ汚した。稲羽に赴任してきた初日は猫探しでできた汚れを気にしていたが、今日はそれどころではなかった。
(俺はなぜ、吐いている?)
死体を見たからではない。本庁にいた頃から、死体などいくつも見ている。実物でも写真でも。そこのテレビアンテナにぶら下がっている物体よりも、ずっと凄惨な代物を見てきたはずだった。もちろんその種の物体を初めて見た時は、その日の食事がえらく不味く感じたものだったが、それはいつかも忘れた遠い昔の話だ。今ではどんな名作のホラー映画だろうと、トマトジュースを飲みながら見ていられる。実物を前に置いた状態では、さすがに職務上の問題として飲み食いはできないが、もしやって良いなら平気な顔で何でも食べられるはずだ。それなのに、どうして──
二十七歳の若い刑事は、自己同一性を揺り動かす巨大な疑問に囚われていた。そんな混乱しきった足立の目は、やがていくつかの固形物を映した。眼下にまき散らされた吐瀉物は、そのほとんどが液化していて、田に張られた水の上で揺れている。その中で、足立の視線が注がれた物体だけが、比較的はっきりした形を保っていた。一センチほどの厚さがある灰色の欠片だ。いくつもあるそれらを全部繋ぎ合わせれば、円形になりそうだった。
(あれは……今朝の煮物?)
足立は料理をしない。だから食事は出来合いのものが中心で、買うのはもっぱらジュネスだ。しかしそこで知り合った、あるお婆さんから煮物をお裾分けされることがあった。昨日は天城屋旅館に詰めっ放しだったが、夜明け近くにようやく解放され、自宅で仮眠してから朝食として煮物を食べたのだった。味は悪くなかったが、具材の根菜類、特にレンコンがやたらと硬かった。目に留まったのはそれだ。
(そっか……消化に悪かったんだ)
足立は線が細い。運動神経はそれほど悪くないのだが、身長の割に体重は少ない。特に肩幅は、ともすれば自宅のテレビの枠にも収まる程度のものだ。細い体格に応じて、食事量も同輩の刑事たちより少ない。そういう体で、慣れない土地での夜勤明けに慣れないものを食べたものだから、胃が抗議してきたのだ。そのようにして、足立は自分を襲った突然の不調に納得した。
それが実は、単に『見たいように見ている』だけなのだとしても、少なくとも足立自身はそう思った。
「足立! お前はいつまで新米気分だ! 今すぐ本庁帰るか? あぁ!?」
「す……すいませ……うっぷ」
相棒兼上司の叱責に答えようとしたら、またしても胃が抗議の声を上げてきて、再び吐いてしまった。今度は胃液しか出なかった。
少々の時間を置いて、ようやく立ち上がって相棒の元に戻ると、そこには三人の少年少女がいた。そのうちの一人、赤いカーディガンを羽織った少女に見覚えがあった。事件の起きた天城屋旅館の一人娘だ。もう一人の緑のジャージを着た少女は初めて見る顔だった。そしてもう一人。表情の乏しい少年と足立は目が合った。
しかし少年と言葉を交わす機会はなかった。
「たく……顔洗ってこい。すぐ地取り出るぞ!」
「は、はい!」
相棒に急かされて、その場から走り去らねばならなかったから。ただ相棒と少年の会話が、走りながらも耳に入った。
「済まんな、みっともないところを見せた。今日も多分家には帰れんから、菜々子をよろしくな」
「分かったよ」
(家……? ってことは、あの坊やが昨日から来たって言う、堂島さんの甥っ子か)
煩わしい人付き合いを避ける為の最も簡便な方法は、そっとしておくことだ。街路が無数にある大きな町ならば、そうすることは容易い。しかし稲羽の町は狭い。道の数は一つや二つではさすがにないが、それでも多くはない。町を歩いていれば、どこかできっと出会ってしまう。
鳴上悠と足立透は、こうして初めて互いの顔を見た。ただし顔を見ただけで、他には何もなかった。互いが何者であるのか、互いに何も示さないままこの日は別れた。時間にしてほんの数秒だけの接触で、二人が得たのはごく僅かな情報だ。足立の側は『相棒と同居している甥』。悠の側は『気弱そうな叔父の部下』。己が何者なのか、互いにどのような運命を与えられているのか、未だ知らない二人が認識したのは、たったそれだけだった。